約束、そして戦場へ
夜が明けきらぬうちに、軍の天幕は慌ただしく動き始めていた。
角笛はまだ鳴っていないが、兵たちは既に荷をまとめ、武具を整え、各自の覚悟を心に刻んでいた。
カイは静かに剣を手に取り、その重さを感じていた。
刃を抜くことに慣れはしていない。だが、今日それを振るう日が来る――その実感が、じわじわと胸を締め付けてくる。
「いよいよか……」
マークが、寝具をたたみながら低く呟く。
「訓練も、斥候任務もあったけど……今回はガチの前線だもんな」
「これが戦争の本番ってやつか」
カイは腰の剣を見つめながら答える。
「スリル谷の手前に配備だって聞いた。帝国軍が集結してるって噂、マジなんだな」
マークは努めて明るく話すが、その口調には明らかな緊張がにじんでいた。
そこへ、天幕の布がぱたんと揺れ、セリナが現れた。
銀色の髪を束ね、軽装鎧に身を包んだ姿。彼女の周囲だけ、少し空気が引き締まったように思えた。
「準備できてる?」
声は静かだが、よく通る。
「……まあ、一応な」
マークが苦笑しながら頷く。
「怖くないわけないよな」
そう続けた彼の言葉に、セリナはふっと小さく微笑んだ。
「怖くない人間なんていないわ。でも、怖さを理解して、それでも前に進もうとする人が、生き残るの」
「そう……ですか」
カイは、彼女の言葉を噛みしめるように口にした。
「カイ、あんた昨日の夜、ずっと剣の手入れしてたわね」
セリナが柔らかく目を細める。
「落ち着かなくて……何かしてないと、気が変になりそうで」
「真面目ね。でも、それでいい。心を殺して突っ込むより、心を保ちながら戦うほうが難しくて、大事なことよ」
沈黙が落ちた。
外では隊の馬が嘶き、荷車の車輪が土を軋ませる音がする。
カイがぽつりと聞いた。
「……セリナは、王都のパン屋、よく行ってたんですか?」
セリナは少し驚いたように目を見開いた。
「ええ。隊の訓練帰りによく寄ってたの。私の好きなパン屋があってね。あんバターが名物なのよ」
「俺もカイも、行ったことないんだよな」
マークが小さく苦笑する。
「ええ。知ってるわ。あなたたちの話、以前聞いたもの」
セリナは懐かしそうに目を細めた。
「帰ってきたら……一緒に行きましょう。案内してあげる」
「ほんとに?」
マークが目を輝かせる。
「もちろん」
少し照れたように笑いながら、セリナが続ける。
「もちろん――私のおごりでね」
カイはその横顔を見つめた。
訓練の時も、天幕の中で雑談を交わす時も、セリナはいつも凛としていた。
だけど今、ほんの一瞬だけ見せた優しい表情に、胸がぎゅっと締めつけられる。
この人を、守りたい。
その想いが、言葉ではなく身体の奥から湧き上がってきた。
「カイ?」
セリナが不意に呼ぶ。
「……あ、はい。行きましょう、必ず。あのパン屋に」
その時、角笛が鋭く鳴り響いた。
合図だ。出陣の刻限が来た。
セリナが立ち上がり、鎧の紐を軽く締め直す。
「行くわよ。後ろは私が守るから、安心して前を見てなさい」
カイとマークも荷物を担ぎ、彼女の後に続いた。
隊列の最後尾に加わりながら、カイは空を見上げる。
分厚い雲の向こう、わずかに光が差し込んでいた。
あの光が、彼らをどこへ導くのか――それは、まだ誰にもわからなかった。