7.平和な世界で(2)
「お知り合いですか? この浮浪者と!?」
男の驚いた声が、周囲の視線をさらっていく。
ルティナは、トニックと呼ばれた男を恨めしげに睨みつけた。
隣でキールが眉間を押さえ、短く息を吐く。
「……ああ」
「女神に仕えていた聖女、ルティナだ」
「せ、聖女……?」
トニックは目が大きく見開いた。
だが彼の目に映るのは、聖なる衣を纏った清らかな少女ではない。
ぼろ布で身を包み、頬はこけ、荒れた手をした物乞いの女だ。
信仰に生きた面影は、もうどこにもなかった。
「ねえ、返して!」
ルティナは歩き寄るとトニックに手を伸ばした。
「私から盗ったお金、返してください!」
その言葉に、キールが驚いたように彼女を見つめた。
「お前は、さっきから何を言っているんだ?」
トニックは表情を固くし、乾いた笑いを浮かべる。
「ははは……何か、勘違いをなさってるようで──」
「勘違いじゃありません!」
このまま誤魔化されてはたまらない。
ルティナは声を張り上げる。
「街で、私からお金を盗りましたよね?
あれは大神官様からいただいた、大切なお金なんです!」
その言葉に、トニックの顔から笑みが消えた。
「……なら、やっぱり勘違いじゃねぇか」
ルティナが息を呑むより先に、一歩前に出て威嚇する。
戦場の匂いがまだ抜けきらない、兵士の眼差しだった。
「前線で戦ってきたのは誰だ?」
彼は低く、唸るように言った。
「血を流し、命を賭けて国を守ってきたのは……
俺たち兵士じゃねぇか」
その顔には、憎しみとも悲しみともつかぬ表情が浮かんでいた。
「なのに、なんでだ……!」
トニックは唾を吐くように叫んだ。
「祈ってただけの聖女が、大金をもらって
俺らには何も出ねえんだ!」
「祈ってただけ」その一言が、ルティナの胸に突き刺さった。
たしかに、戦場に出たことはない。
魔物の牙も、血と叫びに満ちた夜も知らない。
それでも ──
助けられぬ痛みも、救えぬ恐怖も、ずっと抱えて祈り続けてきた。
「あの金はな……
本来なら、俺らがもらうべきなんだよ!
それを ──」
「もう止せ!」
キールの鋭い声が、空気を断ち切った。
だがトニックは拳を震わせ、悔しさを噛みしめ唇を震わせる。
「何が聖女だ……!
魔王がいた頃の方が、よっぽどマシだったぜ!」
その言葉は、まるで鋭い刃のようだった。
彼女は震える唇で、ようやく声を絞り出す。
「死んで……いたかもしれないのに……」
こぼれ落ちた言葉と同時に、頬を一筋の涙が伝った。
「人に八つ当たりできる“命”があるのに……
魔王がいた頃の方が良かったと言うんですか…?」
トニックは動揺し、視線を逸らした。
自分でも、言ってはいけないことを口にしたとわかっていた。
「私だって……!」
ルティナの声は震え、しかし確かな怒りに変わっていく。
「聖女だからって、楽だったわけじゃない!」
そのまま駆け出した。
涙が頬を伝い、ぼろ布の袖を濡らしていく。
「待ってくれ!」
トニックは手を伸ばしたが、キールが首を振った。
「……今は、そっとしておいてやろう」
「だけど、俺……
とんでもないこと言って……」
「後で……様子を見に行く」
短く答えるキールの顔には、動揺が浮かんでいた。
「今の世界は……あまりにも救いがなさすぎる」
彼の声は、傾いた陽の中に溶けていった。
***
神殿に戻ったルティナは、そのまま祭壇の前に崩れ落ちた。
すでに陽は落ち、冷たい石の床が体温を奪っていく。
温もりを探すルティナの目に、女神像が留まった。
柔らかな微笑みを称えていた女神が、いまは無機質に見える。
絶望と孤独が、静かに彼女の心を覆っていく。
「祈りが……平和が……皆のためだって……」
「信じてきたのに……」
肩が震え、嗚咽が漏れた。
「私がしてきたことは……いったい
何だったの……?」
そのときだった。
「ガシャ、ガシャ」と外から騒がしい音が響く。
工事用の器具が運び込まれる音だった。
「な、なに……?」
ルティナが顔を上げた瞬間、神殿の扉が軋む音を立てて開いた。
作業服の男たちを連れて入ってきたのは ―― ギムレット王太子。
冷ややかな視線をルティナに向け、鼻で嘲る。
「力を失った聖女が、まだ居座っていたのか」
その声は、かつての慈愛を欠片も残していなかった。
修正させていただきました。(11/12)




