貧乏令嬢の事業計画(プロポーズ)は、侯爵令息の掌の上
王立学院の卒業記念パーティ。きらびやかなシャンデリアの下で、私は手垢のついた手帳を握りしめていた。
「……よし、シミュレーションは完璧。あとは接触するだけ」
私の名はアデル、十六歳。泣く子も黙る――というか、借金取りが居座るレベルの貧乏男爵家の長女だ。
「あら、見て。あのアデル様、またあそこに立ってるわ」
「お可哀想に。あの安っぽいドレス、去年も着ていらしたわよね?」
「奨学金で通っているんですって? 婚活に必死すぎて、見ていて痛々しいわ」
周囲の令嬢たちのささやきは、もはやBGMのようなものだ。
痛々しい? 結構。必死? その通り。
私は、我が領地を救うための「最適解」を探しているだけだ。
いや、でも本当は好きになってもらいたいし、ちゃんと好きになりたい。
だからこそ、このパーティは私にとって人生最大の商談の場なのだから。
視線の先には、人だかりの中心に立つ青年がいる。
王立学院の至宝、エリオット・デオバルド侯爵令息。十七歳。
彼はデオバルド家の次男でありながら、既に王都の物流網を掌握しつつある若き怪物だ。
(彼の運営する輸送ギルドと、我が領の休眠鉱山……。この二つを提携させれば、輸送コストは三割削減、利益率は二倍以上に跳ね上がる。そのためには――彼に我が家へ『婿入り』してもらうという、強固な契約が必要不可欠なのよ……!)
この休眠鉱山の存在は、まだ世に出していない。
守るためには、王都の物流を牛耳るデオバルド侯爵家の力……それも、エリオット様に婿入りをお願いし、投資と後ろ盾を得ることが唯一の道なのだ。
もちろん、侯爵家の次男が男爵家に降嫁(婿入り)するなど、普通なら門前払いされるような無茶な話なのは分かっている。
私は震える足で、彼へと歩み寄った。
エリオット様は、取り巻きの令嬢たちに囲まれ、涼しげな顔で談笑している。
私がその輪に割り込むと、周囲の空気が一瞬で凍りついた。
「……デオバルド様。本日もお目にかかれて光栄です。アデル・ヴァンベルグです」
私は完璧な(そして必死さを隠した)カーテシーを捧げた。
エリオット様は、ゆっくりとこちらを向いた。
その氷のように冷ややかな青い瞳が、私を上から下まで値踏みするように一瞥する。
「……ベルグ男爵家のアデル嬢。挨拶なら、昨日も一昨日も受けた気がするが?」
うっ。確かに、廊下ですれ違うたびに不審者レベルで挨拶しまくっていた。
周囲から失笑が漏れる。
「まあ、覚えられていたなんて光栄だわ。でも次は無視されるのがオチね」
「男爵家の子が、デオバルド様に婿入りを狙ってるなんて噂、本当だったのね。身の程を知らないわ」
心臓がバクバクとうるさい。でも、私は引き下がらない。
「はい。本日は、先日お話しした……その、我が領の地質調査結果と、今後の物流戦略についての追補資料をお持ちしたのですが」
私は震える手で、清書した企画書を差し出した。
エリオット様は、それを受け取ろうともせず、ただふいっと視線を逸らした。
「悪いが、今は社交の時間だ。仕事の話なら、後日にしてくれないか」
脈、なし。
完膚なきまでに、相手にされていない。
私はガックリと肩を落とし、「承知いたしました……」と力なく引き下がった。
……が。
彼が背を向けた瞬間、その口角がわずかに、楽しげに吊り上がったことに、私は気づいていなかった。
(エリオット視点)
……ふん。今日は三秒も目が合ったな。
あのアデル嬢、次はどんな顔をして僕に「婿入り」を迫ってくるつもりだろう。
彼女が必死に隠している「秘密の鉱山」のデータなんて、とっくに調査済みだというのに。
必死にビジネス用語を並べ立てながら、僕を自分の領地に連れ去ろうと目論む、一つ下の彼女の姿。
効率や利益を語っている割に、僕と目が合うだけで呼吸を忘れているのが丸分かりだ。
……もう少し、泳がせてみtai。
彼女が真っ赤な顔をして、なりふり構わず僕を口説きに来る、その瞬間まで。
※
会場の隅に逃げるように移動した私は、手に持った企画書をぎゅっと抱きしめた。
「……やっぱり、数字だけじゃダメよね」
エリオット様のあの冷ややかな目。
本当は、調査すればするほど、彼の仕事に対する誠実さや、時折見せる部下への優しさに惹かれてしまっている。
「メリットがあるから好きになった」のか、「好きになったからメリットを探した」のか、もう自分でも分からなくなっていた。
どちらにせよ、彼に婿入りしてもらうなんて、月を自分の庭に飾ろうとするくらい無謀な話だ。
「あら、まだ帰っていなかったの?」
先程の令嬢たちが、獲物を見つけた鷹のような目で近づいてきた。
「いい加減、諦めたらどうかしら? デオバルド様が、そんな貧相な手帳を持ち歩く女を、人生のパートナーに選ぶはずがないでしょう?」
一人が私の手から、あの手垢のついた手帳をひったくった。
「やめて……! 返してください!」
「嫌よ。一体何が書いてあるのかしら……あら? 何これ」
手帳の隙間から、一枚の紙が落ちた。それは企画書ではなく、私が夜な夜な書き溜めていた、エリオット様の「好きなところリスト」だった。
『コーヒーは砂糖なしが好み』
『疲れた時にだけ右の眉が少し上がる』
『誰よりも領民の生活を第一に考えている』
「……ぷっ、あははは! 何これ、気持ち悪い! ビジネスとか言っておきながら、ただのストーカーじゃない!」
会場に響き渡る笑い声。私は顔が火が出るほど熱くなり、その場にうずくまりそうになった。
情けない。
恥ずかしい。
こんな風に、私の「本心」が暴かれるなんて。
「……僕の好みを勝手に調べるなんて、ずいぶんと失礼な男爵令嬢だね」
聞き覚えのある声に、会場が水を打ったように静まり返った。
振り返ると、いつの間にかエリオット様がすぐ後ろに立っていた。
令嬢たちは真っ青になり、ひったくった手帳を床に落とした。
「あ、デオバルド様! これは、その、彼女が勝手に……!」
「黙って。彼女と話しているんだ」
エリオット様は冷たく言い放つと、床に落ちた手帳と紙を、自ら拾い上げた。
そして、涙目で見上げる私の前に、ゆっくりと膝をついた。
「アデル嬢。君、僕の婿入り条件を勘案するのに忙しくて、大事なことを忘れているんじゃないか?」
「……だいじな、こと……?」
私はしゃくりあげながら問い返した。
エリオット様は、拾い上げた「好きなところリスト」を指先でなぞりながら、ふっと悪戯っぽく、そしてこれまで見たこともないほど甘い笑みを浮かべた。
「商談を成立させたいなら、もっと熱心に『僕』を口説かないと。君が提示する鉱山の利権よりも、僕は君が真っ赤な顔で僕を口説きに来るのを、ずっと楽しみに待っているんだけど?」
「……え?」
呆然とする私を置いて、彼は私の手を取り、その手の甲に優しく唇を落とした。
「この続きは、テラスで聞こうか。……ビジネスの話じゃなくて、君が僕をどうしたいのか、っていう話をね」
エリオット様の青い瞳には、もう冷たさなんて微塵もなかった。
そこにあるのは、獲物を完全に追い詰めた、勝ち誇ったような、熱い熱い執着の色だった。
※
エリオット様に半ば強引に連れ出された先は、夜風が吹き抜ける静かなテラスだった。
会場の喧騒が遠ざかり、二人きりになった途端、私の心臓の音は企画書の数字よりもうるさく鳴り響いた。
エリオット様は手すりに背を預け、私の「好きなところリスト」をこれ見よがしに指で弾いて見せた。
「さて、アデル嬢。商談の続きをしようか。……まずは、僕がこの紙の内容にどれだけ満足したか、聞きたい?」
「そ、それは……! 忘れてください! ただの市場調査です!」
「ふーん。僕のコーヒーの好みを調べるのが市場調査なんだ。……で、本題は? 僕が君の家に『婿入り』するメリット、まだ全部聞いていないよ」
私は真っ赤になりながらも、ここで引いたら男爵家が潰れると自分を鼓舞した。
深呼吸をして、私は彼を真っ直ぐに見上げた。
「……メリットは、三つあります!」
「ほう、聞こう」
「一つ目は、先程の休眠鉱山の独占利権。二つ目は、我が領地をデオバルド家の新たな物流拠点として提供すること。そして……三つ目!」
私は拳を握りしめ、叫ぶように言い放った。
「三つ目は、私……アデル・ヴァンベルグが、一生、死ぬまで! あなたを世界で一番幸せにする、という契約です!」
エリオット様が目を見開く。私は止まらない。
「私は貧乏で、ドレスも買えません! でも、あなたの仕事への情熱も、その冷たいフリをした優しさも、誰よりも理解して支える自信があります! デオバルド家次男としてのあなたではなく、エリオット様という『個人』に、私は全人生を投資したいんです!」
言い切った。
私の全財産、全感情を注ぎ込んだ、人生最大のプレゼン。
……沈黙が、痛い。
エリオット様は片手で顔を覆い、俯いてしまった。
「……やっぱり、だめ、ですよね。侯爵家の次男様に、そんな感情論……」
私が肩を落としたその時。
低い、笑いを含んだ声が聞こえた。
「……ははっ。降参だ。まさか、そこまで真っ直ぐに買い叩かれるとは思わなかったな」
エリオット様が顔を上げた。その頬は、少しだけ赤く染まっている。
「いいよ、その契約。……ただし、一つ修正案がある」
「しゅ、修正案?」
彼は私の腰に手を回し、逃げられないようにグイと引き寄せた。
鼻先が触れそうな距離。彼の青い瞳が、獲物を捕らえた獣のように妖しく光る。
「僕が婿入りして、君を幸せにするんじゃない。僕たちが夫婦になって、二人で僕を幸せにするんだ。……それと、この契約は解除不能。一生、君は僕の側で口説き続けてもらう。……異議はないね?」
「……はい、喜んで! 契約成立です!」
私が感極まって答えると、彼は満足そうに目を細めた。
「よし。じゃあ、まずは『契約金』の支払いから始めようか」
降ってきたのは、夜風よりも熱い、けれどほんの少しだけ独占欲の滲んだキスだった。
……ビジネスライクな婚活のはずだったのに。
私の事業計画書には、こんなに頭が真っ白になるなんて一文字も書いていなかった。
【後日談】
ベルグ男爵家の若き当主、アデルは今、領地の小さな執務室で頭を抱えていた。
「エリオット様……いえ、エリオット。この書類は何かしら?」
婿入りして半年。かつての「若き怪物」は、私の夫として、そしてベルグ家の頼もしすぎる(恐ろしすぎる)共同経営者として、デスクに優雅に腰掛けていた。
「何って、ただの事業拡大の報告だよ、アデル。君を卒業パーティで『アリのように働く貧乏令嬢』と笑った彼女たちの実家……あの一派の領地から、流通の利権をすべて引き上げただけだ」
エリオットは、淹れたてのコーヒー(砂糖なし)を優雅に啜りながら、さらりと言ってのけた。
「……引き上げたって、全部?」
「ああ。彼女たちが自慢していた華やかなドレスや香料は、すべて僕のギルドが運んでいたからね。今日から、彼女たちの領地に届く馬車は、週に一通の手紙を運ぶだけになる」
私は背筋が凍る思いだった。
流通が止まるということは、その領地の経済が死ぬことを意味する。
かつてパーティで私を囲んで嘲笑した令嬢たちの、真っ青な顔が目に浮かぶようだ。
「そ、そんなことをしたら、彼女たちの家から抗議が来るんじゃ……」
「来ているよ。さっきから執務室の前に並んでいるのが、その父親たちだ」
エリオットは窓の外を顎で示した。そこには、以前は鼻も引っ掛けなかった高位貴族たちが、冷や汗を流しながら順番待ちをしている。
「彼らにはこう伝えてある。『僕の妻を貧乏だと笑うような感性の持ち主とは、ビジネスはできない。ああ、それと……うちの休眠鉱山から出る最高純度の魔鉱石も、当然一粒も売る気はない』とね」
エリオットは、私を自分の膝の上に抱き上げると、耳元で低く囁いた。
「君をバカにするということは、君を選んだ僕の審美眼をバカにするということだ。……それなりの授業料は払ってもらわないとね」
「エリオット、やりすぎじゃないかしら……」
「そうかな? 僕はこれでも、口説かれるのを楽しみにしてた時間を邪魔されたことを、まだ根に持っているんだけど」
彼は私の首筋に顔を埋め、独占欲を隠そうともせずに笑った。
ビジネスに関しては冷徹。私に関しては執着。
この「甘すぎない」はずの結婚生活は、どうやら私の予想よりもずっと、熱を帯びていくらしい。
「アデル。さあ、商談の続きをしよう。……今夜は、君の領地の将来の話じゃなくて、僕たちの『跡継ぎ』の話をね」
「……っ、それはビジネスに関係ありません!」
「いいや。ベルグ家の永続的な発展には、最優先の経営課題だ」
真っ赤になる私を見て、夫は満足げに唇を重ねた。
かつて私を笑った者たちは、今や物流の止まった領地で、かつての私のように「節約」を強いられていることだろう。
もっとも、私にはもう、彼らのことなど考える暇もないほど、忙しい夜が待っているのだけれど。




