第1話
「勇者、アヤト・カンナギ――貴方との婚約を解消させていただきます」
「――え?」
王城の応接間――そこで響き渡った冷たい声に、思わずアヤトは表情を強張らせていた。視線を上げれば、凍てつく眼差しが淡々と彼を見ていた。
その顔立ちは完璧に整い、誰もが目を奪われるほどに美しい。艶やかな長い金髪、長い睫毛が彩る碧眼、雪のように白い肌――どこを見ても感嘆するほどの美貌だ。
それもそのはず、彼女、クラリッサ・ル・フォン・ルーデンドルフ殿下はこの国随一の美しさを持つ王妃の息女であられるのだから。
ただ、その美しい顔には今、一切の感情がなく、無表情――。
その雰囲気に、アヤトの頭から血の気が引いていく。
「一体、どうして――何故――」
「分からないなら結構です。これは決定事項ですので」
ぴしゃりと叩きつけるように告げたクラリッサは唇を引き結んで顔を背ける。あからさまな拒絶にアヤトの思考は止まりそうになる。
(――なんで、一体……)
アヤトがクラリッサと婚約したのは、今から四年前のことだ。
その頃、この国――ルーデンドルフ王国は北方から攻め入ってきた魔王軍と激戦を繰り広げていた。その戦いの中で従軍したアヤトは師匠から叩き込まれた魔術と剣術を駆使し、敵に斬り込んではその首級を上げ、武勇を轟かせていた。
その戦果を当時の陛下は大いに称え、アヤトに対して『勇者』の称号と褒賞を授与、そしてクラリッサを降嫁させることを決定――二人は王の名の下に婚約した。
その日のことを、アヤトは昨日のことのように覚えている。
王の前でアヤトとクラリッサは婚約することを誓い、誓書を取り交わした。そのときのクラリッサは輝く瞳で正装のアヤトを見上げ、目が合うと慌てて視線を逸らし。
恥ずかしそうに頬を染めながら、何度も誓書をじっと見つめていた――。
その、はずだったのに。
今のクラリッサはその恥じらいも好意も見せず、ただの無表情――それどころか、その瞳には落胆、失望に似た何かがある。
それを問おうとした瞬間、不意に応接間の扉が叩かれた。
「お話し中失礼します。フォースター卿がお見えになられました」
(――フォースター卿?)
聞き慣れない名に眉を寄せていると、クラリッサの表情がわずかに動いた。瞳が微かに揺れ、小さく安堵するように唇から吐息が漏れる。
その変化に目を見張ると、彼女は静かな声で応じた。
「……分かったわ。お通しして」
「かしこまりました」
その声と共に扉が開き、一人の男が入ってきた。
紫紺の軍服に身を包んだ、精悍な顔つきの男だ。靴音を鳴らしながら部屋に入ると、踵を鳴らして一礼する。
「お話し中失礼します。クラリッサ殿下――お邪魔、でしたか?」
「いいえ、構いません。婚約解消の旨はもう伝えました」
「そうでしたか――とはいえ、勇者殿はまだ納得されていないようですが」
ちら、と視線をアヤトに向けてくる男、フォースター卿。その眼差しにはどこか見下すような色があり、口元はわずかに歪んでいる。
(……なんだ、このキザ男)
余裕がない心に苛立ちが込み上げ、心が乱れそうになり――それを深呼吸で鎮めると、視線を真っ直ぐに男に向けて訊ねる。
「――お初にお目に掛かると思うが、お名前をお伺いしても?」
「おお、これは失礼しました。勇者殿」
わざとらしく驚いてみせると、その男はその場で踵を鳴らして敬礼する。
「第一軍所属、第七部隊隊長のシーザー・フォースターと申します。いやはや、勇者殿の活躍に置かれましてはお耳にしており、お会いできて光栄です」
(第一軍――近衛か)
王国軍は第一軍から第七軍まで存在し、そのうちの第一軍は王都の警護を担当している。通称、近衛と呼ばれており、貴族出身のエリートが多い。
中でも王宮警護を任される騎士は王族との接触が多い――。
(――まさか、な)
微かな暗雲が胸の内に込み上げ始める。アヤトはクラリッサを見ないように立ち上がり、敬礼を返しながら名乗りを上げる。
「第七軍所属、特務中隊隊長、アヤト・カンナギだ」
「存じ上げておりますとも。その活躍から勇者の称号を得て、クラリッサ殿下とも婚約なされたお方だ。そして婚約してから今に至るまで、戦い続けておられる」
「……それが役目だからな」
「そうでしょうな。まさに軍人の鑑でしょう」
フォースターは仰々しく頷きつつも、顔を上げて軽く眉を吊り上げる。
「しかし、それは婚約者としては如何なものか?」
「――っ」
その言葉に息が止まりそうになった。アヤトが動揺を表情に見せる中、フォースターは芝居がかった口調でゆっくりとクラリッサの方に歩み寄る。
「クラリッサ殿下は勇者殿のお帰りをずっと待たれていました。婚約者である貴方はいつしかこの王都に戻り、婚約者の務めを果たしてくれると。だが、戦勝の知らせは来れど、帰ってくる気配はない――それは婚約者として如何なものか」
「……それ、は」
違う、と叫びたかった。
アヤトも王都に戻りたかった。その時間を作ろうと懸命に戦い、戦線を打破しようと試みていた。だが、次から次へと来る軍令に対応せざるを得なかった。
それを無視すれば軍令違反――そんな男は王女の婚約者に相応しくない。
だからこそ、王都に戻らずに戦い続けてきたのだ。
(代わりに手紙は何度も送ったのに――)
言葉を詰まらせて苦悩するアヤトに、フォースターは首を振って激しく言う。
「私ならば殿下を放ってはおかなかった。例え、この身分を捨ててでも、王女殿下の元に馳せ参じていた。愛する人を笑顔にできずして、何が婚約者か――」
「フォースター卿」
フォースターの声を遮ったのは、クラリッサの静かな声。
それを聞いた瞬間、アヤトの心が軋む音を立てた。
(――やめてくれ)
耳を塞ぎたくなる。視線を逸らしたくなる。だが、そのアヤトの内心とは裏腹に、クラリッサは言葉を続けながら視線をフォースターに向けていた。
「もう良いのです。私にはそう言ってくれる貴方が傍にいてくれるのだから――」
その言葉は、柔らかく優しげに響き渡り。
その表情は、頬を染めて恥じらうように、だけど嬉しそうで。
その眼差しは、蕩けるように潤んで熱を帯び――。
それらが全て、フォースターに対して注がれていた。
(――俺には、あんな冷たい目と、無表情だったのに)
その光景を心がついていってくれない。思わず愕然とするアヤトを前に、クラリッサは小さく吐息をこぼし、視線を伏せさせながら彼に告げる。
「そういう次第です。私は――私よりも任務を優先するアヤト様を、愛し続ける自信がなくなりました。だからこその、婚約解消です」
そこで彼女は視線を上げると、一息つき、静かにゆっくりと告げる。
「受け入れて、下さいますね」
(――無理だ)
こんなこと、すぐに受け入れられるはずがない。
もう一度、やり直したい。そう心が叫ぶ――だが、剣術で鍛え上げた精神力と、軍人としての心がそれを無理やり抑え込んだ。
半ば事務的に、身体に染み付いた軍人式の礼で顔を伏せ、共に告げる。
「――仰せの、ままに」
絞り出すような声が、応接間に響き渡る。クラリッサはそれに小さく吐息をこぼすと、ゆっくりと腰を上げる気配が伝わってくる。
もう、彼女の顔を見ることはできそうにない。
見てしまえば、感情が、心が瓦解してしまいそうだったからだ。
「――では、これにて失礼します。さようなら、アヤト様」
その言葉と共にクラリッサが部屋から出ていく――あの男と共に。
それを見たくなくて、アヤトは頭を下げ続けていた。
身の震えをひたすらに押し殺して。




