第十話 開く扉
遥か沖合の光の届かぬ深海の底で、その扉は小さく震えていた。
海水温は急激に上昇し、銀色の魚群が追い立てられるようにその海域を脱していく。
それは、爆発的な噴火ではない……。
ただ、地下の巨大な閂が引き抜かれたような、くぐもった重低音が龍脈を伝って駆け抜けていった。
「……いよいよ、お出ましだ……」
不帰山の社では、望月のその一言で、待機していた手下たちが一斉に動き出した。
車内に設置された装置の中心で、大きな月長石が青白く脈動し始めた。
……シラー効果によって、石の内部の層で光が乱反射し、不気味に揺らめく。
「見てごらん。闇が深くなければ、この光は正しく輝かない。佐倉くん、君の魂は我らと同じだろう?」
語りかけるように呟く望月の傍らに据えられたのは、『佐倉佑真』と記された杉の若枝だ。
……それは、望月が新たに築く神社の御神木となるべき木から、この儀式のために分かたれた特別な柱(枝)であった。
超低周波が石を震わせ、佑真の名が刻まれた柱(枝)を伝って、大地の最深部……火之迦具土神の寝所へと共鳴音が響いていく。
佑真の視界には、画面を埋め尽くすほどの大きな漆黒の黒龍、その周りには仲間たちが散らばり、攻撃の合図を待っている。
佑真の目に、一瞬だけ輝く急所がその胸元に浮かび上がり、即座に叫んだ。
『見えた!胸だ、胸元が急所だ!』
『さすがだ! サンサン。みんな、集中攻撃だ! 一気に終わらせようぜ!』
パチの声に応え、サンサン、ムー、ソラのスキルが黒龍の一点に集中し、仲間を守りながら、一斉攻撃が始まった。
黒龍のHPがみるみる減っていき、ついにその数値がゼロになった瞬間、画面は真っ白な光に包まれた。
『やった……!』
誰かの安堵の声が聞こえた気がした。
だが、佑真の耳に聞こえたのは、勝利のファンファーレではなく、地底から響くような重低音の咆哮だった。
現実世界で噴火が発生し、佑真の部屋にも衝撃を与えた。
『おい、今の揺れヤバくないか!?』
『みんな無事か!?』
チャット欄に溢れる現実の悲鳴の文字……だが、数秒後には流れ去った文字を拾うものはいない。
『大丈夫……ここなら、俺たちは最強でいられる』
『そうさ、何とかなるよ』
離脱する者と、再びゲームの中へ戻る者……彼らにとっての居場所に戻っていった。
噴火の莫大なエネルギーが龍脈を逆流し、望月の放つ精緻な低周波が一瞬だけ不安定に揺らぎ、空白の静寂が訪れる。
……コツン。
佑真のヘッドセットの外から、その音は届いた。
………コツン、コツン。
遮光カーテンで閉じられた窓を叩く、小さな小さなノックの音。
佑真は、震える指先でヘッドセットを外した。
……コツン。
窓の下には、榊たちの制止を振り切り、必死に二階を見上げる零の姿があった。
叫ぶことも、光を当てることもせず。
彼女はただ、足元の小さな石を拾い、彼を驚かせないよう、祈るような力加減で投げ続けていたのだ。
「……零、お前……」
その瞬間、佑真の心に走っていた絶望のひび割れが、別の意味を持ち始めた。
閉じこもっていた岩戸が、外からの優しいノックによって開かれる。
自分を焼く火を恐れるのではない。自分を待ってくれている人のもとへ。
佑真は、もう迷わなかった。
『ごめん、みんな……俺は、行かなきゃならない』
佑真の短い告白に、静まり返っていたチャット欄が、一瞬だけ別の輝きを放った。
『……サンサン、行けよ!』
『お前がいなきゃ寂しいけどさ……お前だけは、そっち側(現実)で勝ってこいよ!』
『そうだよ、俺たちの分まで、攻略してこ〜い!』
背中を押す、不器用で温かな仲間たちの声……佑真は最後の一行を残し、自室のドアノブを掴んだ。
『ありがとう、みんな。……行ってくる』
玄関を飛び出し、温かな灰が舞い落ちる中、駆け寄ってくる零の手を強く握りしめる。
「行こう、零……俺にしか、できないことがあるんだよな」




