第三話「顔にヒビが」
それを理解した瞬間、自分でも驚く程の声量で叫んでいた。
「(何これ⁈ 何かの病気っ?)」
私はまだ化粧をしていない。
それに肌がヒビ割れる程乾燥もしていない。
であるなら思考の向く先は病気。しかし深く考え込むよりも先に両親が慌てて洗面所へとやって来る。
「佐奈、どうした!」
ノックをせずに洗面所のドアを開けたお父さんが叫ぶ様に尋ねてくる。
「ひ……ヒビ。かか顔に……ヒビが……!」
動揺が隠せぬまま鏡の方を指差す。
「ヒビ……?」
しかし顔にと言っても鏡を指差されては鏡の方を反射的に向いてしまう。
鏡にヒビらしき物が見当たらず二人とも怪訝な表情を浮かべるだけであった。
「ヒビなんてどこにあるんだ?」
鏡を指で撫でてヒビを探しながらお父さんが訊いてくる。
「鏡……じゃなくて、か、顔に……顔にヒビが」
そこでようやく自分が鏡を指差していた事に気がつき訂正する。
さらに顔を上げてヒビの部分を指差す。
指が震えている。
「……どこに?」
「ここ……鼻のつけ根に──っ」
「んー?」
お母さんが私の顔をグイッと上げ、目を細める。
お父さんもお母さんを避けて横から覗いている。
「どこ」
「え……だから鼻だって」
鏡で見つけられたのだから肉眼でなら簡単に見つかるはず。
なのになんで分からないの!
「ここ。ここにヒビが! 何かの病気かな?!」
だから少し声を荒げてしまった。
普段ならしない行為だが、今はそれを制御出来る精神状態ではない。
しかしお母さんは特に気にする事なく、私の鼻を優しく擦る。
そして三度の「どこ」を告げられる。
「ただの見間違いじゃないのか?」
それはお父さんも同じらしく、私の誤認だと言ってくる。
「え? え?」
二人から認知されないために自分が間違えているのではないかと思えてきた。
「寝ぼけてたんでしょ。それより早く支度手伝って。私早いのよ」
お母さんはそれだけ言って洗面所を出て行ってしまった。
お父さんも「早く目を覚ましてママの手伝いに行ってあげな」と言って出て行った。
残された私はただ呆けるだけだった。
しかしすぐに思考を今の状態を確認すべく鏡に視点を移す。
「やっぱり、ある……」
鏡には先程同様にヒビのある顔が映っている。
不思議に思いつつもこれ以上お母さんを待たせてしまうのは良くないので、とっととお母さんの手伝いに向かう。
ただヒビの事は気になるけど気持ちは切り替えないといけない。
“いつも通り”の私に切り替える。
朝食などを終え、登校となったけど少し心配なのでマスクをつけて行く事にした。
深く着ける必要があるのでちょっと恥ずかしいけど、万が一にでも他人に見られて騒がれたら困る。
なので我慢しつつ教室へと向かう。
今日は道中で誰にも話しかけられなかったので多少気楽にここまで来れた。
入る前に一度深呼吸をする。
「おはよう」
多少声を張って挨拶をする。
その声に反応して何人かの人が挨拶を返してくれる。
良かった……
安堵しつつ自分の席へと向かうが、途中でクラスメイトに声をかけられる。
「佐奈さん、おはよう」
いつも本を読んでいる彼女は大人しくお淑やかな性格のためか、雰囲気が大人びていて自分とは違う年齢なのではないかと思えてしまう。
そんな相手が声をかけてくれるようになって少しだけ嬉しいと感じている。
「おはよう。今日はなんの本を読んでいるの?」
「昨日本屋さんで見つけたサスペンスホラーです。B級感が強いなので、読んでいて笑える程つまらない所が面白いです」
「ええ、サンペンスなのに?」
「はい。サスペンスなのに、です」
うん。本の趣味は少ーし独特だけど、悪い人ではない。
「良ければ今度読みますか?」
「うん。その本とは別ので面白いのをお願い」
彼女の申し出を自分が読める程度の物に修正して自分の席に着く。
オススメとはいえ流石にサスペンスホラーは読みたくない。ましてやただの普通系ではなく、B級感強めの。
「九重さん風邪?」
今度は斜め横に席がある男子が尋ねてくる。
「朝から少し鼻が辛くて。でもすぐに治してみせるよ」
私は席についてから答える。
こんな感じで大丈夫、なはず。
それからも登校してきた友人達に同じ質問や心配の声をもらった。
嬉しい反面、騙している感じがして申し訳なくも思う。
ただ気がつかない内にマスクが少し下へズレていても、誰かがヒビについて尋ねて来る事はなかった。
そのためやっぱり自分が寝ぼけて見間違いをしたのでは? と思うようになっていた。
「ごめん、少しお手洗いに行ってくる。先に食べてて」
昼休みの食事前に催してしまう。
いつも一緒にお弁当を食べている皆に断りを入れてからトイレへ向かう。
「(まさか先生にまで心配されるとは思わなかったなぁ。多分何か頼み事でもあったからだと思うけど)」
「──んねぇ」
スッキリしてトイレから出ようとした所で誰かがトイレに入って来る。
うぅ、トイレから出る所って恥ずかしいから見られたくないんだよね。
気恥ずかしさからドアノブに伸びていた手を戻してしまう。
そしてダメなのは分かっているけれど、こういう時に限って音姫の一つも鳴っていない静かな空間ではその人物達の話し声が耳に入ってきてしまう。
「しかもこの前も四組の男に告られたんだってさ。マジでキモいんだけど」
「何人目だよ」
少し大きい声で喋っているため鮮明に聴こえる。
「(誰かの悪口? キモいってもしかして私……じゃないよね? 流石に)」
彼女らの話に意識が向いてしまう。
他人の会話が気になって聞いてしまう自分が嫌だと感じつつも、ドアに耳を向けてより音を聞こうとする。
「男もあんな女のどこが良いんだって話。ブスじゃん」
「ねぇー。どうせ色目使ってあの胸で誘惑してんじゃない? マジキモい」
「死ねよビッチ」
……随分と過激な会話。
他人の会話を盗み聞きしておいてアレだけど、言い過ぎだと思う。
流石にあそこまで言われたら誰かは分からないけど、相手の子に同情してしまう。
「(それにしてもトイレでこんな会話しなくても……誰が聴いているかも分からないのに)」
個室なのだから誰かが入っているのは分かっても、誰がいるかまでは分からない。
だから不用意にそんな話はしない方が良いと思う。
それこそ放課後の誰もいない時間にでも──
「あ、そうだ。今度皆にさー、言いふらさない? 九重佐奈はおっさんと援交してまーすって」
「(…………え?)」
「良いねそれ。ついでにハゲ先から評価貰ってるとかどう?」
「サイコ! マジ天才。とっとと退職してどうぞ、だし」
彼女らが噂を流す事で盛り上がっている端で、その悪口と噂の当人であった佐奈は思考の渦に埋もれていた。
「(え? 私? どういう事? なんで? 援交なんてしてない、そこじゃない。どうしてあんなに嫌われているの? 男子に色目を使った? そんな事した憶えなんかない。仕方も知らない。告白? もしかして五日前のあの人の話? なんで知ってるの?)」
答えの得られない自問自答では、疑問の方が増えていく。