第14話
皇帝は、ローザに椅子を勧めた。
深夜の私室で、二人は灯りを挟んで向かい合った。先ほどまでの緊張は、いつしか奇妙な静けさに変わっていた。揺れる灯火が、二人の影を壁に大きく映し出している。外の世界からは切り離されたような、二人だけの時間だった。
「なぜ、犯人を捕らえないのですか」
ローザは、ずっと胸にあった疑問を口にした。毒を盛られていると知りながら、なぜ皇帝はそれを止められずにいるのか。
皇帝は、しばらく黙っていた。やがて、低い声で語り始めた。
「捕らえようにも、相手が見えぬのだ」
彼は、組んだ手に視線を落とした。
「毒は、ごく少量ずつ、巧妙に盛られている。経路も、その都度変わる。食事か、香か、衣か。突き止めようとするたび、相手はするりと手口を変える。宮廷の奥深くに、それを操る者がいる」
「では、信のおける者に調べさせれば……」
「信のおける者」
皇帝は、自嘲するように繰り返した。
「それが、いないのだ」
その一言に、ローザは胸を突かれた。
「この宮廷で、私が心から信じられる者は、ひとりもいない。誰もが、何かを企んでいる。毒を盛る者の手先が、どこに紛れているかも分からぬ。下手に動けば、相手に気づかれ、より巧妙に身を隠すだけだ」
淡々とした語り口が、かえってその孤独の深さを物語っていた。幼い頃から政略のただ中を生き、誰の手も取れずに玉座にのぼった男。その歳月の重みが、言葉の端々に滲んでいる。
皇帝は、顔を上げた。その瞳には、深い孤独が滲んでいた。
「だから私は、ずっと泳がせてきた。気づかぬふりをして、相手の尻尾を掴む機会をうかがいながら。だが――そのうかがう側の私が、先に倒れるかもしれぬ」
ローザは、ようやく理解した。
なぜ、彼が身代わりの自分を生かしたのか。なぜ、秘密を握れる駒を欲したのか。誰も信じられぬこの男にとって、弱みを握り、決して裏切れぬ立場の者こそが、唯一頼れる相手だったのだ。
「お前は」
皇帝が、ローザを見据えた。
「私に弱みを握られている。裏切れば、即座に破滅する。だからこそ、お前は――他の誰よりも、信じられるかもしれぬ」
言葉とは裏腹に、その声には、わずかなためらいがあった。誰かを信じるという行為そのものを、この人はずっと、自らに禁じてきたのだろう。
「ローザ」
皇帝は、その名を、静かに口にした。
「お前は――信じても、いいのか」
問いは、命令ではなかった。冷たい皇帝が、初めて誰かに差し出した、無防備な問いかけだった。
ローザの胸が、熱くなる。
この人は、いま、私に手を伸ばそうとしている。何年も誰も信じられずに生きてきた人が、初めて。
ローザは、まっすぐに皇帝を見返した。
「私は、お母様から、人を癒す術を受け継ぎました」
静かに、けれど確かな声で、ローザは言った。
「人を害するためではなく、救うために。陛下のその毒を、私に解かせてください。それが、私にできる、唯一の証です」
ローザ自身、不思議だった。出会ったばかりの、自分を駒として扱う男のために、なぜここまで本気になれるのか。けれど、苦しむ人を前にして手をこまねくことは、母の娘である自分には、どうしてもできなかった。
皇帝の瞳が、わずかに揺れた。
長い沈黙のあと、彼は静かにうなずいた。
冷たい契約の関係に、このとき初めて、信頼という名の、細い糸が結ばれた。
まだ頼りなく、いつ切れてもおかしくない糸。それでも、確かに二人を結ぶ、初めての糸だった。




