前線、死地、実感
灰色の空が重く垂れ込め、地平の向こうから時折、砲撃の音が響いていた。湿った風が兵士たちの間を吹き抜け、軍馬の鼻息と、馬車の軋む音がそれに重なる。
カイたちを乗せた馬車が、ぬかるんだ道をのろのろと進んでいく。
「本当に……戦場なんだな」
マークがつぶやく。冗談ではない、現実の言葉だった。
到着したのは、前線の塹壕地帯。幾筋もの塹壕が地面を這い、泥に塗れた兵士たちが沈黙の中で動いている。兵の交代、負傷者の搬送、死者の回収。音もなく、それらは当然のように繰り返されていた。
カイたちは第三小隊の所属となり、仮設天幕で休息を与えられた。夕刻、天幕に戻ると、配給のスープとパンが手渡された。ぬるく、味気ない。誰も文句は言わなかった。
「なあ、カイ」
マークがぽつりと口を開く。
「あの帝国の貴族が殺されたって話……今でも信じられないんだ。そんなことで、本当にこんな戦争になるもんかね……」
カイは返事をせず、スープをすすった。口にしたところで味などない。戦争の理不尽さを、マークが問い直す気持ちは理解できた。第六話の教練で教えられた通り、帝国から留学していた貴族が、王都で何者かに襲撃され命を落とした。その報復としてヴァルド帝国は開戦を宣言し、王国は自衛の名のもとに総動員体制に入った。
だが真相は曖昧だ。犯人は不明。証拠も示されず、ただ人々の憎悪だけが燃え広がり、ついに両国は剣を交えるに至った。
「理屈なんて関係ないわ」
セリナが静かに言った。
「始まってしまったから、私たちはここにいる。ただ、それだけ」
彼女は小さく息をつき、スープの器をそっと置いた。
夜になると、交代制の監視が始まった。カイ、マーク、セリナの三人は、塹壕の狭い通路を抜けて監視地点へと向かう。空は曇天、月明かりも届かない。冷えた風が吹き抜ける中、三人はじっと前方の暗がりを睨んでいた。
「おい、音がした……!」
マークが小声で言った直後、遠方から爆音が轟いた。地面が揺れ、土が跳ね、破片が飛び散る。敵の奇襲だ。
「伏せろッ!」
セリナが叫ぶ。直後、敵兵の一団が塹壕へ突入してきた。斧や剣を構えた敵が、怒声を上げながら迫ってくる。
カイは剣を抜き、風の魔力を身にまとう。空気が唸り、身体が軽くなる。目の前の敵兵が斬りかかってきた。カイは紙一重で避け、風を纏わせた剣を一閃。相手の胸元に切っ先が届き、血が飛び散る。
マークも震える手で岩を生み出し、敵兵へと投げつける。ヒットした相手はよろめき、倒れた。その瞬間、マークは硬直した。
「……倒した……俺が……」
「まだ終わってない! 下がらないで!」
セリナが雷を纏った剣を振るい、敵兵を切り裂く。金色の閃光が夜を照らし、彼女の姿を戦場の中心へと引き上げるように見せた。
戦闘は短時間で終わった。敵は少数で、試し撃ちのような襲撃だったのだろう。だが、カイたちにとっては十分すぎる現実だった。敵兵の死体、自分の手で奪った命。震えが止まらない。
天幕に戻ると、誰も口を開こうとはしなかった。マークが重く沈んだ声で言った。
「さっきの奴……俺が投げた岩に当たって、死んだよな。目、合ったんだ。最後の瞬間……俺を、見てたんだ」
カイは焚き火を見つめたまま、パンを手に取ることができなかった。食欲など湧くはずもなかった。自分の手で斬った敵の顔が、まぶたの裏にこびりついて離れない。
「……人を殺した」
その言葉が喉を震わせた。
「仕方なかったのよ」
セリナがそっと言った。
「あなたが死ななければ、あの人が死ぬ。それだけのことだった。これは戦争……ただの現実よ」
「それで済ませていいのか……?」
カイの声は弱く、苦しかった。
セリナは黙っていたが、やがてぽつりと語った。
「私だって、怖いわ。でも、怖いって思えるうちは、まだ人間でいられる。何も感じなくなったら、それこそ、ただの“兵士”になる」
その言葉に、カイは何も返せなかった。ただ、火の揺らぎだけが天幕を照らしていた。
翌朝、遺体の回収と塹壕の補修が命じられた。敵味方を問わず、泥にまみれた死体を担架に載せていく。どの顔も、自分たちと年齢はそう変わらない。どんな理由で戦っていたのか、今となっては知る術もない。
「……これが始まりにすぎないってことよ」
セリナの声が、焼けつくような冷たさで響いた。カイは、否応なくそれを理解した。