開戦の理由
森を抜け、軍列は岩の多い斜面に差しかかっていた。乾いた風が枝を揺らし、兵士たちの鎧を鳴らす。重苦しい空気が張り詰めていたが、誰も口には出さなかった。
カイは、馬ではなく徒歩で移動する自分の足音に、妙な安心感を覚えていた。足元から伝わる大地の重みが、現実を教えてくれる。自分は今、確かに戦場へ向かっているのだと。
「なあ、カイ」
前を歩いていたマークが、少し声を低くして言った。
「この戦争……どうして始まったんだっけ。訓練所にいた頃から、ずっとはっきりしなくてさ」
「……」
カイは即答できなかった。分かってはいるが、言葉にするには重すぎる記憶があった。
「セリナが、話してくれたことがある。開戦のきっかけになった事件のこと……」
マークが振り返る。小さく頷いたカイは、静かに語り始めた。
***
発端は、ルシア王国の王都で起きた一件だった。
ヴァルド帝国から王国の学術院に留学していた、帝国貴族アーネスト・グラウヴァインが、街の路地裏で無残な姿で発見された。刃物による数か所の刺し傷、破かれた制服、奪われた懐中時計。事件は一見して強盗殺人のように見えた。
王国の治安当局は「通り魔による犯行」として捜査を進めたが、事件から数日後、帝国から強い抗議が届く。
「この蛮行は、ルシア王国による我が民への侮辱である。我々は謝罪と、犯人の引き渡し、賠償を求める」
だが、王国の議会はこれを拒否した。
「証拠が不十分であり、王国側の組織的関与は確認できていない。謝罪には及ばない」
両国のやり取りは次第に感情的になり、帝国では報復論が高まり、王国では主権の防衛を主張する声が強まっていった。
そして、事件から一月後。帝国はルシア王国東境の町「フェルス」を占拠した。王国側の民兵と警備兵はこれを迎撃しようとしたが、帝国軍の正規兵による電撃的な進軍に抗しきれず、町は陥落。多くの民間人が犠牲となった。
「これは演習ではない。侵略だ!」
国中に戦火が広がるのに、時間はかからなかった。
開戦の宣言すらないまま、帝国は次々と国境付近の集落を攻撃し、王国軍もこれに応戦。やがて、王国議会は正式に「ヴァルド帝国への抗戦と領土防衛」の名のもとに、徴兵令を発令した。
カイやマークのような、農民や職人の子らも次々と軍に編入された。
だが、民の間では未だ「なぜここまでの戦争になったのか」という疑問が燻っていた。
確かに、帝国貴族が殺された事件は衝撃だった。だが、あれは本当に偶発的な事件だったのか?
あるいは――あらかじめ仕組まれていた「導火線」だったのか?
「……ヴァルド帝国には、昔から“正当なる拡大”を信条にする派閥があるって聞いた。
“かつて帝国の影響下だった土地は、再び帝国に属すべきだ”って。ルシア王国の東側の領土、元はあっちのものだったから……」
カイの言葉に、マークは顔をしかめた。
「じゃあ、最初から戦争する気だったってのかよ? 貴族の事件は、そのための口実……?」
「分からない。ただ、俺たちはその“結果”に巻き込まれて、剣を握らされてる。それだけは確かだ」
重い沈黙が、二人の間に流れた。
歩みは続いている。だが、心は鈍く、重い鉄鎧のように沈んでいた。
***
その夜、部隊は谷の手前で野営を張った。
焚き火の前、配給のスープを啜りながら、カイは空を見上げる。雲に隠れた月は見えず、冷え込む夜風が肌を刺す。
セリナは少し離れた場所で、上官らと地図を囲んでいた。真剣な眼差しと指先の動きが、作戦を練っていることを物語っていた。
「あの人も、どう思ってるんだろうな……この戦争のこと」
マークがぼそりとつぶやいた。
カイは黙って頷いた。
誰もが、何かを信じようとしている。
正義か、祖国か、あるいは、仲間の命か。
しかし、始まりがどんなに不明瞭であろうと、戦争は現実となり、明日には誰かが命を落とす。
それが、戦争というものなのだ。