第5話
押し倒してきたルナリアを、呆然とアヤトは見上げる。
揺れる瞳は食い入るようにアヤトのことを見つめ、荒い吐息をこぼすルナリア。その表情は色気を漂わせており、切なそうな雰囲気を漂わせている。
やがて、小さな桃色の唇から押し殺した声でこぼれた。
「――もう、我慢できないんです。ずっと、貴方のことを想って、想って、想って、お傍で戦い続けてきました」
ルナリアの表情は限りなく優しく愛おしげだ。
だが、その瞳から徐々に光が失われ、淡々とした言葉には言い知れない妖しさがある。まるで捕食者のような雰囲気に、アヤトは身動きができない。
「貴方には婚約者がいた。だから、この気持ちはずっと抑え込んできました。その代わり、戦友としてずっとアヤトさんを支えようと懸命に尽くしてきました。貴方の優しさを、思いやりを、素敵な姿をずっと見つめながら――」
その言葉が、その眼差しが、その熱がアヤトに想いを伝えてくる。
ひた隠しにし続けてきた、彼に対する一途な恋慕。それをひたすらに一心にぶつけてくる。彼女はそのまま、そっとアヤトの頬を撫でると顔を近づけ――。
唇をまた重ね合わせる。再びのキスは柔らかく甘美な感触で頭が痺れるようだ。
ルナリアもそれに感じ入ったのか、瞳がさらに蕩けていく。
「夢みたいです――アヤトさんと、こんな風に……」
熱に浮かされた声をこぼし、感極まった声をこぼすルナリア。
その姿にアヤトはただ呆然とするしかない。
(――あの、ルナリアが)
『アヤトさん、お供します――!』
『援護します! アヤトさん!』
『怪我し過ぎです。アヤトさん。治す身にもなってください……!』
『アヤトさんの傍にいると飽きませんねぇ』
脳裏に過ぎるのは、傍で戦い続けてきたルナリアの姿だ。
戦場では凛とした表情で返り血を厭わずに懸命に戦い抜き。
怪我をしたときは叱り飛ばしながらも甲斐甲斐しく世話をしてくれ。
陣地では一緒に酒を飲みながら下らない話に華を咲かせ、遊ぶときは無邪気に一緒に楽しみながら笑い合っていた。
そんな彼女が――今は蕩けた表情で甘えるような声をこぼしている。
「アヤトさん、素敵です――ふふっ」
「アヤトさん、アヤトさん――っ、んっ」
「大好きです。アヤトさん。ずっと、大好きでした――」
「アヤトさん、愛しています」
その声は、何度もアヤトの名を愛おしそうに呼び。
その表情は、朱に染めながら蕩け切って、心から嬉しそうに。
その瞳は、アヤトの姿を映して離さずに見つめ。
それらの全てが、アヤトに向けて一心に注がれている。
(ルナは――愛してくれる)
クラリッサは、愛してくれなかった。
「――ぁんっ、アヤト、さん……!」
気づけば、彼女のことを拒むことなく、アヤトはルナリアの身体を抱き寄せていた。失った胸の空虚さを埋めるように、彼女の熱を、愛を求めてしまう。
それにルナリアの瞳は悦びに打ち震え、全力で甘えるようにアヤトに首に腕を回し、夢中で唇を押し付けてくる。それに応えれば柔らかい熱が身体を包み込む。
それが次第に激しさを増すのは、自然の成り行きだった。
――そして、夜が明けた。
◇
「ん、ん……っ」
傍で響く声と、柔らかく温かい感触。それにゆっくりと意識が浮上していく。アヤトはゆっくりと視線を動かし、傍を見た。
そこでは小さく寝息を立てるルナリアの無防備な寝顔があった。
その姿は何も纏わず、白い肌が露わになっている。戦友のその姿にアヤトは大きく目を見開いて身を強張らせ――だが、すぐに思考が追いついてくる。
(そうか。俺は――)
天井を見上げて昨日の出来事を思い出し、小さくため息をこぼして反省する。
酔っていたとはいえ、割とその場の流れに身を委ね過ぎた気がする。
(婚約解消された当日に、戦友の女性と身体の関係を持つとは――)
社交界の醜聞好きが聞いたら、嬉々として噂しそうな話だ。アヤトがそういった醜聞の対象になるのは構わない。だが、ルナリアが巻き込まれるのは避けたいところだ。
やれやれと思いながら、ルナリアの顔に視線を移す。と、いつの間にか目を覚ましていたのか、ルナリアと目が合った。
途端に彼女は頬を朱に染め、さっと視線を逸らしてしまう。
(――昨日、あれだけ積極的だったのに)
奥ゆかしい仕草にアヤトは苦笑をこぼしながら軽く背を叩いた。
「おはよう。ルナ」
「は、はい……おはよう、ございます」
蚊の鳴くような消え入りそうな声。それからルナリアはちら、とアヤトの表情を窺うようにしながら、申し訳なさそうに小さな声で告げる。
「申し訳ないです、アヤトさん……なんと申し開きをしたらいいか……」
「ん、何が?」
「その、強引にこんな場所で……こんなことを……」
「ああ――まぁ、それについて思うところはあるけど」
もう一度、苦笑を一つ。それから軽く首を振り、アヤトはルナリアに告げる。
「でも、おかげで踏ん切りはついた気がするよ。ルナ」
婚約破棄された事実は変わりないし、それはショックだ。
だけど、裏切られただけじゃない。傍にいてくれた戦友の気持ちを今更ながらに知ることができた。今はそれに向き合うことも大事だ。
今はそう思えるくらい、気持ちが前向きになりつつあった。
「だから、ありがとう、だな。ルナ――戦場だけでなく、ここでもまた助けられた」
アヤトがルナリアに微笑みかければ、彼女は顔を上げておずおずと訊ねる。
「……私、助けになれていますか?」
「もちろんだ。今も昔も、だな」
そう言いながらアヤトは背中に回した手で、彼女の頭をそっと後ろから撫でる。それに彼女は瞳を潤ませ、感極まったように吐息をこぼした。
しばらくそうしながら互いの熱を分かち合うと、ルナリアが遠慮がちに告げる。
「――その、アヤトさん、今後の予定はお決まりですか?」
「ん、ああ……そうだな」
その言葉に思考を巡らせる――正直、予定は大いに狂っている。
何せ、婚約破棄されたことが想定外なのだ。本来ならば王城で滞在する予定だったが、その意味が全くなくなってしまった。
(――いっそ前線に戻って職務に復帰するか……それとも)
選択肢を頭に思い浮かべながら、ちら、とルナリアを見る。目が合うと彼女は少し逡巡してから、提案を口にした。
「その、よろしければ、私の屋敷に来ませんか……?」
「ルナの屋敷、というと、マーロック家か」
「はい、私の屋敷なら設備も充実していますし、心身を休めるには丁度いいと思います。一旦、そこで休んでから今後のことを考えられるのも手かと」
その申し出は魅力的だった。
王都で滞在するとしたら、王城の軍の宿舎だが、そうなると婚約破棄を聞きつけた他の連中から好奇の視線に晒されることになる。
その渦中に身を置くのは、精神衛生上よくないだろう。
(耐えられないわけではないが――避けるに越したことはない、か)
その点、ルナリアの屋敷ならば、その心配はないだろう。
ただ心配なのはやはり、ルナリアに迷惑をかけること。婚約破棄された勇者がルナリアの屋敷に身を寄せている――その事実が知れ渡れば、どう噂されるか。
考え込んでいると、ルナリアは何を勘違いしたのか、慌てて少し身を離そうとする。
「――あ、もちろん、また連れ込もうとかそういう意図はありません……! 何なら、アヤトさんの部屋には絶対近づきませんので……っ!」
「ああ、いや、その辺は問題ないが――迷惑、じゃないか?」
アヤトが確かめるように口にすれば、ルナリアはきょとんとし、ああ、と納得したように一つ頷いた。それから余裕を見せるように口元に微笑みを見せる。
「まさか。アヤトさんのことを迷惑に思うはずがありませんし――何かちょっかいを掛ける相手がいるとすれば、逆にマーロック子爵家の力を以て迎え撃ちます」
あまりにも頼もしい発言。だが、気負いなく自然体で放たれている。
それに少しだけアヤトは目を見開き――やがて、小さく笑って頷いた。
「お言葉に甘えよう――いろいろとご挨拶もしないといけないだろうし」
「はい――!」
ルナリアは意気揚々と一つ頷き、一拍遅れて何かに気づいたように目を見開いた。
「え、今、アヤトさん、ご挨拶――って」
「ああ、きちんとそこはきちんとしないと。戦友として、な」
アヤトはにやりと笑いながら続ければ、ルナリアはからかわれたとすぐに気づいて唇を尖らせ、肩を拳で叩いてくる。
「もうっ、アヤトさん……っ!」
「はは、何を期待しているのやら」
「分かっているくせに!」
ぽかぽかと胸板を叩きながら怒って見せるルナリア。だが、その目は怒っておらず、表情も嬉しそうに緩んでいる。それに笑い返しながらアヤトは思う。
(いずれにせよ、ルナリアが考えているご挨拶もすべきだろうけど――)
何せ、ここまで関係を持ち、ルナリアもひたむきな気持ちをぶつけてくれているのだ。ならばきちんと責任を取り、婚約を結びたいとも考えている。
だが――心のどこかで少しブレーキがかかっていた。
本当にこのまま流されるままに婚約を口にしていいのか、と。
(――クラリッサとの婚約は、結果的に失敗してしまったというのに)
その心の傷が疼き、どうしてもその一歩を踏み込むことができない。アヤトは吐息をこぼしながら目を細めて言う。
「焦り過ぎも良くないからな。少し時間をかけよう。ルナリア」
ルナリアはじっとアヤトの目を見ていたが、彼の心の機微を感じ取ったか、仕方ないですね、とばかりに微笑んだ。
「……分かりました。でしたら、ゆっくりと心行くまで私の屋敷に滞在していってください。マーロック子爵家の名に懸けて、誰にも何も言わせませんので」
(やはり、察してくれるか)
アヤトの心の傷も、アヤトの遠慮も全て感じ取っている。
ルナリアには敵わない。小さく吐息をこぼしながらアヤトは、ありがとう、と小さく口を動かす。彼女は目を細めて笑って見せる。
その笑顔は何度も見てきた、無邪気な笑みで。
それを見ているだけで、アヤトの心の痛みが和らぐようだった。




