part 3 目覚め
<登場人物>
・東京: 林愛良:日本人
・東京: 坂本崇高:日本人
・香港: 蕭師匠:古く続く武道流派の師匠。
・香港: 蕭明龍:表向きには師匠の長男ということになっている。実際は師匠の甥(師匠の弟の長男)。
・香港: 蕭明陽:実際は師匠の長男だが、師匠の次男で明龍の弟ということになっている。
・台湾: 張忠誠:武術ライター。
09_目覚め
明朝、ベッドの傍らに伏せて寝ていた崇高が目を覚ましても、愛良は昨日と全く同じ状態のまま、ベッドの中で眠っていた。
「愛良」
崇高が名前を呼んでも、彼女は目を覚まさなかった。崇高の声に気づいて、数人が起き始め、それにつられるように全員が目を覚ました。
夢であってほしかったが、やはり、彼女は目覚めない。
蕭師匠が崇高の隣に来た。
「君は何日でも、ここに泊まってくれていい。飛行機のキャンセル代は支払うし、帰国までの費用は全額支払う。うちの電話で国際電話をかけてもいいんだよ。君たちのホテルの荷物を、使用人に取りに行かせようか。君がホテルに帰りたいなら、明龍に送らせる」
「ありがとうございます」
崇高は愛良の頬を撫でた。顔色はいいし、いつ目覚めてくれてもいいのに。崇高は、彼女の手を取って自分の頬に当てた。
愛良、今も戦っているのか?崇高が頬に寄せた手を握った時、彼女がわずかに握り返したように感じた。
崇高が驚いて手を離すと、愛良の手はシーツの上にゆっくりと落ち、手を握ったような形から開いた状態に戻った。
「どうした?」忠誠が聞いた。
「今、彼女の手が俺の手を握り返したような気がしたんだ」
「何となく、今、手が動いたように俺も見えた」忠誠が言った。
「でも、単に俺が握ったから、反動で動いただけかも」
後ろにいる男たちも、崇高と忠誠の体ごしに愛良の様子を見る。
「愛良、朝だよ」
崇高は愛良の頬を撫でるが、無反応だった。
暗い表情の崇高の肩に、忠誠は手を置く。
「大丈夫、もうすぐ目覚めるよ。だって、ただ眠っているだけみたいじゃないか?昨夜とは全然違うよ。愛良が死ぬはずがない。絶対に戻ってきてくれるって」
しかし、崇高は顔を手で覆い、首を振った。「俺の方がもう限界だよ」
「崇高」師匠が声をかける。
「崇高、苦しめて済まない。昨日は24時間反応がなかったら病院へ行こうと言ったが、君が決めてくれ。もし、今連れて行きたいなら行こう。行くかい?」
崇高は顔を覆ったまま、師匠の言葉に首を振った。
「まだ、大丈夫です。もうしばらく様子を見させて下さい」
崇高は手で顔を覆うのをやめ、両手で愛良の手を握った。
「忠誠の言う通り、眠っているだけに見えます。息をしてるし、顔つきも穏やかだ。もうちょっと、彼女を信じて待ちます」
愛良が明陽の技を受けて餓鬼道に落ち、自ら戦うことを選ぶなんて、崇高にとってはおよそ信じられない話だ。だが、何故かは分からないが、ひょっとして彼女が本当に餓鬼道で戦いを重ね、最終的にこの世に戻って来るのではないか、という気がしているのも確かだった。もしそうなら、邪魔はしたくない。
眠っているような愛良の顔。その口がわずかに開いたように見え、それから愛良は、誰が見てもそれと分かるように、目を閉じたままふーっと息を吐いた。
崇高と忠誠は、顔を見合わせた。
「愛良」
その時、愛良の頭がゆっくり向こうに倒れた。
「まさか、死んでないだろうな?」崇高が愛良の顔をこちらに向かせた。「愛良、愛良」
その時、愛良のまぶたがゆっくりと開き、崇高を見つめた。
崇高は息を飲む。
隣の忠誠も驚いて、後ろの者たちに視線を送った。
崇高は息を止めて、愛良の目を見つめた。
そして手を伸ばし、愛良の頬を撫でると、彼女は静かにほほ笑んだ。
「ずっと前…」愛良は言った。「私が目覚めた時に、こんな風にあなたが見ていてくれたことがあったわ」
崇高は、まるで胸の底から涙があふれてくるような感覚を覚えた。同じ事を考えていたからだ。
「ああ、あったよ。お前は忘れてたのか?俺はあの時のことを覚えてるぞ。お前を、ずっと見つめていたかったんだ」
愛良は体を起こすようにして、崇高に手を伸ばした。「ありがとう」
愛良は自分のほうにかがみこんだ崇高の体を抱きしめた。
愛良はそのまま、かつての恋人の体をきつく抱きしめる。「崇高」
忠誠はそっと崇高の隣を離れた。
ちょっと、出ていてあげよう、と忠誠は他の者たちに目配せし、部屋の者は2人を残して外へ出た。
「良かったな、目を覚ましてくれて」明龍が周りの皆に言った。「ほっとしたよ」
「ああ、良かった。精神のほうも何ともないみたいですね」忠誠が師匠に言った。
「ああ、そうだといいと思う。本当に彼女には申し訳なかった。だが、もう少し会話をしてみないと分からないな。とにかく、私はこれから彼女に飲ませる、漢方入りのお茶を用意するからね」蕭師匠は安堵した表情でそう言い、その場を去った。
「おい、忠誠」
明陽が言った。
「お前日本語分かるんだろ、さっき彼女、何て言って崇高に抱きついたんだ?」
「お前、まず彼女が目を覚ましたことを喜べよ」
明龍は弟を肘で小突いた。
「兄貴だって気になるくせに。俺だって喜んでるよ。おい、何て言ってたんだ?」
「ちょっと思い出すから待って。ええと、昔、私が目を覚ますと、あなたが私をこうやって見つめてたことを思い出したわ、って」
「それで?崇高のほうは?」
「俺はそれを忘れたことはないよ、お前をずっと見つめていたいんだ、って」
明陽はうなずきながら腕を組んだ。
「つまり、やっぱり初めての男だな、あいつは」
明龍はまた、弟を小突いた。
「キスしてるかな?」明陽が部屋の中を見ようとしたので、明龍は弟を引っ張って阻止した。
部屋の中では、どうしてもこらえきれずに、愛良の片手を握り締めた崇高が涙を流していた。
「崇高、ひどい事をしてごめんなさい」愛良は崇高の肩に触れた。「私が死んだと思って、怖かったんでしょう?」愛良は、涙を流しながらも彼女に表情を見られたくなくて横を向く崇高の肩を優しく撫でた。
「ごめんなさい」
「お前、俺のことをさんざん泣かせやがって、俺がどれだけ泣いたと思ってるんだよ!涙でお前が見えなくなるくらい泣いたんだぞ。叫んだし、絶望したし、混乱したし、不安だったし、ただただ、悲しかった。お前が本当に死んでしまったと思ったから。俺の前であんな死に方をして、本当に許さないからな。呼吸していると分かってからも、呼んでも反応しないし、全然目を覚まさないし…お前、無茶ばかりして、本気で怒ってるんだぞ、馬鹿!俺は、俺は…!」
愛良はうなずきながら微笑み、崇高の髪を撫でた。
「お前が死んだら俺はどうすればいいんだよ?俺をこんなに苦しめて。愛良、お前は本当にとんでもない奴だ」
「そうね、親友のあなたをそんなに苦しめて、私は悪い人間だわ」
「俺はお前と楽しく過ごそうと思って誘ったんだ。お前と昔みたいになりたかった。お前だって楽しみだって言ってくれたじゃないか。俺は嬉しかったし、幸せだったんだよ。最後の日まで、できるだけ楽しく過ごそうと思っていたのに。お前が、突然この俺を地獄のどん底に突き落とすなんて、何て奴だ。あんなに必死に止めたのに、俺の言う事も聞かず、俺の目の前で…俺がどんなに辛い気持ちだったか!」
愛良は崇高を見つめながら、落着かせるように彼の肩や腕を撫でた。
「悪かったわ」
崇高に握られた手から、彼の辛さが伝わってくるようだった。愛良は彼の手に頬ずりした。
「ごめんなさい、崇高。あなたにひどい事をしたわね。許してとは言わないわ」愛良の目に涙が溜まり、その涙がこぼれないように目を閉じた。「私、またあなたを傷つけたわ」
外では忠誠が、2人の会話を聞きながら、もらい泣きしそうになっている。
「おい、お前だけ泣くなよ、俺たちにも分かるように訳せよ」
そういう明陽も、愛良が生きているということがようやく実感できて涙が出そうになっている。
「崇高が、愛良のこと責めてる。愛良は崇高に謝ってる」
「そんなの口調で分かるよ。具体的に何て言ってるんだよ」
「崇高が、お前が死んだらどうすればいいんだって。愛良は、苦しめてごめんなさい、私を許さなくていいって。もういいだろ」そう言うと、忠誠は泣くのを我慢して黙ってしまった。
そのへんでやめとけ、という目で明龍は弟を見る。
部屋の中では、崇高はようやく落ち着いてきたようだった。愛良の頬や髪、肩に何度も触れて、手を撫で、本当に生きていることを確認して安心したように笑った。
「愛良、お前が目を覚ましてくれて良かった。俺はお前がきっと帰ってくると信じてたから。もういいよ。お前が目を覚ましてくれたんだから」
「私、あなたのそばにいる資格はないわ。あなたをすぐ傷つけてしまう」
「違う!そんなこと言うな。お前が生きてるなら、それでいいんだから」
愛おしそうに手に頬ずりし、手の甲に何度もキスする。
「私、どれだけ気を失ってたの?3日ぐらい?一週間?」
「いや、お前が倒れたのが昨晩で、今日は夜が明けて朝になったところだ」
「まだそれしか経ってないの?ここは?」「道場の2階だよ」
愛良は腕時計で時間を確認しようとした。
「そう言えば、時計はあなたに預けたんだっけ」
「ああ、日本時間のままのやつな」
崇高は笑って彼女の腕時計を出し、渡した。
部屋の外では、さっきさんざん愛良を責めていた崇高の笑い声が聞こえたので、明陽が「あいつらもう仲直り?」と忠誠や明龍をかわるがわる見て呆れていた。
「やっぱりあの2人は仲がいいな」と明龍は笑う。
「あと、指輪とネックレスもだったな」
崇高は、まず指輪を取り出して愛良に渡した。
「ありがとう」愛良は指輪を中指にはめた。
「なあ、そういうの、自分で買うのか?」崇高が遠慮がちに聞く。
「そうよ。これ安ものなの。見えないでしょ?」
「誰かに買ってもらったのかと思った」崇高は、ほっとしたように言った。
「誰かに?買ってくれる人なんていないわよ」愛良は笑う。
「ネックレス、つけてやろうか?」
「大丈夫よ。あとで自分でやるから持ってて」
「つけてやるから、遠慮するな。髪、持ちあげて」
愛良は体を起こし、後ろの髪を束ねて持ち上げる。崇高は彼女にネックレスをつけてやった。
「似合うよ」崇高はペンダントヘッドの位置を調整してやる。
「ありがとう。これもすっごい安ものなの。デザインが気に入って買っちゃったわ」
「今度、俺が高いのを買ってやるよ。立派に通訳をやってくれたお礼に」
「あなたが殆ど自分で話してたじゃない。それに振興会の人は日本人ばかりだったから、結局、私の出番なんてなかったわ」
「そうだよ。お前と出張するための口実だったんだからな」
その時、ドアがノックされて、蕭師匠が、お茶を持ってやってきた。明龍、明陽、忠誠も続いて入って来る。
「ちょっと隣に失礼するよ」師匠は崇高の隣に座り、愛良に優しく微笑みかける。
「蕭師匠!」
愛良は、尊敬する師匠がいきなり現れたことに驚いて、目を見開いた。そして、夢ではなく本当に蕭師匠であると分かり、飛び退かんばかりの体勢を取る。
「ああ、動いてはいけない」
「師匠、あの、あの、ご不在と聞いていましたが…」
消え入りそうな声で言いながら愛良は、師匠と崇高の両方を、何度も見る。
後ろで腕を組んで見ていた明陽は兄に、「あいつ俺の親父に、相当びびってるな」と耳打ちした。
「愛良。師匠は、お前の様子を昨日からずっと見てくれていたんだぞ」崇高は言った。
「見てた…?」
「どうしたのかな?そんなに驚かなくても」師匠は笑いかけた。
愛良はどうしていいか分からず、ただ師匠をまじまじと見ていた。
「別に君を診察してたわけじゃないよ。顔色とか、息をしているかとか、そういうのを見て確認しただけだからね。ああ、起きなくていい」
愛良が起き上がろうとするのを師匠が止めた。「今から、君が元気になるお茶を飲ませるから、そのままの姿勢で、私に任せなさい。私は昔、妻の介護をしていてこういうのに慣れてるから、驚かなくていいんだよ」
師匠は愛良の首の後ろにそっと手を回して頭を起こし、彼女の口元に湯のみ茶碗を持ってきた。
愛良の体が緊張でこわばる。
「体を私に任せて」
愛良が戸惑っていると、師匠は愛良を支えながら優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ」
師匠の覗き込むような視線に、愛良は釘付けになる。
「まず香りをゆっくりかいで。さあ」
愛良は香りを吸いこんだ。
お茶の葉のいい香りがして、彼女の堅い表情が一気にやわらいだ。
「君の為に特別に調合したお茶だから、きっと君の体に効くと思う。さあ飲んで、ゆっくりね」
愛良は口元にあてられた茶碗から、ぬるめのお茶をゆっくりと飲んだ。
明陽は後ろからその様子を見ながら、親父はお袋を思い出しているんだな、と思った。明陽は幼かったが、昔、同じ事をやっていたのを覚えている。
「まだ起き上がってはだめだよ、横になったまま、安静にしなさい」
飲み終わった愛良の口元を拭いてやり、師匠は優しく笑って、部屋をあとにした。
「親父、幸せそうな顔してるなあ」
部屋を出て行く姿を見て、明陽は兄に言った。
崇高は愛良に、良かったな、と言っている。愛良もまた、幸せそうな表情をしている事に、明陽は気づいた。
「どうした愛良、ぼうっとしてたぞ」崇高は愛良に笑いかけた。
「え?してないわよ」
「お前、本当に蕭師匠のことが好きだったんだな。俺が今まで見たこともないような、うっとりした表情をしてたぞ」
「だって、急にいらっしゃって、信じられなかったんだもの。ご不在じゃなかったの?びっくりしたわ」愛良は照れながら笑う。
「台風で飛行機が欠航になって、戻って来たんだよ。お前と別れたあと忠誠が空港に行って、師匠を連れ戻して来てくれたんだ」
愛良は、ドアの所で自分を見ている忠誠のほうを見た。目が合うと、忠誠は手を上げて微笑んでみせた。
明龍は弟を肘で小突く。「まずお前、謝るなり何なり言葉をかけろ」明龍は厳しい口調で弟に言った。「逃げるんじゃないぞ」
「ええ?何て言ったらいいかな」
「参りましたとか言えよ、土下座して。あと、殴って済みませんでした、だな。お前は不必要に彼女を殴りすぎたんだから」
明陽は兄に押されながら、愛良のベッドのそばに来た。
愛良は明陽の姿を認めると、握手のために手を差し出した。
「明陽、勝負はあなたの勝ちだったわね。あれだけやられても、最後の最後で私を倒すとは、さすが師匠の息子だわ」
「俺の勝ち?」思いもよらない言葉をかけられた明陽は驚きながら、遠慮がちに、差し出された愛良の手を握った。
「そうよ、最後まで闘争心を失わなかったのは、とても立派だったわ」
「なあ愛良、違うだろ」明陽は困惑しながら言った。「あの勝負は、俺の勝ちじゃない。俺は、お前を…」
殺そうとしたのに。しかもあの時、お前は俺をかばった。
あの時の事を思い出した明陽の動悸が早くなりかけているのに愛良は気づき、握手している明陽の手の上にもう片方の手を重ねた。
「私は大丈夫よ明陽。生きてるわ」愛良は、安心して、という目で明陽を見た。「私を殺したと思ったんでしょう?大丈夫よ、生きてるんだから」
「お前、どこまで俺たちを騙すんだよ、何であんなことになったんだ?」明龍は弟に、おい、まず謝れよ、と言っているが明陽は聞いていない。
「何に騙されたの?私はただ、あなたと戦っただけよ」
確かに愛良の言うとおりだが、彼女の意思が強く働いて何かが起こったことは確かだ。
「何故俺はあの時、お前にあんなことを…」しかし、明陽はそれをうまく言葉にすることができなかった。
「あなたが私を倒して勝負がついたのよ、そうでしょ?」愛良は明陽の言葉を遮った。「いい戦いだったわ明陽。あなたの勝ちよ」
愛良は隣の明龍を見た。「明龍、あなたにも心配をかけてごめんなさい。私、すごく長い期間、眠っていたような気がするけど、あれは昨日の出来事だったのね。昨日はいろいろ気を遣ってくれてありがとう。脚の怪我は何故かもう治ってしまって、どこも痛くないみたいだから、病院には行かなくて大丈夫よ」
明龍は、弟が握手している手を無理やり引きはがして、愛良の手を握った。
「本当?大丈夫ならいいけど、気になる事があったら言ってくれよ。薬も湿布もあるし、良かったら、整体とかマッサージサロンにも、連れて行ってあげられるよ。疲れてるだろうから、今日はここに泊まりなよ。ここに来てくれたお礼に、おもてなしするから。何かしてほしいことない?」
「ありがとう。でも今日は日本に帰る日なの」
「欠航になってるよ」忠誠がスマートフォン片手に言った。「昨日の嵐で欠航になったのがひびいてて、今日も午前の便は欠航だって。君たちは午前便でしょ?空港は混雑してるみたいだから、行かないほうがいいよ」
「どうする?帰れなくなって。客室があるから、うちに泊まってくれよ。何も心配ないよ」嬉しそうに言う明龍の言葉に、愛良は崇高を見た。崇高は、お言葉に甘えよう、という顔でうなずく。
「ありがとう。まず荷物を取りにホテルに帰らなきゃ」
「俺ももう帰るよ、彼女が無事に目を覚ましたのを見届けたから」忠誠は、明龍が愛良の手を握っていたのであえて握手することはせず、彼女の傍らまで来て彼女の肩に手を置いた。
「君が目を覚ましてくれてよかった。安心したよ。またね」
「え、待てよ」明龍は友人を引き止める。「あと何日もいられるって言ったじゃないか」
「彼女が目を覚まさなかったら、何日でもいるつもりだった。でも彼女が無事なら、安心したからもう帰るよ。愛良、ランチデート楽しかったよ。また落着いたら、名刺の所へ連絡くれよ、待ってるからね。絶対に連絡くれよ?じゃ」
と言いかけた時、明龍に握られていた手を振り払って愛良は忠誠の手首を掴んだ。
「まだ行かないで」
予想外の愛良の言葉に、その場の全員が驚いた。
「少しも話す時間はないの?」
「いや、あるよ」
忠誠は意味深長な目で愛良を振り返った。
え、この2人は一体どういう関係?と忠誠以外の男たちは、顔を見合わせていた。
「じゃあ、ちょっと2人だけでお話ししたいことがあるわ」
「分かった」
愛良は他の者たちの顔を見た。「ごめんなさい。2人きりにしてもらってもいい?」
「ああ、いいよ」男たちは、動揺しながらも物分かりのいい所を見せつけつつ、部屋を出て、ドアをバタンと閉めたあと、ドアをまた少し開けて、聴き耳を立てた。
「あなたのお名前も、どこにいるかも知らなくて、私は探すこともできなかったけど、きっと、あなたね。台湾の張さん」
「何が?」
愛良は忠誠の目を見つめたが、視線を落とした。
「とぼけないでよ。明龍が私を連れて行こうとした時に、あなたが私を守ろうとして、彼に攻撃した時、ほんの一瞬だったけどその型で気づいたわ。私の目をごまかせると思うの?」
忠誠は感心したように笑った。
「さすがだ。やっぱり、あれだけでばれるものなの?一瞬なら、ばれないと思ったのに。あの時、君がすごく驚いた顔で俺を見るから、俺のほうもびっくりしたよ」
「何故名乗ってくれなかったの?あなたの家系にはさんざん迷惑をかけて、申し訳ないと思っていたのに」
「いや、迷惑なんかかかってないよ」忠誠は首を振った。
「やっぱり、ずっと台湾にいたのね。気づかなくてごめんなさい。しかも、名乗らずにさっさと帰ろうとするなんて。今私が引き止めなかったら、本当に帰るつもりだったんでしょ?」
「そうだよ。俺が君に名乗らなかったのは、もし俺が探している人がいい人だったら、きっと俺の先祖に対してそうやって謝罪したりするだろうと思ったからだ。林家の執事だった頃のうちの先祖はどうだったか分からないが、子孫の俺は今現在、何も不自由はない。だから、林家の子孫だからって君に負い目を感じたりしてほしくないよ。それと張家の言い伝えで、林家の人間には、子孫として林家の人間に会うことがあっても、決して自分から正体を明かしてはならないという掟がある。聞かれた場合は、それは主人の命令だから、失礼なく名乗るようにと。俺の家は代々、主人の事は距離を置いて見守り、もし助けが必要になった時は、命をかけて守れと言われている。そして、主人の無事を見届けたらまた自分の位置に戻ること。決して主人の前で出しゃばらないように、主人の利益だけを最優先に行動するよう、そう教えられてきた」
やはり、同じ流派を継いだ者は、歴史をも背負わされてきたのか、と愛良は思った。
「ただし、肝心の主人がどこで何をしているか、今回の件があるまで代々誰も知らなかったんだけどね」忠誠は笑う。「やっと主人に出会えて、俺はやっと従者になれる」
「私はあなたを知らなかったんだし、もしあなたがそんな主従関係みたいなことを考えているなら、もうそれは今日限りで解消しましょう。同じ流派を学ぶ武道家として、私をあなたの友人にしてくれない?私以外にあなたも流派を伝授されていたことが分かって嬉しいわ。祖父はそれを知らなかったんだと思うけど、何も教えてくれなかったの。だから、台湾出身の執事がいて、一緒に台湾へ逃れてからは台湾に張家の人間を残し、林家だけが日本に逃れたらしいことは書物の記録を読んで初めて知ったわ。あなた以外に流派を学んでいる人はいるの?」
「いないよ。父が師匠だったが、今は実践していない。だから、世界には俺と君、2人だけ」
忠誠は、凄いだろ?と笑った。
「だから俺は、君を守りたかったんだ」
「記録を記した書物は?」
「君の家にあるものと同じものがある。まずあの当時の執事が、死亡事故のあと、妻の郷里が台湾だということで君の家の人たちを台湾に移動させた。我々は問題を起こした分派だから、元の流派の書物は持ち出せないし、貸してくれということもできない。だから、主人、つまり林師範が、書物に書いてあったことで覚えていることと、自分が会得している内容を、全て記憶から書き出したんだ。執事の張と2人で、同時に書いたから、同じ書物が2つできて、一つはうち、もう一つは君の家で保管した。その時は流派を絶やさないことが第一目標だったから、そうすることが必要だったらしい。当時の師範は1人息子と執事を弟子にして、流派を教えこんだ。その後、台湾で林師範の身元がばれて居づらくなり、執事を台湾に残して、本土にはもう戻れないから師範は日本へ渡ったと聞いている」
「あなたに弟子はいないの?弟子の候補も」
「君と同じ。いないよ」
「私と同じって、どうして知ってるの?」あなたに話してないわよね、と愛良は不思議そうに忠誠に尋ねる。
「昨日、ここの門弟がずっと君の戦いの様子を録画してただろ。あれを見せてもらったんだ。どこかでそう答えてただろ?全部見たよ」
「嘘!全部って、全部?」
「君の身に何が起こったのか知ろうとして、最初から最後まで見せてもらった。君の戦いはすごかったよ。あんなに興奮した試合は、俺も今まで見たことが無い。1人でよくあそこまで修行したね。独自の型も開発しているみたいだ」
彼女は試合を見られていたという恥ずかしさから、沈むようにブランケットの下にもぐりこんでしまった。
「どうしたんだよ」
「崇高にも見られたくなかったけど、あの人は頑なに帰ってくれなかったから、それは仕方がないとして、あなたも見たのね。本当はあまり人前で技を披露したくないのよ。戦い方が素人っぽくてめちゃくちゃだったでしょ?そのくせ明陽には偉そうな事を言ってしまったの。あれ、恥ずかしいから忘れてね」
「披露したくなかった?その割には随分、生き生きと派手に動いてたよね、君は見せる戦い方をしていたし、もっと見たいと思っちゃったな。俺も君の投げたタオル、受け取りたかったよ」
言いながら忠誠は、この様子では、師匠もあの映像を何度も、場面によっては繰り返し同じシーンを見ていたなんてことを知ったら彼女、どうなってしまうんだろうな、と思っていた。
「とにかく、俺も弟子入りしたくなるくらい、いい動きをしていたよ」
愛良が無言のまま、ブランケットの下から出て来ないので、忠誠はブランケットをめくって言った。
「友人として言うよ。君は本当に凄かったよ」
「ありがとう」
その時、ドアの向こうでは別の騒動が起こっていた。
「親父、何してんだよ」
明陽の声で、部屋の中の2人にも、ドアが少し開いていて、今の会話が筒抜けだったらしいことが分かった。
明陽は、おかゆを持って歩いてくる師匠を止めようとしている所だった。
「何か臭うと思ったら、そんなもの作ってたのかよ」
「だって、いいだろう別に、彼女は昨晩から何も食べてないんだし」
「あのな、愛良はお袋じゃないんだから。それに海外から客が来た場合の朝食は洋食だろ?パンとか食べさせろよ」
そこへ、様子を確認しようとした忠誠が、部屋のドアを開けた。
「ああ、あの、悪かった。会話をつづけてくれ」明陽は忠誠に言って、ドアを閉めようとしたが、忠誠はいや、せっかくだから、とドアを開けた。
「彼女は日本人だからそんなもの食べないよ、親父やめてくれよ」
そう言う弟の肩を掴み、明龍は少し微笑みながら言う。「まあ一回だけ、やらせてやろうよ。師匠も一生懸命作ってくれたんだろうし、捨てさせるのか?まあ、彼女がいらないっていうなら俺がもらうけど」
明陽は父を押しのけて先に部屋に入った。
「愛良、ごめんよ、1回だけ、親父につき合ってくれ、親父は死んだお袋の事を思い出してるらしくて、こんなことやってるんだよ」
こういうことをするから親父は恥ずかしいんだよ!と師匠にどなってから、また明陽は愛良を見た。「中華粥だけど、食べられるのか?」
愛良はええ、頂くわ、と言ってうなずいた。
「食べたくなかったら正直に言えよ?まずかったら吐きだせよ?我慢するなよ?」
「大丈夫よ。喜んで頂くから」愛良は嬉しそうに笑った。
「おい親父」食べさせる準備をしている父親に息子は言った。「彼女は俺が呼んで稽古をつけてもらった武道家なんだから、そこ勘違いするなよ?本当に。彼女には1回だけこんなことにつき合ってもらうけど、1回だけだからな。親父は、自分の趣味に彼女を無理やりつき合わせてるんだからな!」
お前も自分の趣味に、無理やり彼女をつき合わせたけどな、と思いながら弟の服を引っ張る明龍。
本当にもう、恥ずかしい!と明陽は文句を言っている。
「分かったから、お前も落着きなさい。疲労から回復しようとしている人に、食事をさせるだけなんだから」
明陽は廊下にいる崇高を部屋に引っ張って来た。
「おい、お前彼氏なんだから、親父が何か変なことをしないように、ちゃんと監視してやってくれよ」
明陽は頼み込むように言いながら、崇高をベッドの隣の椅子に座らせた。分かった分かった、と崇高は微笑んで同意する。
「彼氏なら本当にちゃんと見てろよ!お前、笑ってるけど親父が何するか分からないぞ」
やきもきする弟を見て、明龍はこらえきれずに爆笑している。
「親父、いいか、お袋じゃないんだから、食べ終わったあとでキスとかするなよ、絶対に!」
それから愛良のそばに来る。「愛良、ごめんよ。本当はこんなジジイに介抱されるのなんて嫌だろ?親父が何か気に入らないことをしてきたら大声で叫べよ?スキンシップとか絶対に許すな。お前に覆いかぶさってきたら張り倒せ」
「いいからお前、彼女がびっくりするから、そんなに興奮するなら出ていなさい。おかゆが冷めてしまう」師匠が追い払うような動作をしながら言う。
「頬とかおでこにキスもだめだぞ。顔や髪を撫でたりするのも禁止。手を握るのも禁止。どこにも触るな!」
明龍は弟が邪魔にならないように部屋から連れ出した。
「お前だって手を握ったじゃん、師匠は手ぐらいだめ?」「あれは彼女が俺と握手したくて手を差し出してきたんだし、俺は彼女に他意はない。親父は彼女を、女として見てるから駄目だ。お袋の時みたいに、キスしながら食べさせたりしないかと思うと、気が気じゃないよ」
「でも愛良も師匠が好きみたいだから、彼女だってキスくらいならいいと思ってるかもよ?」明龍が冗談を言う。
「やめろ兄貴、そういうの俺、冗談でも許さないからな!」明陽が頭をかきむしるのを見て兄は笑う。
「そんなに心配なら、お前がそばで見ててやればいいのに」明龍は弟に言った。
「お袋を思い出すから俺は見ない」
忠誠と明龍は、明陽を気遣うように肩に手を乗せたが、明陽は無言のまま、やがて彼らの手を振り払って1階に降りて行ってしまった。
「どう?少し冷めてしまったかな」
愛良に食べさせながら、師匠は微笑みかけた。
「いえ、おいしいです」
「噛まなくても大丈夫だよ。飲みこめるかい?」
「はい」
師匠は優しく笑った。「もう心配ないみたいだね」
「ありがとうございます。あの、師匠。昨日はあなたの大切な息子さんに、大きな怪我をさせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
愛良が真っ先に師匠に謝っているのを見て、そういえば弟は愛良に謝罪しなかったな、と明龍は思い出していた。
「息子の肩のところ、君が手当てしてくれたんだろう?ありがとう。息子が無理に決闘につき合わせて、済まなかったね。私がちゃんとしつけずに大人になってしまったものだから、いい歳をしていつまでも心が子供のままだ。怪我はいつもする程度のものだから大丈夫だけど、息子は君を命の危険にさらしてしまった。こちらこそ申し訳ない。本当はおかゆなんか作ってごまかせるものではないんだが、私も親として反省している。でも、君が思ったより早く回復してくれて嬉しいよ」
冥殺指のことを聞かれるかと思い、愛良は身構えたが、師匠はそのことには触れなかった。
「私の思い過ごしかもしれないが、さっきからまだほんの少し、呼吸が早いようだが大丈夫?もしかして熱があるのかな」
「あの、それはきっと…」愛良は、心配して見つめて来る師匠から目をそらした。「緊張しているので。私の尊敬している方が目の前にいて、話しかけて下さるのがちょっと信じられなくて」
恥ずかしそうに、尊敬している、と言う愛良を見て、師匠はかつて妻に抱いた感情と同じような感情が芽生えようとしているのに気づき、それを必死で抑えた。
「悪かった、じろじろ見たりして。君ちょっと代わってくれないかな」
師匠は、崇高に食器を渡そうとした。
「大丈夫ですよ」崇高は言った。「続けてあげて下さい。師匠は彼女にとって、大好きな憧れの人なんですから、嬉しくて胸が高鳴っているんですよ」
そんなことを言われて、今度は師匠のほうが緊張し始めた。
「そういえば私たちは今が初対面だったな」師匠は言った。何だか妻のような雰囲気がして懐かしく思っていたが、愛良にとっては、今日師匠がお茶を飲ませてやったのが初対面だった。
「よろしくね、明龍と明陽の父親、蕭詠明だ」師匠は手を差し出した。「林愛良です」愛良と師匠は握手し、明陽が来ないうちに手を離した。「もっと食べられるなら、みんなで朝ごはんにしよう」
明陽は1階にいる門弟たちに、彼女が目を覚まして、問題なく回復して会話もでき、食事もしているということを伝えて、決闘の画像を消去した携帯電話やビデオ機器を返し、解散を伝えた。弟子たちは愛良をもう一度見たいと明陽に頼んだが、明陽は、今後交流の場を設けるから今日は帰るようにと言い、弟子たちも諦めて帰宅していった。
明陽は2階に戻り、食器を洗っている父の所へやってきた。
「親父まさか、愛良の使ったスプーン、舐めてないだろうな?」
「お前、やめなさい。そんなこと私がするわけないだろう」
「でもお袋の時はいつも、俺たちの見てる前でしてたじゃないか。癖でやったりしてないか、見張ってればよかった」
師匠は、やれやれ、と首を振る。
「そりゃ、私はお前のお母さんを心から愛していたんだよ。だから食事させる時にはキスするし、体を撫でるし、体が痛いようなら、当然マッサージしてやったんだ」
「それは分かってるよ。ところで親父、俺が以前よく再婚しろって言うと、特に好きな人はいないからって答えてたけど、特に好きな人は、今もいない?」
「私が今から再婚なんかしたって仕方がないだろう」
「愛良のことはどう思ってるんだよ?」師匠は、息子に何かを見透かされたような気がして、どきっとした。
「そんな、まだ会ったばかりの人に。それは、彼女は素晴らしい武道家だと思っているよ。しかし私など、彼女よりずっと年齢が上だし、明龍やお前のほうが年が近いだろうに。明龍は一時期修行に執着して、だんだん飲み友達とつき合わなくなってお酒を一切やめて、あの頃は女性とも交際していたと思うがそれもなくなって、将来結婚したら何とかと言っていたのも急に言わなくなり、他人に興味がなくなってしまったと心配していたが、彼女には積極的に関わろうとしているのを見て驚いたよ」
「だろ?俺も驚いた。以前の兄貴に戻ったみたいだ。普通の感情を普通に表に出すようになったよな。女1人現れただけであんなに変わってしまうなんて、兄貴もただのドスケベの腑抜けだな」
「でも、崇高が彼女の恋人みたいなものだろう?恋人ではないと言っているけど、恋人のようだ」
「元彼氏、つまり他人だよ。ただ、元彼氏とやらが愛良に何人いるかは知らないが、あの彼氏は確実に、彼女にとっては特別な元彼氏なんだよな」
そこへ明龍がやってきた。
「朝食のケータリングを取りますよ、師匠。ケータリングが来る間に俺たちは2人とホテルに行って荷物を取って来ます。休日の朝だから、今なら道路もすいてますし」
「ああ、そうしてくれ。でも愛良は、昨日あれだけ激しい戦闘をした後なのに、出かけて大丈夫かな」
「親父」
明陽は怒ったような顔つきで師匠の前に来た。
「まさか、愛良と2人きりになって、肩とか背中をマッサージしてやりたいとか思ってないだろうな、いくら整体ができるからって調子に乗るなよ。愛良はお袋じゃないんだから、わざわざ親父にマッサージなんかしてもらわなくても大丈夫なんだからな」
「さっきから、お前は何でそう、おかしな意味に取るんだ。気を失っている状態から起きたばかりの彼女を、ただ心配しているだけだよ」
「でも、マッサージしてやりたいと思っただろ?正直に言えよ」
「いや、もし本当に辛いんだったらやってあげてもいいかな、とちょっと思ってしまった。お前との戦いで相当疲労しているだろう?私だって、ずっと人にやってなかったし、腕がなまって…」
明陽が、さらに威嚇するような顔つきをしたので師匠は「でも、やらないよ。やらないから、そんな顔で見ないでくれ」と謝る。「私が誰も見ていないところで、彼女にそんなことするわけないんだから」
「いいか、もし愛良にそういうものが必要だったら、俺たちで外の店に連れて行くから余計な気遣いするな。親父は愛良をお袋と勘違いしてるだろ?夫婦ならやっていいことでも、愛良は赤の他人なんだから気をつけろよな。男にやるなら分かるが、愛良は女だぞ。腕がなまるだ?整体の練習をしたかったら、俺か兄貴相手にやれよ。一度もしてくれたことがないじゃないか」
「だってお前、さわるなとか言って逃げるからだよ。明龍はストレッチをしてるから必要ないって言うし」
「ストレッチなら愛良だってやってるよ」自信満々に言う明陽に、え、そうなのか?と問いかける師匠。「親父、あの蹴りを見ただろう。あれだけ脚が上がるんだから180度開脚も余裕でやってるよ。親が新体操の選手というだけあって体が柔らかそうだからな。とにかく愛良に軽々しくさわるなよ、あと、愛良の前で整体ができるとか言うなよ?あいつが無理して親父につき合ってやろうとしたら悪いからな」
「おい、そのへんにしとけ」明龍は弟に言う。「元はと言えば、お前が愛良に無理やり決闘させたからこうなったんだろ。師匠は単に彼女の疲れを癒したくて言っているだけだ。お前は何の権利で批判してるんだ。よく考えろ、お前が一番、彼女を好き放題に扱ったくせに」
「無理やりじゃないよ、愛良だって本当は俺と戦いたかったんだから。俺が批判してるのは、親父が愛良をお袋と勘違いしてるところ。愛良とお袋は全然違う人間なんだから、同一視するなって話。兄貴だって俺のお袋が生きてる頃、親父が俺たちの目もはばからずにベタベタしてたのを見てるだろう、ああいうことを、妻でも恋人でもない愛良にやろうとしてるんだよ、親父は!」
もういいから、と明龍は弟の腕を引っ張った。
「師匠、じゃ、俺たち皆で行ってきます。すぐに戻って来ますから。車でちょっと行くだけだし、愛良に無理はさせませんよ」
「ああ、頼む。彼女はもう起き上がってるんだね?」
「もう立って、普通に歩けてますよ」
「もう立ってるって?」
明陽が師匠の寝室に戻ると、愛良が忠誠に「まだ話が途中なんだから帰らないでね」と言っているところだった。
「おい愛良」明陽は部屋に入って来るなり、いきなり愛良をベッドに押し倒した。他の男たちは目が点になる。
「いいこと教えてやるぞ」明陽はベッドに倒れた愛良の上にブランケットを被せてから、起き上がろうとする彼女の体をブランケットごと押さえつけた。
「何してるんだよ!」明龍が弟を制止しようとする。
「お前、ここがどこか分かってるか?」明陽が愛良に聞く。
「道場の2階でしょ?」
「違う。この部屋だ。この部屋は親父の部屋で、このベッドは普段親父が使ってるベッドだよ。つまり、お前が今横になってるのは、お前の憧れの蕭師匠のベッドだってこと。光栄だろ。もっと味わえ」
愛良は赤くなりながら困惑気味に他の男たちを見る。
「何だ、急に大人しくなったな。嬉しいんだろ?お前今、女の目つきしてるぞ」
「やめて。明龍、やめさせてよ」愛良は明龍に訴える。
「明陽、まあとにかく彼女を離してやれ」明龍は弟に言う。
「親父が真っ先に愛良をこのベッドに寝かすなんて、親父もスケベ心があったのかな?」
明陽は愛良を離して兄に聞く。
「そんなわけないだろ。お前さっきから何、師匠のことを疑ってるんだ。上にあがって来て一番近い部屋がここだから、ここに寝かせただけだ。奥の客室まで距離があるんだからさ」
「そうかなあ?普通、知らない女を自分のベッドに寝かせるか?おかしいな。兄貴ならどうだよ。もし兄貴が部屋のドアを開けた時、自分のベッドに愛良が寝てたら、さすがの兄貴も理性が吹っ飛ぶだろ」
明龍は弟に掴みかかる。「お前、変な想像させるなよ」
「あれ、兄貴も興奮しちゃった?」
愛良は崇高の手を借りてベッドから立ちあがっていた。「寝心地どうだった?良かったんだろ」崇高が冗談めかして愛良に聞く。愛良は恥ずかしそうに微笑みながら、崇高の胸に優しくパンチした。
「早くホテルに戻りましょう」
車の助手席には愛良が座り、運転は明龍で、明陽、崇高、忠誠は後ろに乗った。
「そう言えば、通報しなかったな」
明龍は助手席の愛良に冗談で、どうしようか?という顔で話しかけた。
「わき見運転しないで」
「何だよ通報って」後ろから身を乗り出して明陽が聞いた。
「ここに来る時、人質を取ったことで彼女がすごく俺を責めて、まあ勿論、彼女が怒るのは当たり前だしあの時は崇高にも本当に済まなかったけど、彼女が通報するって言って、俺も彼女に押され気味だったから、行先を警察にしようとしたら、弟をぶん殴ってから通報するから、まず道場に行けって話になったんだよね。まあ、あの時は、翌朝こうして5人で仲良くドライブするなんて、考えられなかったなあ」
「俺には通報するなって言ったんだよ」
崇高は言った。
「俺が解放されて、俺には逃げろって言って、俺は彼女がもめ事に巻き込まれるのが嫌だったから、今から出ていって通報するって言ったんだ。そうしたら、蕭師匠に迷惑がかかるからやめろって。絶対に通報するなって言った」
そこで明龍は初めて、彼女が通報すると騒いだのは、事の重大さを理解させるために言ったのであって、実際には師匠への悪影響を避けるために、道場に先に行けと命じたことを理解した。
「この中で、うちの親父のこと一番愛してるのって、もしかして愛良じゃないのかな」
明陽が言った。
「あなたたちが浅はかなだけでしょ。本当、そういう所は馬鹿なんだから呆れるわ」
「じゃあそういう、救いようのない馬鹿な兄弟が、お前の尊敬する師匠の下にいるとしてさ」明陽は言った。「これから先、師匠のそばにいて、俺たちが悪さしないかどうか監視してやろうとか、思わない?」
愛良は明陽を振り返って「思わない」と言ってから、また前を向きなおした。
「あなたたちが師匠の親族であり高弟なんだから、あなたたちがしっかり師匠を支えるのが筋よ。2人ともいい歳なんだから、師匠を心配させるようなことはしちゃだめでしょ。上に立つ人はちょっとしたことでも騒がれてしまうんだから」
明龍の車はホテルの車寄せに到着する。
ホテルのロビーで、残された3人は愛良と崇高がシャワーと着替えを終えて降りて来るのを待っていた。
「おい、どこ行くんだよ」明龍が、歩いてどこかへ行こうとする弟に声をかけた。
「あの店に入って来るだけだよ。すぐ戻る」「土産物なら使用人に買いに行かせるぞ、おい?」明龍は弟に声をかけたが、明陽は、ちょっと見て来るだけ、と言いながらそのまま店に入っていってしまった。
「海外からお客さんが来た時は、時間が無い人が多いから、使用人にデパートの土産物屋に買いに行かせてるんだ。適当に買わせて、客に選んで貰って航空便で送ることもあるんだけど、お前もあとでいくつか選んでくれよ。今回は本当にありがとうな」明龍は忠誠に言う。
「いいの?蕭家のみんなに客人扱いされて、何だか恥ずかしいな」忠誠は嬉しそうに笑う。
「お前も今夜泊まっていけよ?着替えとか必要なものがあったらうちの経費で出すから、適当に好きなものを買って領収証をくれ。多めに払うよ。車はもう返しちゃったのか?領収証があるなら、もらっとくよ」
本当?じゃあこれ、と忠誠は遠慮なく明龍にレンタカーのレシートを渡した。
「君のところ、客室はいくつあるの?」忠誠は明龍に聞く。
「個室は5部屋。たまに海外から偉い人が来ることがあるから、それくらい必要なんだ。ちゃんとしたホテルまではちょっと遠いからね」
明陽は店から戻って来て忠誠の隣に来た。何買ったんだよ、と聞く兄に、別に、と答えている。
「おい」明陽は忠誠に話しかける。「さっき愛良と話してた会話、聞こえたんだけど、親父のおかゆの件で途中になってる話。お前も本当に分派の継承者なのか?」
明龍も、興味深々で忠誠を見る。
「ああ、やっぱり聞いてたんだね。聞かれてまずくはないけど…。分派の、執事側の継承者だよ。隠しててごめんね。あとで戻ったら、師匠にちゃんと挨拶するよ」
「ずっと隠して俺たちに張りついてたんだな。信じられない奴だ。ニンジャかよお前。日本好きも大概にしろ」
「だってわざわざ、伝統あるお宅の流派の亜流です、なんて言う必要はないと思ったんだよ。もし名乗り出たって、君たちは絶対、執事の子孫は重要じゃなくて、師範の子孫は誰なんだって聞いてくるだろ。俺は自分の家系のことしか知らないからね。亜流側としては、そちらは正統派だから、興味があっていろいろとインタビューさせてもらったんだ。俺が武術ライターになったのはそもそも、日本に渡った林師範の子孫がどうしているかを、この業界にいたらいつか分かるんじゃないかと思ったから。日本語を勉強したのも、社会人になってから金をためて日本の大学に留学したのも、林師範の末裔を探すためだよ。勿論、俺も流派に関係なく、純粋に武道家として蕭師匠のことは大好きだから、定期的に取材させてもらっていたけどね。お陰で明龍とも親しくつき合わせてもらえたし」
「お前、ふてぶてしいなあ。いずれお前とも対戦させてもらうぜ」明陽は、忠誠にパンチする真似をする。
「俺は弱いから、君の対戦相手としては不足だよ」
忠誠は笑いながら、でも、結局みんな友達になれてよかったね、と明龍に言い、本当だな、と明龍は答える。
やがて2人が降りてきて、愛良はチェックアウトのためにフロントへ向かい、崇高は3人の所にやって来た。
「同時に降りてきたな。まさか一緒にシャワー浴びてたんじゃないだろうな?」明陽が崇高に言った。
「よく分かったな。キスしながら、お互い洗いあっこしてたよ」崇高は笑いながら言う。「その写真撮ったけど、見る?」
崇高はスマートフォンを差し出した。
明陽たちが争って覗き込んだ画面には、ただ部屋のドアの前で撮った、仲のよさそうな2人の自撮り画像が写っているだけだった。
「冗談だよ。ちゃんと時間を決めて、俺が愛良の部屋の前で待って、一緒に降りてきたんだ」
なんだ、という顔をする男たち。
「びっくりした?」崇高は笑う。さあ、決闘ごっこをしてから一緒にシャワー浴びるぞ、と言いながら愛良と一緒に部屋に入ろうとして横っ面を叩かれたことは秘密だ。
「強烈な冗談やめろよ」明陽は心底ほっとしたような表情をしてから、お前の自慢はもういいよ、と崇高のスマートフォンを押しやる。
「お待たせ」愛良が手続きを終えて戻って来た。「どうしたの?」
「何でもない」明陽は愛良をちらっと見てから視線をそらした。「荷物持つよ。お前、疲れてるだろ」
「そう?疲れてないけど、ありがとう」
愛良がスーツケースを渡すと、明陽はそれを持って1人で先に行ってしまった。
「弟は意外と純粋なんだよな」明龍は、弟の後ろ姿を見ながら崇高に言った。興奮しちゃったんじゃない?と忠誠は笑いながら男2人に囁きかける。
「どうしたの?」愛良は崇高に尋ねる。
「いや、何でもない。さっきお前と撮った写真、みんなに見せてたんだ」妬かれちゃった、と笑う崇高。
スーツケースをトランクに入れ、5人は車に乗り込む。
「なあ、香港に着いて1日目は何してたんだ?」明陽が愛良に聞く。
「最初の日は、まずあなたたちの先祖のお墓に行ったでしょ。崇高には、翌日大会に出るから、ホテルで休んでてもらおうと思ったんだけど、彼も一緒に行くっていうから、私がレンタカーを借りて2人で行ったのよね?」
「お前、何で愛良に何でもやってもらうんだよ。ホテルの会計だってやらせてたじゃないか」
明陽が崇高につっかかる。
「いいのよ」愛良が明陽を振り返る。「お墓は私が行きたくて、事前に道を調べてたの。崇高は場所を知らないし。ホテルの会計は、今回は私が彼に連れて来てもらったから、私がやるって言ったのよ。でも、キーを返したら金額を確認してサインするだけよ」
「連れて来てもらった?崇高の金じゃないだろ。崇高はお前をはべらせてあちこち連れ回したくて連れて来たんだから、崇高のほうが何倍もいい思いしてんじゃん」
「お前、何を嫉妬してんだよ」明龍が嫌味っぽく弟に言う。
「そうだよ?俺は愛良をいろんな場所に連れ回したかったんだ」崇高が自慢げに明陽に言う。
「それから?墓からホテルに帰って来て、何してたんだよ。愛し合ったか?」明陽がさらに愛良に聞く。
「馬鹿ね。ホテルに戻って、夕食は空手振興会の人に招待されてたから、それまで時間があると思ってホテルのプールで泳いでたわ」
「俺は普段泳がないけど、愛良は体力づくりに水泳を取り入れてるから、それにつき合ったんだよ」
崇高がまた、自慢げに明陽を見ながら言う。
「ってことは、お前は愛良の水着姿を見たってことだな。どんな水着だったか教えてもらおうか」
明陽は崇高を小突く。
「やめて。普通のよくある黒いフィットネス水着よ。全然色っぽくないやつで悪かったわね」
フィットネス水着が全然色っぽくないとは女の発想だな、と思う男たち。
「お前、愛良に似合うかっこいい水着ぐらい買ってやれよ。気がきかない男だな」明陽は崇高に言う。
「俺の趣味で買ったら、愛良は恥ずかしくてプールサイドに出て来れなくなるよ」
「お前、何考えてるんだよ!俺はそういう意味で言ったんじゃないぞ、かっこいい水着って言ったんだ!」
明陽は崇高の胸にパンチを連打する。
「明陽、暴れるな!」運転しながら明龍が言う。
「愛良、今度香港に来たら、清水湾にあるうちの別荘に連れてってやる」明陽が愛良に言う。「プライベートビーチもあるぞ。そうだな、今回、俺につけてくれた稽古の受講料として、お前に似合う水着を買ってやろう。何ならドレスも買ってやるぞ」もっと言うと下着も買ってやるけどな、と思いながら言う明陽。
「そう?別荘も持ってるの、素敵ね」愛良は明龍に言う。
「珍しくいい物件を、弟が見つけてきて、即決したんだ。清水湾が一望できる、とてもいい場所だよ。今度またみんなが来てくれたら案内するよ」
「別荘も持ってるなんて知らなかったな」忠誠が言う。「俺も連れてってよ」
「もちろん誘うよ。またみんなで集まったら、一緒に行こう。楽しみだな」
やがて車は蕭邸に着き、円卓を囲んでの朝食会が始まる。
10_朝食
「君が林家の、執事の家系だったのか。本当に?それは凄い話だな」
朝食の席で、師匠は言った。そして、まだ信じられない、というような表情で両脇の息子たちを見る。
「君は先祖からの教えを守って、愛良にもそれを黙っていたが、今日初めて彼女から尋ねられて、真実を答えたと言う訳だね」
師匠は忠誠に聞く。
「はい、まあ結果的には、今までそれを隠して皆さんにお会いしていたわけですが、今大変有名になっておられる正統な流派の方に、分派の人間から名乗るのもおかしいと思って伏せておりました」
忠誠が済まなそうに言うので、師匠は、いいんだよ、気を遣わせてしまったね、と答える。
「分派の使い手は現在は、愛良と君だけになるんだね」師匠は忠誠に聞いた。
「そうです」
「なるほど、継承者が台湾と日本にそれぞれ1人ずついたのか。それにしても長い年月、よく現在まで継承していたね。もし良ければ、うちで学んでくれてもいいんだよ、だって元は同じだったんだから、うちが正統派だなんて思っていないし、先祖の起こした過去のこととか、そんなことを気にしなくても」
「ありがとうございます。型に迷ったら質問させて頂きたいと思います」
隣の愛良を見て、忠誠はあることを思い出した。
「そう言えば、ごめんね、昨日」
愛良は食べながら、何?という顔をした。
「俺と一緒に行った食堂の食事で、気分が悪くなって…でしょ?」
「ああ、あなたのせいじゃないわ。元々ちょっと体調が悪かったの。香港に来てから、夜、全然眠れなかったのよ。普通の体調だったら、あの程度の油で気分が悪くなるなんてことはなかったと思うわ」
夜、全然眠れない…?
男たちが全員、無言で崇高のほうを見た。
「え?俺、夜中に愛良の部屋なんか行ってないって!俺はどこに行ってもぐっすり寝て、夜中に起きないタイプだから」
「あのね、私たちが香港についてから、台風が来てたでしょ?」愛良は皆に言う。「気圧の関係かどうか分からないけど、寝苦しかったのよ。空調つけると効き過ぎてのどがカラカラになるし、かといってつけないと蒸し蒸しするし」
「今日は大丈夫だよ」明龍は言った。「もう台風は去ったし、うちの客室の空調はちゃんとしてるから」
「ありがとう」
師匠は、明龍が愛良を気遣っているのを微笑ましく思いながら、彼女を見た。
「でも、息子との戦いは長時間だったけど、体調不良なんて分からないくらい素晴らしかったね」
「えっ」愛良は驚いて手を止めた。「もしかして、ご覧に?」
ああまずい、と思う忠誠。師匠には根回しをしていなかった。
「ああ、ビデオで見たけど…」師匠は、まずかったかな?と思いながら明陽を見た。
「なんだよ顔が赤いぞ」明陽は愛良に言う。
愛良は手で顔を覆って言った。「あの、どの場面をご覧になったんでしょうか…」
「そりゃ、最初から最後まで見たけど、見ちゃだめだったのかな。撮りたいなら撮りなさいって言ってたのに、どうして?君の戦い、悪くなかったよ。それどころか、興味深くて、とにかく凄い戦いだったから見入ってしまった」
愛良は恥ずかしさで顔を覆ったまま、テーブルに伏せた。
隣の崇高が、「ほら見ろ、だから悪ノリするなって言ったんだよ。馬鹿だな」と肩を撫でてやりながら言う。
「親父は凄いな。彼女に触れずしてノックアウトしたぞ。やはりこの流派は親父が最強だ。なかなか起き上がってこない所をみると、致命傷だな」
おい、黙ってろ、という顔で弟を見る明龍。
「愛良、反撃どうぞ。俺も援護するから」忠誠も彼女の肩に手を置いた。
忠誠の言葉に、愛良はうなずきながら、すこしうつむきながら顔を上げた。
「師匠、お目汚し、大変失礼致しました」
「敗北宣言だ」明陽が言ったので、師匠は、お前は少し黙ってなさい!と叱る。
「ご覧になったことはお忘れ下さい」
「どうして、悪くなかったよ。私も勉強になったし」
「そんな。私は究道者としてはまだ未熟ですが、あの戦いはあの場限りだと思っていたので、下手な攻撃を披露している割には、かなり偉そうな事を言ったと思います」
「そんなことはない。君はよく勉強しているし、実力もある。レベルで言ったら明龍と互角ぐらいだと思ったよ。私からも質問したいんだが、いいかな?門弟の質問を見ていたら、私も君に質問してみたくなったんだが」
愛良が困惑したような表情を見せたので「もちろん、無理に答えなくて大丈夫だよ」と付け加えた。
「いえ、師匠のような方からご質問いただけるなんて、緊張しますが、光栄なことですから、どうぞ」愛良はうなずきながら言う。
「例えば、明陽が君を攻撃して、君の形勢が不利になっているシーンがいくつかあったけど、あれはわざと?受け身を取っているように見える所もあるけど、やられたようなふりをしているのかな?相手を油断させるために」
「それもあります。ですが、私がこの機会を利用して知ろうとしたことは、彼がどういう風に私を攻撃するかという事と、攻撃された時に私にどれくらいのダメージがあるか、という事です。私の師匠は祖父で、もちろん何度も相手をしてもらった経験はありますが、私には戦闘経験はほとんどなく、実戦での戦い方というものをよく知りませんから、今戦っている相手がどんなタイプの相手かを、まず知らなければならないと思いました。それまで敵というのは私にとって、あくまで想像でしかなかったのですが、あの時は目の前に明陽という敵がいて、彼はそれなりの体格を持った男性です。自分がこの戦闘を進めるために、まず相手から実際の打撃を受けた時の対処法を知らなくてはならないと思ったのです。でも、全てがわざとではなく、実際に明陽からの攻撃がちゃんと入っているところもありますよ。彼は経験豊富で、高い技術を持った武道家ですから、ご覧の通り私が防ぎきれない所はたくさんありました」
師匠は、ほう、とうなずき、武道家として常に精進を怠らない姿勢だな、と明陽に言う。
「もうひとつ、いいかな。もしかしたら、答えたくないかもしれない。終盤で息子の後ろを取って、腕を折ろうとしてやめたね?あれはどうして?君が勝っていたのに、思い描いていた戦い方と違ったというのは本当?」
それは、他の全員も聞きたい質問だった。
「あれは…」
彼女は視線を下に向けた。「ちょっと思い出します」
「いや、無理に答えなくてもいい。悪かった。いいんだよ」師匠は愛良を気遣って言った。
あの場面の彼女は、画面を通しても辛そうな表情に見えた。足が痛んだからそういう表情になったのか。それとも、別の隠された理由があったのか。
「いえ、ただ、どういう風に言葉にしたらいいか、世間の常識とはかけ離れた考え方ですから、伝わるかどうか分かりませんが…。あの時、私は自分が死を恐れていた事に気づいて、愕然としたんです」
愛良は深く息を吐いた。
「私は普段の修行で、色々なものを克服したと思っていました。まず、修行中に余計な事を考えるのを克服したり、何かに勝ちたいという欲求も捨てるとか、そんな小さなことから始め、最後には死の恐怖も克服できたのではないかと、そんな風に考えていたこともありました。もちろん、完全に克服したわけではありませんが、自分の理想には近づけたと思っていました。そして今回、彼の仇討ちを受けたわけですが」
言葉の途中で、ずっと視線を下にしていた愛良が、師匠を見た。
「師匠、本当は、冥殺指のことをお知りになりたいのでしょう?」
「そうだ」師匠はうなずいた。
「ではお話ししますが、まず今の続きをお聞きください。私は最初、彼から挑戦を受けた時に、面倒なことになった、何故このタイミングで、と思って逃げていましたが、彼が人質を取ってまで挑戦したがっている事を知り、これは私の運命であるかもしれないと思い始めて、受ける事にしました。ところで、私は修行過程で、この流派で継承されている冥殺指という技について知りました。私の家には代々伝わっている書があり、それはこの流派の武芸書です。祖父は知識として、この流派に伝わる大変危険な冥殺指という技があるが、流派が別れた時にそれを次世代に継承させないことにした、だから自分も実践は教わっていないが、書物にはある程度まで詳細が記されている。この流派の武道家として生きる以上、学ぶ権利は奪わないから、もし本当に冥殺指について知りたければ、書物を読むように言われたのです。祖父は日本人ですから中国語を理解しませんでしたので、武術の型を伝えることはできても、書物に書かれている文章を正確には私に教えることができませんでした。私はその書物を読みましたが、私も中国語が分かりませんので、中国語を専門に学べる大学に進学しました。そして、本に書かれていることを読み、冥殺指を独学で学びました。ただし、文章上のことであって実践ではないのと、冥殺指の最終的な核心部分の説明が全くありませんでした。私は書物を読んで、本当にこんな簡単な技で人が死ぬのかと驚きましたが、冥殺指の方法だけを抜き出して学んでも意味がないと思い、流派の書物を全体的に読み直し、修行に取り入れました」
「その書物とは、蕭家に代々伝わる武芸書とは違うものだね?」師匠は聞いた。
「違うものです。さっき張忠誠とも話したのですが、流派が別れた時、流派を継続させようとして、当時の林師匠が記憶をたよりにそちらの流派の武芸書を再編纂したとのことでした。その際に当時の状況を書き込むなどの付け足しもあります。つまり、そちらの流派に伝わる書が元になっていますがいわゆるコピーではありません。分派となることでそちらの書を読むことができなくなったため、以前、書を読んだ時に覚えていることを本にし直したそうです。既に紙や墨がそれほど貴重ではない時代だったとは思いますが、書は何冊にも及んでいるし、劣化を見越してかかなり良い紙に書かれていて、製本もしっかりしていることを考えると、どれだけの思いでこの書が書かれたか、それは相当なことだったと思います。当時の分派は、それだけ真剣に継承者のことを考えていたのでしょう。武道家としてのプライドもあったかもしれません。書は執事と2人で同時に同じことを書いて、一冊ずつ保管したそうです。本の冒頭に、一冊は林家、もう一冊は執事の張家に保存する、と書いてあります。こうして私は修行するにつれ、自分の最後の修行の場は、冥殺指を受けて入ることのできる、餓鬼道ではないかと思うようになりました。強くそう思ったのではなく、何となくそう思っていたんです。そしていつしか、餓鬼道に入ることが私の最終目標であると思うようになりました。そして、明陽が人質を取り、私に挑戦したいと言った時、これは私が餓鬼道に落ちるチャンスではないかと、ふと思いました。普通に考えれば、それは常軌を逸している考えですが、私は武道家なので、直感的にそう考えたのです。普通の精神の中に突如現れる、霊感のようなものです。私は運命に従いました。私は翌日日本に帰る予定でしたし、師匠は午後から不在になると聞いていたので、これはまたとないチャンスだと思いました。それで明陽に、まず私に間違いなく冥殺指を入れられるような挑戦者になってほしいと思い、それで最初に、彼に稽古をつけるような事をしているうち、これは運命で、この機会を逃したら後は無いと本気で思い始めました。それで、映像でご覧になったと思いますが、最後に私が彼の仇討ちを受け、私のおもわく通りになると思ったのですが、私が大きな目的を前にして緊張したのだと思います、彼を執拗に攻撃してしまい、彼の背後を取って、きき腕を捩じり上げました。この時初めて私は、自分が死を恐れていたことに気づいたんです。死を恐れていたからこそ、冥殺指の使い手である彼のきき腕を折ろうとしたのだと気づき、とても動揺しました。克服したはずなのに、死にたくないと思っている。彼の腕を折ることで、自分が死から逃れたがっていると。あの時、彼は私の決着の付け方が不誠実だとか、明龍が私を病院に連れていくだとか、いろいろ言いに来ましたが、正直あまり頭に入って来ませんでした。死に対する恐怖が襲ってきて、パニックになっていたのです。蕭家の先祖が試合中に亡くなった事が頭をよぎり、カルマを断ち切る決心がにぶり、心の中に苦悩が湧き起こり、なかなか落ち着くことができませんでした。何が最善か分からなくなってしまったので、心を落ち着かせようとしていました。明龍や崇高が、もうめてほしいと懇願する目で私を見ていたのは覚えています。でも私は、死の恐怖を抱えたままだったとしても、やめることはできないと改めて思いました。私はこれから死ぬかもしれないが、運命でここまでたどり着いたのだから、考える事はやめて運命に任せようと思ったのです。この流派の根底に流れる教義ですよね。それから、再び戦おうと思いました。でもまだ恐怖を感じているのが分かりました。そして、私がいつも修行でやるように心を落ち着かせようとした時、私の恐怖は多分、孤独からきていると感じました。武術家として道を探究する者は元来、すべて孤独です。誰にも理解されない事をし続けているのですから。あの場で私のやりたい事を理解できる者は、当然いませんでした。1人は私を不誠実だと思い、2人は戦闘をやめてほしいと思っています。これは孤独ではありますが、それでも私は、最初にさんざん帰れと言って邪険にしていたのにまだ私を心配してくれている、崇高の存在に気づきました。戦う前に彼のほうを見るなんてことは、それまで一度もしなかったのですが、私は彼を見ました。多分、私が一度死んで再び目を覚ました時に、彼の顔を見たかったからだと思います。それから目の前の明陽を見て、彼に自分の全てを委ねようと思いました。体だけではなく、魂もです。明陽は尊敬するあなたの息子です。彼の戦闘のセンスは私も感じていましたし、彼が心の底で冥殺指を試したがっていることも分かりましたから、もし彼が私に冥殺指を入れたら、成功すると信じようと思いました。そして、もちろん実際に戦ってみないとどう決着がつくか分からないことですが、このまま運命に逆らうまいと思い、戦い始めたのです。私は冥殺指を実践では学んでいませんが、最初の型は分かりましたから、あの時、自分からあの型を見せることにより、彼を挑発しました。それまで何度も彼と戦ってみたお陰で、だいたい彼の戦闘パターンが理解できてきたので、ここで挑発すれば、どれだけ私が叩きのめしても、彼ならきっと起き上がってくれると思ったんです。完膚無きまでに叩きのめせば、私に殺意を持って向かってきてくれると。明龍が棒を投げたのは予想外でしたが、結果的には良かったと思います。明龍が棒を投げてくれたお陰で、タイミングが完璧に合いました。私のしたい事が実現したのは明龍のお陰です。常識的な考えを持つ人には、なかなか受け入れられない考えですよね?但し、私のせいで、師匠も苦しんだと思いますし、他のみんなも。神聖なあなたの道場でこんな事件を起こして、申し訳なかったと思っています」
「この道場では、武道家の自由な発想と表現を許している」師匠は言った。「残酷な暴力や虐待は許されるべきではないが、君の探究心は尊重されるべきだ。私はかつて、中国古代武術の高僧と話す機会があったが、その高僧が、世間では非常識として非難されるような、命をかけた危険な修行に挑む修行僧の心理状態についての見解を聞いたことがあるから、私も君の行動を理解するつもりだ。君は、餓鬼道に落ちても戻って来られる自信があったんだね?」
「はい、ありました」
生半可な気持ちで試したのではなく、自信と裏付け、そして愛良のそれまでの歴史がそういう道をたどらせたのだと思い、師匠はうなずいた。
「君が真剣に流派を学んでいることが良く分かった」
「ですが、私が今話したことは、どうかお忘れ下さい。私も忘れます」
愛良の真剣な眼差しに答え、師匠は微笑みながらうなずいた。
「君はこんな話を聞いたことがあるかな。外国の高名な数学者が、まだ解明されていない世界一難解な数式に挑み、最終的に廃人になってしまった話を。武道もそれに似ているね。探究者が研究に没頭するあまり、深遠にはまりこんでしまうんだ。古代武術の高僧も言っていたことだが、それは狂気と隣合わせだ。ただし、死という壁に近づいた時に初めて、宇宙の真理に触れ、究極の悟りを得ることがあるのも確かで、冥殺指にはその要素も内包されている。明龍は、私の言っている意味が分かるね?」
師匠は明龍を見た。明龍は返答に困ったような顔で師匠を見ただけだった。
「明龍は私の一番弟子で、我が子同様に思っているし、優れた武術家に育ってくれたことを私は誇りに思っている。武術家としてではなく、人間としても立派な男で人望も厚い。だが彼も一時期、修行に没頭して自分を見失いそうになった時期があった。友人関係をだんだん断ち始め、口数も少なくなり、ただ修行だけをして、食事も取らなくなり急激に痩せた時期があった。私が、何故食べないのかと聞くと、食べないほうが感覚が研ぎ澄まされるから、と言う。私は、この流派に感覚を研ぎ澄ます必要はないから食べなさいと言っても、なかなか治らなかったね。彼の両親、私の弟夫婦だが、彼らが心配して、医者に見せようとしたことがあったが、私は彼を一時的に館長職から降ろすから、という理由でそれをちょっと待ってもらって、彼の様子を見守ることにした。彼には財団の理事もやってもらっていて、理事の代理をできる者がいなかったので、その職を外すことはできなかったが、明龍は淡々と理事の職をこなしてくれた。あれはありがたかったよ」
師匠は明龍を見て、テーブルの上にある彼の手に触れた。
「兄貴は真面目すぎるんだ、俺みたいに適当にやればいいのに、そういうのが嫌いなんだよな?」明陽は言った。
「明陽が幸い、明龍を気遣ってくれたお陰もあって、今はだいぶ普通の状態に戻ってる。ところで私が見る限り、明龍は、流派に対する姿勢が君とよく似ている。それでもし良かったら君にお願いがあるんだが」
師匠は、愛良を見てから、ちらっと崇高を気にした。
「彼氏のいる前でこういう事を言うと怒られてしまうが、明龍のよき友人になってくれないか、いや、武道家としてだよ?彼に何か気づいたことを助言してほしい、きっと君の言う事なら聞くから」
愛良は師匠を見てくすっと笑った。
「私は昨日明龍に、弟は立派な大人なのに、細かいことに口を挟みすぎだと言ったんですが、師匠も、子離れされてませんね?」
師匠の両側にいる2人は苦笑いしている。
「お2人のことは、崇高や忠誠同様、よき友人だと思っています。あと、私は思ったことをすぐ言ってしまう人間ですから、その点は大丈夫ですよ。彼に思った事を言えばいいんですよね?」
「そうだ。君ならできるから、頼むよ」
「ねえ、いつまでいられるの?」
明龍が愛良に聞いた。
「航空券が取れたら帰るわ。だから多分、明日」
多分、明日ね、という表情で愛良は崇高を見た。崇高はうなずく。
朝食が終わって、忠誠が愛良に目で合図してからベランダの所に行くと、愛良がそれについていった。
「あいつらまた示し合わせて2人きりになったぞ」
明陽が崇高に言った。「お前も情けないな、彼氏だろ?自分の女なら取り返して来いよ」
明陽は崇高の胸に突きを入れる真似をした。
「多分大事な話だから、俺が取り返しても彼女がまた戻って行くよ。彼女はこの武術に関しては、俺の話を全く聞かないからな」
崇高も突きを返す。
「あの女も薄情すぎないか、彼氏をさんざん泣かせておいて、目が覚めたら抱きついて思わせぶりなことを言って、彼氏が見てる前で他の男といちゃつくんだもんなあ、本当に女は信用できない。兄貴もあんな女やめちまえよ」
「やめちまえって、俺がいつ彼女を好きだって言った?」
「好きじゃなかった?何だ、好きなら手伝ってやろうと思ったのに」
「俺は未だかつて、女性とつき合うのにお前の手を借りたことはないぞ」
明龍は不機嫌に言った。
「あなたは冥殺指は学んだの?」ベランダで愛良は忠誠に聞く。
「君と同じ。俺の父さんは習ってないし、教えられないから書物を読めって。読んだよ」
「じゃあ本当に、分派は殺人の方法を実践では教えなかったのね」
「書物では、冥殺指は殺傷目的ではなく、修行者が一時的に冥界に入るための方法として紹介されている。但し使い方を誤らせることはできないから、具体的に指をどう動かすかまでは書かれてないよね」
「あの当時でも、冥殺指はそれだけ危険な技だと認識されていたのね」
「でも君は昨夜、明陽から実践を受けた。君には方法が分かったんじゃないか?」
愛良は少し微笑んでうなずいた。
「方法は確かに分かったわ。私があの書物を全部読んで、長年修行して、医学書や脳神経学の本なども調べて、多分こうするのではないかと当たりをつけていた方法があるんだけど、それとほぼ同じだったみたい。でもあなたには教えないわよ。やっぱり危険だし、分派の教義では殺人を否定しているのだから。書物の最初にも、この流派の拳法は自衛のためのものであり、他人への殺傷を目的としない意志の元に学ぶ者だけが読むべし、って書いてあるからそれを守るわ」
「餓鬼道で何を見たんだ?」
「書物に書いてある内容と同じ。でも、私がそう思い込んでいるだけの夢だったのかも。あるいは、妄想かもしれない。私の魂が餓鬼道に落ちたのではなく、全ては私の脳の中だけで起こったことだと思うわ」
忠誠は微笑んだ。「明日帰るなら、今、俺と戦ってみない?」
「ここで?みんな見てるけど、いいの?」
「たった2人だけの流派の2人がやっと出会って名乗り合ったのに、何もしないで別れるなんてありえないだろ?」
愛良は構えなしで、いきなり忠誠の胸に向かって突いたが、彼はそれを遮った。
「冴えてる」愛良は言った。
愛良はまた攻撃するが、全て忠誠にかわされる。
「今のは序の口。俺がどれくらいか知りたくなったかい?昨日のビデオで君の動きは研究させてもらったから、本気でいくよ?」
愛良は手まねきした。「いいからかかってきて」
俊敏な忠誠の蹴りが愛良の腕のあたりに来たのを愛良は遮った。
「凄い。今、どこを狙ってくるか分からなかったわ」
「もう一度行く。蹴りだからね、足見てて」
どこを見るかは私が決めるわ、と思っていたらまた彼の蹴りが思いがけない位置にやってきて、彼女の体に当たった。
「ごめん痛かった?」
「痛くないけど、やっぱり受け身も取れなかったわ。でもそれ、うちの流派じゃないでしょ、あなたが開発したの?」
「実は、別の武術と混ぜてるんだ。俺はいろんな国の武術にすごく興味があって、ちょっとずつ学んだりしてる。アジア圏ばかりじゃなく、ロシアやフランスの武術も学んだよ。俺の師匠は俺の父親なんだけど、あんまりやる気のない人で、俺は基本的な型は父親から教わったんだが、あとは独学で学んだんだ。それから、この流派を他の武術と混ぜたりして、色々研究してるんだよ。君は分派をスタンダードに継承してるけど、俺はハイブリッドなんだ」
「今の動き、もう一度見せて。ゆっくりね」
忠誠はさっきの蹴りを、もう一度愛良に見せる。
明陽は崇高の隣で、うわあ、見せつけてくれるねえ、と言いながら崇高の反応を待った。
「お前、ああいう人の女に手を出すような、ふざけた男を空手でやっつけようとか思わないの?空手最強だろ?実は俺もちょっと習ったことあるんだよ」明陽は崇高に言う。
「そうか、じゃあ今度は空手で勝負だな」
「お前なあ」明龍は弟に言った。「人の女に手出ししてんのはお前だろ。お前、昨日彼女に何したか覚えてないのか?彼氏の前でぼこぼこにしたんだぞ、あれ、もし実際に訴えられたら暴行傷害罪だからな。俺は、お前が彼女に平気で話しかけられる神経が分からないよ。お前が空手でくたばっちまえよ」
明龍は、弟と決闘してもいいよ、と崇高にけしかけるので、明陽は済まない、済まない、と崇高に謝った。
「でもさ、兄貴、俺もあの時は彼女の最終目的のために、彼女にマインドコントロールされてやっちゃったことだし」
「おい」明龍は弟の胸倉を掴んで、壁に押し付けた。「何だよ…」
「ちょっとこいつ分かってないみたいだから、君の代わりに説教させてくれ」
明龍は崇高に言って、明陽を廊下に連れだした。
「俺が言ってることが全然分かってないようだな」
師匠が気づいて「明龍、どうしたんだ」とやって来た。しかし明龍は師匠を手で遮る。
「師匠、部屋借りますよ」
明龍は明陽を睨みながら師匠の部屋に押し込んだ。
「何がまずかったんだよ」明陽は兄に抵抗しようとしている。
「お前、さっき彼女が何で、あの騒動の責任が自分にあるかのように言ったか分かってないんだな。常識で考えろよ。彼女1人の責任であるわけないだろ。お前にマインドコントロール?彼女が門弟の質問に答えている最中に、お前を挑発したか?お前が倒れた時に頭に当たらないよう椅子をどけてやった時、お前を挑発したか?お前は自分の意思でやったんだろ?あの時、俺がお前の行動を責めたら彼女はすぐにお前をかばったが、お前はそのことを恥ずかしく思わなかったのか、武道家として!」
明龍はやっと弟の胸倉を離した。
「彼女はずっとお前をかばってるんだぞ。おそらく、お前が彼女の尊敬する師匠の息子だから。確かに、あの件は最後の最後で彼女の望み通りになったかもしれない。彼女の言う通り、運命がそこまで彼女を運んできたのかもしれない。でもその途中、崇高を人質にし、彼女をこの場所に拉致して、お互い同意して開始した試合だとは言え、彼女を必要以上に殴ったりしたのはこちらの過失だ。しかもその同意だって、そうせざるを得ない状況を俺たちが強制的に作ったんだから、あれは紛れもない、決闘を装った暴力だ。だけど、彼女はそのことで俺たちを責めない。さっきも車で話したが、昨日俺が彼女を拉致した時、通報すると言って俺を威嚇してきたのに、結局、今考えてみればわざと彼女は通報しなかった。師匠を弟子のスキャンダルから守るために。それは、お前のことも守っていることになる。もし彼女がさっき、師匠の前で、全ての騒動の責任が自分にあると言わなければ、たとえ世間の目からは隠せても、お前が日本の武道家を誘拐して、試合と言う形で彼女に暴力を働いたという事実は我々の記憶に残ってしまう。きっと彼女はそれが嫌なんだ。お前や師匠や、流派の将来のために、俺たちの記憶としても残さないほうがいいと思ったんだろう。いいか、昨日彼女は俺に、自分はいいから最後まで弟の味方をしろと言った。俺はもちろんお前の味方だよ。彼女もとっくにお前をゆるしているのは百も承知だけど、俺はお前が彼女に何をしたか、はっきり認識してほしいんだ」
師匠がノックをしてから部屋に入って来た。
「明龍、ありがとう。実はさっき、この件で明陽を呼んだのだが、なかなか来ないから、代わりにお前に叱ってもらおうか、相談しようと思っていたところだ。彼女のいる前では叱れないからね」
それから明陽を見た。
「明陽、私の不在中にという魂胆がまずけしからんぞ。結局、お前の中に悪い事をしているという認識が最初からあったのだろう。武道家が、正々堂々とできないことはやるな。張忠誠が来てくれなかったらどうなっていたことか。いつでもいいから、彼女がいる間にせめて一言、謝るんだな。ちゃんと誠意を持って」
明陽は、消え入りそうな声で「分かってるよ、俺だって詫びを入れようと思ってたよ」と言った。
「本当か?」明龍は聞く。
「ああ。ちゃんと機会を伺ってたよ。俺がそういうつもりだったのに、兄貴は聞きもしないで俺のことを怒ってさ。ちゃんと、いつ言おうかなって思ってたって。信じないだろうけどな」
「さっき彼女が目を覚ました時が一番いいタイミングだったから、俺が謝れって言ったのに。彼女は明日帰るんだぞ。お前のことを信じたいけど、時間がないんだから言うべきことは早めに言ってほしいんだよ」
「そんなこと、兄貴が決めるなよ」明陽は、うるさいんだよ、と言いながら兄を避けるように一歩下がった。「俺には俺のタイミングがあるんだ。俺は彼女にちゃんと謝る一番いい方法を考えてたんだから」
師匠は、弟に詰め寄る明龍を遮り、息子の言葉を信じるか信じないかは置いて、言った。
「映像を見て、明龍が必死に止めようとしていたのが分かったから、私は明龍のことはとがめない。だが明陽、お前のしたことは、普通なら破門だ。私も道場に入ってまず彼女が倒れているのを見た時、大変なことを起こしてしまったと覚悟したんだ。そして私もお前の父親として、流派の師匠として、責任を取るべきだ。私も心から反省するし、お前ももう少し思慮深く行動してくれ。二度目はないぞ」
師匠が言い終わるとすぐに、明龍は弟に言った。
「彼女は最後に師匠に、忘れて下さい、自分も忘れますって言っただろ?お前は本当は、彼女の口からそんなことを言わせてはいけなかったんだ。この流派の考え方には、自己犠牲の精神がある。分派の彼女がそれを実践していて、正統派のお前が実践できていない。この流派を学ぶ武道家を名乗っているなら、彼女がどれだけ師匠とお前に気を遣っているかを理解してくれ。彼女にこれ以上、余計な気を遣わせるな」
明龍は、言いたいことはすべて言ったので、師匠を見た。
「済まないな、明龍、いつも…」私が至らなくて、と師匠がいう前に明龍は憮然として「いいえ」と答えた。
「師匠、あなたにも申し上げたいことがあります。今いいですか?」
怒った顔でこんな事を言われたのは初めてなので、師匠は少なからず驚いた。「何だね」
「もし俺が愛良と友達になりたかったら、自分から言います。俺の以前の健康状態がどうだったとか、俺に対して助言してほしいとか、そんなことを俺の代わりに、師匠が彼女に言う必要はありません」
感情を無くしてしまったのかと思った時期もある明龍が、見て分かるくらい苛立っている。いつも従順な一番弟子に初めて意見されたことを、師匠は重く受け止めた。
「悪かった、明龍」師匠は明龍の前に立ち、彼の顔をよく見た。「さっき彼女にも言われたな、子離れしてないって」師匠は微笑んだ。
明龍は、自分が師匠の前で苛立ちを見せたことに気づいた様子で、うつむいて溜息をつきながら首を振った。
「師匠、俺のこと、いつもご心配をかけて、申し訳ないと思っています」
「お前は明陽同様、私のかわいい息子だよ」
明龍は顔を上げた。
「師匠、今俺、意見して済みませんでした」
「いいんだよ、私に対して怒りたかったら怒ってくれ。遠慮しなくていい」
「あの、師匠、提案なんですが、俺は財団の理事は続けますから、そろそろ館長を明陽にしたらいいと思います。彼の様子を見ていたら、彼女の影響かどうかは分かりませんが、何となく師範らしくなってきたみたいですよ。教え方は彼の方が上手ですから、いかがでしょうか。今の館長と副館長を入れ替えて、俺が副館長で彼を支えるほうが、俺の理事の業務も楽にこなせると思います」
「でも道場は、お前に継がせようと思っていたのに」
「ええ、ではしばらく明陽の様子を見て頂けませんか、多分、これから彼は、もっと成長すると思います。もし、俺と師匠が、彼の細かいことにいちいち口出ししなければね」
「ああ分かった。お前の提案はよく考えておくよ」
明龍は弟に、いいな?という表情をしてから、出ていった。
「兄貴、劇的に変わったな」明陽は言った。
「お前は自分の行いを反省しなさい」師匠は、行きなさい、と部屋から息子を出そうとした。
「ちょっと待った。愛良は明日帰るって言ってる。親父は愛良のことが好きなの?それとも単にお袋と重ねているだけ?」
あまりにも直接的な息子の問いに、師匠はすぐには答えらずに考えた。
「まあ、重ねているだけなのかもしれないな。彼女のことは好きだし、武道家として素晴らしいと思っているし、もちろん女性として魅力的な人だと思っているよ」
「でもお袋は、小柄で病弱で大人しくて、可愛らしい女だったし、愛良とは全然違うだろ?」
師匠は微笑んだ。「そうだね。それは、背が高くて健康的な武道家の彼女と、お前のお母さんとは全然違うよ。でも、お前のお母さんは、単にか弱くて優しいだけの、小さな女性ではなかった。公平な考え方をする人だったし、とても誠実で正義感が強く、私の行動で何かよくない所があったら、すぐに注意してくれていたよ」
「親父、叱られてたんだ」明陽は、からかうように言った。
師匠は、少し感傷的な顔をしながら息子に微笑んだ。
「いや、決して叱らず、今私が何をしたかを教えてくれた。あの試合で、お前が彼女に必要以上に手出しした時、彼女がお前を責めずに、静かに教え説いたのと同じようにな」
明陽は父親の涙を見ないように、そしてまた自分自身の涙を見せないように、部屋をあとにした。
明陽が仲間のいるリビングに戻ると、愛良と他の男たちが、技について議論している所だった。
「愛良」
明陽は愛良に話しかけた。「明日帰るそうだから、ちょっとだけ話をしたいんだけど、いいかな。悪いけど彼女を借りるよ」
明陽は崇高たちに言って、彼女を部屋の外に連れ出し、適当な近くの部屋に入った。
「ちょっと待って、今俺…」部屋に入るなり明陽は、愛良に背を向けて言う。「たった今親父と、お袋の話をしていたら泣けてきてしまった。ちょっと待ってくれよ。話はすぐ済むから」
「ええ。泣いていいわよ」
明陽は背中を向けたまま、我慢しているように見えた。
「見ないようにしてるから、泣いて」愛良は優しく言い、明陽の背中から目をそらした。
「いや、大丈夫だ」明陽は愛良を振り返った。
「話って言うのは」明陽は決心したように言った。「昨日のことだけど、悪かった。許してくれ」
「別に怒ってないけど、気にしてたの?」明龍に言われたな、と愛良は思った。それとも師匠だろうか?
「武道家として、やりすぎた所があった。数えきれないけど、例えば椅子でお前の脚をぶん殴ったり」
「あれ、腕にも当たったわよ。何故かもう治ってるからいいけど。でも、あの時、反則じゃないのか?って自分から申告してきたから、ああこの人、分かってるんだなって思ったの。分からなくてやったとしたら武道家じゃないわ」
明陽はそうだろうな、とうなずいた。「俺はまともな武道家だから、こうして反省して謝ってる」
神妙な顔つきをしている明陽を見て、愛良は微笑みながら首を振った。
「別に、私だってあなたを執拗に攻撃したし、倒れて抵抗しないあなたを蹴ったし、あなたの自尊心を傷つけるような罵倒もしたのよ。あの場ではお互いの責任だから私は何とも思ってないわ。むしろ、対戦経験のない私に、いろいろ教えてくれてありがとう。あなたは教えているつもりではなかったと思うけど、私はあなたから多くを学んだの。でも、ふと思ったんだけど、あなた普段から自分の彼女を殴ったりしてないでしょうね?」
「してないしてない!」明陽は必死で否定した。「俺は小さくて大人しくて、ちょっと生意気なお目目ぱっちりの可愛いらしい超グラマーな女の子としかつき合わないんだから、殴るなんて絶対にしてないよ。俺が可愛い女を殴るわけないじゃん。だいたい、お前とは正反対のタイプとしかつき合ってないんだから」
愛良は、今の明陽の言葉に引っかかりがあるような目で彼を見た。
「つまり私は殴りやすいってこと?」
「まあ、個人的に俺としてはね、正直、お前は可愛くない上に全然俺のタイプじゃないし、ひょっとして殴ってもいいかな、って顔はしてるね、個人的にだけど」
「昨日の続きやる?殴りたいんでしょ?」愛良は薄笑みを浮かべながら、明陽の胸に掴みかかる真似をした。
「だから違うんだって、俺の言いたいのは!普通、俺くらいの屈強な男はな、女なんか相手に真剣勝負なんてしないだろ?俺は、普段は紳士で通ってるんだ。つまりだな、お前は強いし、口でも負かそうとしてくるから、俺もお前と対戦してると、必要以上に攻撃してやりたくなっちゃうんだよ。言い訳だけど、その時の心理状態を表すとそうなる。まあもしお前の顔が、俺の彼女たちみたいに可愛かったら、確かに殴らなかったかもな」
愛良は笑った。「確かに、私も相手が明龍だったら、顔の辺りはそんなに攻撃しなかったかもね」
実は外で聞いていた明龍、えっという顔になる。
「おい、何で急に兄貴のことが出て来るんだよ、惚れてるのか?女はすぐ演技するからな、一切その気がありませんってふりして、実はベタ惚れとか。兄貴がキスしてきたら速攻落ちるだろお前」
「それで?私が不細工で殴りやすい顔だったから、ついつい調子づいて殴ってしまったってこと?」
「違う。本当の事を言うから、最後まで聞けよ!」明陽の声がつい大きくなる。「お前が強くて、俺がどれだけお前に打撃を与えても、お前はそれ以上の力で反撃してくるから、俺はお前に圧倒されそうになった。卑怯な手だと分かっていたけど、俺が椅子を使ってお前を壁に追い詰めて、必要もないのにお前の口の中が切れるほど強く殴ったのは、お前を屈服させたかったから」
明陽は、愛良を見ていた目をそらした。
「実際はそんなことできなかったし、できなかった今だから正直に言うが、あの時はどんな卑怯な手を使ってでも、お前を俺の前に屈服させたかった。お前に敗北を認めさせ、お前の心を支配したかった。つまり俺にとってお前は、そうしたくなるくらい、いい女だったってこと」
明陽は愛良を見つめ、殴った頬を気遣うように、手をのばして彼女の頬に触れた。
「もう絶対にあんなことはしない。強く殴って済まなかった。お前に対し、武道家として尊重しない戦い方をしたことを申し訳なく思っている」
明陽は愛良に、小さな紙袋の上に乗せた飾り付きの髪ゴムを差し出した。
「これ、お前に。俺がお前を倒した時、衝撃でお前の髪留めが壊れてバラバラになってしまったんだ」
「そうだったの?そういえば」愛良は、戦う前に髪をまとめていたことを思い出した。「いいのよ、あれは安ものだったから、簡単に壊れちゃったのね」
「弁償しなきゃと思って、さっきホテルの店で、同じようなのを探したけど無かったんだ。それで、こんな飾りつきのゴムがいくつかあったんだけど、その中で一番綺麗だと思うやつを買ってきた。お前はきっと、キラキラした派手なやつより、こんなシンプルなのが好きだろ?シンプルで、綺麗なやつ。これがお前に似合うと思ったんだ」
「あら、考えて買ってくれたの?ありがとう。綺麗な色ね」
愛良が取ろうとした時、明陽は愛良の後ろに回った。
急に髪に触れられたのでびっくりしたが、愛良が何も言わないでいると、明陽は彼女の髪をまとめてゴムで結わえてやった。それから彼女の前に来て髪を少し整えてやると、似合ってるよ、と照れ臭そうに笑った。
愛良も、ありがとう、と安心したように微笑む。
明陽は愛良を見つめ、そっと抱きしめようとしたが急にやめて、取り繕うように片手を彼女の肩に置いた。「いろいろ言い訳したが、言いたいことは一つだけだ。済まなかったな」
明陽は緊張した様子ですぐに愛良から手を離した。
そのまま明陽は、愛良の顔を見ずに肩を押して部屋から一緒に出ようとドアを開けると、ドアが開くと思っていなかった様子の男たちが外の壁にはりついていた。
「お前ら!聞いてたのかよ。まあいいや」
明陽は愛良の肩から手を離して先に行かせた。「用は済んだよ」明陽は崇高に言う。
「立ち聞き、面白かったか?」
明陽は挑みかかるような目で兄を見た。
「ごめん、まさか、お前があの場で愛の告白をするなんて」
「してないだろ!」明陽は小さな声でどなった。「可愛くないとか言ってけなしたから、いい女だって言うしかなかったんだよ。仕方なく言っただけ。別に、俺のタイプじゃないし」
「でもさっきの話、勝負に勝って自分のものにしたいくらい、いい女だったって意味じゃないの?」
「何言ってんだよ馬鹿。あいつはやっぱり兄貴に惚れてる。明日帰っちゃうんだから、兄貴も早めに彼女を押し倒しとけよ。今ならすぐ落ちるぞ」
崇高が明陽をちらっと見たので、今のは例え話だから、明日帰るなら言いたいことはちゃんと言えっていう意味だから、と言い訳する。
やがて愛良が自分のタブレットで航空券を2枚予約し、明日帰国することが確定した。
「航空券はうちで払う」明龍は言った。
「いえ、泊めてもらったし食事もごちそうになってるから、いいわ。そもそも欠航だから、払い戻しなのよ」
「じゃ、帰国したらまたすぐ来いよ」明陽は言った。「その時の旅費は全部うちで出すから、それでいいんじゃないか?」明陽は兄に聞く。
「お前は本当に、なあ」明龍は弟を睨んだ。「またすぐ来いよじゃないよ。彼女に、来て頂けますか、旅費は出させて頂きますってお願いして、彼女がもし良いと思ってくれれば、それで来てもらうんだよ。お前今回どれだけ彼女と崇高に迷惑かけたと思ってるんだよ。こっちが気分で呼びつけるような話じゃないんだ」
「ねえ、明龍」愛良はまあまあ、と明龍を遮る。「もうあの事を言うのは、そのへんでやめましょう。いつまでも負い目に感じられたら、悪いから」
「でもつい昨日あって今日の話だからさ。こいつにちゃんと反省させてやらないと」
「ええそうね、ありがとう」
愛良が見ると、明陽はばつが悪そうに横を向いた。
「ねえ、でももう私たち、お友達になれたでしょ?またお邪魔するわね、みんなとの話、楽しかったわ。明陽、次に来る時のことまで気にしてくれてありがとう」
明陽は照れ笑いしながら兄を見るので、明龍は、お前反省してないだろ、と叩く真似をする。
「次回は旅費は全額出させてもらうよ。ビジネスクラスでね」明龍は言う。「空港からは俺のお迎えつきだよ」
「そうして。楽しみだわ」愛良は笑った。
「あとごめん、君にもう一つだけ協力してほしいことがあるんだ。本当に、疲れているところ済まないんだけど」明龍は言いにくそうに言う。
「何?」
「餓鬼道で君が見た物を、記録したいんだ。現代の体験者の記録はないから。君の記憶がまだ鮮明なうちに、ということと、対話しながら聞きたいから、やっぱり今日がいいんだよ。君が目覚めてから、餓鬼道については何も言わないから、君が思い出したくないような体験をしているなら、言わなくていい。どうかな」
愛良は遠くにいてこっちを窺っている師匠を見て、彼に微笑みかけた。師匠も微笑む。
「ええ。まあ、常識人にはあまり理解されないような内容だと思うけど、もし私の話を聞いてくれるというなら、記録に協力するわ」
「何で兄貴が愛良に聞くの?本当は親父が聞きたいんだろ?肝心なことなんだから自分で頼めばいいのに、兄貴に言わせて」
明陽は不満そうに言う。
「違う、デリケートな話だから師匠が気を遣ったんだよ。師匠が直接愛良に言ったりしたら、愛良は従わないといけないと思うかもしれないから」
「でも、今のは親父からの質問に決まってるんだから、兄貴が言ったって愛良が断れるわけないだろう。愛良、本当は嫌だろ?断れ」
愛良は笑いながら、いいのよ、協力するわ、と答える。
「お前、どれだけ尊敬してるか知らないけど、あんなジジイの言いなりになんかなるなよ。もし道場で騒動を起こして済まないと思ってるなら、そんなこと思わなくていい。俺から親父に断ってやるから。な?」
「ありがとう。でも、本当に大丈夫よ」
全く親父は、愛良を自分の好きにできると勘違いしやがって、と怒る明陽。
「記録ってどうするんだよ。愛良の証言をビデオに撮って後世の晒しものにするのか?」明陽は兄に聞く。
「いや。師匠が質問し、愛良が答えても良いと判断したものに答えてもらって、俺がそれを字で記録する。録音もしない」
回答は強制しないからね、と明龍は愛良に言う。
「じゃあ証言している間、俺が手を握っててやる」
明陽はにやにやしながら言うので、明龍は、お前は黙ってろ、と言う。
「親父が馬鹿な質問してきたら、俺がぶん殴ってやるからな」
「馬鹿な質問って何?師匠はそんなこと言う人じゃないわ。あなたのお父さんでしょ?立派な人よ」
「お前、肝心なことを見落としてるよ。この俺の親父だぜ?立派なわけないだろ。親が立派なら子ももうちょっと立派に育つはずだろ」明陽は、少し真剣な顔になる。「お前忘れたのか?俺は、お前を殺そうとしたんだぞ」
明陽の言葉に、愛良は笑いながら首を振る。
「明陽、あなたは素晴らしい武道家だわ。下手な武道家なら、多分私は本当に死んでいたでしょう。でも、あなたは冥殺指を正確に入れたでしょ。あなたは上手だったと思うわよ。だから私は死ななかったし、今、こうしてあなたと普通におしゃべりできてるのよ」
それから明龍を見た。
「明龍、私を探して道場に連れて来てくれてありがとう。今となってはあなたたちの行動が全て正しい方向に向かっていたと言えるわ。私と明陽だけでは成功しなかった。私の側に崇高がいてくれて、明陽の側にあなたがいてくれて、門弟のみんなが見守ってくれていて、初めて冥殺指が成功したと思ってるわ」
「そして、それをあなたに教えたのが、あなたのお父さんでしょう?」愛良は明陽に聞いた。
愛良の言う事が正しいような気がして、明陽は何も言えなくなってしまった。
11_餓鬼道
愛良が、他の人に聞いてもらってもいいと言ったので、全員でソファのある談話室に移った。
「何か欲しいものは?」
明龍がパソコンの準備をしながら愛良に聞いた。「飲み物とかさ」
「じゃ、昨日のエスプレッソコーヒーがおいしかったから、また頂いてもいい?」
「ああ。他の人は?コーヒーとか紅茶とかお茶とか、何でもどうぞ」
明龍が注文を聞いて、使用人に持って来るよう命じている。
「私が質問するから、君の自由意思で答えてね」師匠は愛良に言った。「答えたくない質問に関しては答えなくていいし、忘れた、といってくれてもいい。それ以上話したい気分ではなくなったら途中でやめてもいいよ」
「はい」
「記録は取るけど、公開したりはしない。あと、君の名前は記録しない。国籍も。ただし、女性だということは記録してもいいかな?」
「どうぞ」
愛良の隣に座る崇高が励ますように背中を撫でると、彼女は、大丈夫よ、と崇高を見て微笑む。
明龍は、パソコンにテキストを打ち込んでいった。
「ご協力ありがとう」師匠は言う。「最初の質問をするよ。明陽の冥殺指が入った時、どんな感じだった?痛みとか、呼吸の苦しみは」師匠は自分が書いたメモを見ながら聞く。
愛良はあの時の事を思い出そうとして、少しの間、黙った。
「私もあの時は夢中だったので、痛いと思った記憶はないし、呼吸が苦しかったという記憶もありません。あの時は、冥殺指がどういうものなのか、明陽の指の動きを記憶したいという思いと、攻撃に身を委ねなければ、思ったように餓鬼道に落ちることができなくなるのでは、という懸念がありました。なるべく、起こるままにしようとしていたと思います。冥殺指が入った後に、自分がどうなったかは覚えていません」
「自分が倒れた記憶も?君はのどを押されて、後ろ向きに、舞うように倒れた。正確には、君の体が床に着く前に、崇高が君の体を抱きとめたんだ」
愛良は微笑んで崇高に、ありがとう、と言った。
「倒れた記憶はありません。技をかけられた所までは覚えています。明陽も夢中だったと思うのですが、彼の指の衝撃が思ったより強かったので、これで死ぬかもしれないと思いました」
「でも君は、死なないとも思っていた?」
「死ぬかもしれないし、死なないかもしれないと思っていました。とりあえず運命に従おうと思ったんです。生に対する執着は、その時はあまりなかったと思いますが、死なずに餓鬼道に落ちたら、必ず生還しようという気持ちはありました。私が冥殺指に関してずっと考えていたことは、この技で本当に人が死ぬのかということです。書物を読む限りですが、冥殺指が実際に編み出された経緯が書かれておらず、本来、人殺しをするための技だったのかどうかは分かりません。私は、冥殺指を受けて死んだとされる人間の殆どは、実際は死んでいなかったのではないか、と思っています。昔は今ほど医学が発達していませんから、今だったら生きていると判断される人間も、技を受けた直後の様子から、死んだという判断を下されていた可能性があります。もちろん、のどに対して攻撃しているので、本当に窒息などで亡くなった人間もいるとは思います。とにかく私は、それを自分で体験したかったんです」
「人殺しの技ではない、とは新しい解釈だな」師匠は言った。
「生還した人によっては冥殺指を受けたあと、倒れた自分と、自分に駆け寄る周囲の人たちを上から眺めている、という記憶を持つ者もいるようだが、それは?」
「ありませんでした。忘れただけかもしれませんが」
「それからどうなったか覚えてる?」
「倒れてからの記憶がありませんが、覚えている限りで言うと、私はどこか外で、複数の人間と戦っていました。仲間はおらず、私以外の全員が私の敵でした。その時既に、私にはかなりの恐怖心がありました。相手は普通の人間ではなく、人間の形をしていますが、餓鬼道に住む魔物のようなものです」
「餓鬼道に落ちた、とよく表現されるけど、何か落ちていくような感覚はなかった?」
「餓鬼道に落ちていくまでの記憶はありません。戦っている最中の記憶からしかありません」
もしかしたら後で思い出すかもしれませんが、と愛良は付け加えた。
「どんなふうに戦ったの?」
「この流派の戦い方で戦いました。ただし、この流派で戦うことを意識したのかは、覚えていません。相手は、ただこちらに襲いかかってくるような感じでした。それは書物にあるように無限地獄で、決して終わらない戦いでした。休む暇はありませんでした」
と言っても、餓鬼道は夢の中と同じですから休んだ所で変わりはないのでしょうが、と愛良は言った。
「夢の中に似ている?」
「私は似ていると思います。違うのは、餓鬼道のほうは非常に鮮明です。現実世界と同じくらい鮮明でした。構造的には夢を見ている状態と似ているかもしれませんが、体験的には現実世界と全く同じものでした」
「色はついていた?」
「はい。色も、音も、触れた感覚も、臭いもありました。あと味も」
「どんな味?」
「血の味です。敵に口を押さえられた時に反撃するため、相手の手を噛みました。その時に砂と血の味がしました。戦いがどうやって終わったのか分かりませんが、気がつくと私はとても広い場所に、たった1人で地面に座り込んでいました。音が全くなく、風もなく、鳥もいない場所です。死んだような土地でした。それからものすごい轟音が鳴り響いて、地面が揺れ、嵐が起こり、私は恐怖と孤独でただ揺れに翻弄されるしかありませんでした。もう助からないと思いました」
「その時、自分は冥殺指を受けたのが理由で、餓鬼道に落ちたのだのだという意識はあった?」
「ありません。私が何故その場にいるのか理解はしていませんでしたが、それを疑問にも感じていませんでした。餓鬼道にいることを自覚するのに、日数がかなりかかったと思います。日数というのは餓鬼道にいた体感日数です」
「どれだけいたの?」
「分かりませんが、体感的には1カ月ぐらい。私が目を覚まして現実世界を認識した時は、5日から1週間くらいは眠っていたような感覚だったのですが崇高に聞いて、夜倒れて翌朝に目覚めたと知って驚きました」
「ちょっと話を変えるけど」師匠は自分のメモを見直しながら聞く。「君は冥殺指を受けた場合、どうなるかを知っていたんだね?餓鬼道に落ちるとか、永遠に戦い続けるとか」
「はい。もちろん、うちにある書は全て読みましたから。冥殺指は殺人の技とされていて、受けた者は死んだような状態になる。その後は死ぬ者と生き返る者がおり、生き返った者たちは餓鬼道で永遠に戦い続けたと証言し、人によっては精神が崩壊したり、発狂してしまうとのことでした。ただ、私は別の見解を持っていました。餓鬼道に落ちて戦い続けるというのは、私はあまり信じていませんでした。昔の武芸書の中の話ですから、多少の誇張はあると思っていました。例えば1カ月後に目覚めた人がいるという話は常識で考えて、実際に1カ月も目覚めないまま生きている状態はあり得ないと思います。栄養も取らず排泄もしていないでしょうから。私は、餓鬼道で永遠に戦うというイメージは全て本人の脳の中で起こっていることであって、実際に自分が餓鬼道に落ちるわけでも、永遠に戦い続けるわけでもないのだと思っていました。それは本人が気絶している間に見た幻想だと思ったのです。強い衝撃を受けたまま気を失った者が、気を失う直前の恐怖や急なストレスから悪夢を見るのに似た状況ではないかと思っていました」
師匠はうなずきながら、興味深く愛良の話を聞いていた。
「君は比較的穏やかに目覚めたように見えたけど、生き返ったものの精神が崩壊するということについては、どう思う?」
師匠の言葉に、愛良は下を向いて黙ってしまった。
「ちょっと休ませてください」
愛良はソファにもたれかかって深呼吸したあと、コーヒーカップを持とうとした。しかし、その手が止まり、手が震えてしまう。
「大丈夫か」隣の崇高は聞いた。
「さっきから、動悸がするみたい」
愛良はまたソファにもたれかかった。顔色が悪い。
「師匠、もうやめましょう」明龍が言う。「少なくとも休憩したほうがいいのでは」
師匠は、うん、と明龍に同意した。
明龍が愛良のそばに来た。
「愛良、大丈夫?」
愛良は首を振った。「ちょっと休憩させてね。動悸がしてきたの。さっきからなんだけど、止まらなくて」
「苦しい?」
「ええ」
崇高はかばうように愛良の背中に手を回した。
「救急車を呼ぼうか?」明龍が聞く。「もし車まで歩けるなら、車で近くの病院に案内するよ」
「ありがとう。休めば大丈夫だと思うから、少し様子を見たいんだけどいい?」
崇高が愛良に寄りそうようにしたので、愛良も自然に崇高にもたれかかった。
「分かった。俺たちは出てる。崇高、君は彼女と一緒にいてくれ」
明龍は自分のスマートフォンを崇高に渡した。
「俺たちは部屋から出るから何かあったら呼んでくれないか、これで明陽の電話に通じるから、俺が出るよ。何かあったら知らせてくれ。ドアを開けて呼んでくれてもいい。あと、愛良が続けたくないようならやめるから、そう言ってくれ」
「分かった」
「愛良、何か欲しいものある?鎮静剤とか、濡れたタオルとか」
「いいえ、何も」
明龍は崇高に、じゃあ出ているから、何かあったらすぐ知らせるんだよ、と言い、そのほかの者たちと部屋から出て行った。
ドアが閉まり、男たちの気配が遠ざかる。
「何も喋らなくていいから、安心して休めよ」
崇高は愛良に言った。
愛良は目を閉じて深呼吸する。「このままでいてね」「ああ」
崇高は、愛良の背中を優しく撫で、自分のほうにもたれかけさせた。
「お前も怖い思いをしていたんだな」
「そうだけど、修行のために、どうしてもそうしたかったの」
「死んでもいいと思ったのか?死ぬ可能性だってあったんだろう?」
「あのね、死ぬかどうかなんて、本当にどうでもよくなっちゃうのよ、修行にのめり込むと。それに私は絶対に戻って来れると思ってたんだから」
崇高は笑った。
「お前がそんな危険な考えの持ち主だったとはな。俺が止めても聞かないわけだ」
香港に来て1日目の愛良は、恋人同士だった頃や、よく一緒に遊んだ子供の頃と全く同じ様子だったので、崇高は時が経っても変わっていない彼女を喜ばしく思っていた。昔に戻れたような気がして彼は幸せを感じていた。しかし、2日目の空手大会で明陽が現れた時、彼女は徐々に本来の自分を表していった。
「つき合っていた頃のお前とは、少しばかり変わったな。もしかしたら俺も変わったのかな」
「私はもう、あの頃の純粋な私じゃないわ。あの時は子供だったの」
崇高は愛良の腰に回している手で、彼女の手を握った。
「そうだな。時が経ったんだな。だけど、お前とこんな風にここで座ってるなんて、不思議だな。こんなに自然にお前の体に触れられるなんて。まるで恋人同士みたいだ。そうだろ?」
「そうね」愛良は躊躇なくうなずく。
「俺とこうしていて、お前はどう?嫌じゃない?」
「今、あなたが手を握ってくれた時に、動悸が弱くなった気がするわ。まだ少し続いてるけど」
「じゃあもう少しこのままでいようか」崇高は役に立てたような気がして嬉しくなる。
「ええ、ありがとう。かなり楽になってきたわ」
「おい、もうあんな無茶するなよ」
崇高は言ったが、愛良はチラっと崇高を見ただけで答えなかった。
「お前、頑固だな」さっき嬉しくなった気持ちが、またしぼんでしまう崇高。
「あなたがそう思うのは勝手よ」そう言ってから、きついことを言ってしまったと感じる愛良。「ごめんなさい崇高、私とあなたはどこまでもすれ違ってしまう。でも、理解してくれなくていいの。あなたをお友達だと思ってるけど、やっぱり、子供の時のような関係には戻れないわ」
愛良の顔は泣きそうになっている。
「ねえ崇高、あなたはとてもいい人だし、私に思いやりを持って接してくれるのが十分伝わってくるわ。でも私は、あなたのことを傷つけてしまうんじゃないかと恐れてるの。もう、今回の件でいくらでもあなたを傷つけたとは思うけど」
「何でだよ。俺はそんなに弱くないし、お前に別れたいと言われた時のことなんてもう何とも思ってないよ。昨日のことだって、そりゃお前が死んだと思った時はすごくショックだったけど、でももう大丈夫だよ。馬鹿だな、余計なことばかり気にして。俺は、お前と一緒にいられて嬉しいんだからな」
愛良は、ありがとう、とだけ言った。
それから愛良は自ら、明龍が置いて行ったスマートフォンを取り、電話した。
「はい」明龍が出た。
「明龍。ありがとう。続けて大丈夫よ」
「無理してない?」
「してないわ。私も、覚えていることは全てお話ししたいの」
「全員で戻っても大丈夫?崇高同伴で、師匠とだけで話したければ、そうするよ」
「みんなに聞いてもらって大丈夫よ。お気遣い本当にありがとう」
愛良は電話を切った。
明龍って本当にいい奴だな、と崇高が言う。あなたもいい人よ、と愛良は笑う。
やがて、さっき出て行った者たちが部屋に戻ってきた。
「ごめんなさいね」愛良は言う。「皆さんが、多分一番聞きたい核心部分で、中断してしまって」
「愛良、もし辛いことだったらごめんね」師匠は言う。
いいえ、と愛良は答える。
「どうやって目覚めたか、ですよね」愛良に言われて師匠はうなずいた。
「私は餓鬼道で、戦い続けたり、天変地異に翻弄されたり、とにかく焦ったり恐怖を感じたり不安に思いながら時を過ごしていました。再び戦い、再び翻弄され、そんな辛い日々が何日も続きました。何十回、何百回目かの戦いの時、私は気づいたのです。もしかして、今戦っている敵は、得体の知れない敵などではなく、自分ではないのかと。それは、夢の中でこれは夢だと気づいたような感覚でした。その時、私に襲いかかってきていた全員が私の前から一歩引きました。そして風が吹いた時、彼らの頭を覆っていたフードが風とともに取れたのです。周囲にいるのは全員、私でした。私は、1人1人の自分に見つめられる恐怖と驚きが混ざったような感覚を覚えると同時に、瞑想の時によく体験する、全ては1つだという感覚を感じ始めました。自分を襲っていたのは自分自身。私は自分を見て怖がり、自分を攻撃していたのです。自分を攻撃して自分を傷つけ、自分が生み出した暗闇から逃げようとしていたのです。餓鬼道のどの場面も、自分が自分のために作り出していました。地震も嵐も自分だった、吹雪も洪水も自分だった、地面も森も空も自分だった、暗闇も光も自分で、何もないただの空間も自分であり、温度、時間、音までもが自分だった、餓鬼道は自分だったのです。自分の周囲にいた“私”たちはいなくなり、山がなくなり、木が消えて、空も、光も、音も、そんな周りのものが消えていきました。私には恐怖の感覚も安心の感覚もなくなり、殺意も愛情もなくなり、苦しみも喜びもなくなり、不幸も幸せもなくなり、私自身もいなくなりました。多分、そのあとで目覚めたと思います」
愛良も、最後まで話すことができて、初めてほっとできたというような表情を見せた。
愛良と崇高は見つめ合い、微笑み合った。
「ありがとう、愛良。よく証言してくれた。気分はどう?」師匠が愛良に尋ねた。
「もう大丈夫です。動悸もしません」
愛良は冷めたコーヒーを飲む。
「コーヒー冷めただろ、温かいのに替えてこようか」明龍が言う。
「冷めてもおいしいから、大丈夫よ。それより、今ので何か疑問点とかあった?あるなら思い出せる限りで答えるわ。もう全部話せて安心できたから、遠慮せず聞いて」
師匠は明陽や忠誠を見たが、彼らに質問はないようだった。
「師匠」明龍が言った。「餓鬼道の話とは、ちょっとずれますが、あなたに尋ねたいことがあるんです」
「何だね」
「もし、師匠から見解があれば、お答えください。愛良が気を失ったままベッドに横になっていた時、彼女の首からあざが突然消えてしまった現象について。そのあと、彼女の顔の腫れや手の傷が急に治ってしまいましたよね」
それは私も不思議だとは思っていた、と師匠は答えた。「愛良、本当に足の怪我は大丈夫なのか。いや、みんなに見せろとは言わないが、やはり病院で精密検査を受けたほうがよくはないかな」
「あの、実はさっき俺が見たんです」崇高が言った。「愛良は治ったって言ってるけど、あとになって急に痛み出しては大変だから、とにかく俺にだけでも見せてくれと言って、さっきホテルで部屋を出る前に見せてもらったんです。見た目は本当に何もなくて、一応触れてみましたが、腫れていませんでした。見る足を間違えたと思って両足をよく見せてもらいましたが、本当に両足とも同じで、押してみたんですが、痛くないと。だから、不思議ではありますが、俺から見ても、もう何ともないと言えます」
師匠は少し考えてから、言った。
「私は映像でしか見てないから、言い切ることはできないが、見た目ほど明陽の攻撃が強くなかったとか、愛良の受け身が非常にうまかったとか、そういう理由だろうな」
「俺は愛良の顔や手を拭いてやったけど」気を失ってる時にね、と忠誠は愛良に付け足して言った。「その時は、顔に少し傷があって腫れているように見えたし、指は切り傷があるように見えたけどなあ」
「思い込みじゃなくて、本当に傷をはっきり見たのか?」明龍は聞いた。
「そんな、手に傷があると思って見ているものが、本当に傷なのかそうじゃないかなんて、別に確かめようとしていたわけじゃないからね。ただ俺は、手や顔をもうちょっと綺麗にしてあげたいと思って拭いてあげただけだから」
ありがとう、と愛良は忠誠に言う。
「首は拭いた?つまり、のどのことだけど。拭いたあとも、あざはあったの?」明龍は聞く。
「いや、のどを拭いたような気はするけど、はっきりと覚えてないよ。こっちはあざだと思ってるから、拭いた後にまだあざがあるかなんて確かめなかったよ。あの時は確か、崇高はうなだれて俺以外は出ていってもらってたし、愛良がどうなってしまうんだろうと不安に思いながらだったから」
愛良がすまなそうな顔をしているので、忠誠は、気にするなよ、と声をかける。
「顔の腫れのように見えたのと、のどにあざが残ったように見えたのは、単に明陽が、愛良との戦闘で倒れた時に手についた汚れが、愛良を殴った時につき、冥殺指を入れた時にのどについたのかもしれない。手の傷と思い込んでいたものも、本当は床に手をついた時に汚れがついただけで、忠誠が彼女の手や顔を拭いてくれた時にそれが落ちただけが、我々は気が動転していたのと、汚れが怪我だと思い込んでいたから、拭いて綺麗になっただけのものを、急に治ったのだと勘違いした可能性はあるな」
師匠は結論づけた。
床がそんなに汚れていたかな、と考える明龍。
「椅子で足を殴られた時は、痛かったんだろう?」
明龍は愛良に聞いた。
「分かってもらえるかどうか分からないけど、私はあの時、高揚状態というか、興奮状態というか、戦闘を始めてから時間がたつにつれて、だんだん精神が普通ではない状態になっていったから、攻撃した時もされた時も、痛みはあまり感じなかったわ。もちろん、ぶつかってるんだから、それなりの衝撃はあったと記憶してるけど。あとは、戦っている途中に休憩してた時、あなたがアイスパックを持ってきてくれたでしょう?あれが意外に効果があったんじゃないかしら」
「あの」崇高が口を挟んだ。
「いいでしょうか?」崇高は遠慮がちに師匠に聞いた。
「もちろんだよ、何だね?」
「まだ俺が継承者だと誤解されてた時、明陽と対戦したんです。お互いに真剣勝負でした。彼は攻撃がとてもうまくて、俺は腹を攻撃されて負けそうになったんですが、その時は強烈な攻撃を受けたと思ったんですけど、そのあとで腹をよく見たら、あとにもなっていないし、既に痛みもなかったんです。手加減は決してしていないと思うんですが、多分、彼は攻撃の仕方が上手なんだと思いますよ」
愛良も、そうだったわね、と崇高を見た。褒められた明陽は照れて、居心地が悪そうにしている。
「明陽、やっぱりあなたって独特の才能があるのね」
「そんなことないよ、やめろよ」愛良に言われて嬉しそうに否定する明陽。
「そう言えば明陽は、門弟にも対戦相手にも、攻撃で怪我をさせたことはなかったな」師匠は言う。
「怪我したかどうかは申告だから、怪我をしてても相手が何も言わなければ分からないよ」明陽は答える。
お前が謙遜なんて珍しいな、と明龍が言うので、皆は笑う。
「師匠、私から質問してもいいですか?」愛良は聞く。
「どうぞ」
「師匠は、餓鬼道とは何だと思っていらっしゃいますか。やはり、この流派を学ぶ武道家の頭の中でだけ起こる、幻想なのでしょうか」
「うん、私の見解を言ってもいいんだが、言葉通りに捉えなくてもいいよ」と師匠は前置きする。
「私たちの流派で言われている餓鬼道というものは、全ての現代社会であり、江湖であり、夢であり、過去であり、現在、未来である。そう思っているよ」
意外な回答に、全員が難しい顔をしているのを見て、答えになっていないかな?まあいい、忘れてくれ、と師匠は微笑む。
「ちょっと待って、何ですって」忠誠がメモを取ろうとする。「もう一度言って下さい、メモしなきゃ」
「いや。だめだ」師匠は言う。「文字に起こしたら意味が無くなるよ。この見解に関してはね」
そう言って師匠は優しく笑った。
「今言った言葉にあるエネルギーを感じるんだよ。私が声にしたことが全てだ。文字には全く意味がない」
「そんな。せめてもう1回言って下さい。お願いします。覚えますから」
「いいかい、言葉にはエネルギーがあるんだよ。言われたことを記憶にとどめるものではないんだけどね。それに今のは、ただの一武道家の見解だと思ってくれていい。私の言葉に君が権威を持たせてはだめだ。余計な色がついてしまうからね。声だけを聞いてごらん」
師匠は、メモしちゃだめだよ、と笑いながら念を押し、もう一度言うからね、という目をする。
「餓鬼道とは、全ての現代社会であり、江湖であり、夢であり、過去であり、現在、未来である」
明龍は師匠の言葉を聞きながらうなずいた。
難しい顔をして、ううん、何だろう?と忠誠は明陽に話しかけ、明陽は、俺は馬鹿だから分からないよ、とふざけている。明龍は愛良に、宇宙万物?と聞き、愛良は、森羅万象?と答える。師匠は、考えてもだめなんだよ、今聞こえた私の声が全てだよ、と言う。崇高はちょっと目を閉じてうなずいた。
それを見て師匠は微笑む。
「みんなそれぞれ反応が違って面白いね。今のは試験ではないが、もし試験だったとすると、合格したのは崇高だけだな。何も喋らなかったからね」
「え、俺?」
崇高は恥ずかしそうに笑ってから皆を見る。
「あなたは空手家なのに、師匠のお話をよく理解したのね」愛良は崇高に微笑む。
「愛良も合格にしてやれよ」明陽は言う。今のは兄貴が愛良にいらないことを話しかけたから、愛良が答えちゃったんだぞ、と兄を責める。
「もし試験だったら、と言ったんだよ」師匠は明陽に言う。「今のは試験ではない。ただ崇高、君は見込みがあるぞ」師匠に言われ、崇高はまた照れている。
「師匠、俺からも質問が」明龍が言う。
「何だ、まだあるのか?」師匠は笑う。「まあ、こんな機会はあまりないから、いいよ」
「餓鬼道という言葉そのものには、意味があるんでしょうか。つまり、何故その世界が餓鬼道と呼ばれるようになったかですけど」
「武芸書にはそのことは書いてないね」師匠は答える。
「地獄のような場所、という意味で使われているだけだと思うよ。まあ、餓鬼という名の通り、飢えたもののけが襲いかかってくる場所、という意味なんだろう。確か餓鬼道自体は仏教で使う言葉だったと思うが、うちの流派は特定の宗教とは無関係だからね」
もう質問はないかい?と師匠は聞く。それ以上の質問は出なかった。
「愛良、君の証言は後に続く修行者にきっと役立つだろう。本当にありがとう」師匠は言った。
「愛良、ありがとう」明龍は言った。「何か俺たちに出来る事ある?」
「ええ、じゃ少しだけ。師匠と明龍に話したいことがあるの。他の人はごめんなさい、ちょっとだけ出ててもらってもいい?ごめんなさいね」
愛良が言うと、他の崇高、忠誠、明陽は愛良を気にしつつも部屋の外へ出て行った。
「師匠、本当に申し訳ありません。気になることがあって残って頂きました」
「別にいいんだよ。言ってみなさい」
「これは私の責任なんですが、明陽のことです。本当は明陽以外の全員に言っておきたかったんですが、彼1人を仲間外れにするわけにはいかないので、崇高と忠誠にも出てもらいました。崇高には私からあとで話します。忠誠には明龍、あなたから話してほしいの」
「いいよ」明龍は言った。
「明陽のことですが、私が彼を利用して冥殺指を試したばかりに、明陽の精神的なショックが強く残っている様子です。感情のバランスが取れなくなっているというか」
愛良は明龍に、彼、以前と様子が違うんじゃない?と聞く。
「考えすぎだよ。明陽の様子に最近変化があったのは確かだよ。でもそれは、明陽が入れ込んでた女性に振られたからだし、それと同時に探偵が彼の探し求める人物を探し当てたからだ。明陽はもちろん以前から頑固な面があったし、あまり物事を深刻に考えない奴ではあったけど、崇高に執拗にからんだり、彼が絶対に継承者だと言って聞かなかったり、君に挑戦するために崇高を人質に取ったりと、ちょっと衝動的に動きやすくなっているなという感じはあったんだ。君と対戦している時もかなり興奮してたけど、普段とはちょっと違うなと思って、俺も戸惑っていた。止めようとした俺を殴ったりね。元々そうだったんだから、君に冥殺指を入れたのが、おかしくなったきっかけじゃないよ」
「ごめんなさい、明龍。あなたも彼に殴られて精神的に傷ついたでしょ。彼があなたを殴ったのは、私が彼の弱みに付け込んで、彼を挑発し続けていたからよ」
「愛良、君からしたら責任を感じるのかもしれないが、何でも自分のせいにしなくていい。明陽の心の弱さは彼自身の責任だよ」
「ええ、そうだけど、強い人間は本来、弱い人間を守るべきであって、弱みに付け込むべきではないわ。私は自分の欲求の為に彼に犠牲になってもらったの。そして彼はあの時、殺人を犯したという恐怖を感じて心に相当な負荷がかかったはず。もちろん、皆さんにも道場で死人が出たというショックを与えて申し訳ありませんでした」愛良は師匠を見て言った。
「愛良、もう気にしなくていいんだ」師匠は言う。「確かに衝撃的なやり方だったかもしれないが、君が修行に熱心になるあまりした事だと理解している。君が倒れたあと、みんな君が死んだと思っていたが、脈を何度も取ろうとして失敗した忠誠が、君が鼻呼吸をわずかにしていることにすぐ気づいて、生きていると分かったんだよ。だから、君が死んだと思っていた時間はほんの数分だ」師匠は優しく言い、愛良を慰めた。
「以前、明龍も修行に夢中になるあまり、閉じこもった生活が続いてしまったことがあるし、武術の修行僧の中には、突発的に極端な修行法に走ってしまう者もいるのは分かっている。私は、君が元気ならそれでいいんだ。明陽だって人間だから、弱い心も持っている。だが彼は本当は強い男だし、確かに一時的にショックを受けたとは思うけど、すぐに克服すると思うよ」
「はい。でも餓鬼道の話をしていた時、彼の表情がかなり暗かったものですから。それで、お2人にお願いがあるのですが、彼はしばらくの間、衝動的な行動に出たり、心にもないことを言ったりして感情のコントロールができにくくなると思います。お2人には申し訳ないのですが、あまり彼を叱らずに見守ってあげて下さい。私が原因を作ったのに、こんなことをお願いする立場にはないのですが」
愛良は明龍を見た。
「午前中、明陽が私に謝ってきたでしょ?あなたが謝れって言ったのね」
「俺が言ったし、俺が言わなければ師匠が言ってたよ」明龍は答えた。
「彼は今、色々な感情が入り混じっているみたい。彼のお母さんのこととか、師匠との親子関係とかね。私があなたたちの家庭内のことに口出しするのはおかしいんだけど、彼が感情を爆発させている時は、見守ってあげて。私は彼にひどいことをしてしまったと思っているの。私と戦う前から感情が不安定だったとしたら、それにとどめを刺したのは私よ。私は以前の彼がどういう人物だったかは知らないけど、本当はもっと純粋な、普通の人なんでしょう?」
「ああ、生意気で傲慢な所もあるけど、いい奴だよ」明龍は笑った。
「師匠、本当に、あなたの大切な息子さんに対してひどい事をしてしまいました。私が目を覚ました時に師匠が介抱してくださって、それを明陽が感情をたかぶらせて、やめるように言っていましたけど、もし彼がまたあんな風に、あなたを強く非難するような事を言ったとしたら、それは彼の本心ではなく、私のせいだと思って下さい」
「愛良、いいんだよ」明龍が言う。「彼は君を決闘に引っ張り出していい気になってたし、彼だって心の底では冥殺指を試したいとも思っていた。もしかしたら、人を殺したいという願望もあって、君にやらなければ、間違って他の人に危害を加えたかもしれないんだ。でも君のお陰で、彼の闇の部分は解消されたと思う。いい薬になったと思ってくれよ」
「明龍、その薬の反作用が出ても、彼の事を責めないでね。悪いものに操られてそうなってしまったんだと思ってあげて。彼がもし私に失礼な事を言ったり、よくない態度を取っても、私のほうは大丈夫だから、しばらくは彼の表現したいようにさせてあげて」
「分かったよ。でも、君に失礼な態度を取ったら、やっぱり怒っちゃうよ。兄として黙って見ているわけにはいかないな」明龍が愛良に笑いかけると、愛良も微笑む。
「私からのお願いはそれだけです」愛良は師匠を見て言った。
「分かった。じゃあ私からも君に」
師匠は言った。
「この流派の教義の1つは、運命に従うこと。君の気持ちは今ので充分に私たちに伝わったから、どうかこれ以上責任を感じたり、私たちに謝ったりしないでほしい。明陽は明陽で、自分でその運命を引きよせたんだ。だから、いいね?君は崇高の通訳に指名されて香港に来ただけなのだし、明陽が崇高に言いがかりをつけたのは、探偵が彼を継承者と間違えたからだ。そうだね?」
「はい」
「君のせいじゃない。私たちはこうして出会うことになっていたんだ。それがこの流派の意思だ。出会ったことを喜ぼう。私たちはみんな、君のことが好きだよ。本当に君と出会えて良かったと思っている。これからも連絡を取り合おう。いいね?」
愛良は、分かりました、と答え、3人は部屋を出る。
12_夕食
「夕食の配膳が始まったから、テーブルにどうぞ」
明龍が皆に声をかけ、全員がテーブルについた。
「お酒、何か飲む?」
明龍は客の3人に聞いた。男2人は欲しいものを伝えたが、愛良はミネラルウォーターを頼んだ。
「本当に水でいいの?冷蔵庫にワインもあるよ。どう?」明龍は愛良に聞く。
「飲まない?君が飲むなら俺も飲むよ」
アルコールを全く飲まなくなった事を知っている明陽と師匠は、顔を見合わせた。
「兄貴、愛良は疲れてるんだから無理に勧めるなよ」
明陽が珍しく理性的な事を言って、兄をたしなめる。
「ありがとう」愛良は明陽に言ってから、明龍を見る。「でも疲れてないわよ。私、お酒はあまり強くないの。今日はやめておくわ。また今度ね」
「分かった、じゃ、俺も水にしよう」明龍はミネラルウォーターを取りに行ってしまった。
「親父、兄貴のこと見張っとけよ。紳士づらした奴に限って、いきなり女に襲いかかるんだから」
「心配するのはいいが、根拠が無い事を言うのはやめなさい。お客さんの前だぞ」師匠は息子を叱る。
明龍はワイングラスとミネラルウォーターを持って戻って来る。愛良のグラスに水を注いで渡した。
「ありがとう」
皆で乾杯して食事が始まる。
「愛良」師匠が言った。「さっきは、私たちの記録に協力してくれてありがとう。君にばかり喋らせてしまったから、今度は私たちの事を何か話そうね。愛良だけじゃなく崇高も忠誠も、蕭家のことで、何か聞きたいことはあるかい?忠誠には普段から、インタビューでいろいろ聞かれているけどね。崇高は私たちのことは全く知らないだろうから、何でも聞いていいんだよ」
「そうだな」崇高が真っ先に言った。「俺が見る限りは兄弟の仲が良さそうだけど、喧嘩はするのか聞きたいな」崇高は笑った。
「その質問、私も知りたいわ」愛良も笑う。
「ああ、小さい頃はよく取っ組み合いの喧嘩をしたよ」明龍はそう言って弟を見た。
「私でも止められないくらいの、すごい喧嘩をよくしていたよ」師匠は笑いながら言う。
「当然のことながら、俺が勝つんだよ」明龍が言う。「だけど、弟はそんなことは気にせずに向かってくるんだ。こいつはちっとも学ばないからな」
「最近はやっと学んだから、兄貴を怒らせないようにしてるよ」明陽が言う。「兄貴が怒ると怖いから、俺は本気で怒らす前に逃げるようにしてる」
「あなたでも怒るの?」
愛良は明龍に聞く。
「そりゃ怒るよ。でも、弟が俺を怒らせるんだよ。昔から弟はいつも下らない理由で俺に喧嘩をふっかけてくるんだ。俺から喧嘩をしかけることはないな」明龍は言った。
「喧嘩の理由は何?」愛良は聞く。
「昔からうんざりしているんだけど、一番多いのが名前だよな?」明龍はちょっと怒りながら弟に聞く。
「小さい時からずっとなんだけど、お兄ちゃんだけ名前に龍がつくからずるいって。自分が映画俳優になったら蕭明龍って芸名にしてやるんだとか」
「あら、やっぱりお兄ちゃんが大好きなのね」愛良は笑う。
「兄貴だけ龍がついて俺に彪も蛇もつかないのはおかしいだろ」
蛇が名前につくかよ、と思う明龍。
「お前は太陽の陽なんだから、いい名前じゃないか」
「じゃあ兄貴に俺の名前、やるよ。いらないだろ?名前変わる覚悟もないくせに言うなよ」
「本当に名前の話になるとお前は。永遠に言ってろよ」
「そういえばこちらの武館のマークは、龍が太陽をバックにしたものだと思うけど、君たちの名前と関係あるの?」忠誠が聞く。
「関係ないよ」明龍が言う。「ずっと昔からこのマークらしいから、関係ない」
「関係ないの?偶然あなたたちの名前が武館のマークと同じになったってこと?」愛良が聞く。
「いいか?俺は別に生まれる予定じゃなかったから、あのマークは兄貴で完結してるんだよ」
またそういう事を言う、という顔で師匠は息子を見る。
「明龍の明はあの太陽、龍はあの龍だよ」明陽は言う。「だろ、兄貴」
「昔からのマークだから、龍のバックが太陽かどうかすら分からないよ。月とか、別のものかもしれないぞ。あと、明の字は俺たちが師匠の名前から一字貰ってるだけだから、マークは関係ないからな」
と言いながら、明龍は、ごめんね弟が食事の雰囲気を悪くして、と3人に謝る。
「あと、女の子を取るってよく言うよな?」明龍は弟を見る。「取ってないんだよ?」明龍は愛良に言う。
「俺にかわいい女の子が近づいてくるからさ」明陽が説明を始める。「俺とつき合いたいのかと思って相手してやってたら、結局俺じゃなく最初から兄貴狙いっていうことがあったんだよ。本当に恐ろしいな女は。平気でそういうことするんだから。大体、俺のお下がりを兄貴が貰うかってんだあの馬鹿女ども」
師匠は、汚い言葉はやめなさい、と言う。
「武術大会だって、兄貴が優勝して俺が準優勝なのに、映画関係者が俺の見てる前で兄貴だけスカウトしたんだぜ、映画俳優になりませんかって」
「あれは本物の映画関係者だったかどうか分からないぞ。俺は名刺を受取らなかったし、名刺は見たけど聞いたこともない会社だったよ」
「兄貴が芸能に詳しくないだけだよ。有名人がTVで騒がれてるのを見て、誰これとか言うくらいだから。それで、兄貴は即、断ってたんだけど、その男は何々っていう映画の主演俳優を探してるんだけど、イメージがぴったりだから是非お願いしたい、とか、もしだめなら武術指導だけでも、とか食い下がってんの」
武術指導なら俺でもできるよ、と明陽は不満そうに言う。
「俳優経験のない人間に、いきなり主役なんてやらせないよ。あの男は怪しかった」明龍は言う。
「いきなり主役で出て来る俳優だってたまにいるじゃん。もったいないなあ。兄貴なら役者でもモデルでも何でもできるのにさ」
いきなり主役デビューは売り出し文句上の設定だよ、馬鹿、と言う明龍。師匠は兄弟喧嘩にはもう諦めて何も言わなくなっている。
「お前まだこだわってんのか。俺はカメラの前で演技なんかできる根性はない。お前、俳優って大変なんだぞ?ただちやほやされて、金が貰えて、女性にもてるだけじゃないんだ」
「俺は兄貴に俳優になってほしいというより、俳優になった兄貴のつてで、俺がデビューしたいんだよ。蕭明龍の弟ですって。そうやってデビューした奴もいるんだよ?ああ、蕭氏兄弟で売り出すチャンスだったんだけどなあ」
兄弟ってことで2人同時にデビューもいいよな?と愛良たちに同意を求める明陽。
「そんなにやりたかったら俳優養成所に入って演技の勉強でもしてろよ。下積みはエキストラから始めるって、よく言うだろ。お前の好きな昔のスーパースターだっていきなり主役はやってないだろ?」
しかし明陽は兄の話など聞いていない。
「それから、その映画関係者のあと、帰ろうとして控室から出たら、外に兄貴目当ての女どもがむらがってたんだよ。多分、いい男がいるって拡散されたんだろうな。ネット社会の恐ろしさを知ったよ」
「それでどうしたの?」愛良は聞いた。
「命の危険を感じたから逃げた。それから道場に女の入門希望者が殺到したから、女性は入門禁止にしたんだよ。だいたいこの流派は女性向きじゃないし、もともと男しかいなかったんだけど、兄貴を守るためにね。俺たちは道場の宣伝になると思って武術大会に出たんだけど、兄貴がそんなことになってしまったんで、兄貴はもう出るのをやめてしまった。俺なら喜んで映画俳優になるし、女の子とも1人1人デートしてあげるんだけどなあ。握手もサインもしてあげるし、プレゼントも受け取ってあげるし、写真も一緒に撮ってあげるのに。兄貴は俺と全く逆の捉え方するから、俺が苦労してアップした兄貴の演武の動画も削除させられたんだよ。馬鹿女どもが結婚してくれとか、あなたの赤ちゃん産みたいとか動画のコメントに書き込むからさ」
「ああ、それで明龍の動画だけ一斉に見れなくなってたのね」
愛良が独り言のように言ったのを、明陽は聞き逃さなかった。
「え?お前、兄貴の動画なんて見てたの?そんなに前から?やっぱり兄貴のこと好きだったんだ?」
愛良はしまった、という顔をした。
師匠は息子に、いい加減にしなさい、と言っている。
「見てくれてたの?嬉しいな」明龍は言う。
「ええ見てたわよ。いつも師匠の動画を見てるんだから、横に関連動画がお勧めされるでしょ?それで、お弟子さんの動画なんだと思って、見ただけよ」
「お前何を動揺してるんだ?」明陽は、面白そうに愛良を見た。「兄貴、良かったな。愛良がつんけんしてるのはただの演技だ。心は兄貴にメロメロだよ」
愛良は、黙りなさい、という目で明陽を睨んだが、明陽はにやにやしている。
「じゃあ忠誠に紹介されて俺たちが初めて会った時、君は俺の事を知ってたんだね」
「ええ、もちろんよ」
愛良は開き直って答える。「あなたたちの武館のホームページだって熟読してるんですからね、明龍が館長で明陽が副館長なのも最初から知ってたわ」
「あの時、どんな風に俺を見てくれてたのかな」明龍は嬉しそうに愛良に聞く。
「あ、目の前に蕭明龍がいる、って思ったわ」
「思っててあんなにつんけんしてたんだ?やっぱお前、演技派だな。女は本当に信用できない」
「演技なんかしてないわ。何でこんな事態になったのかと思って困惑してたの。何故かあなたたちが分派の継承者を探していて、それが仇討ちのためでしょ。崇高が継承者だと誤解されて、あなたは私たちに敵意を持っていたわ。だから崇高を守らなければと思ったし、あなたと戦わせたくなかったの。自分が混乱の元になっているようで、早くその場を去りたかったのよ」
「それで、大好きな蕭明龍に笑顔で握手を求められたのに、拒否したのかよ」
「そうよ」
「馬鹿だな、憧れの兄貴にさわれるチャンスだったのに。さわりたかったのに我慢して拒否したんだろ?」
「もうやめろよ」明龍は弟が調子に乗る前に制した。そして愛良のほうを見て「あの時はお互いの誤解からそうなってしまったけど、今はこうして君たちと食事までできているなんて、信じられないくらい嬉しいよ」と言う。
「お前も嬉しいだろ?」明龍は弟に聞いた。
「ああ、嬉しいよ。どういう訳か、俺たちは友達になっちまったな。まるで昔の映画みたいな展開だ。なあ兄貴、やっぱり映画俳優目指せよ。兄貴はとにかく一度映画界に入ったほうがいい」
「うるさいよ馬鹿。俺は絶対にそんなことしないけど、もし俺が映画界に入ったらお前、自分も入れろとか言ってくるだろ」
明陽は笑い、愛良たちに、聞いてくれる?と言う。「まず兄貴が映画俳優になって武術映画に出るだろ。だけど兄貴はただツラがいいだけの武術馬鹿だから、アクションはまあできるけど演技に面白味がないんだよ。しかもクソ真面目だから自分の武術優先で、監督の演技指導なんて聞きゃしないんだ。最初は顔がいいからってもてはやされて、女のファンが群がって来たり、女優がアプローチしてきたりするんだけど、そのうちただ顔がいいだけの役しか回って来なくなって、すぐに人気が停滞するんだ。そこへ俺が蕭明龍の弟という触れ込みで大々的にデビューする。俺は演技はぴか一で面白味があるし、表現力が豊かで武術の腕前も一流だから、たちまちシリアスものも人情ものも恋愛ものもホラーも何でもござれの主演俳優になって、オファーは内外からひっきりなし、女にはモテモテでパパラッチが周りから絶えたことがない、しかもデビューしてすぐに主演男優賞にノミネートさ。もちろん、俺が並みいるベテラン勢を蹴落として優勝するんだが、スピーチで、皆さんありがとう!今日は人生で最高の日です!でも俺がここまで来れたのは、本当は兄貴のお陰なんだ、兄貴がいたから俺はこの賞が取れた、真の男優賞は兄貴のものだ!と涙ながらに語ってお茶の間の涙を誘い、兄貴と壇上で抱き合うんだよ」
兄貴、受け取ってくれよ!馬鹿野郎、このブロンズ像は間違いなく明陽、お前のものだよ、いや、兄貴が受け取ってくれ!と1人2役で熱演する明陽。
愛良たちはもちろん、師匠も明龍もぽかんとして明陽の演技を見つめている。
「どうだ、いい話だろ」
泣けた?と満足顔の明陽に言われて愛良は首をかしげる。
「お前、俺のこと馬鹿にしてるだろ」明龍は弟を睨みながら言う。
「そんなわけないだろ。俺、兄貴のことが大好きなんだから。兄貴だって俺のこと、かわいいだろ?ああ、壇上で兄貴とブロンズ像を押し付け合ってる姿が目に浮かぶなあ」
俺、いつも寝る前にこういうシーンを想像しながら眠るんだよ、と嬉しそうに話す明陽。
会食が白けた雰囲気になったのを察した師匠は息子に、お前、早く食べなさい、とせかす。
「食事のあとはみんなにお茶を入れてあげるからね」師匠は言う。「日本茶と中国茶は、入れ方が全く違うんだよ、知っていたかい?」
師匠は愛良に聞く。
「TVで見たことがあるわ。中国茶は香りを楽しむのね。何だったか、木製のトレーの上でお茶を入れるんでしょう?」
「ああそうだよ。入れるところからみんなに見せてあげようね」
食事が終わったあと、師匠は明龍を伴って台所の棚の中を調べ始めた。
「ああ、ここにたくさんある。何種類も買ったのに、どれも使わなくなって随分経つね」
師匠は、妻が死んでから使わなくなった茶器セットの化粧箱がいくつも積んであるのを懐かしそうに眺めている。
「そうですね、昔は色々な柄のを使っていたのに、最近は同じものしか使っていませんね」明龍は答える。
師匠は1つの箱をテーブルに持ってきて、開いた。
「ああ、これ。こんなのがあったなあ」
師匠が嬉しそうに茶碗を取り出すのを見つめる明龍。
師匠はひょっとして、愛良に好意を持ったのではないか。今まで女性客が来ても一度も出したことのない、昔しまいこんだまま見向きもしなかった美しい柄の茶器を、今になって使う気になるなんて。
「ほら、綺麗なままだ。良かった。こういう柄、女性は喜ぶだろうね」
師匠は紙の包みから出して、茶碗が綺麗なままであることを確認する。
「愛良にはこの柄がいいかなあ。ちょっと洗ってから使うとしよう」
「俺が洗いますから、師匠は茶葉の準備をどうぞ。愛良が喜びそうな葉っぱを使って下さい」
「ああ、そうかい?ありがとう。綺麗だから、ゆすぐだけでいいよ」
師匠は嬉しそうに答える。
「いい香り」
愛良はお茶を飲む前に香りを嗅いだ。
師匠は、愛良が気持ちよさそうに香りをかぐのを見ていた。
「この家はもう男ばかりになってしまったから、お茶を飲む時にそんなことは言わないが、昔は妻もお茶を飲む前に、いい香り、と言って飲んでくれたんだよ」
「親父」明陽は苛々した口調で父親に肘鉄を入れる。
「愛良はお袋なんか知らないんだから、そういう話題を出すなよ」
「いいのよ」愛良は明陽をなだめるように笑いかける。「師匠、いつまでも奥様を愛してらっしゃるんですね。奥様は、いつまでも思われてとてもお幸せだと思います」
「ほら!だから愛良にこういう気を遣わせるなよ!親父はもう」明陽が語気を荒げるので、師匠は、分かった、と手でなだめようとする。
「ごめんよ愛良、親父はデリカシーが無いんだよ。お前とお袋と比べるようなことをいつまでも言って。だから嫌なんだよ。お前も本当は嫌だろ?言ってやれよ。俺だって自分の彼女に、前の彼氏がどうだったとか言われたら傷つくんだからな、親父も昔のことなんかいちいち言うのやめろよ」
「分かった、悪かった。愛良、本当にごめんね」
「あの、いいんです。お気になさらずに」
「愛良はお袋の代わりにいるんじゃないんだからな。分かってるのか?お袋のことは俺の前でだけ言えよ。愛良はお袋と関係無いし、知らないんだから!会ったこともない、知らない人の話なんか懐かしんでされても、聞いてるほうは困るんだよ」
ああ、そうだな悪かった、と謝る師匠。
「死んだ人間と比べられるなんて。つらいだろ?愛良は親父のことが好きなんだから。そうだろ、愛良」
「ええ好きよ。でも大丈夫よ。私が奥様と同じ事を言ったから、ちょっと思い出しただけなんだから」
あなたももう座って、と愛良は明陽に言う。
「親父のそういう、思いやりのないところが大嫌いだ」
「明陽」明龍が声をかけた。
「お前の気持ちは分かった。もうその話はあとでな。言いたいことは俺が聞くからここではやめろ」
言ってから明龍は、目の前の3人に、ごめんね、と小声で謝る。
「愛良、本当にごめんよ。親父は全然分かっちゃいないから、きっとまた言うぞ。でも今度言ったら本当に親父と決闘するからな」
「明陽。そこまでな?」明龍が言う。
「あの、師匠」愛良は言った。「あなたの息子さんたち、お2人とも本当に優しい人ですね」
「ああ、私の自慢の息子たちだからね」
「愛良に気を遣わせるなよ、馬鹿」明陽が小声で父親に言う。
「明陽」明陽が席を立とうとしたのと同時に明龍が言った。「もうちょっとだから黙って座ってろ。お客さん方の前だぞ。言い分はあとで聞くからここはこらえろ。師匠に言うことがあったら俺が仲介するから俺に言え」
明龍は愛良たちを見た。「ごめんね、みんな。俺たちいつもこんなじゃないんだよ。でも2人は親子だから、たまにこんな風にぶつかっちゃうんだ」
師匠は明龍に、お前も息子だよ、と言うので明龍は、ええ、分かっています、と答えている。
「ねえ、あの」張忠誠が話題を変えるために切りだした。「師匠、お茶とてもおいしかったです」と前置きする。「師匠の中国茶も本当にいい香りでおいしいけど、ここのエスプレッソマシンのコーヒーも気に入っちゃった。俺、ここに来てから急にカフェイン中毒になってしまったみたいだ。豆はどこのを使ってるの、明陽?」
「備品は兄貴が業者選定してるんだろ?」
明陽は兄に聞いた。
「ああ。おいしいだろ?あのマシンを納入する時に、業者に薦められた豆を買ってるんだけど、豆の名前まで分からないな。香りも色もいいし、味も深みがあるから、俺は気に入ってる。豆をちょっと分けてやろうか?」
「いや、あのエスプレッソメーカーにその豆が合ってるんだろうな。俺のドリップ式のコーヒーメーカーじゃ、同じ味は出ないよ」
気に入ったなら好きなだけ飲んでいきなよ、と明龍はみんなに言う。
私もあのコーヒー、大好きよ、と愛良は言う。
兄弟が弟の部屋に入ると、弟はベッドへ、兄はソファに座ってお互いに向きあった。
「まず兄として言う」明龍は言った。「家庭内の話で、客人が前にいる時に取り乱すな。武道家としての品格の話をいつも聞かされてるだろ」
「分かったよ。でも親父の無神経さが腹立たしくって!」
「お前の言い分を聞くから言ってみろ」
「親父があんな風にお袋を引き合いに出すと、俺は愛良のことが可哀想になって、彼女を抱きしめたくなるんだ。親父は無神経に彼女を傷つけてるんだよ。何で分からないのかな?自分の事を慕ってくれる人の前で、あんなこと言うなんて。自分勝手だよ。親父は俺が決闘で愛良を殴りすぎたからって俺を叱ったけど、親父だって愛良を傷つけてるんだ。俺を叱る権利ないよ」心を傷つけてるんだから、体を殴るよりもっとひどいよ、と明陽は言う。
「どっちも同じだよ。体だって心だって傷つけちゃいけないだろ」明龍は静かに答える。
「分かるけど、親父は無神経なんだよ、知らない人たちの前で急にお袋の話題を出したりして。お袋のことを知ってるのは俺と兄貴だけ。愛良たちは会ったことすらないんだから」
何で急にあんな話題を出したんだ?今までよそから人が来た時にお袋の話なんて一度もしなかったぞ、親父も愛良を意識してるんだよ、と明陽は独り言のように言う。
「ああ、そうだな。確かに師匠は、愛良の前で叔母さんの話は出さないほうがいいのかもしれない。お前の言い分はよく分かるよ」
兄に同意されて、明陽は少しは気が楽になった。
「愛良は表情に出さないけど絶対に傷ついてる。親父のことを尊敬していて、好きなんだから。親父は偉い人間なのに、自分の発言がどれだけ重いか分かってないんだよ。愛良が親父の言葉に傷ついていると思うと俺まで泣きたくなる」
愛良は別に傷ついてないよ、と明龍は弟に言う。明龍は、弟が愛良に好意を持っていて、彼女に自分を投影しているのだと感じた。そして明陽もまた、父親が好きなのに、それをうまく表現できずに傷ついているのだろう。
「お前はずっと以前に母親を亡くして、それは忘れたい悲しい過去の話だと思うけど、師匠にとっては、少年期からずっと一緒にいて、結婚して子供を産んでもらって、介護して、亡くなってしまって、お前に比べたら人生のかなりの時期を叔母さんと過ごした分、過去のことだからといって思い切る、ということができないのかもしれないな。師匠にとって叔母さんは、もしかしたら今もどこかにいるかのような、普通の存在なんだよ。叔母さんの存在感が師匠とお前とでは違うんだと思う。それから叔母さんは、ただ師匠に介護されていただけの人じゃない。いろいろ苦労されてたのは俺も見ている。叔母さんが体が弱くて結婚を反対されてたのは聞いて知ってるだろ。叔母さんはどうせ子供は産めないから、弟夫婦に息子ができたら、師匠のあと取りとするようにと、取り決めがなされたそうだけど、師匠と俺の父親との間で、ずいぶんもめたそうだ。俺の母親も辛かったみたいだよ。自分で産んだ子を、夫の兄に取られちゃうんだからね。俺の父親は、何故自分の子を渡さなくてはいけないのかと、それを決めた俺たちのひい爺さんに怒ったそうだが、結局、御礼金と引き換えに渡すことになった。俺が生まれて師匠の息子になったが、叔母さんは自分の息子のように可愛がってくれたよ。でもやっぱり、叔母さんは自分で子供を産みたかったんだろうね」
俺たちのお爺さんは厳しい人だったけど、ひい爺さんはそれ以上に厳しくて怖い人だったって師匠から聞いたことがあるよ、と明龍は言った。
「兄貴も大変だったな。子供が生まれないからこの家に来たのに、結局俺が生まれちゃったんだから。親父は結局、道場が大きくなって忙しくなったのにお袋の介護を他人に任せないから、俺の世話は、お袋がちょこっとやって、実質乳母と兄貴がほとんどやってたしさ。何のために実子を産んだんだか。結局自己満足だったのかな。おれはお袋が好きだから、そんな風に思いたくないけど」
「お前、可愛かったんだぞ。お前が大好きだったから、俺は喜んで世話をした。弟ができたのが単純に嬉しかったし、お前に何かを教えるのが楽しかった。分からない事を一生懸命尋ねてくるお前が愛おしくてしょうがなかった。お前がいたから俺は、父親から家に戻れと言われた時、断ったんだよ。親には悪かったと思ってるけど、でも今は分かってくれてると思う」
「叔父さんの気持ちはあんまり考えた事はなかったけど、叔父さんも叔母さんも辛いだろうな。本当にうちの親父は勝手な男だな。結局、お袋の人生も、兄貴の人生も翻弄してるじゃないか」
いや、そんなことないし、師匠が悪いんじゃないよ、と明龍は言う。「俺はここの子供になって、武道を学べて、お前みたいな弟ができてよかったと思ってる。両親には悪いけどな。叔母さんも師匠と結婚できて、お前を産めてよかったと思ってると思うよ」
「そうやって、周りが理解してやるから、親父が愛良の前で平気でお袋の話をするような人間になっちゃうんだよ。親父はただお袋が好きなだけで、悪気はないんだろう。でも俺は嫌だ。見て分かるけど愛良は親父が好きなんだ。その彼女の気持ちが踏みにじられてるようで、彼女を守ってやりたい気分になる。彼女を抱きしめて、親父の言うことなんか気にするなって言いたくなるんだ」
「お前もきっと、お前自身を愛良に重ねているんじゃないかな。お前はあまり師匠に構われずに育って、道場でも師匠の息子だからという理由で、なるべく特別扱いせず他の門弟と同じように扱われた。師匠は優しい人だけど、お前は実の息子であるがゆえに、それを感じる機会があまりなかったかもしれない。でもお前は、本当は師匠を尊敬してるし、好きなんだろ?だからお前は時々下らない問題を起こして周りの手を煩わせるんだろうな」
明龍は笑った。
「俺は気づかなかったけど、お前は多分過去に、師匠の何気ない一言に傷ついたことがあったんだろう?その時に、誰かに抱きしめてもらって、気にするなって言ってほしかったんじゃないか?」
俺がそれに気づいてやるべきだったのかも、と明龍は言った。
「兄貴はいつも俺の味方をしてくれたよ」
「でもさ、思い出さないか?確かに叔母さんは、師匠にお茶を入れてもらった時、まず香りをかいで幸せそうな顔をしてから、いい香り、って言って飲んでたよな。さっきの愛良も全く同じだった。俺は愛良がそう言う所をずっと見てたけど、動作が叔母さんに生き映しで、はっとしたんだよ。だからすぐに師匠のほうを見た。師匠は彼女に釘付けだったが、すぐに視線を落としてしまったんだ。それからちょっと間があって、これは俺の想像だけど、師匠は涙をこらえたんだと思う。そして、愛良に叔母さんの話をしたんだ。だから、さっきの事に関しては、無神経に言ったわけではないと思うよ。悲しみをこらえるためだったんじゃないかな」
「俺もあの時は、お袋と同じ事を言ってるって気づいたよ。でも、だからって、俺は口に出して言わないよ。愛良はお袋のことなんて何も知らないし、お袋の代わりじゃないんだ。彼女は彼女なんだよ。お袋を忘れろとは言わないけど、せっかく彼女は彼女っていう1人の女なのに、親父は自分がちょっと好意を持たれたからって、死んだ妻と重ねて見るなんて可哀想だよ。愛良は1人の女性だよ。立派な武道家で、俺のこともちゃんと認めてくれてる。そういう風に見てやってほしいんだ。兄貴なら、俺の気持ちを分かってくれるだろ」
「そうだな。分かるよ。お前、幸せだな。頭の中は愛良のことで一杯か」
明龍は笑った。
「本当は愛良が好きなんだろ?」
「別になんとも思ってないよ。全然好みじゃないし、俺のつき合ってきた女たちとは正反対だ。でも愛良が親父を大好きなのは分かってる」
「とにかく、師匠には俺からうまく言っておく。師匠も多分、みんなの前であんな風に言われて、自分なりに考えてるんじゃないかな。もう言わないと思うよ。もしまた同じようなことを言ったら、お前は師匠に決闘を申し込め。俺が立ち会ってやるから」
兄が部屋から去ってから、ベッドに入ったものの、一時間以上も眠れない明陽は、起き上がって廊下に出た。
つき当たりの居間にダウンライトがついているのに気づき、そこまでやってくる。
室内を見渡すと、ソファに忠誠が座っているのが見えた。
彼の前にはコーヒーカップがある。
エスプレッソコーヒーを飲んでいたのだろう。
「お前、何してんだ、こんな所で」
「あれ、君こそどうした、夜中に稽古か?俺は夜更かし派なんでまだ眠らないんだよ。コーヒーがおいしいから貰ってるよ?」
「俺もあいつらみたいに早寝早起き派ではないけどな」
明陽は忠誠と向かい合って座ったが、すぐにソファに脚を投げ出して横になった。
「お前、ふてぶてしいな。普通、人ん家に泊まらせてもらっておいて、夜中にリビングに来て勝手にコーヒー飲むか?」
「ああ、よく言われるよ。神経が図太いねって。ふてぶてしくなかったら武術ライターなんてやってないよ。自分で営業かけて自分で記事取りに行って、それでお金を稼ぐんだからさ」
忠誠は笑う。
「俺、お前のこと嫌いなんだよ、知ってた?」明陽は言った。
「知らなかった。何で」
「最近までは別にそうでもなかった。お前なんか、ちょっと格闘技に詳しいだけの武術おたくだと思ってたから。だけど、お前の愛良に対する態度が、俺の劣等感を刺激するんだ」
明陽は、首だけ忠誠のほうに向けた。
「お前、彼女が目を覚ました時、安心したから帰るって言って、そのまま帰ろうとしたよな。本当に自然に帰ろうとしてた。彼女も目覚めたばかりだったのに、よくあんなにしっかりとお前の手を掴んだなと思ったよ。お互い大して知りもしないくせに、お前と彼女の間に強い絆があるような気がしたんだ」
「蕭氏の息子が、俺みたいな下っ端に何を嫉妬することがある?」
忠誠は面白そうに明陽の顔を眺めた。
「嫉妬なんてしてない。ただお前のことが嫌いなだけ。お前の彼女に対する潔さを見ると俺は落ち込むんだ。彼女に聞かれて初めて、同じ流派だって答えただろ?お前の忠義は立派だよ。俺にはとうてい真似できない」
「代々、うちに伝わって来たことを実践しただけだよ。俺は日本に逃れた林家の末裔が誰なのか、もちろん女性で、それが1人きりかどうかなんてことも知らなかった。だけど、こちらが主人だと分かっても、決してこちらから名乗らないし、本人が例え気づかなくても主人を援護し、それが終わったらその場から離れ、主人の意思の邪魔にならないよう遠くから見守るというのは、俺の当然の役目だと思っていたからね。彼女は、主従関係は嫌だと言うけど、俺は続けるつもり。俺は昔からそうやって教え込まれて来た。彼女が末裔だと知った時、俺は彼女のナイトになろうと思ったんだ」
「お前、そういう役、向いてるよ。お前の性格にぴったりじゃん。だからお前の事が嫌い。これは嫉妬じゃないからな」
「嫌いと言いながら、俺の騎士道精神を褒めてくれて嬉しいよ」
「お前ナルシストだな。褒めてないよ。ただ、俺のできないことを、平然とやってるお前を見ると怒りが湧いてくるんだ」
それを嫉妬というんだよ、と思う忠誠。
「ところでお前こんなとこで何してたの?瞑想?精神統一?」
「いや。まだ眠りたくないから考え事」
「どうせ愛良で妄想してたんだろ」
「してたよ。聞きたい?」忠誠は笑いながらコーヒーを一口飲む。
「やめろよ」
「なあ、師匠は、多分照れてるんだろうな」
「何が?」
「愛良に。彼女にストレートに言うのが気恥ずかしくて、奥さんを引き合いに出して、他意はないってことを言いたいんじゃない?きっと、それで下心がないということを遠回しに彼女に伝えて、彼女を安心させようとしてるんだよ。そりゃ、奥さんのことを思い出しているのは事実だろうけど」
「お前、そんな事考えてたのか。大人だな」
「師匠はお茶を飲ませる時も、おかゆをあげる時も、妻にもやっていたから、と言うことで彼女に気を遣わせないようにしたんだと思うよ。いきなり飲ませるよりそう言ったほうが、落ち着くと思ったんだろう。彼女はあの時、師匠を目の前にしてすごく緊張していたからね」
明陽は、体をひねって向こうを向いてしまった。
おやおや、意外と泣き虫だな、と思う忠誠。
「でも君もいいところあるじゃん。師匠が奥さんの話を彼女の前ですると、必ず君は彼女に謝って、師匠を怒るだろ?多分、彼女にも君の優しい所が伝わってると思うよ」
「俺は別に、親父があんな風に言って、愛良がもし親父を男として好きだったら傷つくんじゃないかって思うんだ。愛良の本当の気持ちは分からないけど、俺だったら嫌だよ」
お前だって好きな女が前の彼氏と比べるようなこと言ってきたら、嫌だろ?と明陽は聞く。
「あのさ、師匠は愛良よりずっと年上だ。だから、例えば師匠が歳の差を忘れて愛良のことを好きになってしまったとするだろ?」と忠誠は言い、まあ、2人とも会ったばかりだし、師匠はああいう落ち着いた人だから、急に女性と恋に落ちるなんて柄ではないかもしれないけど、と前置きする。
「例えばの話だけど、師匠が彼女を好きになってしまったとするだろ、彼女はそれほどいい女だからね。それでさ、あれくらいの歳で社会的地位もある、人格者で通ってる人が、俺たちが彼女を好きになった時みたいには、おおっぴらにアピールはできない。だけど好意はある。そんな時、つい奥さんを話題に出しちゃったんだよ。照れ隠しと、彼女には好意を悟られたくないって気持ちから。師匠はきっと照れ屋なんだよ。でも師匠だって、貫禄があってかっこいい男だし、もし照れてるなら、自信を持っていいと思うけどね。愛良が師匠に何らかの好意を持っているのは確実だしね」
「愛良は親父に惚れてると思う?」
「彼女は師匠のことを尊敬していて凄く好きだと思う。俺も師匠が好きだから、彼女の気持ちが分かる。だけど、恋愛感情があるかどうかは、正直分からないな。師匠は素晴らしい男性だけど、歳がちょっと離れてるから、彼女がそういう気持ちを持つものなのかどうかね」
「でも、幼い頃に親を亡くした子供は、親子ほどの歳の差の異性を好きになるとか聞いたことない?」
「あるよ。よく聞くよね」
「俺もお袋が死んだ時は子供だったけど、俺はそんなに年上の女を好きになったことはないな。むしろ年下の女ばかりとつき合ってるよ。愛良も両親を亡くしてるけど、どうなんだろう」
もし愛良の本命が親父じゃなかったら、誰が好きだと思う?と明陽は急に小声で忠誠に聞く。
「まあ、明龍かな。彼は本当にかっこいいからね。性格もいいし。女で明龍を好きにならない人なんているの?男から見たってかっこいいじゃん。しかも、明龍もきっと、彼女のことが好きだよね?」
「崇高はだめか」
「崇高もいい男だと思う。ただ、ブランクがあったにせよつき合いが長すぎて、夫みたいな当たり前の存在になっているんじゃないかな。彼女は確かに崇高の事が好きだけど、親友として大切に考えているように見えるね」
じゃあ、やっぱ兄貴か、と明陽はソファの上で伸びをする。
「俺、明龍に嫉妬してるんだけど。明龍と愛良って、一緒に立ってるだけですごく絵になるんだよな。いい女といい男って感じで。嫉妬で死にたくなるよ。まあ、2人が結ばれりゃいいんじゃないの?」
「じゃあお前は愛良のこと諦めたの?」
「気持ちは諦めてないけど、態度には出さないよ。見守るだけ。ちょっと辛いけどね」
何だこいつ、やっぱり愛良に惚れてるのか、と明陽は思った。
「お前はいつ愛良に好きだって告白するんだよ」
「告白なんかしないよ。俺は彼女のそばにいて、彼女を守りたいだけだ」
「しない?本当か?お前、真っ先にしそうだけどな」
しないよ、するわけないじゃん、と笑う忠誠。
「そう言えば師匠って、髪が黒いのは染めてるんだよね?」忠誠は聞く。
「そうだよ。老眼鏡がなきゃ活字も読めない爺さんが、天然であんなに黒いわけないよ。親父の唯一のお洒落だな。髪だけはこだわって黒くしてるね。俺も黒いほうがいいと思ってるよ」
「今まで浮いた話は無かったの?」
「俺が気づく限りは、なかった。お袋は死ぬ前に俺たちと兄貴の両親を呼んで、私が死んだら次の奥さんを見つけてあげて、とか言ったんだが、お袋が死んだあと親父を出会いの場に連れて行ったのは、俺だけだよ。俺は兄貴に行動してほしかったんだが、兄貴は何だか乗り気じゃなかった。理由は分からないが、兄貴は、お袋の言葉は本心じゃないと思ったのかもしれないし、親父が自分で探せばいいと思っただけかもしれない。兄貴の両親は、多分、子供までくれてやって何で次の嫁まで探してやらなきゃならないんだって思ったんじゃない?あんまりいい顔してなかったからね。もちろん俺の知らない所で紹介してたかもしれないけど、表面的にはそういう話はなかったな。俺が学生の時、友人の親が離婚して母親が出て行ったらしいんだけど、残された父親が家のことなんか何もできずに、急激に老けこんでむさくるしくなったってぼやいてたのを聞いて、俺は急いで、配偶者を亡くした人の、出会いの集まりを調べて親父を強引に連れて行ったんだ。親父は最初は拒否してたんだけど、参加することになったんだよ。そうしたら、ああいう所にもいるんだよね、見とれちゃうくらい上品で綺麗なおばさんがさ。マカオの実業家の未亡人だった。旦那は仕事が忙しすぎて突然、死んじゃったんだって。綺麗だしお金もあって、学歴もある人で、親父と年齢も近かったんだ。俺は一目見て、ああ、この人が俺のお母さんだったらいいのになって思ったんだよ。そうしたら、親父もその人を、よさそうだと言っているからアタックさせようとしたんだけど、やっぱりいい女は競争率が高いんだよな。いろんな奴らが既に狙ってたんだ。はっきりとどうなったかは見届けてないけど、その女性と親父は結局だめだったみたい。親父のほうも、彼女は人物としては素敵な人だったけど、恋心まではちょっと遠かったとか抜かしやがるから、これからどんどん老いぼれてく年齢のジジイがあんな美人と一緒にいられるだけでも有り難いだろって言ってやったよ。立場をわきまえろって言うの。ジジイがあの歳になってもまだ恋愛感情にこだわるとは驚きだね。あれには呆れたよ。親父はあの集まりのおっさんたちの中では、結構いけてるんじゃないかと思ったんだけど、結局は女の前じゃ意気地がないんだろうな、武道家のくせに」
優しそうな綺麗な人だった、理想のお母さんだったな、と明陽はつぶやいた。
「そうだったんだ。やっぱり師匠は、君のお母さんのことを一途に愛してるんじゃない?師匠ぐらいいい男なら、いくらでも女性が寄って来そうだけどね。お金もあるしこの業界では地位のある人だし、酒もたばこも賭け事もやらないし、穏やかな性格で、女性から見たら安心できる、理想的な結婚相手だよね」
今まで何人か親父に気のありそうな女が寄ってきたことがあるけど、俺からしたら全部お断りのずうずうしい女ばかりだったから、俺が追っ払ってやったよ、と自慢げに言う明陽。
「親父は小さい頃にお袋に出会ってお袋ひとすじだったから、他の女を知らないんだよ。だから女に関しては奥手なんだと思う。お袋は体が弱くて外に出られなかったから、親父はデートの経験すらないと思うよ。既婚者のくせに女の扱いなんか全く分からないんだよ。ああ、きっと愛良に対する無神経な発言もそこからきてるんだろうな」
愛良に対する無神経な発言って、君がそれを言うのかよ、と思う忠誠。
夜が更けても、2人の会話は尽きなかった。