第1話:残響のエコー
世界はいつだって、残酷なほどに色を隠している。
東京に静寂はない。でも私にとっては、静寂だけが残された全てだった。
あの花比良村の日から、世界は色彩を失った。 空の青はコンクリートの天井に変わり、木々の緑は炭化した苔のように見える。黒板も、クラスメイトの顔も、すべてがモノクロームの階調に沈んでいた。 私が生きている限り、色は彼らと共に燃え尽きてしまったのだと、毎秒突きつけられているようだった。
「小鳥遊、聞いてるのか?」
教師の声が、深い井戸の底から響いてくるように聞こえた。 私は答えない。視線は、右隣の空席に釘付けになっていた。
そこには、窓から差し込む死にかけた午後の光の下で、ひとつのシルエットが蠢いている。 顔も、目も、声もない。弟の形をした、煤のような黒い染み。 その影は震えながら、幻の灰を私のノートに降らせていた。
『ごめんね』 私は鉛筆を握りしめ、指の関節が白くなるほど力を込めた。 『私だけが、あの家から生きて出てしまって、ごめんね』
椅子を引きずる不快な音が、私に顔を上げさせた。教室の後方、空気が変わった場所。
「おいデブ! またこんなゴミ描いてんのかよ?」
大樹の笑い声が空気を切り裂く。それは色を必要としないほど、明確な悪意に満ちた鋭い音だった。 大樹はスケッチブックを手に取り、健二の顔の前で振ってみせた。健二は座席で小さくなり、消えてしまいたいと願っているようだった。 健二は静かな少年で、絵を描くことに救いを求めていた。だが大樹にとって、彼はただのストレス発散のためのサンドバッグでしかない。
「返しなよ、大樹。君のものじゃないだろ」
割って入ったその声は穏やかで、まるで音楽のようだった。 蓮だ。
私の灰色の世界でも、蓮だけは……違って見えた。 色があるわけではない。けれど、その存在の解像度が痛いほど鮮明なのだ。 学園のエース。容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能。常にスポットライトの下を歩いているような人間。
「へえ、出たよヒーロー気取りが」
大樹は吐き捨てるように言い、健二のスケッチブックを床に落とすと、執拗にそれを踏みつけた。
「いつも完璧だよな、蓮様は。頼んでもねえのに首突っ込んできてさあ。……知ってるか? お前のその『完璧さ』が、今の俺を作ったんだよ。ヘドが出るぜ」
大樹が蓮に歩み寄り、鼻先数センチまで顔を近づける。 教室の緊張感は限界まで高まり、部屋の隅にいる私の家族の影たちさえもが、ざわめき立っていた。
「そんなにこの豚が大事ならさ」
大樹は、全員に聞こえるような囁き声で続けた。
「取引しようぜ。お前がただの顔だけの男じゃないって証明してみろよ。……あそこにいるだろ、『幽霊女』が」
大樹が親指で私の方を指差す。 私は動かない。瞬きすらしない。
「あいつに告白しろよ。みんなの前でな。あの気味の悪い女がOKしようが断ろうがどうでもいい。俺が見たいのは、『学園の王子様』が、あの敗北者のために恥をかく姿だ。 もしやれば、このデブに土下座して謝ってやる。でも、もしやらなかったら……健二の学校生活は、地獄みたいに長くて辛いものになるだろうな」
蓮は沈黙した。 一瞬、ほんの一瞬だけ、彼の完璧な仮面に亀裂が入るのを私は見た。 彼の瞳が、私の方へと逸れる。 それは灰色の砂漠の真ん中にある、二つの嵐のようだった。
「……わかった。乗ったよ」
蓮はそう答えた。
第1話をお読みいただきありがとうございます。
完璧な王子様が見せた、一瞬の綻び。 彼がこの「賭け」を飲み込んだのは、単なる正義感からなのでしょうか……? 灰色の世界が、少しずつ動き始めます。
もしこの先の展開が気になっただけたら、評価やブックマークをいただけますと幸いです。 次回、二人の「最初の嘘」が形を成します。




