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part 4 最後の朝(完)

<登場人物>

・東京: 林愛良はやし あいら:日本人

・東京: 坂本崇高さかもと たかし:日本人


・香港: しゅう師匠:古く続く武道流派の師匠。

・香港: 蕭明龍しゅう めいりゅう:表向きには師匠の長男ということになっている。実際は師匠の甥(師匠の弟の長男)。

・香港: 蕭明陽しゅう めいよう:実際は師匠の長男だが、師匠の次男で明龍の弟ということになっている。


・台湾: 張忠誠ちょう ちゅうせい:武術ライター。

 13_最後の朝


 愛良が目覚めた早朝、まだ外は暗いようだったが、彼女は部屋を出て廊下を歩いていった。

 下の道場から、誰かが稽古しているような物音が聞こえる。

 階段を降りようとして、下に明龍がいるのが見えた。

 愛良は彼の元に行こうとして階段を降りかけたが、サンドバッグを相手に真剣に稽古している姿を見て、邪魔をしてはいけないと思い、また上がろうとした。

「遠慮しないで、降りて来いよ」

 明龍が愛良を見て、おいで、と手招きするので、愛良はおはよう、と言いながら階段を降りて行った。

「おはよう、よく眠れた?」

「ありがとう、よく眠れたわ。さっき時計を見たら5時20分だったけど、こんなに早くから稽古してるのね」

「いつも5時から始めてる。早朝のほうが集中できるんだ。君もそうじゃない?君は何でこんなに早く起きて来たの?」明龍は愛良と一緒に椅子に座る。

「何となく目が覚めて、廊下に出たら、音がするから、多分あなただと思って見に来たの」

 明龍が自分を見つめているような気がして愛良は目をそらした。

「ごめんなさいね、邪魔して」

「邪魔じゃないよ。君が早く起きてくれたおかげで、君といる時間が少し増えたね。今日帰ってしまうのが残念だ」

「私も、みんなとお話しできて良かった」明陽が仇討ちに夢中になっていたおかげよね、と愛良は笑う。

「俺たちは分派の君のことは知らなかったけど、君は何年か前に俺たちのことを知たんだろう?いずれ訪ねて行こうとは思ってた?」

「忠誠も言ってたけど、私たちのような分派から正統派に名乗るなんて、おこがましくてできないわ。こちらから、おたくの先祖を殺しましたけど仲良くしましょう、なんて言える?しかも、お宅はこんなに立派なお屋敷に住むお金持ちで有名人だけど、私たちはただの庶民よ。物乞いに来たみたいだわ」

「俺たちは同じ流派だ。別れているなんて思わないでくれ。不幸な出来事で別れることになったかもしれないけど、今の俺たちには関係ないし、忠誠も君も、立派に継承してきたじゃないか」

「ありがとう」

 明龍はうなずいて立ちあがり、愛良に向かって構えた。

「手合わせ願える?」

「いいわよ。あんまり本気出さないでね。あなた強いんでしょ?」愛良は立ち上がった。

「君が喜んじゃうくらい強いよ」そう言って明龍は笑った。「じゃあ最初はゆっくり。君はさっき起きたばかりだからね」

 一二三四…と緩やかな動作から2人の対戦は始まる。

「あなたは動きがしなやかね」

「強い事はもちろん第一だけど、見た目の美しさについても、研究している。なるべく上品に見えるようにね。君の動きも綺麗だったよ。スピードがあって、気分が乗ってる時なんて最高に良かった」

「ここで、蹴りいくわよ?」

 愛良がゆっくり蹴る真似をすると、明龍がそれをよける。

「それから、どっちに突きが入る?」明龍が聞く。

「ここ。私の蹴りをよけた今のあなたの姿勢を崩すには、ここを突くのが最適だから。反対意見ある?」

「ない。じゃあ、ここを突く前に俺はどうやって反撃すればいい?」

「それはあなたが考えて。それに、その時、実際の蹴りがどの程度入ったかにもよるわ」

 2人は一度離れた。

「じゃ今のやつ、実際のスピードで蹴ってくれよ。本気出していいから」

「ええ。じゃ、蹴るわよ」

「どうぞ」

 明龍は構える。「本気でね。本気で蹴るんだよ」

 愛良は蹴ろうとして、やめた。

「どうしたの。本気でって言ってるだろ」

「待って、今呼吸を整えてるんだから」

 愛良は蹴ろうとしたが、またやめた。

「どうしたの」

「あなたを本気でなんて蹴れないわ。だってあなた、優しいもの」

 愛良は照れたように微笑んだ。

「聞いたかよ」

 2階から覗き見していた明陽は、同じく覗き見している隣の忠誠に言う。

「優しくて蹴れないって、俺は蹴りまくられたぞ!それこそ本気で」

「君の事は、憎かったんじゃない?大切な男を人質に取られたんだからさ。それに、君は愛良に全然優しくないじゃないか」

「全く女ってのは。優しくしてほしかったら言えよ、いくらでも可愛がってやるのに!ツラのいい男は得だぜまったく」

 いいから蹴って、と言う明龍に愛良は、蕭師匠のあと取りに怪我をさせられない、と言い訳している。

「弟にはあんなに真剣に指導してたのにずるいよ。俺もあんな風に教えてほしいんだ」

「じゃあそんなふうに、にこにこ笑ってないで、もうちょっとあの時の明陽みたいに闘争心をむき出しにして、怒った顔してくれる?さっきサンドバッグを叩いてたくらいの表情で向かってきたら、私も本気を出せると思うわ。お互い笑ってたらだめよ、本気なんて出ないんだから」

「難しいな。君を殺すつもりでいかなきゃだめかな。じゃ、俺からいくよ?」

「だから、そうやって笑わないで」

 明龍の蹴りを腕で遮る愛良。2人とも吹き出す。

「こんなの稽古にもならないわ。何で笑ってるのよ」

「君が笑うから」

 明陽は2階でやきもきしている。「うわ、下らない茶番。何やってんだよ兄貴。あんな女、さっさと押し倒しておっぱじめろよ」

「確かに君はうらやましかったよ」

 忠誠は言った。

「弟子のいない彼女に、あんなに真剣に指導してもらって。貴重な体験をしたね」

「そうか?」

「昨日の愛の告白も唐突で良かったし」忠誠はからかうように笑う。

「あれは違うって!」明陽は下に聞こえないよう小声で叫んだ。

「俺は別に、愛良を好きだとか思ってないからな。俺は別にああいう女はタイプじゃないんだ。お前、どこかに書くなよ変なこと」

「書かない書かない。彼女に関係することは絶対に公の場に書かないよ。書かないから、今度蕭師匠でなにか話題があったら真っ先に俺に回してくれよ」

 そこへ蕭師匠もやって来た。おはようございます、と丁寧に挨拶する忠誠。

「おはよう」と師匠が返したので、明陽は父親に、静かに、と言いながら下を指差し、身を隠すように指示する。

「どうしたの早起きしちゃって」明陽は父親に聞く。「しかも髪も服も整えて髭までちゃんと剃っちゃって。珍しいじゃん。愛良のためにおめかし?」

「まあ、この家に女性がいるんだから、なるべく嫌われないようにしようと思ってね。年寄りがむさ苦しくしていたら、嫌われるだろう?」師匠は身を隠しつつも、下の2人が気になって覗き込もうとしている。

「親父まで本気出してるよ」明陽は忠誠に笑いかける。

 下では再び仕切り直して、さっきより早めのスピードで練習が始まっていた。

「そう。もうちょっと強めに来ていいわ。ちゃんと受けるから」

 愛良は明龍の蹴りを身をかがめてかわしてから、彼の腕を掴んで後ろを取り、ひざまずかせる。

「手加減しないでよ。今、本気じゃなかったでしょう」愛良は掴んだ手に力を込める。

「まあ、殺すつもりはない事は確かかな」

 愛良は笑って明龍を解放する。

 明龍はそのまま身をひるがえして愛良に足払いを食らわせようとするが、彼女にかわされる。

「あなたのほうが体が大きい分、私から見たらあなたの予備動作が目立つのよ。なるべく早く動作するか、体全体は動かさないようにするといいわ。これは、自分より小柄な人が相手だった場合ね」

 明龍は向きあった愛良の首元に突きを入れたが、これも彼女に遮られる。

「だめ。遅いわ」

 愛良は同じように明龍の首元に突きを入れる。明龍は遮るのに失敗し、愛良は突きを寸前で止めた。

「これくらい早くね。でも、男性はかえって筋肉が俊敏さの邪魔になってるのかも。私は筋肉がないから分からないけど」

「どうやったら君に真剣に相手してもらえるか、だんだん分かって来たぞ。君もちょっと本気になってきたんじゃない?」

「私もこれくらいのあなただったら、笑わないでお相手できるわ。でも私の攻撃は絶対によけてよ?今日あなたに怪我させて、そのまま日本に帰ったら、まるで逃げ帰ったみたい」

「俺に怪我をさせる自信がある?それなら賭けをしない?俺が勝ったら君は帰国を延ばす。君が勝ったら、今日帰国する」

 忠誠と明陽は、やるじゃん、というふうに顔を見合わせた。

「兄貴も大胆な愛の告白するなあ。愛良が兄貴に惚れてたとしたら、わざと負けるかな?」

「負けないだろ?彼女ならむしろ喜んで勝つだろうね」

 愛良はしばらく考えていた。

「その賭け、あなたのほうが強いんだから、私のほうに分がないわ。こういう賭けは対等にしなきゃ」

「どうして?俺は君のほうが強いと思う。だから俺はこの賭けに挑戦する。君は多分俺を負かすだろうけど、もし仮に君が負けたら、もうちょっと俺といたいと思ってわざと負けたと解釈しよう」

「勝手な解釈ね」

 明龍は攻撃をしかけた。「ちょっと!」

 愛良は遮る。「待って。挑戦を受けるとは言ってないわ。あなたは本気を出したら強い人だから、今の条件はだめ。もちろん、どっちが勝つかは分からないけど、帰国は延ばさないわよ?」

「挑戦を受けてくれ。君と真剣に戦いたい、同じ流派の武道家として。いいだろ?」

 挑戦を受ければ、愛良が武道家として、蕭明龍と拳を交わす貴重な体験になることは確かだ。

 明龍は、行くよ、と構えてみせる。

 明龍の構えを見て、愛良は思い出した。明龍の動画を初めて見た時も、こんな構えから映像は始まっていた。そして彼の洗練された動作を見て、普段は人と対戦しようと思ったことがない愛良でも、彼と対戦したらどんな風だろうと思ったことがあったのだ。

「仕方ないわね」愛良は笑った。「挑戦を受けるわ。あなたたちは兄弟してわがままね。人に挑戦する時に、いつもそうやって押し切るんだから」

「受けてくれるんだよね?ありがとう」

「仕方なくよ?じゃ、来て」

 明龍の、突きからの蹴りが最初に愛良を攻撃するが、彼女は軽くかわして彼に反撃する。

「なかなかいい出だしね」愛良が余裕で笑う。

「油断するなよ。本気だから」

 2人の動きにスピードが出て来る。愛良の蹴りが明龍の胸に入り、明龍は後退する。

「どうしたの?私の動きを見て。全体で見るのよ」

 愛良の手や腕が明龍の上半身を攻撃するが、彼もそれをかわして反撃する。

「突いてから足が出るのが遅いわ!私の動きを良く見て動作を合わせるようにすれば、入るはずよ」

 もう一度愛良の蹴りが入って明龍は床に転がるが、すぐに起き上って構える。

「私の手足の動きに惑わされ過ぎてるわ。動きって言ったのは軸のことよ。分かる?私の軸を見て。パターンがあるの」

「言ってることが、かけらも分からない」

「言葉にするのが難しいのよ。かかって来て」

「君から来ないの?」

「じゃ、遠慮なく」愛良は構える。「怪我しても知らないわよ。あなたが真剣勝負って言ったんだからね。蕭師匠には、自分から挑戦して怪我しましたって言うのよ?」

「俺に怪我をさせてから言いなよ。できるならね」

「覚悟しなさい」

 愛良は明龍に攻撃する。

 愛良の肘が彼の頬に入る。

「ごめん、顔殴っちゃったわ」許してね、という顔をする愛良。

「女性に殴られたのは初めてだな」嬉しそうな顔をする明龍。

「もっと真剣にやりなさいよ」愛良はそのまま肘をずらして胸の上を突く。そしてわき腹に蹴りを入れた。

 愛良は明龍から離れた。

「はい、挑戦を受けて、ちゃんと真剣勝負してあげたわよ、満足した?」

「嘘だろ、もう?今ので終わりはないよ。決着をつけたいんだ」

「そんなこと言ったって、私が今日帰るのは確定してるんだから、あなたが勝っても帰るわよ」

「じゃあ帰るってことを、俺に思い知らせてくれ」

「怪我するからやめておきなさい。本当に、私の尊敬する蕭師匠の大事なお弟子さんに、怪我させられないわ。私が蕭師匠に怒られてもいいの?」

「俺の凄い所を、全然知らないで君を帰すわけにはいかないよ。君の凄い姿も見たいしね。君の一番凄い所ってどんなふうなんだろう」

 明龍がストレートに突きを食らわせてくるが、愛良に軽く腕で遮られる。

「俺が君に挑戦したのは、俺がどれだけ凄いかを、君に思い知らせてやるためだ」

「分かった、続けるわよ」愛良は遮った腕で明龍の拳を押しやる。「今のは早くていい突きよ。普通この体勢でストレートに真ん中狙ってくるなんて思わないから。戦術を変えたわね」

 次に明龍は蹴りを連続で入れて来るが、愛良は後退しながらよけて、当たらない。

「後ろは壁だけど?」

「知ってるわ。勝ってるつもり?ちなみに今の蹴りの高さは良かったわ。フォームも綺麗。軸足もぶれてない。それだけ本気なら、面白いから続けてあげる」

 明龍が思い切り蹴るふりをすると、愛良は後退し、彼の突きを遮る手が僅かに遅れる。

 明龍の突きが愛良ののどの下に入った。

「今、喋ってたから、攻撃に対する集中力が落ちてたね。そうだろ?」明龍が批評する。

 明龍は突きの状態を保ったまま、止まる。愛良がつばをゆっくり飲み込むのが、明龍の指を通して感じられた。

「何故止まるの?そのまま攻撃するチャンスよ」好戦的な表情で明龍を見る愛良。

「ほう、君はもう次の手を考えてるんだね。素晴らしい」

「真剣勝負なら、当然よ。これくらいで勝負が決まるようなつまらない戦いをするなら、最初から受けてないわ」

 明龍が余裕の笑みで愛良を見るので、彼女は彼を睨んだ。

「あなたの凄い所っていうのは?早く見せて?」

「君にそう言ってもらえるなんて、ぞくぞくしてきたよ」

 明龍が愛良ののどを捉えたまま、一歩前に出たので彼女は身構えた。

「その前に教えてほしい」明龍は急に愛良に質問した。「俺と明陽との違いは?」

「彼は武道家として、いい意味で正直よ。彼のほうが、戦っていて分かりやすいわ」

「つまり、馬鹿ってこと?」

「そうね、悪い言い方をすれば。でも裏がないという意味で、正々堂々と戦ったと思うわ。私に全てを見せたから。質問も、正直すぎる質問しかしないから、答えやすかった。ある意味彼は怖れを知らないのね」

 俺褒められてる?と困惑の表情で忠誠を見る明陽。師匠は愛良の話を感心して聞いていた。

 愛良は続ける。「例えば彼が、単に馬鹿だったとして、あなたが馬鹿じゃない武道家だとすると、あなたは馬鹿じゃない分、正直でもないわ。あなたがものを考える時、まっすぐに目的に向かって考えるのではなく、必ず迂回して考えてるわ。あなたがある現象を見た時、それが何の目的で起こったのかを、あらゆる角度で考えてる」

「なるほどね」

 愛良はのど元にある明龍の手をどけようとしたが、彼の手は動かなかった。

「まだだ。攻撃に関してはどう?」

「彼とあなたは、攻撃に対する発想が全く違うわ。彼は目前の戦闘重視で、余計な事はあまり考えずに直感的に攻撃してくるし、その直感は大体合ってるのが彼の凄い所。その点は、彼はすごくセンスがあると思うし、師匠の素晴らしい所を立派に受け継いでいると思うわ。その点で私は彼にかなわない。あなたは攻撃というものを、かなり熟考して、間違わないよう注意を払っている感じ。なるべく無駄なことをしないように、失敗を恐れて、一つだけの正しい攻撃を絶対に成功させるよう命を懸けてるわね。私もどちらかというとあなたのやり方に近いわ。あなたたち兄弟がうまくいってるのは、きっとあなたたちの性格が正反対だからでしょうね」

 もう一度明龍の手をどけようとして無駄だと分かったので、愛良は彼の体を蹴ってどかしてから、彼が後退したところをためらわずに攻撃した。

 防御に失敗した明龍の体が倒れるのを追うように、彼の胸の上に愛良の肘が入る。

「負けた?」

 明龍の胸に肘を入れたまま、愛良は床に倒れた彼を見下ろした。

「負けてないよ?まだお遊びの段階じゃないか。勝負はまだ始まったばかりだ」

「そう。お遊びだったら、この体勢から起き上がってみなさい」

 胸に愛良の肘が入っているため、明龍は起き上がれない。愛良は見降ろしたまま、できないでしょ?と笑う。

 明龍が脚で攻撃してきそうになったので、愛良は彼を離してさっと起き上がり、構えた。

「君と俺は発想が同じで、どちらかというと頭脳戦になるな。体で戦うけど、頭でも戦わなきゃいけない」

 明龍は立ち上がりながら言った。

「そうよ。お互い不正直に、騙し合いをするのよ。同じような考え方をする分、面倒な相手でしょ。常に裏をかきながら戦わなくてはいけないわ」

 明龍が攻撃してきた突きを愛良は全て防御する。

「本当だ。なかなか手ごわいな。腕力とか体の大きさなんて関係ないね」

「関係あるわよ。物理的には私のほうが何倍も不利なんだから。大体、私が蹴ってもあなたがちょっとよけたら届かないのよ」

 明龍の拳が連続で入るが愛良は何とかかわす。しかし最後の突きが予想外に愛良の首の横をかすめ、明龍の肘が彼女の喉元に入る。

「君はあまり顔を動かさないね、でも脇にも注意を払わなきゃだめだ。俺に捕まったら大変だよ」

「今のはあなたの動きが速かったのよ。動きに翻弄されたわ」

 明龍が彼女を離したので、2人はお互いに一歩後退し、向かい合った。

「俺、強いかな」

「ええ、十分強いわ。あなたは頭もいいから、裏をかくのが大変。どこまで見透かされてるか分からないし」

「次は君からかかって来て。今度こそ本気で蹴っていいよ」

「挑戦者が、私に最初の一手を指示するの?でもいいわ。そんなに私の蹴りが欲しいのなら」

 愛良は迷いなく明龍に連続で蹴りを入れる。

 1つが明龍に命中し、彼は後退した。

「痛かったらごめんなさい。強かったでしょ?」

「ああ、君は突きも蹴りも威力が凄いね。その力は、どうやって出してるの?」

「口で説明はできないけど、とにかく力を一点に集中させて、相手に当たる時にそれを一気に解放するイメージ。女は男性に比べたら力が弱いから、どうやってそれを補うかをずっと考えていて、それで私でもできる方法を編み出したの」

 明龍は、愛良が呼吸を整えるのを少し待った。

「じゃ、次は俺からいくから覚悟して」

 明龍の素早い突きとパンチが、さっき愛良を翻弄した時よりもさらに冴えている。

 愛良は明龍の目を睨みながら冷静に防御するが、受け身に徹することしかできず反撃の余裕はなかった。明陽の時に成功していたような、相手に合わせてから自分が主導権を握るという戦術がなかなか取れない。

 誘いを諦める愛良。

 動きを止める明龍。

 お互いを見ながら呼吸する。

「俺、どう?」

「凄いわ」

 愛良は再び攻撃に転じる。しかし主導権を握っているわけではないことは、彼女も意識していた。彼女から何度誘いをかけても、明龍にはお見通しだ。

「君と弟との対戦を見ている分、俺の方がかなり有利になってるね。君が弟に与えていたヒントが本当に役立っている。君は、たとえ敵だったとしても偽らず、本当に的確なヒントを与えていたんだね」

 時間とともに、愛良の持久力が落ちつつあることに気づいた明龍が、彼女から一旦離れる。

 攻撃してこない明龍を見て、愛良は彼を待たせている事に気づく。

「あの、明龍、もし私の回復を待ってるなら」

「いいんだ」明龍は愛良の言葉を遮った。「たとえどんな状態でも、君は手加減されるのが嫌いだろう?これは手加減じゃないよ。礼儀として、君が呼吸を整えるまで待つ。俺は君を武道家として尊敬している。それに今回は、俺が無理に頼み込んで相手をしてもらってるんだし」

 明龍はそばのテーブルに積んであるタオルを1つ取って愛良に投げた。

「君ができるだけ万全の状態でいて、それで俺が君に勝てたら嬉しいと思う。負けても、君と本当に真剣に勝負することができたら、俺は満足するだろう。俺は君との勝負で満足したいんだ。君は俺に勝ちたい?」

 自分でもタオルを取って汗を拭く明龍。

「私もあなたを尊敬してるから、あなたに勝てたら嬉しいわ」

 よし、まだ勝負してくれる気はあるんだな、と思う明龍。

「今の俺の良かった所を教えてくれ」

「集中力が凄いわ。どうしてもこちらの誘いに乗って来ないし、私に主導権を取る隙を与えない。どこにも弱点がないみたい。でもあるはずよ。私はそこを落とす気でいくから覚悟して」

「君の集中力も凄いよ。こちらは息つく暇もない。どうにかして俺に一撃を与えようと、戦術を何度も変えてるね」

「あなたが裏をかくからよ」

「実を言うと、君は俺にヒントを与え過ぎたよ」ヒントというより答えをくれてるよね?と明龍は付け加える。「初めのころ、体の軸とか言ってた意味がさっき分かった。それに加えて、弟との対戦で君が弟に与えた助言があるんだから、俺は知識として相当君の戦術に詳しくなってるよ。だから今の君は、頭脳プレイの点でもかなり不利だ。にもかかわらず、俺に勝敗を決めるほどの余裕を与えていない」

「そうよ。あなたは強敵だから、たとえあなたにかなわなくても、せめてあなたに余裕は与えない。この私に挑戦することがどういうことか、あなたに思い知らせてやりたいわ。最初はそんなつもりはなかったけど、私もだんだん本気になってきたみたい。しくじったわ、きっとあなたの術中にはまったのね」愛良は笑った。

「タオルは下に落としていいよ。あとで拾っとくから」

 愛良は顔の汗を拭いたタオルを丸めて後ろに放った。

「さっきあなたは、私に関する知識がありすぎてあなたが有利であるかのような事を言ったけど、そんなことないわよ。私はそんなに甘くないわ。私は戦術なんていくらでも持ってるんだから、油断しないことね」

 愛良は構えた。

 今の言葉から、愛良の自分に対する気持ちが真っ直ぐなのを知り、明龍もさらに気持ちが高まってきた。

「さっきより、もっと積極的になってくれてるみたいだね。嬉しいよ」

「ええ、だって、本気で相手してあげないと、あなたは満足しないんでしょう?」

 明龍もタオルを置き、愛良の視線に答えてうなずく。

「そうだよ。俺が満足していないのに、君を離すはずがない」

 愛良は先に攻撃した。彼女の拳のいくつかが、明龍の上半身に入る。入ったのを見届けてから、スピンキックが2回続けて放たれ、そのうちの1つが明龍に入った。

 さすがの明龍も、それなりにダメージを受けたようで呼吸が荒くなる。

「今の蹴りはなかなかいい。君は最高だね」明龍は笑う。「君を離したくない。君のそういう、素敵なところをもっと知りたいんだ」

「見せてあげるわ」愛良はまた明龍を攻撃する。最初はうまくいったが、何度目かで防御される。

「確かに凄い。君の動きには惑わされるよ」

 愛良は防御を受け、それ以上の攻撃を諦めて、明龍から離れる。

「あなたもなかなかうまいわ。こんな頭脳戦はしたことがないから、いい経験ね。特に相手があなたなら」

 明龍は愛良に攻撃する。上半身はかわされたが、蹴りは何とか一発入った。

 2人は離れる。目を見て、お互い休む時間がまた必要なようだと理解した。

「どう?今のは」明龍は聞く。

「最後だけ失敗したわ」

「君の防御の話じゃなくて、俺の今の蹴りは?」

「良かったわよ」

「だろ?俺も、君を満足させたいんだ」

 明龍はテーブルからペットボトルを取り、愛良にいる?というしぐさをしてみせた。

 愛良は首を振った。「喉乾いてないわ」

 愛良は近くの柱にもたれる。

「私は一度に1つのことしか考えられないけど、あなたは同時にいくつもの情報を処理してるみたい」

「君は勘違いしてるね。今のが頭脳戦だと思った?」

「思ったわ。違うの?」

「俺は違うと思う。君が気づかないなら、あえて言わないけど」

 明龍は水を飲んだ。

「ところで君の攻撃の基礎は、君のお爺さんから学んだんだよね。君は基礎が素晴らしい。修行の段階で応用に踏み込み過ぎて、基礎を忘れてしまう武道家が多いと思うが、君には基礎がしっかりと身についていて、いつも基本に立ち返ってる。もしかして、お爺さんは修行に厳しかったの?」

「そんなことないわ。私の祖父は私を可愛がっていて、全然厳しくなかったのよ。だから、武術を祖父から習うに至っては、怒られたり、厳しくされたことは一度もなかったわ。祖父は私のことをとても気にかけてくれて、両親がいなくなってからは、とても不憫に思っていたみたい。そんな風に思われたくなかったけど。祖父は武道を楽しんで教えてくれたわ。私も楽しかったから上達したの。人前では披露しなかったけどね。祖父はとても小柄な人で、私よりも背が低くて、肉体的に強いという感じではなかったけど、人間としてとても強い人で、言うことは正しかったし、私はとても尊敬していたわ。祖父は私が上達していくのを楽しみに見てくれていた。私がうまくできると必ず褒めてくれたわ」

 愛良は明龍を見て微笑みながら言葉を続けた。

「もし祖父が、分派である私と、正統派であるあなたがこうして出会って、こんなふうに平和に対戦しているのを見たら、きっと喜ぶと思うわ」

「もし君のお爺さんが今、俺を見たら君になんて言うだろうな?」

「多分、素敵な対戦相手にめぐり会って良かったね、と言ってくれると思う」

 明龍は、飲みかけのペットボトルをテーブルに置き、タオルも置いた。

「いい話だった」明龍は構える。「ここからまた、君とは敵同士だね。ここまで、すごくいい試合だったと思わない?お互いに、まったく油断できないね」

「ええ。まっすぐに物を考えられないあなたをどうやって騙すか、考えながら戦うわ。騙してるのか騙されてるのか、分からなくなる時があるけど」

「体で戦い、頭脳で戦い、もう一つ既に、あるものが加わっているよ。君はそれが何か気づいてるけど、俺に悟られないよう、あえて気づかないふりをしている。だけど俺は、君の裏をかくのがだんだんうまくなってきた。君が隠しても俺は分かってるよ。気づかないふりをしているのは、そこに君の弱点があるからだ。違う?」

 愛良は構えながら、黙っていた。しかし、明龍が答えを待っているのを感じ、言った。

「やはり強敵だわ。恐ろしい相手。何が何でもあなたを倒さなければ」

「肉弾戦、頭脳戦、そして、とうとう心理戦まで来てしまったね。同じ流派で同じレベルの人間同士だからこそ、こういう勝負ができる。2人でここまで到達できたなんて、素晴らしいことだ」

 明龍は満足げに笑う。

「本気で、君の弱点がどこなのか突きとめてやる。覚悟するんだよ」明龍が素早い突きを放ち、愛良が受け止める。

「こうやってストレートに私を狙いながら、あなたは裏で別の戦略を立てているのね。今、私の目の前にはあなたがいるけど、この瞬間、背後からあなたに狙われているような緊張感があるわ」愛良は言った。

「君は結構、敏感なんだね」

「もう1人のあなたが後ろにいて、私の首を掴んでいるみたいな感じよ。まるで、もう1人の邪悪なあなたが私の体を乗っ取ろうとしているみたい」

 愛良は背後にいる見えない敵を振り払うように振りかぶって、明龍にスピンキックを見舞った。

 当たりはしなかったが、明龍が後退した時にバランスを崩したので愛良は彼を攻撃した。

 明龍もすぐに反撃する。腕と腕がぶつかり、脚と体がぶつかる。

「君は凄いよ、愛良。君は俺の最高のパートナーと言っていいくらいだ。君以上の人はいない」

「パートナー?あなたは私のライバルよ?」

 愛良は、背後に回った明龍の胸を肘で突いて遠ざけた。

「パートナーもライバルも同じだよ。結局、その相手だけを見つめている。つねにその相手を意識して、その相手に強く関わろうとしている」

 愛良は構えるのをやめ、呼吸を整えた。

「でも、今この瞬間は、私にとってあなたは、倒すべき敵なのよ。しかも、見たこともない強敵よ」

「俺の凄さを分かってくれた?君も、俺にとって最高の相手だ。興奮でめまいがしてくるよ」

 明龍は愛良に手招きする。

「おいで。君は最高だ。君の素晴らしい姿をもっと見せて、俺を満足させてくれ」

 明龍の目は自信に満ちていた。

「君の素敵な所を早く見せるんだ。見せたくないなら俺が暴くよ」

 攻撃しようとした愛良だが一瞬、躊躇した。そして、明龍の策略を感じ一歩後退する。

「逃げるのかい?」明龍は聞く。

「あなたと戦う心理戦ほど恐ろしいものはないわ。私はやっぱり、あなたの凄さなんて知りたくない」

「弱気になった?そうだろうね。肉弾戦で俺に負けようが、頭脳戦で俺に負けようが、多分君は構わないだろう。だけど俺には分かる。君は、心までは俺に侵されたくないと思ってるね」

 明龍は何も言わない愛良を、冷酷に攻撃した。

「君が弱点をさらけ出すまで、俺は諦めないよ。到達まであと少しだ。違う?」

 今は明龍のほうが優勢だ。それを認めた上で、愛良はこれを逆転させる方法を練る。

「君の姿を暴いてやる」優勢なまま、愛良を攻撃してくる明龍。

 愛良は明龍に動きを合わせ、呼吸を合わせ、そして注意深く視線を合わせる。息が乱れないように。

「最高の気分だよ。君から俺の動きに合わせてくれるなんてね」

 自分を見失いそうになるほどこの武術にのめりこんだ者同士、共通点があるはず。そして、自分の弱点に気づいた彼の、おそらく似たような場所に、彼の弱点もあるはず。

 愛良は思い切って作戦を切り替える。

「残念だったね、君の誘いには乗らないよ?」

 明龍はあくまで、愛良に主導権を渡さない。

「無駄だ。俺が君を誘っているんだよ。こっちへおいで。もっと優しくしてあげる。満足したいんだろう?させてあげるよ」

 愛良は明龍を拒否し、別の方向から攻撃を続ける。しかし何度彼から主導権を奪おうとしても、愛良は失敗していた。

「無理だね、愛良。気づかないのか?君の動きが乱れてる」明龍は笑った。「乱れてるほうが素敵だけどね」

「強引に誘うのね。いいわ、そんなに言うなら乗ってあげても」愛良は一旦、攻撃を諦めた。

「今、心にもない事を言ったね。君のことは全てお見通しだよ。君には自信があったんだろうけど、敵にヒントを与え過ぎるのも考えものだ」

 戦略が間違っている?愛良は自分に問いかけた。彼女の攻撃の基本は、心を静め集中して相手の隙を狙うことだ。心が少しざわついているのは認めざるを得ない。集中はできているが、もうすぐ限界が来そうだった。

「疲れてきただろう?悪いけど、休ませてあげないよ」明龍は言った。「せっかく面白くなってきたのに、中断したくないからね」

「結構よ、休みなんかいらないわ」明龍に分からないように小さく深呼吸する愛良。

 自分のわずかな焦りが明龍に悟られている。愛良は警戒するように、自分の動きを明龍の動きから徐々に逸らしていく。

「今さら逃げても無駄だよ。俺の誘いに乗るの、乗らないの?」

「乗るわけないでしょ。残念だったわね。くやしいでしょ?」

 明龍は、あくまで言いなりにならない愛良を見て笑った。

「いや、そのほうが面白い。俺にそんな事を言った君が、これからどんな姿になるのか楽しみだよ」

 愛良の動きが更に乱れたせいで、攻撃が明龍に入らない。呼吸だけは乱さないように気持ちを落ち着かせようとする。

「集中力が切れそうだね?」明龍は愛良に聞く。

 心理戦だ、答える必要はない。愛良は呼吸を整えて明龍を攻撃する。

 集中できていないことが明龍に気づかれているのは分かった。これからどう出るか。今ならさっきの戦略にまだ戻れる。それとも、もう一つの戦略に切り替えた方が有利なのか。

 愛良は息をしながら立ち止まった。どちらの戦略も取らずに立ち止まればどんどん不利になるのを承知で。

「君が迷うなんて」明龍の言葉を打ち消すかのように愛良は動いた。しかし、そのタイミングで攻撃したことは、今、判断に迷った事を敵の前に認めたことになる。

 心理戦で一度不利になると、なかなか挽回できなくなることを、愛良は思い知った。しかもさっき反撃した時の戦略はどうやら判断ミスだったらしい。

 ミスをミスと認めて立てなおさなければ、どんどん明龍につけこまれてしまう。愛良は冷静になろうと努めた。

 そこでやっと愛良は、さっきから失敗続きなのは、自分が明龍に操られているからだと気づく。

「あなた、恐ろしい男ね」愛良は明龍から顔をそらし、横目で睨む。

「やっと気づいてくれた?俺には、君の全てが見えてるよ。俺は既に、君を支配しているんだから」

 このまま心理的に追い詰められた状態で、集中力を切らさずに戦えば、多分失神してしまうだろうと愛良は思った。その前にこの状況を打開するためには、明龍のどこを狙えばいいのか。あるいは、どうやって油断させればいいのか。

 時間がないのに、次の一手が出ない。

 愛良の万策が尽きたらしい。

 明龍は一歩前に出る。「戦略がいくつもあるんじゃなかったの?」

 明龍は容赦なく愛良への攻撃を再開する。

「あるわよ」愛良は後退しながら攻撃をかわす。「あなたの出方次第でいくらでも」

 愛良は自分の呼吸に集中した。自分が今、不利な立場であることは認める。だが呼吸はまだ乱れていない。これだけは保たなければ。もし保つことができなくなったら、心と肉体のバランスを失って失神してしまう。

「今、どんな気分?」彼自身が優勢であることを愛良に知らしめるために、明龍が尋ねる。

 これでとどめを刺される、と愛良は感じた。最後の最後まで、明龍に隙ができるのを待ったが無駄なようだった。圧倒的優位な立場にある明龍を前に、愛良の呼吸がとうとう乱れそうになる。

「ねえ、今、どんな気分を味わってる?愛良、教えて」冷酷に尋ねる明龍。

「どんな気分って、最高の気分よ」愛良は挑戦的な目で明龍を見る。「私は今、あなたが凄い男だってことを堪能してるところ」

 一瞬空気が変わったのを見逃さず、愛良はとどめの攻撃をしてきた明龍の手首を掴んで引き、力強くねじり、身を翻して彼の後ろを取った。

 明龍の背後を取ったまま、そばのテーブルに彼の上半身を叩きつけるように押し倒してやっと、自分が楽な体勢になり、安心して大きく息をする愛良。ぎりぎりの反撃だった。明龍も疲れていたようで、そのまま息をしながらテーブルに体を預けている。

 しばらく2人とも喋れない。余裕があるように見えた明龍も、かなり精神的に消耗していたようだ。

 息が整って来た頃、明龍がやっと言った。

「君はやっぱり凄い武道家だよ。素晴らしい。でも、今ので俺の凄い所も思い知った?」明龍は息を切らせ、愛良に手首を掴まれたままちらっと後ろを振り返った。「俺に操られてる君は、なかなか魅力的だったよ。もう少しで君が失神したら、紳士的に介抱してあげようと思ったんだけど」

「よくも私を失神寸前まで追い詰めてくれたわね。あと少し長引いたら本当に危なかったわ」

「凄い戦いだったね。俺も最後に油断しちゃったな。君の集中力が切れそうで切れないのを見て、もしかして君がこのまま、俺のものになっちゃうんじゃないか、そんな気がしたんだ」

 明龍が体を起こそうとしたので、愛良は彼の手首を強めにひねって、もう一度彼の上半身をテーブルに押し付ける。

「まだよ。あなたもちょっとそのまま休みなさい。疲れてるくせに」

「俺のこと、まだ警戒してるんだ?」明龍が顔だけこちらに向けた。

「私をあんな風に追い詰めるなんて。これからお返しするわ」

「っていうことは、俺はいい所までいってたって事だね。君に脅威を与えたかな?俺のほうは、君の弱点が見えそうで見えない、ぎりぎりのスリルを楽しませてもらったよ」

「あなたのまずかった所を1つ忠告してあげる。あなたは私を限界まで追い詰めたわね。でもそのお陰で私は自分の限界がどこまでか分かったし、あんなぎりぎりの精神状態でも反撃できることが分かったわ。窮地に陥れたつもりでも、私はそのせいで更に強くなったのよ」

「君も恐ろしい武道家だね。倒そうとすると強くなってしまう」

「私たちは常に相手から学ばなきゃだめなのよ。私は今、あなたから多くを学んだわ。絶対に負けたくない相手が存在するっていうことはいいことね」

「そうだね」明龍は目を閉じて、さっきの戦いを回想した。「ところでさっき、何度君の誘いを拒否しても、君が執拗に誘って来た時の気分は最高だったよ。もう絶頂を味わってる感じ。普段からあんな風に俺のことを誘ってくれたら嬉しいな。俺、君の言いなりになっちゃうよ」

「主導権を取ろうとしただけよ、勘違いしないで」

 それを聞いて明龍は笑う。

「それと、君のほうから俺に、動きを合わせてくれたね。積極的すぎてくらくらしたよ」

「馬鹿ね、好きで合わせてあげてると思ったの?」

「思ってないよ。君が俺に、嫌々ながら合わせてくるところが面白いんじゃないか。俺の誘いに、君が嫌々乗ってくるんだから、俺の征服欲が存分に満たされたね。君を言いなりにした男なんていないだろ?それができて最高の気分だ」

「何言ってるの、言いなりになんかなってないわ。あなたも失神したいみたいね」

 愛良は後ろから明龍の首に腕を回した。

「ああ、君がしてくれるなら失神しよう。多分、幸せな気分になると思う。俺が失神したら、君が責任持って俺を介抱するんだよ?」

 愛良は腕を明龍の首から外した。

「やめとくわ。とにかく私と本気で戦ってくれたんだから、本当はあなたに感謝すべきね。とても勉強になったわ。あなたが凄い武術家だってことがよく分かったから、この経験を次の修行に生かすわ」

「勝負を終わらせないでくれよ。まだ途中だよ、いいだろ?」

「おとなしくして」また起き上がろうとした明龍をテーブルに抑えつける。

「ちょっと休んでてくれない?」

「休みたいんだけど、君が俺を掴んで離さないんじゃないか」まあ仕方ないね、君が俺に夢中になっちゃうのも、と明龍は笑う。

「離したらあなた、私に襲いかかってきそうで怖いの。この体勢で我慢して。私が安心して休めやしないわ」

 明龍は愛良を振り返った。

「そんなに俺、怖かった?」

「どうかしら」愛良は首をかしげた。

「怖がらせたのなら、ごめん。夢中になりすぎたかな」

「謝らないで、別に怖くなかったわ」

 愛良はやっと明龍の手を離した。

「座って休んで。本気で戦ってくれてありがとう」

「ねえ、ほんと?俺、やりすぎたのならごめんね。怪我はしてない?痛い所は?」

「大丈夫、どこも痛くないし、今のは冗談で言ったんだから、あなたが人として怖いっていう意味じゃないわ、もうそんなこと気にしないで」

 愛良はテーブルからタオルと、明龍の飲みかけの水を取った。

「どうぞ」愛良は明龍に微笑みながら渡す。

 明龍はそれを受け取り、愛良を見つめながら、まずタオルで彼女の額と頬を拭いてやった。

「今の戦いで、俺の良かった所を教えて」明龍は先に愛良を座らせてから自分も隣に座った。

「今のは、あなたがずっと優勢だったわ。そうね、あなたの言う通り、私に心理的脅威を与え続けるのに成功していたと思う。私が何か考えて決めようとすると、必ず私に話しかけて、集中できないようにしていたわ。私はそれを覆すことができなかった。戦略はあなたのほうがかなり上ね」

「君の戦略は、君が事前にばらしてくれて、ほとんど知ってたからね。それに、最終的には君は覆してたじゃないか。でも俺のこと、意地悪だって思ったんじゃない?」

「思わないわ。だって真剣勝負でしょ?さっきのは本当に冗談だから、気にしたのならごめんなさい。今の戦いは心理戦だから、勝つために相手を心理的に攻撃しなきゃ勝負にならなかったのよ。お互いにそれは承知の上で戦ってたわ。それに、私はあなたが優しい人だって分かってるから」

 明龍は水を飲んだ。

「戦いには必ずお互いの心理が関わって来るけど、心理戦をメインにするのは、ちょっと危険だよね。弟は君を、屈服させ支配したかったと言ったけど、正直言うと俺も、俺の攻撃に焦る君を見て、ちょっと意地悪な気分になってしまった。自分でもそれに気づいたけど、君が窮地に陥るのを見て、俺は、君をもてあそんでいるようなスリルを味わうことをやめられなかったんだ。でも一歩間違えれば、勝負の後で俺たちの友情が壊れてしまう」

「上手なやり方なんてないわ。勝負にならなくなるから。それに、手加減なしで戦ってくれないと私も満足しないの。私を満足させたいって言ってたでしょ?じゃあ手加減しないで。あなたが手加減しなかったから、私は限界を知ることができて、また強くなったわ」

 愛良は立ってテーブルの所へ行き、水を飲んだ。

「続けましょう。私もさっきのお返しに、あなたを窮地に陥れていじめてあげる」

「俺を失神させるくらい?」

「今、あなたとの戦いで学ばせてもらったことを実践するわ。でも簡単にはいかないわね。あなたは頭がいいし、私の裏をかくのがうまいから」

 上では明陽が、親父どう?今のは、と聞いている。

「2人とも凄いね。明龍があんな凄い戦い方をするのは見たことがない。しかも、それを迎え撃つ彼女も相当のレベルだ。戦いながら、常にお互いを高め合っている。明龍は素晴らしいパートナーに巡り合った」

「親父、愛良を兄貴に取られちゃったらどうするんだよ」

「明龍には彼女がふさわしいよ。お互いにこれ以上はないと言える相手だ」

「崇高が聞いたら怒るぞ」明陽は、崇高がまだ起きてきていないか、廊下を振り返る。

「お前はどうだった?」明陽がにやにやしながら忠誠に聞く。「同じ分派の女が、正統派の男に取られちゃうぜ」

「そんなことより、俺は明龍が、あんなに女性の前でデレデレしてるのが信じられないよ」忠誠は不満げに言う。「女性に対して、ああいいう踏み込んだ会話をする男じゃなかったと思うんだけど、えらく積極的で驚いてる」

「確かに。会話の内容も所々、変態じみてるしな。兄貴もとうとうドスケベの本性を現したか。愛良はよくあんな不健全な会話に付き合ってるよ」

「でも、いい男はああいう会話も許されるんだろうな。彼女と戦いながらああいう会話ができるなんてうらやましいね」

 下の2人の戦いが再開されたので、上の3人はまた黙ってそれを見始める。

 明龍に突かれ、愛良は壁に追い詰められた。

「今のはどう?」明龍は攻撃の感想を聞く。

「いちいち聞かないで。私に何か喋らせたいんでしょうけど」

「どうだったか知りたいんだよ」

「よかったって言ってほしいんでしょ?よかったわよ。だって、悪い突きなんて出さないじゃない。分かってて何故聞くの?悪い所を探してほしかった?」

 明龍は笑う。

「ただ君に、良かった、と言わせたいだけだ。君を満足させて、俺を心底凄いと思わせたい」

「もう思ってるわ。初めてあなたの動画を見た、何年も前からずっとね。あなたのその洗練された芸術的な動きを見て、凄い武道家がいると知ったの。蕭師匠のお弟子さんに、この流派をこんな風に解釈して実践している人がいると知ってとても感動したわ。私は人とは対戦しない武道家だけど、あなたともし対戦することができたらどんな感じだろうと、ずっと想像していたの。今、そのあなたが、私の目の前にいるのね。どういう訳か、私が何年も前に思ったことが叶ってしまって、何か不思議な気分」

 一瞬動きを止めた明龍を見ながら、愛良は初心に戻って彼に足払いをくらわせ、簡単にバランスを崩した彼の体を支えながら床に落とした。

「今、隙だらけよ」愛良は、倒れた明龍の片腕に自分の腕を回し、起き上がれないようにした。「急にどうしたの?」

「一瞬だよ。でも、その一瞬を君は見逃さなかったね」

「一瞬でも油断しちゃだめ。あなたは私の弱点に気づいたみたいな事を言ってたけど、たとえそれが本当だとしても、一瞬の油断で形勢が逆転したら、せっかく気づいたことが無駄になるのよ」

 明龍は笑顔で愛良を見上げるので、彼女は懲らしめるために腕を捩じってやった。

 明龍は痛がりながら笑っている。「君に負けるのも快感だな。さあ、俺を好きにしていいよ」

「あなたたち兄弟は似てるわ。褒めると調子に乗るんだから。今は対戦中よ?」

「でも、俺はかなりいい所まで行ったよ。君の心を覗き見して、そこに弱点があることに気づいたんだから。そうだろ?」明龍は横目で愛良を見た。

「さあね。そう思っていなさい。どこまで確信があるの?」

 明龍は体を起こそうとしたが、愛良がそれを許さない。

「今、一瞬油断しただけ、と思ってる人の確信なんかあてにならないわ。一瞬じゃないわよ。いきなり隙だらけになるから、私は罠かと思って攻撃するまでに躊躇したわ。その時間を合わせたら一瞬なんかじゃないわよ」

「きっと君に俺の弱点を突かれたから、俺は落ちたんだ」

 明龍は、そうだろ?という顔でまた愛良を見上げて笑った。「やっぱり君にはかなわない」

「結局武術で戦ってるんだから、あなたがどれだけ心理戦で私を追い詰めようとしても、あなた自身がその心理戦に溺れてしまったら、こんな基礎的な足払いで簡単に倒れることになるわ」

 愛良は明龍の腕から自分の腕を外した。

「俺を君の好きにするんじゃないの?」明龍は、好きにどうぞ、と寝そべったまま愛良を見る。「君の手で、俺を使い物にならなくしてくれよ」

「あなた何言ってるの?私が勝ったらあなたを好きにするなんて言ってないわよ」

 愛良は立ちあがった。「いつまで寝てるのよ。何もしてあげないわよ?変な人」

「君を失望させた?」明龍は立ちあがりながら聞いた。

「いいえ」

「良かった。俺はもうかなり君に満足してるけど、まだ君を離したくない。もう少し君に相手をしてほしいんだ」

 明龍は愛良の前に立ち、ね?と彼女を見つめた。

 愛良も明龍を見つめ、少し考えてから微笑み、息を吸い、吐いた。

「いいわ。来て」

 明龍から愛良に攻撃する。腕と腕がぶつかり合い、睨みあう。

「基礎が大事よ。あなたみたいな一流の武術家でも、基礎を忘れたらだめ」

「分かってる。だけど君と戦っていると、だんだん君に夢中になっちゃうんだよ」

 いつの間にか心理戦も頭脳戦も忘れられていた。

 お互いに基本的な型の攻撃を繰り返した後、明龍の肘を、愛良の腕が止める。

 明龍は、愛良を真っすぐ見つめながら、腕ごしに顔を近付け、「今のはどう?」とささやいた。

「さあね?」

 愛良はほんの少し笑みを浮かべ、明龍を押しやるようにして離れる。「良かったって言ってほしいのなら、こんな優しい攻撃じゃなく、もうちょっと凄いのをくれない?」

 愛良の誘うような言い方に、明龍は面白そうに彼女を見た。

「そんな風に俺を挑発していいの?君がどうなっても知らないよ」

「だって、あなたは私を満足させたいんでしょ?遠慮しなくていいのに」

「必ず満足させてやるよ。君を俺のとりこにしてみせる」

 明龍は攻撃した。

 愛良は明龍に押され気味だが、今度はむしろそれを楽しんでいる。

 愛良はもはや、勝敗にこだわっておらず、目前で繰り広げられる明龍の様々な型を受け止めるのに心を奪われていた。明龍もそれに気づく。

 明龍の上半身の攻撃が尽きると、今度は蹴りで愛良を威嚇する。

 愛良は後ろに逃げるがすぐに壁に当たるので左右どちらに逃げるのが有利か迷った時、明龍の蹴りが彼女の体に正面から入り、壁にぶつかった。

「ごめん痛かっただろ?大丈夫?」

 明龍は愛良に駆け寄り、抱き起こす。

「凄く痛かったけど今の、凄く良かったわ」愛良は笑顔で息をはずませている。

「今までで一番良かった。綺麗に真っすぐ入って力が一点に集中していたし、すごい威力ね。蹴る途中でいきなりスピードが増したみたい。あなたの蹴りってどれだけ凄いのかなって思ったことはあったけど、本当に凄い衝撃だったわ。もしかして一瞬体が浮いたかも」

 明龍が、蹴りの入った場所を心配して手で触れようとしたが、愛良はそれを止めた。

「今日の勝負では一番素晴らしい技だったわ。文句のつけどころがないくらい。さすがあなたね」

 愛良が笑ったので、明龍も笑う。

「今ので勝負あったから、もう休むわ。本気を出してくれてありがとう」

 2人は椅子に腰かけ、明龍は愛良にタオルを渡した。

「最後にあなたと対戦できて良かった。あなたの勝ちね、でも帰国は延ばさないわよ」

「いや、君の勝ちだよ。帰ってもいいけど、すぐ戻って来てほしいな」

 2階にいる明陽は、隣の忠誠に「さっき兄貴、いくらでも彼女を抱き寄せるチャンスがあったのにしなかったな」と聞いている。「お前ならさっきの場面でどうする」

「俺なら、あのタイミングで謝りながら抱き寄せちゃうかな。それで、反応を見る。だめなようなら、離す」

「そうか。お前は健全な男だし紳士だ」明陽は忠誠を小突く。「兄貴は偉そうなこと言ってるが、臆病なんだよ。抱き寄せるどころか押し倒すのが正解なのに、馬鹿だなあ。愛良もそれを絶対期待してるぞ。さっき兄貴にせまってもらえなくて、さぞ悔しい思いをしていることだろう」

「明龍はもっと最適なチャンスを伺ってるんじゃない?」彼は頭がいいからな、俺もそういうのを考えておこう、と言う忠誠。しかし明陽は馬鹿にしたような目で忠誠を見る。

「お前にチャンスなんか来ないよ。それに愛良は兄貴のものなんだから、お前なんかにはやらんぞ」

「俺は、彼女を台湾に呼ぼうと思ってるから、チャンスなんかいくらでもあるよ」

「台湾に呼ぶ?そんな簡単に来るのかね。お前なんか主従関係で言ったら使用人なんだろ?」

 しかし忠誠は、しぃ、と明陽に黙るようしぐさをし、続きを見ようよ、と下を指差す。

「さっきの蹴りは本当にすごかったけど」愛良が明龍に聞く。「あの蹴りをまともに食らった人がいるんじゃない?怪我人とか出したことある?」

「残念ながら、ある。一度だけ出た武術大会の時、わりと上位にいた人にやっちゃったよ」

「入院させた?」明龍は、ああ、と答えた。

「あの大会のルールは打撃OKだったんだ。大会に出場する前に、みんな念書を書くから、本当はよほどの反則がない限りは自己責任になって、怪我させた方は咎められないんだけど、相手が入院してしまったから一応、謝罪と花と見舞金を送ったよ。やらなくていいんだけど、こちらが金を持ってるのは向こうも知ってるし、うちは有名な道場だから、やらざるを得なかった。あと、酒も送ったな。相手は喜んでたよ」

 愛良は、私はそんなすごい人に蹴りを入れてもらって光栄だわ、言う。

「相手は俺の知らない男だったけど、なんか道場の息子らしくてね。日本ではどうか知らないけど、こっちでは、道場ってバックに怖い人がついてたりするんだよ。だから因縁つけられる前に、穏便にすませなきゃならないんだよね」

「ここの道場には、バックに怖い人なんかついてないでしょ?」

「ああ。そのためにうちは財団を設立したんだよ。怖い人とは関わり合いを持たないようにね。道場の健全さをアピールすることは、流派の尊厳と周囲からの信頼を保つのに必要だ。財団は、武術やスポーツ関係の団体に寄付金を出すことで、健全さをアピールしてるんだよ。そういう小さいことの積み重ねで、師匠は怖い人からも一応、一目置かれる存在らしい」

「そうなの?やっぱり師匠って素敵ね」

 おっと、という目で2階の明陽は隣の師匠を見る。師匠は気恥ずかしそうにしている。

「愛良、君は師匠の話になると目が輝くね」

「ええ、だって大好きなんだもの。でも、ご本人には言わないでね」

 明陽は嫉妬で師匠の腕を殴りつけようとする。やめろ、と止める忠誠。

「君が師匠を好きなのは、師匠だってもう分かってると思うけど、何で本人に言っちゃいけないの?」

「恥ずかしいからに決まってるでしょ。それに、もし迷惑だと思われたら悲しいから」

 師匠はいたたまれない表情になる。

「迷惑だなんて、絶対に思わないよ。きっと喜ぶよ」

 明龍が代弁する。

 ほら、親父が毎回お袋を引き合いに出すからだろ!と明陽が小声で怒鳴る。

「だって私、師匠の息子と大立ち回りしたあげく、あんなことしちゃったのよ。普通じゃないでしょ?師匠のベッド、占領しちゃったし。出会ったばかりなのに、図々しいことをたくさんしたわ」

「師匠は君のような武道家の戦いを見ることができて、嬉しく思ってるよ」

 明龍は愛良の肩に触れて、微笑んで見せた。2階から師匠もうんうんとうなずく。

 しかし愛良は首を振る。

「明陽の肩を怪我させたこと、私の武道家人生唯一の汚点だわ。私、彼に手加減したつもりはないけど、例えば急所攻撃しないとか、目潰ししないとか、そういう配慮はしたつもりよ。挑発するために顔を蹴ってしまったけど、本気では蹴らなかったつもり。顔面攻撃の危険性は私も認識してるから。だけど私はあの時、椅子を手にして彼を思い切り殴ってしまった。きっと傷が残るわ」

「あれは攻撃じゃないよ。明陽が君に襲いかかって来たから、君は抵抗しただけだ。弟は怪我のことなんかもう気にしてないし、師匠だって気にしてないと思うよ」

 師匠は息子に、お前はあんなに彼女に思われて幸せだな、と語りかける。親父だって、と返す明陽。

「師匠は君のこと、好意的に見てるよ。武道家としてもそうだし、無理して餓鬼道の記録にも協力してくれた。俺の言うこと、信じてくれよ」

「もし好意的に思ってくれてるとしたら、嬉しいわ」

 愛良は明龍を見て微笑んだ。

「ねえ、こんなこと聞いていいかな。師匠は君よりずっと年上だと思うけど、君は師匠を男性として好きっていうこと?」

「そんなわけないでしょ!」愛良は即座に否定する。「ご立派な方だから、心から尊敬しているっていう意味よ。武道家として素晴らしい方だから」

 尊敬してる「だけ」だってさ、と面白そうに師匠に言う明陽。複雑な表情をする師匠。

「あなたも師匠の事は尊敬していて、好きだと思うけど、それと同じ感情よ。分かるでしょ?分派の私が言うのも何だけど、同じ流派にああいう素晴らしい方がいて、誇りに思ってるの。ここだけの話よ。言わないでね」

「何で言っちゃいけないんだよ」

「だって、私があんまり師匠を好き好き言ったら、何かわざとらしいじゃない。偉い人に気に入られたくて媚びてるだけみたい」

 どれだけうちの親父が好きなんだよ、と思う明陽。

「分かったよ、とにかく、君は師匠が大好きなんだね」

「そうよ。憧れの人に会えたから、嬉しくて舞い上がっちゃってるのを必死に押さえてるの。私の気持ちが分かる?私は祖父を師匠として、祖父が死んでからもずっと修行してきたけど、ある時、ネットで検索してみて初めて、正統派の門派が存在していることが分かったのよ。それが私にはとても衝撃的な出来事だったの。そして映像で、師匠の姿を知り、言葉を初めて聞いたの。驚いたと同時に、この門派の師匠がとても素敵な人であることを知って嬉しかったわ。それから、師匠の動画を少しずつ見るようになって、まるで自分の師匠みたいに感じるようになってしまったの」

 幸せそうに言う愛良を見て、男性として好きではないと言っておきながら、目がハートマークになってるな、と明龍は思った。

「やっぱり男性として好きなんだろ?」明龍は笑った。

「違うわよ。本当に尊敬しているの」

「そう?じゃ、今回は、会えて良かったね」

「ええ、良かったわ。まさかご本人にお会いできるなんて、本当に思っていなかったから、びっくりしちゃった。でも嬉しかったわ。思った通りの優しい、素敵な人だったから。前よりももっと好きになっちゃった。もちろん、あなたにも会えて光栄よ。対戦できてよかったわ」

「香港に来てくれて、ありがとう。君と出会って、俺の人生が変わったような気がする。嵐が去った後の空みたいに、すごくいい感じになったよ」

 明龍は立ち上がった。「今日はいい天気だから、中庭を案内するよ。おいで」

 明龍は愛良の手を引いて、立たせる。

 2人は道場の奥から中庭へ出た。

「日本庭園。素敵ね。昨日、2階のベランダから見たわ」

「天気がいいと、綺麗だろ」

 明龍は、ふうっと溜息をつきながら上半身を脱いだ。

「あ」脱いでから、愛良が居心地悪そうにしているのに気づく。

「いや、いつもトレーニングは、途中から脱いでやってるんだよ。さっきはトレーニング中に君が来たから、わざと脱がなかったんだけど。俺の筋肉どう?見たくない?」

 明龍は上半身を見せびらかすように、彼女がそっぽを向いた方向に移動する。

「兄貴が完全に腑抜けの馬鹿になってるよ」向こうからは見えないように、ベランダに続く部屋の中から2人の様子を眺める明陽と忠誠、そして蕭師匠。

「分かってるわよ、今、見せたくて脱いだんでしょ。見てあげたから、すぐ着て」愛良は明龍から目をそらしながら言う。

「ええ?一度脱いだものを着るの?汚いし臭いよ。君はもてるから、男の裸なんか見慣れてるんじゃないの」

「お世辞だと思うけど仮に私がもてたとして、男性の裸を見慣れるようなもて方をしたことはないわ。まあ、あなたはもてるでしょうから、女に裸を見せつけるなんて慣れてるでしょうけどね?」

「俺も、そういうもて方はしてないんだ」

「早く、見てあげたんだから着てよ」

「着るけどその前に、俺の筋肉にさわってみたくない?」

「遠慮するわ」愛良は笑いながら、もう、しつこいわね、と言う。

「あなたは紳士だから、絶対にこんなことは言わないとはと思うけど、もし私がさわったとして、さわったからさわらせろって言われたら困るから、さわらないわよ」

「よく分かったね」明龍は笑う。「そりゃ、俺にさわったからには、さわらせてもらうよ?」

 明龍が愛良に近づいたので、愛良は一歩退いた。

「冗談はいいから早く着てね。誰かに見られたらどうするの」

「別におかしくないだろ、男がトレーニングのあとに上半身脱ぐくらい」

 明龍は、作戦がことごとく失敗したことを不満に思いながら、しぶしぶ着直す。戦っている時とは違って、なかなか愛良は乗って来ない。

「じゃあ、あなたの素敵な上半身を眺めたから、満足して帰国できるわ。ここを散歩してもいい?」

「案内するよ」

 明龍は愛良と庭園の中を歩き始めた。

「ここ、もともとはただの庭だったんだけど、俺がちょっと日本の伝統文化に傾倒していた時期があって、それでここを日本庭園にしたんだ」

「お金がかかったでしょう。維持費だけでも大変じゃない?でもお客さんが来た時はよさそうね」

「ねえ愛良」明龍は立ち止まった。

「君はいい財政観念を持ってるね。今、明陽が財団の副理事をやってるんだけど、名ばかりの副理事で、実務はしていない。君に副理事をやってもらえないかな」

 愛良は笑い、首を振った。遠くで聞き耳を立てている明陽は、何だよ!とふくれる。

「実務をしていないなら、やらせたら?やらせないで、できないってあなたが思ってるだけじゃない?」

「じゃ、君の考えは?」

「さっき私は、あなたと明陽は正反対って言ったでしょ。あなたは頭が良くて常識人で冷静で、師匠からも信頼されてるけど、明陽は明陽で案外いい発想を持ってると思うわ。例えば、あまり先の事を考えないで行動するとか、言って聞かせてもすぐ忘れるとか、妙に正直にものを言うところとか、常識にとらわれないという点では、長所になりうる性格だわ。あなたが何かに行き詰まった時、彼にどうしたらいいか聞いたことがある?もしないなら、聞いてみると多分いい答えが返って来ると思う。あなたがそれを受け入れられるかどうかが鍵になるけど。あなたは彼のこと、大切に思ってるんでしょ?」

「そりゃ、小さい時から一緒だし、何歳になっても弟はかわいいよ。弟のことは大切に思ってる」

「その気持ちをビジネスに取り入れてはいけないってあなたは思ってるかもしれないけど、ちょっと発想を変えてみたら?彼にヒントのうちの1つを尋ねるくらいの気持ちで、どうしたらいいかを聞いてみればいいと思うわ。私みたいに、あなたと同じ考え方をする人間より、あなたと反対の人間で、あなたがとても信頼できる人に仕事させたほうが、うまくいくはずよ」

 愛良は念押しするように微笑む。2人はまた歩き始めた。

「あの東屋も素敵。もしかして年代物?本物に見えるけど、あれどうしたの?」

「さすがお目が高いね」

 明龍は、自然に愛良の肩を抱いた。彼女は微笑んで明龍を見上げるので、彼は特に嫌がっていないと判断してそのまま歩き始める。

「おい、とうとう肩を抱いたぞ」明陽はペットボトルの水を飲む。「まるで恋人同士じゃないか。これならキスももうすぐだな。さっきの、さわるさわらないのじゃれ合いからは、だいぶ発展したぞ」

「ああ、ちょっとこれは、残念ながら彼女の気持ちも傾いてきてる可能性があるな。部屋で眠りこけているであろう彼氏が哀れでならない」向こうからは見えないよう、壁にはりついて2人を見守る忠誠はエスプレッソコーヒーを飲んでいる。

「全く女ってのは信用できないな。なんだかんだ偉そうな事を言って、結局最後はツラのいい男を取るんだから」

 明陽は、よく見ようとする師匠に、「親父、前に出すぎ!」と注意している。

 下では、明龍が東屋の説明をしていた。

「日本が香港を占領した時に、日本の軍人や高官が香港に住んでいたことがあった。これは日本人高官宅の庭にあったものだけど、それをここに移築したんだ。当初、戦争を体験した世代の人たちからは、占領した国のものを持って来るなんて、と批判もあったけど、俺はその時、日本の伝統芸術に夢中になっていて、建築物として素晴らしいと思ったから、歴史的価値のある建物だと押し切って、ここに移築したんだよ。そうしなければ取り壊されていた。海外からのお客さんにも好評で、今は文句を言う人は誰もいないけどね」

「他に何かコレクションした?」

「ああ。掛け軸とか、茶器とかだよ。でもお金がかかりすぎるから、コレクションはやめたんだ。今は俺のものじゃなくて、財団が所蔵してる。今度見せてあげるよ」

 ありがとう、と愛良は言い、足元の池を見た。

「錦鯉がいるわ。輸入?」

「香港の養殖業者から買ってるよ」

「この庭園をどうやって作ったの?あなたが設計したの?」

「日本庭園のこと、詳しく知っているわけじゃないから、造園業者と相談しながら作った。日本で長年修行した庭師さんに、俺の大体の意見を言って、それで業者に任せたんだ。ここに立った時に、池がここ、橋がこうやってかかっていて、あっちに灯籠と松、奥に東屋が配置よく見渡せるようにしたんだよ。こういう小さな池に、日本風の橋がかかっているのが好きなんだ。美しいよね」

 2階では、心配そうに成り行きを伺う蕭師匠を見て、明陽が言った。

「親父、兄貴の日本大好きアピールがやっと出たところを見ると、本気で愛良を落とす気になってるぜ。兄貴が彼女をモノにしたら、親父は一生手を出せなくなるぞ。地獄だな」

「それは困ったな」師匠は笑っている。

「俺はうまくいかないと思うね」忠誠が言った。「長くもたせすぎてるし、彼女がその気になってない」

「ええ?なってるだろ、肩抱かせてんじゃん。お前だってさっきは、彼女がその気になりつつあるって言ってたじゃないかよ。どう見ても女側は準備OKだ。あとは兄貴の唇を奪ったら、彼女の勝ちだな」

「だめだ、日本庭園の話が長すぎる」うまくいきっこないよ、と願望を混ぜつつ言う忠誠。

 男たちのデート批評をよそに、庭では2人が、また歩き始めているところだった。

「じゃあ君をアドバイザーかスーパーバイザーに迎えたいって言ったら、どうする?引き受けてくれる?」

「いい話ね。考えさせて」

「じらすね。即答はできない?」

「できないわ。だって私はほんの数日前まで、普通に日常生活をしてたのよ。蕭家の人たちと関わるなんて思ってもみなかったの。私には私の生活があるし、急に決められないわ」

「俺は君が蕭家のアドバイザーとして適任だと思う。是非君を迎えたい」

 明龍は、愛良と向かい合い、立ち止まらせた。

「俺はさっきの戦いで、君に夢中になっていた。君と戦っているのに、君の事が欲しくて仕方がなかったんだ」

 暫く無言で見つめ、愛良の反応を見る。

 やがて決心したように、愛良のあごに優しく手を添え、少しだけ顔を近づけた。

 愛良は、明龍が何をしようとしているか、分かったようだった。

「愛良、君が欲しい」

 来るぞ、と2階の3人がかたずをのんで見守っていた時。

 愛良は静かに顔を傾け、あごに添えられた明龍の手から逃れた。そして彼を見ながらゆっくり首を振った。

 それが彼女の答えだった。

 明龍は、黙って彼女を見た。

 愛良の肩にふれていた明龍の手が、彼女の腕を撫でながら下にすべり、彼女の手を取った。

 分かった、というように明龍は少し笑い、愛良の手の甲にキスした。

 そして、彼女の手を自分の頬に触れさせてから降ろした。

「また来てくれるんだよね?期待してていいんだろ?」

「ええ」

 2階では明陽が「ちくしょう、兄貴程度の男じゃ、あの女を制するのは無理だったのか」と言っている。「何で兄貴に落ちないのか不思議でしょうがないや。女から見たら押しが足りないのかな。何が不満なんだ?全く女ってのはわがままだ。あいつは男の価値が分かってないんだよ」

「違うよ。やっぱり今、部屋で寝てる彼氏が最強ってことなんだろ」忠誠が言った。

「あいつはやっぱり凄い男だな。ただの空手バカじゃないぞ。眠りながら戦って、うちの兄貴に勝ったんだから。これからあいつをスリーピング・ブッダと呼ばせてもらおう」

 それから明陽は父親を見る。「親父、愛良が兄貴に落ちなくて、ほっとしてるんじゃない?」

「まあ、そんなことないよ、と言ったら嘘になるかな」師匠は笑いながら答える。

「それにしても、唇がだめなら手にキスとかやっぱり兄貴は頭がいいな。俺なら考えつかないわ」

「考えつかないほうがいいよ」忠誠は言う。「あれは明龍ほどの顔と性格がいい一流の武道家だから許される行為であって、そうじゃない男がやったら犯罪で、たとえ愛良が許しても世間が許さないからな」

 何だお前、俺は兄貴に劣るっていうのかよ?と忠誠にすごむ息子を、やめなさい、とたしなめる師匠。

 庭では明龍が、愛良を伴って東屋に入るところだった。

 2人は向きあって座る。

「さっき俺が体験した、不思議な話を聞いてくれるかな。君と戦っている最中に起こったんだ」

「不思議な体験?」愛良は微笑む。「私もしたわ」

「本当?君も俺と同じ体験をしたのかな。だとしたら嬉しいんだけど」

「多分、別の体験よ。あなたの話を先に聞くわ」

「うん。でも、今から言うこと、怒らないで聞いてくれよ」明龍は少し照れくさそうに言った。

 東屋まで距離が離れてしまうと、もう明陽たちには愛良と明龍の会話が聞こえなくなってしまっていた。

「怒らないから、言って」

「君に振られたから言う訳じゃないけど、さっき俺と君が戦っていて、俺と君が愛し合っているような、そんな感覚にとらわれた。君もさっき、そんな風に思わなかったかな。俺は君と対戦してるんだけど、君がどうしようもなく欲しくなって、君を誘い込むんだ。君は俺のことを凄いと言い、俺の手の中に堕ちて、失神まではしなかったけど、とうとう俺のものになったような、ならなかったかもしれないけど、そんな感覚。何だか心の中がとてつもなく甘くて、体まで満たされたような感覚。君は感じなかった?あの場所にいながら、あの空間ではない感覚。多分君も、同時に体験してる。違うかな」

「私の体験とは違うわ」愛良は、興奮気味の明龍とは対照的に、落着いて思い出しながら言った。

「心理戦の時、確かに私たちの時空が、あの場所とは違う所にあるという感覚があったわ。だけど、私はあなたという強敵から、いかにして勝利を奪おうか、どこに集中すれば、圧倒的なあなたの存在を打ち砕くことができるか、それだけしか考えていなかったから、あなたに対する甘い感覚なんてなかった。私はあの時、エゴにとらわれていたの。あなたに負ける自分を想像したくなくて、たった一回の対戦で勝つか負けるかなんて、本来ならどうでもいいことなのに、あの時は何としてもあなたに勝ちたいと思ってしまったわ。絶対に負けられないの、あなただけにはね。あなたはあの後、私に対して意地悪な気持ちを抱いたと正直に告白してくれたけど、私も正直言って、自分でも驚くほどあなたに対して、とても感情的になっていたわ。あなたに少し反撃されただけで猛烈な怒りを覚えたの。そんな感情、とっくにどこかへ置いてきたはずなのに。すごく自己中心的で、冷酷な気持ちになっていたわ。あなたは絶対に倒さなければいけない敵。あなたは私の究極のライバルよ。私の奥底に眠っていたエゴを引き出して、完全にむき出しにさせるほどのね」

 愛良は、自分を驚いた顔で見ている明龍に、ごめんなさいね、と言った。

「1人で修行している時ってさ、本当にのめりこむと時空を超越するよね。そういう体験、君もしてるんだ?」

 してるわ、と愛良は答える。「修行僧や求道者はみんなしていると思う。この世界には自分しかいないような感覚のことでしょ。全てが1つであると気づいたり、時間と空間がその場所とは違う、無時間を体験したり」

「そうだよ。宇宙の中に自分がいるのではなく、自分の中に宇宙があるような感覚とかね。そういう超自然の体験はいつも、1人で静かに修行している時にやって来ていた。だけど今回は、君と対戦している時に起こったんだ。君とただ、楽しく真剣に愛し合って、君と1つになったような感覚。君が俺のものになり、俺が君のものになったような体験だった。俺はあそこで、君の全てを見た。つまり君が何も身に着けていない状態なのを見た感覚がある。そして俺が君の上になり、君が俺の下にいて俺を見上げ、君の息使いがすごく近くに感じられたんだ。君の息が俺の耳元で聞こえるくらいに。君が俺を好きでいてくれると分かったような、甘い感覚に酔っていた」

「あなたはあなたのエゴの中にいたのね。あなたがそういう甘い妄想の中に陥っていたことは、私も何となく気づいていたわ」

「君はあの時、俺と同じ感覚ではなかったの?俺だけがあの中にいたのかな?君は俺を愛してくれなかった?あの時だけは、愛してくれたんじゃないか?」

「じゃ、聞くけど、私が何も身につけていなくて、あなたは私の体を触った?」

 明龍はあの時の感覚を思い出した。

「触ってない」

「でしょ?」

 でも、体がぶつかり合った、何度も、と明龍がつぶやくと、愛良は、ええ、戦っているからよ、と答える。

「腕もぶつかったし、足も。そのたびに、君の体の震えを感じた。君の息使いも近くに感じた。俺が動くと君が反応するから、俺はたまらない気分になって、もっと君を思い通りにしたいと思った。俺が君を休ませてあげないと言ったら、君は俺に悟られないようにゆっくり呼吸を整えようとしていたけど、俺がそれに気づいた時、そんな君を心から愛おしく感じた。2人で向かい合って、こうして愛し合ってるのに、君は羞恥心からかな?途中から俺の言いなりにはならなくなったね。だから俺はちょっとした悪意から、俺の腕の中で君をもてあそび、君を操ろうとしたんだ。何をしても無駄だと分からせたかった。俺たちが本当は愛し合っている事を、君に認めさせるためにね」

「私はあなたと同じ感覚を共有してはいなかったわ。私はあなたを叩きのめしたいと思っていたから。もし愛し合っているなら、その時私たちキスした?」

 明龍は考えた。

「していない」

「そうよ。戦っているからよ。そんなことしてないし、顔はそこまで接近していなかったわ。あなたのエゴが幻想を見せただけ。私たちは同じ場所で戦いながら、別々のエゴの中にいたの。あなたが甘い感覚に浸っているらしいとは思ったけど、私はあなたに勝とうとして、気持ちに余裕がなかったわ。つまり私も自分のエゴを押し通すのに精いっぱいだったの。あなたはあの心理戦に陶酔していたけど、陶酔しながらも隙は全く見せなかったのはさすがね。だから私は苦戦したのよ。あなたは絶対に私に主導権を渡さなかったし、やり方がとてもうまかったわ。それが、あなたが私の上にいて、私が下にいる感覚ね。あなたと体がぶつかったし、当然呼吸も荒かったわ。そして私が私のエゴの中であなたと戦おうとしていることは、あなたも気づいていたと思う。だって苦戦する私を見て、あなたのエゴの中に私を誘いこもうとしたから。私はそれだけは抵抗したわ。あなたの誘いに乗ったら、あなたは本当に私を思い通りにするかもしれない。だからあなたを拒否したの。あなたが妄想の中で、妄想上の私に何をしようと勝手だけど、妄想上の私が本当の私にすり替わるなんてあり得ないわ。だけど、私が私のエゴから出ない限り、あなたに勝てないと気づいた時、私は自分のエゴを破壊してまで、あなたのエゴの中に入って行った。あなたが私に、今どんな気持か聞いた時がそれよ。私は自分のエゴの中であなたの動きに合わせるのはやめて、あなたのエゴに入り込んだ上で、あなたに合わせたの。どんな気持ちかって、あなたは凄い男よ、ってね」

 明龍は目を見開いて愛良を見た。

「その瞬間、妄想上の私は消えて、本当の私があなたの前に現れたのよ。あなたの妄想の恋人ではなく、武道家の林愛良がね」

「そして君のエゴの中の俺も消えて、君が本当の俺の後ろを取ったんだね」

 明龍は、あの時ただ起こった現象以上の理由があったといいう事を知って、納得した。

「あなたは本当に凄かったわ。肉体レベルで愛し合ってはいなかったけど、あなたが凄い男で、私があの時それを思い知ったのは本当よ。そしてあなたのおもわく通り、私はあなたとの対戦で満足したわ」

「俺は君を満足させたかった。君がまだ満たされていないなら、満ち足りた気分にさせてやりたいと思った。俺自身で君を満たしてやりたかったんだ。あの時だけは、君が俺を愛していると確信していた。君は気づいてないだけで、今も本当は俺を愛しているんだよ。俺はあの時、確信したんだ」

「ねえ明龍。あなたのその感覚には反対しないわ」

 思いがけない愛良の発言に、明龍は驚いた。

「本当?君も本当は、俺を愛してるってこと?」

「あなたの確信は、私の中の、あるレベルでは間違ってはいないのよ」

 誤解のないように説明するわね、と愛良が言う。「私が今、表面的に知覚しているレベルでは、私はあなたを恋人のように感じてはいない。でも私はさっきの戦いで、あなたを強敵だと思ったし、恐れてもいるし、あらためて尊敬もしたわ。そして、他の誰でもない、あなただけが私にとって、最強のライバルであり、私の師であり弟子であり、武道精神を高め合うことのできる、かけがえのない相手であることも知った。こういう感情は他の誰に対しても持っていないわ。私はあなたに向かっていきたいと強く思ってる。あなたという武道家に挑みたいの。そして、あなたの前で私を表現し、私を受け入れてほしいとも思っている。それは、男女の恋愛としての感情とは違うけど、あなたを愛しているという感情にかなり似ていると思うわ。だから私がまだ知覚し得ない精神の中の、あるレベルにおいては、他の誰よりもあなたを愛しているということになるかもしれない。あなたはきっと、さっきの戦いで、私自身すら知覚していない私の心の奥底を覗き、私の弱点を見つけたから、そう確信したのね。今の私にはまだ自覚はないけど、私の弱点は多分、あなたよ、明龍」

 明龍は感動して愛良の手を握った。

「俺の確信は合ってたんだ。君はいつも、敵に答えを渡し過ぎだよ」

 明龍は心から満たされたような優しい表情で愛良を見た。

 愛良も明龍に微笑む。

「他の誰かにこの話をしても、きっと信じてもらえないだろうな」

 明龍は、心の奥底の、深い場所で愛良に愛されていると感じた。

「あなたは私が気づいている以上に、私にとって重要な人なんだと思うわ」愛良は言った。

「そう思ってもらえて嬉しいよ。君がまた香港に戻ってきたら、すぐに学び合いたい。ところで、君がした体験というのは何?俺に対して怒りを感じたってこと?」

「じゃあ言うわね。怒らないで聞いてね。今朝、あなたが私と対戦したいと言った時から始まっていたんだけど、私はあなたに対して理解不能な感情を持ったの。あなたが対戦したいと言って私に話しかける言葉とか、私に対する攻撃、それが私にとって、何故かとても気に障るというか、怒りとか嫌悪感のような、そんな感情を持ったの。もちろん、あなた自身に対してそんな風には思っていないから安心してほしいんだけど、あなたと向き合いたくないし、あなたに近づきたくない、顔も見たくないような、そんな苛々した感情が出てきそうだと思ったの。最初にあなたの対戦を断ったでしょ。あなたに怪我をさせるかもって言ったのはそれが理由よ。何と言うか、自分の奥底にとてつもない凶暴性があって、あなたをずたずたに引き裂いてしまうんじゃないか、そんな怖れがあったわ。それは私の心の表面に現れて来るのではなく、理性のすぐ下くらいにあって、私は、理由は分からないけど、もしあなたにそんなことをしたらどうしようと考えていたの。それから、戦い始めてやっぱりそういう感情を持ちそうになったから、すぐにやめようと思ったけど、あなたがどうしても対戦したいみたいだったから受けたわ」

 明龍は聞きながら、あの時のことを思い出していた。

「でも君は、すぐに乗り気になったよね」

「ええ。それから、あなたに対する怒りみたいな感情は意識下に持ちつつ、私はまた別の感情を持ち始めていたの。こんなことを言うのは、とても恥ずかしいんだけど、いい?私にも理解不能だし、こんな感情を持ったことはないんだけど。私のこと、呆れないでね」

「どんなの?」明龍は期待しながら聞いた。

「あなたは、私とひとつになった感覚があったと言ったけど、私のほうは、あなたと私が別々のエゴを持った独立した人間であることに、喜びを感じていたの。この意味分かる?」

 明龍は首を振った。

「普通、例えば親しい友人とか、2人の人間が一体感を感じた時に、喜びの感情が起こるじゃない?それと反対なの。私とあなたが戦っているでしょ?私はあなたではなくて、私は私である。私という魂が、三次元というこの空間で、この体を持ち自由に表現している、あなたという人間とは違う、私というアイデンティティを持った私がいるということに歓喜したの。そこまでなら別に良かったんだけど、それから、あなたに攻撃がうまく入るたび、自分があなたより優れていると感じて満足したわ。あなたに攻撃し、それが成功した自分の体の隅々まで、抱き締めたいくらいに愛おしく思った。つまり、自己陶酔よ。あなたが甘い感情に酔っている時、私は邪悪な感情に酔いそうになっていたわ。あなたは私の足元にも及ばないほど弱い相手だから、私はあなたに何をしてもいいという感情を持ち始めたの。幸いにして、あなたのほうが優勢だったから、私はあなたにひどい事をしなくて済んだけど、もし私が優勢だったら、あなたは今頃どうなっていたか分からないわよ。あなたが私を挑発するたびに、ものすごい怒りの感情にとらわれそうになって、何故そんな感情を持つのか分からず混乱したわ。蕭師匠には聞かせられないわね」

「自己陶酔か」明龍が言うと、愛良はうなずいた。「でも、誰にでもある感情だ。君は自分に酔うあまり、俺を見下してたってこと?」

 愛良は済まなそうに、そうなの、と答える。「自分は万能で何でもできる存在で、あなたは私にかなわないという感覚。絶対に私のほうが強いという感覚。尊大な、奢り高ぶった気持ちが、もの凄い快楽になって私を支配しようとしていたわ。振り払おうと思ったんだけど、なかなかできなかったの。普段の生活では感じない、神にでもなったような万能感と、とても傲慢な気持ち。それが自分の体を愛する気持ちと、あなたに対する嫌悪みたいな感情が一緒になっていたの。そういう感情に気づいたからそれを押しこめようとしていたわ」

「その感情を、危険なものだと思った?」

「ええ。あなたに見せるべきではない、危険なものだと思ったわ。だから表に出て来ないようにしていたけど、そういう感情を持っている自分には、はっきり気づいたわ。思い過ごしじゃないの。だから、もし今度あなたと対戦する機会があったら、気をつけるわね。あなたが本当に実力のある武術家だということは戦っていてよく分かったから、意味不明な感情よりもあなたの凄いところになるべく焦点を合わせるようにして戦ったわ」

 愛良のそんな感情よりも、彼女が正直にそれを話してくれていることが、明龍には嬉しかった。

「俺たちはきっと、もっと学び合えるね。ねえ、約束してほしいんだ。また戻って来てくれるって。そして、俺と戦ってほしい」

「約束するけど、約束なんかしなくても、私はきっと戻って来て、あなたと戦うわ」

 確信に満ちた目で自分を見つめてくる愛良に、明龍はあらためて不思議な縁を感じていた。

「君と俺は、友人と言っていいんだよね?」

「ええ。もしよければ、親友と言っても。だって、きっとすぐそうなるでしょ?」

「良かった」

「あの時は、強い態度であなたたちと敵対関係になるようなことをして、ごめんなさい」

「違うんだ、こちらこそ悪かった。あの時は君にはずいぶん無理をさせたよ。君を傷つけるようなことをして、本当に悪かったと思ってるんだ」

 愛良は首をふった。

「私たちはもうお友達よ。これからも仲良くしましょう」

「ありがとう」そう言って、明龍は気づいたように周りを見回した。「随分長い間、君に相手をさせちゃったね。今何時だろう?戻ろうか」

 明龍と愛良が中庭から道場に戻って来た時、明陽が2人を待ち構えていた。

「おい愛良!」

 腕を組んで怖い顔で立っている。

「おはよう明陽」愛良は微笑みながら手を振る。「どうしたの?」

「おはよう…」彼女のほうからおはようと言われて、思わず顔がにやつきそうになったが、怒り顔を保った。

「お前さっきはよくも、兄貴の誘いに乗らずにふんばったな。不正直な女だ。本当は陥落寸前だったくせに、俺は分かってるぞ!」

 愛良は明龍を見た。「兄に対する弟の愛がすごいわ」愛良は笑った。

「兄貴、ちょっと」

 明陽が兄に寄って来て、愛良から離して引っ張っていく。

「お前見てたのかよ、いやらしい奴だな」明龍が弟を小突く。

「いいから。俺は今日、彼女を倒す必殺技を編み出した。今から勝負を挑むから許可をくれ」明陽はふんふんと鼻息を荒げている。

「馬鹿、どうせ大した技じゃないだろ。これから帰るんだから休ませてやれよ。さっき俺もさんざん彼女に相手させちゃったんだ」

「ああ見てたよこのど変態が。しかも簡単に振られやがって」明陽は兄を小突く。「とにかく聞いてくれ。本当に、絶対に彼女に効く技だ。やっぱり時代は頭脳戦だな、兄貴」

「お前が頭脳で彼女に勝てるとでも思ってるのか。やめとけ」

 そう言いつつ、そういえばさっき弟の意見も聞いてみたら、と愛良が言っていたことを明龍は思い出した。

「どんな戦い方?俺がいいと思ったら、許可する」

「つまりさ、彼女と対戦中にだよ」説明しようとして、明龍はいきなり弟の頬を軽く叩く。「何だよ!」

「お前、いやらしい事考えてないだろうな?今お前、にやつきながらものすごく目をぎらつかせたぞ。気持ち悪い。そういうつもりなら許可しない」

「違うって!兄貴こそどういう妄想してんだよ。変態の兄貴と違って俺は頭脳プレイだからな。つまり、彼女と対戦中に、一言言うんだ。親父の未公開ビデオ見たくない?って…そうしたら彼女の動きが一瞬止まる。ファン心理として、見たいに決まってるからな。そして彼女の隙を俺が攻撃して勝つんだよ」

 明陽は悪人づらをしてにやっと笑う。「この魔法の言葉で愛良は今後、俺たち兄弟の言いなりだぜ」

 明龍は再び、弟の頬を叩く。

「言いなりにしてどうするんだよ馬鹿。お前、本当にいやらしい奴だな。とにかく、そんな戦い方でお前が勝つわけないだろ。怒らせるだけだぞ。お前はもう完全に口をきいてもらえなくなるぞ」

「俺のストレートで馬鹿な意見もたまには取り入れてくれよ。意外な結果になるかもしれないだろ?それに、俺が変な事しようとしたら、兄貴が颯爽と登場して愛良をメロメロにしてやればいいじゃないか」なあ?と兄を見る明陽。

 明龍は少し考えたが、うなずいた。「まあお前がどうなってもいいなら、その意見は採用しよう。許可する。ぶん殴られても味方しないからな。むしろ二度とそんな考えを持たないように、彼女にぶん殴ってもらうべきだとは思うが」

 明龍は、愛良のほうを見て言った。「弟が君を倒す、実に馬鹿馬鹿しい必殺技を編み出したから、是非君に手合わせ願いたいと言ってる。彼にとって初めての頭脳プレイらしいから、悪いけど相手をしてやってくれないか。君が俺に助言してくれたように、俺も弟の馬鹿げた意見を採用してみようと思う。ただしその戦法で君を怒らせた場合、弟をどうしようと君の自由だ」

「いいわよ。私を負かすくらいの凄い技ならね」

 愛良は言い、かかってきなさい、と指で合図した。

 明陽は愛良に向かっていく。2階からは師匠と忠誠がそれを見学していた。

 まず明陽の方が積極的に攻撃をしかける。

 明陽の蹴りをよけたり遮ったりして、彼女は彼の横に回り、脇を攻撃する。

「動きがいいわ。ちゃんと復習できてるわね」愛良が褒める。

「俺今日、冴えてるんだ。お前を殺しにかかるからな」

 さらに積極的に攻める明陽。

 愛良も油断せず冷静に彼の攻撃をかわしているようだ。

 やっぱり弟は真剣に相手してもらっていいなあ、と思いながら勝負を見つめる明龍。

 やがて愛良の方から攻撃を始めるが、腕、肘、突きによる彼女の攻撃は、全て明陽によって封じられる。なかなかいい勝負だ。

 一旦、呼吸を整えるために2人は離れる。

 愛良は蹴りを入れたが明陽に遮られて諦め、すぐ脚を戻した。

 明陽が、来い、と手まねきしている。

 愛良はその誘いには乗らず、ゆっくり首を振って敵の出方を待っている。

 いつもなら喋る愛良が、黙っていた。

 明陽が仕掛けた攻撃が愛良に入り、彼女は後退した。

 明陽は先日の愛良の助言通り、自分がどれだけ戦闘に有利な立場にあるかを理解しつつあるようだった。

 明陽の突きが愛良に入ろうとした時、彼女はさっと身をかわして彼の手首を引き、もう片方の肘で彼の首元を攻撃しようとした。

「待て」

 明陽に待ったをかけられ、愛良は止まった。

「変な所で止めないで」愛良は睨みながら言った。「この場で待ったをかけるなんて、卑怯よ」

「まあ聞けよ。ところでさ、お前、うちの親父の未公開映像、見たくない?見たいだろ?」

 えっ、と一瞬愛良の手が緩んだ隙に、明陽は彼女の手首を掴んで後ろを取り、首に腕を回した。

「見たいだろ?見たいって言えよ?」

 調子に乗って愛良の首を絞め上げようとする明陽。愛良は背後の明陽を睨みながら、ふん、馬鹿ね、と呆れた顔をし、体をかがめて明陽を背負いながら前に投げていた。

 投げ出された明陽の顎を愛良が掴み、首に彼女の突きが入る。

「もちろん見たいわ。あるなら早く見せなさい」愛良が睨みながら、明陽を見下ろす。

 これは、冗談が通じずに殺しにかかってきている顔だ、と認識する明陽。つばすら飲み込めない。

「ほら早く」愛良は明陽の首に突き立てた手をさっきより強く食いこませる。

「う、嘘です…」

「だと思った」

 愛良は明陽を離して立ちあがった。

「戦ってる最中に、師匠の名前を出して勝とうとするなんて最低よ。卑怯者」

 明龍がやってきたので明陽も立った。

「お前は何を立ってんだよ。彼女にひざまずいて、負けましたって言えよ」

「いいえ、いいわよ、今のは勝負にもならないんだから」

「まあとにかく、謝れ」

 明陽は、愛良の前にひざまずいて、負けました、すいませんでした、とその場限りの頭を下げるので、彼女は彼の頬を叩く真似をしてやった。

「謝るんだったらもっとちゃんと謝りなさい」

 愛良が強めに言ったので、明陽は土下座して頭を床につけ「すいませんでした」と謝った。

「心を入れ替えてあと100年みっちり修行したら私に挑戦しなさい。向こう100年は私に挑戦する権利はないんだからね。いい?絶対にあなたとは勝負しないわ」

「愛良、分かっただろ、やっぱこいつは駄目だ」

 明龍に言われて、愛良は笑った。

「そうね。お馬鹿さんなのは今ので分かったわ。でも途中までは結構良かったんじゃない?私も戦ってる最中、批評はやめて真剣になっちゃったから」

 愛良は土下座から顔を上げた明陽に手を差し出した。明陽は愛良の手を掴んで立ちあがる。しかし明陽はその手をぐっと引いた。

「さっきのデートで、兄貴とキスしなかったのか?」

「してないわ」

「残念だったな、したかっただろう本当は。プライドの高い女だ」

「したよ」明龍は言った。「手にね」

「じゃあ俺も手にする」明陽が愛良の手に唇を近付けたので、彼女は振り払って軽く頬にパンチした。

「あなたはだめよ。卑怯者さん」

「お前今、舐めようとしただろう、いい加減にしろ!」明龍が弟を蹴る。

 明陽は自分の頬をさすりながら「俺さ、何でお前が兄貴を断ったか分かってるよ」と愛良に言った。

「そう、何で?」言ってみなさい?という表情で愛良は聞いた。

「お前、本当に強情な女だな!兄貴にメロメロのくせに、会ったばかりの男に簡単にキスさせるような女じゃないわよ、って格好つけてるだけだろ?女はすぐに格好つける!」

 明龍は弟の胸倉を掴んで愛良の前からどかせた。「お前はいいから彼女に口きくな」

「お前は香港一いい男をふったんだからな!」

 どなる明陽の口をふさぐ兄。

「私、別にふってないわ。ここで出会った人たちはみんな素敵だから、1人に決めたくないだけよ」愛良はふふっと笑う。

「え、そうなの?みんな素敵って俺も入ってるってこと?」明陽はまんざらでもない表情になる。

 愛良はちょっと首をかしげた。

「まあ多分入ってるわよ。師匠とあなたと明龍と忠誠」

「兄貴も、悪い気はしないな?」

 明龍は弟の肩を殴る。

「お前も単純な奴だな。だから、ああいう気を遣わせるような台詞を彼女に言わせるなって。4人が同列って、本心のわけないだろ。3人はともかく、どう考えてもお前なんか入ってないし。馬鹿はあっち行ってろ」

 明龍は弟の頭を押しやってから愛良を見る。

「俺、着替えて来るから、君も早く崇高を起こしてきなよ。おい、お前、今後一切愛良にはさわるなよ。さっき俺を変態呼ばわりしやがって、お前こそ通報レベルの変質者だよ」

 明龍は弟にそう言いながら、またさりげなく愛良の肩を抱いて弟に見せつける。

「愛良、汗の匂いがするよ」明龍が愛良に言う。

「失礼ね、汗をかいたのはあなたのせいよ?崇高を起こす前にシャワー浴びなきゃ」

「ごめん、俺のせいで責任感じるから、一緒にシャワー浴びようか?洗ってあげる」

「あなたもそこまでにしておきなさいね?弟と同類よ?」

 2人が一緒に階段を上ろうとした時、愛良が上の師匠と忠誠に気づき、そっと明龍から離れた。

 それから、明龍に少し微笑んでみせてから、先に階段を上がって行ってしまった。


 愛良は2階の崇高のドアをノックしてから、ドアを開け部屋に入った。

「崇高」

 崇高はベッドにいて、たった今、目を覚ましたようだった。

「おはよう、もうみんな起きてるわよ。あなた、本当に今起きたばかりみたいね」

「ああそう。お前は眠れた?俺はぐっすり寝たよ」

「眠れたわ。朝ごはん食べたら、明龍が空港まで送ってくれるって」

 愛良は、少し開いていたカーテンを全開にした。

「あれ?おかしいな、お目覚めのキスがまだじゃない?」崇高はあくびをしながら言った。

「いつそんな習慣できたのよ?」

「だって俺、お前に迷惑かけられっぱなしだったんだぜ。いいだろう、キス1回くらい」

 不機嫌そうな、甘えるような声で言う崇高。

「それはごめんなさいね。今度お昼おごるから」愛良は適当に言って、さっさと他のカーテンも開けて部屋を明るくする。

「俺はなあ、お前が死んだと思って泣き続けたんだぞ?100回おごるか俺に今ここでキスするかどっちかにしろよ」

 崇高はそう言いながら起き上ってベッドに座った。

「無茶な事して悪かったわ」愛良は崇高の所に来た。「今回、あなたは私に振り回されっぱなしだったわね。でもこれでもう、あなたに隠し事はなくなったわ」

 隠し事か、と崇高は思った。俺は何て事を彼女に言わせてるんだろう?恋人でもない女が、言いたくないことを自分に言わなかっただけで責めてしまうなんて。

「もういいんだよ。怒ってないし、お前の秘密を暴こうなんて思ってなかった。でも、この旅でお前のことがいろいろ分かって良かったよ」

 崇高は少し笑い、ベッドに座ったまま、立っている愛良の手を取った。

「お前の事を責めたりしない。ただ、友人のお前にキスしてもらうのに、何か理由がほしかっただけだよ」

 崇高が愛良の手を軽く引くと、彼女はそのまま彼の膝の上に座った。

 お互いに微笑む。

「だめよ」愛良は笑う。「だってそんなこと言ったら、友人だからって私が明陽や明龍や忠誠にキスしなきゃならなくなるわよ?まあ、それもいいかもしれないけど。だってみんな素敵な人じゃない?私はみんなが好きになっちゃったから、キスくらいなら、してもいいのかしら」

 愛良は崇高の頬にキスする真似をしながら、唇をつける寸前にチュッと音だけをさせて離れた。

「今のキスはお昼ごはん97回分に相当するから、あと3回おごるわね」

 キスする真似だけでも、何となく嬉しい気分になる崇高。

「若い時は良かったな。俺たち、キスしたい時にキスできた。一緒に眠りたい時も、好きな時にできた」

「あの頃は大人じゃなかったから、責任もなく自由だったわ。今は私たち、大人だからね。私があの時あなたと別れたいって言った理由は、私はいつも、同時に1つのことしか考えられないからなの。だから受験のために勉強すると言ったら、もうそれ以外の事に気を散らせることはできなかったわ。今もそう。私にとって一番大切な事は、武道を極めること」

 愛良が立とうとすると、崇高は彼女の体を抱えるようにして抱き締め、ベッドに倒した。

 崇高は愛良を見下ろす。

「なあ、真剣に交際しよう。ここで俺がキスしたらどうなる?武道より俺の事が好きになって、俺にのめりこんじゃうの?」

「そうなったら嫌だから、あなたと恋人同士にはならないのよ。あなたも女の人を誰か見つけなさい。多分会社に、あなたのことを好きな女性が何人かいると思うわ。本当はもててるんでしょ?」

「お前は俺が他の女と歩いてても、気にならないのか?」

「もちろん気になるし、もしあなたが女性と歩いていたら、多分嫉妬するわ。相手がどんな女性なのか調べちゃうかも。でも、あなたが幸せなら、別にいいの。私は武道を極めるから」

 崇高は顔を近づけた。

「あれ、石鹸の匂いがする」

「今、シャワー浴びたの。さっき明龍と対戦したから」

「明龍と?」ふうん分かった、とつぶやく崇高。「あいつに乗り換えたくなって俺を振るんだろう」

 愛良はふふふ、と笑った。「そうかもね。多分そうよ。戦っている時の彼は凄くかっこよかったわ。見とれちゃった。学ぶことも多かったし、彼は本当に素敵な人よ」

「俺だってかっこいいよ」崇高は愛良に嫌われたくなかったのでキスは諦めて、そのまま彼女の体を抱き締めた。「俺のほうがかっこいいだろ?」しばらく抱き締めて愛良の反応を伺おうと思っていたら、彼女の体がつらそうに震えたような気がして、崇高は飛び起きた。

 愛良は目に涙をためている。

「どうして?ごめん、愛良、泣かないで」崇高は愛良の体を抱き起こす。

 そういえば、愛良が決闘の途中でトイレで吐いたあとも、抱き締めたら嫌がったことを思い出した。

「愛良ごめん、泣かないでくれよ」

 崇高は愛良の頬を撫でた。

「違うの、思い出したのよ」愛良は小声で言った。

「あなたに抱き締められると思い出してしまう。私たちが別れて、大人になって、おばあちゃんが死んで、おじいちゃんが死んで、私が1人になって、あなたのご両親が喪主の私をずいぶん手伝ってくれて、おじいちゃんの告別式の日、あなたが私のもとに来てくれて、何も言わずに抱き締めてくれた。言葉ではなく、ただ抱き締めてくれて、私はあの時とても嬉しかったんだけど、泣いてしまっていたから、あなたにはお礼も何も言わなかったわ」

 崇高はベッド脇のテーブルにあったティッシュで彼女の涙を拭こうとすると、彼女はそれを取って自分で拭いた。

 崇高も鮮明に覚えている。大人になり、2人は近くに住んでいながら、全く会わなくなった。先に祖母が死んだため、愛良は祖父と2人暮らしをしていたが、彼女の祖父が亡くなった時、崇高は出張中だった。葬式の日、崇高は愛良のもとへ駆けつけ、1人で佇んでいる彼女を見つけた。久しぶりに崇高を見て、悲しそうにほほ笑む彼女を、崇高は何も言わず抱き締めた。愛良は抱き締められたまま泣いた。2人は長い時間抱き合っていた。

「あの時の思い出が、私には強烈なの。あの時の事を思い出すと、胸がいっぱいになる。おじいちゃんが死んで悲しいという思いと、疎遠になっていたあなたが私を抱き締めに来てくれて、嬉しかったという思い。あの時私は、悲しみの中にあっても生きていこうと思ったの。あなたは私にとって、特別な友人だわ。あの時そばにいてくれてありがとう。あなたがいたから生きてこれたのかも」

 今度は愛良のほうから崇高を強く抱き締めた。

「あなたと香港に来て、振興会の人たちとおしゃべりして、大会であなたの演武を見て、それから天気は悪いけど、あなたと一緒なら観光も楽しいものになって満足して帰国できると思ってた。だけどどういう訳か、こんなことになってしまって、あなたを傷つけたわ。それもひどい傷つけ方。私が人と殺し合ったり、私が死ぬ所をあなたに見せたりするなんて。あなたは優しいから私が目覚めた時に言わなかったけど、あなたはお父さんが亡くなったばかりで、まだ悲しみが癒えていないのよね?それなのに、私のあんな姿を見せたりして、あなたをどれだけ深く傷つけたか分からないわ」愛良はまた涙声になっていた。

「もういいんだよ愛良」崇高は愛良の背中を撫でた。

「ごめんなさい。私はあなたの恋人にはなれないし、妻にもなれない。あなたを拒否しているという意味ではないの。私はあなたの見ている方向とは別の人生を生きていくわ。だけどこれからも、あなたとは長い付き合いになるような気がする。一度は別れたあなたと、こうしてまた出会ったようにね」

「俺と付き合うと、俺を傷つけると思ってるのか?」崇高は愛良の髪を撫でる。

「きっと、意図せずそうしてしまうわ。もう、今回ほどひどいものはないかもしれないけど。でも、この先だって何があるか分からないもの」

 愛良は崇高を離して、彼の顔を見た。

「傷ついても構わないよ」崇高は愛良を見つめた。「恋人は無理でも友人としては付き合ってほしい。俺から離れていかないでくれ」

「ええ、特別な親友よ。あなたは恋人よりも上の存在の、お友達だと思ってるわ」

「でも、お前は修行にのめりこむと、そんな友人だっていらなくなるんだろ?」

「よく分かってるわね。のめりこむとそうなっちゃうの」

 2人は笑い合う。

「で?キスしてくれないの?」崇高はなおも聞く。

「ねえ、崇高」愛良は少し恥ずかしそうに崇高を見た。「あのね、いいわよ」

 何が?と崇高が思った時、愛良は不意打ちで彼の唇に自分の唇をチュッと触れさせて、すぐに立ち上がってドアの所まで行ってしまった。

「今のキスはお昼5回分に相当するから、あなたはあと2回、私にお昼を奢るのよ」

 崇高は、愛良の唇が自分の唇に触れたのが信じられなくて、自分の指で自分の唇に触れていた。

「嘘よ。今のは親友に対するお詫びのキスだから気にしないで。朝食が始まるから早くいらっしゃい」

 いい?親友に対するお詫びのキスよ、と愛良は微笑みながら念を押して、驚いた表情のままの崇高を置いて部屋を出ていった。


 14_最後の朝食


 明龍がシャワーを浴び、着替えてから部屋を出ようとドアを開けると、部屋の前には明陽がいた。

「兄貴が振られたのは悔しいが、愛良はやっぱり親父のことが好きなんじゃないかなあ。さっき親父をネタにしたらあんなに怒るなんて、やっぱりそうだろ」

「確かに俺も傍から見ていて、彼女が師匠のことを好きなのは分かる。自分が侮辱されても怒らない彼女が、師匠を冗談のネタにされてあれだけ怒るんだから、やっぱり師匠が好きなんだろうな。だがお前は、さっきの自分の発想が愚かすぎるという考えには至らないのか?」

 明陽がへへへ、と笑うので、ごまかすなよ、と明龍は弟の肩や胸を小突く。

「まあ俺も、我ながら馬鹿すぎる発想だったと思うけど、やっぱり兄貴よりいい男っていったら、うちの親父しかいないじゃん。だから、ああ言えばうまくひっかかるかなあと思って」明陽は兄の突きを手で受け止めながら言う。

「確かに師匠はいい男だけど、お前は何をしたいんだよ?師匠を再婚させるのか?そうしたら彼女はお前の義理の母になっちまうな」

「まずいなあ、兄貴にとっては伯母だからいいよ?俺の場合、義理の母で妄想するのは気が退けるよ」

 明龍は弟の頬を叩いた。

「お前、いい歳してそういうふざけた話を兄の前でするんじゃない」

「まあつまり義理の姉くらいだったら、俺の妄想も健全に膨らむんだけど、義理の母じゃちょっとなあ。だから、そういう意味で、彼女には兄貴とひっついてもらいたいんだよ」

「お前、彼女を武道家として見ろと言っておきながら、お前が一番、女として見てるだろ」

 明陽は躊躇なく、うんうん、とうなずいて認める。

「そりゃ俺も努力して一生懸命、彼女は武道家なんだと思おうとしたが、やっぱり無理だわ。俺、男だから」

「お前、俺の前でいやらしい事を言う奴じゃなかったよな?彼女が来てからいきなり変わったぞ」

「兄貴だってデレデレしすぎだよ。戦ってる最中から変態じみた会話してるかと思ったら、何だよさっきの。紳士で通ってる兄貴が唐突にいやらしいことを言って。一緒にシャワー浴びたいだあ?女に振られた後に言う言葉かよ。俺ならその汗、舐めさせろっていうけどな」

 明龍は、馬鹿、と弟の頭を叩く。

「俺は紳士だぞ。あれはな、お前にだけは正直に言うが、俺が彼女の肩を抱いた時、ほんのりと彼女の汗の匂いがして、理性が吹っ飛びそうになるくらいに、くらっと来たんだよ。だからわざと言葉に出して言った。ああ言わなかったら俺はあそこで叫び声を上げて気絶してたな」

「情けないな兄貴!あんな女1人現れただけでこのざまかよ」と言いたいところだが俺も兄貴と同類だ、と嬉しそうに言う明陽。「たまに、あいつのせいで俺のハートが潰れそうになるからな。本当に腹立たしい女だ」

 明陽は自分の心臓に手を当てて、撫でている。

「お前にとっては、腹の立つほどいい女、ってことだろ?そんなにストレートに、お前のハートが鷲掴みにされたのか?」

「ああ、まさにハートを奪われたね。我ながら、理性を保っていられないもん。しかも、崇高の方には、俺は普通に接してやってるが本当は嫉妬しかない。燃えたぎるような嫉妬だ。あいつは愛良の全てを見てるんだぜ?信じられるか?あいつが俺の愛良に何をしたかを考えると気が狂いそうになる。俺は忠誠にも、ものすごく嫉妬してるよ。心がかき乱されるくらいに。あいつはあいつでかなりおいしいポジションにいるからな、ちくしょう。兄貴にしかこんなこと言えないんだ」

 弟が急に弱気の表情で兄を見るので、明龍も弟の肩に手を置いて慰めてやる。

「おい、大丈夫か。重症だな。ポジションで言ったらお前が一番いい所にいるんだから思い詰めるなよ、お前らしくない。お前、汚れきった男かと思ってたけど、ある意味純粋なんだな」

「兄貴はいいよ。日本庭園で、いい雰囲気までいったじゃん。肩を抱いた上に、手にキスまでしちゃって、俺たちの中では兄貴が大健闘だな。変態じみた会話をしても、愛良は兄貴には絶対に怒らないだろ?俺だったら絶対にぶん殴られるし、親父だったら多分失望して泣かれるだろうな。兄貴はツラがいいってだけで、愛良にかなり気に入られてるんだよ」

「馬鹿。俺はたった今、振られたんだぞ」顔の作りなんか関係ないよ、と明龍は言う。

「いけると思ってた?」

「シャツを脱いだ時点で、男としての俺には興味が無さそうだなとは思った。彼女に気を遣わせてしまって悪かったんだが、あそこで俺が彼女を欲しいと言ったのは、俺自身が後悔しないためだよ。だから、彼女がどう返事しようが、それを受け入れようと思った。だがな、俺はお前がうらやましいんだぞ?彼女は師匠のことが好きだ。だから、息子であるお前が何しても、結局お前、彼女に許されてるじゃないか。お前が師匠の息子であることを、彼女は常に強く意識してお前に接してる。お前はその立場を悪用するんじゃないぞ?」

「兄貴、本当は全然諦めてないだろ」

 明龍は笑いながら弟の頭を押しやった。


 愛良が使用人に案内されて食堂に来ると、既に師匠と兄弟、忠誠は席についていた。

「ごめんなさい、崇高がさっき起きたところなの」

「大丈夫だよ。時間のことは言ってなかったからね」師匠は答えた。

 愛良が椅子に座ると、忠誠が「ねえ、台湾に来ない?」と話しかける。

「ええ、また今度ね」

「台湾なんかに行くなよ」明陽が言った。「お前、襲われるぜ?忠誠はお前のことを狙ってる。目つき見てみろ。変質者じゃん」

 師匠は、やめなさい、と叱る。

「じゃあ俺が東京に行っちゃおうかな」忠誠は言う。「日本人の武道家を適当に見つけてインタビューしに行くよ。その時は君も会ってくれる?」

「ええ、いいわ」

 崇高が慌てて入って来て、あのう皆さんおはようございます、と言いながら遅れて来たことを詫び、座った。

「あの、師匠」愛良は言った。「今日まで私たちにとてもよくして下さって本当にありがとうございました。別れた流派なのに元が同じというだけで、色々とお気遣い頂きまして、本当に感謝しています」

「こちらこそ」師匠は優しく笑って言った。「私たちは君たちのことを本当に大切に思っているから、また来るんだよ。このメンバーで再会しよう。いつがいいかな?私の仕事が入っていない時がいいね」

「ありがとうございます」

 愛良と崇高は、皆で仲良く語り合いながら、香港での最後の朝食を心から楽しんでいた。


 朝食後は、忠誠と崇高は日本の若者文化の話で盛り上がり、明龍は愛良と話を始めていた。

「愛良、弟は強引に君に挑戦したし、俺も今朝、君が乗り気じゃないのに手合わせ願って悪かったんだけど」明龍は愛良に言う。

「いいえ、あなたの凄い蹴りを受けられたから満足よ。以前、映像で見た時は横から映してたから、横からの様子しか分からなかったけど、生で真正面の姿を見られてよかった」

「そう?」明龍は嬉しくて笑顔になる。「でも聞いて。俺たちは君に要求ばかりしすぎたよ。君の方から、何か俺たちにしてほしい事は?帰国する日にこんなことを聞かれても何もないと言うなら、もし今度うちに来た時にでも、何かない?」

「そうね、してほしい事?」

 愛良は少し考えたが、何も思い浮かばない。

「別にないわ。私もいろいろ教えてもらったし、滞在中は十分してくれたと思ってるわ。だから、あなたたちにしてほしい事は何もないんだけど、師匠のことは本当に2人で支えてあげてほしいの。私の望みはそれだけ」

「お前、本当に俺の親父のことが好きなんだな」明陽が言いながらやって来る。

「そうよ、大好きよ」当然じゃない、という顔で答える愛良。

「じゃあさ、愛良。これはいわゆる未公開映像とは違うんだけど…」

 明陽は、さっきスマートフォンに取り込んできた、師匠の演武シーンを愛良に見せた。

「まだアップロードしていないから、未公開ではあるんだ。ナレーションと字幕はこれから入れようとしてるところだよ」

 愛良は無言で、うっとりするような目でその映像を見入っている。

 やっぱり愛良の本命は師匠なのかな、と明龍は思いながら、映像を見せながらさりげなく彼女の腰を抱こうとする明陽を寸前で阻止する。

「ねえ明陽、本当にありがとう。何度も言うけど、あなたが私に挑戦してくれたから、結果的に今回、蕭師匠にお会いすることができたわ。師匠とお話しできて、一緒に食事もできるなんて本当に夢みたい」

 初めて会った時は敵対心しか見せなかった愛良が、今では嬉しそうに自分に話しかけてくるのを見て明陽は、こっちだって夢みたいだよ、と思った。

「馬鹿だな、お前は俺の親父に幻想を抱き過ぎなんだよ。お前は親父のいい所しか見ていない。うちの親父なんか、お前が知らないだけで、ただのおっさんなんだからな」

 明陽は、再び画面に夢中になっている愛良を見て、映像を止めた。

「なあ愛良」明陽が愛良に話しかけると、彼女は静止画面から目を離して彼を見た。

「お前そんなに俺の親父が好きならさ」明陽は愛良がびっくりしないように、そっと肩を抱いた。「俺たち、一緒に住まない?お前、東京で1人で暮らしてるんだろ」

「お気づかいは嬉しいけど、私、1人暮らしの生活が好きなの」

 愛良は明陽に肩を抱かれて、居心地が悪そうにしている。

「香港だっていい所だろ。来いよ」

「いい所だけど、ちょっと暑いわ。東京って便利なのよ。楽しいし」

「分かった。じゃ、俺が東京に行くから、俺と一緒に住もう」

「お前、師匠が好きなら一緒に住もうって話は、もうどっかに行ったのかよ」と明龍がつっこむ。

「何で私があなたと東京で一緒に住むの?」愛良は呆れた様子で明陽に聞く。

「だってお前、寂しいだろ、その性格じゃ男にもてないから。俺が一緒に住んで毎晩可愛がってやるから、な?俺が行くから2人で住もうよ」

 愛良は肩を抱く明陽の手を押しのけた。

「結構よ。何しに来るの?あなた、働く当てもないんでしょ」愛良は不機嫌そうに明陽を見る。

「そうだなあ、道場を開くよ」

「簡単に言うわね」愛良は大げさに驚いてみせる。「うまくいきっこないわ。東京は土地が高いのよ。あなたなんか日本じゃ無名なんだから、宣伝したって人は集まらないわよ」

 商売を甘く見ないで、と愛良は説教する。ああ、やっぱり弟は真剣に相手してもらっていいなあ、と思いながら、明龍は2人を見つめている。

「じゃあお前が働いてるから、俺はおとなしくお前の家にいるよ。儲かってるんだろ?俺を食わせてくれ。夜は俺が可愛がってやるから、それでいいだろ。でも、お前はデスクワークで楽なのに、俺のほうは重労働で不公平だな。やっぱり毎日やんないとだめ?たまにはお前のほうから俺に奉仕してくれ」

 明陽は調子に乗って、唇をキスの形にして愛良に迫るが、兄に阻止される。

「冗談だとは思うけど、そういうつもりであなたが来たって、家に入れないわ」

「探偵の資料で住所はだいたい分かってるんだから、俺から逃げられないぜ」

「うちのマンションは入り口で番号押さないと入れないんだから、警備の人に警察呼ばれるわよ」

 ふふん、と愛良は笑う。

「いいとこに住んでるな。それだけちゃんとしたマンションなら、お前が夜中に多少大声出しても大丈夫だな」

「何で私が夜中に大声を出すのよ、ああ言わなくていいわ」

「喜ばせてやるから。な?」

 明龍は弟を手で遮った。

「愛良、大丈夫だよ」明龍が言う。「俺と師匠で、こいつを見張ってるから」

「じゃあ、無理やり親父をどこかに出張させて兄貴を同行させてやろう。その時が脱出の狙い目だな」

「もうすぐ館長と副館長が入れ換わるから、師匠の出張で同行するのはお前になるな」

 うわあ、もうそういうめんどくさい話はやめろ!と明陽は兄に怒鳴り、愛良に向き直る。

「な、愛良、今のうちに俺に取り入っておいたほうがいいぞ。これからも親父に会いたいんだろ?俺に取り入れば次も会わせてやる」

 愛良は明龍のほうを見て、この人駄目ね、と首を振る。

「明陽、何が言いたいのか全然分からないわ。ちゃんと順序立てて言えるようになったら、あなたの話を聞いてあげる」

「じゃあ、今から核心部分をちゃんと言うから聞いてくれよ」

「へえ、今の話に核心があったの?聞くわよ。手短かにね」

「愛良、結婚しよう」明陽ははっきりと言った。

 愛良が微笑みながらも、少し済まなそうな顔で明陽を見る。「馬鹿ね。ありがとう。でも受けられないわ」

「何で?お前、このチャンスを逃したら一生男に縁がなくなるぞ。お前に結婚しようなんて言ってくる男は、俺ぐらいしかいないんだから。兄貴が言ったか?言ってないだろう」

「お前」明龍は弟を引っ張る。「愛良なんかタイプじゃないとかさんざん言ったよな」

「兄貴も馬鹿だな、大恋愛で結婚するより、そんなに好きじゃない相手と結婚したほうがうまくいくんだぜ。な?愛良も、俺のことがそんなに好きじゃなかったら、この結婚はうまくいくと思う」

「いかないわよ、私は結婚願望自体がないんだから」残念でした、と意地悪く笑う愛良。

「毎回毎回、腹の立つ言い訳する女だな」だからもてないんだよ、と怒る明陽。

「それと、東京に来るなら日本語を覚えてからにするのよ。広東語なんか通じないんだから」

「お前と暮らしてお前から教わるから大丈夫だよ。そうしたら受講料タダじゃん」

「来る前に習いなさい」

 愛良は武道以外の分野でも、ちゃんと弟に教えて聞かせてるな、と思う明龍。

「今から習うから教えてくれ。今日はレッスン1だな。I love youは日本語で何て言うんだっけ?」

「あなたが今、手で持ってるスマートフォンでいくらでも調べられるでしょ」

「I love youくらい教えろよ。何て言うの?」

 また明龍が2人の間に割って入る。

「お前、愛良のほうから、愛してるって日本語で言ってもらいたいだけだろ。言うなよ愛良」

 ええ分かってるわ、と明龍に微笑む愛良。

「愛良、俺と結婚したら手料理は何を作ってくれる?」明陽はさらに聞く。「日本料理?まずくても我慢するから、何か作ってくれよ。寿司でも天ぷらでもいいからさ」

「悪いけど結婚はしたくないわ。特にあなたと一緒の空間にはいられないわよ。次から次へとうるさくって」

 ねえ?と愛良は明龍に同意を求める。俺ならうるさくないけどね、と明龍は微笑む。

「よく言うよ。俺気づいちゃったんだ。お前、本当は俺のこと好きなんだろ?」

「どうしてよ?」

「だってさ、考えてもみろよ。俺の兄貴はすごくいい男だろ?」

「ええ、すごくいい男ね。かっこいいわ」愛良は明龍を見ながら言う。明龍はガッツポーズをする。

「その兄貴よりも、俺の親父のほうがもっといい男だろ?」

「そうね、まあ比較はしないけど、師匠もとても素敵な男性よ」師匠はどこかしら、と愛良は見回す。

「で、俺はその親父の息子なんだから、3人のうちでこの俺が一番いい男ってことになるだろ」

「本当ね。あなたの論理でいくと、何故かあなたが一番いい男だわ」愛良は笑った。

「それにお前、決闘だって最初はしないって言ってたくせに、嬉々として俺と対戦してたじゃないか。俺のことが好きな癖に隠すなよ」

「それは私に目的があったからよ。だけど、あなたとは一緒に住まないわよ。だって私はまだ武道家として、もっと極めたいものがあるし、それにあなたは、あんまり好きじゃない女性よりも、心から好きと思える女性に出会って、幸せな結婚ができると思うわ。あなたには好みのタイプがあるんでしょう?あなたは男性としても武道家としても魅力的だから、ぴったりの女性がきっと現れると思うわ。私が男性にもてなくて可哀想だと思ってくれてるのは有難いけど、私なんかと住んでつまらない思いをするより、あなたの好きな、可愛らしくて優しくて、あなたをよく理解してくれる、多分、私と正反対の女性のこと言ってるんだと思うけど、そういう女性と楽しく暮らしなさいよ。絶対、あなたにならすぐに素敵な女性をつかまえられるから諦めないで」

 明陽は愛良から少し離れた。顔を少しうつ向かせる。

「愛良、お前何てことを俺に言ってくれるんだよ」

「何か気に障った?」そういえば、明陽は女に振られたばかりだったということを、愛良は思い出した。「最近女性に振られたって聞いたわ。でも、あなたがもっと成長すればいいじゃない」

「違うよ。そのことはもういいんだ。でも聞いてくれるかな。最後だからお前には正直に言うけど、俺にはもう好きな女がいる。すごく好きなんだ」

 弟のその言葉を聞いて、明龍は弟の表情をちらっと見た。

「振られたばかりなのに、もう好きな人がいたの?」愛良は驚いた様子で聞き返した。

「お前、信じてないだろ」

「いえ、信じるけど。良かった。じゃ、その人とうまくいくように祈ってるわ。がんばってね」愛良は明陽に微笑み、明龍を見て良かったわ、という表情をした。

「ああ。お前の言う通り、見た目は美人だしスタイルも良くて、性格も優しいし、俺を理解してくれてる女なんだ。すごくいい奴。親父や兄貴よりもよっぽど俺を理解してくれてる。俺はその人を一番の理解者だと思ってるんだ」

 もしかして、明陽の母親のことを言っているのかと愛良は思った。彼の表情が辛そうに見えたからだ。

「一番の理解者なら、あなたのお母さんのことね、辛かったら言わなくてもいいのよ。きっと、理想の女性なのね」

「お前はいつも、結論を急ぐんだな。最後まで聞けよ」

 そこまで言って、明陽はそれ以上言うのをためらっていたが、兄が自分の肩に手を置いたのを感じて兄のほうを見た。

 明龍は弟を、頑張れ、と応援するような目で見ていた。明陽はまたうつむいた。

「俺には、その人がすごく優しくて、自分を犠牲にしてまで俺を気遣ってくれているのがよく分かるんだ。最近俺は、感情のコントロールがきかなくなる事がある。それはその人が凄くいい女だから、その人の前では俺が平常心でいられなくなってしまうからなんだけど、そんな時でも馬鹿な俺を怒らないで受け入れてくれるんだ。だからつい甘えてしまった。構ってほしかっただけかも。俺はその人の言動1つに一喜一憂してしまうんだよ。そしてたまに、俺がどれだけその人が好きか気づいて、胸が張り裂けそうになる。今も泣きたい気分だ。まだ会って数日なのに、何でこんな気持ちになるんだろう?苦しくて心の中がパニックになる時、何故かその人に憎まれ口を叩いてしまう。素直な心を出してもいいと思うのに、心の中に壁ができてしまって、どうしても素直になれないんだ。プライドが邪魔してるのかな。その人はもうすぐ俺の前からいなくなってしまう。俺は何もできなかった。本当は感謝してるんだよ。ありがとうって言いたいんだ」

 それ以上言いたくても言葉にならないように、明陽は黙った。愛良は彼の言葉が続くのを待った。

「でも、その気持ちをどう表わしたらいいのか分からない。その人はあの時、俺に命を懸けて全力で向かってきてくれた。俺を信じて、俺に魂を委ねてくれた。そんな勇気ある人なんだ。だけど俺はどうだ?俺はその人を、何度も傷つけたかもしれない。本当は愛されたいと願っているのに。俺はその人に嫌われたかな?」

「何故嫌われたと思うの?その人はあなたの事が好きだし、あなたに出会えて良かったと思ってるわ。あなたはとても純粋で、後先を考えないお馬鹿さんで、優しくて正直な人だから」

 愛良が微笑むと、明陽も涙目で微笑んだ。

「お前さっき、俺がその人とうまくいくように祈ってるって言ったよな」

「ええ。言ったけど、もう祈らなくていいみたい。だってもうすでに、うまくいってるもの」

「兄貴!」明陽は兄に向き直った。「今、俺がここで愛良を抱き締めたら、彼女に何するか分からないから兄貴に抱きつく」

 明陽は兄に抱きついた。「おい、やめろって!」明陽は兄に抱きつきながら、唇をキスの形にしながら服を脱がそうとして、兄に殴られている。

「愛良」

 騒々しい兄弟をよそに、蕭師匠が愛良の所にやって来た。

「はい、師匠」

「最後に少しだけ話をしてもいいかな。私も武道家として、武道家の君と話したい事があるんだよ」

 静かな語り方と優しい微笑みに、時が止まったように釘づけになる愛良。

「もちろんです」

 師匠を見つめる愛良を見て、明龍は弟に、行くぞ、と目配せしてその場を離れる。

 愛良は、騒がしかった兄弟が黙っていなくなったことなど全く気づかない。

「兄貴、何だよあれ、あれはただ尊敬してるだけの顔じゃないな」

 明龍は、見るなよ、と手で弟の頭を反対方向に向ける。

「愛良は親父にだけは、恐ろしく従順で素直だよな。しかも親父が出て来た途端、俺らのことなんて完全無視じゃん。態度が違いすぎる」

「当たり前だろ、相手の格が違うんだから」

「あんなの、ただのおっさんだよ?」不満そうに言う明陽。

「ただのおっさんが愛良を釘づけにできるかよ」

 愛良は師匠に促されて、ソファに向かい合って座った。

「今回は、私の息子たちの強引なお願いにもかかわらず、彼らと対戦してくれてありがとう」

「いいえ。こちらこそ、蕭師匠の高名なお弟子さんたちと対戦できて光栄でした」

 離れた場所では、よくもあんな言葉がすらすら出てくるわ、と明陽がつぶやき、明龍に殴られている。

「君に聞きたいことがある。君はまず明陽と対戦したが、対戦した事で君が武道家として、何か心境に変化があったんじゃないか?」

「ありました。私の師匠は祖父ですが、私は祖父の教えとは違う方向に行きつつあると感じました」

「どういう意味で?」

「人に見られる事に対して心境の変化がありました。私が祖父に教わっていた頃は、自分がこの流派の使い手であることは周りに公言したことはありませんでした。技を披露することを禁止されていたわけではありませんし、祖父から何か言われたことはなかったと思いますが、祖父が人に知られないようにしていたことは分かったので、私も知られないようにしていました」

 愛良の告白に師匠はうなずく。淡々と言っているが、彼女にとっては大きな心境の変化なのだろう。

「今回初めて、人前で戦ったということだね。君は生き生きとしていたよ。見られる事を楽しんでいるようにも見えた。ビデオの最初で、撮りたいなら撮りなさいと言っていたね。その時の君の表情は、覚悟を持って言っているようにも見えたんだ」

「あの時はもう、冥殺指を受ける覚悟もできていましたから。私は、私を先祖の仇だと思っている明陽と対戦することを決め、技を隠す必要がなくなったのです。正統派の恨みから逃げる必要がなくなり、先祖のカルマを清算するために人前に出て、これで終わりにできると思いました」

 君は最初から最後まで立派に戦ったよ、と師匠は言う。

「大勢の人に見られた事に関しては、どう?」

「あなたのお弟子さんたちが、私を好意的に見てくれたようで、彼らの反応が私には嬉しかったです。技が決まると拍手や声援を送ってくれましたから、私を応援してくれているのだと感じました。彼らからも力を貰っているような気分でした。あの時はあまり恥ずかしいという気持ちはなく、単純に嬉しかったですし、うまくいった時は誇らしい気分にもなりました。私も周囲をとても意識していました。お弟子さんたちから質問を受けられたのもいい経験だったと思います。ただ、明陽に怪我をさせてしまったことだけは、良くなかったと思いますが」

「君は精いっぱい息子と対戦してくれた。君はあの時、体だけでなく、魂も息子に委ねたと言っていたね。君は勇気ある武道家だ」

「彼はあなたの息子ですから、あなたのことも信じた結果だと思います」

 師匠はそれを聞いて、ありがとう、と微笑んだ。

「それで、今朝は明龍と対戦したね。彼はどうだった?」

「明龍と対戦して感じたことはたくさんあって、それは戦った後で彼にも直接話しました」

 これについては、師匠にもお尋ねしたい疑問点が出てきたので、次回お話しますね、と愛良は言う。

「明龍と戦った時は、何か心に変化はあったかい?」

「ありました。1つ挙げるとしたら、私がとても勝ち負けにこだわったということです。勝ったからどうだということはないのですが、明龍には絶対に負けたくない、絶対に勝つんだという思いを、何故か強く持ちました。祖父からは、誰かとの勝敗を決するために武道を教えているのではないことを何度も聞かされていて、私もずっとそのつもりでした。勝つか負けるかということは、当事者同士があるルールを定めて始めて決まることであって、実際の武道の精神とは関係ありません。武道は自分の精神を高めるための手段として学んでいるのであり、決闘の場で相手を倒すことで自分の強さを誇るためではないと、自分でも思っていました。でも実際明龍と対戦してみるとそうではなく、勝ちたい、相手を負かしたいという欲求に強くとらわれました。祖父の教えからはだいぶ離れてしまったと思います。私は祖父とは違う武道家なのだと感じました」

「人と対戦してこなかった君は多分、対戦することで、何か解放しなければならない感情を解放しようとしているのかもしれないな」

 確かにそうなのかもしれないと愛良は思った。それを明龍が引き出してくれたのだ。

「明龍と君は、同じ流派の武術を学ぶパートナーとして、最適だと思っているんだよ。こういう相手に巡り合える武道家は幸運だ。彼は君を新しいステージに連れていけるし、君も彼に対してそれができる。彼とまた、対戦してほしい。多くの成長と発見があると思うんだ」

「はい、また対戦するつもりです」

「今度は、明龍と対戦している所を、私が見てもいいかな?」

 そう言われて愛良は少し考えながら微笑んだ。

「恥ずかしいけど、いいですよ。あなたに見られても大丈夫なように、日本で修行に励みます」

「楽しみにしているよ」

 そこへ明龍が、そろそろ君たちの出発時間だから送るよ、と言いに来て、師匠ももう出かける時間では?と聞いている。

「愛良、私は今日、大事な用事があるのでここでお別れだ。また会おうね」

 師匠は手を差し出した。

「師匠は大切な人と会う用事で外出しなきゃいけないんだ」明龍が言う。大切な人ですよね?と明龍が聞くと、師匠は微笑みながら、ああそうだよ、と答える。

「いろいろ、ありがとうございました」

 愛良は師匠と握手する。

「さっきも言ったけど、このメンバーで再会しよう。明龍にスケジュールを調整させる。渡航費用や準備に必要な費用はこちらで払うからお金の心配はしないでくれ。私の予定は君たちに合わせるからね」

 師匠は言い、やって来た運転手とともに去っていった。

「じゃあ俺たちも行こう。準備できてる?忘れ物があったら送るから、心配しなくていいよ」

 明龍が言い、皆は車に乗りこんだ。


「そういえば愛良は親父と手を握ったぐらいしかしてないのか?」

 走る車の中で、明陽はわざとらしく愛良に聞く。

「何考えてるのよ。それ以上のことがあるわけないでしょ」

「でも、お前は俺の親父のことが好きなんだろ?もうちょっと何かしたいって思わない?」

「いやらしいわね。思わないわよ。武道家として尊敬してる人よ?」

「嘘つけ。抱き締めてほしいって思ってるだろ」

 急に何を言うのよ、と愛良は怒るが、不思議と周りの男たちは明陽を咎めない。「思ってないわ。でもまあ、抱擁ぐらいならいいわよ」

「つまりお別れの時にするような抱擁?」明陽は聞く。「さっきすればよかったのに、しなかったな」

「握手だけでも、とても嬉しいんだから、抱擁なんかしてくれなくていいのよ。お話できただけでも光栄だったわ」

「じゃあ、今度親父と再会したら、抱きつくだろ?」

「師匠と再会したからって、私がいきなり師匠に抱きつくわけないじゃない。私がよくても師匠に失礼でしょ。それに、親しくない男女が抱擁するなんて、日本の習慣にないわよ」

 他の人たち、明陽に何か言ってやってよ、と愛良は言う。

「じゃ、次は俺たちの中から1人選べよ」

 明陽が言うので、愛良は笑いながら彼を振り返った。

「どういう意味?誰か奇特な人が私なんかと付き合ってくれるの?」

 愛良は嬉しそうに笑う。

「全員お前と付き合う気あるから、とにかく1人選べって言ってんだよ」

「嫌よ。今だって誰も選ばないのは、あなたたちがみんなで私にちやほやしてくれるのが嬉しいからよ。女王様になったみたいな最高の気分になれるんだから、やめられないわ。1人に決めたら、もうこんな気分味わえないもの。次に来た時も、みんなで私を気分よくさせてくれるでしょ?」

「お前、とんでもない女だな」

 明陽に言われて愛良はふふっと笑ってまた前を向く。

 弟はまた言葉通りに受け取っているが、本心は違うだろうと思いながら、明龍は愛良をちらっと見た。

 車は空港の駐車場へ入って行く。


 明陽は空港に着いてからも、愛良にべったりひっついて話しかけている。

「お前さあ、本当は兄貴のことが好きなんだろ?お前は香港一いい男を振ったという自覚を持てよ。お前が日本に帰ってるうちに、別の女に兄貴を取られたって仕方がないんだからな。お前は調子に乗って振ったかもしれないが、兄貴にはいくらでもいい女が寄って来るんだぞ」

「そうよ、あなたのお兄さんは香港一、素敵な男性だわ。素敵過ぎて私なんかにはもったいないの。彼ならいくらでもいい女性を捕まえる機会があると思うわ。香港にだって素敵な女性がたくさんいるんだから」

 愛良は明陽に笑いかけるが、彼は表情を曇らせている。

「だから、そんな香港の女になんか取られないように、今から物陰で兄貴にキスしてこいよ。俺が見張っててやるから。お前、何であんないい男振るの?」

「何か、さっきから元気ないみたいだけど大丈夫?のどに私の突きが強く入りすぎたんじゃない?」

「苦しくて息ができない」

 明陽は、具合が悪いのを我慢しているような表情で笑うので、愛良は慌てて明陽ののどに痕が残っていないか覗き込むように見た。

「違うんだよ。のどなんか平気だし、俺は元気だよ」

「息ができないって言わなかった?」

「俺、混乱してるんだ。心の中に嵐が吹いてるみたい」明陽は急にしょんぼりしてしまう。

 愛良は、少し離れて立っている明龍のほうを見ると、明龍はこちらにやって来た。

「君に恋焦がれて、弟がとうとうおかしくなってしまったよ」

 愛良は吹き出した。

「ごめんなさいね明陽、多分それ、あなたの思い過ごしだと思う。明日になったら私のことなんか忘れてるわよ。元気出して。あなたもきっと、台風の気圧にやられちゃったんじゃない?あなたの好きな、笑顔の可愛い超グラマーな女の子とご飯でも食べに行きけば、きっとよくなるわ。あなただって強い武術家だし、素敵な男性なんだから、もてるでしょう?」

「弟はね、君との別れが辛いんだって」元気出せ、と明龍は弟の肩を叩いている。

「明陽、早く師匠の動画をアップロードしてね。待ってるから」

 また師匠って言ってるよ、と離れた場所にいる崇高が忠誠に、困ったような笑顔で言う。愛良は師匠が大好きなんだよ、と忠誠が返す。

「そういえば、お前は親父のことがどれくらい好きなんだ?世界中で一番愛してる?」明陽は愛良に聞く。

「みんなと同じくらい好きって言ってるじゃない。あなたのことも好きだし、明龍のことも好きだし」

「親父のどこが好き?」ダンディなおっさんということ以外では、だぞ、と明陽は聞く。

「あなたのお父さんの事は、あなたがアップしてくれた映像からしか分からなかったから、知ったようなことを言うのは失礼とは思うけど、武道に対する精神が好きよ。あとは、私は師匠にお会いするなんて全く思っていなかったけど、あの時目を覚まして、師匠がいきなり現れてお茶を飲ませてくれた時、私はすごく緊張してたけど、すごく嬉しかった。もちろん奥さんでやり慣れていたとは思うけど、とても優しく飲ませてくれたわ。おかゆを食べさせてくれた時もそうよ。とても優しい方なんだと思ったわ。奥さんは幸せね」

「奥さんじゃなく、お前自身は?お前も、幸せだった?」

「ええ。憧れてる人だから、もちろん」愛良は明陽に優しく笑いかけた。「幸せだったわ」

「良かった。じゃ、会う前よりも、親父のこと、もっと好きになっただろ」

「ええ、もっと好きになったわ」

「すごく好き?」

「ええ、大好きよ。すごく尊敬しているし、優しい人だし、話し方も落着いていて素敵だし、大好き」

 明陽は静かに笑った。「だって。親父?」

 明陽は彼女の肩を押して振り向かせると、彼女の後ろには師匠が立っていた。

「師匠…」

 師匠に聞かれていたと知って愛良の頬が赤くなる。愛良は明陽を振り返りながら、騙したわね、と抗議した。

「騙したというより、俺たちからのプレゼント」

 明龍が師匠の背中を押し、明陽が愛良の背中を押したので、師匠は自然に彼女の体を抱きとめた。

「ありがとう、愛良。私なんか至らないんだが、そんなに褒めてくれて」師匠は愛良を抱き締めながら言う。「私も武道家として、君の精神にはとても共感しているよ。流派は別れたが、君のような人が継承してくれていたことが分かって嬉しく思う。私も勿論、君のことが大好きだよ」

 すぐ離すと思っていた周りの予想を裏切り、師匠はかえって彼女を強く抱き締める。

 愛良は目を閉じて師匠に体を預けたままだ。

「親父、おい離れろよ」

 愛良が目を開け、明陽に微笑んだ。「もう少し待って」愛良は幸せそうに溜息をつく。

「ありがとう、素敵なプレゼント」愛良は目を閉じ、うっとりとした表情で言う。

「困ったな、これ。お互いラブラブじゃないか」明龍が戸惑ったように笑いながら弟を見たが、弟の目に涙が溜まっているように見えて、はっとした。

「お前、どうしたんだよ」「分からない。泣けてきた」

 明龍は、2人に弟の涙が気づかれないように、そっと彼の肩を抱いて自分のほうに寄せた。

 やがて師匠と愛良は離れ、向かい合った。

「またお伺いしますね」

「早く帰っておいで。待ってるよ」

 彼らの元に、崇高と忠誠もやって来た。

「これ、俺たちも協力したんだぜ。満足してくれた?」崇高が言う。

「ありがとう。とっても満足したわ。幸せ」

「じゃあな。君たちもすぐだろ?」忠誠は言った。「俺はもう行くよ」忠誠は愛良の手を軽く握る。

「連絡してくれよ。今度は俺がいろいろ教えてあげるからね。台湾にもおいでよ」忠誠は愛良に笑いかける。「油っこいのはやめて、おいしい所に連れて行ってあげよう。今度は甘いものを食べに行こうね」そう言いながら、彼女の手を引き、背中に手を回して抱き寄せるようにしたかと思うと、頬に顔を寄せて耳元にキスした、かのように他の男たちには見えた。

「おいこら!お前何したんだ!」怒る明陽たちをよそに、愛良は驚きながら恥ずかしそうに、キスされた場所を手で触れていた。

「お別れのキスだよ、知らないの?」怒り顔の男たちに小突かれて逃げようとする忠誠。「俺の女に何しやがるんだよ」と明陽が忠誠に蹴りを入れるが空振りに終わる。

「いいのよ」明陽が本気で忠誠を叩きそうになっているので、愛良は止める。

「忠誠、初めて会った時から、いろいろしてくれてありがとう。崇高が継承者だと誤解されてた時から、ずっと私たちの事を守ってくれていたわよね」

「君のナイトになれた?」男たちに体を掴まれたまま、忠誠は愛良を見つめる。

「ええ、なってくれていたわ。ありがとう。また連絡するわね。まだ聞きたいことがたくさんあるの」愛良が言うと、男たちは忠誠を放した。

「元気でね」愛良が忠誠に手を差し出す。

「君も」忠誠は愛良と握手した。

 忠誠は皆にもあいさつして去って行った。

「あいつ信じられないほど抜け目のない男だな。あのタイミングであんなことしやがって」明陽はまだ怒って忠誠の後ろ姿を睨みつけている。忠誠はそれを知ってか、振り向きもせず歩きながらガッツポーズして見せる。

「全部計算ずくでやりやがったな。おい愛良、お前今、耳に何されたんだ?噛まれたか?舐められたか?今のは痴漢行為だぞ、訴えろ。俺が目撃者だから通報してやる」明陽は、愛良の耳元に触れている手をどかそうとする。

「あのね、今のはキスしたみたいに見えたかもしれないけど唇は触れてないわよ。それにすぐ離してくれたわ。大げさね」

「おい、触れてないからって、俺がちょっとでもそんなことしたらぶん殴るだろう?」

「そりゃそうよ。通報するわ」

「お前、あんな変態男にまで色気ふりまきやがって、この尻軽女が!お前にはがっかりだよ!親父に抱かれたばかりのくせに、俺らの見てる前で自分から別の男に腰を振るなんて!」

 今度は明龍と崇高が、明陽を袋叩きにしようとする。何でお前はそう言葉が汚いんだ、と師匠も叱っている。

「明龍」愛良はそれを止めて明龍に、ミリタリーショップで買ったナイフを差し出した。

「これ、あなたにあげる。これを持って機内に入れないから」

 スーツケースに入れておくの忘れちゃった、と言い笑う愛良。

「ありがとう」明龍はこれを首元に突きつけられた時の事を思い出し、笑いながら受け取る。

「明龍、あなたは最高の武道家だわ。あなたみたいな人と戦えて本当に光栄よ。私も技を磨くわ。もっと成長するから、また戦ってね」

「もっと素敵な君が見られるんだね。今度も君を満足させられるかな?」

 そこへ明陽が割り込んで来る。

「愛良、俺にはキスしてくれないのかよ」

「そうね、あなたには特別にとてもお世話になったから、いいわよ」

 本当?と明陽は目を輝かせる。

「離れた所から投げキッスなら、ね」愛良はくすくす笑う。

 さあ、もう行こう、と崇高が愛良に言う。

「じゃあ私たちも。さようなら」愛良が崇高と共に3人にお別れを言って、行こうとした時。

「あ、そういえば俺!」急に思い出したように明陽が2人を追う。

「どうしたの?」歩きながら振り向く愛良。

「お前と昔の映画の話をするの忘れてたよ。お前も武道家なんだから、ああいう映画見てただろ?どの映画が一番好き?」

「どの映画ってそんな急に言われても。一つに絞るの?」歩きながら聞く。

「じゃいいよ。好きな監督は?」

「監督、ええと…監督?」

 こいつは映画にうるさいから答えなくていいよ、と明龍は愛良に言う。

「じゃ、俳優!誰が好き?俺、こういう話をお前としたかったんだよ。好きな俳優教えて」

「好きな俳優って言ったって、いっぱいいるもの。例えば、黄金期の俳優さんはみんな好きだし」

 愛良と崇高は保安検査のゲート前に来る。

「おい明陽」明龍がそれ以上行かないように弟を引き止める。

「じゃあ、その中で一番好きな俳優は誰だよ」明陽はしつこく愛良に聞く。

「ええ?そんな事、今言うの?」

「気にしないで愛良、もう行って」明龍が愛良に声をかける。愛良はうなずく。

「そういえば俺、崇高が誰かに似てると思ったら、今やっと分かった。あいつだろ!」

「あいつって?」明龍が聞く。「いや、ごめん、名前が思い出せない。あいつだよ、あいつ。だから愛良は崇高が好きだったのかな。そう言えば似てるよ。そっくりだ」

「誰に似てようが崇高は幼馴染なんだし、愛良が男を外見で選ぶわけないだろ」

 愛良と崇高は、兄弟と、その後ろにいる師匠に、笑顔で手を振っている。

「愛良!キスしてくれよ!」明陽が叫ぶ。

 愛良は微笑みながら投げキッスをし、ウィンクしながら手を振った。

「おい、俺は今、ハートを撃ち抜かれたぞ」明陽は胸に手を当てながら兄に言う。「どうしよう、愛良にキスされてしまった。やっぱりあいつは俺の女だ。結婚しなきゃ」

「馬鹿、お前だけにキスしてくれたんじゃないよ。俺たち3人にだよ」

 でもウィンクは俺にしたぞ、と明陽は確信したように言う。

「俺たちにだよ。大体、俺と目が合ってたんだから」明龍は得意げに言う。

「私とも目が合ってたよ」師匠が笑いながら言う。

 崇高は、明陽たちに見せつけるように愛良の肩を抱き、ばれないように彼女にキスする真似をして、手を振っている。

 あの野郎、見せつけやがって、とつぶやきつつ「隣の狼に気をつけろ!そいつのものになるんじゃないぞ!」と明陽が叫ぶと、愛良と崇高は顔を見合わせて仲良さそうに微笑み合う。

「今度映画のDVD貸してやるから!日本未発売のやつ、観たいだろ!」と明陽が叫ぶと、愛良は、うなずきながら、今度観せて!と叫ぶ。

 そして、2人は何度か笑顔で振り返りつつ、楽しそうに通路の奥へ消えていった。

「黄金期の俳優さんは全部好きよ、って無難な答え方しやがって。まあ、あの頃の俳優はみんなかっこいいから当然か」

「良かったな、共通の話題ができて。お前にもまだチャンスはあるぞ」

「兄貴ほどのチャンスはないけどな」

「あるよ、だってお前、顔も声も師匠そっくりになってきてるもん」

 明龍は、弟と師匠を見比べて笑う。親子は顔を見合わせている。

 車に乗り、明龍がエンジンをかけている時、明陽はスマートフォンで画像検索していた。

「さっきの、崇高に似てる俳優というのは誰の事だったんだい?」

 師匠が興味深々で息子に聞く。

「待てよ、名前が思い出せないから映画名で調べてるんだから」

 明陽は助手席から後部座席の師匠に身を乗り出す。

「あったこいつだ。こいつの若い時の写真が…」

 明陽は師匠に写真を見せる。

「本当だ。そっくりだ。誰だこの俳優は、私は知らないが、主演俳優?」

「似てる」明龍も画像を覗き込む。

「さっき崇高が隣にいたから、あいつわざと好きな俳優の名前を言わなかったな。やっぱりあいつが一番惚れてるのは崇高だ。おい、香港一いい男」明陽は兄に言う。「日本一いい男に負けちまったな」

 明龍は車をスタートさせハンドルを切る。

「崇高が一番好きなのかなあ?彼はやっぱり友人だよ。愛良は俺のほうが好きに決まってる」

「妬くなよ。今度会う時は、あいつら恋人同士になってるかもよ?どうする?」

 明陽はニヤニヤ笑いながら兄を見る。

「今頃2人きりになって、きっと俺たちの事を話してるだろうな。それで崇高は今回のことを蒸し返して、俺はさんざんお前に迷惑かけられたんだから、責任取れとか何とか言って、愛良も気が強いわりに崇高には弱いところがあるから、崇高ごめんなさい、お詫びに日本についたら即、あなたのものになるから許して、って言って、結局恋人同士になっちゃうんだよ。ああ、つまんねえな」

「馬鹿、あり得ないよ」明龍は言い、だって次に会う時は、俺の恋人になる時なんだから、と独り言を言う。

「例えそうでなかったとしても、飛行機の中で、崇高は愛良を口説きまくるだろうな。愛良、やっぱり俺にはお前しかいない。修行なんかやめて俺と1つになろう!明龍の事なんか忘れさせてやる!とか言って、愛良もだんだんその気になって、日本に着いたらその足でホテル直行だぜ」

「お前の妄想だろ、やめろ」

「ああ、俺の愛良が、無残にもあんな崇高なんかにメロメロにされてるかと思うと…」

「おい、赤だよ、明龍!」

 師匠の声で急停車する明龍。

「危ないだろ、兄貴!」明陽がどなる。

「お前が動揺させるからだよ」師匠が明陽を叱る。

「お前、黙れ。気が散る」明龍が弟を振り返って言った。

「青だよ。さっさと走れよ」明陽に言われて、明龍は車を発進させた。

「兄貴、愛良にナイフ貰ってよかったな。あれどうすんの?興奮して大事な所を切るなよ」

「お前何言ってんだ、馬鹿」

 やめなさい、と師匠は息子たちを叱る。

「俺は、今朝愛良が兄貴と勝負してる時に使ってたタオルをもらっちゃったもんね」明陽は言う。「今、俺の部屋の枕元に置いてあるんだ。今夜は抱き締めて寝よう」

「お前も興奮してそのタオルに変な事するなよ」

 あとで雑巾とすり替えてやる、と思いながら明龍が言う。

「それより兄貴、忠誠をどうにかしろよ。あいつだけ抜けがけしやがって、あいつのこと許すなよ。あいつ、真面目そうな顔して、あんなに女に手が早いスケベ野郎だったのかよ。やっぱり俺の睨んだ通り、最初から愛良を狙ってやがったんだな。最後なら愛良も笑って許してくれるし、出国すれば逃げられると思ったんだろう。あいつだけは許さない。何がお別れのキスだよ、台湾にそんな習慣ないだろ。それにあいつ、自分は一歩下がって彼女を見守るのが役目だから、とか何とか俺に言ってたんだぜ?大嘘つきめ」

「まさかの番狂わせだったな」明龍が笑う。「あいつ、どっちかというと女性には奥手だと思ってたんだけどなあ。意外だったよ。でも今思い出してみると、わりと早いうちから愛良にアピールしてたっけな」

「愛良もあんな奴にデレっとしやがって、結局ただの尻軽女じゃん。やっぱりあの女は押せば簡単に落ちるぞ。忠誠なんかにやるくらいなら、俺が押し倒しとけばよかったよ」

 やめなさい、と師匠は息子を叱る。

「今回は忠誠が優勝だな。愛良の顔にキスしたんだから。俺は手だから、2位だな」

「俺は投げキッスだから3位かよ。崇高は?あいつは、やってるかやってないか分からないから一応殿堂入りにしといてやるか。親父は圏外な?」

 明陽は笑いながら父親を見る。

「明陽、お前が優勝だよ」師匠は明陽を優しく見ながら言う。

「俺が?何で?冥殺指を入れたから?」

「違う。お前は、怪我した所を愛良に手当てしてもらっただろう?」明陽は、その時のことを思い出し、シャツの襟を引っ張って、隙間から肩に残っている傷を見た。

「愛良はお前に怪我させてしまったことをすごく気にしている。それに、愛良に一番優しくしてもらっただろう?お前が優勝だよ」

 師匠は息子の肩をぽんと叩いた。

「何か、また涙が出てきたぞ」明陽は手で目を押さえる。

 そんな息子を、師匠は優しく見つめている。「お前、その傷の手当てをしてもらった時に、彼女を本気で好きになってしまったようだな」

「いや、違うよ」明陽はうつむいた。何故、涙が出そうになるのか分からない。もう暫くは会えないからだろうか。

「違うかい?」

「ああ、だって俺は、最初から彼女が好きだったんだよ。空手大会で初めて見た時から、凄くいい女だと思ってた。あんなにいい女を連れてる崇高が羨ましかったんだよ」

 やっぱりな、という顔で明龍はルームミラーの中の弟を見た。

「お前の愛良への意識の仕方は尋常じゃなかったぞ。愛良に気があって、崇高に嫉妬しているようにしか見えなかったからな」明龍は言う。

「だって、一緒にいるだけで、男のほうまでかっこよく見せるような、いい女なんだぜ?」明陽は初めて見た時のことを思い出して、笑った。

「そんな女、なかなかいないだろ」それに強くて、優しいしな、と付け加える。

「そういう褒め言葉を、何でもっと彼女の前で言ってやらないんだよ」明龍は弟に言う。

 そんなこと本人に言えるかよ、と言い返す明陽。

「それより親父、愛良を抱き締めた時、どんな感じだった?」

「ええ?どんなって、そんなのお前に教えないよ」

 師匠はにこにこ笑っている。

 上空にはどこまでも青空が広がっていた。


<<終>>

ご覧頂きありがとうございました。「シークレット・フォーミュラ」はpart4までで一旦終了しましたが、続きとして「シークレット・フォーミュラ2」を投稿しています。


「シークレット・フォーミュラ2」

https://ncode.syosetu.com/n2272hc/

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