第十六夜 合わないからこそ見えてくる真実
篠原がおそるおそる開いた紫の表紙の冊子には一面英語っぽい言葉が記されていた。
所々に人の体のどこかをフューチャーしたような図解が描かれている。
これは手術のやり方を説明しているのだろうか?
「英語? なんで英語が書かれているんだ? アメリカと戦ってたんだから、英語は禁止されてるはずだろ?」
「よく見てくれ。これは英語じゃない」
篠原にそう言われたので、顔を少し近づけて注意深く読んでみる。
「……本当だ。英語じゃない」
書かれている内容を読んでみようとしたのに全然読めなかった。
これは俺が英語が苦手で読めなかったというわけじゃない。
あ、いや、俺が英語を苦手なのは間違いないんだが、そういうことじゃない。
いくら苦手でも小学校から大学まで英語の授業を受けてきたんだ。
これだけたくさん書かれた文章の中から知っている単語を一つも見つけられないほど英語を学んでこなかったわけじゃない。
これは根本的な問題だ。
「調べてみたところ、この文章はドイツ語だった」
「ドイツ語?」
「日独伊三国同盟で日本とドイツは同盟関係だったんだ。特段、おかしなことじゃない」
歴史の教科書で習ったような言葉が聞こえた。
テスト勉強の時にさんざん覚えさせられた記憶がある。
「ドイツ語なのはわかったが、なぜドイツ語のままなんだ? これ日本のだろ? 表紙に日本語が書かれてたし」
「推測だけど、これは同盟国だったドイツ……適切にはナチス・ドイツが送ってきた極秘情報だと思う。ドイツ語のままなのは送られてきた時期が戦争末期も末期だったから翻訳してる時間がなかったんじゃないかな。途中からは完全に日本語になっていたから、ナチスから送られてきた情報にそのまま日本で作った情報を貼っつけた感じ」
「なるほど、それならドイツ語のままだったのも頷けるな。日本語で書かれていた部分には何が書いてあったんだ?」
それを聞いた途端、篠原の顔が今日見た中で一番暗くなった。
「……その前に、こっちを見て欲しい」
篠原は戦争資料がある方へと向かい、その中から白の表紙の冊子を二つ取り出す。
これは部外秘というやつなのだろうか。
それとも、ただの普通の資料なのだろうか。
「こっちは、蔵の中で僕が偶然見つけた変電所で変換した電力量と近くの軍需工場へ送電した電力量が書かれている物だ」
「あぁ、あれか」
篠原が崩れかけていた書物の山を押さえようとして、偶然落とした一冊を凝視していたのを思い出した。
その時に篠原が変電所に関係する資料だと気づいたことで、戦争資料がある場所のだいたいの目星がついたんだよな。
「んで、そっちは?」
俺はもう一つの方を指さす。
「それには、変電所を含めた工場周辺を襲った空襲の計三回分の被害報告がまとめられていた。最初の空襲は1945年の2月17日で、変電所は南の方角からF6Fヘルキャット戦闘機によって機銃掃射を受けたらしい。同年の4月19日にもP-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射を受けている。その数日後、4月24日にはB-29の101機の編隊による空襲によって被災している。隣接する工場は大破して、工場の八割方が壊滅してしまったみたいだ」
「八割って……ほぼ全部じゃねぇか。その工場は、結構大きいとこだったのか?」
「そうだね。一時期、工場の従業員数は13000人を超えるほどの規模だったらしい」
「そんなにいたのか! だとしたら、俺達の学校も昔は工場だったのか?」
「どうだろう? 僕もそこまではわからない」
篠原が工場の規模から考えるとあり得なくはないかもしれないと考え込む。
「にしても、工場の八割方が壊滅したっていうのに変電所はよく残ってたな」
「幸い、変電所は建物本体が鉄筋コンクリート製なこともあって、致命的な損傷を受けずに大きな被害は免れたみたいだ。それでも、窓枠や扉などは爆風で吹き飛び、壁面には機銃掃射や爆弾の破片による無数のクレーター状の穴ができてしまったらしい。今度、機会があれば変電所を見に行ってみるといい。今でも、当時の被害の跡を見ることができる」
「へぇ〜。学校から近いんだっけ? 暇な時にでも見に行ってみるか」
ちょうど、今日みたいに暇な日が今後も訪れるかもしれない。
そういう時に、暇潰しに行ってみるのはありだな。
「そんだけ被害が出てるってことは当然、亡くなってる人もいるのか?」
「残念だけど、どうしてもね。一番、亡くなった人が多かったのは最初の空襲だった2月17日で、死者数はおよそ78人だったと書かれている。亡くなった人の内の約六割が避難した先の防空壕が潰れたことによる窒息死だったらしい」
「防空壕が潰れてたら、意味ねぇじゃん」
「この辺りは焼夷弾じゃなくて通常爆弾の500ポンド爆弾が落とされていたそうだから、急ごしらえで作ったような防空壕では防ぎきれなかったんだと思う」
「そうなのか。本土空襲って聞くと、どうしても焼夷弾のイメージしかなかったわ」
「それはジブリが作った『火垂るの墓』のイメージが強いかもしれないね。焼夷弾は主に住宅が多い場所を狙って投下されていたから、工場とかを狙うにはあまり適していなかった」
「たしかに、それはあるかもな。それで、残りの二回の空襲については?」
「4月19日の空襲では、少なくとも五人の方が亡くなっている。最後の空襲だと、亡くなった方はとても少なかったみたい。具体的な数字は書かれていなくて、わからなかった。この三回目の空襲で死者が一番少なかったのはこれまでの経験があったおかげだと思う。ただ、工場の方はこの空襲で大きく被害が出てしまったらしい」
取り出した二つの冊子の説明はこれで終わりだと言うように篠原は一息ついた。
「この二つに何が書かれているのかはわかったが、これがどうさっきの紫の冊子に関係してくるんだ?」
「そこに行くにはまだ早い。もう一つ見てもらいたい物がある」
今度は冊子として一応はまとめられてはいるが、今まで見てきた物と比べるとひどく粗末な物だった。
「これは当時、変電所で働いていたある職員の日誌みたいなものだと僕は考えている。そして、ここには変電所で変換した電力量と近くの軍需工場へ送電した電力量や空襲を受けた時の被害が簡単に書かれていた」
「なんだよ。今の二つの冊子と書かれていることは一緒じゃねぇかよ。わざわざこの日誌みたいなやつと見比べる必要なんかないだろ」
「僕も初めてこの日誌を見た時は新庄と同じことを思った。でも……実際は違った」
篠原がゴクリと唾を飲み込んだ音が俺の耳にも聞こえた。
「……合わないんだよ、数字が」
「は? 合わないって何が?」
「ごめん、正確には多いのに少なくて、少ないのに多いと言うべきだったね」
「いや、そうじゃなくて! 数字ってなんのだよ?」
「あぁ、そっちか……」
「そっちって……さっきからそう言ってるだろ」
やっぱり、今の篠原は普通じゃねぇな。
「変電所で変換した電力量と空襲で亡くなった人の人数のことだよ。軍が作った冊子よりも電力量は日誌の方が多く、空襲の死者数は日誌の方が少なかった」
どうにもよくわからない。
数字が合わないってだけで、どうして篠原はこんなに深刻そうな顔をしてるんだ?
片っぽの数字が合わないからって、何だっていうのだろう。
「そんなの単に日誌の方の数字が間違ってるだけじゃないのか? そっちの白の冊子の方が正式な書類っぽいし、個人が付けてた日誌なんか宛にならんだろ。空襲の死者数だって、後から増えることなんかいくらでもあるだろ」
「そうならどんなによかったか……」
篠原は静かに紫の冊子のある頁を開く。
そこにはドイツ語ではなく、ちゃんと日本語が書かれていた。
「ここには最初の空襲があった日に運ばれてきた人数が書かれている。この32という数字は死体数を表している」
「うん? 32? 32って、さっきの日誌に書かれていた亡くなった人数と一緒だよな? なら、日誌に書かれている数字の方が合ってたってことか? でも、なんで白の冊子の方はそれよりも死者数を多く書いてるんだ?」
「……そして、こっちの46という数字は生きて運ばれてきた人の数だ」
「生きて運ばれてきた人の数? 何だよそれ? ってか、運ばれてきたってどこにだよ?」
「今はその話は後にしてくれ。重要なのは46という数字だ」
「46? 46という数字って言われてもなぁ……」
俺にはわからない。
そう言おうとした。
だが、その前に篠原がついさっき言っていた32という数字が脳裏をよぎった。
そこから、俺は嫌な計算式が頭に浮かんでしまった。
「……46+32は78だよな。なぁ、篠原……最初の空襲の時って何人死んだんだっけ?」
篠原に聞かなくたって覚えてる。
自分でもその答えに至ることで出てくる結論だって、もうある程度わかってる。
それでも俺は聞かずにはいられなかった。
「……78人だ」
篠原が「新庄も僕が言いたいことがわかったんだな」という目で見ている。
「いや、いや、いや、いや、あり得ねぇだろ! 何かの間違いだろ! きっと、運ばれてきた人数の合計を誤って死者数って記録しただけだろ? なぁ、そうだよな!?」
思わず俺は篠原の両肩を強く掴んでいた。
「落ち着け、新庄」
「あ、悪い」
そっと新庄の両肩から手を離す。
「け、けどよ、やっぱ、何かの間違いだろ。変換した電力量だって書き間違えただけだろ?」
「変電所に勤めている職員が毎日電力量を書き間違えると思うか? それも、差が一定になるような数値を偶然毎日書き間違えていたと? それこそ、あり得ないんじゃないかな?」
「……」
俺は何も言えなかった。
あたり前だ。
篠原が言っていることに何も間違いなんかない。
どう考えても篠原の話の方が筋が通っている。
「……ドイツ語の方って何が書いてあったんだ? 手術してるような図解もあったよな……いや、回りくどい聞き方はやめだ」
俺は篠原に向き直り、瞳を真っ直ぐと見つめる。
そして、意を決したように口を開いた。
「この紫の冊子には何が書かれている?」
「……死体を機械的に動かす試みの手術と生きている人間に痛みを感じなくさせる試みの手術について書かれている」
真っ白な顔をして篠原は俺と向き合うように答えてくれた。
それを聞いて、俺はある一つの言葉を口に出す。
「……人体実験か」
篠原は黙ってコクリと頷く。
「ドイツ語の翻訳は機械任せだからあまり正確ではないけど、的外れなことは言っていないと思う」
「被検体にされたのは……全員日本人なんだろ?」
「……そうだ。工場の従業員や動員された学生、周辺の住民など全員日本人だった」
「なんで……なんで、そんなことができんだよ? 同じ日本人だろ? 味方だろ? 捕虜とか敵国の民間人が被検体にされるっていう話なら、まだ感情的に理解もできるし、聞いたこともある。いや、だとしても最低な行為だ。……なのに、同じ戦争を共に戦っている日本人を、守らなければいけない民間人を被検体にするってなんだよ!? それも、死者の数をちょろまかしてまで生きていた人を被検体にするとか訳わかんねぇよっ! おかしいだろ、そんなの! 狂ってるだろ! 人間のすることじゃねぇよ……」
泣いているわけでもないのに、顔がグチャグチャになっているのを感じる。
瞬きもできずに目を見開いたままだというのに、涙一つ出てこない。
常軌を逸した真実に理解が追いつかない。
喉が渇いた。
無性に喉が渇いた。
俺はお盆の上に置いてあった麦茶を飲む。
飲んでいるはずなのに全くもって喉が潤わない。
喉が渇く。
飲んでも飲んでも喉が渇く。
気付くと、唇に冷たい感触が伝わっていた。
俺はいつの間にか麦茶を一気に飲み干していたらしく、氷が唇に触れていた。
「大丈夫か?」
コップから口を離すと篠原が心配そうに俺を見ている。
俺が篠原へ普通じゃないと思っていた感情を今度は俺が篠原から向けられていた。
「あ、あぁ……大丈夫だ」
空になったコップを元あった場所へ置く。
少し客観的になれたことで、だいぶ落ち着いてきた。
「……最初の空襲だけじゃないんだろ? 生きた人間を被検体にしたのは」
「……うん。三回目の空襲なんかは本来であれば死者はいなかったはずなんだ。けど、それを空襲で亡くなった人がいることに書き変えることによって、数名が被検体として運ばれてきている。逆に死体が運び込まれる数がなくなっているところを見るに、実験者側は早々に死体を機械的に動かす試みを断念しているんだと思う」
「そもそも、そんなこと可能性なのか? あまりにも発想が突飛すぎるだろ。真面目に実験しようとする奴の気がしれない」
「実験者側だって、頭のどこかではわかっていたはずだ。だけど、藁にもすがる思いだったのかもしれない。それに、ナチス・ドイツの極秘情報として伝えられていたんだ。もしかしたらという気持ちがあったのかもしれない」
我がナチスの科学力は世界一と昔、聞いたことがあった気がする。
そのイメージがあったのだとしたら、そう思う気持ちもわからないでもない。
「だからって、よくそんな実験を実行できたな。あからさまじゃなくても被検体を実験する場所へ運び込んでいるとこを見られたら、住民に怪しまれるだろ。第一、そんな実験をどこでやってたんだよ?」
「それがオカ研に声をかけて、新庄に今日来てもらった理由になる」
篠原はここまで話題に出してこなかった赤の表紙の冊子に手をつけた。
最後まで読んで頂きましてありがとうございます。
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