第二話「誰だったんだろう」
「誰だったんだろう。」
そう思った瞬間、また香りがした。
ほんの一瞬だった。
風に乗って、どこからか流れてきたような、かすかな香り。
甘い。
けれど、ただ甘いだけじゃない。
少し青くて、どこか乾いたような透明感がある。
その奥には、温かみのある木のような匂いが重なっていた。
僕は、無意識に息を吸い込んだ。
すると、不思議なことが起きた。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
懐かしい――と思った。
けれど、何が懐かしいのか分からない。
誰かを思い出しそうなのに、その「誰か」が見つからない。
記憶の奥に、確かに何かがある。
手を伸ばせば届きそうなのに、指先をすり抜けていく。
僕は、そっと目を閉じた。
あの香りを、どこで知ったのだろう。
誰かがつけていた香水だったのか。
それとも、どこかの場所に漂っていた香りだったのか。
思い出そうとするほど、何も浮かばなくなる。
ただ、不思議だった。
初めて嗅ぐ香りではない。
それだけは、はっきりと分かる。
何度も嗅いだことがあるような。
いつも、すぐ近くにあったような。
そんな気がした。
けれど、それがいつのことなのか分からない。
僕は、過去の記憶を一つずつ辿ってみた。
学生時代。
上京したばかりの頃。
慣れない仕事に追われていた日々。
懐かしい友人の顔や、住んでいた部屋の景色は思い出せる。
けれど、あの香りだけは、どの記憶にも結びつかなかった。
いつの記憶なのだろう。
学生時代だろうか。
それとも、社会人になってからだろうか。
思い返してみても、分からなかった。
ただ、昨日や今日のことではない。
何年も前に置き忘れてきた何かが、
あの香りの奥にあるような気がした。
僕は、もう一度記憶を辿った。
誰かと話していたような気がする。
何かを楽しみにしていたような気もする。
けれど、それが本当にあった出来事なのか、自分でも分からない。
思い出そうとすると、胸の奥が落ち着かなくなった。
懐かしいはずなのに。
なぜか、少し苦しい。
嬉しかった記憶なのだろうか。
それとも、思い出したくない何かなのだろうか。
僕は、ゆっくりと目を開けた。
目の前には、白いコーヒーカップがあった。
いつもと変わらない景色。
それなのに、さっきまでとは何かが違って見えた。
もう一度、香りを探すように息を吸った。
けれど、さっきまでそこにあった香りは、もう消えていた。
顔は思い出せない。
名前も思い出せない。
どこで会ったのかさえ、分からない。
そもそも、本当に誰かの香りだったのかも分からない。
それなのに――
あの香りだけは、今も確かに覚えていた。
まるで、忘れていた記憶の中で、
そこだけが、時間に置き去りにされずに残っていたように。




