8.祈りの先に(1)
五年前――
魔王の影が世界を覆い、人々が恐怖に震えていた頃。
神殿は夜でも灯が絶えず、女神への祈りが途切れることはなかった。
その日、ひとりの王家の者が祈りの間に現れた。
王太子ギムレット。
額に汗を浮かべ、焦燥と祈りが入り混じったような顔をしていた。
「頼む! どうか……女神の加護を!」
石の床に膝をつき、彼は必死に頭を垂れる。
彼の願いを受け、ルティナは静かに頷いた。
彼女の祈りの声が響くと、神殿の空気が一変する。
柔らかな光がルティナを包み、神々しさが祈りの間を満たしていく。
ギムレットはその光景に息を呑む。
祈る彼女の横顔を見て、胸の奥が熱くなるのを感じる。
それは畏敬とも、恋ともつかない感情だった。
(美しい……)
彼は無意識に呟いていた。
ルティナが祈りを終え、そっと微笑む。
「必ず、女神様が……お守りくださいます」
その言葉に、ギムレットの胸が震えた。
その瞬間、彼は悟る。
彼女の声を、微笑みを、自分は“求めてしまった”のだと。
――だが、その感情は許されぬものだった。
(違う……! この国の頂点は王家だ。
俺は跪く側ではない!)
ギムレットは拳を握りしめ、光を放つ聖女と女神像を憎々しげに見上げた。
それが、彼の心に生まれた最初の“歪み”だった。
***
夜の神殿。
祈りと光で満ちていたこの場所は、いまや冷たい影と沈黙に支配されていた。
ギムレットは、作業服を着た男たちを従えて入ってくる。
そこにいたのは、もう祈りを乞うた青年の面影はない。
冷たい眼差しをした支配者だった。
「……なんだ」
「力を失った聖女が、まだ居座っていたのか?」
吐き捨てるような声。
ルティナは静かに立ち上がり、気丈な面持ちで答えた。
「他に行く当てがありませんので」
その言葉に、ギムレットの目が細まる。
垢と埃にまみれた汚い女。
国のために頭を下げた相手が、ここまで落ちぶれるとは。
(俺は……こんな者に跪いていたのか)
屈辱が拳を震わせた。
「もう用済みだ。――取り壊せ!」
石でできた瞳を睨み、命じる。
その言葉に、背後の男たちは視線を交わし、ハンマーを手に女神像に近づく。
嫌な予感にルティナが叫ぶ。
「何をする気!?」
「私たちを救ってくれた女神様よ!」
「それが?」
「平和な世に、神など必要ない」
ギムレットは冷ややかに言い放った。
「なんてことを……!」
ルティナはギムレットをまっすぐに見据える。
その目が気に入らない。
「お前のような民に、
今一度知らしめる必要がある」
「やれ」と声が低く響いた。
その冷たい声に男たちはうなずく。
「やめてっ!」
ルティナは駆け出したが、その腕をギムレットが掴む。
「ここで見ていろ」
その瞬間――
「ガシャーン!」と、女神像が崩れ落ちた。
砕け散った石片が床を転がり、祈りの間に乾いた音を響かせた。
「あああぁぁぁっ!!」
ルティナの叫びが神殿に響く。
押さえつけられた腕が解かれると、彼女は倒れかけながらも走り寄った。
「女神様っ……!」
ギムレットはその背にゆっくりと歩み寄る。
冷酷な目で、砕けた女神像を見つめた。
「力とは、本来、王家が示すべきもの。
――神でも、聖女でもない」
割れた女神像の顔が、悲しみの表情を浮かべているように見えた。
ギムレットは、それを愉快そうに見下ろす。
「これで俺は、過去から解放される!」
そして、笑った。
狂気を帯びた高笑いが、神殿の天井に反響する。
「フッ、ハハハハハ……!」
ルティナはその場に崩れ落ち、震える声を漏らす。
「女神様……そんな……」
涙が床に落ち、砕けた石に滲んでいく。
その涙が光を帯びた瞬間、神殿の空気が震えた。
ルティナの身体を、柔らかくも眩い光が包む。
髪が浮き、瞳が淡く輝く。
唇が、怒りに震えた。
「……ゆ……さない……」
「赦さない……!」
光が、爆ぜた。
壊れた女神像が輝き、ルティナの額に聖なる文様が浮かび上がる。
その姿は、もはや人のものではなかった。
失われたはずの聖力が ―― 再び、目を覚ましたのだ。
「まさか……そんなはずは……!」
神の加護を否定した者の前で、女神はもう一度、聖女を選んだ。
――それは、“世界を揺るがす祈り”だった。
修正させていただきました。(11/12)




