徴兵の朝
朝露がまだ土を濡らしていた。
風もなく、どこまでも静かな、田舎の朝。カイは畑の端に腰を下ろし、土に染まった掌を眺めていた。
「……終わったな」
そう呟いたのは、畑仕事ではなく、目の前に貼られた紙切れのせいだった。
村の掲示板には、王の印が押された紙が数枚、風に揺れていた。
『緊急動員令』——それはこの国の若者にとって、死刑宣告とさして変わらない。
「お前もか、カイ」
声をかけてきたのは、幼なじみのマークだった。肩から古ぼけた荷袋を提げ、泥のついた靴を引きずっている。
「見たか、あの紙……あいつ、動員令なんて、また大げさなもん書きやがってよ」
「マーク……」
「なぁ、オレらが何した? 村で畑耕してただけだろ。戦争なんか、貴族の道楽だろうが……なんでオレらが、殺し合わなきゃならねえんだよ」
カイは返せなかった。ただ、手にした徴兵状を握りしめていた。
王国は、いま戦争をしている。ヴァルド帝国との全面戦争。
遠い話のように思えていたが、ついにそれは、足元にまで届いた。
その日の午後、彼らは村を出発した。馬車一台に数十人の若者。
兵士になるための訓練も、猶予もなかった。国が欲しているのは“兵”ではない。
ただの「肉壁」だった。
数日後、前線の軍営に着いたカイたちは、配属先を割り振られた。
名前を呼ばれたカイは、不安げに一歩を踏み出す。
「第三小隊所属。上官はセリナ中尉だ。すぐに顔を出しておけ」
セリナ。
その名を聞いた瞬間、なぜか胸の奥が妙にざわついた。
———
夕刻、指定された天幕の前でカイは軽く咳払いをした。
「……カイです。新しく配属されました」
「入って」
低く、涼やかな声。
中に入ると、そこには一人の女性士官がいた。淡い銀髪を肩に流し、冷たい目を地図に落としている。
「私はセリナ中尉。君は歩兵? 剣の扱いは?」
「……ほとんど素人です」
「なら、死なないように気をつけて。私も、君の死体を拾う暇はないから」
一見、冷たい言葉だった。
だがその横顔には、多くの死を見てきた者の影が宿っていた。
カイは、なぜかこの人に守られたいと思った。
そしてそれと同時に、自分の命が他人任せでしかないことにも気付いた。
———
その夜、寝床の藁の上でカイは、黙って天井を見上げていた。
マークはすでに寝息を立てていた。
遠くで雷のような音が鳴っている。前線の砲撃だろうか。
彼は拳を強く握りしめた。
この戦争で生き残れる保証は、どこにもない。
だが今はまだ、恐怖よりも現実感のなさの方が勝っていた。
——明日から、戦争が始まる。
彼はそう思った。
まだ、このときは知らなかった。
自分がこの戦争で何を失うのかも、そしてその結末に何も残らないことも。