part 2 道場へ
<登場人物>
・東京: 林愛良:日本人
・東京: 坂本崇高:日本人
・香港: 蕭師匠:古く続く武道流派の師匠。
・香港: 蕭明龍:表向きには師匠の長男ということになっている。実際は師匠の甥(師匠の弟の長男)。
・香港: 蕭明陽:実際は師匠の長男だが、師匠の次男で明龍の弟ということになっている。
・台湾: 張忠誠:武術ライター。
05_道場へ
愛良と忠誠がスマートフォンの画面を見ている時、電話があった。また明龍からだ。
忠誠は少しためらう。
「出てあげたら?」愛良は言った。「お友達なんだから、どうぞ」
忠誠はうなずき、スピーカーフォンにして電話に出た。
「はい」
「張忠誠?蕭明龍だ。出てくれて良かった」
「ああ。何か?」
「今、どこにいるか聞いてもいいかな。こちらは俺1人だ」
忠誠が愛良を見ると、彼女はどうぞ、という表情で彼を見た。
「俺の好きな中華料理屋にいる」
「やっぱり。あの中華油の看板の、安い所?」
「安くておいしい所。よく覚えてたな。でも君が来るなら移動するよ」
「彼女も一緒なんだな?お願いだ。そこにいてくれ」
忠誠はまた愛良を見る。愛良は、続けて、というように忠誠を見た。
「何故だ?用があるなら、今聞く」
「悪いが、直接彼女と話したい」
「でも彼女は嫌がってるんだ」
「分かってる。忠誠、お願いだ。彼女とそこにいてくれ。俺1人で行くから」
明龍は電話を切った。
「どうする?」
「何て言うか、待ったほうがよさそうね」愛良は言った。「いいわよ、別に」
彼女は、忠誠の立場を分かって言っているようだった。
「ねえ、無理してるだろ?彼が俺の友人だから、気にしてるのか?」
「彼1人で来るんでしょ?だったら大丈夫よ。彼が悪い人じゃないのは分かるし、あまりあなたを私の盾にして、あなたたちの友情にひびが入るのも気がひけるわ。無理はしてないわよ。あなたのことを信じてるから、彼と会ってもいいわ。それに、会ったからどうってことはないでしょ。とにかく私たちが、明日の午前便で帰るのは決まってることなんだから」
「崇高はまだ帰ってこないし、何かあったら俺が守るよ」
「ええ、ありがとう。頼むわね」
愛良は微笑んだが、忠誠には彼女の表情が少し暗くなったように見えた。
「君は蕭師匠が好きなのに、息子たちとこんなことになってしまって、気分は良くないだろうね」
言われて愛良は首を振った。
「でも、師匠を尊敬してることに変わりはないわ」
「明龍とは、もともと蕭師匠の取材を通して知り合って友人になったんだ。蕭師匠は本当に立派な人だし、俺も尊敬していて、大好きな武道家の1人だ。君にも是非次の機会に、会わせてあげられたらと思う」
「ありがとう。でも師匠には、日本に師匠のことが大好きで、心から尊敬している人がいる、とだけ伝えてくれれば、それでいいの」
忠誠は、店の入り口の所に明龍がやって来たのに気づいた。
「彼が来た。早いな。出よう」
2人は店を出た。空は曇り、生暖かい風が吹いていた。
「やあ、こんにちは。来たよ」明龍が言う。「よかった、いてくれて」
近づく明龍に対して、一歩前に出ようとした忠誠を手で遮る愛良。
「大丈夫よ。私はあなたたちの友情を壊すようなことをしないから、あなたも彼と喧嘩しないでね」愛良は忠誠だけに聞こえるように小声で言った。
「君にまた会えて良かった」明龍は愛良に言う。
「こんにちは。まだ何か用?」愛良が明龍に聞いた。
「忙しい所悪いが、うちの弟は諦めが悪いんだ。どうしても君と対戦したいと言って聞かない。迷惑なのは承知だが、どうか弟の願いを叶えてやってくれないか?」
弟に決闘を諦めさせる立場なのに、愛良を目の前にした明龍は本心を言ってしまった。本当は、愛良が弟とどんな戦い方をするのか見たくて仕方がないのだ。
「明龍」忠誠が咎めるように言う。「そんな話をしに来たのか?あんなに断ったのに。分かってくれたと思ってた」
「済まない、忠誠。ちょっと状況が変わってしまったんだ」
「それで、何で弟ではなくあなたが来たの?挑戦状でも持ってきた?あったとしても破り捨てるけど」
明龍はスマートフォンの画面を見せた。
電子の挑戦状なら破れないわね、と思って愛良が覗いた先には、人質の崇高が、おそらく後ろ手に縛られて明陽の隣に座らされていた。場所は彼らの道場だろう。
「音声と映像は繋がってる。弟に何か言いたい事があったら、直接言ってくれ」
愛良は忠誠を見てから、明龍を睨んだ。
「君に道場まで来てほしい」愛良に睨まれたままの明龍は、目をそらさずに言った。
愛良は、画面の中の明陽を見る。彼女は不機嫌そうな目で画面を見つめながら、しばらく無言で考えているようだったが、やがて、ふっと笑った。そして、画面の中の明陽に「そんなに地獄を見たいの?」と問う。
「地獄?見せてもらおうじゃないか」明陽は言った。「人質には手出ししないから安心しろよ?お前が来ればの話だが。お前に選択する権利はないと思うが、来るんだな?」
勝ち誇った顔で愛良を見る明陽。
愛良は低く「わかった」と返事をした。
「挑発に乗るな」忠誠は愛良の腕を引くが、愛良は忠誠を見て首を振った。「心配しないで。大丈夫よ」
愛良が既に決心を固めたような表情をしているので忠誠は驚いた。
一瞬で気が変わったのか?崇高が人質になっているから?それとも、何か別の意図があるのだろうか。
「車で道場まで案内する」明龍は言った。
忠誠は彼女を守ろうと一歩前に出たが、明龍はそれを押しとどめた。「お前はだめだ。彼女だけだ」
「明龍、君までそんな卑怯な態度を取るのか?何故?」
明龍は友人の責める目から逃れるように目をそらした。
「お前に何と思われようと、俺は彼女を連れていくよ。愛良、こんなことをして申し訳ない。崇高には危害を加えていないから」
「蕭家の武道家精神に反する行為だろう!」
愛良の目の前で初めて、忠誠が明龍に攻撃を仕掛けた。しかし愛良が明龍を守るように前に出てそれを止める。彼の拳を手で受け止めた時に、愛良ははっとした。今のは…?
一瞬、何かを思い出しそうになったが、愛良は今が緊急事態であることに気づき、忠誠に言った。
「ごめんなさい、私1人で行くわ。あなたはもう関わらないで。この件はすぐに片づけるから、心配しないでね」
愛良は忠誠の突きだした拳を、手で押して降ろさせる。
「私たちは明日帰国するから、帰国する前にメールであなたに連絡するわ。メールアドレス、私から教えなくてごめんなさい。でも必ず連絡するから待ってて。今日まで本当にありがとう」
「だめだ!」
明龍に腕を引かれる愛良を戻そうとする忠誠。「愛良。行くんじゃない」
「崇高が人質になってるの。分かって。彼は私の大切な友人だから、ここで事を荒立てないで、お願い。あなたも気を付けて帰って。今度お礼するわね」
言い方は優しいが、彼女は絶対に手出しするな、と命令するような目をしていた。
それから彼に顔を近づけ、耳元で「お願い、お友達と喧嘩しないで。今までさんざん迷惑をかけたのに、これ以上あなたを巻き込みたくないわ。お願いだからここで別れて。私は大丈夫」
愛良はそう言いながら、忠誠に掴まれた手の上に自分の手を重ねる。
「ありがとう。とても楽しかったわ。これからも連絡を取り合いましょう。またね」
愛良が忠誠を見つめながら、離して、というようにうなずくと、忠誠は黙って手を退いた。
「友情を裏切るようなことをして済まない」明龍は忠誠に言う。
明龍と共に去っていく愛良。
この時、忠誠はある事に気づいた。この時間ならまだ、蕭師匠は空港に向かっている頃だろう。師匠に事情を話して道場に連れ戻せば、事態は収拾できるかもしれない。そして、もしそうしなければ、最悪の事態を迎えてしまうような予感が、忠誠にはあった。
明龍が助手席のドアを開けると、愛良はおとなしく乗り込んだ。
天気がだんだん悪くなってきている。
車は発進したが、愛良は無言だった。明龍が運転しながらチラチラ見る限り、愛良は相当気が立っている様子だった。あまりにも殺気立っているようなので、明龍は信号待ちの時に、愛良にスマートフォンを差し出した。
「俺の電話で、崇高と話す?」
「今考え事してんだから、静かにしてくれる?」愛良は明龍を見もせず、低い声で言い放った。
明龍は思わず電話を引っ込める。
考え事?確かに考え込んでいるようにも見える。何を考えているのか?対戦した事もない弟にどうやって勝つかのシミュレーションだろうか?
そのうち、愛良は明龍をじろじろと見始めた。今まで何度も女に色目を使われてきたが、こんなに鬼気迫る視線は初めてだ。
「何?トイレなら止まるけど」とりあえず冗談っぽく言ってみる。
「あなたたち兄弟って馬鹿なの?」
ストレートに喧嘩をふっかけてきたぞ、いや、先にしかけたのはこっちなのだが。
「あなたあの馬鹿弟の兄貴でしょ、そもそも人質を取ってもう1人を脅すとか、立派な犯罪になるって分からない?まあ兄弟揃って馬鹿じゃ仕方ないけど」
「そりゃ、分かってるよ」急に舌戦をしかけられて、たじろぐ明龍。
「分かっててやってるんだ?私が今からここで通報したら2人とも逮捕よ。蕭家の高弟が日本人の武道家を拉致してるんですからね。あなた確かあそこの館長でしょ?スキャンダルどころか下手すると外交問題よ。あなたたちはそれでいいとしても、関係ない蕭師匠やお弟子さんの名誉にも傷がつくけど、いいの?おたくの流派と空手振興会の間にもひびが入るわよ」
明龍は車を路肩に停めた。運転中に喧嘩になって事故を起こしたらまずい。
「じゃ、今から警察に行く?行くなら香港警察に案内する。君が選んでくれ。これからの行先、警察か、道場か」
「あなたは蕭師匠の面汚しになるような事件を起こして、どう思ってるの?師匠は武術界の有名人で、大勢の人から尊敬されてるわ。弟子の愚かなスキャンダルで失脚させたいの?」
「だから、師匠にはばれないようにやってるんだって。今日から不在だから」
愛良は思い切りサイドブレーキを引き、乱暴にハザードランプを付けた。
「ばれない?私が今から警察に行ったらばれるでしょう」愛良は明龍の襟に掴みかかった。
「大の大人がよくこんな子供じみた計画を思いついて、軽々しく行動してくれるわね。本当にあきれるわ」殴られんばかりの勢いでまくしたてられるが、明龍は無抵抗だった。
「わかった、君の言う通り警察に行こう。ちょっとナビで確認するよ。あと、弟に電話…」
明龍がスマートフォンを出した途端、愛良はそれを奪って後部座席に投げつけた。
愛良はしばらく明龍を睨んでいたが、襟を乱暴に離して、言った。「先に道場であなたの可愛らしいクソ弟をぶん殴って土下座させたあと、通報するわ。あなたも同罪なんだから、せいぜい覚悟しなさいね」
つまり、警察ではなく道場に行けということだと解釈し、明龍は再び車をスタートさせた。恋人を人質に取られた女性は強い。
「あなたと弟、どっちが強いの?」
やがて、5分前よりは多少殺気がなくなった様子の愛良は、進行方向を見たまま明龍に聞いた。
「試合なんかでは、俺の方が強いってことになってる。数年前に一緒に武術大会に出た時は、俺が優勝、弟が準優勝だった。でも、俺は弟のほうがセンスがあると思ってる」
「弟のほうが強いかもしれないってこと?」
「分からない。同じ師匠だけど、彼にとっては父親でもある。父親だからこそ、師匠は息子に俺や門弟よりも厳しく接するし、息子だからこそ、父親の言うことが素直に聞けない、余計に父親は息子を褒めなくなる、さらに息子はそれに反発。俺は彼の実力はもっとあると思うんだよ」
何だ、ただの面倒くさい大きな子供か、と愛良は思った。
「それで昔、試合中の事故で先祖を死なせたらしい武道家の家系をあさって、出てきた日本人に仇討ちしようって考えになったわけ?実力は多少あるにしても頭の中どうなってんの?まあ馬鹿なんでしょうね」愛良はあらん限りの嫌みを言う。
「君には本当に迷惑をかけて済まないんだけど、君ももし自信があるんだったら彼を一瞬で倒して、彼に馬鹿なことはもうやめて修行に励めって言ってほしいんだ。あいつ、仇討ちとかそういう昔の映画が大好きなんだよ。武術映画を見て、自分が主役だと思いこんじゃうタイプ。まあそれで本当に武術大会で優勝してるから、そこは偉いと思うけど」
「私は1人で武道を極めるタイプの武道家なの。人前で技を見せたり、自分がどこの誰よりどれだけ強いかということに関心はないわ。例えば私があなたの弟と対戦して私が勝ったとして、それが何なの?たまたまその時点でその相手に勝ったというだけのことで、私にとっては何の意味もないわ」
明龍には彼女の言うことが理解できた。彼も1人で武道を極めるタイプの武道家だ。道場の宣伝のために弟と武術大会に出たが、勝ち抜いて周りに注目されることに違和感も覚えていた。
そういえば、忠誠は「君と愛良は似ている」と言っていた。確かに武道家として、精神面で似ている部分がある。自分と彼女は、もしかしてもっと親しくなれるのではないかと明龍は感じ始めていた。
忠誠は香港国際空港へのエクスプレス線に乗ろうとしていた。
明陽がこの日を選んだのは、日本人2人が明日帰国してしまう事、そして師匠が不在になるのが今夜だからだ。師匠に事情を話して飛行機をキャンセルさせ、道場に連れ戻せば、何とかなるかもしれない。
忠誠は時計を見た。マレーシア行きの便でもうすぐ出るのは…。
明龍が運転する車のフロントガラスに雨が当たり始めた。明龍はワイパーを作動させる。
道路は渋滞し始め、車はのろのろ運転になり、やがて止まる。
さっき愛良が後ろに投げた携帯電話が鳴った。愛良は怒ったように溜息をつき、後ろから携帯を取って、明龍に渡す。「ああ、天気も悪いしこの時間は渋滞だ。車が進まないんだよ。え?ちょっと待って」
明龍はまた愛良に携帯を差し出した。「何か話す?」
愛良は無言で手を振った。「いいってさ」明龍は電話を切った。
愛良は腕を組んでいた。また前を見据えたまま、考え事をしている様子だった。
「もうちょっと涼しくしようか?」
ここの台風の湿気は日本人には慣れてないだろうと、明龍はエアコンに手を伸ばしながら愛良を見た。愛良は無言で、明龍のほうを見もしない。
とりあえず彼はエアコンを少し強めにした。するとさっきまでの重苦しい空気が少し軽くなった気がした。
「ありがとう」
相変わらず明龍のほうを見ないままの愛良が言った。明龍はほっとしたが、余計な言葉はかけないことにした。
しばらく沈黙が続いたあと、「あとどれくらい?」と愛良が聞いた。
「普通ならあと10分だけど、この天気とこの渋滞じゃ、もしかすると30分かかるかな」
「そう。私寝不足だから寝るからね。着いたら起こして」
そう言うと彼女は向こうを向いたまま、少し倒したシートに体を預けたまま、動かなくなった。
あの便だろうか…だとしたら既に保安審査を通過済みで、呼びとめることはできないだろう。
忠誠は空港で師匠を探してうろうろしていた。
台風で遅延している便がたくさんある。彼は望みを失わずに探そうとしていた。
「やっぱりだめか…」
その時、思わぬことに、台風接近でこれからの便が、全て欠航になるというアナウンスがなされた。
明龍の運転する車が道場の車庫に入った時、外は相当な暴風雨になっていた。
明龍が愛良を起こしてやろうと思った時、愛良は自分から体を起してシートを戻した。きっと、寝ると言って寝ていなかったのだろう。
「さあ、案内するよ。君には本当に済まなかったと思っている」
心から言ったつもりだが、愛良には全く響いてないようで、明龍を見る目は、さっきと変わらず不信感に満ちていた。
愛良は自らドアを開けて車を降りた。
明龍が道場の扉を開けようとした時、愛良は言った。「あなた、弟より強いって言ったわよね」
「ああ、言ったよ」
愛良はいきなり明龍を攻撃した。
明龍が防御できたのは最初の一撃だけだった。そんな!?明龍が想像もしていなかったほどの素早く正確な攻撃の連続で、彼はすぐに体勢を崩し愛良に後ろを取られてしまった。そのまま雨に濡れたボンネットに、ばしんっと強い力で押しつけられる。
明龍の後ろで、愛良はふん、と笑った。「全然弱いじゃないの。あなたの馬鹿弟がいかに弱いかを想像するまでもないわね」
愛良は明龍の後ろを取ったまま、ナイフを取り出した。明龍の目の前でナイフが光る。
「おい、ちょっとそれは…勘弁してくれよ」
「格好だけよ。いいから案内しなさい。今からあなたの愛する弟を、私が存分に可愛がってあげるから」
車の中で、少し打ち解けたかな、と思っていたらとんでもない。愛良は敵対心と怒りをあらわにしていた。
「だけど私の大事な崇高に何かしていたら、あなたたち兄弟はただじゃおかないわよ!」
愛良は明龍の体を乱暴に起こした。
「分かった。なあ、聞いてくれ。崇高には一切暴力は振るっていない。彼を脅して連れ出したのは悪かった。無理やり連れて来たのは事実だ。でもあとで彼にも確認してくれ、暴力は振るってないって」
「そう。でもあなたたちのしていることは紛れもない犯罪だから、あなたの弟をぶっとばしたあとですぐに警察に行くわ。私が決着をつけるまでに、あなたはせいぜい警察署までの最短ルートをしっかり確認しておくことね」
室内のドアが開かれ、首にナイフを当てられた明龍と、その後ろの愛良が入って来た。
室内には何と、20人くらいの門弟たちもいた。
「貴様!」明陽が叫んだ。「兄貴を離せ!」
「何が離せよ。そっちが先に人質を取ったんでしょ。あなた馬鹿だから、自分がやってることも分からないようね。あなたが私に対してやってることは、私があなたの大事な大事なお兄ちゃんにしてることと同じなのよ?」
と、いうことは、俺は愛良にとって、かなり大切な男なんだな、と崇高は解釈した。
「この馬鹿ヅラさげた門弟どもは何なの?」
愛良は思い切り見下した顔で門弟たちを眺めてやった。
「おい、兄貴を離せ!」
「彼はあなたより強いみたいだけど、私よりは全然弱かったわ。あなたも門弟の前で恥をかきたくなかったら人質を離しなさい。人質を離せば土下座くらいで許してやってもいいわ」
「ふん、馬鹿な女だ。兄貴はな、お前みたいな女にでも、女には優しいんだよ、わざと負けてやったに決まってるだろ。まず兄貴を離せよ」
愛良はナイフを降ろした。え、もういいの?という顔をする明龍。愛良は行って、と顎で命じた。
「いいから早く人質を離しなさい。自分が同じことをされたらどうなの?」
「待て、そのナイフは何だ。武道家のくせに。そのナイフを俺によこしたら解放する」
「私が持ってるのが駄目で、あなたが持ってたらOKな理由を言いなさいよ」
殺気で目を光らせた愛良が、ナイフを持ったままどんどん明陽に近づいてくる。
明龍は2人の間に入った。
「済まないが試合中は預からせてくれ。必ず返す」
明龍は弟を振りかえって、解放しろ、と目で合図した。明陽は崇高の手を縛っていた縄を解いた。
明龍が手を差し出すと、愛良はナイフを彼に渡した。「ありがとう」明龍は笑いかけたが、愛良は無愛想な視線で彼を一瞥しただけだった。
「怪我はなかった?」愛良は立ちあがる崇高の手を取って言った。「私の事は気にしないで早く逃げて」「え?逃げて?何言ってるんだよ、お前も一緒にここを出るだろ?」
「いいえ、あなただけ逃げて」愛良は崇高をしっかり見据えて言った。
「おい、何言ってるんだよ、お前1人をここに置いて出て行けるわけないだろ。お前、決闘を受けるんじゃないだろうな。断れよ?」
「いいから、先に帰って。私もすぐ終わらせてホテルに戻るから。タクシーは案外、すぐつかまるわよ」
愛良は、崇高を行かせようとして体を押しやった。
「ちょっと待てって。決闘なんか今すぐ断れ。相手は男で、達人だぞ。気は確かか?それに、これだけ大勢の人間の中にお前を置いて行けっていうのかよ?例えお前があいつに勝ったとしても、ただで終わるとは思えない」
「ええ、気持ちは分かるけど、因縁つけてくるのはあの明陽っていう弟のほうだけ、つまり私に悪意を持っているのは彼1人だけで、明龍はさっき車の中でも少し会話したけど、今のところ物分かりはよさそうだし、ここの門弟も、ただここに通ってる生徒ってだけでそんなに悪い人たちじゃないわ。彼らは、きっと弟に命令されてあそこにいるだけで、私に悪意は持ってないし、私に危害は加えないだろうから、心配しないで」
「おい、悪意とか危害とかそんなこと、もうどうでもいいから、まず決闘を断れよ。一緒に帰ろう」
崇高は愛良の手を引こうとしたが、愛良は拒否した。
「どうして?あなただって彼の挑戦を受けたじゃない」
「馬鹿、決闘なんかして、怪我したらどうするんだ」
「しないわよ」
愛良と崇高の間で言い合いになる。置いてけぼりを食らう周囲の男たち。
「おい、愛良、こんな状況の中で言うのも変だけど、今日がつまり、最後の夜なんだからさ」な?言ってること分かるだろ?という顔で崇高は愛良をなだめる。「こんなことで熱くならずに、もう帰ろうよ。決闘ごっこなら俺が相手してやるから」
愛良は黙って崇高を見る。まずい、もっと怒らせた、と感じる崇高。「お前を心配して言ってるんだよ。とにかく相手は立派な体格の男だぞ。自分の体型を考えろ。お前なんか一発殴られただけで吹っ飛ぶんだから」
「馬鹿言わないで。あんなザコ、大した相手じゃないわ」
「大した相手だよ。武術大会の連続チャンピオンだろう?とにかくあんなのと決闘なんて許さないぞ。見ててやるから早く断って来い。怪我してからじゃ遅いんだから」
「おい!」終わらない2人のやりとりにいらついた明陽はどなった。
「いつまでじゃれあってんだよ」
「黙りなさい!こっちは大事な話をしてるのよ」
愛良はもう一度崇高を見る。
「怪我なんかしないわ。早く行って」
「嫌だ。なんで俺がいちゃいけないんだ?理由を説明せずに、俺が納得できるわけないだろ。お前、こっちに来てからずっと意味不明なことしてるぜ?」
「理由は説明するけど、長くなるからあとで、ホテルでね。今は時間がないわ。必ず説明するから」
「じゃあ、俺は一回外に出るけど、警察を呼んですぐ戻って来る。だから、決闘はすぐに断れ。いいな?お前があんな奴と決闘なんて、俺は絶対に許さないからな」
彼が行こうとしたので、彼女はそれを引きとめた。「待ってよ」
「何やってんだあいつら」
日本語が理解できない明陽は、ただ苛々しながら2人を眺めていた。
「通報はやめて。崇高、お願い」
「だから何でだよ。警察に介入してもらおうよ」
愛良は掴んだ崇高の腕を離さない。「通報しないで。警察沙汰になったら蕭師匠に迷惑が及ぶわ」
また蕭師匠だよ、と思う崇高。
「そうだろうけど、こんなやり方、普通許されないだろう。お前と対戦したいからって俺を人質に取って、お前をおびき寄せるなんて、誘拐じゃないか。警察を呼ぶべきだよ」
「対戦は受けることにしたわ。私が必ず勝つから大丈夫よ。警察は呼ばないで。蕭師匠をこんなおかしな事件に巻き込みたくないの。短時間でけりをつけるから、あなたは大人しくホテルに帰って。お願い」
「蕭師匠、蕭師匠って。お前、いいからまず決闘を断れ」
「おい痴話げんかはあとにしてくれないかな」明陽が声をかける。
「ねえ、明龍、頼むから彼をホテルまで送って」明陽の声を無視する愛良。
「送らなくていい。俺はここにいるよ!」叫ぶ崇高に、まあまあ、と数人の門弟が彼の興奮を鎮めようとしている。
「断らないんだな?」崇高は愛良に最終確認のつもりで聞く。
「彼の挑戦を受けるわ」愛良ははっきりと答える。
「じゃあいいよ。お前が戦うなら、俺はここで見てる。最後まで帰らないぞ」
「あっそう、じゃあ好きにしなさいよ!」愛良はもう崇高など興味が無くなったかのように投げやりに言い、ジャケットを脱いで崇高に叩きつけるように渡した。「それ持ってて」
崇高は、彼女のジャケットを持ったまま憮然として、門弟たちにすすめられた椅子に腰かけた。
門弟の1人は崇高に、奥さんずいぶん気の強い女ですね、と話しかけている。
「おい、お前がぶん殴られたって、俺は見てるだけで助けてやらないからな?お前の自己責任だからな」崇高は怒りながら愛良に言う。
「ええそうよ?だからあなたは帰りなさいって、さっきから言ってるじゃないの。あなたに守ってもらおうなんて、これっぽっちも思ってないから」愛良の口調もとげとげしくなる。
「これも持っててよ」座っている崇高の前に立った愛良は、外した腕時計を渡しながら言う。「失くさないでね。ちょっと高かったんだから」
崇高は受け取って、時計の文字盤を見た。
「日本時間じゃないかよ。直さなかったのか?」崇高は自分の時計の時間と見比べ、ふっと笑った。
「忘れてたわ」愛良も微笑む。「時差は1時間でしょ?直しといて」
「明日、帰るのに?」
言われて愛良はくすくす笑い始める。
「あいつら、大喧嘩した直後に笑ってるぜ。どうなってるんだ」明陽は兄に言った。
「仲がいいってことなんだろう。妬けるよな?」
「俺は別に。兄貴は勝手に嫉妬してろよ」明陽は、待ちくたびれたようにただ2人を眺めている。
「ねえ、見ててもいいけど、つまんないわよ。あなたの大好きな空手じゃないんだから」愛良は中指にはめていたファッションリングも外して崇高に渡す。
「つまらなかったとしても俺は最後までいる。普通、こんな状況でお前を置いて行かないだろ。俺は彼氏じゃないけどさ、お前の友人なんだから。おい、ネックレスはいいのか?」
愛良は思い出したようにネックレスも外して、崇高に渡す。
「つまらなかったらいつでも帰ってね。最後まで見ていく必要ないわよ?」
愛良は髪留めを取り出して髪を後ろでまとめながら言う。「通報は絶対にしないで。いいわね?でないと安心して戦えないわ」
彼女はやっと、明陽を待たせていたことに気づく。
「じゃあ行ってくるわ」
崇高は、愛良に拳を見せてから、その手を開いた。
愛良は崇高の手を握り、握手を交わしてから離す。
彼女は明陽を振り返った。
「勝負してあげるから、準備ができたらいつでもかかって来なさい」
明陽はやっと立ち上がり、愛良のほうにやって来た。
「さんざん待たせやがって」独り言のように明陽は言う。
「おい、お前の先祖が俺の先祖を殺したのは知ってるな」
やめろよ、と明龍が弟に声をかける。
「知ってるわよ。だから?」愛良は馬鹿にしたように笑う。
「知っててこそこそ逃げ回りやがって、いいか、これは仇討ちだ。俺に負けたら俺の前で土下座して謝れ。墓前まで引きずっていってやる」
「負けないからそれは無理ね」愛良は面白そうに明陽を見た。
「あなたなんか死ぬ気で戦っても私には勝てないわ。ただし、本当に死ぬ気で来なさいよ?」
「おう、武道家同士なら、死ぬ気で真剣勝負すべきだ。お互いにな」
明陽は門弟たちに指で合図すると、彼らは自分の立ち位置から一斉に端末を取り出して動画を撮り始めた。試合を録画しようというのだ。
「おい、撮ってるやつ」明龍は言った。「すぐやめろ。挑戦を受けてくれた人に対して失礼だろ」
しかし愛良は明龍に、待って、というしぐさをした。
「そんなに私を撮りたいの?」愛良は周囲の門弟たちを挑発的な目で眺めた。
「撮りたいのなら勝手にお撮りなさい。ただし私だけを撮りなさいね。挑戦者はこれから大恥をかくんだから、撮ったら可哀想だわ」
愛良は余裕の笑みで周囲のカメラをぐるっと眺めた。そして明陽を見る。
「仇討ちをしたいのは分かったから、しぶしぶ受けてやるけど、その前にあなたが私に挑戦するだけのレベルにあるかどうか、確かめさせて。ただの弱いものいじめになったら悪いから。録画してるなら恥ずかしい証拠も残っちゃうし」
「随分な自信だな。俺の輝かしい功績を知らないのかよ」
「ああ、武術大会か何かで優勝してたんだっけ?おめでとう。ずいぶんと強い武術家さんみたいね」愛良は嫌みっぽく言った。
「言葉責めはそれくらいにして、早く始めようぜ」明陽は言った。
対峙した2人が同時に構える。
門派の分かれた2人の構えが同じだったので、門弟たちの間に小さなどよめきが起こった。
「まず最初に試合して、私から見て合格したら仇討ちを受ける。仇討ちの立会人はそちらは明龍、こちらは崇高で、間違いないわね?」
「合格?お前が俺を評価するのか?笑わせるぜ。まあいい。すぐに決着をつけてやる」
明陽は、本物の分派の継承者を目の前に、今まで体験したこともないぞくぞくした感覚を味わっていた。
珍しくも面白い対戦相手に巡り合ったものだ。明陽は、まるで自分が昔憧れていた映画の主人公になったような高揚感を覚えた。
崇高が気づくと、明龍がすぐ隣にいて、畳んだナイフを差し出していた。「これ、彼女に。あと、あそこにペットボトルの水と、タオルもあるから自由に使ってくれ」
「ありがとう」崇高はナイフを受け取る。
「なあ、弟が乱暴に君を人質にして悪かった。勝負が終わったら2人とも俺の車でホテルまで送る。夕方前には帰せるだろう。もし失礼でなければお詫びとして、君たちの泊まっているホテルのディナーを奢らせてくれ。もちろん俺は同席しないから、2人だけで。今回はせっかくの観光を邪魔して済まなかった。彼女が俺の弟と戦うのを見るのは辛いと思うけど、決闘が終わるまで、もう少し我慢してくれ」
「いや、俺は彼女がこんな風に人と対戦するところを、今まで見たことがない。だから、喧嘩を売られたのは俺としては気分が悪いが、正直、彼女が本気で戦うと言うなら、どんな風に戦うのか見てみたい気もするんだ。だけど明龍、彼女は武道家だが大した試合経験はない。それにどう見ても君の弟と比べて体格的に劣るし彼女は女だ。もし彼女が負傷するような危険な状態になった時、2人を引き離して決闘を中断させたいんだが、協力してくれるよな?」
「ああ、もちろんだよ」
明龍は崇高の肩を叩いてから、元の場所に戻って行った。
愛良は自分に向かって来ない明陽に、指で合図した。「先にかかって来ないの?」
馬鹿にされたような気がしたのと、怖気づいたと勘違いされたくなくて、明陽は愛良に飛びかかっていった。
一二、三!と三回の突きが三回とも遮られた。明陽は再び一二、三!と突くが、また遮られた。
愛良は自分からは攻撃せず、明陽の突きを待つ。
一二、三!また入らない。
「何故いつも三回で諦める?四回目で入るかもしれないのに」愛良の口調はさっきと違う、まるで道場の師範のような厳しい言い方になっていた。
「は?誰が諦めるかよ」
「相手の動きを真剣に見ろ!」愛良は厳しく言う。「攻撃しているまさにその最中も、相手の動きに集中するんだ」
何だ、いきなり偉い武術家になったかのような口調で説教してきやがる、と明陽は思った。
「俺は集中してるよ」「してない」愛良は即座に否定した。
「相手の表情や目を見ろ。相手の動きは体で感じとればいい。相手から一瞬でも目を離すな。分かったか」
来い、と愛良は指で合図した。
一二、三!
結果は同じだった。「お前は武術大会の優勝者で、聴衆に見られていることなんて気にならないはずだ。集中できない理由は?」
「何で集中していないって決めつけるんだよ。お前こそかかって来いよ」
「拳法は自己防衛のために使用するのであって、相手を攻撃するためではない、と自分の師匠に教わらなかったか?」
「今は試合だろ。攻撃しなければ試合は成立しない」
「お前が集中できない理由が分かった。お前自身、試合なのか仇討ちなのかが分かっていない。そもそも、こんな実力差がありすぎる相手と普通、試合なんかしないだろうからな」
愛良の口調や態度が最初と明らかに違う。本物の武道家としての貫禄に、門弟たちは息を飲んだ。
「実力差だと?お前の方が強いってことか?俺は認めないぞ。お前は俺に攻撃していないじゃないか」
その時、一瞬明陽の目の前で何かが起こった。
愛良のスピンキックが明陽の目の前をかすめたのだった。おお!と神業に色めき立つ門弟たち。
愛良はうまく決まったことに満足した様子でふっと微笑んで手を上げ、門弟たちのどよめきに答えた。
明陽の目の前には、既に足を降ろして普通に構えたままの愛良の姿があった。
「私には攻撃したい相手はいないから、自分からは攻撃しないスタイルを守っている。いいからお前はかかって来い」
突き蹴り蹴り、突き、蹴り、突き!全てが遮られるか、かわされる明陽。
「さっき、相手を見ろと言ったのを忘れたのか?目を見ろ。目を見れば相手の精神状態が分かる。自信があるか、驚いているか、痛がっているか、苦しんでいるか、怖がっているか、勝てると思っているか負けると思っているか、全て分かる。目を見ろ。目を見たまま…」
愛良はいきなり明陽の胸の上を突いた。「突き!」
明陽はそのまま背後に倒れそうになって、門弟たちに支えられた。
「お前、攻撃しないと言ったくせに、卑怯者!」
「攻撃の仕方を教えたまでだ。今のを頭に叩きこめ。相手の目を見る。そして突き!」
愛良が突いた拳を、明陽が辛くも遮った。愛良は一歩退く。
「そうだ。それでいい」愛良が明陽を見て初めて微笑んだ。「感覚で覚えろ」
俺は今、褒められたのか?何となく嬉しい気分になってしまうような感情を抑える明陽。
愛良は、もう一度来い、と指で合図した。「目を離さず、相手に集中して」
一二三、四、五、六!明陽の攻撃がかわされ、その後に愛良の突きと蹴りが明陽に入った。
明陽は衝撃でまた後ろに倒れそうになったが、今度は踏みとどまった。
こいつ、意外に力が強いな。
「ステップを合わせろ」
「はあ?」
「ステップがずれてるから攻撃が入らない。相手からペースを奪いたかったらまず相手に合わせろ。そのうちに主導権が回って来る」
言いながら愛良は、明陽に近づき、ゆっくりと、そしてだんだん早く突いたり蹴ったりするような真似を始めた。「ステップを合わせる!」
明陽はだんだん強くなる愛良の攻撃をかわしながら、踏み出そうとして自分の足元を見る。
「足を見るな!」
愛良の拳が明陽の頬をかすめ、彼女の肘が明陽の首の横に入った。
「さっき私は何て言った?足を見ろとは言っていない。相手に集中し目を離さず、そしてステップを合わせる」
明陽がぼうっと自分を見ているのに気づいた愛良は思いきり、肘で彼の頬を突いてから離れた。
「まあいい。これは後の課題だ。続きいくぞ。かかって来い」
「ちょっと待てよ。その前にちょっと質問いいか?何だか頭が混乱してきたぞ」
少し息が上がり始め、何故自分が彼女のレッスンを受けているのか分からなくなってきた明陽が、愛良に背を向けて歩きながら明龍に手を挙げる。明龍は弟にタオルを投げた。タオルで顔を拭きながら椅子に座る明陽。
「お前、苦手な戦闘方法ってあるのか?」
何かと思ったらそんな質問か、と愛良はふっと笑いながら、自分も門弟が用意してくれた椅子に座った。
タオルを崇高から受け取ると、後ろの弟子が新聞紙で扇ぎ始めた。
「おい、お前、どっちの味方だ!」
明陽が立ちあがってどなると、弟子は扇ぐのをやめて下がった。
「苦手な戦闘法だが」愛良は後ろの門弟を見てありがとう、というように微笑み、また明陽の方に向き直って言った。「お前もそうだと思うが、同時に複数は相手にしたくない。物語だとよくあるシーンだが私は絶対に無理だと思う。もし敵が複数出てきたら、逃げるか投降するかのどちらかを選ぶだろう。あとは武器とか、棒術かな。素手で戦うのはいいが、棒を振り回すのは好きじゃない、というか向いていない」
「何故」
「はっきり覚えていないが、小さい時に私の師匠が棒術をやらせようとした。何が原因だったか覚えていない。間違って腹か背中を棒で突かれた時の衝撃がトラウマになってしまって、それ以来、棒が私には恐怖でしかない。もしお前があの棒を持って向かってきたら…」
愛良は、道場に用意してある棒術用の棒を指差した。「私は仲間を置いて間違いなく逃げるね」
愛良は自分で言っておかしそうに笑う。
「じゃ、お前の戦闘上の弱点は?あるのか?」
「弱点も何も、お前が私に勝てない理由なんてない。お前の方が背が高く、体格もいいし、筋肉もついている。対戦経験も圧倒的に豊富で、持久力も私の比ではないだろう。しかも幼い頃から香港一、というか世界一素晴らしい師匠について武術を学んでるし、才能のある兄弟子もいる。つまりお前は私より、全てにおいてこの勝負に勝つ要素を持っている」
愛良が立ち上がると、明陽も立った。
「それで何故勝てないのかを、自分に問え」愛良は来い、と指で合図したが、愛良は肩にタオルをかけたままだと気づき、タオルを丸めて後ろの門弟たちの方に放り投げる。門弟たちはそのタオルを奪い合った。
明陽は、今度は目を離さずに攻撃をしかけた。力で押せば勝てるはずだ!半ばやけになったように足も手も使って攻撃するが、愛良のかわす動きも早くてなかなか致命傷を与えられない。「目を見たまま、感覚で合わせろ!」
愛良が反撃して来た。明陽はそれをかわしたり防御したりする。防御は全て成功したが、愛良の攻撃が速過ぎて、明陽はすぐに壁に追い詰められてしまった。
「全体を見ろ。今、防御している時にお前から攻撃するチャンスもあった」
愛良はそれ以上攻撃せずに明陽から離れた。
「ステップを合わせろって言うが、合わせたら永遠にお前のペースじゃん」
「心まで合わせろとは言っていない。合わせる振りをするだけだ。ステップだけを合わせる。つまり、相手に付き合ってやるんだ。こっちが合わせてやると、相手は自分に主導権があると勘違いして、油断してくる。もし自分が勝ちたいと思っていたら、攻撃の時に集中しているはずだ。集中していれば、相手の油断が分かる瞬間がある。その時はもう合わせなくていい。攻撃して、相手のペースを乱すんだ。ペースが乱れた瞬間、一気に致命傷を与える」
そういえば似たような話を親父が言ってたかな、と明陽は何となく思い出していた。
「相手が油断したかどうかは、目を見ていれば分かる。勝ち誇っている時、見下している時、何かに気をとられた時、それを見逃すな」
愛良はまた、来い、と目で合図した。しかし明陽は、聞いてすぐには理解できない様子で、来るのをためらっていた。
「じゃあ私が手本を示す」
愛良は明陽に仕掛け始めた。明陽はそれに対抗して彼女を攻撃する。「今私はお前に合わせている…分かるか」攻撃を受けながら愛良は語りかけた。確かに愛良は明陽の攻撃に押され気味になっているように、はたからは見える。「相手が優勢と見せかけて、その敵を悪意に満ちたダンスに誘うんだ」動きの合っていた状態からいきなり愛良が反撃し、明陽はまた後ろに突き飛ばされ、そして踏みとどまった。
どうだ?という表情で愛良は明陽を見た。明陽は、何となく分かった様子でうなずいた。
「質問いいですか」門弟の1人が声をかけた。
「どうぞ」愛良が答える。
おい、空気読めない馬鹿が、質問なんかするなよ!と明陽は質問者を睨んだ。
「その戦略は自分で編み出したんですか、それともあなたの師匠から?」
「私の祖父で、私の師匠でもある人に教わった。もう亡くなっているけどね」
その時、明陽がいきなり愛良の腹に膝蹴りを食らわせ、前かがみになった愛良の背中を、両手を組んだ拳で殴りつけた。動きを封じられた愛良の体を蹴って床に倒す明陽。
「お前!」
走り出た明龍は、弟がそれ以上攻撃しないように手で遮った。「お前、今のは卑怯だ、謝れ」
倒れた愛良のほうには、崇高が駆け寄った。「愛良…」
門弟がざわつく。門弟たちの、明陽を見る目が悪い方向に変わったようだった。
明陽は、何が悪い、という顔をしている。
愛良はすぐに立ち上がろうとしたが、立てずに膝と片手をついたまま、片手で蹴られた腹を押さえていた。
「いや…卑怯ではない…」愛良は明龍に言う。
「おい、大丈夫か」崇高は愛良をかばうように肩を抱こうとしたが、愛良が拒否した。
攻撃のダメージが相当ひどい様子だが、愛良は顔だけ上を向けて明龍を見た。「彼はただ、今、私が教えた事を実践しただけだ。今のは、私が油断した…」
肩で大きく息をする愛良。
「おい、しゃべるなよ」崇高は愛良の肩に手を乗せたが、今度は愛良にはそれを払う力はないようだった。額に冷や汗がにじむ。「私が彼から目を離した、だから彼にはその隙をついて攻撃する権利がある…」
「でも今のは」門弟の問いに回答している最中に仕掛けるなんて、と明龍が言いかけた時、愛良が力を振り絞って言った。「兄貴づらしてそうやっていつも横から出て来るから、せっかくの弟の可能性が…妨げ…」
愛良は口を押さえて崇高を見た。「吐く…トイレ…」
「おい、吐くって!トイレは!」
崇高が明龍に聞くと、その場にたむろしていた門弟たちが道を開けて、崇高と愛良を近くのトイレに駆け込ませた。
崇高は愛良を個室に入れる。愛良は吐きながらトイレの水を流した。
崇高はトイレットペーパーを引っ張って束にしたものを、愛良に渡す。
口を拭きながら、愛良はまだ肩で息をしている。
「はあ、出たわ…」
「何が」
「お昼に張忠誠が中華奢ってくれたでしょ、あの油っこいのが私に合わなかったみたい。残すと悪いと思って全部食べたけど、あのあとすぐ胃がむかむかして、吐き気がしてたの。今ので全部出たわ」
愛良が気分良さそうに笑ったので、崇高もつられて笑ってしまった。
「おい心配させるなよ、打ちどころが悪くて吐いたかと思うじゃないか」
その時、ドアが開いて、タオルを持った明龍が入って来た。そして、血色が良くなっている愛良を見て驚いた。
「ありがとう」
愛良はタオルを受け取り、洗面で口をゆすぎ、ついでに顔も洗った。
「今の件では彼を怒らないで」顔を拭きながら、愛良が言った。「本当言うとさっきからずっと吐き気がしてたんだけど、我慢してただけだから。吐いたら一気に気分が良くなったわ」
「え、我慢してたのか?すまない、さっき車の中で、気づいてやれなくて」
「気づいてくれてたわ。あの時クーラー入れてくれたでしょ?」
やはり、気分が悪かったんだ、と明陽は車の中のことを思い出していた。寝たふりなんてしていたが、実際は気づかれないように、吐き気に耐えていたに違いない。
「あなたの運転のせいじゃないわよ。張忠誠が案内してくれた食堂の油が私に合わなくて、食べたあとからずっと胃がむかついてたの」
「もう大丈夫なのか?薬を飲まなくてもいい?鎮静剤とか、胃薬とか、漢方でも何でもあるけど」
「何も。明陽の打撃が一番の薬になったから」愛良は冗談っぽく笑う。
「他にほしいものは?」吐き気を隠して道場まで来たのは、きっと恋人を人質に取られたからだ。明龍は強い罪悪感にかられた。「何でも言ってくれ」
「じゃあ、あなたの弟に、私が吐いたのは昼食に当たったからだってことをちゃんと伝えて。さりげなく、みんなに聞こえるようにね、事実だから。多分、ひざ蹴りのあと、背中に一撃食らわせたのが良かったんだと思うわ。武道家やめたら整体師になれるわよ」
愛良が自分に笑いかけながら、自然に会話してくれているのに気づき、明龍もつい嬉しくなる。
「だめだよ、それじゃ弟が調子に乗るだろ?」
「いいから伝えて。私たち少し遅れて出て行くから。私のことは大丈夫よ。さっき私が蹴りあげられた時、少し遅れたけど私が受け身取ったの見てたでしょ?攻撃のダメージは大して受けてないわ、油断はしてたけど。あの時私が立ち上がれなかったのは、蹴られた衝撃で胃がひっくりかえって、一気に吐きそうになったのを我慢したからよ。あんなに大勢の人がいる前で吐くなんて、いくら私でも躊躇するわ」
愛良は明龍にタオルを返した。
「さっきの攻撃で、門弟の明陽を見る目が少し良くないほうに変わったわ。彼らは日本の女が暴れまわっているのが珍しくて、私のほうに注目したいみたい。あなたは最後まで弟の味方をしてあげて」
愛良は念を押すように微笑みかけると、明龍も微笑んでうなずいた。
愛良が、行って、と言う風に顔を傾けると、明龍はタオルを持ってトイレから出ていった。
「本当に大丈夫か?どこも痛くない?」
崇高は愛良に聞いた。
「ええ。顔色、すごく良くなった感じしない?」鏡を見ながら言う愛良の笑顔に、崇高は少し安心した。
「でも、寝不足なんだろ。無理するなよ」
「大丈夫よ。調子が悪いとかえってハイ状態になることあるわよね。行きましょ」
「ちょっと、愛良」行こうとする愛良を引き留め、崇高は思わず彼女を抱きしめていた。しかし、彼女がそれを嫌がるようなそぶりを見せたので、すぐに離す。「嫌だった?」
愛良は曖昧に首をふる。「今はね。だって今は戦っている最中よ。私が勝ったら、私を抱きしめてくれてもいいわ。でも、健闘を称える友人として、ね」
「お前が勝つんだろ、そうしたら、思い切り抱きしめてやるよ。お前が嫌がっても抱きしめてやる」
「ええいいわ、でも勝負って、最後までどうなるか分からないものよ」
え?と驚いた目をする崇高。愛良はこの勝負の結末を知っている?崇高は急に怖くなったが、愛良はいつもと変わらない表情で崇高を見ていた。
明龍が弟のもとに戻った時、明陽はタオルを肩にかけて椅子に座っていた。
「どうしたあいつら、隠れてキスでもしてるか?」明陽が顔を上げて兄に聞く。
「おい、今聞いたけどな」明龍は、愛良の言う通り、多少周りに聞こえるような声で言った。「フリーライターの張忠誠が彼女におごった食堂の中華油にやられて、昼からずっと吐き気がしてたんだって。それを、お前が偶然攻撃したことでやっと吐き出すことができたって喜んでたぞ。しかもさっきと比べて顔色は格段に良くなってるし、声にも張りが出てる。吐く前より明らかに強くなってるから気をつけろ」
信じられない、という顔で兄を見る明陽。明龍はふふ、と笑って弟の肩を押し、彼の肩からタオルを奪っていった。
そこへ愛良と崇高が戻って来る。
「待たせたな」愛良が言う。「私を倒したと思って調子に乗ってないといいが。私はまだ負けてないし、試合はまだ途中だから」
「分かってるよ。まだ勝負はついてないな」
明陽は立ちあがった。確かに彼女は元気になっているし、機嫌も良さそうだった。
06_戦闘
2人がまた構える。
「あと確認だけど」愛良は言った。
「これは仇討ちであってお遊びでもなんでもないんだから、不意打ちだろうが何だろうが、攻撃に関して一切責められるべきではないわ。やられたら、やられたほうの責任。あと明龍お兄さん」
愛良は明龍を見た。
「未成年者ならまだしも、いい歳した大人なんだから、戦い方について弟にいちいち口出ししないで。あなたは人格者かもしれないけど、この決闘での審判じゃないのよ。私と明陽は仇討ちっていう独自のルールのもとに戦ってるんだから」
愛良は明陽に、そうでしょ?と言うと、明陽は、ああ、とうなずいた。
「でも仇討ちってどうやって勝敗を決めるんだよ」明龍が愛良に聞いた。
「相手が死ぬまでじゃない?よく映画であるでしょ。敵が死んだら映画も終わるじゃない」
平然と言う愛良に、冗談だよな?と明龍はふっと笑った。
「地獄を見せてやるって言ったでしょ?武道家に二言はないわ。あなたも、先祖を殺した人間の子孫を探し出したのは、私を殺すためでしょ?」愛良は明陽に聞いた。
「ああそうだよ」明陽は答えた。「でもそんなに死に急ぐんじゃない。俺は多分、お前が苦しむ所を見ないと満足しないと思う。そうじゃないと勝った気がしないし」
「そのわりには真剣さが足りないわ」
愛良は構えた。そしてまた師範のような口調で言った。
「いいか?今私とお前のこの距離と姿勢で、私からはお前が平面に見える。そして、お前は私より背が高い分、上からの視線になる。私は肩幅も普通の男性よりは狭いから、お前の視点からは、後方の様子も確認しやすい。つまりお前はそれだけ私を立体的に見ているはず。敵の動きを全体的に捉える事ができる点ではお前が有利だ。だがお前の問題点は、自分が今見えている状況が当たり前だと思っているから、私と比べてどのくらい、どの点で有利なのかを、戦略に取り入れていないこと。私から見てお前が平面で、後方に関しては想像するしかないことで、私が圧倒的に不利になっていることに、お前自信が気づいていない。お前がそれに気づいていないことに、私が気づくことで、私がこの状況を好転させることができる」
愛良は明陽に攻撃した。
目を見ろ!愛良は明陽を見ながら心の中で叫んだ。いつの間にか愛良の指導どおり、ステップを合わせる明陽。よし、それでいい、と愛良の目が言っているような気がした。しばらく互角に戦ったのち、明陽の蹴りが2発入って愛良が後ろに飛ばされた。
門弟たちが愛良を支える。
「ありがとう、大丈夫よ」愛良は門弟に言い、普通に立って明陽に近づいた。「今の蹴りのタイミングは良かった。さすがだな。私がこのステップの課題を師匠に出された時、理解して実践できるまでに3日以上かかってる。お前は1時間もたたずに実践できた」
「何で俺をそんなに勝たせたいんだよ」
明陽は休憩を取りたくなって椅子に座った。愛良もそれを見て座る。
「そのまま戦ったら私がストレートで勝って面白くないから。お前は基礎はできてるみたいだから、もうちょっと成長してもらわないと。私を苦しめてから殺したいなら、せめて苦しませることができるくらいには強くなってほしい」
門弟の間から失笑が漏れる。
「おい、今笑った奴、破門な」明陽の言葉に笑い声が止まった。やばい、俺も笑った、と思う明龍。
「あのさ、さっきからステップとか立体的に見えるとかそういうことは分かったが、お前自身の実力を俺にあまり見せていないな。実際、普通に俺とお前が戦ったらどれくらいなのか、見せてみろよ」
「見てどうする?お前にはそれを理解するレベルにすらなっていないのに」
明陽は立ちあがって構えた。
「お前にそれを判断されたくないね。第一、仇討ちされる立場のくせに何さまのつもりだ、偉そうに」
明陽がさっきよりは真剣に戦うつもりになったようなので、愛良は満足気に笑いながら立ちあがり、またタオルを門弟たちのほうに投げた。
「いつでもどうぞ?」
愛良の挑発的な言い方にぶち切れた明陽が飛びかかっていった。しかし結局は愛良に翻弄されるようにしか攻撃できない。攻撃が入ってもダメージが無いかのようだ。見下されているように感じた明陽は強烈に怒りを覚えたが、そのためかえって彼女の術中にはまっていく。そのうち愛良の連打が明陽に入り始めた。最初のうちは防御にならない防御で防いでいたが、肘が明陽のみぞおちに入り、突きが連続で胸に入り、高さのあるスピンキックが彼の頬に2度も入った。
倒れこみそうになる明陽が、数人の門弟に支えられた。
「おいやめろ!」
今度は崇高が愛良を止めた。「もういいだろう。やりすぎだぞ」
崇高が空手家として出場したことのある、打撃OKの大会ですら、反則行為と見なされるほどの攻撃を、今の愛良は明陽に対して行っていた。
「お前、あいつをどうする気だ?」
「黙ってて」愛良は崇高の手を振り払った。「待て」崇高は愛良の腕を掴んだ。「対戦相手を意図的に怪我させていいと思ってるのか。お前も武道家だろう。何をしようとしてる?」
「これは武術大会の試合でも何でもないわよ。何のルールの話をしてるの?これは殺し合い。あなたには残酷だから、もうホテルに帰りなさい。見ないほうがいいわ」
「ちょっと待て」崇高は愛良を制止しつつ、再び明陽の様子を見た。椅子に座らされようとしている明陽は、冗談ではなくかなりダメージが大きいように見える。
「顔を蹴るなんてやりすぎだ。相手に屈辱を与える行為だぞ。分かってるのか」
「分かってるわ。わざと屈辱感を与えてるのよ。でもあなたも見た通り、そんなに強い蹴りじゃないわ。頬を軽く叩く程度よ。そうしないと私の軸足がぶれてバランスが取れなくなるから」
「そういう事を言ってるんじゃない、打撃が強かろうが弱かろうが、対戦相手に屈辱を与えるような行為をするなって言ってるんだよ。相手を何だと思ってるんだ?お前と同じ、武道を学ぶ人間だぞ。顔面を攻撃するなんて、許されることじゃない」
「口出ししないで崇高。私のやりたいようにやるわ」
「待てよ、おい」崇高は愛良を引き留めようとした。「冗談だよな?」しかし愛良は返事をせず、彼の手を振り払う。
「おい、愛良…、分かった、最初に人質になった俺が悪かった。もうやめてくれよ。明日、日本に帰るんだろ?何でこんなことしてるんだよ。香港に来てから、お前の行動の意味が分からない。お前まで犯罪者になるつもりか?」
誇り高いはずの彼女が、打撃系の試合のルールすら逸脱したような攻撃を加えて平然としている。崇高は彼女の行動が信じられなかった。
その時、明陽が兄の制止を振り払い、吠えながら愛良に向かって来た。
「喉が渇いたわ、水」
愛良はまるで命令するかのように崇高にそう言い残して、明陽の攻撃を迎える。
水?崇高は机に何本も置かれているペットボトルの1つを取った。「やめろって言ってるだろう!」頭に来た崇高は、戦闘中の愛良に向かってボトルを投げつけた。が、愛良は華麗なスピンキックを明陽に食らわせ、着地したと同時に、飛んできた水を手でキャッチした。「ありがと」
おお!と今までで最大級のどよめきが起こり、門弟たちは思わず拍手喝采していた。新聞紙の紙吹雪まで舞っている。
愛良は平然とキャップをあけて、高い位置から水を落とすようにして飲んだ。はあっと溜息をついてからそのキャップを投げると門弟たちが争ってそれを取ろうとしている。
「おい!今拍手したやつ、破門…」息を切らせた明陽が言いかけた時、愛良は残りの水を明陽の顔めがけてぶちまけた。それから近くの門弟が肩にかけていたタオルを奪って明陽に投げた。
「右目の眉のあたり、血が出てる。血が目に入ったら戦闘に不利だから、休憩」
愛良は明龍に、彼を手当して、と言いたげに視線を送った。
愛良が門弟たちの声援に応えるように手を上げると、彼らはまた愛良に喝采を浴びせた。
満足げにほほ笑む愛良と、納得できない顔の崇高。
水をかけられたことで、傷口がしみたので、明陽はそのあたりをタオルで拭いた。思ったより血が出ている。
明龍がガーゼとテープで弟の処置をしている間、愛良は椅子にかけて待っていた。
「おい、まさか、相手を病院送りにするつもりじゃないだろうな?」崇高が愛良の横に来る。
「帰るか黙って見てるかどっちかにして。邪魔するなら帰って」
「お前の武道家としての誇りは?お前、こんなことをするために今まで修行してきたのかよ」
「そうよ。私は今日のために今まで修行してきたの」
反対側のセコンドでは、明陽が兄に説教されていた。
「あっちのほうが実力が上だ。早く謝って許してもらえ。病院に担ぎ込まれる事態になったら、俺は師匠に何て説明すればいいんだよ」
「兄貴、この件に関しては口を出さないと約束したはずだぞ」
「約束したが、こんな大事になるなら話は別だ。お前が骨折して入院したらどうする?自分より小柄な日本人女性に挑戦状を叩きつけたらコテンパンにやられましたって?」
明陽は黙って、向こうの愛良を睨んでいた。まだやられてねえよ!とつぶやく。
「おい!」明陽は愛良に向かってどなった。
「さっき立体的見えて有利だと言うことに俺が気づいていないと言ったな。それ以外に俺が気づいていないことは何だ?」
「攻撃した時のダメージかな」
「つまり俺のほうがダメージが小さくて、お前のほうのダメージが大きいってことだろう?馬鹿にすんな、知ってるよそんなこと!」
それを聞いて愛良は静かに立ち上がり、明陽のほうに歩いて行った。
愛良が無言なので明陽が身構えていると、愛良は人差し指を彼の前に立てた。
「指を見るのではなく、その先にあるものは?」
「月だ」明陽はニヤっと笑った。
「お前はその台詞を何回聞いた?」
「数えきれないね」
「数えきれないほど聞いたのに、お前はそこから何も学んでないんだな」愛良が手を降ろすと、明陽の笑いが止まった。
「その台詞を聞いている時のお前はまさに、指しか見ていない」
明陽は身を乗り出しそうになったが、考え直して椅子にもたれかかった。「続けろ」
「さっきのお前の解釈は、攻撃を受けた時のダメージのことを言ったのだと思う。しかも一般論でしかない。今戦っているのは私対お前なんだから、私とお前のこととして考えるべきだ」
言いながら愛良は自分の椅子に戻って座った。
「お前の気づいていないことの一つに、攻撃した時の、攻撃した側のダメージがある。といっても、これは私にしか当てはまらない。お前は私を突こうが蹴ろうが、特に何ともないだろう。自分より小柄な人間を殴るのはたやすい。ただし、私がお前を蹴る場合も突く場合も、お前の体の方が大きくて堅いから、一度の攻撃でもこちらにダメージが来る。連続で攻撃したら連続でダメージが来るし、それだけ体力も消耗する。お前のほうが背が高い分、手足も長いから攻撃の時に私よりも動かなくてすむが、私は攻撃の角度と、お前のその時の体勢を考慮してから、攻撃を最大限に発揮できる理想的な位置につかなくてはならない。つまりそれだけ攻撃の際に時間がかかっている。ただ、お前はそれに気づいていないから、私が攻撃したら、攻撃されたとしか思っていない。攻撃したかされたか、それだけの話で終わりだ。攻撃させることで、かえって相手を弱らせることができることに気づいていないから、それを逆手に取ろうと思わないんだ。何故それに気づかないか?相手に集中していないからだ。つまり真剣に戦っていない」
「よく手の内を晒すな。俺に負けたいのか?」
「これだけ教えてやっても、まだお前のほうが弱いんだという事実に、お前が気づかないから呆れる。もう一戦したら、また次の手の内を教えてやる」
愛良は立ち上がった。自分が使ったタオルを投げると、また門弟たちが争って奪い合っていた。
「まず集中して。目を見て、相手に合わせるふり、自分の目線と相手の目線が違うこと、攻撃される時、お前がこの瞬間、どのように有利な立場にあるか」
明陽も立った。睨みあう2人。対峙しながら、お互いに一歩ずつ円上を進む。
愛良が先に攻撃した。自分にもダメージが来るといいながら、愛良の攻撃はかなり力強い。そこらへんの武道家の男と変わらない力で攻めて来る。愛良と明陽がお互いに攻撃しあい、しばらく戦ったが、やはり最後は愛良の突きと蹴りが入って明陽は動きを止めた。
「今のはなかなか良かった。互角だったし」
愛良は言った。互角どころではない、全然こっちが負けている、と明陽は考えていた。だが、彼女には互角と言い切れる別のものが見えていたのか?
「今ので、だめだったところを教えてくれよ」明陽は休むために椅子に座ったので、愛良も自分の椅子に座った。
「お前は相当レベルの高い武道家だ。だめなところなんて1つもない」愛良は微笑みながら明陽を見た。「お前は私が餌を撒いたら撒いただけちゃんと食い付いてくる。私が言ったこともお前なりに理解しようとしているし、集中しろと言ったらちゃんと集中してくる。あまり考えずに体当たりしてくるところがいい。私は師匠に何か教えられても、理論的に解釈しようとして、いつも身に着くまでに時間がかかっていた。お前は余計なことを考えない分、体で理解するのが早い。さっきここに来る時、お前の兄にお前のことを聞いた時、彼はお前をセンスがある、と表現していたけど、まさにその通りだと思う」
「親父に聞かせてやりたいよ。親父は俺が出来て当たり前だと思ってるからな」
明陽は愛良の好意的な見解に驚きつつ、見方が父親と対照的だと感じてふっと溜息をついた。
「できて当たり前と思われるのは当然だ。お前はあの蕭師匠の息子なんだから。師匠の技術と、センスの良さを立派に受け継いでる」
「お前から見て、俺のだめなところは無いんだな?」
「どうしても何か言えっていうなら…そうだな、たまに軸足がぶれてる。だから蹴りの時にもっと力が出せるのに出ていないような気がする。でも、もともとの癖なら直すほどのことでもない。体格が関係あるのかもしれないし、バランスが取れているならそれでいい。今、お前は武術大会で優勝するほどの腕前で、それで蹴りの威力があと10%上がったからって大した差ではないだろう」
明陽は、ははは、と笑い始めた。「数日前に兄貴が全く同じ事を俺に言った。たまに軸足がぶれてる、力がもっと出せるはず、癖なら直さなくていい、体格が関係あるかも、って。お前は兄貴と似たような所を見てるんだな」
「そう?」
愛良が明龍を見ると、明龍はうなずいていた。
「だめなところがないのは分かった。お前との勝負に勝つ方法は?」
「多分ない。勝負には私が勝つ。理由は、お前が勝とうとしていないから。復讐劇に酔っているだけで、本当に命をかける勇気がないから」
もうこれで諦めろ、という方向に持っていってくれようとしているのか、と明龍と崇高は期待した。
「さっき私が一方的に激しく攻撃した時、お前が死を恐れているのが分かった。映画の中では仇討ちは、主人公が行う英雄的行為だ。英雄は死を恐れない」
「じゃあお前は死んでも平気なのか」明陽は愛良に聞いた。
「少なくともお前よりは覚悟ができてるかもな。さあ、続きいくぞ」
愛良は立ちあがった。明陽も立つ。
「1時間前よりずっと動きが良くなってるから、その調子で来い」
明陽は攻撃を始めた。何回かの攻撃は愛良に入ったが、勝敗を分けるほどのものではなかった。今、彼女はわざと攻撃されたふりをしているのか?見ている者には判断がつかなかった。
2人は一度離れた。
「違う」愛良は明陽の攻撃に対してだめ出しをした。「勝とうとやっきになっている時のお前は、勝利から一番遠い場所にいる。私を苦しめたかったら攻撃している時も冷静になれ!」
「お前、さっき俺が勝とうとしていないから勝てないとか言ったよな!どっちだよ!」
愛良は人差し指を立ててみせた。「どこを見てるんだ?指じゃない」
愛良はそのまま指で、来い、と指図した。
「冷静に。周りの視線は気にするな。この場所には私とお前しかいない。お前には私を倒すだけの力がある」
悪意に満ちたダンスに誘われているのか、それとも勝利への糸口か。いずれにせよ、明陽が今すべきことは冷静に彼女を攻撃することだけだった。
「勝つためには何が必要だ?冷静さと、何だと思う?」愛良は問いかけた。
「ゆるぎない攻撃だ」
「そうだ。勝利したかったらまず勝利したいという欲求は脇に置け。何故勝利したいと思う?自分がまだ勝利していないことに囚われているからだ。勝利していないことを強く自覚しながら攻撃しても無駄だ。勝利すると確信しながら攻撃するんだ。そのためにはまず、冷静にならなければいけない」
愛良は明陽の隙になっている場所を攻撃する。一度目は防御に失敗した明陽も、二度目は愛良の拳を受け止めることができた。愛良は、そうだ、という目で明陽を見た。しかし、明陽が反撃で蹴ろうとした時、既に愛良は身をひるがえしていた。そのまま明陽の腹に愛良の拳が入る。
愛良の拳が正確に入りすぎて、明陽はおもわずうめき声をもらした。衝撃で体が曲がる。
何故あんなに強烈なパンチが、と思いながら、腹を押さえて後退する。
愛良は明陽の様子を見て、手で椅子に座るように指示した。
そして自分も席に戻って、彼から何か聞かれるのを待った。
「お前の戦略は?」明陽は愛良に聞いた。「俺に勝つために何を心掛けてる?」
「攻撃に関しては速さかな。早さと正確さ、そして最小限の力で最大限の攻撃」
「戦闘に関して台本はあるのか?」
愛良はその問いに苦笑した。「ある。そこまで教わってから戦いたいのか?試験を受けに来た者が先に解答を見てどうする」
愛良の横に崇高が来た。
「なあ、愛良、勝負はつかないんだろう?もう夕方だし…」
「先に帰って」愛良は崇高の頬に軽く張り手を食らわせる真似をした。また門弟が、まあまあ、となだめながら崇高を椅子に戻した。そして、よくあんな奥さんもらいましたねえ、とか話しかけている。
「奥さんじゃないわ」愛良は振り返って門弟に言うと、彼は失礼しました、と愛想笑いをして下がる。
「じゃあ何」明龍は聞いた。「恋人?」
「いいえ。ただの同僚だし、私は今回この人に通訳としてついてきただけだから」
「恋人じゃないの?」明龍も驚いたが、他の者も恋人だろうと思っていたので驚いていた。
「日本の女はただの同僚とそんなにいちゃいちゃするのか?」門弟が隣の仲間に話しかけている。
「海外出張に来た人間が一緒に行動しているだけで、いちゃいちゃ?」愛良が反論するように言った。
「ホテルの部屋は別?」門弟の誰かが質問した。愛良がそんなくだらない質問に答えるのを躊躇していると、明陽が立ちあがって、その門弟の頬を殴った。「お前出てけよ」
「会社で取ってるんだし、ホテルの部屋は別よ。それも、上下で別よ」愛良は答えた。
「答えなくていい、下らない」明陽は言った。「兄貴も馬鹿なこと聞くなよ。下世話だろ」
「ああ、悪かった」弟に睨まれて明龍は答えた。「彼女は武道家だ。ここにはお前の挑戦を受けて来た」
「そうだ」
明陽は、休憩は終わりだ、というように彼女に立つよう手で促した。
「私の台本はこうだ」
愛良は立ち上がりながら言った。
「まず最初の設定として、お前の持久力が15分と仮定する。私の持久力は最大で10分だ。この時、お前を仕留めるのにかける理想的な時間は5分まで。自分より体力的に有利な人間を相手に、自分の持久力をかんがみた時、なるべく短い時間で素早く、正確に、そして力強く相手に致命傷を与えなくてはならない。最初の5分をいかに有効に使うか、いかに短時間で自分に有利になるよう相手をリードするかが鍵になる」
愛良は構えた。
「今のが基本問題として、お前は解答を考えろ」
「解答はこうだ。俺が15分でお前が10分なら、お前の持久力が落ちる10分まで戦いを引き延ばす。10分もたせたら、俺は圧倒的に有利な立場になり、残りの5分でお前を倒す」
「そうだな、解答の大体はそれで正解だ」
問題を実践するために愛良は明陽を攻撃した。お前がどうやって10分も持たせる?今までだってせいぜい2分だ。それに、今のお前が私と10分も戦い続けたら、お前の精神がぼろぼろになるだろう。
愛良は明陽の突きを止めた。「力が一点に集中していない」「何だと?」
明陽は突きを止められたまま、彼女の腹を蹴って手を離させた。彼女は後ろに退き、腹を手でおさえて息を切らせている。
「蹴りはいいが、私を突く時、もっと一点に力を集中させれば、より少ない力で相手に大きなダメージを与えることができる。立派な師匠について習ったんだから、もともと基本はできていたはずだ。トレーニングを怠っていると変な癖がつく。見た目重視で筋トレばかりやってるんじゃないか?ちゃんと拳法の修行をしろ」
「男はみんな筋トレが大好きなんだよ。修行はつまんないからな」
「やれやれ、それで先祖の仇に勝つつもりか」
愛良は崇高のほうを見て、それから何かを探すように見回した。
「水?」と崇高は愛良に水を上げてみせた。愛良は首を振る。
「あの、悪いんだけど、明龍」愛良は言った。「すごくコーヒーが飲みたいんだけど、あとで払うから買ってきてくれない?」
「ここらへんにコーヒーショップはないんだよ。給湯室にエスプレッソメーカーがあるから案内するよ。でも全員分はないから…」明龍は財布を出して門弟のうち代表として1人に金を渡した。
「飲みものだけだぞ?みんな、外で何か買ってきたら。一旦休憩しよう」
門弟たちは、一時的に弱くなった雨の中、ぞろぞろと出ていった。
「こっちへどうぞ」明龍が、愛良と崇高を案内した。「俺も飲む」と明陽がついてくる。
「お前、悪ノリが過ぎるぞ」歩きながら、崇高が小声で愛良に説教する。
「何がよ?」愛良は聞き返す。
「自分がちょっと優勢だからって、調子に乗りすぎだって言ってるんだよ。とにかく門弟に向かってタオルを投げるのはやめろ」
「そんなこと?みんな喜んで、盛り上がってるじゃない。だめなの?」
「お前、投げたあとを見てないだろ。門弟たちが争ってそのタオルを取って、タオルを抱きしめながらずっと匂いを嗅いでるんだよ」
え?という顔で崇高を見る愛良。だからやめろ、という目をする崇高。「分かったわ。もう投げないわよ」
トイレも綺麗だったが、給湯室も整っていて、立派なエスプレッソメーカーが2台も設置されていた。
「さっき俺のこと、何話してたんだ?」明龍がマシンを操作している間に、崇高が聞いた。「みんな早口で全然聞き取れなかった」
「あなたと私が恋人かってこと」愛良はわざと、早口ではないゆっくりした広東語で言う。
「恋人じゃん」え、やっぱり!と兄弟が愛良を見る。
「昔、恋人だったってことでしょ?今は違うわ。とっくに別れてるんだから」「昔っていつだ」すかさず明陽が聞いたので、明龍は弟を肘で突きながら「お前こそ下世話なこと聞くなよ」とたしなめた。しかし、そう言ったものの明龍も抑えきれず、思わず聞いてしまった。
「何で別れちゃったの?」
「大学受験」
「大学受験!」
兄弟が同時に叫んだ。「そんなに若いうちから」「おい、聞かなきゃよかった、色々想像が捗るな」つまり崇高はひょっとして、愛良の初めての…と兄弟は、崇高をまじまじと見た。
それに気づいた崇高は、誇らしげな顔で、兄弟を見返す。
「あの、コーヒーがもう出来てるみたいだから、もらってもいい?」愛良は明龍に聞く。
ああ、どうぞ…と明龍は動揺した様子で、コーヒーの入ったカップの下にソーサーを重ね、愛良に持たせると、愛良はそのコーヒーをまず崇高に「どうぞ」と渡した。崇高は微笑んで「ありがとう」と受け取る。
先に、元彼氏に渡したぞ、しかも自然に…。兄弟は目でうなずきあった。
「そんなに前からの知り合いなんだ?びっくりした」
明龍は気を取り直して、もう一つのマシンに落ちているコーヒーを彼女に渡した。
「今は何でもないわよ。同僚で、ただのお友達よ。あなたたちは飲まないの?」
「俺はもういらない、何だか急にお腹いっぱいになってしまって何も欲しくない感じだ」明龍は言った。
「あなた、意外に変な人ね」
「ああ、俺もいらねえよ」と明陽が投げやりな調子で言う。
愛良はコーヒーを一気に飲み干し、おいしかった、と言う。
「あの、そういえばさ」明龍は言った。「もうこのへんでやめないか、お互いに。弟ももう絶対に勝てないんだし、君は明日、日本に帰るんだから、もう決闘なんかやめて、俺たちみんな少し休んで冷静になろうよ。君たちが来てくれたお礼に、夕食をうちで出すけど招待させてくれないかな。ホテルのケータリングを頼んでごちそうするけど、どう?食事しながら君たちともう少し武道についての話なんかもしたいし。師匠がいなくて残念だよ、是非君に会わせたかった。それとも、もしもう疲れてるし俺たちの顔も見たくないっていうんなら、もちろんすぐにホテルまで送るよ?ディナー代も払うしレストランの予約も先に入れておこう」
これでやめさせられそうかな?と崇高を見る明龍。
「兄貴、仕切るなよ。俺と愛良は決闘の最中だぞ」明陽は言った。
「明陽が私に勝てないかどうかは、あなたには判断できないわよ」愛良が明龍に言った。
「さっきも言ったけど彼にはセンスがあるし、戦いをやめるにしても、挑戦者である彼に判断させるべきだわ。もし彼が判断を委ねるなら、私が判断するけど。お兄さんはただの立会人で傍観者なんだから黙ってて」
愛良はカップを差し出した。「ごちそうさま」
愛良は明陽に、行くわよ、と目で合図してから、給湯室を出ていった。明陽も続けて出て行く。
「あの2人、いつの間にか目で会話する仲になってるな」残された明龍は、崇高に言った。
「あの2人がどうなってるのか、俺にも分からない」崇高は苦笑いしながら答える。
さっきの場所に戻ると、門弟たちはもう飲み物を買って戻っていて、2人の対戦の続きを待ち遠しそうにしていた。
「次の課題は?」
明陽に聞かれて、愛良は腕を組んだ。
「お前はここの師範代だったな」愛良が聞いた。
「そうだが」
「お前は門下生のように、悪い意味で、純粋で受け身なところがある。言い替えると、師範の立場でいつまでも門下生気分が抜けていない」
次から次へと、よく見てるよ、多分根拠があるんだろうな、と明陽は考えていた。
「まず、私を蹴ってみろ」
愛良は腕を組むのをやめ、明陽の前で構えてみせた。
「本気で蹴るぞ」
構えながら愛良はうなずいた。「当然だ」
明陽は愛良に向かって蹴った。愛良が後退したので、蹴りは彼女に当たらなかった。
「今のは不正解だ。もう一度。真剣に、敵を討つと思ってやれ。思い切って」
構える愛良にもう一度蹴りを入れる。
今度は愛良の防御の手が防ぎきれず、明陽の足が愛良の顎から口元かけてに命中した。愛良は蹴られた所を手で押さえる。口を蹴られたため、すぐに喋れない。
愛良が崇高の所にやって来て手を差し出すと、崇高は彼女にペットボトルを渡した。
愛良はタオルを取り、崇高に渡されたペットボトルの水をかけて、そのタオルを口元にあてた。
「今のは両方とも不正解」愛良はやっと喋った。「何故か分かるか。考えろ」
考えても分かるわけがない。2回目は入ったから、正解じゃないのか?
「じゃあ私がヒントを示す」
愛良はやっと口元からタオルを離した。
「さっき私がしたように構えろ」明陽はさっきの愛良の構えをまねた。「手はもっと上だったぞ」
明陽は手をあごの近くに持って行った。
「お前はこう入れるべきだった見本を示す」
今までの戦闘で見せたような高い蹴りをするかと思いきや、愛良は明陽のへその下あたりに強烈な蹴りをお見舞いした。そして不安定に後退した明陽にそのまま向かっていき、蹴りの衝撃で倒れた明陽の胸の上に膝を落とす。痛みにうめき声をあげる明陽。愛良は肩にかけていたタオルを素早く明陽の首に回し、締め上げる真似をした。
「いいか、仇を討ちたかったらこれくらいしろ」
愛良は明陽を解放した。
愛良が席に戻ると、明龍が弟の様子を見ようと出てこようとしたので、愛良は明龍をにらみながら、手でさえぎるそぶりを見せた。
「怪我なんかしてないんだし、自分で起き上がってくる」
明陽は皆に見られて屈辱を感じながら起き上った。
「今ので分かったか」
完全に起き上ったのを見て愛良は聞いた。
「ああ。つまり…構えた時の手の位置か?そこに向かって蹴ったのは間違いだったと?」
「正解。今のは、お前が師範代としての意識を持っているか、それとも門弟気分が抜けていないかを確認するテストだった。今、お前は2回も私の誘いに乗った。私はお前に、蹴ってみろといって構え、手をあごのそばに持っていった。お前は躊躇なくその手に向かって蹴った。つまり、敵がここを攻撃してこい、と示したその場所に入れたんだ。お前は既に敵の術中にはまっている。どこを攻撃するかは、相手を見極めた上で自分で決めろ。敵の誘いに乗るんじゃない」
愛良から見て、明陽のダメージが大きいようだったので、時間稼ぎに門弟たちを見まわした。
「質問のある者」
1人がはい、と手を挙げたので、愛良はどうぞ、と言った。
「さっき筋トレの話が出ましたけど、あなたが修行のメニューで一番多くやっているものは」
愛良はうなずいた。
「教えるが、参考にはならないと思う。私が今、一番時間をかけているのは精神統一だ。だけど、言うまでもなく、普通の修行者は実技のトレーニングをメインにやったほうがいい。私が精神統一に一番時間を割いているのは、単に武道家としての探究心からだ。自分の流派の拳法に何を求めるかで、修行の内容が変わってくる。私は普通、他人と対戦しないから、実技のトレーニングは最低限だ」
次に別の門弟が質問した。
「あなたの流派はうちの流派と元が同じで、ある時別れたと聞きましたが、その流派をあなたの祖父から継承したのは、あなたと、誰ですか」
「最初に私の両親が継承したが、私が子供の頃に同時に亡くなっているので、その後で私が祖父から継承した。祖父が亡くなってからは私が自動的にその流派の最高師範となり、継承者は私だけだ。実際には、2人が継承することになっているが、2人目はいない。師範ではあるが私は弟子を取らないから、誰も教えていない。私の代でこの流派は終わる」
「後継者がいなかったってこと?」
明龍は聞いた。
「違う。祖父は道場を開いていなかったし、この拳法を私に授けることにかなり躊躇した。両親が死んだ時、もうこの流派を終わらせようと思ったようだ。だが、突然自分の息子とその嫁を失った悲しみだと思う、最後に私に教え、そして私には自由意志で、この流派を終わらせてもよい、と教えた。私はあそこにいる友人の崇高にもこの拳法を見せたことはないし、他の人間にも流派の名前を口にしていない。後継者を取ろうとも思っていない」
「例えば、この中の誰かが弟子になりたいと言ったら受け入れますか?」門弟の言葉に、明陽はおいおい、と手を振った。
愛良は笑顔で「断る」と返事をした。
「入門は断るが、私がこうして武道家たちと交流するのは、多分これが最初で最後になるだろう。質問があるなら答える。もともと私たちは同じ流派だったから、そういう意味では他の武道とは違う、特別な親近感がある。今夜勝負がつくまで、質問があったら聞いてくれていい」
質問が出ないのを見計らって、明陽は立った。
愛良も立つ。
「あとどれだけ課題を完了したらお前に勝てるのかな」
「もう少しだ。お前はちゃんと上達してるから、あとどれだけ、ということは心配しなくていい。かかって来い」
明陽は愛良に攻撃を始めた。何度も対戦しているのでだんだん、攻め方の感覚が掴めて来る。ステップの合わせ方も分かって来た。さっきとは明らかに流れが違う。愛良の目も警戒しているようだった。そこだ!明陽のパンチが愛良の頬に正確にはいった。顔を殴られたことで、明陽を見ていた愛良の視線が一瞬外れる。その隙を狙い、明陽の蹴りが愛良の脇腹に入る。愛良は視線を明陽に戻すがもう遅く、明陽の突きが胸の上に入るのを片手で止めるのがやっとだった。愛良の息が上がり、体勢が崩れ、明陽の攻撃をかわしながら、体勢を立て直そうとしていたが失敗し、どんどん後方に追い詰められる。彼の肘が彼女の頬に入り、衝撃で彼女は壁にぶつかった。壁にもたれかかった愛良の腹に、明陽の膝が最後のとどめを刺した。
明陽は、肩で大きく息をする愛良の髪を掴んで上を向かせた。
その時、愛良の目には不敵な笑みが浮かんでいた。何?!
明陽が気づいた時には、彼の腹に愛良の渾身の突きがはいっていた。続いて蹴りが入る。愛良は体をひるがえし、体勢を崩した明陽の首を腕と肘で押すようにして、さっき自分が押し付けられていた壁に彼を押し付けた。髪を掴んで自分のほうを向かせる。
「油断の意味が分かったか?」
そして彼の腹に、自分がさっきやられたようにひざ蹴りをお見舞いした。
愛良が離すと、明陽は壁にもたれたままずるずると落ちていった。今のは何だ?先に俺にわざと攻撃させた?
愛良は席に戻り、殴られた頬に濡れたタオルを当てた。
明龍が心配そうにこっちへやって来る。
「塗り薬が必要ならある。消毒も。何が欲しい?」
「大丈夫。氷くれない?明日の出国審査で顔が違ってたらまずいから」
愛良は笑いかけた。笑いごとじゃないよ、と思いながら明龍は氷を持ってくるように門弟に指示した。
「あの、もしもの話だけど、うちの弟が怪我した場合はもちろんそちらに請求せずうちで処理するけど、君が怪我した場合は全額こっちで持つからね。あと、うちの道場は近くに提携している病院があるから、もし何かあったら安心してかかるといい。俺が責任を持って君を案内するから」
手で掴める大きさのアイスバッグがやって来たので、明龍はそれをタオルにくるんで愛良に渡した。
「もし出国審査ではじかれたら、うちに連絡しろよ、喜んで何泊でも泊めるから。もし良かったら、うちには客室があるから、今晩泊まってもいいんだよ。明日ホテルに送るから。その場合は夕食、うちで食べていってくれるよね?」
「ありがとう」
愛良は氷を顔に当てた。
「済まなかった。弟が、君の顔を殴るなんて」
「卑怯だって言いたいの?私も彼の顔を攻撃したわ。明龍、いい?これは仇討ちを前提にした決闘よ。どこを攻撃しようと彼の自由だし、私が負傷した場合は私の責任よ。逆の場合も同じ。それ以上のルールはないわ」
愛良は立ち上がった。
「氷をありがとう。もう大丈夫よ。弟のほうに戻ってあげて。私には崇高がいるから」
明龍が振り返ると、弟が彼を見ていた。明龍はまた愛良に向き直る。
「なあ、崇高を人質にとって君をここに連れてきたこと…」
「もういいのよ。あなたも、弟が私に攻撃されているのを見るの、辛いんでしょ?彼と対戦させてくれてありがとう。彼、さすがあの蕭師匠の息子ね」
「君から見て、どう?強いのかな」
「凄く強いわ」
愛良は、もう行ってあげて、と言うように明龍を見た。
明龍は、あとは任す、と崇高の肩をたたいて戻っていった。
「油断云々はおいといて、今の攻撃は良かったぞ」愛良は向こうにいる明陽に話しかけた。「最初から流れに乗っていて迷いがなかったし、勝っているという自信に満ちていた。ちゃんと敵の隙を隙と見定めて攻撃していたし」
最初に愛良がやられていたのは、自分に油断というものを教えるための演技だったのだろうか?明陽は混乱した。
愛良は向こうにいる明陽の様子を見て、もう少し休ませた方がいいだろうと感じた。
「質問どうぞ」
愛良が言うと、門弟が手を挙げた。
「さっきの話ですけど、もし答えてもらえたら。弟子を取らないのに理由がありますか?つまり、どうして流派を畳んでしまうんでしょうか」
愛良はうなずいた。
「少し長くなる。さっきから話題に出ているから知っていると思うが、蕭家の流派と私の、つまり林家の流派が別れたのは、昔、私たちの先祖が試合中に死者を出したからだ。殺した師範がうちの先祖、殺された師範が彼の先祖。同じ道場の中で、普段の練習試合をしている最中の出来事だったと言われている。その頃、道場の中では、何となくタカ派とハト派に別れていたらしい。殺したのはハト派の師範。死者を出したということで町は大騒動になった。その頃は拳法は、自衛やただの運動以外に、他人を殺傷する目的でも学ばれていた。清朝中期だったらしいからね。私の先祖は死人を出したことに対して、その流派に代々伝わっている、人を殺すための術は今後学ばせたくないとタカ派に申し出た。その頃既に、人を殺すための術、冥殺指は、必ず2人までに教え、2人のうち最初に教えられた1人のみがそれを次の代に継承する、という方法を取っていた。ハト派の師範は、人殺しは身を持って知り、それが恐ろしい事が分かったからその技は次世代に継承しないと言い出し、結論として、冥殺指を教える流派と、教えない流派に別れることになった、と聞いている。今言った通りハト派の主張は、人殺しが恐ろしいことだと分かり、これ以上人を殺してはいけないから、教えないことにした。それに対しタカ派は、世の中が平和の時はそれでいいが、戦争や圧政、弾圧など、時代の変化は必ず来る。武器を持たない者が弱者に甘んじることなく生きて行くためには、冥殺指のような技を人数を限って教えることは絶対に必要であると主張した。ところで私の師匠であり祖父だが、彼は道場を持たなかった。祖父の上の世代も道場を持っていない。流派が別れた時にハト派についていた門弟がどうなったかは分からないが、なるべく目立たないように、道場は持たなかったようだ。目立ちたくない理由は、死者を出したことで相当に世間から批判されたからだ。当時は死んで詫びろという論調が大きかったそうだが、私の先祖は自害せず生き延びた。やがてその師範は、執事の郷里が台湾だった関係で台湾に逃れたが、元の流派が有名だったために台湾でも身元がばれて、周辺を転々とした。日本に移り住んだのも、批判から逃れるためだったと聞いている。私は祖父から拳法を学び、それを学ぶことが好きだったから今も独自に研究し実践しているが、他人に勧めようとは思わない。誰かに継承させれば、この流派の歴史まで背負わせることになる」
例えば愛良のように、技を人前で披露することなくひっそりと暮らしていても、やがて明陽のような男が流派の過去を暴き、落とし前をつけろと迫って来る。
愛良が見ると、もう明陽の調子が良くなっているらしかったので、愛良は立ちあがった。
「そろそろ仕上げといくか。この仇討講習に合格したら、お前を本物の挑戦者として相手してやる」
07_明龍へ電話
その時、明龍は携帯に電話がかかってきたのに気づいた。張忠誠からだ。
「はい」「もしもし、明龍?師匠の飛行機が欠航になった。今、師匠とそっちに向かっているタクシーの中だ。師匠には全てを話したぞ」
まずい、と一瞬思ったが考え直した。
「忠誠、電話をくれてありがとう。今道場で大変なことになってる。愛良と明陽が戦っていて、愛良が優勢なんだが、お互い退かなくて怪我もしている。師匠が来れば多分やめさせることができるだろう。今どのへんだ?」
本当に戦い始めたのか。忠誠は焦った。「台風のせいで帰りのエクスプレス線が香港まで行かず青衣で止まってしまって、そこからタクシーに乗ったから今はそのあたりなんだが、ひどい渋滞だ」
「どれくらいかかりそう?」
「分からない。1時間もかからないといいけど。天候もひどくて、全然進まない状態だ」
「分かった、ありがとう。あと、師匠を連れ戻してくれて、感謝している」
師匠に代わると言われる前に、明龍は電話を切った。
道場ではもう、2人の戦いが始まっていた。
明陽の動きは、周囲から見てもかなり良くなっている。積極的に攻め、防御されても諦めない。
愛良は、さきほどよりも動きの良くなった明陽に満足しつつ反撃する。しかし反撃の時に前に出過ぎて明陽の蹴りをよけようとした時に失敗し、愛良の脇腹に蹴りが入る。次に入る突きをよけるために身をかがめてかわしてから、愛良の蹴りが明陽の片足に入る。そして愛良は、至近距離から肩を武器に明陽の体に体当たりした。もう一度足払いを食らわせると明陽が後ろに倒れる。倒れる時に、さっき明陽が座っていた椅子が当たりそうになったので愛良がそれをどかそうとすると、明陽は椅子の脚を掴んだ。
倒れこみながらその椅子で愛良に反撃する。振り回された椅子の脚が愛良の腕に当たり、椅子の角が愛良のひざに直撃した。
愛良は痛みで小さく悲鳴をあげたが、それ以上声を出すのは我慢し、痛むひざを手で押さえ、立ち上がろうとする明陽に備えた。明陽は椅子を盾に起きあがり、向かってくる愛良の体をどかすように蹴ってから椅子で彼女の体を押す。手足の長さから考慮しても、椅子を盾にされては愛良の反撃は不可能だ。ひざの痛みと椅子のせいで満足に抵抗できず、愛良はとうとう、ぶつけられるように壁に押し付けられてしまった。
「どうした?地獄とやらはどこだ?」明陽は荒く呼吸しながら、勝ち誇った笑みを浮かべた。「見せてくれよ。俺には見えないなあ」椅子を盾にはしているが、片手のみで彼女の動きを封じることができて、余裕の表情だ。
「参ったと言えば、放してやってもいいぜ」
しかし愛良はふん、と笑った。「さあ…地獄の門はどっちに向かって開いてるかな」
「早く反撃してみろよ」椅子で愛良の体を強く押す。「強気な事を言っても、反撃はできないだろう。お前の負けだ」今度こそダメージが大きいはずだ。椅子が足にぶつかって相当痛い思いをしただろうし、事実、呼吸がいつまでも荒いままだ。こちらは片手で簡単に椅子を押しつけているが、彼女の今の体勢から椅子を押しやる力は到底出ないし、こちらに蹴りを入れたところで、この距離なら大した威力も出まい。
「こっちが余裕を見せているのがくやしいだろ?」
「お前の欠点は、勝算が見えるとすぐ調子に乗ることだ。全体を見ていない。月を見ていない」
黙ろうとしないどころか、好戦的な表情の彼女を見て、さらに椅子を強く押しつける。
「まだ息が荒いぞ。そうやって、時間稼ぎか?」
「かもな」馬鹿にした目つきで明陽を見る愛良。
明陽は、愛良に近づき、睨みをきかせてくる彼女の頬を殴った。「時間稼ぎは無駄だ。俺がこうやってお前を殴っただけで、お前の持久力は簡単に落ちて行く」
愛良は大きく息をしながら明陽を睨んだ。
「私より遥かに下にいるお前が、私に講義か?面白い」
言い終わらないうちに、明陽はさっきより強く愛良の頬を殴る。愛良は大きく息をする。
「悪あがきせず参ったと言え!口はまだ達者だな、喋れないようにしてやろうか」
彼女に椅子を押しやる力はない、蹴りも届かない、絶対に俺のほうが勝っているはず、明陽がそう思い勝利を確信した時、殴られてうつむいている状態の愛良の口元が笑った。
明陽が椅子を掴んでいる手を反対方向へ回すように、愛良は押しつけられた椅子を突然ぐいっと回転させた。明陽は、椅子の脚を片手では握っていられずに落とす。明陽は反撃しようとしたが、愛良はひっくり返った椅子の足を両手で持ち上げ明陽の体を殴りつけた。当たった衝撃で明陽の胸の上から肩にかけて切れ、血が出る。「怪我を見るな!」怪我に気を取られて一瞬愛良から目を離した明陽だが、すぐに愛良に視線を戻した。が、それは既に遅く、愛良の一撃にやられて明陽はあっけなく倒れた。見ていた全員の手に汗がにじんでいた。
倒れたまま、愛良に見降ろされて悔しそうに睨み返す明陽。
「椅子を武器にする時の注意点を説明する」愛良は呼吸を整えてから静かに言った。「お前は一瞬でも有利な立場に立とうと、椅子を武器にした。しかしお前が椅子を武器にした瞬間、敵に力を与えているんだ。分かるか?それは敵にも、椅子が武器になり得ると教えたことになる。お前が椅子で敵を殴った時、相手は武器としての、椅子の威力を知る。それは、今度はお前が椅子を奪われた時、必ずその威力を用いて反撃されることを意味する。椅子を武器にした時は、脚を片手で持って敵を挑発するなんて馬鹿な真似はやめろ。武器にする時は両手で掴んで決して離すな。もう片方の手で私を殴りたかったのだろうが、今、自分は凶器を持っている、ということをはっきりと認識すべきだった」
愛良は手に持っていた椅子を、出てきた明龍に渡した。
「ティッシュもらえる?」明龍がティッシュを持ってきて差し出すと愛良はそれを口元にあて、何かを吐きだした。「口の中、切れたみたい。うがいしてくるわ」
そして倒れている明陽を再び見て言った。
「練習はここまでだ。まだ動きが荒いし、全体を見渡せていないようだが、今の講義から学べばまあいいだろう。ここらへんで合格だ。私から三手奪ったら合格にしようと思っていた。最後に質問があったら答える。これからお前が待ちに待った仇討ちを受けてやるから、心の準備をしておくんだな」
「俺が椅子でお前を殴ったこと自体は反則じゃないのか…」
横たわっている明陽が、かすれ声で聞く。
「あそこでお前が椅子を武器にすると予測しなかった私の油断だ。反則ではない。敵が襲いかかろうとしているんだから、武器になるものは何でも使ったほうがいいだろう。だが、間違って門弟に当たったら危ないから、本番では撤去させてもらう」
愛良はトイレに行ってしまった。
愛良がうがいをしていると、崇高と明龍がドアの所にやってきた。
「足は大丈夫かい?」明龍が聞いた。
「用があったら私から呼ぶから、お兄さんは弟のことだけを見てて。私には崇高がいるから。さっきの肩のところ、私が凄い勢いでぶつけたから、かなり血が出てると思うわ。今誰か手当してるの?早く止血してあげて」
血の混じった水を吐き出すと、愛良は明龍の所まで来た。
「私の足は心配ないから、弟の所に、早く」
「悪い予感がするんだ」明龍は言った。
「そう?死神の足音でも聞こえた?」
「まさか、本気で弟と殺し合いなんかしないだろう?」
「あなたの弟がもし負けたら、殺すわ。それが仇討ちのルールじゃない?殺さなかったら向こうが私を殺すんだから」
きっと愛良が勝つ。弟に勝算はない。「もうやめるんだ」明龍は言った。
「弟に死んでほしくない?それなら死神の姿が見えたら、私の首を取るように祈ることね」
愛良はトイレを出ていった。
「彼女に人が殺せると思うか?」明龍は崇高に聞いた。
「いや、あんな彼女は今まで見たことがない。人殺しなんて、絶対にしないと思うけど。でも何を考えているのか分からない。香港に来てからずっと、分からないことだらけなんだ。ただ、彼女が何かしようと決心していることは確かだ。決闘する前に、俺がさんざん断れと言ったんだが、彼女には計画があるらしく、決闘を受けると俺に言った」
「計画って?」
明龍の問いに崇高は首を振った。
「説明は長くなるからあとですると。それと、殺し合いは残酷で、見せたくないから先に帰れとも言われたよ」
「やっぱり止めなくては。とにかく俺は弟を説得するから、君は愛良を頼む」
道場では門弟たちに囲まれた愛良と明陽が立っていた。
「立会人が2人ともトイレに立て籠ったわよ。引っ張り出して来たら?」
愛良が明陽に言った。
「立会人なんて、いなければいなくていい」
「いなくてもいいけど、決闘はまず、その傷を手当てしてもらってからよ」愛良は明陽の肩の傷口をよく見た。まるで、明陽に深手を負わせてしまった後悔の念を抱いているかのような表情だ。
「かなり腫れてるわ。痛むんじゃない?」
明陽は、少し動揺した様子で自分の傷を見る愛良の表情を見つめていた。彼女のそんな表情を見ているうちに、明陽は胸の奥に何かの感情が湧き上がって来るのを感じた。
「ねえ、血が止まってないわ」
愛良はそばの門弟を呼び、何してるの、とせかして彼の傷口を手当てするように言った。
この程度の傷で慌てるなんて、彼女は本当に対戦の経験が乏しいのだということに、明陽は今さらながら気づかされていた。戦闘に関しては素人なのに、彼女は自分の挑戦を受け入れ、しかも傷の心配までしてくれている。
愛良は消毒したガーゼを自ら受け取る。「これ、当てたらしみるけど我慢してね」
そんな当たり前の予告をわざわざしてから、愛良は明陽の傷口に、優しくガーゼを当てた。
いちいちしみるかどうかまで気にするのか、兄貴が俺の手当てをする時より何倍も気遣いするんだな、と明陽は思った。
愛良は心配そうに明陽を見たが、しみても表情を変えないのを見て安心したようだった。
明陽は、自分でそのガーゼを手で押さえてから、ガーゼを当てている愛良の手を握り、肩から手を離させた。
「大丈夫だ」明陽は愛良を見つめながら彼女の手を離した。「大した怪我じゃない。大げさだよ」
「明陽、私は仇討ちを受けて、あなたを殺す気で攻撃してるけど、あなたを殺す前にこんな無駄な怪我を負わせる意図はなかったわ。ごめんなさい」
明陽の胸に、衝撃のような感情が走った。胸の鼓動が速くなる。
この程度の怪我で、敵に謝る対戦相手なんてどこにいるんだ、しかも元々は俺が椅子を持ち出したからなのに。
愛良は何も言わない明陽から、少し悲しそうに目をそらした。
「愛良」
明陽は自分の立ち位置に戻ろうとする愛良を呼び止めた。
「お前、分かってるのか?」
「何が?」
「俺は、お前を殺そうとしてるんだぞ」
「最初からそのつもりよ。あなたこそ分かってるの?だから、万全の体でかかって来てもらわないとね」愛良は明陽から離れて自分の位置に戻った。
やがて、明龍と崇高がトイレから戻って来た。
「愛良、俺たちが心配してるのは分かってるだろ?」崇高は愛良に駆け寄る。「もう十分だろう、やめてくれよ。何でお前がこんなことに巻き込まれなきゃいけないんだ。足だって、本当は痛いんだろ?見せてみろよ」
愛良はわざと平気そうな顔をして崇高を見て笑った。
「大丈夫よ。邪魔するなら帰ってくれる?」
崇高は彼女の腕を掴んだ。「おい、遊びで言ってるんじゃない。我慢するなよ」
崇高が本気で止めにかかってきているのを愛良は感じ、彼の手を振り払おうとした。
「離して。あなたがもし私を殴ったって、私はあなたの言う事なんか聞かないわよ」
「馬鹿、俺がお前を殴るわけないだろう。だけど、それが俺に対する態度か。俺はお前をよき友人だと思ってた。それにお前は、もっと武術に対して純粋で真剣だと思っていたよ」
愛良は、崇高の悲しそうな表情から目をそらす。
「崇高、友人だから言うけどもう帰って。あなたはこれ以上見ないほうがいいわ」
「何を?」
「武道家同士の殺し合いは残酷だから、見ないでって言ってるの。あなたは純粋な人だから、多分耐えられないわ。帰って」
愛良は自分の腕を掴んでいる崇高の手が脱力したのを感じた。
「愛良、俺に嘘をつくのはやめろ。殺し合いって何のことだよ。嘘だよな?殺し合う理由が無い」
彼女は彼の手を振り払った。
「理由はあるのよ。残念ながら」
「どんな理由だ、話せよ」
「だから説明には時間がかかるって言ってるでしょ。今は話せないわ」
「殺しが正当化されるなんてあり得ない。お前と明陽は何の利害関係もない、ただの武術の使い手同士だ。もともと憎しみ合ってもいないはずだ」
崇高は、振り払われた手で再び愛良の手首を掴み、強引に自分の方を向かせた。
「聞け。こんな状態のお前を見たら、お前の両親は何て言うだろうな。お前のお爺さんは、こんなことをさせる為にお前に武道を教えたのか?違うだろ。殺し合いの武道なんて教えていないはずだろ!平和のための武道だろ。人を殺傷する目的なんてあり得ない」
「泣き落としにかかってるなら、無駄よ。私のことが信じられないんでしょうけど、今は時間がないから説明できないわ。私は今、1つの目標に向かってるの。私が武道を極める上で、達成すべきものにね。あなたに邪魔はさせないわ」
「殺人を達成するという意味か?行かせないぞ。俺が納得できるような説明をしてみろ」
「明陽と決着がつくまで待って」
「決着って?明陽を殺した時ってことか?お前は明陽を殺すのか?」
向こうでは明龍が弟に仇討ちをやめるよう説得を始めている。明陽は傷の手当てをされながら、兄の言葉など全く聞かず、ひたすら愛良と崇高のやりとりを見ていた。
「聞いてるのか、明陽」明龍は、弟が睨んでいる先が、崇高だと気づく。「おい、明陽」
「あいつ、愛良に何を言っているんだ」そうつぶやきながら、明陽は立ち上がり、2人の方へ向かって行った。
「説明がなければお前を離さない。何故事前に俺に言わなかった?いくらでも時間はあったはずだ」崇高は愛良の手首を掴んだまま言う。
「ないわ。だって私の心の中では、今日決まったんだもの。今しかチャンスがないって分かったの。説明は後でするわ。離して」愛良は自分の手首を掴む崇高の手を離させようとした。
「崇高お願い。行かせて」
その時、崇高の手を無理やり引き離したのは、いきなりやって来た明陽だった。
「女の武道家は大変だな。対戦するのにいちいち彼氏の許可が必要なのか」
明陽は崇高を睨みながら、愛良の腕を引く。
「お前、さっきから神聖な決闘の場で、男といちゃいちゃしすぎなんだよ」明陽は愛良を引っ張って、定位置に連れ戻しした。
「俺は、先祖の仇であるお前しか見えていないのに。お前も、対戦相手である俺だけを見てればいいんだ」
明陽は愛良の腕を乱暴に離す。「分かったか。大事な局面で他に気を散らすな。お前の相手は俺だ」
明陽は愛良と対峙した。
愛良は明陽を見ていたが、視線をそらし、崇高を気にするようなそぶりを見せた。
その瞬間、猛烈な怒りが湧いた明陽が、愛良の顎を掴んで自分の方を向かせる。
「あいつに何を言われた?あんな奴のことなんか気にするな!これから仇討ちが始まるんだぞ、いいか、お前は俺だけを見ろ!」
愛良は明陽を見ながら、小さくうなずいた。「分かった」
愛良は彼の手を離させるように顔を横に向けたので、明陽は愛良のあごから手を離した。
「私の相手はお前しかいない。それは私が一番よく分かっている」
愛良が言うと、明陽は愛良を見ながら深呼吸した。
「お前に最後の質問だ」明陽が言った。
「お前は無理やりここに連れて来られた。あれだけ拒否していた俺との対戦も、今はやる気になっている。仇討ちされる側なのに、乗り気になっているのは何故だ」
「お前はこの流派の根底に流れる精神、つまり、運命を受け入れる、という精神について知っているはずだ。起こることに逆らわずに流れに乗る、それこそがこの流派の基本理念、そしてこの流派が織りなす宇宙の絶対法則だったはず」
ほう、さすが武道家らしい発言だな、と明龍は思った。
「俺の仇討ちに関してはどう思ってる」
「正しい。何故なら、お前が殺された側で、私が殺した側だからだ。昔、殺した側は流派を断ち切って逃げた。だが、逃げて終わりではなかった。カルマは清算するまで追いかけて来る。時代を超えてな。ただし、お前の仇討ちに関しては間違っている点が一つある。お前は仇討ちを名目に、ある事を試そうとしている」
明陽の眉が動いた。
「冥殺指。本来は、弱い人間が立ち上がるための手段として、特別に人選された2人のみが継承する。何故2人のみか。それは、あまりにも簡単に人が殺せるために、それを持った者たちが乱用するのを防ぐためだ。事実、それを継承したために大きな苦悩を抱いたり、簡単に人殺しができるため、誰かに試したくて仕方がなくなる、殺したいという衝動に常にかられている、という副作用もあったと聞く。お前はその技を、先祖の仇である私で試そうとしているのだろう、本当に自分に人が殺せるかと。今生きている人間の中では、誰もこれを試した者がいないのだから」
「ということは、お前は俺にその技を試されてもいい、と思っているのか?」
「探究心ある武道家の性として、純粋にその技を見てみたいという気持ちはある。ただし、お前のその指が私ののどをかき回すのは、あまり想像したくないがね」
明陽は少しだけ首をかしげた。
「ちょっと待て。何故技を見た事もないお前がその内容を知っている?」
ずっと明陽を見ていた愛良の視線が横にそれた。
「お前も、ひょっとしてそれを継承しているのか?」
愛良は視線を明陽に戻したが、答えなかった。
「別れた流派は、表向きには殺人を否定しておきながら、こっそり継承していたんだな?」
愛良は無言だった。
「何とか言え。もしそうだとしたら卑怯だ。今まで隠していたな?」
「仇討ちなら命をかけろ。こちらも死ぬ気でやる」
愛良は構えた。
「お前の敵はここにいる。死ぬ気で来い!」
明陽が愛良にかかって来た。
さっきまで何度も対戦した相手同士、攻め方や防ぎ方に慣れた動きをしている。どちらがどちらを悪魔のダンスに誘うのか、どちらの駆け引きに乗り、どちらが騙されるのか、目の離せない門弟たちに見守られて、2人は戦っていた。愛良の攻撃が少し優勢になったと思われた時、明陽が反撃に出た。さっき椅子が当たったせいで愛良の蹴りはなかなか出ず、蹴ったとしても精彩を欠いている。愛良が明陽の反撃に一瞬ひるんだ時、明陽の蹴りが今までにない鮮やかさで愛良の腹に入った。
愛良は床に転がったがすぐに立ち上がる。
対峙する2人。
2人とも、呼吸を整える時間が必要だった。
睨み合い、次の手を考える。
これで彼もかなり上達したかな、と愛良は考えていた。
さすがあの師匠の息子だ。何だかんだ言いながら結局言われた事は守るし、既にかなり高いレベルにいながら、できない所はすぐにでも修正して技を完成させようという向上心がある。
一二三四五!
明陽は愛良の全ての突きを遮り、反対側の腕で彼女の脇腹を突く。
愛良はわき腹を押さえながら明陽の胸を蹴るが、やはり威力が無いらしく明陽にはあまり効いていない。そのまま体をひるがえしたが、明陽に後ろを取られて首に腕を回された。愛良は締め上げられる前に明陽の胸に肘で渾身の一撃を食らわせる。
明陽の腕が緩んだ隙に愛良はそこから逃れ、素早く彼の後ろに回って両足のふくらはぎを蹴った。
後ろを取られた明陽が両膝をつかされた時、彼の右腕は愛良によって後ろに回されて無理に捩じりあげられようとしていた。
利き腕が折られる!明陽と周囲の人間の顔が蒼くなった時、ふいに愛良は手を止めた。
明陽と同様、愛良も大きく息をしていた。
そしてゆっくりと、彼の腕を元の位置に戻した。
今のは何だ?手加減された?
愛良は彼から離れた。
明陽は歩いて行く愛良を見る。「おい、何だ、今のは」
「攻撃の仕方を間違えた、済まない」
「おい、今、明らかに手加減しただろう!卑怯だぞ、真剣勝負だと言ったのに!負かすなら堂々と負けさせろよ!お前は今、俺を晒しものにした!」
椅子が撤去されたので、愛良は壁にもたれかかってタオルで汗を拭いた。
「ああ悪かった」
「今、お前は俺に、負ける以上の屈辱を与えたんだぞ!武道家としての精神はどうした」
「時計を見ろ、10分経ってる。私の持久力がもたなくなっただけだ。つまりお前は、私から10分まで逃げ切った」
明陽は壁の時計を見たが、明らかに10分もたっていない。
「まだ7分だ。少なくとも10分はたっていない」
明陽は怒りながら愛良のもとにやって来た。
「じゃあ7分で持久力が切れたんだからしょうがない。私は休むが、抗議なら聞くぞ」
「だいたい、10分で休憩していいなんて誰が言ったんだよ。真剣勝負の最中だぞ」
「休んだっていいだろう。1分休んだら再開する」
明陽は彼女の足の様子を伺うように見た。きっと足が痛むのだろうが、武道家としてそれを言い訳にしたくないのだろう。
2人のもとへ明龍がやって来た。
「おい、今ので勝負あった、でいいな?」
明龍は弟に聞いたが、返事をする前に弟を押しのけて愛良に言った。「足を怪我してるんじゃないか?車を出すから一緒に病院へ行こう。早く手当したほうがいい」
「兄貴、口出しするなって!男同士の約束だと言ったじゃないか!」
「いいか、他人への殺傷を、男同士とかそういう言葉にすり替えるんじゃない。第一、お前はこんな危険な計画をしているなんて、俺に教えなかったじゃないか。今、彼女が勝ったということで勝負は終わりだ。今のは全員が証人だ。仇討ちはこれで終わり。お前は腕を折らなかった彼女に感謝するんだな」
明龍は愛良の顔を覗き込むように見た。
「愛良、もうこれで弟を勘弁してやってくれないか。君の方が実力が上だ。こちらが悪かった、どうか謝罪を受け入れてくれ。君が彼を病院送りにしなかったことに感謝する」
愛良は明龍を無視して、明陽のほうを見、反応を伺った。
明陽は不機嫌な顔で愛良を見てから兄に言った。
「兄貴、こいつは大勢が見ている真剣勝負の場で、俺と真剣に戦わなかったという点で卑怯だ。真剣に戦っているなら、俺をちゃんと敗北させるはず。しかも、攻撃の仕方を間違えたと言い訳している」
明龍は弟を睨んだ。「卑怯だ?」彼はいきなり弟の頬を殴った。
「館長命令だ。今すぐやめろ!そうでなければお前を破門する!」
明陽は頬を押さえ、兄を睨み返す。そして強い力で兄の頬を殴った。
力が強すぎて明龍が倒れこむのを、数人の門弟が支えた。
「二度と俺に命令するな!」明陽は叫んだ。
明龍は門弟たちに支えられながら立った。
「分かった…。もう俺は関知しない。お前の責任で、お前の好きにしろ。俺はもう責任は取らんぞ」
頬を押さえながら明龍は言った。痛みよりも、弟に殴られたことが辛そうな表情だった。そして愛良を見た。「あとで必ず、君を引っ張ってでも病院へ連れて行くから、いいね?君に怪我をさせたこと、本当に済まないと思っているよ」
愛良は返事をしなかったが、精神的にも傷ついている明龍を見て、軽くうなずいた。
お願いだ、もうやめると言ってくれ、明龍は訴えるような目で愛良を見た。
しかし、愛良は彼の誠意には答えられない、というふうに視線を下に向け、もたれていた壁から離れて、中央に歩いて行き立ち止まった。
愛良は明陽を振り返った。
「休憩は終わりだ。さっきは自分の攻撃をこなすのに夢中で、最初に頭の中に描いていた台本と違う攻撃をしていたのに気づかなかった。恥をかかせるつもりはなかったが、済まなかったな」
「武道家がいつまでも言い訳するな!お前の台本なんか俺にはどうでもいいんだ。とにかくまじめにやれよ」
愛良は構えようとして、ふと崇高のほうを見た。崇高も、もうやめてほしいという顔をしている。
愛良は、彼を心配させないよう、作り笑いをした。
「崇高」愛良は言った。「私はまた、あなたを傷つけてしまったわ。ごめんなさい」
戦う前に、あんな悲しそうな笑いかたをするすなんて。崇高は胸騒ぎがした。そして、今の言葉が愛良が自分にかけた最後の言葉のような気がして身震いする。
「愛良」急に愛良が遠くに行ってしまうような恐怖を感じた崇高は、愛良に駆け寄ろうとした。
やめさせなければ、愛良をここで止めなければ。
「これから起こることを」愛良の声は、そこまでははっきり聞こえた。そして、許して、と言ったように聞こえた。
これから起こることを許して?最悪の事態が起こりそうな予感がして、崇高は立ち尽くしてしまう。
「おい」明陽は言った。「どこ見てるんだよ。お前の相手は俺だ。俺だけを見ろ」
「ああ」愛良は視線を戻し、明陽と向きあい、構えた。「そうしよう」
明陽を見つめる愛良の視線が不安に揺れる。しかも、構える手が一瞬震えたように、明陽には見えた。
気のせいかと明陽が思った時は既に、愛良はもとの彼女に戻っていた。
愛良はまっすぐに明陽を見ていた。
「私はお前が、最高の使い手であると信じてる」愛良は明陽に言った。
何故彼女が急に褒めるのか、明陽には分からなかった。
どちらともなく攻撃を始める。明陽には、今までと愛良の様子が何となく違うように感じたが、罠かもしれない。明陽は一手ずつ慎重に見極めて攻撃した。
明龍の携帯にまた着信があった。忠誠からだった。
「もしもし」「明龍。もうすぐ着く。そちらの様子は?」「もうすぐってどのくらい?実は、2人の戦いを止めるのに失敗してしまった。今まだ戦っているが、殺すまで辞めない勢いだ。師匠に代わってくれ」
「殺すまでって…何故君が止めないんだ!死人が出てもいいのか!」
「止めようとしているが、止められないんだ。頼む、師匠に変わってくれ」
忠誠は携帯を師匠に渡した。
「師匠、申し訳ございません。明陽があの技を、別れた門派の日本人師範に使おうとしています。止めることができませんでした。死者が出る可能性があります。駐車場に着いたら急いで、こちらまで来て下さい」
攻撃はやがて、毎回のパターンと同じく、明陽が一旦優勢になったように見えてすぐに愛良の攻撃が優勢になる。そして、主導権は愛良の手に握られたままだった。無慈悲に冷酷な攻撃を続ける愛良。愛良を苦しませて死に至らしめるはずの明陽は、無残にも彼女のサンドバッグになっていた。
床に倒れこむ明陽。無言で見つめる愛良。実力の差は明らかだった。
倒れた明陽を蹴って反応を確かめる愛良。どこにその残虐性を秘めているのか?と思えるほど、彼女は冷たく、無表情だった。反応しない明陽をさらに強く蹴る。
「立て」怒りを込めたような低い声で愛良は言った。「お前こそまだ本気を出していない」
愛良が少し待っていると、明陽が立ち上がった。さんざんおもちゃのような扱いを受けて、彼の眼は怒りに満ちていた。
本気になってきたな、と愛良は悪魔の笑いを浮かべた。
今まで見たこともない残酷な笑いに、見ている者はぞっとした。
明陽は怒りにまかせて攻撃を始めた。その攻撃は愛良に遮断されるか、入ったとしてもあまり効き目はないようだった。つい先ほどまで足をかばうように動いていたはずの愛良のほうがスピード感があり、リズムに乗っている。明陽は彼女のステージで踊らされているだけのあやつり人形だった。舞うような美しいスピンキックが明陽の頬に連続でさく裂した。かろうじて踏みとどまる明陽の腹に、無駄だとばかりに愛良の蹴りが華麗に決まる。
「これが映画なら、お前はそろそろ覚醒する頃だ」倒れた明陽に、愛良は言った。
全く歯が立たない明陽の目が、怒りと闘争心でぎらぎらと光り始めた。
ちきしょう、殺してやる…!
明陽は立ちあがった。
そうだ、来い。
愛良は明陽を、死のダンスに誘う。
今、地獄の門が開かれた。
うなりながら飛びかかって来た明陽を、愛良はかわして投げ飛ばした。
死神の足音が聞こえる。
明陽はまだ致命傷を負ってはいない。彼は立ちあがって攻撃をしかける。
愛良は明陽の攻撃をかわし、正確な蹴りで彼の体を後方に飛ばした。床に転がりながら、一瞬、うずくまるような体勢になる明陽。衝撃で息が続かない。今度こそ明陽は立ちあがれないようだった。
死神の足音は彼女自身のものだったのか?
倒れている明陽が自分に近づく彼女の足を見、それから視線を上に持っていくと、彼女がゆっくりと右手を上げ、ある構えを形づくっていくのが見えた。
彼女の親指、人差し指、中指が、まるで蛇が獲物を狙うかのように形作られていた。
冥殺指。
やはりあの奥義を継承していたのか!明陽の目が大きく見開かれる。
明龍もすぐに気づいた。彼女はあれを明陽に使う気だ。
死神のカマの光のように、愛良の目も光った。「やっと過去も清算される」
蛇が獲物に食いつく前に一度身を翻すように、冥殺指の手も一度ゆっくり後退した。
やめろ!
とっさに明龍は、近くにあった棒術用の棒を、2人の間に割って入るように投げた。
それは同時に、倒れていた明陽が最後の力を振り絞って立ち上がり、低い位置から冥殺指の構えで愛良に襲いかかろうとしている時だった。
このまま明陽が動けば、2人を分けるために投げた棒は彼に当たってしまう。
しまった!と明龍が思った時、飛んでくる棒に気づいた愛良が明陽をかばうように体勢を変えた。
それでもそのままの体勢なら、愛良は遮ろうとした左手で明陽の冥殺指を止めることができた。しかし、棒が彼女に当たった衝撃で、彼女の左手がぶれて防御に失敗し、明陽の指が彼女の喉に食らいつく。
明陽の一撃が彼女の喉に入った。
冥殺指が正確に入った時、愛良は血を吐き、吐いた血は明陽の頬と肩に飛び散った。
冥殺指のとてつもない衝撃で彼女の髪留めが壊れ、髪が天使の羽根のように、ふわっと後ろに広がった。
それでも愛良の目は、明陽を見据えていた。そして、口元が笑ったような気がした。よくやった…。
「死ね!」
明陽はそのまま指をひねって押し出すと、彼女はゆっくりと宙を舞った。
彼女の体が床に叩きつけられる寸前に、その体を受け止めたのは崇高だった。
それと同時に師匠と忠誠がドアを開けて入って来る。
崇高の腕の中の愛良に、息はなかった。
崇高は、愛良の死体を抱えたまま、茫然としていた。我に返るまで何秒もかかる。
「愛良!愛良!そんな、お前が死ぬなんて、お前が死ぬなんて!」
床に落ちた愛良は、薄目を開けたまま死んでいる状態の、ただの死体だった。
「嘘だ、お前が死ぬなんて、そんな、お前が死ぬなんて…」
薄目の奥にわずかに見える瞳に、光は無かった。口から一筋の血が垂れている。喉に痛々しく残る冥殺指の黒いあざ。
一方で、自分の手を見つめながら茫然と立ち尽くす明陽の前に、師匠は立った。
「あの技を、使ったのか」師匠の顔も真っ青だった。
明陽はしばらく師匠を見ていた。そして、うなずいた。たった今自分は、人を殺してしまった。すぐ近くにいる崇高の嘆きの声が、まるで遠くで聞こえているようだった。
明龍が師匠の隣に来て、何か言おうとした。「何も言うな!言い訳は聞かない。明龍、お前もついていて何だ?」
師匠は門弟たちの様子を見た。何人かは茫然となりながらも撮影を続けていたが、師匠に気づいてさっと端末を隠す。「録画していたのか!全員携帯電話を出しなさい。明龍、警察に証拠として提出するから、全員分の録画機器を没収しろ」
崇高は涙を流して愛良の体を抱いていた。薄目を開けたままの死に顔が残酷すぎて、死んだ事は受け入れたくないが、あえて彼は彼女の瞼を閉じさせた。
「嘘だろう、愛良、お前が…」
忠誠は、嘆き悲しむ崇高の隣で、愛良の死に顔を見ながら茫然としつつも、震える崇高の肩を抱いてやった。運命の出会いをしたばかりなのに、彼女が死んでしまうなんて。
「彼女が簡単に死ぬわけがない。脈を…」
明らかに死体ではあるが、その死を信じたくない忠誠は手を取って脈を調べようとした。だが、脈の反応がよく分からない。
「死んでる?そんな、彼女が死ぬなんて…俺は信じないぞ、せっかく出会えたのに…!」
目の前にいる愛良が生きていないのは明らかだが、忠誠は希望を失わず、今度は首で調べようとした。だが指を当てても反応しているのかしていないのか、彼も動揺していて分からなくなっていた。
「愛良、愛良」勝ったお前を抱きしめるつもりだったんだよ、と愛良を抱きながら崇高は泣く。
忠誠はそんな崇高をいたわりつつ、注意深く、彼女の鼻の下に手を持って行った。
「まだ息がある!」
忠誠が叫んだ。崇高も驚いて彼女の鼻に手を持って行った。生きているようには見えないが確かに、ほんのわずかに息をしているのが分かった。
死んだように倒れている愛良に、脈を調べようとして必死になっている周囲の男たち。師匠は昔、これに似た場面に出くわしたことがある。明陽が幼いころ死んだ妻。あの時の様子が急に鮮明に思い出され、師匠は立ちつくしてしまっていた。
「師匠、師匠、大丈夫ですか」
ショックでやっと立っているように見える師匠の背中を支えるようにして、忠誠が話しかけていた。
「師匠、顔色が悪い。大丈夫ですか。座って下さい」
「ああ、大丈夫だ。ただ、あまりにもびっくりしてしまって…済まない」師匠は我に返って言う。
「そうだ、心臓マッサージを」
崇高が蘇生措置をしようとしているのに気づいた師匠は、そばに来て止めた。
「待ってくれ。この技をかけられたもので即死しなかったものは、蘇生措置や救命行為を受けるとそのまま亡くなってしまうと言われている。だから救急車も呼べない」
「そんな、死にかけてるのに!」崇高は言った。「こんな、すぐ死ぬかもしれない昏睡状態のまま彼女を放置しろと言うんですか!」
師匠も彼女の鼻に手を持っていき、呼吸していることを確かめた。そして、首に指を当てて、脈があるかどうか調べる。
「本当に脈がある。弱い脈だが…良かった。亡くなってはいなかった」師匠は心から安心した表情になった。
張忠誠がタクシーの中で教えてくれた、自分を尊敬してくれて、大好きだと話していたという日本から来た武道家はこの女性か。師匠は頬についた彼女の髪を払い、顔をよく見る。
分派の唯一の継承者がこの女性なのか。ちょうど息子たちと同い年くらいか。
「君、聞いてくれ」師匠は崇高に言った。「彼女の今の状態は、昏睡状態ではない。彼女が倒れた時、もしかして薄目を開けていなかったか?」
「開けていましたが、死んでいると思ったので俺が閉じさせたんです」
「そうか、では彼女は昏睡状態でも仮死状態でもない、深い瞑想状態にいる」
「瞑想?でも彼女は攻撃を受けて倒れたんですよ。首のあざを見て下さい」
「冥殺指については後で説明する。確かに死んでいるように見えるし、一般的に言われる瞑想ではない。寝室に案内しよう。君も手伝ってくれ」
師匠は忠誠にも頼んだ。
2階に上がってすぐの師匠の寝室で、愛良の体はそのままベッドに横たえられ、毛布がかけられた。
顔に何発も殴られたあと、口から流れた血はあごまで線を引いており、顔色は生きた人間のそれではなかった。瞑想状態とはいっても崇高には信じられず、彼女の様子は暴行を受けて死亡した死体にしか見えない。息をしているようにも到底見えなかった。
「まず、君、名乗るのが遅れて申し訳ない。私はこの流派の師匠で蕭詠明という。このたびの騒動は張忠誠から聞いた。息子たちが君と愛良さんに大変なご迷惑をかけたことを、心からお詫びする」
師匠は身をかがめ、深々と頭を下げた。
「2人には法的措置とともに、道場独自の刑罰も与える。あとで警察に連絡する時に申し訳ないが、君にもいきさつを証言してもらえないだろうか」
優しそうな、静かな語り口で崇高に言う師匠。
愛良に動画で見せてもらったことがあるこの人が、彼女の尊敬する蕭師匠か、と崇高は思いながら師匠を見た。
「今、そんなことは考えられません。明陽はもちろん処罰を受けるべきでしょうが…、それより彼女はどうなるんですか?眠っているだけで目を覚ますんですよね。いつ起きられるようになるんですか?」
「それは、残念だが分からないんだ。あとで、君に心の準備ができたら説明したい」
冥殺指の禍々しいあざが、彼女ののどもとに深く残っている。
「愛良」崇高は毛布の下から愛良の片手を出して握った。しかし、死んだ人間の手のように冷たく、無反応だった。
愛良、お前の尊敬している人が今、目の前にいるよ。でも、お前はその人の息子に殺されてしまったのか?早く目を覚ましてくれ。それとも、永遠にこのままなのか?
「頭が混乱しているので、しばらくあなたとも、誰とも話したくありません。2人だけにしてください」
崇高は強い口調で言った。忠誠は優しく、崇高の肩をたたいて立ち上がった。
「ちょっと待ってくれ」崇高は忠誠を引き留めた。「やはり、君は少しの間、俺といてくれないか。俺と、彼女を見ていてほしい」忠誠は、うなずいて座りなおした。
「そうだ、彼女の顔を拭いてあげようか。な?」
忠誠は立って、ドアの向こうにいる誰かに、濡れタオルを持って来るよう指示した。
暫くしてタオルを受け取ると、反応のない愛良の口もとにある血を拭いてやり、ところどころが腫れた顔や、手を拭いてやった。何故こんなにひどい怪我を。明陽が彼女の顔面を攻撃したのか?どれだけ激しい戦闘だったのだろう。明龍は黙って見ていたのだろうか。崇高は?忠誠は、そばにいてやれず、彼女を守ってやれなかったことを悔しく思っていた。
崇高は、忠誠が彼女の顔や手を拭くのをぼうっと眺めている。
「愛良、生きているなら目を覚ましてくれよ」
崇高が愛良の頬を撫でた。「俺が悪かった。すぐそばにいた俺が止めてやれなかった。割って入ってやればよかったのに、見殺しにしてしまった…お前がまさか、こんな死に方をするなんて…」ベッドに顔をうずめて泣く崇高。
「大丈夫、死んではいないよ」忠誠は言った。しかし崇高は、死んでるよ、とつぶやく。
「交通事故にあった人の話を知ってるだろ」崇高はうつろに言う。「昏睡状態のまま、ずっと目覚めないんだ。愛良もそれと同じ状態なんだろ。しかも、いつまで放っておくんだ?病院に連れて行かずに栄養を取らなければどっちにしろ死んでしまうのに。呼吸だっていつ止まるか分からないよ。これが生きていると言えるか?今まさに、死にかけてるのに」
「冥殺指に関しては俺も知識がある。彼女は死んでないのだから、希望はある」
思いつめたように愛良を見たままの崇高に声をかけると、忠誠はまた立って、部屋のドアを開けた。
廊下ごしの部屋では師匠が1人で、何が起こったかを確認するために弟子が撮った録画を見ているところだった。
「1つ借りますよ」
忠誠は部屋に入り、誰かのビデオ機器を1つ持って、また崇高の隣に戻る。
嘆き悲しむ崇高の隣で気を遣いながら、忠誠はビデオを再生した。
「何が起こったか俺も確認したいんだ。録画を見るよ」
忠誠は崇高に言ったが、崇高は無反応だった。
1階の道場では、明龍が門弟たちにかん口令をしいてから、帰宅するよう促した。しかし、門弟たちは彼女が心配だから帰らないと言い出し、皆、彼女の回復の為に祈るから道場の中にいさせてほしいと頼んだ。彼らは結局、道場の中で雑魚寝して夜を明かすことになった。
門弟たちの何人かは関公の祭壇に線香を上げて祈り始める。
明龍は、まだ茫然としている明陽の肩を押し、給湯室まで連れてきた。
「コーヒー、飲むか?」
明陽は首を振った。
明龍は自分のコーヒーを作った。
愛良は明龍に、最後まで弟の味方をしてあげて、と言っていた。あの言葉は何だったのか。彼女は本当に冥殺指を会得していて、弟を殺そうとしたのか?ならば何故あの時彼女は弟をかばった?俺があの時棒を投げたのは、弟があの時、急に彼女に襲いかかったのは、棒が彼女に当たり、弟の冥殺指が彼女ののどに入ったのは、すべて偶然だったのか?どこまでが彼女の戦略だった?彼女はどこまで台本を書いていた?どこまでが演技で、どこまでが本気だったのか。
「兄貴、許してくれ。今日のことも、今までのことも」
明龍は答えずにコーヒーを飲んでいた。
「兄貴に埋め合わせできないな。俺は、人殺しだ」
「ああ。だが明陽、俺はお前の味方だからな」
明龍には、愛良は死なないという確信があった。弟は正確に冥殺指を入れているはずで、愛良は冥殺指を入れられた後も生きている。彼女ほどの使い手なら、絶対に生還するはずだ。
俺たちの関係がここで終わるはずがない。彼女は俺たちと出会う運命だったに違いないのだから。
彼女は流派の教義の体現者に違いないのだから。
2階では、忠誠が決闘の録画に見入っており、崇高もまた、生きている彼女を見るのも辛いことだったが、彼女の行動で分からないことがありすぎるため、一緒に動画を見直すことにした。
何故こんなことになったんだろう。何故俺の大切な愛良が俺の目の前で、こんなむごい死に方をしなければならなかった?俺はどうすべきだったのか?彼女を死なせない方法なんていくらでもあったのに!崇高は自分を責めた。
その時、ドアがノックされた。忠誠が立ってドアの所へ確認に行き、向こうの人間と何か話している。忠誠は入らないようにと制止しようとしたが、開けたドアから明陽の姿が見えた。
明陽は崇高を見、それから視線を下にして頭を垂れたまま部屋に入って来た。
そして、崇高の前でうつむいたままひざまずいた。
「殴って下さい…」
崇高は拳を振り上げた。怒りで息が荒くなる。
殴ったってどうにもならない!そう思ったが、それが殴るのを止める理由にはならなかった。
崇高が明陽を殴ると、彼は衝撃で床に倒れこんだ。
「お前に、好きな女が目の前で殺された俺の気持ちが分かるか!」
明陽は体を起してひざまずき、目を閉じてまた殴られるのを待った。
明陽の横に、明龍も来て、崇高の前にひざまずいた。
崇高は拳を握る。しかし今度は振りおろさなかった。
彼は頭がおかしくなりそうだった。自分も同罪だ。やめてほしかったが、強引にやめさせようとしなかった。殺し合いと知っていて黙って見ていたのだ。彼女は大切な女性だったのに。そんなに大切なら、あとでこんなに嘆き悲しむなら、何故あの時やめさせなかった?何故俺は彼女を殺した?
「お前らの顔は見たくない!出てけ!」
明陽と明龍は、忠誠に促されて部屋を出て行った。彼らの背中で、崇高の嘆き声が聞こえる。忠誠が崇高に何か言葉をかけてやっていた。
「憎しみからは憎しみしか生まないものだ」
廊下を挟んで反対側の部屋にいる師匠が言った。
「明陽は自分の部屋に戻りなさい。明龍、話がある。入りなさい」
明龍は師匠のいる部屋に入った。師匠の傍らでは弟子の撮った動画が再生されていた。
「座りなさい。聴きたいことがある」
「はい」
明龍は円卓に師匠と向かい合って座った。
「今、ビデオで彼女を見ていたところだ。彼女の動きは、何となくお前に似ている。元が同じ流派だからだが、お前と彼女は似たタイプの武道家だと思う。お前は内にこもって、1人で修練を積んでいくタイプだ。彼女は弟子の質問に、一番時間を割いているのは精神統一だと言っているが、お前もよく座禅を組んでいるな。そこで聞きたいのだが、お前は今まで、冥殺指を受けて落ちる地獄を垣間見たいと思ったことがあるか?」
「探究心ある武道家として、俺もその地獄がどうなっているのかを見たいと思ったことがあります。この流派をつきつめていくと、どうしてもそういう誘惑にかられると思います」
師匠はうなずいた。
「冥殺指の話題はある意味タブーだから、お前に今までそれを聞いたことはなかった。だが、お前がここ数年、1人で修行に打ち込んでいるのを見て、たまに不安に思うこともあったんだ。修練にのめりこむあまり、おかしな方向に行ってしまう武道家もいるからな。お前は一度それで体調を崩したが、今は持ち直しつつある。その点、明陽はまだそんなことはない、と思っていたのだが」
「明陽は俺と反対の性格ですから、あの技を人に試したい誘惑にかられたんだと思います。俺ははっきりと感じた訳ではありませんが、彼はもしかしたら昔から潜在的に、冥殺指を実践したい欲求にかられていたのかもしれません」
師匠はうなずいた。
「お前は子供の頃から頭が良く真面目で、常識的な人間だ。それを踏まえた上であえて聞きたい。彼女はわざと明陽を使って、自ら餓鬼道に落ちたのだろうか」
明龍は言葉を考えた。実は、明龍も、もしかしたらそうなのではないのだろうか、と考えていたのだ。
「でも、何のために、どうやって?」明龍は言った。
「俺があの時、棒を投げたのです。それは、彼女が冥殺指を明陽にかけようとしたのを見たから。弟が殺されると思って、2人の間を遮るように投げました。しかし、予想外に明陽が最後の反撃に出た。反撃だけなら彼女は防御できたが、明陽が反撃したのと俺が棒を投げたのが同時で、明陽に棒が当たりそうになったのに彼女が気づき、明陽をかばった。彼女は確か、棒術の棒に対する恐怖心を持っているはずでした。明陽を殺すつもりの彼女が、何故彼を直前でかばったのかは分かりません。棒が当たったことで彼女の防御の手をかすめて、明陽の冥殺指が彼女ののどに入りました。一連の動きはどうやっても偶然です。彼女が1人でこの流れをコントロールすることは不可能だと思います」
しかも、それが客観的事実として映像に残っている。
「ただ、もし彼女が望んで餓鬼道に落ちたとします。不可能なことですが、もしわざとそうしたのだとしたら、彼女は自分が先祖の身代わりになって死ぬ事で、カルマを清算したかったのかもしれません。この流派には、運命に追従して生きる、という考え方とともに、自己犠牲の精神もあります。誰かの代わりに、自分が行動を起こすのです。誰かではなく、自分が悪役になるのです」
明陽は自分の部屋のベッドの上にいた。
手には、さっき師匠の部屋の入口に置かれている中からこっそり持ち出してきた、門弟のデジタルカメラが握られていた。
明陽は、ぼんやりとプレビュー画面を眺めていて、気づいた。
彼女は最初から、明陽の全ての要求に答えていた。
人質を取られてここに連れて来られ、無理やり対戦させられることになったがそれを拒否しなかった。
大昔の先祖がしたことであり現代の彼女には非がないのに、明陽の一方的な仇討ちの考えを否定しなかった。
自分の戦闘に不利になりうる、どんな質問にも答えた。
門弟の質問中に明陽が攻撃したり、椅子を武器にしたことを自分の油断として、彼を責めなかった。
武術大会で連続優勝している明陽が、もっと強い相手にめぐり合いたい、と思っていたところに彼女が現れた。強い人物から指導を受けてもっと向上したいと思っていた時だったが、それが叶えられた。
そして、冥殺指を試したいという以前からの欲求が、彼女によって満たされた。しかも、その欲求が満たされた時にどういう事態に陥るか、殺人の恐怖がどんなものか、彼女は彼に身を持って教えていた。
教えることは全て教えた上で、彼の前から去ったかのようだった。
師匠の部屋の開いたドアに、忠誠が立っていた。
「師匠、崇高が、ちょっとお話したいそうです。来ていただけますか」
師匠はすぐに崇高のもとに向かった。
「師匠、彼女は目を覚ますんでしょうか。死体というよりも、本当に、何か作り物を見ているようで、彼女がそのまま死んでしまうのではないかと思うと怖いんです。彼女の魂はどこにいるんですか?」
師匠はなだめるように崇高の肩に手をおいた。
「彼女は深い瞑想状態にある。彼女が今後、目を覚ますかどうかは誰にも分からないんだ。何故ならそれは、彼女次第だからだ」
「このまま死ぬかもしれないんですか!」
「悲しい事だが、その可能性もある。古い書物の記録では、即死せず瞑想状態になった人間でも、目覚める者とそのまま息を引き取る者がいる」
崇高はまた泣き崩れそうになった。「今は生きることも死ぬこともできない状態なのか」彼は涙を流した。全く生気の感じられない彼女の手を握ってやるが、さっきと変わらず無反応だった。
「崇高、今回のことは本当に済まなかった。24時間たっても何の反応もない場合は、やはり病院に連れて行こうと思う。西洋医学を学んだ医者に説明して理解されるかどうか分からないが」
「目覚めた場合は?元通りになるんですか?」
師匠は首を振った。
「現代ではこの技を試したものはいない。だから書物に書いてあることしか分からないが、この技を受けて瞑想状態に入り、生還した者は、精神が破壊されている場合が殆どだそうだ。辛いことだがよく聞いてくれ、彼女は冥殺指を受けて、餓鬼道に落ちた。そこは、武道家が永遠に戦い続けなければならない地獄だ」
崇高は、理解できない、という目で師匠を見た。
「書物によると、冥殺指から生還した人間は、永遠の戦いに勝ちぬいてこの世に戻って来る。但し、戻って来た時には自分が誰か分からなくなっていたり、完全に周囲との接触を断って引きこもり、後日、餓死した状態で発見された者もいる。生還後も武道家として過ごせた者もいるようだが、そういう英雄的武道家はわずかだ。書物には、普通に生還した者の存在があったことには触れているが、どれくらいの人数の人間がそうなるのかは書かれていない。多分少なかったのだろう」
「餓鬼道って?彼女は今、戦っているのですか?」
「そうだ。戦い続けている」
「誰と?」
「自分自身だ」
崇高は動悸がしてきた。何故そんな恐ろしいことを?彼女は無限地獄に落ちることを予測していたのか?
「冥殺指によって餓鬼道に落ちた武道家は、襲いかかって来るあらゆる敵と戦うという。敵は休ませることなく永遠に戦いを挑んでくる。実際に目覚めたのが3日後でも、人によってはそれが1年、30年、あるいは100年続いた感覚だと証言する者もいる。そしてその敵が最終的には誰だったのかを知るのだ。自分が餓鬼道に落ちてから何十年も自分を苦しめ、自分に襲いかかり、自分を傷つけた相手、それが自分自身だと知る。敵というものは最初から存在しなかった、周りにいるのは全て自分だった。それは宇宙の真理を垣間見たのと同じだ。全てが自分であると気づいた時、武道家は生還すると同時に精神が崩壊する。精神が崩壊するかどうかは、その武道家がどれだけの熟練者かによるだろう。自分が本当に戦うべき相手が、外側にいるのではなく自分の内側にいたという事実を、どれだけ受け入れられるのか。ある意味でそれが、武道家に用意された最後の戦いでもある」
師匠は、横たわる愛良を見た。彼女にその試練が破れるだろうか。
「ひょっとして、彼女はこうなることを分かっていてわざと?」崇高は師匠に問いかけた。「いや、そんなはずないか」
「君もそう思ったか」
師匠の言葉に、同じ疑問を持った目で忠誠も、師匠を見た。
「もしこれが彼女によって意図的に起こされたことだったと仮定しても、あらゆる外的要因が重なりすぎている。彼女が以前から餓鬼道に落ちたいという願望を持っていたかどうかは別として、今回の件は彼女がわざとやったと断定することは不可能だし、今の一連の流れは1人の人間の意思で構築できるものではない。君、そもそも彼女はどうして香港に来ることになったんだ?」
「俺が、指名したんです。俺が武術大会に出ることになって、それで俺は彼女に同伴したいと思った。俺は彼女と昔付き合っていて、彼女のことがまだ好きだったから、彼女が北京語と広東語の両方が理解できることを理由に、彼女に通訳として同伴させてくれないかと打診したんです。断られるのを覚悟でね。しかし、彼女は承諾しました。理由は、彼女がちょうどその時、お墓参りをしたい人が埋葬されている場所が分かったから、行きたいと思っていた、というものでした。今まで不明だったが、ネットで調べていたらその場所が分かったので是非行きたいと」
「それは誰の?」
「蕭師匠、あなたの先祖のです。つまり彼女は、自分の先祖が殺した相手を供養するために、ここに来ることになったのです。ここに来た目的は、俺の通訳としてであって、武道家として来たのではありません。私たちは香港に着いた日に、墓参りに行きました。俺には、武道家として尊敬している蕭師匠の先祖の墓を参るとしか言いませんでしたが、遠い先祖が殺した相手を供養するためだと、あとになって気づきました。師匠、彼女はあなたをとても尊敬しています。俺は彼女の流派にそんな歴史があるなんて知りませんでしたから、単に彼女があなたを尊敬しているから、敬意を表するために墓参りをしたのだと最初は思っていました。でも多分、彼女は香港へ来たら何よりもまず、先祖が殺した相手を参りたかったのだと思います」
08_墓参りの話
師匠は少し考えてから、言った。
「もしかして君たち、水曜の昼過ぎに墓参りに来なかったかな?車で」
「はい、行きました。水曜の午前に香港に着いたので、午後にお寺に行きました。何故それを?」
「私は君たちを見ている。その日は妻の命日で、私も、妻の墓参りに行っていたんだ」
「奥さんの命日なんですか?」
崇高は驚いて聞き返した。「愛良は、あの日はちょうど、彼女の祖父の命日にあたるから、と感慨深そうに言っていたんです」
「そうか」
師匠は少し考えてから、また崇高を見て優しそうに微笑んだ。
「偶然とは言え、運命的なものを感じるな。私の妻はもともと病弱で、私がずっと介護していたのだが、明陽が小さい頃に亡くなってしまった。あの日は妻の墓参りをしようと運転手と寺に来ていたんだ。駐車場の車の中で私が運転手と話をしていると、スーツ姿の颯爽とした男女が歩いて前を通った。だから目をひいて、私は君たちを見ていたんだ。こちらが真っ黒な大きめの車だったから、君たちも多分珍しかったんだろうね。私たちの車を見ながら君たちは何か言って、そして車に乗って行ってしまった」
「そうです。地下鉄だと行きにくい場所だからと、彼女がレンタカーを借りてお寺まで行きました。あなたの車も覚えています。中の人までは見えませんでしたが、あの黒い車の中にいらっしゃったんですね。立派な車だったから、きっと乗っている人はお金持ちだね、と話していたんです」
「やっぱり。君たちはビジネス風のダークスーツを着ていたよね?あのお寺では見かけたこともない、そんな格好をした男女が颯爽と歩いて来たものだから、随分と目をひいたんだよ」
私たちは既に会っていたのか、と師匠は思った。しかしそれも、この事件がなければ、ただの通りすがりの男女として、記憶から忘れ去られてしまっていただろう。日本から蕭家の墓参りに来てくれた人がいたなどということは、知りもせずに。
「うちの先祖の墓参りをしてくれていたのか。わざわざ日本から、ありがとう」
師匠は崇高にお礼を言い、動かない愛良を見た。
死んだようにベッドに横たわる愛良が急に、亡くなった妻の面影と重なり、師匠の胸が息苦しくなる。
そんな師匠の横顔を見ながら、崇高は言った。
「蕭師匠、彼女は、あなたのことをとても尊敬しているんです。以前、彼女が真剣にタブレットを見つめているので俺が覗きこんだら、あなたの演武している様子を動画サイトで見ているところでした。俺はその時、失礼ですがあなたのことは全然知らなかったので聞くと、彼女はあなたがどんなに素晴らしい武道家であるかを教えてくれたんです。武道家としての精神や、あなたの発言、優しい語り方、全てが好きだそうです。あなたがこの流派の歴史について語ったり、伝統の型について話したりすると、彼女にはそれがとても勉強になるらしく、いつも感心して聞いていました。また、自分の師匠である祖父は死んだが、今はあなたから学んでいるので、彼女はあなたを自分の師匠のように思っていると」
「そうか、もし本当に彼女がそう思ってくれるなら、だからあんなに息子に真摯に向き合ってくれたのか…」
さっき見た動画の中で、悪いところは具体的に指摘し、良いところは褒め、だめなところはないかと聞かれて即座にない、と答えてくれていたのを師匠は思い出していた。そして、急に涙ぐみそうになる。
「ああ、つい、妻のことを思い出してしまった」
師匠は目を押さえて椅子に座った。
「ここは私の寝室だが、昔、妻が病にふせって私が介護していた時、このベッドに寝かせていたんだ。今の愛良さんの姿を見てそれを思い出してしまった」師匠は崇高に言った。
「妻は小さい頃からとても病弱で、それを理由に結婚を大反対されたのだが、2人でそれを押し切って結婚した。彼女は体が弱かったから、妊娠はできないだろうと周りから言われていた。事実、明陽は遅くなってから授かった息子だ。私はあの子を愛しているが、だからこそ厳しくしつけたし、冷たかったかもしれない」
ドアの向こうで明龍も、師匠が初めて息子に対する気持ちを告白するのを聞いていた。
「私は師匠という立場上、あの子を特別扱いはできなかった。だからあの子からは、子供に無関心な父親だと思われているかもしれない。私は、彼女が今日、息子にしたような的確なアドバイスは一度もしたことがなかった。彼が何を知りたがっているかに注意を向けたこともあまりなかった。だから、昔の話だからと、試合中の事故で亡くなった先祖がいることを、彼の多感な時期に軽々しく話してしまった。香港で昔流行った仇討ちの武術映画を好んで見ているということは、明龍から聞いて知った。仇討ちをするとか私の前で発言し始めた時、私が叱ったらそれ以上その話題は出さなくなったので、もう終わったと思っていたが、彼はその願望を持ち続けていたんだな。私はそれに気づかなかった。今回の事は、全て私の責任なので、息子を許せとは言わないが、どうか私にできるだけの責任を取らせてほしい。彼女の状態を元に戻すことはもうできないかもしれないし、一度傷つけてしまった君の心の傷を修復することは私にはできないと思うが、なるべく最善の方法で、君が満足できる方法を取りたい。どんなことでも言って欲しい。こんな言葉をかけても、君には無意味かもしれないが…」
崇高は目を閉じてうなずいた。
「お気持ちは分かりました。ですが、今の俺には、愛良のそばで見守ることしかできない、その先は考えられないんです。俺も彼女を止めることができず、見殺しにしたんだ」
師匠は崇高の両肩を持った。「いや違う。君は彼女の事が好きで、彼女を信じていたから、願い通りにさせてやりたかっただけだ。彼女もそのことはきっと分かっている」
崇高は首を振ったので、師匠は肩から手を離した。
師匠の妻は、母体が危険な状態に晒されることを承知の上であなたの子を産みたいと言った。大切な女性が自らの意思で危険に立ち向かおうという時に、彼も止めることはできなかった。結果、子供を産んだ事が励みになり、彼女は医者から当初通知されていたよりは長い年月を生きることができた、但し、完全にベッドの上でだけの人生となったが。
だが、何故今さら、戦闘で倒れた彼女を見て妻と重ねてしまうのか分からず、師匠も気持ちが混乱し始めていた。
「もう何も考えたくないし、誰も責めたくない。責任の追及もしません。ただ彼女の回復を祈りたい。彼女は自分で責任を取る人間でした。彼女を信じて待ちます」
そう言った時、崇高は、横たわる愛良の喉元から、冥殺指の黒いあざが、まるで最初からなかったかのように完全に消えているのに気づいた。
「あざが、無くなってる。いつから?」
崇高は忠誠に聞いた。
「え?」忠誠は愛良の方を見た。「本当だ」
忠誠は立ち上がって愛良の首のあたりをよく見る。
「段階的に薄くなったのかもしれないが、それにも気づかなかった」
その会話を聞きつけて明龍も入って来た。師匠の隣に立ち、愛良の様子を伺う。
本当に、あざが綺麗に消えている。こんなことってあるのか?
師匠は確認のため、愛良のあごに手をそえて、顔をそらせ、首の状態を見た。ベッドの上の照明器具を見上げ、光の加減を確認する。
「何故だろう。あざが完全に消失している」
そして、念のため指で彼女の首に触れてみた。
「腫れてもいない。いつ消えたんだろう」
師匠は、戦闘で乱れた彼女の髪を直すように撫でた。
「文献に、冥殺指のあざが消えるなんて書いてありましたっけ」
明龍は師匠に聞いた。
「いや、無かったと思うが、そもそもあざができるとは書かれていなかったな」師匠は答える。
「彼女の体が回復している兆候では?」崇高が聞いた。
「そうかもしれない」
崇高の心に、急に希望の光が差した。
「そう言えば、見てくれ。顔の傷も無くなっている」忠誠が言った。「俺が彼女の顔を拭いてやった時は、たしかに殴られた痕がありました」
忠誠は愛良の手を取った。
「手を拭いた時も、指に切り傷があった。もう治っています。綺麗に治っている」
「光の加減、ではないのか?」
明龍は信じられない様子でベッドの反対側に回った。
「確かに、さっきと顔色が違うような気がしてきた」
さっきの死体のような見た目ではなく、ただ眠っているだけのような姿に見える愛良。
「血液が彼女の体をめぐり始めている」
師匠は愛良の肌の色を見て言った。
「血液が体を循環し始めたら、五つの臓器が全て活動し始めるぞ」
師匠は愛良の髪から頬、そして肩までをゆっくりと撫でた。
手の甲を彼女の首元に当て、脈を確かめる。
「脈が強くなってる。希望を持とう」師匠は言った。
明龍は弟の部屋へ向かった。
「入るぞ」
明陽はベッドの上で、さっきの動画を見ていた。
「師匠が崇高に、全ての責任は自分が負う、と言っていた」
「こんな大きな息子をかばうのか、だめな父親だな」明陽は体を起こし、明龍のほうを見て座りなおした。
「武術の世界じゃ注目を集めて、偉い人ってことになってるけど、こんな馬鹿息子を育て上げて、しかも不祥事をかばうなんて、息子がどんどん駄目な大人になる」
明龍は弟の隣に座った。
「彼女の喉から冥殺指のあざが突然消えた。顔や手の傷も治っている」
「冗談だろ?」
明陽は明龍を見た。
「本当だ。光の加減や見間違いでないことは、全員で確認した。俺は、彼女が回復に向かっていると思う」
明陽はほっとして溜息をついた。「もしそれが本当なら…本当に回復してくれたらいいな」
「あのな、お前今日さ、彼女を負かしたら墓前に引っ張っていくとか言ってただろ。彼女、香港に着いた日にその足で、崇高とうちの先祖の墓参りに行っていたらしいぞ。林師範の末裔として、殺されたうちの先祖を供養するために」
明陽は、ぼうっとそれを聞いていたが、やがてふっと笑った。「そうか。俺は最初から最後まで彼女に負けっぱなしだな」
「あと、彼女は師匠のことを尊敬していて、師匠がどんなに素晴らしい武術家か、以前崇高に話していたことがあったそうだ。演武の映像を動画サイトでよく見てるんだって。それ、お前がいつも上げてるやつのことだと思う。忠誠も言ってたよ。彼女は師匠のことが凄く好きなんだって話してくれたんだって」
明陽は兄を見た。
「それであいつ、兄貴にはまったくなびかなかったんだな。おかしいと思ったよ、あんなに優しくしてやってんのにほぼ無反応だったじゃん。でも親父のほうがタイプだったら、それも分かるわ。親父のほうが歳取ってる分、貫禄のあるし、いわゆるダンディなおっさんだからな。兄貴は貫禄ゼロで、ツラが良いだけのちょっと優しい男だからなあ。まあ、兄貴に全くなびかないってのも珍しい女だけどさ」
明陽は立ちあがった。
「どこへ行くんだ?」明龍は聞いた。
「門弟たち、下にいるんだろ?ちょっと彼女の様子を知らせてくる」
「でも、まだ本当に回復してるとは限らないんだぞ」
「ああ、でもほんの少しのいいニュースでも、彼ら知りたいだろ?心配して待ってくれているんだから。あと、今回の騒動を彼らに謝って来るよ」
明陽は部屋を出て、1階へ降りて行った。明龍は、急に師範らしくなった弟を見送った。
師匠の寝室では、崇高が愛良の手を握り、彼女の顔を見つめていた。
俺はお前を信じてる。帰って来られるだけの自信があったんだよな?だからあんなことしたんだろう?必ず帰って来てくれ。
その後ろで、師匠、忠誠が彼の様子を見守っている。明龍もその部屋へやってきた。
「蕭師匠」崇高は振り返って師匠に言った。
「愛良は、あなたのことが大好きなんです。今はまだ意識がありませんが、もしあなたに手を握ってもらったら嬉しいでしょうから、ここへ来て手を握ってやってくれませんか」
え、私が?という顔をしたが、明龍にどうぞ、と促されて師匠は愛良のそばに来た。
崇高が愛良の手を離したので、師匠はそれを遠慮がちに優しく握った。
「確かに、さっきより温かくなってきているね。きっと、君が握ってあげていたからだよ」
師匠が嬉しそうに崇高に微笑む。
やはり、師匠は魅力的な人だな、と崇高は思った。この人は純粋ないい人だ。愛良が尊敬するだけのことはある。
「崇高、申し訳なかった、息子が君たちをこんな場所に連れて来たりして」
師匠は愛良の手を握りながら言う。
「いいえ。彼女はひょっとしたら、ここに来たかったのかもしれません。俺が香港に同行してくれるよう誘った時、彼女は蕭家のお墓の場所が分かっていたぐらいですから、多分、尊敬するあなたの道場がどこなのかも調べていたと思います。でも彼女はそんなことは言わなかった。俺の用事でついて来ただけだから、遠慮してたのかな。台風が来ると分かったから、墓参りを優先したのかもしれない」
「さっき、門弟が撮った映像で見たが、彼女は立派な武道家だね。私も彼女に会えて嬉しいよ。分派の継承者なら、言ってくれれば喜んで会ったのに。そんな、黙って墓参りだけして帰ってしまうなんて」
明龍が弟の気配に気づいて振り向くと、その部屋にいた全員が振り向き、明陽の姿を認めた。
「あの、これ」
明陽はドアの影に身を隠し、明龍に、雨に濡れた袋を差し出した。
「さっき門弟に金を渡して夕食を食べに行かせたんだ。彼らは帰ってきて、これ2階にいるみんなにって。台風だから使用人は帰らせちゃって、料理する人がいないだろ?」
袋の中には飲み物と食べ物が入っていた。
「ありがとう。お前も彼女が心配なんだろう、見てやれよ」
明龍はドアを開けた。明陽と崇高の目が合う。
崇高は立ち上がり、明陽の所に来た。
「愛良がお前を利用して、わざと今の状態に陥った可能性もあると気づいたんだ」崇高は言った。「本当のところは彼女にしか分からないことだけど、もしそうだとしたら、さっきは殴ったりして悪かった」
その場の全員が、思いがけない崇高の言葉に驚く。
「そんな、利用?俺がやったのに。俺の意思で彼女を襲ったんだ。彼女に誘導されてやってんじゃない。俺が彼女をこんなことに巻き込んだんだよ」
明龍は、弟を落ち着かせるように手を肩に置いた。
「そこは誰にも判断できないから、その話はとりあえず置いておこう。彼女の様子を見たら、お前は部屋に戻って寝てろ」
明龍は、愛良の様子を見るよう手で背中を押した。
歩み寄りながら、横たわる愛良の姿を、明陽はじっと見つめた。一瞬、母親がこのベッドで師匠に介護されていた時の記憶が蘇り、彼は心臓の鼓動が早まるのを感じて立ち止まった。
明龍が弟の背中を押す。明陽は少し進み、愛良の様子をよく見た。
本当だ。回復しているように見える。明陽は、自分の攻撃を受けて倒れた時とは全く別の愛良がいるのを確認し、目を見開いた。ただ、父親のベッドで眠っているだけの愛良だ。「本当に回復してるみたいだ」明陽は兄に言った。
「さあ、部屋に戻れ。お前、随分やつれてるぞ。寝た方がいい」
「ここにいさせてくれ」
明陽は言った。崇高がうなずいたので、明陽はそばのソファに座った。
「彼女の前で悪いが、ちょっと腹に何か入れよう」明龍は門弟たちが買ってきてくれたものをテーブルの上に広げた。
「どうぞ。遠慮しないで」
明龍は崇高と忠誠に言った。
「君と愛良はどうやって知り合ったんだ?」
忠誠が崇高に聞いた。
「俺たちは小さい頃から友達だった。家が近所だったんだよ。俺の家が空手道場だったから、自然とそこらへんの子供たちがうちの道場に集まって遊んでいた。彼女と俺は同い年で、同じ学校だし俺たちは毎日一緒に遊んでいた。彼女の両親が死んだのは俺たちが小学生の時だよ。彼女の両親はともに新体操の選手で、高校生の時に大会で知り合って、同じ体育大学に進み、卒業後に結婚したんだって。選手としては、当時の世界大会で常に10位以内に入賞していたらしい。ある時、遠征先の海外で、ホテルがテロに遭い、爆死したと聞いている」
「あの事件の犠牲者か。あれは痛ましかった。たしかその大会の選手の、殆どが亡くなったと報道されていたね」蕭師匠が言った。
「はい。俺たちは子供だったので、当時はあまり詳しく聞かされませんでした。彼女の両親は死にましたが、祖父母が同居していたので、彼女はそのまま祖父母に育てられました。それから、俺の両親が彼女を気遣って、うちの道場で無料で空手を教えてやるようになりました。その頃、彼女は祖父からも家伝の拳法を教わっていたようですが、俺は何を習っているのかまでは特に興味がなかったので、聞いたことはありませんでしたし、彼女も言いませんでした。俺に型を見せたこともないです。空手道場では練習試合も普通にこなしていて、強さで言うと真ん中ぐらい、特に強い人、という印象はありませんでした。高校まで同じ学校に通いましたが、三年生の時に初めて同じクラスになり、彼女と付き合い始めました。彼女はスポーツ万能で、教員から体育大学の推薦入学を強く勧められていましたが、彼女は東京で唯一、中国語学科のある、外国語大学に入学したいと言い、推薦を辞退しました。そして、その大学は自分には難関だから、勉強に専念したいとのことで、俺との交際を断ってきました。俺は別れたくなかったし、別れる必要なんかないと思ったんですが、最終的にはふられたんです。もしかして大学に合格したらよりが戻せるんじゃないかと期待したんですが、彼女からは合格した時に報告されただけで、そのまま、再び付き合う事はありませんでした。付き合っていた時は、彼女に両親がいないから、俺が社会人になったら結婚して彼女を守るんだって、親にもさんざん言ってたんですがね。結婚の約束なんかしていないのに、高校生の時は本気で彼女と家庭を築くと信じていました。今はこのとおりですけど」
「お爺さんはどんな人だったの?」
明龍は崇高に聞いた。
「普通の小柄なやせた男性で、拳法の達人には見えなかった。蕭師匠とは全然違うタイプだよ。彼女は平均的な日本人女性よりも背が高いほうだと思うけど、お爺さんは今の彼女より小柄だったと思う。優しい人だったよ。拳法を教えていたのを見たこともない。多分、あまり知られたくなかったんだろうね」
崇高は話しながら、時々愛良を見た。もしかしたらすぐにでも目を覚ましてくれるかと思ったからだが、彼女は相変わらず時が止まったように身動きもせず、目も開けなかった。
手を握っても、反応はない。
「彼女が冥殺指を伝授されていたと思いますか?」
忠誠は師匠に聞いた。
「あの映像では、構えまでは知っているようですね?あの構えはあれで合っているんでしょうか」
「私の見た限りでは合っている。そうだな明陽?」
師匠は明陽を見た。「はい」と明陽は答えた。
「だがそれを、門外の人間に言うことはできないんだよ。冥殺指という秘儀が、うちの流派にあることは世間に多少知られてしまっていることだが、現代の価値観に照らし合わせた時、その内容について触れるのはタブーだ。君が武術ライターとして、知りたいというのはもちろん理解している」
忠誠はインタビュアーとして知り得た情報でも、あえて公開しないことで、相手の武術家との信頼関係を築いている。
「分かりました。この件については、もちろん口外しません」
「ありがとう。君たちは、私たちの流派が恐ろしい拳法を教えていると思っているだろうね。もとは正当な理由で使用するために、次世代へ伝授することになっているが、時代とともにそれが正当な理由では無くなってきているのかもしれないし、正当な理由に使える人間がどれだけいるのか分からない」
「そう言えば、お前も何かやってるんだよね?」
明龍は忠誠に聞いた。
「俺はお前が何をやっているか、聞いたことがなかったな」
「それは、言わないでおこう」忠誠が笑った。「でも彼女には、ばれちゃったかな」
「ええ?何で、秘密なの?」
明龍は聞いたが、忠誠は首を振りながら困ったように笑うだけだった。
そういえば、俺が忠誠といる彼女を連れて行こうとした時、俺に攻撃しようとした彼を彼女が前に出てさえぎった。その時彼女は、何かに気づいたような顔をしていたっけ。彼女が明龍の前に出たので、明龍は忠誠がどんな型を見せたのかは分からなかった。ばれたというのはあの時のことだろうか?
「崇高、彼女のことをもっと教えて」忠誠は言った。「君と彼女は、今は同じ会社で働く同僚なんだろ?」
「ああ、1年前からだけどね。」崇高は答える。
「東京の体育大学を卒業して、俺は父親の空手道場を継ぐことになり道場経営を任されたんだ。以前は空手ブームのお陰で、道場で空手を学ぼうとする人間は一定数いたけど、今は昔ほどではない。今は、色んな格闘技が学べるからね。それで俺は道場経営をする傍ら、全国展開するスポーツクラブの空手インストラクターとしても働き始めた。こっちのほうが結構お金になるんだよ。但し、最初の頃は地方支店への出張が多かったから、体力的にはハードだったかな。愛良はその頃、都心を中心に展開していた高級スポーツクラブにスタッフとして入り、インストラクターとかトレーナーをしていたらしい。俺たちはお互いに家は近所だけど、社会人になってからは、全く会わなくなっていた」
「その間、会いたいとは思わなかった?」明龍は聞いた。
「まあ、思ったといえば、思ったけど」崇高は少し笑いながら、言いにくそうにうつむいた。
「何で会わなかったの?」忠誠が聞く。
「会えないよ、だって俺はその時、愛良を諦めて、別の女性と付き合っていたからね。愛良のほうは、恋人がいたかどうかは知らない。いても不思議ではないけど、そんなこと知りたくないから、聞いたことはないよ。それで、彼女がスタッフとして働いていたスポーツクラブで、顧客のメニューを考えてやったり食事のアドバイスをしたりするうち、それが好評でパーソナル・インストラクターとして指名が入るようになったんだって。彼女は独学で、栄養学とかスポーツ生理学というのかな?そういうのを学んでいたらしく、彼女の働きぶりが評判を呼んで、会社にとって金払いのいい顧客、つまり優良顧客がたくさん付き始めて、最終的にはスポーツクラブに籍を置きながら独立したんだ。彼女に急に指名が入るようになってから、当時日本に進出してきた外資系スポーツクラブに引き抜かれそうになったのを、彼女の会社が引き止めて、彼女の独立を認める代わりにスタッフとして引き続き籍を置いてくれるよう、高い報酬を提示して懇願したらしい。もし彼女が引き抜かれたら、優良顧客もそのまま移動してしまうからね。実際には彼女は社員ではなく、委託契約のスタッフになっているんだ。それから週3日の数時間だけの出勤でもかなりの給料をもらっていて、残りの時間、彼女は自分の修行に費やすことができるようになった。そして1年前に、彼女の会社と俺の会社が合併して、俺と彼女が同僚みたいなことになったんだよ。同僚と言っても、部署が全然違うから社内で会うことは、たまにしかないけどね。ビルも別なんだよ。でも、彼女がどこにいるか見に行ったことはあったよ。パソコンの前に座って何かやってたけど、話しかけたりはしなかった。そして今回、空手振興会から、香港の大会で演武をやらないかという話が来たんだ。理由は、空手といえば日本だが、日本人の出場者が1人もいなかったらしくて、それで日本人を招いて演武をやらせるという話になったらしい。実は、空手振興会の活動費みたいなのが結構余ってしまっていて、使い道を検討していたところ、そういうことになったんだってさ。振興会の人はうちの父親と知り合いで、父親が昔、香港で道場を開いたことがあるのも知っている。だけど振興会の公費だから個人と交渉するのはまずくて、わざとうちの会社を経由させてこの話をくれたんだ。会社も宣伝になると言うことで引き受けて、交通費とホテル代を振興会が持ち、その他の経費は会社持ちで、俺と同伴者1人が招待されることになった。会社から、同伴するなら社内の人間でなければならないが、誰を同伴したいかと聞かれたから、俺は即座に愛良に頼もうと思いついて、俺が言葉を話せない振りをして、彼女なら通訳ができるはずです、ってもっともらしい理由をつけたんだ。でも俺が広東語が分かるのは彼女も知っているから、本人に断られるんじゃないかと思っていた。それで俺が直接彼女の席まで聞きに行ったんだ。会社が合併した時に少し話をした以外は、もうずっと話したことがなかったし会うのも久しぶりだったから、ちょっと緊張したよ。そうしたら、彼女はにこにこ笑って、喜んでOKしてくれた。理由は、香港で墓参りをしたい人のお寺がどこか分かったから、是非俺に同行したいと。それが大体、1カ月前の話」
「崇高」明龍は言った。「その空手振興会、毎年うちの財団が寄付金を出してるんだ。もし寄付金を結構余らせてるとしたら、来年から金額を考えないといけないな」明龍は笑った。
「ありがとう。そのおかげで俺たちはここに来てるんだね。それで、何年もまともに交流が無かった俺と愛良が、やっと1カ月前から、よく会って話すようになった。俺は昔に戻れたような気がして夢みたいだと思っていた。香港に来るのが凄く楽しみだったし、彼女も嬉しそうだった。一緒にこんな遠くに出かけるなんて初めてなのに、彼女によそよそしい雰囲気は全くなくて、本当に昔付き合っていた頃のように会話できて嬉しかった。子供の頃みたいに無邪気に親しくできたんだ。彼女は何も変わっていないと思った。ただ、彼女とよりを戻せるならそうしたかったんだが、彼女は俺をあくまで友人として見ているらしかった。でも、それでもいい、一緒にいて、言葉を交わせるなら」
崇高は涙ぐんだ。