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―――物心がついて間もないころは、あいつは優しかった。後ろをついて回るあたしと、よく遊んでくれたものだ。手と手をつないで廊下を歩き、とりとめのない話をした。下から見上げたときに唯一見えるあいつの口元は、いつも微笑んでいた。
せつな、その言葉をあいつの口から聞いたのはいつまでだろう。……そうだ、あいつに名前を聞いた時だ。
あいつは寂しげに名前なんてものはない、と言ったんだ。川の神様なんだから名前は瑞月ではないのか、と問いかけて。
村に作物という瑞祥を与え、月が水底にあるようにまっさらな川であるから、なんて昔の村人が呼び始めたのがきっかけであって、儂の名前ではない、と。
だが儂はそれでもいい、とも。
あいつは名前がないことを寂しくは思うけれど、村人がつけてくれた瑞月川という名があるからいいのだ。
納得はしたものの、あたしにはあいつに瑞月はふさわしくないとも思った。
あいつのことをみんなはまっさら―――白と形象する。たしかに見た目は白だけれど、あたしには透明に見えた。
だから、名をつけたのだ。
あたしだけのあいつの名を。
……それからだ。あいつがあたしを嫌いになり、優しさを隠し始めたのは。
「……起きたか、鈍間」
ぼんやりとした視界の中、見覚えのある木の目に白が重なっていた。
「……あれ、あたし……」
―――どうやらここは、あいつの部屋のようだ。
あれ、あたしは足を滑らせて川に落ちたんじゃ……。
首を動かし、この部屋の主を見つめる。いつものように狐の面で感情が読み取れなかった。
「貴様は本当に愚図で頓馬で鈍臭いな。なぜ川に行ったんだ。母屋に来ればよかったものを」
あ……確かに。
「与一が林の手入れをしていなかったら貴様は死んでいたな」
与一……おじいちゃんがあたしを助けてくれた……?
あたしの煮え切らない態度にあいつはため息をつく。
「貴様の脳は最低限の機能すらも失ったのか、単細胞。まさか儂が仕掛けた遊戯をあそこまで間抜けにこなすとは、片腹痛い」
……ん?遊戯?
あたしはがばりと布団から飛び起きた。くらりとめまいがするも、布団の横にいるくそ神に目を向ける。
「ちょーっと待って。遊戯?なにが?」
「どうしたいきなり目を向いて。ない目がただ貧相に見えていっそすがすがしい」
「う……うるさいなってそうじゃなくて!!もしかしてあの侵入者、あんたがけしかけたの?!」
だるそうな雰囲気をまとっている神は、無言を貫き通す。それは肯定したも同然で。
「最っ悪!!あんたそれでも神様?!」
―――そうだ。こいつは荻野目の領地に結界を張っている。侵入者がいたらすぐわかる結界を。……部外者が侵入したことを理解した上で、こいつは見過ごしたのだ―――あたしを苛めるために。
急に涙があふれてくる。こいつは…そんなにも……。
「あたしが嫌いなら嫌いってひとこと言えば済むじゃない!なんでこんな回りくどいことするのさ!!あんたなんて……あんたなんて大嫌い!!」
―――あたしはただ、あいつと一緒にいたかった。ずっと、ずっと。
……刹那の日々より、ずっと。
あいつがあたしのことを嫌いになったとしても、あたしは。
あたしはずっとあいつのことが、大好きだった。