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part 1 空手大会

<登場人物>

・東京: 林愛良はやし あいら:日本人

・東京: 坂本崇高さかもと たかし:日本人


・香港: しゅう師匠:古く続く武道流派の師匠。

・香港: 蕭明龍しゅう めいりゅう:表向きには師匠の長男ということになっている。実際は師匠の甥(師匠の弟の長男)。

・香港: 蕭明陽しゅう めいよう:実際は師匠の長男だが、師匠の次男で明龍の弟ということになっている。


・台湾: 張忠誠ちょう ちゅうせい:武術ライター。

 01_空手大会


 香港の高級ホテルのバーで、スマートフォンを弄ぶ蕭明陽しゅうめいよう

 待ち人は30分以上遅れている。

 明陽がきょろきょろ見回していると、やっと彼女が現れた。

「ヤンヤン」明陽が笑顔で呼ぶが、ヤンヤンはふてくされていた。

「あなた、本当に待ってるじゃない。無視されてるとも思わなかったの?」

 ヤンヤンは驚いたように、マスカラのついたまつ毛をパチパチさせ、可愛らしくお尻を振りながら、明陽の所にやって来た。

「君が来たっていうことは、メッセージも読んだし、無視してないってことだろ」

「まだ何か用があるの?」ヤンヤンは明陽のそばに立ったまま、目をパチパチさせながら、ぷっと膨れてみせる。

「そんなに怒らなくても。でも、怒った君も可愛いよ」

「私もう、新しい彼氏と付き合ってるって言ったと思うけど」

「ああ、その話はいいから。座りなよ。何飲みたい?」

 ヤンヤンは明陽の隣に座ると、勝手にカクテルを注文する。

「私今、お店の上のフロアで働いてる日本人と付き合ってるの。あなたみたいな土人なんかとはえらい違いの紳士よ。言いたくないけどお金も持ってるし。あなたも持ってるけど、ケチでしょ。彼はこのバッグも買ってくれたわよ?アメックスの黒いカードでね」

 ヤンヤンは高級バッグを自慢げに見せる。明陽は、ははは、と笑い、アメックスの何色だろうが、要するにツケだろ?と言う。

「こんな趣味の悪いブランド名丸出しのもの、よく買わせたね。何だこれ?ドラマの小道具みたいに大げさなマークだな。あれだろ?タンジェリンオリエンタルの近くのあそこで買ったんだろ?」

「あと頭もいいのよ、外資系のエリートだから。5カ国語も喋れるんですって。会話の内容も国際的で、とってもスマートなの」

 あなたと違ってね、と笑うヤンヤン。

「ああ良かったね。君はその男に騙されてるよ。日本企業だからって何だよ。日本企業なんて、最近落ち目なんだからやめとけって。そいつ、デスクワークだろ?男らしさに欠けるじゃん」

「また筋肉馬鹿の武術映画の話?あなた、暴力と男らしさを勘違いしてない?今は知的でスマートな男のほうがモテるのに。大体、いつの時代の映画の話をしてるのよ?武術家だからってそんな昔の映画の話ばかりされて、こっちはうんざり。意味分からないし、あなた私の話も聞かないでいつも自分の話ばっかりしてるじゃない。そういうところも嫌なの」

 既に酔い始めたのか、ヤンヤンは顔を赤くして膨れながら語気を荒げている。

「ヤンヤンちゃん、君が忘れられないんだ。そうやってプリプリ怒ってるところも可愛いなあ。アホな日本人なんか振って、俺とよりを戻そうよ」

「お断りよ」

「何で?最初は俺のこと好きだって言ってたのに」

 明陽は肩を抱こうとして拒否される。

「もう飽きたの」

「1カ月しか付き合ってないよ」

「あなた私のこと間違えてナナって呼んだじゃない。そういうの、女はすごく傷つくのよ。あなたなんか大っ嫌い。あとね、付き合った期間は1週間よ。残りの3週間はあなたに付きまとわれてただけなんですからね」

「ごめん、前の彼女の名前を、つい呼んじゃったこともあったっけ」

「3回もよ、信じられない。とにかくあなたのこと嫌いになったから、もう連絡しないでね。っていうか帰って」

「帰ってって。俺が先に帰ったら支払いは誰がするんだよ。君みたいな可愛いくてグラマーな女の子に余計な金は使わせたくないんだ。俺のヤンヤン、機嫌を直してくれよ」

 その時、明陽は自分の隣にスーツ姿の男が立っているのに気づいた。

「ヤンヤン、こいつ?君にしつこく付きまとってる人」

 男はそう言いながらヤンヤンの隣に座り、彼女ごしに明陽を見た。

「君、おごってあげるから、帰ったほうが身の為だよ」日本人の男は余裕の表情で明陽に言う。「君がいると、僕の可愛いヤンヤンのご機嫌が悪くなるから」

 男の腕には高級時計が光る。ヤンヤンは甘えるように男にもたれかかった。男はヤンヤンの背中を撫でながら、小馬鹿にしたように明陽を見る。

「やるってのか?」明陽は男を睨む。

「君、やっぱりヤンヤンの言うとおり野蛮な男だね。僕を殴っても捕まるだけだよ。有名な武術家の息子だって?君もちょっとは有名らしいけど、腕力を見せつけて善良な市民を脅迫するなんて、女性の前で下品ことはやめたほうがいいよ」

 バーのスタッフが、騒ぎを起こされるのではないかと、こっちを見ている。

「善良な市民?笑わせるなよ、ただ金儲けに来てるだけの日本人だろお前」

「君に比べたら善良な市民だけど?僕はここへの赴任が決まってから、ちゃんと語学を勉強して、真面目に働いて香港の経済に貢献してるし、税金も君より多く払ってるよ」

 周りの客も気づかないふりをしながら、こちらの様子をうかがっている。

「分かったか?腕力が強いなんて今の世の中、何の役にも立たないんだよ。それより英会話の勉強でもして、国際感覚を身につけたらどうかな?君、外国人の友達はいる?少しは英語を喋れるのかい?」男がたたみかける。

 明陽は周囲の視線を気にしつつ席を立った。悔しいが反論できず、出ていくしかない。

「おい」行こうとした明陽は、男に呼び止められた。

「もう二度とヤンヤンに連絡するなよ」男は香港ドル札を明陽に差し出した。「これ、手切れ金」

 明陽はその手を払いのけようとして直前で止まった。

 手を払いのけただけでも、この男なら暴力を振るわれたと訴えかねない。

 明陽はふっと笑ってヤンヤンを見た。

「負けたよ。可愛いヤンヤン。その日本人と幸せにな」

 明陽はバーを出ていった。


 明陽がリビングのソファに寝転がっていると、兄の明龍めいりゅうがやって来た。

「お前、もしかしてまたふられた?」明龍が聞く。

「さすがは兄貴。察しがいいな」

「だって、デートに行くって言ってたのにもう帰って来て、食事もまだだったなんて」

「兄貴の弟に似合わず、俺は常に女にふられっぱなしだ。今日のは痛かった。現れた相手が日本人のエリートサラリーマンで、俺を小馬鹿にしながら手切れ金を渡そうとしやがった。今後一切、日本製品は使ってやらないからな」

「じゃあ、お前の部屋にあるTVとDVDプレイヤーも捨てとけよ」

 明龍は、弟と反対側のソファに座った。

「ヤンヤンちゃんの名前、俺3回くらいナナちゃんって呼んじゃったんだよな。3回目にはもう口も聞いてくれなかったけど」明陽は起き上がって座りなおした。

「それはお前がひどいよ。どうやったらそんな間違いができるんだ」

「だって俺、ナナちゃんとはヤンヤンちゃんの3倍くらいの期間は付き合ったから。乗り換えてすぐだし、つい名前が出ちゃったんだよ。兄貴もあるだろ、そういうの」

「ない」即座に否定する明龍。

 明陽は、ソファの横のテーブルに分厚い封筒があるのに気づく。

「それ、お前あてだよ。資料みたいだな。何だよそれ」

 明陽は、はっと気づいてそれを手に取る。

「探偵事務所からだ」彼は小声で言いながら封筒を破り、中を確かめた。

「探偵?お前まさか変な事を調べてるんじゃないだろうな。馬鹿なことに金を使うなよ」

「やった。探偵がとうとう突きとめたぞ。俺たちの」

 と言ってから、近くに自分の父親がいないことを確認する。

「俺たちの先祖を殺した男の末裔が、誰か分かった」

「ええ?」明龍は、疑うような表情で、半分笑いながら弟に聞く。「お前、わざわざそんなことを探偵に依頼してたのか?金の使い道、間違ってるぞ」

 明陽は父親が来ないうちに、兄を誘って自分の部屋へ入った。

「その調査、本物なのかな。間違いじゃなく?」

 少しは興味を持っている風な兄の問いに、明陽は資料を見せた。

「日本人の空手家だ。やっぱり武道家だったのか。香港に住んでいたこともある、だって。じゃ、こっちの言葉は喋れるな。今度の東アジア空手選手権香港大会に出場予定、だって。すぐじゃん。本人が来るぞ」

 興奮する明陽とは対照的に、兄は冷淡に首を振った。

「出来すぎてる。お前、探偵にからかわれてないか?第一、こんなことを知ってどうするんだよ。まさか仇討ちするんじゃないだろうな」

「するよ。相手は日本人だし」

「馬鹿!いい歳をして、何を子供じみたことを言ってるんだよ」

「兄貴、こいつは俺たちの流派の分派を継承しているはずなのに、表向きには空手家を名乗ってる。許せるか?」

「許せるよ。向こうの勝手だろ。それに調査結果は本当に、この内容で合ってるのか?反証材料なんていくらでも出てきそうだが」

「探偵事務所は今までのやり取りで、結構本格的に調査してくれてたんだよ。今まではメールで、今回は最終結果だから、書類で来たんだ」

 明龍は、弟から渡された、調査開始から終了までの資料を読み始めた。

「でも、お前が探している人物がこの男だと判明した途端、この男が香港にやって来るなんて、タイミングがよすぎないか?」

 その資料は明龍の目から見ても確かに、本格的に調べたような文章にはなっているし、よくまとめられていた。

「運命が俺に味方してるんだよ。神様が俺に、復讐を果たして先祖の恨みを晴らせって言ってるのさ」

「復讐って、お前もいい加減大人になってくれよ。高級ホテルのバーに行って、エリートサラリーマンと口喧嘩できるくらいには大人なんだからさ。年齢相応の考え方をしてくれ。何が神様だよ、無神論者のくせに」

「兄貴、この調査が本当なら、こいつはうちの流派の分派を継承した唯一の人間ってことになるぜ。それだけでも興味ない?」

 明陽は資料にある写真の人物である日本人空手家、坂本崇高さかもとたかしを指差しながら、兄に言う。

「まあ、興味はあるな。もともと人数が少なかったであろう分派がどうなったか知りたいし。だけど、この男は違うだろ。何でうちの分派の継承者が空手家になってるんだよ。おかしいだろ」

「おかしくないよ、武術家なのは同じなんだ」

 明龍は弟から写真を奪ってよく見る。

「坂本崇高?知らないなあ。空手家っていうより、ただの日本人だろ?調査だと、別に有名な人じゃなく、一般人になってるじゃないか」

「俺はこいつに会いに行く。兄貴も来るだろ?」

「喧嘩をふっかけるつもりならやめとけ。俺は行かないよ、興味ない。お前も行くなよ」

 明龍は弟に写真を返して、部屋を出て行った。


 空手大会の会場に、自分の道場の門弟数人を同伴し、関係者席に座る明陽。

「なんだあいつ、トーナメントに出るんじゃなく、最後の演武に出るだけだったのか。早く来て損したわ」

 試合をしないんだったら、強さも分からない、と思いながら関係者用のパンフレットをパラパラめくる明陽。

 どこかに本人がいるのかな?とオペラグラスで会場内を見渡していると、目の前に障害物がよぎった。オペラグラスを降ろすと、そこには、武術系フリーライターの張忠誠ちょうちゅうせいが立っていた。

「やあ明陽。お兄さんは?」

「お前失礼な奴だな。俺は兄貴の代わりかよ。お兄さんなんか知らないよ」

「ごめん、君が空手の大会を見に来るなんて珍しいから、明龍が連れて来たのかと思ったんだ。どうしたの?お弟子さんたちまで連れて来て、知り合いでも出てるの?」

 張忠誠は門弟たちに、こんにちはと挨拶する。

「俺のほうが兄貴を誘ったのに、来ないって言うからさ。お前、もしかして、兄貴に俺のこと見張れとか言われたんじゃないだろうな」

「見張るって、何のこと?何か悪いことでもしたのかい」

 ああいい、気にするな、と明陽は手を振る。

「今日はどうしてこんな所に来たんだ?今来たばかりだろ?もうすぐ終わるのに」

 忠誠はパンプレットを見ながら明陽に聞く。

「え、今始まったんじゃないの?俺、時間を間違えたわ。ま、終わりならいいや。最後の演武に出るっていう日本人が目当てで来ただけだから」

「そうなんだ?俺が取材を申し込んでる人のことかな。でも君が空手に興味持つなんてめずらしいね、君の兄さんなら分かるけど。他の武術の勉強に来たの?」

「武術の勉強?」明陽は、ふんと笑った。「俺が勉強なんかするかよ、馬鹿。うちの財団がこの東亜空手振興会に寄付してて、そのつてで関係者席の券をもらったんだよ」

 その時、2人の目の前に、ビジネススーツを着こなした男が歩いて来るのが見えた。

 だらしなく椅子にかけていた明陽は座り直す。

 歩いて来る男は坂本崇高だった。

 空手家のくせに何でスーツなんか着てるんだ?格好つけやがって、と明陽は坂本崇高を睨んだ。

 探偵からもらった写真は顔しか映っていなかったが、実際に見ると、スーツを着ているからか、それとも体全体のシルエットからか、写真よりもいい男に見えた。そして、彼の後ろには、同じくスーツ姿の女が立っている。

「女連れだよ」明陽は忠誠に言った。崇高の妻か、恋人?いい女を連れていると、男のほうもいい男に見えるもんだな、と明陽は思った。

 坂本崇高は、関係者席の一番前にいる、振興会の会長らしい男性とその取り巻きに頭を下げ、丁寧に挨拶していた。

「どうした?」忠誠が聞いたので、明陽は「しっ」と言って黙らせた。

 坂本崇高は日本語で喋っていたので、明陽には何を話しているのか分からなかった。

 崇高が話を終えて去ろうとした時、明陽は崇高に分かるように視線を合わせた。崇高も、明陽を見ていたが、同伴の女に何か言って去って行った。

 忠誠は、日本人空手家に対する明陽の態度を、不思議そうに眺める。「彼がどうしたんだよ」

「お前日本語分かるんだろ、何て言ってた?」

「いや、ただの挨拶だと思うよ。ちゃんと聞いてなかったけど」

 明陽は後方に去っていく空手家を振り返った。彼が女と出ていく所だった。

「女連れでこんな所に来やがって。格好つけてるな、あいつ」

「君の知ってる人?」

「お前は武術ライターなのにあの男を知らないのか?」

「彼はただの日本人の空手家だよ。別に有名な人ではない。空手振興会に招聘されたから、日本からわざわざ来ただけみたいだよ。確か、東京のスポーツクラブで空手のインストラクターをしてる。俺はインタビューを申し込んで、受けてもらえるかどうかの返事待ちなんだ」

 明陽は、お前の情報収集能力はその程度かよ、と笑った。

「ただの空手家じゃないぜ。あいつは身分を隠してるが、俺たちの流派の武術を、分派として継承してる唯一の男だ。しかも、俺たちの流派が昔分断するきっかけになった、うちの先祖を殺した人間の末裔」

 明陽は自慢げに言う。

「ほんとに?今の人が?どうやって知ったんだ」

「探偵を雇った」

「へえ、でもほんとそれ?だってそれ、かなり昔の遠い先祖の話だろ。証拠は?」

「うるさいな、俺が大金を払って雇った探偵の調査にケチつけるなよ」

 明陽はパンフレットで忠誠を叩く。

「いやいや、ごめん。その話、すごく興味あるよ。たまたま彼にインタビューを申し込んでたけど、良かった。でも何でおたくの流派の継承者がプロの空手家をやってるんだろう」

「うちの流派?分派だって言ってるだろ、馬鹿。おい、あっちに言うなよ?俺が今からあいつに喧嘩売るんだから。まあ、先祖の復讐だな」

 格好つけながら自慢そうに語る明陽を見て、この人本気で復讐とか言ってるのかな、と思う忠誠。

「インタビューの返事がまだなんだ。無視されちゃったかな」

 せっかく坂本崇高が近くに来たのに、またどこかに行ってしまうのかと、彼らが出て行ったドアの方を気にしながら忠誠は言った。

「あいつ、こっちの言葉喋れる?」明陽が聞く。

「喋れるみたいだよ。父親が東京で空手道場をやってて、一度香港に道場を開いた時があったんだって。その時に一緒に来て住んでいたらしい。本人が小学生ぐらいの時にね。その後数年で、道場は経営不振で畳んだらしいけど。道場経営も難しいんだね」

「探偵の調査と合ってるな」

「そんなの彼の道場のホームページを見れば書いてあるよ。まあ、日本語でしか書いてないけど。それどこの探偵事務所だよ、信用できるのか?」

 兄貴とおんなじ反応しやがって、と気を悪くする明陽。

「香港の探偵事務所が、日本の探偵と協力してやってくれた。俺は大金を払ったし、書類もちゃんとしていて信用できる」今度お前にも見せてやるからな、と明陽は忠誠に言う。

「ちょっと俺、インタビューしてもらえるかどうか、聞きに行ってこよう」

 もし君の言う調査が本当なら、こんな凄い話はない、逃げられたら困っちゃうよ、と言いながら忠誠は明陽を置いて、通路に出て階段を上がって行ってしまった。

 忠誠はすぐに坂本崇高を見つける。

「すいません」

 忠誠は遠慮がちに声をかけた。

「坂本崇高さんですよね?私、武術系フリーライターの張忠誠と申します」忠誠は、崇高の語学力を試そうと、広東語で話しかけた。

「何か御用?」

 広東語で返してきたのは、コーヒーを持って戻って来た、付き人の女の方だった。彼女はコーヒーを1つ崇高に渡す。

「あなたも良かったらどうぞ」

 女がコーヒーを渡そうとするので、忠誠は、いいんです済みません、と遠慮した。

「ああ、こちらの言葉が喋れるんですね。あなたは?」

「そちらのご用件は?」女は答えず聞き返す。

「あの、2週間くらい前にインタビューを申し込んだ者ですが」

「ごめんなさい、知らないけど、いつ?」

「日付は覚えていませんが、メールで。そちらの道場のメールアドレスしか分からなかったので、そこに出しました」

 そう言った時、会場側のドアが開いて、明陽が門弟4人を伴って出てきた。女はそちらをチラっと見る。

「そうだったの。ごめんなさいね、気づかなくて。崇高はインタビューは受けないわ」

「あの、俺自身も武術をやっていて、空手にも興味があるんです。それでちょっとお話を」

「そう。ありがとう」女は忠誠の言葉を遮った。「もう出番だから、行くわね」

 女は崇高と去ろうとして、彼を振り返った。崇高は立ち止り、明陽のほうを不思議そうに見ている。

「さよなら」

 女は忠誠に言って崇高とその場を去る。

「あなた、何だか狙われてるみたいね、何かやったの?」女は冗談っぽく崇高に尋ねる。

「何であいつら、俺のほうをじろじろ見てたんだろう。喧嘩を売られてるのかな」崇高は同伴の女、林愛良はやしあいらに聞いた。

「あなたを見てたあの男、多分、蕭師匠の息子だと思うわ。二番弟子で、弟のほう」

「蕭師匠って、お前が尊敬しているとか言ってた、あの武術家の蕭師匠?昨日、先祖の墓参りした」

「そうよ」

「えらい目つきの悪い男だったな。何か俺に恨みでもあるような。お前の好きな蕭師匠って伝統武術の立派な人だろ?息子はあんななの?」

「そうね、私も息子のことはよく知らないけど」

「何だよ、こんなとこまで来て喧嘩売られるなんて」

「もう関係者席のほうに行くのはやめましょう。一般席のほうが近くて見やすいから、一般席のほうがいいわ」

 2人は崇高の演武の準備のため、控室に向かった。


 明陽は、2人に置いてけぼりをくらった忠誠の所へやって来た。

「何か分かったか」明陽は忠誠に聞く。

「インタビューを断られた。崇高とは一言も喋れず、女のほうが断って来た」

「あの女は何だ。あの男の妻か、恋人?偉そうな女だったな。何であいつが仕切ってるんだよ」

「分からない。広東語を喋ったけど、日本人だと思う」

「あの女、広東語を喋ったのか?」

「ああ、だけど、こっちとは関わり合いたくないような感じだったな。女のほうは名乗らなかったし」

「やっぱりそうだ。俺の先祖を殺したから、やましいと思って逃げたんだな。女もきっと何か知ってるぞ。女の方を捕まえて吐かせよう」

「だから、何でそうなるんだよ。向こうは君のことなんか知らないだろ。知らない人を見て何でやましいと思うんだよ」どうも明陽は、本気で坂本崇高を先祖の仇だと思い込んでいるようだ。

「有名じゃなくて悪かったな。でも、本当に分派の人間なら、蕭詠明しゅうえいめいの息子である俺のことを知ってても不思議じゃないぜ。こっちは正統派の継承者なんだから」

 正統派のほうが偉いんだと言いたげな明陽を見て、こりゃ兄に愛想つかされたから1人で偵察に来たんだな、と理解する忠誠。

「別に逃げた感じには見えなかったよ。それどころか身に覚えがないって感じで困惑してた」

「お前、あっちの味方するのかよ。分かった、お前、崇高の女狙いか?」

「何でそうなるんだよ」

「お前、スーツ着た女とか好きそうだもんな。それとも単にタイトスカートが好きなだけか?いやらしい奴だな。いい歳した男がそれくらいで興奮するなよ」

「もう勝手にしてくれよ。君が彼女に気があるんだろ?」


 控室には、準備をしている最中の崇高と愛良がいた。

「蕭師匠の息子のほうもちょっと様子がおかしかったけど、あの武術ライターとかいう男も、あなたのことを食い入るように見てたわよ。ひょっとしてあの人、あなたに気があるんじゃない?」

「やめてくれよ演武の前に」

「単にインタビューしたい以上に、何か聞きたそうな顔してるみたいに見えたけど、気のせいだったのかしら」

「お前に気があるのかもよ?俺のほうをそんなに見てたかな」

「あなたを見てたから、知ってる人なのかと思ったわ」

「知らないよ、全然。初めて会う人だよ」

「昨日、ホテルの夕食会でも会ってない?振興会の人にまぎれて取材に来てたのかも。私は気づかなかったけど」

 崇高は昨夜の空手振興会関係者との夕食会を思い出してみた。

「いや、やっぱり初めて見る顔だけど。あの男に、あいつらが何なのか聞いておいてくれよ。ああいうの、はっきりさせないとまたすぐ付きまとって来るぞ」

「そうね」

 外国に来て面倒なことになったら困る。しかも、今回は空手振興会の招聘で来ているから、渡航費用は振興会持ちの立場だ。そんな時に、まさにこの会場で事件でも起こしたらまずい。

「とにかく、さっきのことは忘れて頑張ってね。私は一般席にいるわ」

 崇高が演武を始める前に、愛良は会場の一般席にやって来た。

「すいません」

 張忠誠が声をかける。

 返事をせず、またあなた?という顔をする愛良。

「インタビュー、だめかな?ちょっとでいいんだけど。日本人の空手家にお会いする機会なんて、なかなかないもんで。あと、名刺、とっといて下さいね」

 忠誠は愛良に名刺を渡した。

 名刺の住所は台湾になっている。「台湾の、張さん?」「はい。台湾から来ました。是非インタビューを取りたくて」

 愛良が名刺を受け取った時、視線を感じたほうをふと見ると、明陽が一般席のほうに来ていて、こっちを見ているのが分かった。

「ねえ」愛良は忠誠に聞いた。「あの男、蕭明陽でしょ?何であの人がこっちをつけまわしてるの?さっきからじろじろ見てるのを、こっちはとっくに気づいてるわよ。しかも、あんまり好意的な感情は持ってなさそうね」

「それは、俺も分からないな」忠誠は笑いながらごまかす。

「あなたもさっき関係者席で、明陽と喋ってたじゃない」

「見てたんだ?」

「とぼけないで」

「じゃあ、君にいいことを教えるから」

「もう結構よ。演武が始まるから行って」愛良は近くの席に座った。

 忠誠は、行かない代わりに黙って愛良の隣に座り、一緒に演武を見ることにした。

 愛良はチラっと忠誠を見ただけで、特に反応しなかった。

「ねえ、あの、お名前は」忠誠は聞いたが、愛良は答えなかった。

「でもよく蕭明陽のことなんて知ってたね。顔も名前も知ってるなんて。彼、日本でそんなに有名かな」

 愛良は忠誠を見たが、彼女は答えなかった。

「いつ香港に来たの?昨日?」この質問も、当然のごとく無視された。

「実は俺、日本が大好きで、社会人になってから休職して東京の大学に留学したこともあるんだ。日本語も分かるよ」

 愛良は、へえ、そう?という風にうなずいただけだった。

「もう観光した?香港は初めて?どうしてこっちの言葉が喋れるの?」

 愛良は無視し、崇高の演武の決めポーズの所で他の観客同様、拍手した。

 忠誠も慌てて拍手する。演武は続く。

「崇高さん、かっこいいなあ」

 愛良は答えず、決めのポーズの所で、また拍手する。

「まだいる?」愛良は忠誠に聞いた。

「え?」

「明陽が後ろにいるかってこと」

 忠誠は振り返った。

「いるけど」

 愛良も振り返る。そして、どこに立っているのかを確認した。

「あの人、どうして見てるの?ところで、あなたは何よ」

「だから、明陽のことでちょっと情報があってね」

「何でいきなり、明陽の情報をこっちにくれるの?あなたはどういう立場?」

「だから、名刺の通り武術ライターですって。いろんな武術家を取材していて、彼の兄の明龍とは友人同士。弟の明陽とはインタビューではよく話すけど、インタビュー以外ではあまり話す機会のない、知り合い程度の関係だよ」

「つまり、あなたは向こう側の人間でしょ?私たちはあなたに用はないわ」

 やがて演武が終わり、崇高がこちらを見たので、愛良は手を振った。崇高も手を上げてみせる。

「俺はライターであって中立だから、向こうの人間じゃないよ。君、明陽を知っているなら、蕭師匠のことも知ってるよね。あそこの流派に分派が存在したのを知ってる?」

 愛良は少し間をおいてから忠誠を見た。

「さあ、そうなの?あなたはよく知ってるわね」愛良は興味なさそうに言った。

「俺は武術ライターだから、世界中の武術に詳しいよ。もちろん、この話はさっき明陽から聞いて初めて知ったんだけど、その分派を継承している男が、坂本崇高らしいんだ」

 彼女はそこまで聞いて、無表情で立ちあがった。

「そんな重要な話を、私なんかにペラペラ喋っていいの?それに、あなたは明陽とそんな話をするくらい親しいのに、何故こちらに情報をくれるの?怪しいわね」

「だって俺は、君たちの味方につきたいから。明陽にはこの情報は喋るなと言われている。でももし本当に坂本崇高が分派の継承者だとしたら、凄いことだよ。俺は君たちを守りたいんだ」

「その情報をどこから仕入れたか知らないけど、嘘よ。彼は空手以外には、柔道と合気道を少しやっただけ。蕭師匠のような、歴史ある中国武術の流派なんか受け継いでないわ。明陽にそう伝えなさい」

「でも、探偵を雇って調べたと言っているんだ」

「探偵ってどこの?そんなの嘘に決まってるじゃない。証拠なんかないでしょ。それに、崇高は蕭師匠のことなんて全然知らないわ」

「でも君は、蕭師匠には結構詳しいようだ。蕭師匠は素晴らしい武術家だよね。俺も好きだよ」

 愛良は、だから何?という目で忠誠を見た。

「私、控室に行かなきゃ」

 忠誠は、歩き始めた愛良について行きながらなおも話しかける。

「待って。実は明陽は、崇高に復讐するって言ってるもんで」

 愛良は立ち止まった。かなり機嫌が悪くなってきたらしい表情をしている。

「復讐?何言ってるの?だから、崇高は明陽のことなんて全く知らないって言ってるのよ。今日初めて会ったのに何の復讐?」

「明陽は、先祖を殺されたと言っている。殺した側の末裔が、崇高だと。崇高が明陽を見て逃げたのは、やましいと思ってるからだって」

「逃げてないわ。それ、蕭明陽が崇高に仇討ちをするって意味?昔の映画じゃないんだから、ふざけないでほしいわね」

 愛良は歩き出す。

「私たち、数日後には日本に帰るんだから、身に覚えのないことに煩わされたくないって彼に伝えて」

「伝えるけど、君は崇高の何?本人の代理で断ってるならそれなりの人でないと」

「私は彼の通訳よ。ただの通訳だったら、道理の通らない話を断っちゃいけないの?」

 何でそれなりの人じゃないといけないのよ?という目で忠誠を見る愛良。

「ただの通訳?でも、結構こちらの武術に詳しそうだ。君は何なの?武術家には見えないけど、もしかして武術家?」

「いいえ。あの」愛良は忠誠の名刺を見て名前を確認する。「張忠誠さん?情報には感謝するわ。でももう私たちのことは追わないで。味方をしてくれなくても大丈夫よ。私たち、どうせすぐ帰るんだから」

「これから、観光は?案内するよ」

「観光はしないわ。天気が良かったのは、昨日のお昼まで。もうすぐ台風が来るんでしょ、じゃあね」

 愛良は忠誠を見ずに歩き始めたので、忠誠はひとまず、彼女を追うのをやめた。

 愛良は控室まで来るとドアを開けた。崇高がシャワーを浴びている。

「崇高、お疲れ様。外で待ってるわね」

「ああ」

 愛良が控室を出たところのベンチで崇高が出て来るのを待っていると、明陽が門弟を引き連れてやってきた。張忠誠もいる。

 愛良がちらっと見ると、やはり明陽がこっちを見ていた。友好的な雰囲気ではない。

 愛良は迷ったが、やがて立ちあがり、控室のドアをノックすると中に入って行った。

 崇高はほぼ着替え終わっている所だった。

「昔は演武なんてへっちゃらだったけど、大人になってからやると結構緊張するもんだな。汗かいちゃったよ」崇高はタオルで髪を拭きながら言う。

「ねえ、どうするの。外であいつらが待ってるんだけど」愛良は腕を組んだ。

「待ってる?何でだよ」

「さっきの張忠誠っていう武術ライターが教えてくれたけど、明陽はどうも勘違いしてあなたを追ってるみたい。明陽は、自分たちの流派の分派の継承者があなたで、彼の先祖を殺した人間の末裔だと思い込んでるわ。すごく昔の話なのに、その仇討ちをしたいんですって」

「何だよそれ。そのライターとやらには勘違いって言ってくれたんだろ?」

 崇高は、荒唐無稽な話にはあまり興味がなさそうな様子で、帰る準備をしている。

「言ったけど、きっと明陽は信じないわ。探偵が調べた結果だそうよ。張忠誠も、半分はその調査を信じてそうな感じ。武術ライターさんにとっては特ダネなんじゃない?だからさっき興奮気味にあなたを見てたのよ」

「面倒なことになったな。探偵の言う事の方を信じるのか。その蕭師匠の息子って強いの?」

「こっちの武術大会で何度も優勝してる人」

 愛良は崇高を手伝うように、彼が使ったテーブルや椅子などの位置を元に戻してやる。

「お前もやけに詳しいな。そんなの相手に、俺が負けても嫌だけど、俺が勝っても叩かれるだろうな」

「武術ライターさんがこっちの味方をしてくれるって」愛良はふっと笑いながら言った。

「武術ライターって言っても、どうせジャーナリストでもないただの一般人だろ?味方ってどういう意味だよ。奴らから守ってくれる自信でもあるのかね」

 自分も武術家なのに、素人に守ってもらうのも気が引けるな、と思う崇高。

「まあ、単に有名人に張りついてブログ書いてるだけの素人ライターかもしれないわ。忘れ物ない?」

 崇高は荷物を持って周りを見た。

「ないと思う」

「私、もう一度外の様子見るわね」

「なあ、勝負だけならしてやってもいいよ?但し、仇討ちとか言われるのは嫌だな、人違いなんだし。誰と間違えてるんだろう」

「ドア開けるわよ」

 愛良が開けると、ベンチには先ほどと同じように、明陽と門弟数人、張忠誠が座っていた。

「いるけど、大丈夫よ、行きましょう」

 通路を真っすぐ歩いて出るには、ベンチに座っている明陽の横を通らなければならない。

「もし何か言われても無視して出ましょう。大丈夫よ、あっちはある程度の有名人だし、この会場で騒ぎなんか起こさないわ」

 愛良と崇高は並んで歩く。

 愛良はなるべく崇高を守るように、自分が明陽のいる側を歩いた。

 明陽たちはこっちを見ているが、こちらからは明陽たちを見ないようにし、すれ違う時に、愛良が威嚇するように明陽を睨んだ。

 それから、早足で出口へ急ぐ。

「追って来てるわ。信じられない。言いたいことがあれば言えばいいのに」

 振り返りながら愛良が言う。

「タクシーすぐ来るかな」

 エントランスを出た時、タクシーは何台もいたが、待っている人間も何人かいて、並ばなければいけない状態だった。

 愛良が振り返ると、忠誠が明陽たちを制止してから、彼だけこちらに来る所だった。話をつけてくれたのなら助かる。

「ねえ、勝負したいって言ってるんだ、どうする?」忠誠が、愛良と崇高の両方を見ながら言う。

「話をつけてくれたんじゃなかったの?勝負なんか、崇高にさせられないわ。怪我をしたらどうするの」

「じゃあちょっとこっちへ。駐車場に車を止めてあるから、逃げよう」

 忠誠は、2人を連れて早足で歩き始める。

「おい、張忠誠、裏切るのか!」

 後ろで明陽の怒鳴り声が聞こえる。

「大丈夫、明陽たちは車で来てないから」

 忠誠は安心させるように2人に言った。

 駐車場に来ると、2人を後部座席に乗せて、車は走り出した。

「なあ、君、張忠誠さん?何なんだあの男たちは」愛良から忠誠の名刺を受け取りながら、崇高が聞く。

「広東語喋れるんだね。俺も日本語は少し分かる」忠誠が答える。

「さっき明陽が、あなたを裏切り者って言ってたけど大丈夫?」あなたに迷惑かけて、ごめんなさい、と心配そうに謝る愛良。

「大丈夫だよ、明陽は多分、仇討ちの相手を誰かと間違えてるんだろう。だけど、しばらく注意したほうがいい。向こうは勘違いしたままだから」

「どこへ向かってるの?」愛良が聞く。

「そうだな、じゃあ、俺のお勧めの台湾料理の店に行かない?」

 崇高は緊張がとけて笑った。「いいよ。今日のお礼に奢るから、連れてってくれ」


 忠誠は、九龍の台湾料理店の駐車場に車を停めた。

「台風が早く過ぎないかな」

 忠誠はスマートフォンの気象情報を見ながら言った。

「これから数日、天気が最悪なんだ。野外の観光名所には行けないと思う。残念だったね」

 3人は店内に入った。

 テーブルにつくと、おいしいものを注文するから俺に任せて、と忠誠が注文し始めた。

「トイレどこかな?」

 注文が終わって、崇高が忠誠に聞く。

「あそこ」忠誠が指さす。

「ちょっとついて来てくれない?俺、外国でこういう店のトイレ、マナーがわかんなくて」

「え?普通のトイレだよ」という忠誠を、いいから、と崇高は連れ出す。

 愛良は、何なの?という目で見ながら、タブレット端末を取り出しwifiにつなぎ始めた。さっき忠誠に貰った名刺を取り出し、検索する。

「何?」トイレまで来て、忠誠は崇高に聞いた。

「お前、俺の彼女を狙ってるだろ」崇高は怖い顔で聞いた。

「いえいえ、めっそうもない。というか、俺が聞いたらただの通訳って答えてたけど、君の彼女だったの?いや、奥さんかなあなんて、思ってたんだけど」ごまかすように笑う張忠誠。

「まあ結婚はまだだから、奥さんではないと言えばそうかな」

「ああ、君たち、結婚の予定があるんだ」

「予定というか、将来は分からないけど、するかもしれないから。手を出すなよ?」崇高は脅すような表情で忠誠を見る。

「出しませんよ。彼女、すごく俺のこと警戒してたし」

「え、そうなんだ?ならいいんだけど」怖い目つきから一転する崇高。

「彼女の名前は?さっき教えてくれなくて」

「愛良。愛するの愛に良い、だよ。いい名前だろ。何だ、名前も教えてやってないのかあいつ。警戒心の強い奴だなあ。じゃ、戻ろうか」

 2人が愛良のもとに戻って来た時、愛良はタブレットで忠誠の素性を調べた所だった。

「張忠誠、あなた本当に武術ライターだったのね」

 愛良はタブレットで彼のサイトを見せた。

「そうだよ、愛良さん。本も出してるよ。日本では出版されていないと思うけど」

「疑ってごめんなさい。崇高、あとでインタビュー受ける?」

「ああいいよ」

 3人で食事をしながら、世間話が始まった。

「ところで、彼女とはいつ結婚のご予定で?」

 忠誠に聞かれて、崇高が飲み物を吹き出す。

「誰と結婚するの?」愛良が忠誠に聞く。

「愛良は恋人、みたいなもの、っていう意味」崇高は忠誠に言う。

「あなたさっきトイレでそんなこと言ってたの?恋人じゃないわよ」

「だけど、かなり親しい友人だろ?」崇高は言い訳する。

「友人は友人だけど彼女じゃないわ。あなた私の見ていない所で、よくもそんなことを言ったわね」

 忠誠は2人に、まあそう熱くならずに、となだめる。

「そう言えば、あの明陽って男はどういう男なんだ?詳しい君に聞きたい」崇高が忠誠に聞く。

「彼は、中国伝統武術の名門で、蕭家の息子の蕭明陽。最近の武術大会で、出場した大会では全て優勝している。ちなみに彼の上に明龍っていう兄がいるんだが、本当は兄ではなく、いとこなんだ。兄のほうは、実際は蕭師匠の弟の子供だよ。訳あって兄の明龍が蕭師匠の最初の子供ということになっていて、彼が一番弟子、弟の明陽が二番弟子。2人とも同じ道場の師範と師範代で、兄が道場の館長、弟が副館長をしてる。兄は何年か前に一度だけ武術大会に出てて、その時は兄が優勝、弟が準優勝だった。兄の方はすごく優秀な男で、武術家としても人物としても、業界内の評価がかなり高いんだ」

「弟がひねくれてるパターンか。兄貴はもう武術大会には出ないの?」

「本人はそういうの嫌いみたいなんだよね。才能はあるのに目立ちたくないみたいなんだ。優秀だし、ルックスもいいから、みんなが騒いだりもてはやしたりするんだが、それがすごく嫌なんだって。彼は修行さえしていれば満足なんだよ。それで一時期、修行にのめりこみ過ぎて、何て言うか、ちょっと精神的にまいってしまってみたいで、完全に引きこもってしまったんだよね。真面目な人によくあるだろ?俺は以前は飲み友達だったんだが、彼はだんだん友人との関係を断ってしまって、俺とも会わなくなってしまった。今はだいぶ回復したようだって聞いてる。連絡をとらなくなってしまったから、どんな風かは分からないけど。いい機会だから今日電話してみようかな」

「そう言えば、蕭師匠って、お前が昨日墓参りに行った蕭師匠だよね?」

 愛良は、崇高の言葉を遮るように、さっと彼の顔の前に手を出した。

「ちょっと、そういう話しないで」

「お墓参り?どうして蕭家のお墓に?」忠誠は聞いた。

「何でもないの」

「彼女、蕭師匠のことすごく尊敬してるらしいよ。武道家として」

「それ以上言わないで」愛良は崇高を睨む。

「君は武道家なの?」忠誠は愛良に聞く。

「そうだけど大したことないわ。今回は通訳で来ただけだし。お墓参りに行ったのは、私は師匠を尊敬してるから、ちょっと師匠のご先祖にも敬意を示したかっただけなの」

「へえ、俺も蕭師匠が大好きなんだ。あの人凄いよね。本当に尊敬するよ。君は何をやってるの?空手?」

「空手と」崇高が代わりに言おうとして、愛良がいきなり手を伸ばし、黙りなさいよ、と崇高の口をふさいだ。

「空手だけ。あと、短期間で柔道とかやったけど。受け身の練習するためだけに。あと、相手に合わせる練習で合気道を短期間ね」

 愛良は崇高の口を離してから、汚い、と言いながら手をペーパーナプキンで拭いている。

「お前何するんだよ」

「プライベートな事だから、黙っててくれない?私は一般人なのよ?」情報漏洩よ、会社でもだめでしょ?と愛良は崇高を叱る。それを見て、2人は会社の同僚なのかな?と考える忠誠。

「あとは単に、護身術的なものよ、ちょっとしたね」

 愛良は忠誠に言いながら、崇高を視線で制止した。

 そんな愛良と崇高を見て、忠誠は、ああこの2人は本当にただの友人だし、愛良のほうは崇高に容赦しない関係なんだな、と思った。


「もしもし、蕭明龍?久しぶりだね、張忠誠だけど、元気?」

 何年ぶりかで、友人だった蕭明龍に電話する張忠誠。

「ああ、久しぶり。元気だけど、どうしたの?」

「今、香港に来てるんだ」明龍が以前と変わらないようなので、忠誠は安心した。

「実は明陽のことだけど、ちょっと今、話してもいいかな」

「もしかして、仇討ちの話?」

「そうなんだけど、仇討ちのこと、知ってたのか。君はどれくらい知ってるの?今日、日本人の空手家の男性が、東アジア大会の会場で明陽にからまれたんだ。俺がたまたまインタビューを申し込んでた相手で、俺はレンタカーで来てたんで、車で逃がしたけど」

 電話の向こうで、明龍の、怒ったような溜息が聞こえた。

「あいつ本当に喧嘩売りに行ったんだ?仕方ない奴だな。実は俺も弟に誘われて断ってたんだ。今日も関係者席が取れたからって言われたけど、俺は行かなかった。でもごめん、迷惑かけたな」

「いや、いいんだ、こっちもそれが原因でインタビューがスムーズにいったっていうか、結果的には良かったからむしろ感謝してるよ。だけど、俺は最初に明陽からその仇討ちの話を聞かされてたから、彼らが因縁をつけられないように逃がしたんだけど、その時に明陽から裏切り者って言われたんだ。だから、君には悪いんだけど、明陽のこと、彼らに対して変な気を起こさないように見てやってくれるかな。彼らは数日後に日本に帰るらしいから、その数日だけ。俺はちょっと明日から彼らの観光を手伝うことにしたんだよ」

「彼らって、そっちは複数なの?」

「空手家の坂本崇高って男と、通訳の女性の2人だけだよ」

 ああ、その名前、確かに弟が追ってる男だよ、と明龍は認める。

「とにかく弟には言い聞かせておくよ。ところで気になってるんだが、弟が言っているように、本当にうちの先祖を殺した男の末裔が、その空手家なのかな?違うんだよね?」

「それは分からないよ。その崇高って男は違うって言ってるし、通訳も、彼はそんな流派の拳法習ったことがないはずだから人違いだって言う。もちろん、実際子孫だったとしても、本人が先祖のことを知らなければどうしようもないけどね。明陽は資料を見て信じ切ってるみたいだよ。だから、本人が違うって言っても信じないと思う。明陽は、坂本崇高が先祖の仇であってほしいだろうし」

「もし資料が本当なら、分かれた流派を継承しているかもしれないから、会えるなら会ってみたいとは思ったけど、やっぱり違うのか。そうだよな。俺も継承者が空手家なのはおかしいと思ってたよ」

「坂本崇高と喋ってみたけど、嘘をついているように見えなかった」

「そうか。ありがとう」

「いや。ねえ明龍。本当に元気なの?」

「ああ、元気だよ。心配かけたかな。悪かった」

「元気ならいいんだ。噂では、凄く痩せたって聞いたから」

「そんなに痩せたわけじゃないよ。一時期、少し体重が落ちてから、なかなか戻らなかったのは確かだけど、今はもう以前の体重に戻ってるし、筋肉もちゃんとついてるよ。修行もちゃんとしてる」

「良かった。それじゃ、また電話するよ」

 忠誠は電話を切り、明日に備えて早めに就寝した。


 02_観光の日


 午前中、まだ門弟が来る前の道場で、明龍は1人で稽古に励んでいた。

 そこに明陽が通りかかる。

「おい。昨日どこに行ってた?」

 兄に呼びとめられて立ち止まる明陽。

「別に、ぶらぶらしてたよ」

「そうか」明龍はやってきて弟の前に立った。「ちょっとそこへ座れ」

 明陽はしぶしぶ、そこにあった椅子に座った。

「お前昨日、日本人に喧嘩ふっかけそうになったんだってな」

「張忠誠だろ。あいつしかあそこにいなかったからな。何でわざわざ兄貴にチクリを入れるんだか」

「お前、いいかげん武道家としての品格を身につけろよ。他人を挑戦するなとは言わんが、もし挑戦するなら、ちゃんと相手にお伺いを立てろ。向こうも武道家だ。礼儀をわきまえれば受けてくれるだろう。だが、単に不正確かもしれない情報で仇討ちだとか、日本人が嫌いだとかそういう理由だったら許さんぞ」

 知らない人間をいきなり侮辱するなんて、と明龍は怒る。

「兄貴、本当にあいつなんだって。兄貴も手伝ってくれよ。資料読んだだろう?」

「確かにあの資料は本物っぽく書いてあったけど、内容が絶対に正しいかどうかは、俺たちに判別できないだろ。途中までは事実と合ってても、最後だけ間違っている可能性もある。それに、もし情報が正しかったとしても、清朝中期に先祖同士が起こした事で、彼がお前に責められるのはおかしいだろう。あれは試合中の事故だぞ。殺意があって殺したんじゃない。例え殺意があったとしても、同じだ」

「でも、俺たちの流派が分派と別れるきっかけになった、大きな事件じゃないか」

「大きな事件だったら何だ?過去の話だ」

「じゃあ、ただの挑戦でいいかな。俺、日本人嫌いだし。ぶっとばしたい」

「お前いつから反日になったんだよ。先週、彼女に振られてからの、にわか反日か?とにかく、日本人が嫌いなのは構わんが、外でそういう政治的な発言はするなよ。蕭氏の息子が反日だとか言われるんだからな。お前がアップしている師匠の動画も、4分の1くらいは日本からのアクセスだろう?」

「10パーセントもないくらいだよ。それに俺が反日でも、兄貴や張忠誠が親日だからバランスが取れてるじゃないか。兄貴、ちょっと俺、友達と約束してるからさ」

 明陽は兄をごまかして出て行こうとした。

「友達って誰だ?俺も行く」

「いや、関係無い人は来ないでよ」

「どうせまた、その日本人を追い回しに行くんだろう。忠誠が観光に連れていくとか言っていたぞ。お楽しみを邪魔するな」

「何でこんな天気の悪い日に連れ出すのかな。まあ、とにかく張忠誠がからんでると思ったから、友人に、あいつの宿の前で張ってもらってる。あいつがこっちに来る時の安宿は、いつも同じだからな。台湾人がいっぱい泊まってるあそこ」

「俺も一緒に行くよ。取りあえず先方には俺から謝る」

「兄貴、忠誠に何か言われて勘違いしてるな。俺は昨日、日本人とは喋ってもいないんだぜ、付き人の女とも。奴のどこにも触ってないし何もしてない。忠誠は大げさなんだよ。俺は忠誠としか喋っていない。兄貴が謝るようなことはしてないよ」

「そうか、なら安心だ。とにかく久しぶりだから、俺も張忠誠には会うよ。連れてけ」


「おう、ご苦労さん」明陽は男たちに声をかけた。

「あ、師範代。張忠誠さんはまだ姿を現してませんよ」

 門弟が4人いる所に、明陽はやって来てバイト代を渡した。

「お前、友人じゃなくて門弟じゃないか。師範代の立場を利用して門弟にやらせたのか」明龍は弟を責める。

「バイト代ほしいっていうから、協力してやったんだよ。普段はこんなことしていない。今回は、先祖の仇討ちに関わる重大なことだから」

 明陽は、今のは先払いだからお前たちはまだ帰るなよ、と言っている。

 明龍は、何が仇討ちだよ、と苛々しながら携帯で張忠誠に電話する。

「ああ、忠誠?おはよう。本当に悪いんだけどさ、今、君が泊まってる宿のフロントにいるんだ。弟が君をつけて日本人に会おうとしてるから、叱ってるとこ」

「え、今、下に来てるの?2人で?早いね」忠誠は笑う。

「ああ、俺たちと、何故かうちの門弟4人な。本当に済まないな。弟が朝から、門弟たちに君を見張らせてたんだって。今、叱ったから。二度とさせないよ」

「ああ、別にいいんだよ。君に会えるのは嬉しいな。例の日本人2人に会いたいの?」

「謝りたいんだよ。でも、向こうは会いたくないって言うだろうね]

「ちょっと下に行くよ」

 しばらくすると、忠誠は蕭氏兄弟の所に現れた。

「明龍、久しぶりだね。元気そうじゃん。良かった、変わってないな、安心したよ」

 明龍は忠誠に、心配かけてごめんな、と謝る。

「お前、何を親しげに、あんなしょうもない日本人とつるんでるんだよ」明陽はいきなり、忠誠に喧嘩をふっかける。

「君が仇討ちなんて物騒な事を言い始めたもんだから、俺としては向こうを守らないわけにはいかないだろ。もしかして、本当に君たちの分派の継承者かもしれないのに。そんな貴重な人物を危険にさらせないよ」

「お前、どうしたんだ?分派の話なんて、俺が話すまで知りもしなかったくせに、急にあいつらの肩を持ったりして。貴重な人物なんて、俺たちが言うなら分かるが、お前はうちの門派と全然関係ないじゃん。台湾人のくせに」

 おい!と明龍は弟の肩を小突く。

「関係あるよ。俺は蕭師匠が好きだし、俺と明龍は友人だし、あと、俺はもともと日本びいきだしね」

 しかし明陽は鼻で笑った。

「兄貴、騙されるなよ。こいつは坂本崇高の女が目当てだぜ。昨日会場で会ったばかりなのに、女が崇高と別れた途端、いきなり女につきまとってしつこく話しかけてたからな。女が取材を断ってるのに、必死で食いついてた。崇高の取材で来たくせに、なんで女とばかり話してんだか」

「崇高とは話したくても、演武の準備でいなくなってしまったからね。彼のことを聞き出すには、彼女と話すしかなかったんだよ」

「女性のほうはどんな人?」明龍が忠誠に聞いた。

「偉そうな女だったよな、俺の事睨んだし」忠誠が答える前に明陽が言った。

「君は明らかに崇高を狙ってたから、彼女が君を警戒するのは当然だよ。俺も君の仲間だと思われて、最初は彼女にすごく警戒されてたくらいだから。名前を聞いても教えてくれなかったし」

「お前が相当いやらしい変態男に見えたんだろうな。男の俺から見ても気持ち悪かったよ。第一、会ったばかりの女の隣に、許可も取らずに即座に座る神経が分からないね。他の席空いてんだぜ?離れて座れよ、みっともない。無視されてるのに鼻の下伸ばして一生懸命話しかけて、情けない男だな、この変態。あんな女がそんなに好みだったか?趣味の悪い奴だ。お前マゾだろ?」

「ああ分かったよ、君の好みではないんだね。別に構わないよ。そう言えば、彼女は君のこと知ってたぜ。君の顔見て、あれ蕭明陽でしょ、って言ってたから」

 明陽が少なからず驚いた顔をしたので、忠誠は笑った。

「彼女も蕭師匠が好きらしいよ。尊敬してるって。ネットでも見たのかな?君の顔も名前も知ってたから、俺も驚いたよ。だから、ただの通訳じゃなく、彼女も武道家なのかなと思ったら、そうなんだって。それにしても蕭師匠は有名人だけど、あくまで武道関係者の間での有名人だろ?その息子の顔と名前まで知ってるなんて、日本人にしては結構詳しい人だよね。日本にそんな人がいたなんて、俺、嬉しくなっちゃったよ」

「じゃあ俺のことも知っててくれてるかな」明龍は言った。「どんな女性?本当に日本人なの?」

「坂本崇高と日本語で喋っているのを聞く限りでは、日本語ネイティブに聞こえた。広東語もうまいけど日本語訛りみたいなのがあったから、純粋な日本人だと思うよ」

「兄貴の好みじゃないから、やめとけよ。すごく感じが悪くて偉そうで、嫌な女だったから」明陽は言った。

「一緒に食事したけど、2人ともいい人たちだったから、明陽の見解はどうあれ明龍、君とは彼らと友達になってほしいな」

「何で俺を仲間外れにするんだよ」明陽は文句を言う。「兄貴を丸めこむなよ。いい人かどうかなんて分かるかよ。あんな感じの悪い女とつるんでるような人殺しの末裔だぜ」

「お前は何年前の話をしてるんだよ」明龍が弟に詰め寄る。「清朝中期が何年前か言ってみろ、それすら言えないくせに。しかも、坂本崇高は結局末裔じゃないらしいし」

「本人の言い逃れを信じるのかよ、探偵の調査の方が客観的だろ」

「お前が見つけてきた探偵の調査より、自分の友人の見立てのほうを、俺は信じるけどな」明龍は弟に言う。

「彼らと敵対するんじゃなく、友人になるつもりがあるなら、君も会わせてあげるけど」忠誠は明陽に言い、明龍には、君は一緒に来るだろ?と聞いている。

「お前、偉そうだな。日本人とちょっと知り合いになったくらいで、自分まで偉くなったと勘違いしてるだろ。何が会わせてやるだよ」明陽は語気を荒げる。

「武道家同士で敵対しちゃだめってことだよ。君、蕭師匠の息子なのに、父親の教義に反してるぞ」

「息子だからって親父のコピーにならなきゃいけないのか?俺は独立した1人の人間だぞ。とにかく俺にも会わせろよ。俺が大金払って依頼した探偵の調査が合っていたかどうか、確かめるんだから」

 息巻いている明陽を見てから、明龍と忠誠は顔を見合わせる。

 まあ取りあえず連絡を取るよ、と忠誠は携帯を取り出した。


「あ、ミリタリーショップがあるわ」

 張忠誠との待ち合わせ場所へ、坂本崇高と行く途中に、愛良は店を見つけて立ち止まった。「ちょっと入ってもいい?」

 愛良は崇高に聞きつつ、既にその怪しげな店に足を踏み入れている。

「はあ?何買うんだよ、こんな怪しげなところで。入るなよこんな店」

 崇高が愛良の腕を掴もうとするので、愛良はすっと逃げて店内に入ってしまった。

「あなたが変なのに襲われるといけないから、威嚇用のナイフでも買おうと思って」

 愛良は崇高の忠告を無視してどんどん店内に入って行く。

「警戒しすぎだって。そんな物騒なもの買うなよ。空港の手荷物検査で取られちゃうから日本に持って帰れないよ」

 崇高は愛良の後を追う。

「ただの威嚇用よ。刺さないから。いいでしょ。それに手荷物じゃなくスーツケースに入れればいいだけだもの」

 愛良は近くにあった折りたたみナイフを手に取って、出したり入れたりを繰り返し使用感を確かめた。

「ああ、危ないなそういう持ち方。ちょっと見せてみろ」

 崇高は愛良から強引にナイフを奪う。

「これくらい小さくても、十分脅しにはなるでしょ?」

 愛良は言うが、崇高はナイフの刃を出して、どれだけやばい凶器かを確認する。

「ならないよ。だめだ、こんなもの買っちゃ。お前、人殺しにでもなるつもりか?」

 崇高は、愛良が手を伸ばすのを制止して、ナイフを元の場所に戻す。

「お前、こんなもので人を脅すなよ?凶器だぞ?」

「あなたがあいつらに殴られて入院したら、これでりんごむいてあげるわ」

 愛良は崇高の隙をついて、彼が戻したナイフを取った。

「やめろって、こんなもの持ち歩いてどうすんだよ。危ないからやめろ」

「大丈夫よ、悪用しないから」

 愛良は聞く耳を持たずにレジに持っていった。

「やめろよ、本当に買うのかよ。俺だけは刺さないでくれよ」

 愛良は満足げに買ったナイフをバッグにしまった。「威嚇用だから。心配しないで」

 2人は張忠誠との待ち合わせ場所へ向かった。


 03_決闘


「あの男が坂本崇高か。実物を見るといい男だね。隣の人は通訳って言ってるそうだけど、やっぱり奥さんか恋人かな。2人とも、かっこいいじゃないか」

 明龍が、忠誠との待ち合わせ場所に姿を現した崇高と愛良を見ながら、弟に言う。「お前、単に彼が日本人でいい男だから、喧嘩ふっかけたくなっただけじゃないのか?女連れだし」

 忠誠は日本人2人と話しているが、2人の表情から察するに、迷惑がっている様子だった。

「何で兄貴まで向こうの味方をするかな。あれ奥さんじゃないよ。指輪してないじゃん。彼女でもなさそうだな、べたべたしてないし」

「お前、あんな強そうな男に挑戦して大丈夫か。腕をへし折られたら、いくら何でも師匠にばれるぞ。それとも何か、お前は女性の前でいいとこ見せたいだけじゃない?」

「俺の好みはヤンヤンちゃんやナナちゃんみたいな、可愛らしいグラマー女なんであって、ああいう女じゃないよ。兄貴はああいう、性格の悪そうな、格好つけた女がいいんだ?趣味わる」

 忠誠は、まず日本人2人を置いて、こちらへ戻って来た。

「待たせてごめん」

「あの男に挑戦したいってちゃんと伝えてくれたのかよ」明陽が言う。

「ちょっと待て。向こうの言い分は、探偵の調査は誤解だから、挑戦は受けないと言っている。あと、明龍、謝罪とかはいらないから、もうつきまとわないでくれと」

「嘘をついてるんだよ。勝負すれば分かる。俺たちの流派の型が出るだろうからな」明陽はウォーミングアップをしながら言う。

「おい、お前も思い込みすぎだ」明龍は弟を叱る。

「お前は自分の都合のいいように解釈をするだろうから、空手の型でも俺たちの流派の型が出たから本人だとか言い出すだろ」

「じゃあビデオでも撮って、全員で判定すればいいじゃん」

「だから、そんなこと向こうに失礼だろ。向こうは俺たちに何もしていない。ただ武術大会に招かれて来ただけだ。たまたまお前が依頼した調査結果のタイミングが、彼らが来る日程と合っただけで、そんな疑いをかけられたら向こうも迷惑だろ?」

「兄貴も分派がどうなったかを知りたいんだろ。あいつ、例え本人じゃなくても、該当の人物を知ってるかもしれないじゃないか。口を割らせようぜ」

 明陽が兄にそう言っている途中で、忠誠は後ろの日本人2人を振り返って、首を振った。

「私、行ってくるわ。あなたは来ちゃだめ」なかなか話がまとまらないのにいらついた愛良が、崇高をそこにとどめて1人でやって来た。

「何してるの」愛良は交渉が長引いているのを咎めるように忠誠を見てから、兄弟を見る。「あなたたち、誤解してるわよ。人違いなのは明白なんだからもうついて来ないで」

 愛良は行きましょ、と忠誠に言って、その場を去ろうとした。

「ちょっと待って」忠誠は、愛良を引き止める振りをしながら、さりげなく彼女の肩を抱いて引き戻す。「愛良、いいこと思いついちゃった。俺に任せて。平和的にいこうよ」

 はあ?という目で忠誠を見る愛良。

「ああ、そうだな、俺たち自己紹介しない?」と言いながら明龍は忠誠に、よし、と目で合図した。

 愛良は自分の肩を遠慮がちに抱いている忠誠の手をどかすと、とういうこと?という目で忠誠を見る。

「じゃあ先に彼らを紹介するね」忠誠が愛良に言う。そんなものいらないわよ!と小声で咎めながら、愛良は忠誠を見たが、忠誠は強引に紹介を進める。

「まず彼が、俺も君も尊敬している蕭師匠の一番弟子、蕭明龍」忠誠は愛良に、明龍を紹介する。「で、彼が弟の明陽」

 明龍は笑顔で手を差し出したが、愛良は意地でも反応しなかった。その態度を見て明陽が愛良を睨む。

「そして彼女が、林愛良。坂本崇高の通訳だね。向こうにいるのが空手家の坂本崇高。今回は空手振興会の招聘で来たんだって」

 愛良は、もう行きましょうよ、と言いたげに忠誠を見るが、忠誠は気づかないふりをしている。

「ねえ、愛良」明龍が愛良に言う。「今回の事は、本当に悪かったから謝らせてくれ。俺の弟が調査を依頼した探偵会社が、弟の探している人物と君の彼氏を間違えたみたいだ。弟がこだわるのは、その人物がうちの流派の分派の拳法を継承しているらしいからだよ。そういう人がもしいるんなら、対戦してみたいから。ただそれだけなんだ。結果的に追いかけ回すみたいになっちゃって、悪かったね」

「その資料を持ってるなら今、見せて」持ってきていないだろうと踏んで、愛良は言った。

「今は持ってないよ。家にある」

「私たちに会うんだったら、そんな重大な証拠は持って来るべきよ」

「ああ、その通りだ。済まない」

「おい」明陽は割って入る。「お前、うちの兄貴になんて口のきき方するんだよ。お前、たかが通訳だろう?偉そうに。こっちは武道家として重要な話を」

「とにかくもうこれでさよなら」明陽が言い終わらないうちに、愛良は彼を無視して明龍のほうだけを見て言った。「私たち観光するから、もうつきまとわないで」

「でもさ、せっかく知りあったんだから。そう言えば、忠誠の話によると君は、うちの蕭師匠のことを応援してくれているそうだね」

 愛良は忠誠を見た。余計な事言ってくれたわね、と小声で言う。

「いや、いい話だから、したほうがいいと思って」「話が長くなるじゃない。何のための仲介役よ。大体さっきから自己紹介とか、あなたね」

 愛良と忠誠の間で喧嘩が始まりそうになったので、明龍は彼女の目前に割り込む。

「そう言えば君に聞きたいことがあった。探偵の調査がもし違うというなら、君はうちの流派の分派とか、その継承者のことについて、何か心当たりない?こういう人物に聞けば分かりそう、とかさ」

「知らないけど、もし知ってたとして、それでどうするの?」

「不幸にして、俺たちの流派が過去に分派と別れたけど、分派をどういう人が継承して、今どうなっているかを知りたいんだ、復讐とかは関係なくね。俺はその人物と平和的に交流したいと思う。俺は蕭師匠の一番弟子で、この流派について学んでいるが、もっと理解を深めたいと思っているんだ。流派が二つに別れたいきさつは、昔、試合中の事故がきっかけだったと聞いている。だが分派がその後どうなったは分かっていない。もし現代まで継承している人物がいたとしたら凄いことだ。俺は是非その人に会いたいと思うし、どんな人物なのかとても興味があるんだ。そして、もし会えるなら、その人と友人になりたい」

 愛良はそれを聞いてうなずいた。

「そう。ごめんなさい、残念だけど私は知らないわ」

 愛良が態度を軟化させたように見えたので、明陽は、この女、兄貴がいい男だからコロっといったな、と思った。

「それに、あなたがいくら平和的に交流したくても、あなたの弟はその人物を殺す勢いよ。先祖の仇討ちとやらで」

 愛良は明陽を見て、ふん、と馬鹿にしたように笑った。

「おい」しびれを切らして崇高がやって来た。

 それを見て、あなたは来ないでって言ったでしょ、と愛良は崇高に怒る。

「何やってんだよ。もう面倒だから挑戦を受けていいよ」崇高はそう言ってから、愛良が制止しようとするのをどかして、明陽に「挑戦を受けるぞ」と言っている。

「やめてよ。怪我するわ」愛良は止める。

「怪我なんかしないよ。しても大したことないよ。それよりつきまとうのをやめさせようぜ。どうせ俺のほうが強いんだから見てろって。すぐに決着をつけてやるから」

「ええ、あなたが強いのは分かるけど、あなたが他人を怪我をさせてもだめなのよ」愛良は言ってから、兄弟を見る。「挑戦は受けないわよ。どちらにも怪我してほしくないから」

 しかし崇高は、来いよ、と手招きする。

 明陽は、崇高に掴みかかろうと前に出たが、愛良が止めた。

「手出ししないで。彼に何かしたら私が許さないわ。警察を呼ぶわよ」

「お前、そういう冷たい表情してるけど、この男に相当惚れてるんだな、顔に似合わず夜はメロメロか?」

 明龍が弟を咎めようとした時、愛良は言った。

「頑張って挑発してるつもりかもしれないけど、発想が幼稚ね」愛良は明陽を見て嘲笑しながら言い、明龍を見た。「おたくの坊や、ただ暴れたいだけの子供ね。ちゃんとしつけておきなさい」

「ああ、君の言う通りだよ。済まない、失礼な事を言って」明龍は、いい加減にしろ、と弟の肩を殴る。

「挑戦は受ける。かかって来い」崇高は明陽に言う。

 愛良は「だめよ」と言いながら崇高の前に出て、明陽に近づかせないようにしてから明龍を振り返る。

「明龍、やめさせて。彼は強い空手家だけど、そっちの流派と空手は全然違うのよ。違うルールのもとで戦わせないで」

 明龍は弟を羽交い絞めにする。

「ああ、だけど、空手と全然違うなんて、何で君、うちの流派にそんなに詳しいの?」

「あなたの師匠の動画をたまに見てるから、少しは知ってるわ」

「それは光栄だな。でも、少し知ってる程度の知識じゃないだろ?どうやってうちの師匠のことを知ったの?日本でそんなに有名だったかな。君も武道をやってるらしいね?」

「ほんの少しよ」

 明龍は、羽交い絞めにした弟を後ろに放ったので、後ろにいた門弟たちが明陽を受け止める。

「じゃあ折衷案だ」明龍が崇高に言う。「まず、弟じゃなく、門弟と戦ってみてくれないか。それで、大丈夫そうなら、弟の挑戦を受けてくれ。弟がもし君の強さを見て怖気づいたら、やめよう。その時はこちらが謝罪する」

「何でもいいから早く決着をつけさせてくれよ」崇高は言った。

「いいね?」明龍は愛良に聞いた。「乗り気じゃないけど、いいわ」

「お前も頑なに俺たちを対戦させないようにしてるな?」崇高は愛良に言う。「何でだよ、何がまずい?相手を殺したりしないよ」

「明陽は蕭師匠の息子だからよ。有名人の息子に怪我させちゃいけないわ。あとあなたも、空手振興会の招聘で来てるんだから、もめ事を起こさないで」

「この程度のこと、振興会になんかばれないから大丈夫だって。それに俺は、ただのお飾りで呼ばれただけで、会にとって重要な人物でもないし。お前こそ何で急に仕切り始めるんだよ」

「あなたはあっちの拳法を知らないでしょ?だから心配してるの」

「お前は何でそんなに詳しいんだ?蕭師匠の演武をネットで見てるのは知ってるけど。それだけだろ。俺もお前と一緒に見てたことあるけど、武術として対戦できないほど大きな違いはなかったと思うけど?」

「つまりごたごたするのが嫌なの。やめてよ、こんなつまらない、ただの喧嘩みたいなこと。本当に下らないわ。あなたほどの武道家が、こんな言いがかりに乗せられるなんて」

「分かったから、とにかくそこをどいてくれ。俺が受けるっていったら受けるんだよ。お前が邪魔する理由なんかないだろ」

「だって何かあったら、止めなかった私が責任感じるじゃない」

「そんなこと気にしてたのか?何もないし、責任なんか俺が取るよ。ちょっとどいてろよ」

 崇高は愛良を、強引に横へ押しやった。

 忠誠はまたチャンスとばかりに愛良の肩を抱くようにして崇高から引き離した。

 愛良と忠誠、明龍と明陽は、それぞれの陣地から、崇高と門弟1人の対戦を眺めることになった。

 お互いの構えから始まる。

 崇高は1人目の門弟と対戦を始めたが、ものの一分で相手を倒してしまった。「次はお前か」彼は次の門弟を指差した。「かかって来い」

 え?俺?ととまどう門弟の背中を「行け」と思い切り蹴飛ばす明陽。

 崇高が2人目の相手をしている真っ最中に、最初に倒された男が起き上がって崇高に後ろから向かって行こうとしたので、愛良がその男の背後に近づき足払いを食らわせ。、男がバランスを崩して倒れそうになった時に腕を掴んで後ろに回す。

「やるじゃん彼女、かっこいいな」明龍は感心したように弟に言う。「どこが、野蛮なだけの嫌な女だぜ?兄貴も趣味が悪いな。兄貴が付き合ってきた女って、大人しくて優しくて知的な感じだっただろ?あいつ、どれも当てはまらないじゃん。礼儀知らずだし、どこがいいんだか。あんな女、兄貴に似合わないよ」

 愛良は男の後ろを取ったまま兄弟のほうにやって来る。

「あなたたちの道場では、こういう卑怯な攻撃をしろと教育をしてるの?」

 愛良は男を明陽に向かって突き飛ばした。明陽は突き飛ばされた男を受け止め、こら、と言いながらその男の頭を軽くはたく。

「殴ってやったぞ。これで満足か?」

 愛良は表情ひとつ変えずに行こうとした。

「待て」明陽は呼びとめる。

「お前もあまり調子に乗るなよ。お前の彼氏は、見たところ全然大したことない。こっちは理由があって挑戦してるんだ」

「あなたは、言いがかりと正統な理由の区別がついてないわ。こっちはそちらに不当な喧嘩を売られてるのよ。武道家ならお互い尊敬し合って戦うべきだわ。憎しみじゃなくね」

 愛良は元いた場所に戻って行った。

「いいこと言うな、彼女」明龍は弟に言う。「はあ?綺麗ごとじゃん、まるでうちの親父みたいな古臭い考え方だ。武道家だからってそんなに毎回、お互いを尊敬しながら戦うかっていうんだよ。今時そんな奴いないだろ。兄貴、いつの間にあの女に腑抜けにされたんだ?ああ情けない」

 崇高は2人目を倒した所だった。

「まだいけるぜ。お前はまだ俺に挑戦しないのか」

 崇高は明陽に言った。

 明陽が一歩出ようとしたので、明龍は手で遮って止めた。

「おい明陽。彼は人違いだ。本当に空手の技しか出していない。こちらの流派の拳法は学んでいないぞ」

「確かに、戦い方は全然違うみたいだけど、挑戦したんだから戦わせてくれよ」

 崇高は、来い、と手で合図している。

 明陽は手で指図されたのが気に入らず、崇高に飛びかかっていく。

 心配そうに見守る愛良に、忠誠はスマートフォンを片手に「大丈夫。今、警察呼んだから。明龍が一芝居打ってくれることになってるよ」と教える。

「そうなの?」

「ああ。今、彼と連絡し合った。大丈夫だよ。その間、ちょっとだけ勝負を見させてもらおうよ。君はあの2人の戦いに、興味ないの?」

 愛良は聞こえていないようで、戦う2人から目を離さない。

「彼が心配なんだね」

「当たり前でしょ。彼は言いがかりで決闘してるのよ、あの蕭明陽と」

 崇高と明陽の対決は、互角だった。

「でも、止められなかったからって、別に君のせいで決闘になった訳じゃないんだから、そんなに心配しないで。何が気になってるの?」

 忠誠の言葉に、愛良は何か訴えたそうな目で忠誠を見たが、再び戦っている2人に視線を戻した。

 忠誠は、さっき自分を見た愛良の目、そして今2人が戦っているのを見つめる愛良の視線に、どことなく違和感を覚えた。ひょっとして、彼女は何かを知っている?

 しかし、ただ崇高の通訳として、今回たまたま香港について来ただけの彼女が、この件で何かを知っているなんてことは、あり得ない話だ。単に、尊敬する師匠の息子と戦っているから、心境が複雑なのだろうか。

 忠誠は崇高と明陽の戦いに視線を戻した。確かに崇高は熟練した空手家だった。蕭師匠の流派の拳法とは、構え、動き、型が全て違っていた。

 あれだけ金をかけて調査させたのに、人違いだったのか?そんなはずはない。戦いながら明陽は、わざと自分の流派の技を引き出させようとして攻撃を試みるが、返って来るのは全く違う型ばかりだった。人違いだったとは認めたくない。調査は緻密だったはずだ。

「逃げろ、警察だ!」忠誠は叫んだ。そして、対決している2人の間に入る。「警官が来た」

 忠誠は崇高の背中を押して、愛良とともに走り出す。

 それから手で明龍に合図をすると、明龍は笑ってうなずく。そして、弟に「お前は門弟たちと逃げろ」と肩を押し出す。

 そして、やって来た警察官の所へ歩いて行き、自分はたまたまそこに居合わせた目撃者だと名乗り出て、偽の目撃情報を話し始めた。


 ショッピングモールのカフェで飲み物を飲む、崇高、愛良、忠誠の3人。

「ね?弟はともかく、明龍はいい奴だろ?」忠誠は愛良に言った。愛良はそうね、とうなずいた。

「何で中断させたんだよ。最後まで戦わせてくれれば良かったのに。俺は決着をつけたかった」

 崇高は不満そうに言う。

「だめよ、あんな無駄な試合。お互い武術家として尊敬し合ってないし、あんなの見たくなかったわ。ただの暴力じゃない。あなたが殴られるんじゃないかと思って気が気じゃなかったわ。でも、何もなくて良かった。あなたが彼に勝ったとしても、きっと恨みを買われてまたつきまとわれるから、勝敗が決まる前に中断できて良かったのよ」

 崇高はまだ納得できない顔をしていた。

「それにしても、弟の明陽ってのはちょっと思い込みが激しい奴だけど、兄貴のほうは理性的で、見た目も随分といい男だったな。映画俳優になれるんじゃないか?顔も体格も良くて文句なしの男だね。きっと女にもてるんだろうな」

 お前もそう思うだろ?という表情で崇高は愛良を見た。

「そう?あなたのほうが素敵よ」

 愛良に言われて、崇高は満面の笑みで忠誠を見ながら「ほらね彼女は俺に惚れてるから」と小声で言う。

 ああ、崇高はいいように飼いならされるな、と思う忠誠。

「明龍はいい男だよね。彼は、1度だけ出た武術大会で優勝した時、映画関係者にスカウトされてるよ。だけど、本人がそういうの好きじゃないから、即、断ってた。あの時は弟が随分悔しがってたな。兄貴だけスカウトされたって」

「へえ、断ったの。もったいない。彼ならスターになれるのにな」崇高は言った。

「そうね。ねえ、さっきの対戦、大丈夫だったの?怪我してない?」

「あれだけで怪我なんかしないよ。だけど、今のは警察が来て中断されたから、弟のほうは納得していないだろうな。俺たちを見つけてまた来るだろう。俺たち互角だっただろ?俺のほうももうちょっと勝負してみたかったよ。他の武術の人間と戦うっていうのも結構面白いもんだね」

 気は確かなの、もう絶対にやめて、と愛良は叱るように崇高に言い聞かせている。それから忠誠に向き直る。「さっきはどうして自己紹介なんかさせたのよ。あんなことするからあいつらが調子に乗るのよ?」

「だって、俺と明龍は友人だからさ。みんな友人同士になればいいんじゃないかと思って。武道家同士、殴り合ったって仕方がないよ。お互いを高め合わなきゃ。蕭師匠もそう言ってるだろ?”強い者同士は、敵対心を持ってお互いを潰し合うのではなく、友好の心を持ってお互いの強い技を学び合えば、共にもっと早く簡単に技術を高めることができる”だったかな」

 君も知ってるだろ?と忠誠は愛良を見る。愛良は、まあそれはそうだけど、という顔でうなずく。蕭師匠の重要な教えをちゃんと理解している忠誠に、少なからず驚いた様子だった。

「それに、君の怒った顔もちょっと見てみたかったしね」忠誠は笑う。「案の定、怒ってたね」

「おい忠誠」崇高が忠誠に掴みかかった。「お前さっき、愛良の肩を抱こうとしてたろ?」

「彼女が行こうとしたから、紹介のために引きとめただけだよ」

「そうだよね?」と忠誠は笑いかけながら愛良を見る。

「知らないわよ」愛良はそっぽを向く。「お兄さんのほうと友人なのは分かるけど、守ってくれるんじゃなかったの?あれじゃ、対決させただけじゃない」

「交流させて、和解させることも、結果的に君たちを守ることになるよ」忠誠は、計画に自信がありそうな顔で愛良を見る。「蕭師匠の教えに合ってるだろ?」

「そうね、あなたの意見は分かるわ」愛良は仕方なく認めるように言った。

 蕭師匠の名前を出すと大人しくなってしまう愛良を見て忠誠は、彼女は師匠をよっぽど尊敬していて、流派の精神を理解しているんだな、と感じた。

「ねえ、君たちはいつ帰るんだっけ?明日?」忠誠は愛良に聞いた。

「今日は金曜日よね?」愛良は忠誠のスマートフォンを見せてもらい曜日を確認する。

「帰国は日曜の朝だから、あさってよ」

「じゃあ、明日1日あるんだね。明日こそ1日使って観光案内してあげたいけど、明日は香港とマカオに台風が接近する予定なんだよ。昼か、夕方かな。もし台風が直撃しなければ、ショッピングモールみたいな安全な所だったら、明日も案内できるよ」

 3人が世間話をしながらお茶を飲んでいると、忠誠の携帯が鳴った。明龍からだ。

 忠誠が出る。

「張忠誠、やっぱりだめだ。弟が納得していない。ちゃんと崇高と戦いたいみたいだ。中断させる作戦がまずかったみたいだ。悪いんだけど、崇高はどう思ってるのかな。もし戦いたそうなら一度場所を設けて、やらせてやろうと思うんだが。例えば港近くの広場とか、本当に通報されたらまずいから、人のいなさそうな場所で」

「ちょっと待って」

 忠誠は崇高を見た。

「さっきの中断を、明陽は納得していなくて、ちゃんと戦いたいんだって。場所は、人気のない野外」

「血の気の多い奴だな。いいよ。今日?今日がいい。それですっきりして明日1日観光しよう」

「もうやめなさいよ本当に」愛良はうんざりして言う。「信じられない。せっかく中断させてもらったのに」

「お前、何を神経質になってんだよ。別にいいじゃん、異種武術家同士が戦ったってさ。せっかくの機会だし、香港の武術大会で常に優勝しているくらいの武術家が、そうまでして俺と戦いたいって言うなら受けるよ。向こうも馬鹿だけど熱い奴だから、俺も武道家としての闘争心がかきたてられる。さっきの勝負も互角だったし、俺の相手としてはいいんじゃないか?」

「ええ、同レベルね、あなたたちは」と嫌みを言う愛良。

「もしもし?」互角だと思ってたの?向こうの方がはるかに上だったわよ、と愛良が崇高に言っている傍らで忠誠は、明龍に伝える。「OKだそうだ。今日の午後は?場所は、俺が決めていいの?それじゃあ」

 忠誠は、人気のない港近くの広場を指定した。


 約束の時間になり、日本人2人といる忠誠の電話が鳴って出ると、蕭氏兄弟と門弟4人が、今から姿を現すという連絡があった。

 やがて彼らが姿を現したが、こちらに近づいては来なかった。

 再び忠誠の電話が鳴る。

「さっき言ってた探偵の資料を見せたいんだけど、決闘が始まる前に見たいかな?」明龍は電話で忠誠に言った。

「まず探偵の資料を見せるからって言ってるけど」忠誠は2人に言う。

「え?持って来たの?」愛良は忠誠に問いかけてから、少し考えた。

「私1人で見て来るから、あなたと崇高はここで待ってて」

 愛良は男たちの方へ歩いていった。

「何であいつが仕切るんだよ」崇高が愛良の後ろ姿を見ながら言うと、忠誠は「さっき資料を持ってきて、っていう話になったんだ」と説明する。

「また会えて嬉しいよ」明龍は、やって来た愛良に微笑みかけたが、彼女は返事をせず表情も変えなかった。

「はいこれ、さっき言ってた資料」明龍は愛良に探偵の資料を渡した。

「本当に持ってきたの?」憮然として受け取る愛良。後ろのほうで控えている崇高を、ちらっと見て気にする。

「え?だって、さっきは持って来いって」

「言ってないわ。あの時点で、会うんだったら持ってくるべきだった、って言っただけ。内容なんか別に見なくても、間違ってるのは明白だもの」

「うちの兄貴に対してなんだよその態度は」明陽はまた愛良に文句を言う。「お前は何さまなんだよ、うちの兄貴がどれだけ凄いか知らないだけの馬鹿か?」

 愛良は明陽を見たが、あからさまに無視して資料を開き、内容を読んだ。

「これ、全部が間違いってわけではないだろ?合っているところは合ってるんじゃない?」

 間違っていると決めつけている割には、丹念に内容を読もうとしている愛良を見ながら、明龍は聞く。

「確かに、彼のプロフィールは合ってるわ。だけどこれは彼の道場のホームページに書いてあることと同じで、書いてある順番も同じよ。探偵じゃなくても日本語が理解できればこの資料は作れるわ」

「じゃあ、何で彼と間違えたのかな」

「さあね、日本人の武道家で、嘘がばれない程度に無名な人物を、ターゲットの人物に仕立て上げただけじゃないの。彼がたまたまタイミング良く香港に来たから、ばれたけど」

「でも、弟が探偵には教えていない事実も突き当ててるんだ。その人物の祖先は、台湾を経由して日本に逃れてるってことも」

「台湾から日本に行った人なんていくらでもいるでしょ。ここに香港があったら台湾がここで、日本がここなんだから、地理的にそうなるのは当然だわ」

「武道家であることも言っていないんだ」

「もともと武道家の家系だから、そう思ったんじゃない?だいたいその末裔が武道家かどうかも、本当は分からないんでしょ?」

「分からないけど、俺は絶対にそうだと思う」

 愛良はこちらに崇高がやって来るのに気づき、資料を返した。「ありがとう。しまっていいわよ」

 愛良は崇高のほうに戻ろうとしたが、崇高はもうやって来ていて、愛良を立ち止まらせた。

「待て。俺にも資料を見せてくれよ」

「証拠は何もなかったわ。あなたの道場のホームページを中国語に訳して、調査報告にしてるだけよ」

「俺のことが書いてあるんだから、俺が見たっていいだろう」

「漢字ばっかりで読めないわよ。あなた、喋りは得意だけど読むのは苦手って言ってたじゃない。私が見たから大丈夫よ」

「見せてくれ」崇高が明龍に言ったので、明龍は調査書を差し出した。

 崇高が資料を読むのを、愛良はちらっと横目で伺った。

 さっきから崇高本人に資料を見せたがらない愛良の態度を見て、明陽は、この女本当は何か知っているんじゃないかと感じ、兄に目配せした。

「ああ、確かに、俺は読むのはあまり得意じゃないな。ありがとう」

 崇高は明龍に資料を返した。

「じゃあ、ウォーミングアップをしたら決闘開始だ」明龍は言う。

 崇高と愛良は、忠誠のいる方に歩いて行った。

「なあ、今の資料、分派の人物は台湾を経由して日本に渡ったって書いてあったよな」崇高は愛良に聞く。

「ええ」

「お前の先祖もそうだって言ってなかったっけ?だいぶ前に」

「そんなこと言った?そんな人間いくらでもいるでしょ。例えば戦争の時とか。だから、あの資料はそれっぽいことを書いてるだけよ、気にしないで」

「お前はその人物に、心当たりとかないの?」

「何で私に心当たりがあるのよ」

「だってお前、蕭師匠の武術に詳しいじゃん。お前以前、蕭師匠の動画はすごく学び甲斐があって、師匠のことをまるで自分の師匠みたいに思ってるって言ってなかったっけ」

「蕭師匠のことは、武道家として尊敬しているのであって、別に詳しくはないわ」

 崇高は、何となく愛良の態度にひっかかりを感じていた。

 2人がウォーミングアップを終え、今度こそ本格的に対戦しようと、お互い向き合って構える。

「大丈夫だよ」忠誠は、心配そうな顔の愛良に言う。「何かあったら、俺と明龍で2人を止めるから」

「いくぞ」構えながら明陽は言う。

「かかって来い」崇高は答える。

 明陽が先に攻撃を仕掛け、崇高が迎えうつ。

 明陽の突きがうまく入り、崇高は後退する。崇高は向かってくる明陽に蹴りを入れるが、かわされた。

「どっちが勝つと思う?」

 忠誠は愛良に聞いた。

「さあ…、明陽じゃないの?」愛良は辛そうに答えた。

「崇高を応援してるんじゃないの?」

「だって明陽は武術大会で常に優勝してるのよ。崇高はただの空手道場の師範で、好戦的な武道家じゃないわ。本気で相手と戦ったりしないもの。彼は平和のための武道を普及してるんだから。武道の精神を通して健全な人間を育成しようと努力している武道家よ」

 明陽の蹴りが入り、衝撃で崇高が倒れるが、一回転してすぐに立ちあがり、構える。

「女の前なんだから、もうちょっといい格好しろよ」明陽が挑発する。

 今度は崇高が攻撃を仕掛け、2人の腕と腕がぶつかり合う。睨み合う2人。

 崇高の蹴りが入り、2人は離れた。

 明陽は蹴りを入れられた腹に手を当てて大きく呼吸している。

「おい、お前、俺に殺されたいのかよ」思ったより蹴りが強かったようで、怒ったように明陽が言う。

「ふん、そのくらいで何だ」崇高が答える。

「やめさせて」愛良は忠誠に訴える。「本当に怪我するわ。やめさせて」

「愛良、大丈夫だよ。もうちょっと見ていよう」

 明陽が攻撃し、崇高はそれを防御するが、防ぎきれずに突きが入る。崇高がひるんだ隙にまた明陽の力強い突きが2発、崇高を捕えた。後退し、肩で息をしながら構える崇高。

「お前こそ、その程度かよ」明陽は崇高を見ながら言い、愛良のほうもちらっと見た。

 愛良は明陽を睨んでいる。

「こいつ、大したことないな」明陽は愛良を見て、勝ち誇ったように笑った。

 明陽に向かっていく崇高。だが突きが軽くかわされ、しばらく明陽の攻撃に翻弄されたあと、手首を掴まれる。そのまま明陽の蹴りが崇高の腹に入る。

 崇高はうめいて、膝をついた。

「俺は探偵の調査を信じてるからな」明陽は崇高の手首を掴んだまま、それ以上攻撃せずに顔を近づけて言う。

 しかし、崇高は腹に入った蹴りの痛みでそれどころではないようで、しきりに腹を押さえている。

「参ったかよ!」明陽は腕を引っ張る。

「お前は空手家を装っているだけで、絶対に分派を継承しているはずだ。違うか?得意の自分の流派で戦ってみろよ」

「お前、いつまで言ってるんだ。もうどっちでもいいよ。馬鹿らしい」腹を押さえながら、崇高は投げやりに答えた。

「何だと!貴様を先祖の墓の前で土下座させてやるからな!」胸倉を掴んで立たせる明陽。

「先祖の墓…?」

 崇高は抵抗しようとしてやめた。

 思い出したのだ。香港に来て蕭師匠の先祖の墓参りをした時、愛良は墓の前で膝をついていた。

 崇高は愛良を見た。「愛良。お前もしかして」

 そしてその表情を見た明陽も、やはり鍵を握っているのが愛良だと気づく。

 明陽は崇高を突き放し、門弟たちに向かって愛良を指差した。

「その女の口を割らせろ!」

 門弟の1人が愛良に襲いかかる。

 愛良はその男の攻撃を迎え、それから反撃する。

 あの型は!兄弟は、愛良が門弟に反撃する様子を見て驚いた。

 自分たちの流派の型を、愛良が繰り出している。

 愛良は門弟に連続で突きを入れてから、蹴りを2発入れて華麗に倒す。

 次にかかって来た男にも容赦ない攻撃が入る。正確な構え、鮮やかな防御、素早い突き。

「おい、見たか」明龍は興奮気味に弟に言った。「今の、書物でしか知らなかった型だ。あの型はああいう解釈だったんだ、初めて知ったよ」

「つまり、愛良が分派の継承者?」明陽が兄を見る。

「ああ」だから師匠やうちの流派についてよく知ってたんだな、と明龍が弟に言う。「まるで同じ流派の使い手のような動きだ。凄い、信じられない」

 分派が本当に存在していて、しかも正しく継承していたなんて。

 愛良は2人目を倒し、低く構えて次の男に手招きする。「かかって来なさい」

 それを見た残りの2人の門弟が、同時に愛良に襲いかかろうとする。

「2人同時は卑怯よ、1人ずつ来なさい!」愛良がどなる。

「やめろ!お前たちは下がれ」明龍が叫んだ。2人の門弟は下がる。

 兄弟2人は、愛良の所へやって来た。

「お前、知ってるどころじゃない、本人だったのかよ。お前…」

 弟が飛びかからんばかりの勢いだったので、明龍は弟の服を引っ張って愛良から離す。

「つまり君が継承者だったという訳か」明龍は驚いたように言ったが、すぐに愛良に微笑みかけた。「やっと見つけたよ」

「名乗りたくなかったけど仕方が無いわ」愛良は諦めたように腕を組み、明龍を見た。

「本当に驚いた。でも、会えて嬉しいな」

「これで崇高は全く関係ないと分かってくれたわね?さっきの資料、探偵はよくあんなに詳しく調べ上げたわ。住所までほぼ正確に突き止めてるんだから恐れ入るわね。但し、うちには道場はないけど、崇高の所は道場を経営してるから、それで最後に間違ったようね。彼と私は住んでいる場所が近いから」

「よく今まで騙してくれたな。とぼければ済むと思ってたのか。自分の男が殴られてるのに名乗り出ないとは、冷酷な女だぜ」明陽は言う。

「あなたたちこそ何?よくも人のプライバシーを暴いてくれたわね。私が何の武道をやってるかなんて個人的な事なんだから、あなたたちに言う必要はないわ。それとも何?私が分派だったら、私が香港に通訳として来るだけなのに、いちいち正統派のあなたたちにお伺いを立てなければいけなかった?」

「いや、ごめん。そんなことないよ、弟の言う事なんか気にしないでくれ」明龍は言う。「ところでさっきの型…」

 明龍が言いかけたが、愛良はそれを遮った。

「さようなら。話すことはないし、もう会わないわ。あなたたちも継承者が誰か分かって満足でしょう?もう崇高には手だししないで」

「お前が継承者なら、崇高なんか何の価値もない、どうでもいい存在だから安心しろよ。その代わり、分かってるだろうな?お前が俺と勝負しろ」明陽が言う。

「私は1人で武道を極めるタイプの武道家よ。人と対戦はしないわ。それに、尊敬できない相手とは勝負しないことにしてるの。ただの殴り合いになるだけだから。さようなら」

「言う事は立派だな」明陽が馬鹿にしたように笑う。「形勢が悪いから言い訳して逃げてるだけだろう。往生際の悪いやつだ。俺が怖いのか?正統派の俺様が、亜流のお前と勝負してやってもいいって言ってるんだよ」

 お前は黙ってろ馬鹿、と明龍は弟を叱る。

「せっかく同じ流派同士出会えたのに、握手くらいしたいな」明龍は愛良に、今回何度目かの手を差し出した。「ね、愛良?」

 愛良は、気持ちが混乱しているかのように、動揺した目で明龍を見ながら首を振った。

「名前を呼ばないで。もう会わないし、握手もなしよ」愛良は訴えかけるように明龍を見たがすぐ目をそらした。彼女を傷つけた、と明龍は思った。「ごめん、愛良、あの…」

「おい、お前な、武道家としての礼儀も知らないのか!」弟が一歩出ようとしたので明龍が止めた。

「やめろ」

「あいつ、俺の挑戦を受けないつもりだ。しかも兄貴から握手を求められて拒否するとか、何さまのつもりだよ。日本人はどいつも偉そうな奴らばかりだな」

 明龍は弟を押しのけた。

「愛良、待って」

 明龍は、行こうとする愛良の前に出て立ち止まらせた。

「聞いてくれ。俺たちは最悪な出会いをした。君を傷つけて悪かった。謝るよ。だけど、流派としては、長い時を経てやっと再会できたってことにならないかな。俺たちは流派を通じて友人同士になれると思う。俺たちは再会したんだよ。これはいいことだろ?喜ばしいことだ」

 愛良は、少しは明龍の言葉に心動かされたように、彼を見た。「そうね」愛良はうなずく。

 明龍はもう一度、愛良に手を差し出し、握手しよう、というようにうなずいた。

「だけどもう、会わないわ」寂しそうな顔をして、愛良は明龍の手を軽く握ってすぐ離した。「さよなら」

 愛良は少し微笑むような顔で明龍を見て「ありがとう」と言ったが、すぐに崇高の方に戻って行った。明龍はそれ以上追わなかった。

 継承者が彼女だと知らなかったとはいえ、話を強引に進め過ぎた。彼女の気持ちも考えず、傷つけてしまったと明龍は思った。香港に来て早々、尊敬する師匠の息子に仇呼ばわりされて、彼女はどんな気持ちだっただろう。「崇高、ごめんなさい、あなたを危険な目に遭わせて」歩きながら愛良は沈んだような表情で、崇高が蹴られた腹を気遣った。「大丈夫だった?」

「俺に言ってくれればよかったのに。何か歯切れが悪くておかしいと思ってたよ。何故もっと早く教えてくれなかったんだ」そう言ってから崇高は、つい責めるような言い方をしてしまった事に気づいた。

「いや、怒ってるんじゃないんだよ」崇高は言い訳した。

「言いたくなかったの。あなたとこういう話、したくないし」愛良はそう言ってから、今度は2人を気遣う忠誠を見て、無理をして微笑んでみせた。

「忠誠、びっくりしたでしょ、ごめんなさいね。空手大会の時、あなたは私に、明陽が継承者を探していると教えてくれたのに、私はあなたに冷たくして、知らんぷりしていたわ。結果的に、あなたも嫌なことに巻き込んでしまったわね。もし明龍と気まずくなったらごめんなさい」

「いいんだよ。知らない人に狙われてると思ったら、誰だって言うのをためらうよね。明龍はこんなことで気を悪くしたりしないから、気にしないでくれよ。彼はすごくいい奴なんだ。今頃君を心配してると思うよ」

「ねえ忠誠、さっき私たちと彼らを親しくさせようとしてくれてありがとう。あなたの意見は正しいわ。ただ私はすごく自分勝手な人間だから、まだそういう気にはなれないの」

「そんなのいいんだよ」忠誠は慰めるように愛良の肩を撫でた。「君たちがすぐ帰国してしまうと聞いて、俺も焦って行動してしまった。でも、君が継承者だったなんてびっくりだな。このことは、今まで誰にも言ったことはないのかい?」

「人に言ったのは今日が初めてよ。人前で技を披露したのも今日が初めて」

「これからどこに行く?」崇高が忠誠に聞いた。

「天気が悪くなるから、ドライブして回るのは無理だな。どっか食べる店にでも入ろうか。まず車に乗ろう」

「彼ら、まだこっちを見てるよ」崇高が言う。

「振り返らないで」愛良は言う。

 車に乗る時、崇高は先に愛良を乗せ、それから乗ろうと身をかがめた時、さっき蹴られた場所を気にするように、腹を押さえた。

「大丈夫なの?」

 崇高はシートに腰かけてから、服をまくり上げて腹を見たが、痕にはなっていなかった。

「ああ、大丈夫らしい。攻撃を受けた時はすごい衝撃を感じたはずなのに、もう全然痛くないよ。あいつ、あれでいて手加減してくれたのかな?俺の手首を掴んだ時だって、もっと攻撃できたはずなのに、しなかったし」

 ひょっとして、あとが残らないようにうまく蹴りを入れてくれたのかな?と崇高は笑う。

 愛良は心配そうに崇高を見る。「ごめんなさい、あなたが攻撃されているのに、私が最後まで名乗らなかったから」

「いいよ。俺だって彼と勝負してみたかったんだからさ。もう大丈夫だから心配するな」

 何だか2人が恋人同士みたいになって来たな、と思いながら車を発進させる忠誠。

 崇高は愛良の肩に手を置き、「あいつ、やっぱり強かったな」と微笑みかける。

 しかし、愛良は向こうを向いてしまった。

「どうしたんだよ」

「私はあなたを犠牲にして、最後まで名乗らなかったわ」

 武道家として卑怯な態度を取った、と彼女は思っているのだろう。

「いいんだよ。そんなに凄い攻撃を食らったわけじゃないよ。でもあいつ、さすがお前の尊敬する蕭師匠の息子だな。動きが俊敏だったし、お前の言う通り、あっちのほうが強かったよ」

 愛良はうなずいただけだった。

「大して悪意があるわけじゃなく、本当に勝負だけがしたいみたいな戦い方だったよ。彼は本気で俺が継承者だと思い込んでたみたいだね、試すような攻撃ばかりしてきたから」

「ああ、そうだね。ところで、君もなかなか良かったよ、愛良」運転しながら忠誠が言う。「本当に中国伝統武術って感じで、型が綺麗だった。やっぱり女性の動きは綺麗だね。崇高は今まで愛良の武術を見たことはないの?」

「ないよ。だって、見せないんだもん。俺ん家の道場で空手習わせてた時に、空手をしてるのを見てるだけだ」

「君は崇高に、どういう武術を学んでいるかも、話した事がないの?」忠誠は愛良に聞く。

「話さないわよ、そんなこと」

「何で?言ってくれれば聞いてやったのに」崇高は言った。「何でも話してくれよ。武術仲間っていったら俺くらいしかいないだろ」

「こういう話は誰ともしたくなかったの。崇高だって、あなたは空手が大好きなんだから、知らない武術の話なんか興味ないでしょ」

 まあ、そりゃ俺は空手が第一だからそうだけど、と答える崇高。

「なあ、墓参りって、蕭家の殺された先祖を供養するためだったのか。お前が殺した側の子孫だから?お前が以前、墓参りしたい人が納骨されている場所を見つけたとか言ってたのは、このことだったんだな?」

「そうだけど、もう話したくないからやめて。あなたを巻き込んだまま黙っていたのは、悪いと思ってるから謝るわ」

「巻き込んだのはあいつらだ。あいつらは勝手に探偵を雇って俺たちの事を調べたんだ。そのタイミングで俺がこっちに招かれて香港に来るなんて、すごい偶然だけどさ。しかも、間違えた相手が、俺がたまたま同伴したお前だったなんて。何かのお導きかな」

 なあ?と崇高は笑いながら運転席の忠誠を見た。

「うん、凄い偶然だと思う。まるで運命みたいだ」忠誠は興奮気味に言った。「愛良、運命だと思わないか?俺、凄い現場に居合わせた気がする」

 台風の到来がそう思わせるのか。忠誠も突然現れた分派の継承者に圧倒的な存在感を感じていた。

「運命に追従するっていうのも、この流派の教えなんだよね」忠誠は言う。

「あなたも、本当に詳しいのね」

「俺は蕭師匠のことを、心から尊敬してるんだよ。多分君と同じくらい、師匠を尊敬してると思う」

 ルームミラーの忠誠が愛良に微笑みかけた。


 3人で入店した食堂のトイレで、忠誠はメールをチェックした。

 取材依頼の返事の他に、明龍からのメッセージがあった。

「2人の帰国はいつ?」とだけ書いてある。忠誠は「あさって」とだけ入力して返信した。そして携帯の電源を切る。

「今日は色々ありがとう。レンタカー代だってばかにならないんでしょう?おごるから、好きなもの食べてね」愛良は忠誠に言う。

「ええ?毎回悪いよ」

「今、おごるって言ったけど」崇高は忠誠に言う。「本当は食事代は会社の経費で出るんだよ。一応、お客さんとの会食もOKってことになってる。だから、俺たちに遠慮しないで、何でも頼んで。普通は出張時の食事代は上限があるんだけど、今回はないんだ。うちのスポーツクラブ、宣伝しといてね」

 崇高は、そうだ、名刺名刺、と言いながら名刺を取り出して忠誠に渡した。

「君たち、同じ会社の同僚か何か?」忠誠は聞く。

「ええ、まあ話すと長くなるけど、もともと違うスポーツクラブだったのが合併して、部署は違うけど同じ会社の従業員みたいなものよ。ただ、私は社員だったのが、今は独立して外部委託で今の会社に所属してるの。私は今回は名刺を持ってこなかったから、なくてごめんなさい」フリーだから、正確には崇高の同僚じゃないのよ、と答える愛良。

「愛良は売れっ子の個人トレーナーなんだよ。凄い金持ちが顧客なんだ」

 な?と愛良に笑いかける崇高。

「崇高は空手道場もやってるの?」忠誠は聞く。

「父が病気になったあたりから道場を続けられなくなって、今はスポーツクラブで空手のインストラクターをしてるよ。ホームページ、1年くらい前から更新されてないよね。君からのメールに気づかなくてごめんね」

「ねえ忠誠」愛良は言った。「今回は本当にありがとう。色々と助かったわ。あなたがいなかったらこんなこと、乗り切れなかったもの。何ていうか、命の恩人ね」

「いやいや、偶然、こんなことになっちゃっただけさ。明日も観光、付き合うからね。台風が心配だけど」

「明日の昼まででいいわ。午後は台風が来るってニュースで言ってるから、午後はホテルに戻るわ」

 注文した食事が来たので食べ始める3人。

「あなたのお陰でちょっと変わった観光ができて、良かったわ」愛良は言う。「ねえ、レンタカーとガソリン代、払わせて」

「そんな、いいよ、本当に。食事をおごってくれるだけで有り難いんだから。俺だって君たちと知り合えて、本当に嬉しかったよ。君みたいな貴重な存在の武道家にも会えたしね。一生に一度の貴重な体験だよ」

「私なんか、別に大したことないわ」

「明日、行きたいところある?崇高は?」

「そうだなあ、観光っていうより、俺が昔、父親と住んでた界隈が今、どうなってるのか知りたいんだ」

 どこらへんだっけ、と忠誠はスマートフォンで地図を表示し、崇高に見せた。

「俺の記憶だと、多分ここらへんだと思うんだ。子供の頃だから、ずいぶん変わってるだろうな」

 崇高は指で画面上を示す。

「おう、ここなら俺の好きな中華料理屋があるところが近い。じゃ、最後の昼食はここにしようよ」

「あなた、食べる所をよく知ってるのね」愛良は笑う。

「取材で香港に来る時に、とにかく安くておいしいレストランを調べまくるんだ。ここは中華油に特徴があって、油が濃厚なんで評価が分かれるけど、俺は好きだしここでしか味わえないんだ」

「じゃあ明日、案内して。おごるから」

「ありがとう」

 愛良が落ち込んだ様子もなく、普通に笑顔で過ごしているのを見て、忠誠は安心した。


 忠誠がホテルに戻り、明日の準備をしてベッドに入ろうとすると、充電していた携帯が鳴った。明龍からだった。

「はい」

「忠誠?いまいい?1人?」

「ああ。もうホテルに戻って1人になったとこ。彼らの事を聞きたいんだろ。俺が教えられるのは、彼らがあさって帰るってところまでだよ。残念だけど今のところは、彼らは君たちと接触したいと思っていないんだ」

 しかし明龍は、そんな忠誠の言葉には構わず話し始める。

「なあ忠誠、お前に分かってもらえるかな。俺はこの流派の武道を学んでいて、今日ほど感動したことはないよ。彼女は俺たちの家に代々伝わる書物に書かれている技を実践していた。今の俺たちが実践で習っていない、書物でしか知らない型だ。彼女のしていることは凄いことなんだよ。もう一度彼女に会いたいんだ。俺1人だけで会うと言っても、会ってくれないかな。彼女が気を悪くしたのは分かってる。でも彼女に不愉快な思いをさせたまま日本に帰したくないんだ。分かるだろ?」

「明龍、分かるよ。だけどごめん、俺は彼女の意思を尊重したい。彼女は彼女で考えがあるんだ。ちょっとそういう所は君に似てるね。君も1人で武術を極めるタイプだからね。君も1人で考え込むタイプだし、自分の領域を人に踏み込ませないよね」

「ああそうだな。俺、彼女に似てるのか。そう言ってもらえると何だか嬉しいよ」

「とにかく、彼女にとっては人前で技を見せたのは初めてだったみたいだし、彼女にとってはデリケートな部分だったようだけど、特にふさぎこんだ様子もなかったし、もしそんなことなら、崇高が彼女を慰めてやってると思うよ。心配しなくて大丈夫だよ」

 崇高か。やはり彼らは恋人同士なのか、と明龍は思った。

「弟が崇高を攻撃してしまったが、彼は大丈夫だったのか?」

「大丈夫だよ。崇高は、明陽が手加減してくれたって言ってた。彼は強かったと褒めてたよ」

「彼にも悪かったな。でも、きっと彼もいい奴なんだろうな」

「俺たちが車に乗る時には、痛みはなくて傷跡にもなっていなかったから大丈夫。それより俺、今ちょっとびっくりしてるんだよ。以前はひきこもりがちだった君のほうから、武術の事をこんなに熱く語る電話をくれるなんてね、何年ぶりだろう」

「ああ、4、5年ぶりかな。心配かけて済まなかったな。でも、俺はもうかつての飲み友達とは付き合わないと思う。俺は今の武術を学んで、修行して、それでいろいろ気づいたことがある。あの頃は飲み友達とワイワイやるのは確かに楽しかったが、今はもうそういうことを楽しむ時期は過ぎたと思ってるんだ」

「俺も成長したよ。みんな変わっていくんだよ」

「なあ、彼女があさって帰るってことは、お前は明日も観光に連れていくんだよね」

「そうだよ。君が武道家として、彼女に何か聞きたいことがあるんだったら、俺からの質問ということにして聞いておくけど、何かある?質問に答えてくれるかどうか分からないけど」

「明日は台風が接近するぞ。どこに遊びに行くんだ?」

「それは教えない。言ったらそこに来るだろ?」

「そりゃそうだよ。お前だけずるいじゃないか。あんなに凄いものを見せられて、俺がそのまま黙ってると思うか?正直、彼女の動作に魅了されてしまった。型について聞きたいことがあるし、彼女にもう一度会いたいんだ。彼女、俺たちのこと何か言ってた?」

「何も言ってないよ。明龍、興奮する気持ちは分かる。いきなり分派の継承者が現れたんだからね、俺だって凄くびっくりしたよ。俺も最初は、崇高が空手家であると名乗りながら、もしかしたら本当は継承者なんじゃないかと思ってたから。でも彼女が門弟と対戦した時の動きは、君たちの流派そのものだった。但し、蹴りだけは彼女独自のものだったよね。君たちの流派はあんなに高く蹴らない」

「そうだ。9割はこちらの流派という感じだったな」

「すごく綺麗な動作だったね。俺も魅了されたし、もっと見たいと思ってる。俺は武術ライターとして、彼女に取材を申し込みたいし、彼女が取材価値のある武術家であることは間違いないけど、彼女が拒否するだろうから、申し込んでいないんだ。君たちと別れたあと、崇高が彼女にいろいろ聞いていたけど、彼女は崇高にもちゃんと答えていなかった。崇高はこのことを全然知らなかったみたいなんだよ。彼にも言っていないっていうことは、本当にその件に関して話したくないんだな、と思ったんだ。ただ、俺は名刺を渡して、帰国したら連絡をくれるように頼んではいる。だから、いつか彼女の話が聞ける時が来るんじゃないかと期待してるんだ」

「そうか。俺はもう彼女には会えないのかな。すごく残念だ。せっかく会えたのに。せっかく分派と正統派が交流し合えるチャンスなのに。やっぱり俺たちのせいで気を悪くしたんだね」

「大丈夫、俺が今後も彼女と連絡を取り合って、機会を作るよ。でも今回は諦めた方がいい。明陽に追いかけ回されたことに対して、2人は快く思っていないから。彼はもう、諦めてくれたんだよね?」

「いや、実は諦めていない。あいつはあいつで、もう取り憑かれたような状態だよ。目の前に本物の分派継承者が現れて、技を見せたんだからね。それにあいつは復讐ものの昔の武術映画が大好きだからさ、その影響なんだよ。主人公になりきってる」

「蕭師匠には、彼女のことを話してるの?」

「いや。普通なら言うところなんだけど、明陽が探偵を使って見つけたことだし、知ってると思うけど師匠は明日、武術大会の審査でマレーシアに向かうから忙しくて、このタイミングではちょっと話せないよ。それで、ちょうど師匠が不在になるからって、弟はうちの道場で彼女と対戦したいって言ってるんだけど、無理だよね」

「俺からそんなこと彼女に言えないよ。明陽は本気なんだろうけど、彼女は絶対嫌がる。崇高だって黙ってないよ。明陽には、挑戦は断ったと言っておいてくれないか。俺が直接彼と話したほうがいいなら、彼の番号を教えてくれたら電話するよ」

「ああ、無理なことを聞いてごめん、大丈夫だよ。俺から言っておく。もちろん彼女は絶対嫌がると思うけど、俺は弟と対戦するなら、正直見たいと思ってしまった。弟が浅はかな気持ちで彼女に挑戦したいと言っているのは分かってるんだけど」

「分かるよ。俺だって彼女が戦っているところをもっと見たいし、武道家としての彼女にはすごく興味がある。師匠は誰なのか、弟子はいるのか、どうやって修行しているのか、とかね。でも俺、反省したんだよ。彼らがもうすぐ帰るからって焦りすぎて、結果的に彼女を傷つけることになってしまっただろう?だからさ、もう帰国するまでそっとしておこうと思ってるんだ。なあ明龍、君や明陽の気持ちは分かるけど、俺は彼女と必ず連絡を取り合うつもりでいるから、今回はそっとしておいてほしい。探偵の調査結果が間違っていたことと、目当ての人物が誰か特定できたということだけでも、収穫だったと思ってくれれば」

 友人に言われて、明龍は少し冷静になった。

「ああ、お前の言う通りだな」

「良かった、分かってくれて。ところで、彼女は蕭師匠を尊敬してるから、もし今度彼女が蕭師匠に会いたいと言ったら、会わせてあげようよ。いつになるかは分からないけど、彼女がまた香港に遊びに来るかもしれないだろ?そうしたら、君にも協力してもらって、明陽のことはちょっと抑えててもらって、師匠と会えるようにしてやりたいんだ。彼女、絶対喜ぶよ。いいアイデアだろ?」

「そうだな。そうしよう」

「彼女が真面目な武道家なのは分かっただろう?多分、彼女も君たちと知り合えたこと、本当は嬉しいと思っているはずだ。今回は明陽が最初にとった行動のせいで、彼女も態度を硬くしてしまったけど、彼女も時間を置けば、今回のことをもうちょっと冷静に見れるようになると思うんだよ」

「弟が、彼女を仇呼ばわりしていたことは、本当に悪かったと思っている。俺は仇だなんて思ったことは一度もないし、師匠もそう思っていないと伝えてくれ。弟も本気でそう思っているわけじゃない。昔流行った武術映画の主人公に憧れてるだけなんだよ」

「うん、分かった。伝えるよ」

 2人は別れの挨拶をして、電話を切った。


「昨日、眠れなかったみたいな顔してるな」ホテルの朝食のテーブルで崇高が言う。

「さすがに3日目だから、いい加減に疲れて眠れるかと思ったけどね。まあ、昨日あんなことがあったし、台風のせいもあって、空調も何だか体に合わないみたいだし、眠れなかったわ。あなたは眠れてるの?」

「ああ。台風でじめじめしてるけど普通に眠れてるよ。今日部屋を変わってやろうか?」

「大丈夫よ、今日一日くらい。明日はもう帰るんだし」

「本当に大丈夫?」崇高は愛良を見て冗談っぽく、今夜は最後だけど、久しぶりに一緒に寝てあげなくてもいい?と聞いた。

 愛良はふっと笑い、「本当に大丈夫よ」と答えた。

「大丈夫ならいいんだよ。でも、もし眠れなかったら、俺の部屋に来てもいいんだぜ」

 崇高はなるべく優しく言いながら、愛良の顔を覗き込んだ。愛良はうなずく。

「ねえ崇高、ずっと言おうと思ってたんだけど、でも今更こんなことを言ってもしょうがないんだけどね」

 愛良は言いにくそうにしていたが、言った。

「あの時、あなたをほっぽり出すような別れ方をしてごめんなさい」

「いいよ」崇高は笑った。「気にしてくれてたのか?」

「私にはこんなことを言う資格はないと思うけど、でも、それであなたを傷つけたと思うから」

「傷ついていないよ」

「あなたは大人になっても変わらず、優しいのね。私は相変わらず自分勝手な人間よ、昨日それが分かったでしょ」

「もう気にするな。お前がぎりぎりまで言わなかった気持ちは分かるから。別に俺が命の危険にさらされてたわけじゃないし、男同士の見栄の張り合いに、お前が巻き込まれただけだよ」

 崇高はテーブルの上に出ている愛良の手の上に自分の手を重ねた。

「お前、そんなことを考えて眠れなくなってたのか?俺に内線くれればよかったのに。話相手になってやったし、お前の部屋に行ってやってもよかったんだぞ」

「だめよ、部屋になんか入れないわ」愛良は笑った。

「ねえ崇高、私はもう、あなたの恋人にはならないわ。私はすごく自分勝手な人間で、またあなたを傷つけてしまうから。あなたのことは好きだし、武道家としてのあなたも好きだけど」

 愛良はそこで言葉を切ったが、決心したように言った。

「理解してもらえないと思うけど、聞いて。私は自分の流派の武道家として、生涯をかけて修行していくつもりよ。それが私の最優先事項で、それ以外のことは全て二の次なの。修行にのめり込むと、修行以外のことは全く興味がなくなるし、どうでもよくなるのよ」

「俺がそれでもいいって言っても、お前の恋人にはなれない?」

「ねえ崇高、あなたには理解できないのよ。恋人ってお互いを大切に思って、愛し合うものでしょ。お互い優しい気持ちを持って相手を尊敬するのよ。でも、私は多分、自分の身勝手からあなたを傷つけてしまうし、もしかしたらもっとひどいことをしてしまうかもしれない。これは、すごく個人的なことだし、普通の人には理解できないの」

「修行していくのに、俺がいると気が散るとかそういうこと?」

「そうね、私が集中できなくなる可能性があるわ。ごめんなさい、あなたみたいな立派な人にこんなこと言って。あなたに対して、そういう風に思ったりしたくないの」

 愛良は済まなそうな顔をした。

「でも俺が、香港に行くから通訳をやってくれって言ったら、喜んでついて行くって言ってくれただろ?俺としてはさ、こんな、元恋人同士だった男女が、海外に泊まりがけで行くっていったら、お前だってそういう気があるのかなって。お前、楽しそうにしてたしさ。男っていうのはそう思ってつい期待してしまうんだよ」

「そう、じゃあ、私はもう既にあなたを傷つけてるわね」

 愛良は悲しそうに言った。「ごめんなさい、自分のことしか考えてなかったわ。別れて随分経つし、あなたがそんな風に考えて私を誘ったとか、そこまで考えなかったの。考えなかったっていうか、少しはそうかなって思ったけど、あまり重要には考えてなかったわ」

 ああ、やっぱり目的は俺との旅行じゃなく、尊敬する蕭師匠の先祖の墓参りだったんだな、と崇高は今さらながらに気づいた。

「いや、別にいやらしい気持からじゃないからな」崇高は言い訳した。「別に、ついて来たなら俺と付き合えって言ってる訳じゃないんだ」

 愛良がじっと見てくるので、崇高は慌てた。「あのな、そりゃ、お前と付き合ってたんだから、また昔みたいになるかな、ぐらいは思うだろ。特に出張とはいえ、海外に2人っきりで来ちゃったんだから、たとえば豪華なディナーを一緒に食べたら、何となくいい雰囲気になって…それでお前が1人で寝るよりは俺と過ごしたいなって思うかもしれないだろ?そうしたら俺は別に、お前の部屋に行ってもいいんだよって話。するしないは別だぞ?眠れないから隣に寝ててほしいっていうだけだって、俺は別にいいんだからな」

 まずい、せっかくここまできたのに、ここで関係が壊れたら元の黙阿弥だ。

「でも、俺たち友人だよな?恋人ではないにせよ、友人って考えていいんだろ?今の俺たちの関係」

「ええ。友人という関係が一番しっくりくるわ。私は過去にあなたを傷つけたし、私から言う資格はないんだけど、もしあなたが友人にしてくれるというなら、私は喜んでそうなりたいと思ってる」

 

 04_拉致の朝


 明龍が道場のサンドバックでスパークリングをしていると、明陽が通りかかった。

「どこへ行くんだ?」

 またそんなこと聞くのかよ、という表情で立ち止まる明陽。

「決まってるだろ。挑戦を願いに行くんだよ。愛良の居所は知らないが、張忠誠の安宿は分かってるからさ」

「昨日、忠誠に電話したけど、挑戦は受けないと言っていたぞ。諦めろ。彼も本当は愛良に取材を申し込みたいらしいが、断られるだろうから申し込んでいないそうだ。連絡先を渡して、帰国後の連絡を待つらしい。お前も今回は諦めて、次の機会を待て」

「でも兄貴は?昨日あんなに興奮してたじゃないか。俺が彼女と対戦するなら、見たいんだろ?」

「そりゃ分派の継承者がお前と対戦するなら、是非見せてもらいたいよ。でも彼女は明日帰国するんだし、お前が昨日あんな失礼な事をしたんだから、絶対に受けてくれないよ。お前、あれだけのことをしておいて、よく懲りずに挑戦しようとか言えるよな」

「明日帰るんならなおさら今日、勝負させてほしいね。夕方には親父は香港を出てるんだから、都合がいいのは今日しかない。そうだろ?あいつ、昨日は兄貴の前だったから、格好つけて断っただけだよ。女はすぐ男の前で演技するからな。あいつは分派なんだから、正統派の俺が挑戦したいと言えば、本当は戦いたいはずだ」

「お前分かってないな。彼女は誇り高い武術家だ。お前なんかと不毛な争いはしたくないんだ。お前の昨日の態度を見たら、誰だって関わり合いたくなくなるよ。そんなことも分からないのか」

「だから俺と本当に戦いたくないかどうか、直接会って聞いてくるから。兄貴も来る?」

「昨日断られただろ、やめとけ。既にお前、かなり嫌われてるんだから。本当にお前、鈍感だな」

「昨日は断ったけど、今日は気が変わってるかもしれない。女ってすぐ気が変わるじゃん。坂本崇高だって、最初は逃げ回ってたけど、最終的にはかかって来いとまで言ってたじゃないか」

「それはお前のしつこさに嫌気がさしただけだよ」

「とにかく今日しかチャンスはないんだから、張忠誠の所に言ってくる。お願いに行くだけだから、止めないでくれよ。だめだったら帰って来るから」

「お前、問題起こすなよ。お前の魂胆は分かってるぞ。彼女を無理やりここに連れて来て、謝らせようと思ってるんだろ。お前、先祖の事なんか彼女に関係ないんだからな」

「大丈夫だって。俺たち武道家同士なんだからさ。映画でもよくあるじゃん、戦ってる間に友情が芽生えちゃいました、とかさ」

「映画の中ではな。お前は映画の主人公じゃない。お前、彼女と親しくなりたいんだろ?ちゃんと礼儀をわきまえて、友人にして下さいって願い出ろよ。友人になれたあとで、武道家として挑戦しろ」

「あんな偉そうな奴と親しくなんかなりたくないよ。兄貴も難しく考えすぎなんだよ。とにかく、分派の継承者が現れて、今日しかチャンスがないんだったら今日戦うだろ。単純な話だ。今日を逃したら次はないんだぞ。兄貴もあの女に惚れてるんなら、協力してくれたっていいじゃないか」

「惚れてないよ。継承者だから、武道家として興味があるだけだよ」

「まあ、惚れたとしても諦めたほうがいいぜ、あの空手家が恋人みたいだからな」

 兄弟の口喧嘩はいつまで経っても終わらなかった。


「昨日までは大変だったね、あの兄弟に追いかけ回されて、気を悪くしたかもしれないけど」忠誠は再会した愛良と崇高に言う。

「もういいのよ、楽しみましょう」

「俺がこんなことを言うのもおかしいんだけど、彼らは別に、悪い人間じゃないんだ。ただ、武道に関してはかなり熱い思いを持っている。それが高じて、君たちに付きまとってしまったんだと思う。特に明陽は武道家としては優れてるんだから、もうちょっと平和的に君たちに近づけばよかったのに、仇討ちとか、好きなんだよね、そういう話が。昔のそういう映画ばっかり見て影響されてるんだってさ」

「あなたも本当は、もっと熱い人なんじゃない?」愛良は忠誠に聞く。

「そうだよ。君があの時、俺たちの前で技を披露した時は、本当に鳥肌が立つくらい衝撃的な出来事だったよ。彼らの流派そのものだったから」しかも全く同じではなくて少し進化してたよね、と付け加える忠誠。「だから、今回は無理だったとしても、もし時間をかけてお互いを理解することができたら、俺は君に、彼らと交流してほしいとは思っているんだ。実は昨夜、明龍から電話があって、彼がすごく興奮気味に、君の技を見ていかに感動したかを語ってくれたよ。彼は、正当派が継承の段階で消滅してしまった型を君が披露していたと言っていた。そういう観点からも、君は彼らの流派にとって貴重な存在なんだと思う」

「あれ」

 崇高は突然立ち止まった。

 愛良は、立ち止った崇高を見て、また誰かが追いかけてきたのかと思って辺りを見回した。

「どうしたの?」

「ここだ。ここじゃないかな?」

 崇高は、狭い通りをじっと見つめてから、周りを見回した。

「俺、父親と香港に来た時、この辺りに住んでたんだよ。変わってないなんて。懐かしいなあ」やっぱり見覚えがあるよ、と喜ぶ崇高。「この先に道場を開いてた建物があるはずだ」

「そう、行ってみる?行きましょう?」嬉しそうな崇高を見て、愛良は言った。

 崇高は、しばらく周りを見回していたが、感慨深そうな顔をして愛良を見た。

「いや、1人で見て回ろうかな。父親のことを思い出して、悲しくなってしまうかもしれない」

 そうね、と愛良はうなずき、彼の父親は去年亡くなったばかりであることを忠誠に伝えた。

「1人で見て来るよ」

「いいの?食事はどうするの?」愛良は聞く。

「食事なんて気分じゃなくなっちゃったよ。忠誠、君たちは行ってて。愛良を頼むよ」

「え、いいの?俺が愛良と、2人きりのデートになるよ?」

「ああ、仲良く食事してな」

「じゃあ崇高、あれ見えるかな、中華油の看板。あそこの店なんだ。あそこで食べてるから、ゆっくり見て来なよ。道に迷うなよ。ここの噴水が目印だから、ここまで来たら、ぐるっと見渡せば中華油の看板が絶対に見えるはずだから。昼を過ぎると雨が降って来て、風も強くなるから気をつけろよ」

「気をつけてね」愛良は心配そうに言う。「誰かに襲われそうになったら大声を出すのよ」

「大丈夫だよ。それに、俺はもう狙われないから。心配なのはお前のほうだぞ。お前が継承者だってばれてしまったんだからな。忠誠、本当に愛良を頼むよ。もし何かあったら、俺はこの辺りにいるから」

 崇高は歩いていってしまった。

「じゃあ行こうか。こんなに早く君とデートできる機会がくるなんて、光栄だな」

「そうね、私もよ」愛良は冗談っぽく笑う。

「本当?口説いてもいいの?」

「とにかく、おいしい所に早く案内して」

 昨日はふさぎこんでいたように見えた愛良だが、今日は終始機嫌が良さそうに見えるので、忠誠は安心して店に案内した。


 明陽は公園のベンチに座ってペットボトルの水を飲んでいた。

 近くにハトが寄って来たので、持っていたクラッカーを砕いてハトに撒いてやる。

 餌に群がるハトを見ていると、携帯が鳴った。

「はい。見つかった?坂本崇高だけ?何だよ、間違いじゃないのか?」電話は門弟からだった。「お前、崇高の顔なんて覚えてるのか?どこだ、位置情報送れよ。何?ああ、分かった。そこならすぐ行ける。だけど崇高が1人で、なんでそんな住宅地をうろついてるんだ?本当に周りに愛良も忠誠もいないのか?」

 言いながら明陽は、そういえば探偵の調査では、そこは昔、崇高が住んでいた住所であることを思い出した。

「分かった。そこだな。俺が行くまで目を離すなよ」明陽は財布を開けて中身を確かめた。「あと、他の奴らを集めろ。お前と、あと2人までなら今日の日当払えるぞ」

 明陽は、崇高を目撃したという門弟の所へ向かった。

「どこだよ、逃したのか?」15分ほど経って、明陽はその場所に到着した。門弟は全部で3人いたので、それぞれに手当を払う。

「いや、あの建物の中に入ってからは、全然出て来ないもんで」門弟の1人が建物を指差す。

「あいつ1人だけなんだな?」

「はい、あとの2人は全く見えません」

 そう言っていると、崇高が建物の外階段に現れた。

「うわ、出てきた」

 門弟たちと明陽は身を隠した。

「え?何で隠れるんですか?」門弟の問いに、明陽はうるさい!と答える。

 崇高は、名残惜しそうに外階段から、建物の中を見つめている。

 道場のあった建物だ。確か調査では、彼の父親は去年病死したはず。

 崇高は手すりにもたれかかり、暗い表情をしていた。

「ちょっと待ってろよ、お前ら」

「行かないんですか?」

「まだだ」

 しばらくすると、崇高は建物の影に入るように壁にもたれかかり、うつむいて肩を震わせ始めた。父親を思い出し、泣いているのだろう。

 死んだばかりの父親との思い出の場所だから、1人で来たんだな、と明陽は思った。

 やがて崇高は外階段を下りて地上へ来ると、辺りを見回しながら歩き始めた。

「何してるんでしょうかね?」

「ちょっと待ってやれ。あいつにとっては大事な時間だ」

 崇高は住宅地や狭い路地、小さな公園を移動しながら歩いている。明陽と門弟たちは気づかれないよう、後をつけた。「ここらへんは昔と変わってないからな」と明陽はつぶやいた。

 明陽が周りを見回すと、建物の陰に怪しい人間が見え隠れしている。

「あいつ危ないな、ここは結構物騒な場所なのに、あんな旅行者丸出しの無防備な歩き方して、目をつけられてやがる。忠誠は注意もしてやらなかったのかよ。おい、車はどこに停めた?」明陽は門弟に聞く。

「あっちです」

「そろそろかな。お前ら、ついて来い」

 崇高が懐かしい場所を全て見終わったようなのを感じとり、明陽は崇高を後ろから追いかけた。

「おい、また会ったな」

 明陽は崇高の肩を掴んで振り向かせた。

 崇高を狙っていたらしいチンピラ風の男たちは悔しそうな顔をして行ってしまった。

 崇高は驚いた顔をしたが、肩を掴んでいる明陽の手を振り払い、門弟たちを威嚇するように見た。

 近くの店に愛良がいることだけは、悟られてはいけない。

「怖い顔するなよ、色男が台無しだぜ?」

「何の用だ?今日は愛良と一緒ではないぞ」

「知ってるよ。ところで、愛良に会いたくないか?」

「何だと?」

「会わせてやってもいいぞ、来いよ」

 明陽は崇高の肩を押した。両側を門弟に挟まれて崇高はそのまま歩かされる。

「どういう意味だ?愛良に何をした?」

「いいから車に乗れ」

 明陽は門弟の車の、後部座席のドアを開き、門弟の1人に、乗せろ、と顎で命じた。

 崇高はそのまま後部座席に座らされる。両側には門弟たちが乗り、助手席に明陽が座った。

「よし、車を出せ」

 運転席の門弟に命じると、車は発進した。

「おい、どういう事だ、答えろ!愛良に何かしたのか?もしそうならお前を許さないぞ」

「心配するなって。無事だから。多分な」

「どこに向かってるんだ。言え!」

「うちの道場だよ」

 崇高は後ろから明陽に掴みかかろうとした。

「お前、危ないな!暴れるなよ!仕方ないな、縛れ」明陽は後ろの門弟に顎で指示すると、門弟たちは、どうもすいません、と言いながら崇高を後ろ手に縛った。何がすいませんだよ、と怒る崇高。

「おい」崇高は言った。「もしかして、人質は俺か?」

「察しがいいな。その通りだよ。愛良はどこにいる?」

 崇高は拘束されながらも暴れようとしたので、両側の門弟たちに押さえつけられた。

「お前、卑怯だぞ!」

「仕方ないじゃないか、愛良と対戦するにはこれしか方法が無いんだから。お前を殴ったりしないから我慢してくれよ」

「お前、こんなことをしてただでは済まされないぞ、分かってるのか!愛良に手出ししたらお前を殺してやる」

「はあ?勘違いするなよ。別に、連れ込みホテルに呼び出す訳じゃない。あんな感じの悪い女は俺の好みじゃないんでね。同じ流派の武道家同士、道場で対戦するだけだ。門弟たちの立ち会いの元でやるんだから、公平だし平和的だろ?怒るなよ」

「愛良がお前の挑戦なんか受けるとでも思ってるのか?断るに決まってるだろう」

「女はすぐ気が変わるんだよ。まあ、お前が人質なら俺と戦わざるを得ないだろうな」

「どこにいるかも知らないくせに」

「どこにいるんだ」

「知らないね」

「調べればすぐ分かるんだよ」車は真っ直ぐ道場へ向かっていた。


 愛良と忠誠は、食事をしながら忠誠のスマートフォンで蕭師匠の画像を見ていた。

「これ、この間取材させてもらった時の写真なんだ」

「あら、素敵な写真ね。師匠、かっこいい」

 愛良はその画像をよく見る。

「あなた、こんなのネットに上げてたのね。私、全然知らなかった。動画サイトばかり見てたから」

「きっと、君にとっても有益な情報がいっぱい載ってると思うから、今度から見てくれよ。蕭師匠のインタビューはいつも読み応えがあるんだぜ」

「そうね、日本に帰ったらじっくり読ませてもらうわ」

「ねえ、師匠に会いたくない?」

 画像に見入っていた愛良に、忠誠は言う。愛良はびっくりした顔で忠誠を見たが、すぐに恥ずかしそうな顔をする。

「ええ、そうね」愛良は遠慮がちに肯定する。

「あのさ、明陽が仇とか言っていたのは、彼が勝手に言っていることだから、気にすることはないよ。師匠がどんなに立派な人か、君は知ってるだろう?今回は師匠は不在だから、会わせてあげることはできないけど、君が分派の継承者だと知ったら師匠は喜んで君に会いたがると思うんだ。俺と明龍から、君のことを伝えてもいいかな」

 ねえ、待って、と愛良は困惑したように言う。

「師匠に私のことは伝えないで」

「どうして?師匠は絶対喜ぶはずだよ。明龍だって、君に会えたことを喜んでたじゃないか。彼は師匠の一番弟子だよ」

 愛良は首を振った。

「あのね、忠誠。あなたにはちょっと理解できないかもしれないけど、明陽が私を仇だと言ったのは、正しいのよ」

 え?と忠誠は聞き返す。

「だから、もしあなたが私のことを師匠に伝えて、師匠が私に会いたいと思ってくれたとしても、私としてはまだ師匠に会うわけにはいかないの」

「どういう意味か分からないな」忠誠は笑う。「明陽の言っていることを本気にしてるの?おかしいよ。だって、祖父の祖父の祖父くらいの昔の話だろう?」

「そうよ、昔の話よ」

「それに、君は香港に来てすぐに師匠の先祖のお墓参りもしたんだよね」

 愛良は、ええ、と答える。「だけど私は、分派の継承者として果たさなければならないことがあるの。それを終えてからでないと、師匠に顔向けできないわ」

「何を果たさなければならないんだ?」理由は分からないが、忠誠は愛良の言葉に不安を覚えた。

 愛良は、何も答えなかった。


 道場の扉が乱暴に開いたので、明龍がそちらを見ると、明陽が崇高を門弟たちに囲ませて入って来るところだった。崇高は後ろ手に縛られている。

「おい、お前まさか」

 明龍は弟の所にやってくる。

「愛良には会えなかった。張忠誠にもね。ただし、こいつがいたから」

「何てことしてくれたんだ。すぐ解放しろ」明龍は弟に言ってから、崇高を見た。「済まなかった、崇高、怪我は?」崇高は不機嫌に横を向いた。

「怪我はさせてないよ。殴ってもいない。車に押し込んだだけ」

「押し込んだだけって、お前な」

「兄貴、忠誠の電話番号を知ってるんだろ、連絡してくれよ。俺が彼女と勝負したいって」

「忠誠とは連絡が取れないんだ。あいつ、電話に出ないんだよ。それより崇高を解放しろ。後ろ手に縛るなんて、屈辱だろ」

 明龍は崇高を椅子に座らせた。「済まないな、弟が…」と言ったが、崇高は顔をそらしたまま、こちらを見ようとしなかった。

「こいつを今、解放したって、ここがどこかも分からないんだから、どうしようもないよ。兄貴は張忠誠の友人だし、あいつが行きそうな所、知ってるんだろ。愛良だけ連れて来てくれ。愛良だって兄貴みたいないい男の迎えなら喜んでついてくるぜ」

「お前は俺と忠誠の友情まで壊す気か」

「友情?最近まで付き合いを断ってたじゃないか。兄貴は愛良のことが知りたいから、忠誠と連絡取り合ってるだけだろ?分かってるぞ。昔の友人を利用してるだけじゃん」

「違う。お前が空手大会で崇高を狙ってたから、忠誠が心配して俺に電話をくれたんだよ。変な勘ぐりするな」

「でも愛良にもう一度会いたいだろ?」そう言ってから明陽は兄の耳元で「あんな弱っちい男から愛良を奪うチャンスだぜ」と言った。

「俺は彼女がそういう女だとは思っていない」

 明龍はテーブルに手をついた。

「せっかく分派の継承者と友人になれたかもしれないのに、何て事を。一度怒らせた人間を、もう一度怒らせるとは」

「兄貴だって愛良と俺の勝負、見たいくせに」

「こんなことまでしてか?次の機会を待てと言ったのに」

「待てない。親父は今日香港を発つし、彼女は明日帰るんだから。チャンスは今しかない。そうだろ?」

 明龍はもう一度崇高を見た。そして彼のそばに来た。

「崇高、怒っているだろう。本当に済まない。しばらく我慢してくれ。彼女を連れて戻って来る。それで、ここで彼女の意思を聞こう。彼女はきっと、弟とは試合しないと言うだろうから、そうしたら俺が彼女と君をホテルまでちゃんと送り届ける。彼女が今どこにいるか、教えてくれないか」

「知らない」崇高は答えた。

「喧嘩でもしたのか」明陽が言ったので、お前は黙ってろ、と言いながら明龍は彼の腹に突きを食らわせた。

 明龍は忠誠に電話した。やはり出ない。

 明龍は崇高のそばに来た。

「君は愛良に連絡する手段はあるのか?携帯は?」

「ない。滞在は数日だし一緒に行動するつもりだったから、携帯を海外で使える設定にはしなかった。携帯はあるがホテルに置いたままだ」

「分かった。とにかく愛良を探して君の前に連れて来る。悪いがちょっとここにいて我慢してくれ」

 明龍は言いながら、自分が車のキーを携帯していることを確認する。

「良かったな兄貴、今日も愛良に会えるじゃん。忠誠は連れて来るなよ?あいつすぐ余計な事するんだから。警察なんか呼ばれたらアウトだからな」

 明龍は、弟の胸を突き飛ばした。「お前、後で覚えてろよ。あと、崇高には絶対に手だしするな。分かったな。お前らもだ!」明龍は門弟たちにも言った。

 明龍は道場を出ようとした。

「明龍」

 呼びとめたのは崇高だった。

「地名は分からないが、2人がいるのは忠誠の好きな中華料理屋だ。2人は俺が単独行動をしてから戻って来るのを待ってる。中華油の看板がある店だ」

 明龍は振り返った。

「安全に連れて来てくれ」崇高は言う。

「どこか分かった。ありがとう」明龍は道場を出て車に乗った。

 運転しながら明龍は、愛良のことを考えていた。崇高を人質に取ったりして、彼女はきっと怒るだろう。車には大人しく乗ってくれるだろうか。忠誠はどうする?愛良だけを連れて来ることは可能なのか?

 空はどんよりと曇っている。確実に嵐が来るのが分かった。


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