5.捨てられた聖女(2)
ルティナは緊張で手を震わせながらも、ギムレットの前へと歩み寄った。
そして、深々と頭を下げる。
「お、王太子殿下……
私を、覚えておいででしょうか?」
その声は震え、擦れていた。
三年という歳月が、かつての聖女の誇りと気品を奪っていたのだ。
「女神様にお仕えしていた……
ルティナです」
ギムレットは一瞬、その美しい瞳を見開いた。
「……ルティナ? あの聖女の?」
彼の視線が、まるで別人を見るかのように細められる。
目の前に立つ女は、汚れたローブに身を包み、髪は乱れ、
顔からは疲れが見て取れた。
「まあ……」と、近くの女が息をのむ。
「本当にあれが聖女か?」と、男の嘲り混じりの声が続いた。
ギムレットは信じられないというように顔を歪める。
(この女が……ルティナだと?
俺の知っている聖女は、もっと美しかったはずだ)
思い出すのは、神殿の光に包まれたあの日の姿。
聖なる文様が輝き、ユリの花が舞う中で微笑んでいた、あの麗しき女。
だが今、目の前にいるのは、その面影すらない。
(美しさを失った“信仰の象徴”に、何の価値がある)
無関心な冷たい声が落ちる。
「……何か?」
ルティナは怯えながらも、必死に言葉を探す。
「あ、あの……食べるものに困っていて……それで……」
周囲の人々が、興味本位の笑みを浮かべる。
その視線が、針のように刺さった。
ギムレットは目を細め、内心で呟いた。
(物乞いを……?
あの“女神プリローダの乙女”が、か?)
ふと、口元に笑みが浮かぶ。
それは、かつての優しさではなく、侮蔑だった。
「見ろよ!」誰かが叫ぶ。
「聖女がギムレット様の情けにすがってるぞ!」
笑いが広がる。
ルティナは恥ずかしさから身を縮こませ、肩を震わせている。
武器屋の男が薄笑いを浮かべて叫んだ。
「ギムレット様ー!」
「どうか、聖女様のご功績に見合う“施し”を!」
クスクス、クスクス。
人々の笑いに、ルティナの身体は冷水を浴びたかのように凍りつく。
ギムレットは肩をすくめ、懐から銅貨を取り出す。
それを軽く放り投げると、無情に言い放った。
「拾え。そなたへの褒美だ」
コインが乾いた音を立てて、石畳に転がった。
ルティナは動けなかった。
羞恥心と絶望が胸を締めつける。
「どうしました? ギムレット様のご厚意ですよ」
誰かが面白そうに煽る。
ルティナは唇を噛み、屈辱に耐えながら膝をついた。
指先が震え、やっとの思いで銅貨を拾う。
「……ありがとう……ございます……」
地面の冷たさが、指先にまで沁みた。
ギムレットはその姿を見下ろし、冷たく吐き捨てた。
「さっさと消えろ。目障りだ」
その一言で、ルティナの中の何かが崩れた。
周囲からは、また笑いが起こる。
「恥ずかしいわね……」
「聖女が物乞いだなんて……」
「アハハハハ!」
嘲りの声を背に、ルティナはふらふらと歩き出した。
視界が滲む。
耳の奥で、かつての声が蘇る。
──『世界が平和になれば、
皆が幸せになると、本当に思ってるのか?』
いつだって、ルティナだけを真っ直ぐに見つめていた、
キールのあの瞳が、彼の言葉が、今になって胸をえぐる。
(思ってたわ……今だって……)
声にならない叫びが喉で途切れる。
気づけば広場にいた。
雨が降り出す中、勇者ジンの像の前に立ち尽くしていたのだ。
「今だって……!」
しかし、返ってくるのは冷たい雨音だけ。
ルティナは膝から崩れ落ちた。
見上げた勇者像は、豪奢な装飾をまとい、人々の誇りとしてそびえ立っている。
その足元で、かつての聖女は濡れた地に手をついた。
「私……全然、幸せじゃない……」
頬を伝う雫は、雨か涙か分からなかった。
空は暗く、風が吹くたび、漆黒の羽がひとひら、地に落ちた。
修正いたしました。(10/10)




