鎌倉屋敷の日々
◇◇◇
「和巳様、よろしいでしょうか」
「あ、はい」
ノックとともに声をかけられ、違和感に背中をムズムズさせながら返事を返す。直後、真鍮の取っ手のついたドアが静かに開かれた。
この時間なら夜のお茶だなと思って机から顔を上げると、お茶のトレーを捧げ持った井ノ上家のベテラン家政婦、志摩子さんの後ろに思いがけない人が女性の姿で佇んでいた。
「とっ、蒼雅先生……!」
婚約者を呼ぶにしてはおかしな表現だ。しかし志摩子さんは心得た表情で壁際に身を寄せ、ライトブラウンのパンツスーツ姿の俊くんは薄化粧の顔を綻ばせた。
「いきなり来てすまない」
「そんなこと……っ。いつになってもいいからって言付けておいたのは僕だし」
レトロな木製の執務机からそそくさと立ち上がり、ドアの近くまで迎え出ると、志摩子さんにどうぞと譲られた俊くんが絨毯を踏んで入ってきた。
「ご就寝の際は、客間にご案内いたしますのでお申し付けください」
トレーをソファーセットのローテーブルに置き、頭を下げて出ようとするふくよかな姿に、僕はふと思いついて声をかけた。
「僕が案内しますから大丈夫です。志摩子さんはもう下がってください」
「ですが……」
ふっくらとした顔に戸惑いが浮かぶ。
「連日、お客様続きで大変でしょう。こちらのことはだいぶ慣れましたから、志摩子さんは明日に備えて休んでください。それにほら、僕たち二週間以上も会えないでいたことは久しくなかったから、話が長くなると思います」
「あら……」
彼女は目尻のシワを深くして微笑むと、僕と俊くんを見比べた。
「これはお邪魔様でした。では遠慮なく下がらせていただきますね」
再度頭を下げる姿はどこかホッとしていて、僕は彼女の仕事を減らせたことに満足した。
志摩子さんをドアから送り出し、足音が遠退いてから内鍵をかける。二人でソファーの前に移動したところで、どちらともなく手を差しのべて抱きしめ合った。
「和巳……」
心の底からこぼれたようなつぶやきに誘われて頬に手を添える。
重ねた唇はひんやりと冷たく、けれどもその先は暖かな体温が待ち構えていて、お互いの熱で時間を埋めるように僕たちはしばらく交わした。
「―――」
やがて満たされたと感じたところで、僕たちはソファーに座った。
「ああ……ようやく二人だな……」
しなだれかかるように胸にもたれた俊くんが言い、ウェーブの頭を撫でながら「ホントだね」と相槌を打つ。明治の文化財かと見紛うレトロかつ上品な邸宅の一室で、僕たちが飢えた恋人よろしくベタベタしているのにはもちろんわけがあった。
総司さんの病院に駆けつけ、VIP室の富子さんのそばに腰を据えた先々週の夕方。
拓巳くんの妙技でうるさそうな親族の方々を撃退すること約三時間余り。総司さんの手術は無事に終わった。
「まだ予断は許しませんが、ひとまず重篤な状態は脱しました」
担当医の説明に胸を撫で下ろして喜んだものの、本当の試練はそこからだった。
「ね。お願いがあるの。お母様のことよ。今夜は遅いから私の横浜のマンションに泊まるのだけど、さすがにお疲れで、明日は鎌倉に帰りたいのですって。けれど兄さんがいないとなると、本宅は女性だけになっちゃうのよ」
そこで玲さんは声をひそめた。
「この先も大変な数の遠縁や取引先のオジサマたちが押しかけてくることになるわ。だからお願い。しばらくの間、鎌倉でお母様についていてもらえないかしら」
それが武文氏や正夫氏のような輩を指すのだとは聞かずともわかった。しかしこちらにも事情がある。
さすがにそれは拓巳くんが嫌がるよ。
彼は基本、出不精で、特に枕が変わるのが嫌いなのだ。
「それは……」
隣をチラ見しつつ返事を濁す。しかしここでも拓巳くんは意外な答えを出した。
「わかった。明日の夕方に向かう」
ウソッ。
引っくり返りそうな僕の胸中をよそに、彼はサクサクと話を進めた。
「ちょうど仕事が空くところだったから、しばらくは付き合えるだろう。ただ、和巳がいないと色々な場面で支障が出る。だから和巳が困らないようにしてやってくれ。それには雅俊の許可が必要だ」
「わかったわ。すぐに雅俊くんにもお願いする。もちろん、婚約者として出入りも自由にするから」
かくして俊くんとの間に連絡が飛び交い、僕たちはひとまず仕事や学校を休み、壮大な鎌倉の本宅の一角にある離れ屋敷に納まった。
すると翌日からご親戚及び関係者の方々の来訪が始まった。
「乃木コーポレーション社長が挨拶に参られました」
「大内証券社長がお見舞いにいらっしゃいました」
「茨木の藤代様からお電話が入っております」
もちろん井ノ上家で働く人々は、これあるを予期して複数の応接間を調え、役割分担があるのか、早朝に到着した玲さんが慣れた様子で采配を奮った。
「あ、乃木さんはお母様の客間にお通しして」
「大内さんは早川が対応してちょうだい」
「藤代の叔父様のお電話は玉枝さんに転送ね」
しかしこの情報化社会において、仕事先からの病院搬送では内緒にしようもなく、事態を知った関係者一同から送り込まれてくる人や電話連絡の数が半端ない。
「ごめんね、拓巳くん。玉枝さんを兄さんのところに行かせてあげたいの。ちょっとだけ和巳くんをお借りしてもいいかしら」
富子夫人の横に座を占め、彼女の求めに応じてサングラスを外したりかけたりして来訪者の滞在時間を短縮していた拓巳くんに、疲労を滲ませた玲さんが頼みに来たのは昼過ぎだ。
「こっちの客を連れ出す役は他のスタッフでもできるだろう。困ったら呼ぶから行ってやれ」
もはや毒を食らわば皿までの心境になったのか、拓巳くんが承諾したので、僕は玲さんの客間と玄関先の往復で午後いっぱいを過ごし、その間に彼女と早川さんからアレコレを教えられて、夜が来る頃にはすっかり井ノ上家の第二秘書と化していた。
『早川が、飲み込みの早さと気配りに感動していたぞ。お陰で外部からの見舞い客の対応が大変楽だったそうだ。ありがとう』
報告を受け、本社からわざわざ電話をくれた祐さんは、珍しくホッとしたような声で言い、突然の会長代行という状況の大変さが忍ばれた。
「こちらは大丈夫です。富子さんが動じない方なので、拓巳くんもそばにいて苦じゃないみたいです。僕も学校が自由登校に入ってますから心配しないでください」
『助かる。色々とすまないが、あと少し力を貸してくれ』
拓巳くんの世話を焼き、スケジュールを遂行させるという難題を担ってきた僕からすれば、お見舞い集団の振り分けなどお安いご用、ましてや滅多にない祐さんからの頼みに否やのあろうはずもない。
〈T-ショック〉のスケジュールについては俊くんが調整に追われたが、当初もらった電話では、そう悪くない見通しだった。
『総司さんの術後は安定しているようだから、意識が戻って三日もすれば祐司の手も空くだろう。楽曲の編集に入る予定だったが祐司の分はあとからでもできる。PV撮影は終わってるから、バタバタするのは今日明日だけさ』
明後日にはおれもそこに顔を出すからと伝えられ、今は祐さんのために頑張ろうねと話し合ってその日を終えた。
ところが。
「再手術……!」
翌日の午後。病院から呼び出しを受け、例のVIP室に集った本家の面々が聞かされたのは、楽観を戒めるような内容だった。
「もう一ヶ所、血管が破裂しそうな部位が見つかりまして、医療チームで協議した結果、危険と判断いたしました」
モニターに写し出されたMRI画像で詳しく説明され、すぐに玉枝夫人が承諾書にサインして手術が行われることになったが、問題は体力だという。
「術後しばらくは安静が必要になります。後遺症などの確認もありますから……」
手術が予定通り進んだとしても最低一ヶ月は養生が必要です、と深刻な面持ちで担当医は告げた。
それを受け、本社ビルに詰める祐さんや澪奈、関連会社勤務の沙羅や史昭氏を除き、主だった親族が鎌倉の奥座敷に呼び集められ、僕たちを背後に控えさせた富子夫人が一同に告げた。
「仕方ありません。今は病院の先生方の腕を信じ、総司が無事に回復するまで皆で力を合わせて乗り切るのです。幸い事務方の報告では、財閥の運営は祐司の采配で滞りなく進んでいるそうです。早急に祐司を会長代理に立て、理事会で承認すれば、対外的な信用不安や混乱は防げるでしょう」
危急の措置と言われれば、祐さんの解放を願う僕たちでも口は挟めない。が、その理屈が通らないのが今の井ノ上の状況である。
案の定、左右に膝を揃えた玉枝夫人、玲さんは即座に賛意を示したが、座卓を取り巻く男性陣の一角からは声が上がった。
「だったら会長代理は総司君の長女の澪奈さんがなるべきではありませんかな」
その筆頭はむろん、長老を自負する武文氏だ。
「彼女は来年にも副理事に就任する予定でいたはずだ。総司君と祐司君がそう進めていたと聞いているぞ」
しかし独壇場とはならず、座卓を挟んだ向かい側から反論が飛んだ。
「それは会長である総司さんあっての計画でしょう。総司さんが健在で、祐司君がバックアップする。この条件があってこその副理事の人事なんですよ」
一族の中にも武文氏らに異を唱える勢力はあるようで、彼の左右に座る同年輩の男性たちもそれに同調した。
「若くて優秀な、けれども多少、個人的な情に流されるたちの彼女を、二人の間で鍛えて一人前にしようという苦肉の策ですね」
澪奈と史昭氏の関係を揶揄され、武文氏が噛みつく。
「君、そんな言い方は澪奈さんに失礼じゃないのか」
「そうだぞ。それに史昭君がいるのならむしろ安心じゃないか。祐司君には顧問という形で協力してもらえば十分だろう」
隣から正夫氏が続いたが、壮年の男性はどこか見下した表情で鼻を鳴らした。
「史昭君が? どうでしょうね。むしろ足を引っ張りかねませんよ」
「それはどういう意味かね! 言いたいことがあるならはっきり言わんか」
「いいですとも。役員を務める企業グループ内でご自分の評判すら上げられない状況では、澪奈さんを手伝うどころではないということですよ。祐司君にも迷惑な話ですね」
「な、何を根拠に……!」
対立構造が浮き彫りになる中、富子夫人がうんざりした表情でたしなめた。
「やめなさい。お恥ずかしい。史昭の評判なら私も耳にしています。思うような成果が上がらず、周囲との連携も欠いているようですね」
武文氏が苦い顔で黙ると夫人は「けれど」と相手の男性を向いた。
「あの子もまだ若い。実務は経験で培うもの。批判するからには柾さんもご自分の実績に自信がおありでしょうから、先達として良き方向に導く心構えでなければなりませんよ」
「は、申し訳ありません」
柾と名を呼ばれた男性が恐縮して頭を下げ、その場を治めた富子夫人は一同に言い渡した。
「柾さんの言うとおり、澪奈の件は総司がいてこその計画。今は非常時です。井ノ上の資本によって成り立つすべての会社、そこで働く社員のため、運営には少しの遅滞もあってはなりません。会長代理に相応しい者が祐司の他にいるというのなら、今この場で名を上げて根拠を示しなさい。そうでないのなら力を合わせて祐司を守り立てなさい」
新たな反論は出ず、また僕たちにももはや防ぎようがなく、とうとう祐さんは会長代理に内定してしまった。
そうなると話が違ってくるのが俊くんである。
『祐司が最低一ヶ月間、会長代理……!』
電話で話を聞いた俊くんは、それがもたらすものを瞬時に悟ったようでこう漏らした。
『……これは和巳。しばらくおまえとはまともに会えないぞ』
「えっ、どうして?」
イマイチわかっていなかった僕に、彼は言い含めるようにして告げた。
『曲の編集に祐司の手が見込めなくなるからだ。三月に発売を予定していたニューシングルの三曲中、二曲はできているが、三曲目の後半がまだ途中なんだよ。二人でなら五日もあればできることだったから、PV撮影を先にしちまった』
拓巳に曲宣やらせるためには長めの休みが必要なんでと付け足され、それがいつものパターンであることに思い至る。
新曲を出すとき、宣伝のためのメディア露出は欠かせない。となれば当然ボーカルの出演は不可欠で、これがナニよりキライな拓巳くんを宥めるための、いわゆる『ご褒美』だ。
ゆえに彼だけが今現在、二日にいっぺん、三時間などという、近所のお店を手伝うパートのおばちゃんのようなスケジュールになり、鎌倉に居を移して十日以上経っても仕事に支障が出ないのだ。
『鎌倉まで、最低でも目黒から往復二時間か……残念だがしばらく二人きりの時間は持てないな』
かくして俊くんも缶詰めになり、週末の逢瀬もお預けのまま二週間が過ぎたのだった……。
「曲は出来上がったの?」
胸にもたれる横顔を覗くと、どことなくほっそりした顔で彼は微笑んだ。
「なんとかな。もっともおれだけじゃ限界で、最後は祐司のいる井ノ上ビルに持ち込んで手を入れてもらったが」
「そんなことができたの?」
なにしろロックへの認識がアレである。一般社員の集うフロアならいざ知らず、理事室への立ち入りなど大丈夫だったのかと驚くと、俊くんは慣れた風に言った。
「今回が初めてじゃないからな」
「えっ、そうなの?」
「そりゃ祐司だって考えてるさ」
俊くんはクスッと笑った。
「彼自身が生粋のギタリストなんだ。財閥に協力できるのはそこに触れないからであって、音楽に支障を来すとなれば話は違う」
そうして明かしてくれた話に僕は再び驚いた。
「会長執務室の隣に機材の揃った部屋が?」
「そう。祐司のニーズを満たした立派なやつが」
それは今から十三、四年も前のこと。井ノ上の理事の一人が不正騒ぎを起こし、理事会で追究、罷免の採決を取るために、祐さんに緊急召集がかかったときのことだという。
「当時、会長は先代の寛文氏で、おれたち二人はちょうどアルバムの編集でスタジオにこもってた。そしたら突然、会長の秘書から連絡が来てな。三日程度のゴタゴタだっていうからおれは承諾したんだが、祐司が『今は大事な局面だから駄目だ』って断ったんだ」
「祐さんが?」
「あれだ。おまえの誘拐事件。拓巳に脱退宣言されたのを、おまえに曲を贈って凌いだことがあっただろ」
「ああ……」
それは僕が四歳のとき。全国ツアーの終盤、札幌のステージ会場で起きた事件だ。
誘拐そのものは未遂で済んだのだが、ステージの中断を防ぐために拓巳くんへの報告を避けたことで信頼が壊れ、僕が体調を崩したことも重なって、拓巳くんが脱退宣言するなどしたいわくつきの事件である。
「なかなか回復しなかった僕に俊くんが曲を作って届けてくれて、それを聴いた僕が意識を取り戻したことで拓巳くんはバンドに戻ったんだよね」
その後に起きた色々な出来事を思い出していると、俊くんが意外なことを言った。
「実はあのとき、曲を届けろって言ったのは祐司なんだ」
「えっ、俊くんの発案じゃないの?」
胸元を覗き込むと、彼は口元に苦い笑みを浮かべていた。
「おれはもう全然だめで。おまえに電話で慰めてもらったぐらいだからな」
「あ、そうだった」
責任を感じて拓巳くんを諦めたために、気力がなくなってしまったのだ。
「あのとき祐司が尻を叩いてくれたお陰でなんとかバンドは保たれたんだが、解散寸前までいったことで祐司にも思うところがあったんだろうな」
緊急の呼び出しに対し、今回のアルバムは全力を尽くしたいと譲らなかったのだという。
「そうしたら会長が直接スタジオまで来て。でも祐司は一歩も引かなくて。理由を聞いた会長が『そういうことなら、作業を進める合間の時間にちょいと出席できるようにしたらええんじゃろ』とかいって、次の日の夜には本社ビルの会長室の隣に編集室ができてたんだよ」
「ええっ! 一夜で?」
「寛文会長も理事会での採決に万全を期したかったんだろうな。いつもは鷹揚な祐司がテコでも動かないんで、手段に構っちゃいられなかったんだろう。後日『祐司にとっては音楽あっての人生なんじゃな』なんてぼやいて、陽子さんに今さら何をって笑われてるのを聞いたよ」
その後、編集室は会長のポケットマネーでさらに整備され、公然の秘密のような扱いで秘書が管理しているのだという。
「総司さんもその辺の経緯は知ってるからな。あの人の秘書に連絡を入れると祐司に取り次いでくれるし、今回みたいに持ち込むときは迎えが来るようになってるんだ」
「わざわざ迎えが」
「ああ。目立たないようにってことで、会長室への直通エレベーターを使うんで」
「えっ……と、それはその、見つかると他の役員さんとかに咎められちゃうから?」
例えばあの叔父さんたちのようなお年寄りに。
脳裏に浮かんだ推測を口にすると、俊くんは頭を預けた格好のまま苦笑した。
「まぁ、それはやっぱり井ノ上財閥の中枢は基本、上流出身の人間で構成されているからな。お堅い意見の輩も結構いるから、余計な軋轢の種にならないよう配慮してるんだろう」
「……そうなんだ」
優遇はされてはいても、あくまでもそれは例外で、大手を振ってやられては困るとの位置づけなのだ。
「……大丈夫なのかな、祐さんは。ギターが天職のような人なのに」
ポロリとこぼすと、俊くんもそうだなと相槌を打った。
「不本意ではあると思う。だが、総司さんに回復の見込みがあるなら割り切るだろう」
総司さんは二度の手術を乗り切り、無事に意識を回復した。しかしすぐに復帰できるはずもなく、当分は安静、その後は後遺症があるかを検査し、もしあった場合はプログラムを組んでリハビリの日々を過ごすことになるのだという。
そのため祐さんの重要性はますます増したようで、こちらの屋敷で会えたのはたったの三日、それも大口取引先との内々の交渉とやらが目的で、格式の高い第一応接室での接待に多くの時間が費やされ、僕に個人的な言葉を交わす暇は与えられなかった。
もっとも与えられたとしても、今はゆっくり休んでくださいと辞退するべきだろうが。
「僕たち、どうなっちゃうのかな……」
「和巳?」
俊くんはちょっと頭をこちらに上げ、ゆっくりと僕の頭に腕を回して引き寄せた。
「不安か?」
オニキスとも黒曜石ともつかぬ黒目勝ちの瞳に気づかうような眼差しを向けられ、僕は体に回した腕に少し力を込めた。
久しぶりに心を委ねられる相手を前にしたせいか、心の隅に押しやっていた言葉が口をつく。
「うん。正直に言えばそう」
「何かあったのか?」
「ううん。むしろ無さすぎて。このままじゃ、書類なんかなくても富子さんの言葉だけで十分、僕たち祐さんの養子に認定なんだ」
この家に来てはや二週間。祐さんが会長代理に認められてから、拓巳くんと僕はすっかり本物の身内扱いで、最近では富子夫人の紹介の仕方にためらいがなくなってきた。
「祐司の家族ですのよ。今までは横浜のマンションとここを行き来しておりましたの」
「ほう、これは気づきませんで。失礼しました」
古い付き合いだという上流の紳士に挨拶され、こちらがヒヤヒヤするのも構わずに話を作る。
「この人たちも、わたくしや祐司と同じ気質でしてね。平素は表に出ることを好まないのですよ。ここに来ても慎ましく離れを使っておりましたから、お目に止まらなくても無理はありません」
「そうでしたか。今どき感心ですな」
相槌を打たれても恐縮の至りで、僕たちが入った建物は離れとは名ばかりの立派な一軒家、屋根つきの長い渡り廊下で繋がっている造りなのである。初めて案内された日など、アンティークのような内装に気後れして足を止めてしまい、富子夫人に笑いながら宥められたものだ。
「そんなに畏まることはありませんよ。ここは祐司の家ですからね。元はあの子の両親に用意した家でしたが、祐司しか使わないので名義もちゃんと変えてあります。つまりあなたの家でもあるわけですから気楽にお使いなさい」
そんなことをポンと言われても、素直に受け取れるはずもない。
ところが拓巳くんといえば、ためらう様子もなく富子さんの言の如くに振る舞っている。この騒然とした邸内にあっても、家事スタッフが来れば必ず何事か用を言いつけ、夜にはワインやつまみなどを離れに運ばせるのだ。
「ちょっと拓巳くん。少しは遠慮しないと」
「別に。ここの人たちは慣れてるぜ?」
昔から、ここに泊まるときはこんなだったというのだが、そのあたりの記憶がない身としてはいっそういたたまれない。
そういった心情を吐露すると、俊くんは笑った。
「そうか。覚えてないか。そのことに関しては大丈夫だ。ここに勤める人たちは用事を言ってもらいたいはずだから気にしなくていい」
「………」
この忙しい最中にそんなはずないじゃん。
俊くんも富豪経験者、使われる人の気持ちはわからないのかもと落胆すると、「コラ、そんな顔するな」と頬をつままれた。
「家事のためにいるスタッフなんだから、こき使ってあたりまえとか思ってるわけじゃないぞ。そうじゃなくて、彼女たちは一般人だろうが」
「一般人?」
「普通の生活水準の人。つまりごく普通のメディア情報に接している人だ」
テレビだって見るしCDだって買うだろう? と続けられて言いたいことに気づく。
「あ、そうか。〈T-ショック〉を知ってるんだ」
あまりにソコが意味をなさない日々を過ごしていたので、うっかり忘れていた。
「そういうこと。この屋敷で働く人たちは優秀でな。まあ雇用側がマナーや守秘義務に厳しいハードルを課しているせいでもあるんだが、極力態度には出さないように心がけてくれている。それでも拓巳のようなやつがそこにいれば平静ではいられないから、ついつい用事はないかと訊ねに来る回数が増えるのさ」
だから色々頼むのも一種のファンサービスなんだと付け足され、そこまで曲解していいのかと眉根を寄せると、再び俊くんが苦笑した。
「最初の頃はな。拓巳はあのとおりの無表情、祐司も似たようなもん。おれはまぁ、愛想はいいが関わりが薄いんで毎回はついてこない。だからここのスタッフさんたちにとって、芳さんが唯一、気楽に話せる人で、おれたちはどこか近寄りがたかったらしい。ここに出入りする祐司にとって、それはあまりいいことじゃなかった」
「………」
おそらくは、本家での立場に影響を与えたのだろう。
「それがあるときから赤ん坊のおまえが加わって」
そのときのことを思い出したのか、俊くんの口元が綻ぶ。
「当然、面倒を見るのを手伝ってもらうことになるわけで。おまえはよく笑う子で人見知りもなかったから、みんなに可愛がられてな。そのときばかりは拓巳の気配も和らいだし、子どものいる女の人たちは先輩としてアドバイスできるだろ? それでやり取りが増えて距離が縮まったんだ。だからここでのあいつは色々頼むことに気兼ねしないし、そのほうが祐司のためにもいいんだよ」
「そうだったんだ」
そんな理由があるのなら、拓巳くんの振舞いを見ても安心できる。
「よかった。僕には拓巳くんがこういう生活に馴染む姿があまりに意外すぎて、なんだか祐さんがこのまま会長になっても困らないよう、備えてるように見えちゃって……」
さすがに考えすぎだったねと苦笑すると、俊くんは少し首を傾け、次いで体を起こした。
「……拓巳は寝室か?」
「多分。さっきまでここにいて、お風呂入ったらそのまま寝るって言って出ていったから」
マンションでの就寝時間より二時間も早いのは、この家の朝が六時起床、身支度を整えてのち、七時から朝食と決まっているからだ。
その時間でないと厨房担当のスタッフが困るのだとわかってはいても、朝寝坊が好きな人間にはなかなか辛い。それなのにモンクも言わずにこなすのだから、妙な勘ぐりをしたくもなるというものだ。
僕もバカだなと自省していると、俊くんがスッと立ち上がった。
「行こう」
「え、まさか寝室に? 今から?」
唐突な誘いについ疑問符が浮かぶ。
拓巳くんは、寝るまではゴロゴロして過ごすことが多いが、寝室に下がったらすぐに寝る習慣である。途中で起こされるのも苦手で、しばらくはまともな会話にならない。
もちろん俊くんも承知しているはずなのだが、彼は僕のリアクションを見ても意見を変えなかった。
「まだ十時前だ。ギリギリ起こせるだろう。それに、おまえに関わることならヤツはすぐに目を醒ますさ」
「僕の?」
「そう。おまえの不安」
さあ、と腕を引っ張られ、僕は立ち上がりながらも押し止めた。
「僕のためっていうならいいよ。今、俊くんが話してくれたので十分だから。それよりも疲れてるでしょう? お風呂に案内するから」
なんだか痩せたよ? と頬に手を添えると、彼は黒目勝ちの目を細めて言った。
「おれを気遣ってくれるのは嬉しいが、逆もまた然りってな。おまえの中に不安が溜まっていたのは、やっぱり根本的な拓巳の行動理由をつかんでないからだと思うんだ。そろそろ明かしてもらってもいいはずだぞ」
言いながら、俊くんは僕の手のひらを頬から外した。
「おまえだけじゃない。おれも困る。一週間や十日程度で収まることなら知らなくてもいいが、一月以上も続くとなれば、さすがにこの先の活動にも影響が出てくる。ちゃんと事情を把握した上で計画を立て直さないとな。現におまえは、この先Gプロでの仕事が控えていることを伝えたら、井ノ上側が交渉して借り受ける形に変わったんだろ?」
「うん。明日から」
二月に入ったら、僕はGプロの新規採用予定者とともに新人研修に参加するはずだった。
内容的には会社見学や現社員を加えての座談会など、新年度をスムーズにスタートさせるためのメニューなので、沖田さんいわく『和巳君にはあんまり必要ないんだけどね』な内容だ。それでも出席を勧められたのは、四月からは準社員の扱いにするという社長の意向を受け、研修に参加しておいたほうが後々やりやすいからだ。
しかしそんな程度の理由だったので、それらの予定を知った早川さんが富子夫人に進言し、私設秘書トップの立場でGプロの後藤社長に依頼した。即ち、
『必要な経費は当方が受け持ちますので、どうかしばらくの間、彼を出向の形でお借りしたい』
名にしおう一族本家の懐刀からの要請に、社長は『必ず返してもらえるのなら』と念押しし、しぶしぶ承諾したのだという。
俊くんは口を尖らせた。
「拓巳はいいさ。ここの離れは静かでおまえも一緒、スタッフは顔見知りでマナーを守ってくれるし、祐司がいないから仕事は単独のしかなくなって、ここから送迎つきで現地に運ばれるだけだから楽なんだろうが、おれたちはそうも言ってられないんだよ……!」
だんだん語尾に恨み節が漂うのを、よしよしと肩を撫でて宥める。俊くんはハッと身を引き、無意識のうちにギュッと握り込んでいた僕の片手を離すと、ちょっと咳払いなどして「とにかく」と続けた。
「計画を立て直すには理由と展望が必要だ。祐司のためだとどうしてここまで付き合えるのか。どこまで付き合う気でいるのか。その二つは把握しないと周囲に迷惑がかかる。だからいい加減、聞き出しにいこう」
俊くんの意見に、今度は僕も頷いた。