初陣
朝靄のなか、軍営には金属が擦れる音と、馬のいななきが響いていた。
訓練といえるほどの準備もなく、カイたちは前線へと向かうことになった。
「よく聞け」
セリナ中尉の声が、全員の耳に届いた。
「この任務は“前哨戦”だ。重要なのは、死なないこと。それ以外はどうでもいい」
仲間の誰かが、緊張のあまり小さく笑った。だがその顔は引きつっていた。
カイも剣の柄を握る手が震えているのを隠せなかった。
「カイ」
馬上のセリナが彼を見下ろす。
「君、走るのは速い?」
「……人並みに、です」
「なら、戦況が崩れたら、すぐ後退しなさい。いい?」
カイはうなずく。
だが、そのとき彼は、妙な感情を抱いた。
それは恐怖でも尊敬でもない。
——守られている、という感覚だった。
*
戦場は、想像以上に静かだった。
森を抜け、視界が開けた丘の上。そこに、帝国軍の斥候部隊が展開していた。
「交戦距離、200……もう少し前へ」
セリナが冷静に指示を出す。
カイの心臓は破裂しそうだった。呼吸が浅くなる。
マークが隣で剣を抜いた。
「……やれるか?」
「……やるしか、ないだろ」
その直後だった。
「——敵襲ッ!!」
矢が唸りを上げて飛来する。
誰かの首が吹き飛び、地に転がった。叫びが上がる。視界が血で染まる。
カイは思考が止まりそうになるのを必死でこらえ、剣を構えた。
だが、震えが止まらない。足が動かない。
「カイ、下がれッ!!」
セリナの声が飛ぶ。
その瞬間、目の前に帝国兵が迫った。
——ガンッ!!
甲冑がぶつかる音。刃が交錯する金属音。
目の前でセリナが剣を弾き、帝国兵を斬り倒した。
「今じゃない。死ぬのは、今じゃない!!」
彼女の目は、怒っていた。それと同時に、何かを守ろうとしていた。
カイは、初めて理解した。
この人は、誰かを生かすために剣を振るっている。
そしてその“誰か”に、自分が含まれていることに、心が震えた。
戦闘は混乱の中で終了した。
敵は退いたが、こちらも多くの犠牲を払った。
夕刻。
戦闘が終わり、カイたちは軍営の天幕へと戻された。
濡れた地面に腰を下ろすと、兵士たちに一つずつ配給の壺が渡された。
温い粥。干した根菜。小さなパン。
それでも、死と隣り合わせの中ではごちそうだった。
「食べておけ。明日はもっとひどい一日になる」
そう声をかけてきたのは、他でもないセリナ中尉だった。
彼女も自分の分を受け取り、近くに腰を下ろす。
カイは思わず、目を見開いた。
「中尉殿も……一緒に?」
「将校だろうと、飯の味は変わらないわ。食事くらい、同じ場所で摂ってもいいでしょう?」
微かに笑うその横顔に、カイは戦場で見た鋭さとは別のものを感じた。
彼女も、普通の人間なのだと思えた。
「……ありがとうございます。助けてもらって」
言いながらも、粥をかきこむ手は止まらなかった。
「礼を言うなら、戦場が終わってからにして」
セリナは粥をすする合間に言った。
「君は、まだ死にそうな顔をしてる」
「……怖くて、足が動かなかった。俺、たぶん……誰かの命を奪った。たぶんそれで生き延びた……」
声が震えた。食べ物の味もわからなくなっていた。
セリナは、それを黙って聞いていた。
そして、静かに言った。
「最初の戦で震えない人間はいない。私もそうだった」
彼女は少し目を伏せた。
「でも、明日も君は剣を持つ。震えたままでいいから、剣を捨てないこと。戦場は、それだけで生き残れる」
その言葉に、カイの胸に小さな火が灯った気がした。
そして同時に、彼ははっきりと自覚した。
この人の言葉を、もっと聞きたいと思っている自分に。
これは戦場の錯覚か、尊敬か、恋か。
その正体は、まだわからなかった。
ただ確かに、彼女の隣にいたいと思った。