夜更けの裏庭で
鏡のように磨かれた床板を進み、突き当たりのドアに手をかける。
「……拓巳くん、入るよ」
寝ていることも想定し、小声で呼びかけながら入ったのだが、ベッドに部屋のヌシの姿はなく、ひんやりとした空気が漂うだけだった。
「あれ? まだお風呂かな」
拍子抜けして室内灯を点けると、俊くんが僕の袖を引っ張った。
「あれを見ろ。ヤツは外に出たんじゃないか?」
見ると六畳ほどの部屋の奥、ベッドの向かい側の壁のカーテンが少しだけ引かれ、奥のレトロな嵌めガラスの扉を覗かせている。その向こうにはベランダがあるのだが、扉が僅かに開いているようで、そこからひんやりとした空気が流れてカーテンの裾を揺らしているのだった。
「本当だ」
ダメじゃん、開けっ放しちゃとベランダに歩み寄り、工芸品のような真鍮の取っ手を押して覗いてみる。しかし外灯が照らすそこにも姿はなかった。
「……?」
椅子にかけてある厚手のカーディガンを羽織り、誘われるようにベランダに出てみると、淡い光の中、装飾が施された鉄製の欄干の角が一ヶ所、口を開けている。近寄るとその先は階段になっていて、山の斜面を背景にした裏庭の小道に繋がっていた。
「いないのか?」
ガラスの扉を閉めた俊くんがベランダを見回す。僕は口を開けた欄干の先を指差した。
「この先、行けるんだけど……」
二月に入ったばかりにしては、今夜はとても暖かい。とはいえ風呂上がりの拓巳くんが、果たして行くかなと考え込んでいると、前方に目を止めた俊くんが歩み寄ってきた。
「あれを見ろ」
小声で耳打ちしながら指で示され、庭先のやや左側に目を向けると、白樺と見られる白い幹の木立の合間に黒い影が浮き上がって見えた。
あの背格好は拓巳くん。
何を見ているのか、斜め前に生えている捻くれた木に顔を向けたままじっと動かない。
俊くんに顔を向けると、彼もこちらを見て頷いている。僕は小声で推論を述べた。
「山が近いから、窓を覗いてたら欄干にリスが来て追いかけたとか」
「ありえるな。行こう」
「待って。僕たちスリッパだよ」
「ヤツもスリッパだろう。今さらだ」
石畳だしと指し示され、それならまあと足を進める。緩やかにカーブする石畳を進んで行くと、白樺の木立まであと数歩のところで、ふいに斜め前方から女性の声がした。
「……だから、それはできない決まりなんです」
あれ、この声。覚えがあるぞ。
俊くんも気づいたか、僕の動きを止めるように腕をつかむ。細くて泣きそうな声だが間違いない。澪奈さんだ。
「調べて教えてくれって言ってるわけじゃない。資料の、それもほんの一部だけ見せてくれればいいんだ」
今度は男性の声だ。これも聞き覚えがある。言わずと知れた史昭氏のものである。
俊くんに合図し、脇に生い茂る椿の陰に移動して首をのばすと、人の背丈ほどの木々の真横に二人の男女の人影が見えた。
手前の澪奈が、奥に立つ史昭氏に相対している。史昭氏は左横の捻れた木の枝に片手をつき、やや前のめりの形で澪奈に何かを頼んでいるようだ。二人ともまだスーツにハーフコートの姿で、会社帰りの雰囲気が漂っていた。
社会人にとって、夜の十時なら遅すぎる時間ではない。しかし。
この忙しい中、女性をこんな寒空の下に引き止めて内々のおねだりかい。
思いやりのなさに呆れ、次いで白樺の木立にいる拓巳くんもこれを見ていたのだと気づく。
あの捻れた木の向こうに史昭さんを見つけたんだな。
俊くんも同じ結論に達したようで、僕たちは二人で目線を交わした。
どうしよう。戻るべき?
いや。ここは留まるべきだろう。
僅かに首を振る俊くんに頷き、前方を注視すると、俯いていた澪奈が顔を上げた。
「ごめんなさい。史昭さんのお願いでも、理事としてそれはできません。史昭さんには皆さんと同じ条件の中で成果を上げてほしいし、できる人だと信じています」
そうしたらお祖母様がきっと支持してくださいますからと続けると、史昭氏はちょっと体を引いた。
「わかるもんか。それに伯母様は今、祐司さんの養子とやらに夢中じゃないか」
「そんなことないわ。それに拓巳さんや和巳さんは会社とは関係ない。お祖母様は、実力を示せば認めるとおっしゃったわ。お父様だって前に言っていらしたのよ。『武文さんが引退して文昭君が理事職を継いだとき、澪奈が副理事になっていれば、ゆくゆくは二人で協力して運営する道筋ができる。祐司もその下準備をしてくれているから頑張りなさい』って」
胸の前で手を握りしめ、切々と訴える姿にはほのかな恋情も窺える。しかし史昭氏には響かないのか、うんざりしたように言った。
「うちの父さんは死ぬまで引退なんてしないって言ってるだろ? それにもし病気で譲ることになったとしても、兄貴に譲るかもしれないし。僕に一生、君の腰巾着でいろっていうのかい?」
ひどいな君はと続けられ、澪奈は淡い外灯の光の下でもわかるほど悲しそうな顔になった。
「腰巾着だなんて……史昭さんのお兄様はとっくに井ノ上を離れていらっしゃるし、理事会役員には定年があるじゃありませんか。あとたった二年です」
「寛文さんの例があるからね」
「お、お祖父様は会長でしたし、引退が伸びたのは不祥事の後始末のためだったと」
「父はその弟だ。理由をつけて会則を曲げるくらいするだろうよ」
「それはお父様がちゃんと」
「脳梗塞で倒れちゃったのに? まともに喋れるかどうかわかったもんじゃない。そのまま寝たきりになる人だって大勢いるんだ。知ってるだろ?」
「………」
もちろんわかっているのだろう。顔を歪めた澪奈は力を失ったように俯いた。僕は内心、ムカムカしてきた。
仮にも婚約者のくせに、なんて思いやりのない言葉を投げるんだ。
しかしそんなことは気づきもしないのか、彼はさらにこう言った。
「ね? だから僕は自力で、しかもなるべく早く君と肩を並べないと。いい加減、固いこと言ってないで協力してくれないかな。予定金額さえわかればベテラン揃いの同僚たちを出し抜ける。僕のプランが選ばれれば、代表取締役昇進は間違いなしなんだ」
君だって、僕を腰巾着とか社員たちに言わせたくないでしょう? と付け足され、澪奈の肩が震える。そこに迫るようにして史昭氏が肩をつかんだ。
「できないなら僕がやるから、閲覧室とパソコンのパスワードを教えてくれ。コピーなんて数分だ。誰にもわからないよ」
さてはこいつ、澪奈さんに不正をさせる気だな?
話から察するに、平素から立場の低さを不満に思っていた史昭氏は、総司さんの急病で出世の速度に不安を抱いた。そこで今参加している企画競争でライバルたちを出し抜き、自分のプランが確実に採用されるよう、予定金額なるものを探ろうと考え、必要な資料を閲覧できる澪奈さんを唆してデータを手入しようとしているのだ。
つまりは上位の成績を取りたい大学生が、教授の身内に試験の答案用紙を見せてくれと言っているようなものだ。
こいつ。自分のことしか頭にない。こんなヤツと結婚したってろくなことにならないぞ。
思わず身を乗り出しそうになり、俊くんに腕を引っ張られる。
そうこうしているうちにも、前方では「やめてください」と拒む澪奈の肩を引き寄せた史昭氏が、顎に手をかけていた。
「いいじゃないか。婚約者なんだから」
強引に押し切ろうとする態度が透けて見えたか、澪奈が本気で抵抗しはじめ、これは止めるべきだと俊くんの手を外したとき。
「いてっ!」
突然、史昭氏が澪奈から手を離し、背を丸めて頭を押さえた。
「あ、あなたは……」
ふいに目の前に立った新たな人影に澪奈が声を上げる。屈み腰の史昭氏を冷めた目で見下ろしていたのは、いつの間に背後へと回り込んでいたのか、ロングコートの上に長髪をなびかせた拓巳くんだった。
「無粋だったら悪い」
彼は握った拳を目の前に翳すと、ちょっと目を眇めて口の端を吊り上げた。
「嫌がる相手に迫る男には吐き気がするんでな」
すると片手で頭を押さえた史昭氏がサッと背筋を伸ばした。
「な、なんだよ君! 覗きとは失礼なっ」
「覗き?」
拓巳くんは首をかしげた。
「俺の行こうとした先にあんたがいただけだ」
「出任せを言うな」
薄暗がりのせいだろう。史昭氏は正面に立つのは避けながらも素顔の拓巳くんに怯まなかった。
「さては君。祐司さんに媚を売るために僕たちを探っていたな!」
――は?
「………」
くだらなすぎて目が点になったか、拓巳くんが押し黙る。それをどう捉えたか、史昭氏は勢い込んだ。
「澪奈。騙されちゃだめだぞ。彼は祐司さんを誑かして、いずれは井ノ上を乗っ取る気なんだ!」
ナニ言っちゃってんだこのヒト。
僕も目を点にしていると、どこか得意気になった史昭氏は、立ち尽くしている(ように見えているに違いない)拓巳くんに言った。
「聞いたよ。親子で養子なんてヘンな話だと思ったら、君って祐司さんのコレなんだって?」
コレと言いながら小指を立てられ、拓巳くんの顔から表情が消えた。
「えっ?」
ビクッと口元に手を当てた澪奈が横を見上げ、史昭氏がこれ見よがしに肩を竦める。
「あの人が活動する軽音楽の世界では有名な話だってさ。この綺麗な顔に、もう何人もの男が道を踏み外してるそうだよ。祐司さんも犠牲者の一人で、すっかり虜なんだとか。そしてこの男は確実に祐司さんを取り込むために、次なる手として富子伯母様に取り入ろうとしているんだ。だからほら、最近は伯母様の部屋に入り浸りだろう?」
なんちゅうバカげた話だ。
ところが。
「そ、そんな……」
何が衝撃だったのか、青ざめた澪奈は拓巳くんを見ると、涙目になって目線を逸らした。
えーっ! ちょっと。まさか信じないよねそんな話!
しかし僕の心の叫びは木々に阻まれているのか、俯いたままの澪奈は史昭氏に再び肩をつかまれてもさっきのようには抵抗しなかった。
……おい。それはないでしょ。何の証拠もないのに。
眉間にシワを寄せるうちにも史昭氏の話は続く。
「ねぇ澪奈。考えてごらん? こんな綺麗な顔をした男を養子にするんだよ? 謎が解けるじゃないか。祐司さんがずっと独身だったのは相手がいなかったからじゃない。同性愛者だったからなんだって。残念ながら噂は真実だったようだね」
「………」
おそらく独身の祐さんにまつわる噂が前から一族にあったのだろう。今や完全に信じた様子の澪奈に史昭氏がささやいた。
「君のために出世を急ぐ僕と、とうとう男を家族に迎えてしまったあの人と。君ならどっちがこの先、頼むべき人間なのかわかるよね」
コイツはさっき、あなたに不正を唆したんだよ。どっちが人として正しいか、ちょっと考えたらわかるじゃん。
しかし澪奈はうなだれたままで、それに笑顔を向けた史昭氏は肩に手を添え、「場所を変えようか」などと促して、二人は右側に方向を変えた。
拓巳くんは冷めた表情のまま動かない。
なんか。総司さんには申し訳ないけどガッカリだ。こんな風に物が見えてないんじゃ、頼りなく思われるのも仕方ない。いっそ不正でもなんでもやれば? 祐さんに伝えて被害が出る前にとっちめてもらうから。
投げやりな気分で二人の背中を見やったとき。
「待て」
突然響いた低音に、僕も俊くんも、そして低木の向こうの二人もビクッと固まった。
「……ゆ、祐司兄さま」
澪奈の口から喘ぐような掠れ声が漏れる。よく見ると、彼らの行こうとした捻れた木の先に、淡い光に浮かぶ黒々とした長身の姿が佇んでいた。
ほ、ほんと、祐さんって。あんなに近くに立ってたのに、なんでダレも気づけないんだろう……。
普段の革ジャンスタイルに比べれば、ダークグレーのトレンチコート姿はけして威圧的ではない。が、野生の黒豹のような静けさにかえって緊張が増す。
しかし拓巳くんだけは動じなかった。
「祐司」
僅かに強い語尾が「遅い」と咎めるような響きを帯びている。
もしかして、待ち合わせていた?
そう思ったのは僕だけではなかったようで、一瞬の衝撃から覚めた史昭氏は、グイと背筋を伸ばすと、二十センチ近く上にある祐さんの顔を見上げた。
「これは祐司さん。お疲れ様です。こんな夜に待ち合わせですか? 忙しいでしょうにまめですね」
先ほどの話に引っかけようというのか、彼はどこか下卑たニュアンスの挨拶をした。上役でもあるはずの人に挨拶するにしては、かなりふてぶてしい態度だ。しかしそんなことを意に介する祐さんではなかった。
「『どっちがこの先、頼むべき人間なのか』か」
「………っ」
言外に「話は聞いていたぞ」と告げられた史昭氏は一瞬、顔を強張らせた。が、言い抜けられると思い直したのか、開き直ったように祐さんを斜めに見上げた。
「そうですよ。聞いちゃいけませんか? 僕はいろいろなご趣味をお持ちのあなたと違って、常に澪奈と財閥のことを心に置いていますからね。彼女には僕を応援してもらいたいんだ」
「ほう」
祐さんは一歩踏み出した。
「それは立派だな。だが逆も然りだと思うが。澪奈の立場は考えないのか」
「考えていますとも。僕がもっと正当に評価されて実力に見合った地位に就けば、早く彼女を重責から解放してあげられるんだ」
……おめでたい男である。
本気で思っているのならある意味感心、だから澪奈もほだされてしまうのかもしれない。 が、もちろん祐さんには通用しなかった。
「甘えたことを言うな!」
「………!」
史昭氏と、そして澪奈の肩が同時に跳ねた。
「だったら実力で勝負しろ。情につけ込んで近道するんじゃない!」
その声は抑えてそこあったが、低く鋭く、二人を突き刺すような迫力があった。
ほ、本気で怒ってる!
隣の俊くんも恐れをなしたらしく、目を丸くして僕の腕をつかみ直している。
怒気を露にした祐さんは、さらに一歩踏み出しながら言葉を続けた。
「まして澪奈は理事だ。傘下企業の一役員にすぎないおまえにとっては上司だろう。仕事の話をするのなら、社内の序列に従って話せ。最近のおまえの態度は目に余る」
彼は二人の目の前で足を止めると、史昭氏に向けて腕を右横――木々の遥か向こうに見える建物らしき黒い影の方向に振った。
「自宅に戻ってしばらく頭を冷やせ。おまえの会社の社長には俺から話をつけておく」
「えっ……」
それまでどこか余裕を見せていた史昭氏は、慌てたように態度を変えた。
「ちょっ、待ってくださいよ! 僕が何をしたっていうんですか! まだ何も起こってないし、さっきの会話のことなら冗談です。真に受けるなんてそんな」
空いているほうの肩をすくめ、媚びるような笑みを浮かべて必死に言い募る。
「ちょっとした弱音ですって。甘えてみただけですよ。恋人同士ならよくあることじゃないですか」
ねぇ、と口元をひきつらせながら、肩を抱いたままの澪奈に顔を寄せる。
「ほら、僕の会社の社長って、外部から来た人間なんで、井ノ上グループで育った僕のやり方が気に食わないんです。幹部も次々入れ替えられて、お陰で僕のプランのよさが全然伝わらなくなっちゃって。こんなんじゃ、澪奈を助けることがちっともできないから」
「それで内部資料の不正入手か。とんだ規約違反だな」
「だからっ! ホンの泣き言ですって。澪奈だって本気に取ったりしないですよ」
「………」
祐さんが無言で目線を移すと、澪奈はビクッと肩を震わせて俯いた。
祐さんは史昭氏に目を戻した。
「……いいだろう。プライベートの、泣き言混じりの冗談だったというんだな?」
「わ、わかってくれました? やだなぁ、もう」
史昭氏の声が上ずり、澪奈がハッと顔を上げる。
えっ。見逃しちゃうの?
意外な展開に横目で俊くんを窺うと、彼も厳しい目つきになっている。
顔を戻すと「さっ、行こう」と史昭氏が澪奈を促していた。
すると祐さんが遮るように片手を前に伸ばした。
「澪奈は置いていけ」
「えっ……」
史昭氏の足が止まり、澪奈がビクッと背を揺らす。そんな彼女に祐さんが言い渡した。
「まだ話がある」
「………」
澪奈が怯えたような目で見上げる。彼はどこか痛ましげな眼差しで付け足した。
「すぐ終わる」
それを聞いた澪奈は頷き、祐さんに目を向けられた史昭氏は「じゃあ……」と軽く会釈してから石畳の道を足早に去っていった。
冬枯れの木に囲まれた夜の庭が沈黙に包まれる。
徐々に凍みてきた寒さに伸ばしていた首を引っ込め、カーディガンの前をかき合わせると、同じく戻した俊くんが身を寄せてきてくれた。
僕たちも下がるタイミングだろうが、この距離で動くのはまずい。
お互いの熱で体を温め合っていると、僕たちを隠す椿の向こうで祐さんの声がした。
「澪奈。おまえを残した理由はわかるか」
再び沈黙が漂い、そしてか細い声が響く。
「……はい」
え? 僕、わからないんだけど。
俊くんと密着したまま再び首を伸ばすと、低木の向こうで祐さんが頷いていた。
「言ってみろ」
澪奈がソロソロと顔を上げる。
「……理事の義務を促すためです」
「義務とは?」
澪奈は一瞬、肩を震わせ、深呼吸してから言った。
「公平な立場で担当企業を管理すること。業績を上げた部署には報い、落とした部署には改善を指導し……」
そこで語尾が揺れ、しかし吐き出すように言った
「改善が見られない場合は断を下すことです」
「そうだな」
祐さんが重々しく頷くと、澪奈はまるで縋るように距離を詰めた。
「祐司兄さま、私には……っ」
「二年前、俺は聞いたな」
遮るような祐さんの言葉に澪奈はハッと固まった。
「この先どうしていきたいかと。おまえは確かこう答えた。『父たちが守ってきたものを私も守りたい。そこで働く人たちがずっと元気でいられるように』」
「………」
澪奈が肩を落とすと、祐さんは目を細めた。
「そのためには今、何をしなければならないのか。俺は、おまえにはもう答えが出せていると思っている」
澪奈が再びハッと顔を上げる。
「だから改めて問うことはしない」
そこで彼は体の向きを横にずらし、自分の後ろが見えるようにした。
「拓巳とのことも。おまえには前に伝えてある。だからそれ以上の説明はしない」
「………」
澪奈は苦しげな顔で薄明かりの下に佇む拓巳くんを見、再び祐さんを見た。
「わ、私は……」
「俺に言えるのはそれだけだ」
長い腕に本宅の方向を指し示され、澪奈は口を開きかけた。が、思い直したように引き結ぶと頭を下げ、史昭氏の自宅とは正反対の方向へと踵を返した。
彼女の足音が消え、少しだけ肩の力を抜くと、拓巳くんの声が夜の庭に響いた。
「あの子は、あんたが好きだったんだな」
えっ、と耳をそばだてると、祐さんが低い声で答えた。
「兄としてな」
「ウソをつけ」
口の端で笑った拓巳くんは、二歩ほどあった距離を詰めた。
「真剣な時期があったんじゃないか? 嫉妬を滲ませた女の目をしてたぜ」
「こんな薄明かりで何がわかる」
「わかるさ」
拓巳くんは肩を竦めた。
「似たような表情をさんざ見てきたからな」
祐さんの眉根がグッと寄った。
「おまえを見ていれば、大抵の人間はよくも悪くも心揺をさぶられる。それは最初に忠告したはずだ。今さらそんな顔をするくらいなら明日にでも帰れ!」
ひゃ……っ!
普段の彼からは信じられない苛立たしげな口調だ。しかし対する拓巳くんも負けてはいなかった。
「やだね」
「拓巳!」
スネた子どものようにソッポを向く拓巳くんの肩を、祐さんの長い手がつかむ。それに目をやった拓巳くんは再び祐さんを見上げた。
「そんなことより早くあの男をふん縛れよ。あれは冗談なんかじゃなかったぜ」
そしてコートのポケットから携帯のようなものを取り出すと、彼の空いているほうの手に押しつけた。
反射的につかんだ祐さんは、手の中のそれを見て少し目を見張った。
「ICレコーダー……いつの間に」
「早川さんが持たせてくれたんだよ。セキュリティー用に、って。証拠になるだろ? よかったな」
どうやら拓巳くんがあの場にずっといたのはそのためだったらしい。史昭氏の指摘は図らずも当たっていたのだ。
しかし彼はそれを自分のコートのポケットにしまい、拓巳くんに告げだ。
「史昭の処置は澪奈に任せる」
「は? ずっとできないできたから玲さんたちが動いたんだろう」
「できなかったんじゃない。史昭が自分から改めるよう、あれなりに働きかけていたんだ」
そ、そうなのかな……?
僕でも疑問に思うくらいなので拓巳くんは尚更で、無言で祐さんを見上げる目が「どこがだよ」と語っていた。
祐さんが言い聞かせる口調になった。
「史昭には少々浅はかなところがあるが、基本は明るい質で頭脳も優秀なんだ。もし澪奈の婚約者でさえなければもっと謙虚になれただろうし、父親の口出しや出世欲に惑わされずに精進しただろう。澪奈もそれがわかっていたから手を尽くしていた。それなのに、叔母たちが変に煽るから……」
それが僕たち親子を優遇する芝居のことを指しているのだとは、口にされずともわかった。
ああ。だからあのお茶会のとき、祐さんは富子さんにあんなに厳しい口調で抗議したんだ。僕や拓巳くんがした協力は、祐さんにとっては余計な手出しだったのに違いない。
青ざめる思いで肩を落とし、察した俊くんに手を握られる。しかし拓巳くんの口調は変わらなかった。
「煽ったんじゃない。膠着状況に一石を投じたんだ。このままじゃもたないと判断してな」
もたない? 何が。
と思う間もなく、祐さんの手を肩から外した拓巳くんが続けた。
「それは、富子さんや玲さんの耳にも聞き流せないレベルの訴えが上がっていたからで、対処が遅い娘への不満を抑え続ける総司さんの負担を危ぶんだからだ」
その言葉で、パーティーのときに見た、総司さんの複雑そうな表情が脳裏に甦った。
なるほど富子さんたちの意図はそこにあったのか。それなら強引にも思えた一連の行動も理解できる。
図星だったのだろう。祐さんは苦い顔で黙り込んだ。
「祐司には不本意だろうが、結果としては富子さんの読みが当たったわけだ」
「………」
「認めろよ」
拓巳くんはグイと顔を近づけた。
「祐司があっさり会長代理に選出されたのは、玲さんのパーティーでの一幕を見た親族が、富子さんの意思がどこにあるかを察して、あの狸親父を支持しなくてもやっていけると判断したからだ。息子の健康を危ぶんだ母親のカンが、危険を嗅ぎ取って回避行動を取らせたんだな」
それは否定できない事実だったようで、拓巳くんに迫られた祐さんは目線を逸らした。
「……さっきの件が一線を越えたことは澪奈にもわかっている。今日明日に対処できないようなら、こちらで手を打つことになるだろう」
苦いものを吐き出すような声が祐さんの口から漏れると、拓巳くんが納得した様子で顔を引っ込めた。
「玲さんあたりから『甘い!』とかモンクが飛びそうだが、よしとするか」
「おまえは……」
その態度に神経を逆なでされたか、今度は祐さんが拓巳くんの腕をつかんで引き寄せた。
「今回に限ってなぜそんなに首を突っ込む。どうして玲さんや富子さんの肩を持つんだ」
「別に肩を持ってるわけじゃない。話を聞いて、俺も祐司のやり方がもどかしいと感じたからだ」
「じゃあ、もういいだろう。一刻も早く横浜に戻れ」
「祐司が囚われたままなのに? それはできない」
「拓巳……!」
腕をつかむ祐さんの手に力が入る。それに顔をしかめながらも、拓巳くんに引く様子はまったくない。僕は思わず息を飲んだ。
こんなやり取りをする二人は見たことがない……!
横目に見る俊くんも目を見張っていて、長年の付き合いである彼にとってもこれは稀なことなのだとわかる。
「……祐司が何を心配してるのかはわかってる」
さすがに自らの態度を省みたか、拓巳くんの表情が少しだけ緩んだ。
「このままここにいたら、富子さんが俺と和巳の書類を動かすよう早川に指示するだろうと、あの人が動いたらもう止められないと踏んでるからだろう?」
「わかっているならなぜ帰らない」
「それだと祐司が返してもらえなくなるからだ」
「―――」
「そうなんだろう?」
拓巳くんは首を少し傾けた。
「俺たちが養子に入れば、祐司は独立したと認められるが、養子に入らなかった場合、このままだと男手に欠けるって理由で富子さんが祐司を養子にする」
えっ、そうなの⁉
咄嗟に俊くんを見、知らん! と首を振られてすぐに顔を戻す。低木の向こうでは、祐さんが厳しい顔つきで口を閉じていた。
ほ、本当のことなんだ……。
愕然としていると、拓巳くんは目線を右側の前方に向けた。そこには母屋の瓦屋根と白壁が、薄明かりの中に浮かんでいた。
「次世代――この場合は娘だな――が育ってない状態で総司さんに何かあった場合、横浜の井ノ上家から養子を取って本家を継がせる。昔、総司さんが跡取りに指名されたときに結んだ取り決めだ」
「………」
「それは娘たちがまだ小さかったからで、本来、祐司の親父さんの役目だったんだが、拒否されたことで理事職と一緒に宙に浮いて、祐司が引き受けたときにくっついてきたんだよな」
「富子さんがおまえに話したのか」
「いや。前に聞いたのを思い出したんだ」
「誰から」
「陽子さん」
「おふくろが?」
さすがに予想外だったか祐さんが目を見張った。すると拓巳くんは違うというように軽く手を上げた。
「俺に話したんじゃない。祐司と会話してるのを聞いちまったんだ。昔、泊まったときに目が覚めて、水を飲みに居間を通りかかったから……」
「………」
心当たりがあるのだろう。腕をつかんでいた彼の手が緩む。
「それを知ったあと、会長に直談判しようとして富子さんに止められたことがある。そのときに、祐司が家族を持てば養子にはしない、そのままで十分、役目を果たすことができるだろうからって言ってくれたんだ」
「それで俺に、自分が井ノ上になるのは俺たちみんなのためだなんて言ったのか」
それは二人で話し合ったときのことなのだろう。拓巳くんは頷いた。
「この前のパーティーのとき、親族たちの様子がずいぶん落ち着かないように見えた。特に総司さんの様子が変で。メディアでも騒がれてたし、跡継ぎのことで何かあったのかもしれないから、用心したほうがいいと思った」
まさか総司さんが倒れちまうとまでは思わなかったけど、と拓巳くんは付け足した。
「祐司がこうまで井ノ上に縛られるのはみんな俺のせいだ。だから責任を果たす」
――えっ。
強い決意を滲ませた言葉に一瞬、耳を疑うと、祐さんが全身をビリッと震わせて再び気配を荒らげた。
「だから何度も言ってるだろう。それはおまえのせいじゃない!」
何度も言ってるのかと驚くと、さらに恐ろしいセリフが拓巳くんから飛び出した。
「でも祐司がずっと結婚しないのって、俺がいるからだろう?」
な、なんだって……っ!
気の迷いか、聞き間違いかと祐さんのほうに目を向けると、彼は苦いものを飲み下すような表情で拓巳くんを見ていた。
ま、まさか。
それを見た拓巳くんの顔が悲しそうに歪む。
「俺が弱いから。俺が頼りないから、祐司は一生、守るって決めちまったんだ……」
徐々に力を失っていく声とともに頭が垂れ、拓巳くんは逸らすように顔を背けた。
僕の脳裏に幾つかのシーンがよぎる。
――祐司は『守るべき家族はもう手に入れているから心配はいらない』と言ったのですよ。
――祐司さんがずっと独身だったのは、相手がいなかったからじゃない。同性愛者だからなんだって。
さらには秋のカジノ場潜入で言われたあの言葉。
――脈ありか。なんなら新境地を開拓してやるぞ。
まさか、まさかっ!
泡を食って俊くんを見るも、彼も目をまん丸にして彼らを凝視している。
顔を戻した先では、気配を鎮めた祐さんが、少し困った表情で拓巳くんの頬に手のひらを添えて上向かせていた。
「それはな。昔、俺が勝手に決めたんであって、おまえが気に病むことじゃない」
ホントのことなのか――っ!
あまりの衝撃に頭を抱えそうになり、俊くんに腕を押さえられる。
(お、おいっ、動くんじゃない!)
(でもだって、アレって!)
声なき声で会話するも、二人とも涙目だ。
そんな僕たちの有り様を感知することなく、低木の向こうの二人は未知なる世界を繰り広げていた。
「でも、祐司がそこまでの覚悟をして向き合ってくれていたのに。俺なんて気がつくどころか逆に傷つけて。あとでどれだけ後悔したことか……」
哀切を帯びた表情が、どこか色気をまとって見えるのは気のせいか。
「わかってる。おまえは恐れただけだ。それは当然なんだ。俺も性急すぎたしな。だいたい、そんな余計なことは思い出さなくていい」
ええ――っ! ――……っ、……っ。
もはやどうリアクションすればいいのかわからない。
そんな僕の心境など知るよしもなく、拓巳くんは数々の伝説に彩られた美貌に決意のようなものを浮かべてこう告げた。
「そうやって甘やかして、俺の記憶はまんまと腑抜けにされたよな。でも二度はきかないぜ。今度は俺が守るんだ。これまでの祐司の気持ちに報いるために」
気持ちに報いる……!
それを聞いた祐さんの手が僅かに揺れ、拓巳くんはその手をつかみ返して挑むように言った。
「俺たちが養子になれば、祐司は本家に籍を移す義務はなくなる。そんであの厄介な婚約者ヤローを排除すれば、澪奈も早いうちに評判を取り戻せる。そうだろ?」
「………」
「そしたら総司さんが思うように回復しなくても、祐司は会長にならなくて済む。今までと同じレベルで音楽ができるんだ。その目処が立つまで俺は動かない。たとえ書類が動いて……和巳がそれを拒否しようともな」
拓巳くんが祐さんの手を腕から外し、一歩下がった。祐さんはつられたように一歩前に出た。
「本当に、いいのか?」
「ああ」
拓巳くんが切れ長の目を細めると、祐さんは少しだけ痛そうな顔をして拓巳くんのそばに寄った。そして肩を抱くようにして促すと、二人は母屋の方向に姿を消した。
取り残された僕たちは、あまりの展開に魂を抜かれ、寒空の下に寄り添ったまま立ち尽くしていたのだった……。