盲目賢者とその娘1
「ようやくか」
ある峠道で、一人の旅人が呟いた。
その旅人は、名をテイレシアスという。
“テイレシアス”
彼はこれまで数奇な運命をたどってきた。
彼の人生の転機は全部で三度である。
まず一度目は、彼が15歳になった時であった。
テイレシアスは薬師である。
彼の父母はすでになく、一人で薬を作って生計を立てていた。
テイレシアスはその日、偶然道を外れた茂みの中に入っていた。
用件はとある薬草を採取するためである。
すると、茂みの一角が不自然に揺れていた。
「おや、何かいるのか?」
そうしてテイレシアスは茂みの中を確認してみた。
すると、二匹の蛇が絡まり合っていた。
交尾していたのである。
「シャーッ、シャーッ」
テイレシアスに気付いた蛇たちは、彼を威嚇するように声を上げた。
「うっ」
その直後、テイレシアスは意識を失った。
それからしばらく時間が経った。
「ううっ」
テイレシアスは意識を取り戻した。
「ええと、たしか蛇を見かけて」
テイレシアスが確認すると、もう蛇たちはいなくなっていた。
「まったく災難だった」
だが、もう安心、とばかりにテイレシアスは家へと帰った。
(なんだか声が高くなっている気がするが)
それは些細な問題でしかないと、彼は気にも留めなかった。
「ただいま」
テイレシアスが街へ帰ると、友人が出迎えた。
「あの、どちら様でしょうか?」
友人はいつになく他人行儀である。
「お前、友人の顔を忘れたのかい?」
テイレシアスはてっきりからかわれているのかと思って、冗談交じりに返事をした。
「友人? 以前お逢いしたことはありましたか?」
「おいおい冗談も大概にしてくれよ? テイレシアスだよ、テイレシアス」
「たしかにテイレシアスは友人ですが、少なくともあなたと見間違えたりしませんよ。お嬢さん(・・・・)」
「お嬢さん?」
「ええ、あなたほどの美しい方を今まで見たことが無い」
友人がいつになく真剣な表情で、まるでほんとうに女を口説いているかのように口説き文句を言った。
その様子から、どうにもからかわれているわけでないと気付いたテイレシアスは、急いで「お嬢さん」そう言われてテイレシアスは急いで井戸から水をすくい、水面に映る自分の姿を確認した。
「なんだって!!」
水面に映り込む自分の姿は、まさしく女性にしか見えなかった。
あわてて確認してみたところ、たしかにあったはずのものが無く、無いはずのものが確認できた。
「はあ、一体どうしたっていうんだ」
そう言いながら、実はテイレシアスには見当がついていた。
あの蛇たちである。
蛇に限らず、他者の秘め事を見るのはたしかに禁忌である。
であれば、呪われても仕方がないと言えよう。
(それじゃあ、これからは女として過ごすか)
こうしてテイレシアスは、女としての人生を歩み始めたのである。
テイレシアス、彼女の二度目の転機はその10年後に訪れた。
その頃は二十五歳となり、そろそろ嫁に行ってよい年頃だったが元は男である。
残念ながら男に抱かれたいとは思えず、むしろそのくらいなら独り身で十分だと思っていた。
奇縁ともいうべきか、彼女はその日またしても薬草を摘みに例の茂みへと入っていた。
それまでその茂みは避けていたのだが、この日摘む薬草はその茂みにしかもう残っていなかったからである。
カサカサと茂みの一角が揺れた。
「何だろう?」
そう思い、茂みの中を確認した。
すると再び、絡み合う蛇の姿を目にすることとなった。
「シャーッ、シャーッ」
蛇の声を聞きながら、再びテイレシアスは意識を失った。
「ううっ、くっ」
意識を取り戻したテイレシアスは、今度は街へ戻る前に自信の状態を確認した。
「男に戻ったのか」
こうしてテイレシアスは二十五歳にして二度目の人生の再出発をすることとなったのである。
テイレシアスの三度目の転機は、さらに稀有な出来事であった。
この日もまた、ある森の中に薬草を採取する為に入っていた。
その時彼は、ふとのどが渇いたことに気付いた。
彼の記憶によれば、現在いる場所のすぐそばに泉があったはずである。
「少し泉で休憩することにしよう」
そうして彼が向かった先には――女神がいた。
その女神は名をアテナと言う。
彼女は森の泉で沐浴する最中であった。
戦いの神であり、主神デウスの娘であり……大の男嫌いであった。
「あなたっ、私の体を見たわね。もうその眼を見えなくしてあげるんだから」
こうしてテイレシアスは、二度とその目で光を見ることが叶わなくなった。
だが、そのテイレシアスに邪な心が無かったことを弁護したものがいた。
「アテナ、この人はただ泉の水が飲みたくてやってきただけよ」
美の女神アフロディーテである。
彼女はテイレシアスのすぐ後ろを人間にばれないよう身を隠しながらやってきたのだった。
「そんなこと、信じられないわ」
「ふふ、別にいいじゃないの。不可抗力よ。減るもんじゃないんだから」
「なっ、なんてことを言うのよ」
アテナはそのまま去っていった。
一つには、仮にアフロディーテの言うことが正しかった場合、下賤な人間の男に頭を下げなければならなかったためである。
「はあ、これだから未通女は」
「えーと、私はどうしたら」
テイレシアスにしてみては堪ったものではない。
何の因果か知らないが、いきなり鉢合わせした女に失明させられたのだ。
もっとも、女になったり男に戻ったり、散々な目に遭ってきた身にすればもうどうでもよかったが。
「そうねえ、残念ながら私にもその眼は癒せないし……」
「はあ、そうですか」
テイレシアスは諦めがついた。
「そうだわ」
その時、突然アフロディーテが何かを閃いたようだった。
「なんですか?」
「別に目で見えなくてもいいのよ」
「ええっ!?」
とうとう頭がおかしくなったのかとテイレシアスは思った。
女神に対して不敬かもしれないが、つい今しがたその同じ女神に理不尽な目に遭わされたばかりである。
この位は仕方のないことだ。
「ふふっ、あなたに力をあげるわ。神に通じる、真理を知ることができる力よ」
「じゃあね、盲目の賢者さん」
これだけ言うと、今度はアフロディーテもその場を去っていった。
「真理を、か」
結局なんだったのかわからなかったが、とりあえずこうしてはいられないと、テイレシアスは木の枝を掴みながら(・・・・・・・・・)立った。
(うん? ちょっと待てよ)
どうして今自分はそこに木の枝があるとわかったのか。
目は開かないため見えないのだが、なぜかこの先に泉があることも、自分の掴んでいる木がそこそこの大木であることもわかった。
わかったというよりは、その情景が頭に浮かんできたというのが正しい。
よく集中すれば、木の上を小鳥が飛び回っていることさえわかった。
それは普通に目が見えたころでさえも見えなかったはずのことである。
「目で見えなくてもいい、か」
テイレシアスは期せずして真理へと至る力を手にしたのだった。
それからしばらく月日が経った。
力を悟られぬよう定住をせず、街を移動しながら生活をしているテイレシアスは、今日もまた新しい街を目指して旅をする。
力を得て賢者となったテイレシアスが視ることができるのは、何も付近に広がる風景だけではない。
その気になれば千里先のことでもわかるし、壁による隠蔽などあってないようなものである。
そういった場合は視覚と共に聴覚にも訴えかけてくるのだから、便利な力である。
最初の頃はこの力を制御できず振り回されていたが、近頃は自分が意識しなければ勝手にここではない遠くの出来事を見る羽目になったり、隣の夫婦の痴話喧嘩の様子を生中継してしまうことも無くなった。
(悪用する気になればいくらでもできるな)
だが、それをする気にもなれないのだった。
この力を使って金儲けをしたとしても所詮は一時のことでしかない。
死後の世界は存在するが、そこでは地位も名誉も金銭も関係が無いということを、力によって知ったからである。
力によって知りたくも無かったことの一つには人の心がある。
力を得て、まだそれに振り回されていた頃のことだ。
盲目の自分を表面的には労わりながら、内心はバカにする者。
愛をささやきながら他の男のことを考えているカップルの女。
弱者救済をうたいながら自身の利権獲得のみが脳裏にある聖職者たち。
神ならぬ身で神に通じる力を得た身からすれば、この世は生きにくいことこの上なかった。
さりとて死にたいと思えるほどの思いも無く、ただ漫然と薬を売りながら旅を続けてきた。
これまでもそしてこれからも未来永劫きっと変わることはない、そう思っていた。
「たす……けて……」
小さな小さな、それでいてはっきりとした声だった。
その声に気が付いた瞬間、テイレシアスの力はすぐに反応した。
場所はそう遠くない。
声のする方へと足を向けると、人らしきものが倒れていることがわかった。
(行き倒れか)
それも子供のようである。
よく見れば女の子であることがわかったが、パッと見でそれとはわからないほど薄汚れていた。
「たすけて」
おそらく孤児なのだろう。
近くで戦乱があったとは聞かないが、それでなくとも孤児は生まれる。
別に捨て置いても構わなかったが、なぜかそういう気にならなかった。
「生きたいか?」
そう尋ねると、少女はコクリと首を縦に振った。
「ならばついてきなさい」
こうして盲目の賢者は娘を拾った。




