拓巳くんの謎
「……祐司と拓巳のトラブル……う~ん」
「思い出せませんか……」
二日後の午後。
都内にある撮影スタジオの片隅で、僕は真嶋さんの様子に思わず肩を落とした。
前方には、やや広めの空間に、森の中のカフェテラスをイメージした中庭らしきセットが施され、春の新緑に囲まれた中央のウッドデッキの上には、洒落た細工の脚がついた鉄製の丸テーブルが置かれている。
そこには今、寒波の影響を受けた今年最低の外気温を無視し、春にふさわしいプリントシャツやデニムのラフな出で立ちでいる〈T-ショック〉メンバーの三人が、それぞれ椅子に腰かけていた。
真嶋さんが連れてきたアシスタントスタッフ二人が道具を抱えて行き交う中、右側に足を組んだ祐さん(ちなみに彼は定番の革パン、黒いTシャツに、上だけ白い薄手のカッターシャツだ)、奥にはテーブルに肘をついた俊くん、そして左側がやはり足を組んだ拓巳くんだ。
三月に発売予定の新曲『クレシェンド』、そのPVの撮影現場である。
アシスタントたちが引き下がると、手前で待機していたスタッフが二人、撮影カメラを肩に抱えてそれぞれ左右に移動した。
「はーい、じゃ本番いきまーす」
ディレクターのかけ声が響き、曲が流れて撮影が始まる。それを暗幕の脇で見守りながら、僕は同じく隣で見守る真嶋さんに再度質問をした。
「でも、相手は祐さんなんです。あの人を押し切れるからには、相当な理由があると思うんですが」
「それはそうだ」
真嶋さんも頷いた。
「だいたい、いくら高橋の名字が忌まわしくても、井ノ上になるのだってあの子には煩わしいはずだよ。年に二回の鎌倉への挨拶ですら『めんどーだ』とかぼやいてるんだから」
それは僕もよく知っている。
「だからこそ、何かあったと思うんです。多分それは、祐さんが昔、僕たちが養子になるのを引き留めた理由に繋がると思うんですが……」
「引き留めた理由か……」
真嶋さんの薄茶色の目が物思いに沈む。
彼は時々セットの中に目を向けながら、顎に当てた手を頬へとずらし、やがて何かに気がついたように首を傾げた。
「おかしいな。君が赤ちゃんだったほど昔なら、拓巳はむしろ高橋は捨てられないと思うはずなんだけど……」
「どうしてですか?」
真嶋さんは前を向いたままこちらに顔を寄せた。
「あの頃は、君の親権は戸部家のお祖母さんが持っていて、拓巳には目に見える形で君と繋がるものが名字しかなかったからだよ」
拓巳くんが正式に僕の親権手続きを終えられたのは、彼が二十一になってからだったとは、前にも聞かされたことがある。
「あれ? でもそれだと僕は最初、戸部だったってことですよね?」
「そこ。拓巳が高橋を捨てられない最大の理由」
そのあとに続いた真嶋さんの説明に、僕は大きく目を見張った。
「お母さん……若砂さんが、拓巳くんのために改姓を……」
「そう。家族と呼べる人がいない拓巳のために、せめて名字だけでも同じになってあげたいって」
それだと君は生まれたときから高橋になるでしょう? と言われて納得する。
僕の亡き母である若砂さんは、俊くんと同じくISのくくりに入っていた人だ。体が女性化しても心は男性として生き続け、最後まで拓巳くんを守ることを念頭に置いていたという。
うん? でも、どうせだったらなぁ。
「なんだい? 言ってごらん?」
首を傾げたところをすぐに察知され、僕は赤面しながら口にした。
「拓巳くんは、その頃から自分の名字には執着してなかったんですよね。どうして戸部にならなかったのかなって」
そしたら若砂さんと同じ姓になれるし、高橋要からも縁が切れて、お祖母さんが亡くなったときに僕の親権を取られそうになるなんてことも防げたと思うのにと続けると、真嶋さんはちょっと痛そうな顔をした。
「そうなんだよねぇ。でもあの当時、それも彼らにはできない相談だったんだよ」
「できない相談?」
真嶋さんは軽く腕を組んで頷いた。
「拓巳が結婚を急いだ理由、聞いたことない?」
「あっ、そうか」
以前、出生の事情を明かされたときに聞いた話だ。
「綾瀬伯母から聞きました。確か若砂さんとお祖母さん――成瀬さんは対立していたんですよね」
体が女性化したことで、女性として生きるように求める成瀬さんに対し、男性を捨てたくないと抵抗していた若砂さんを救うため、拓巳くんは『結婚』することで成瀬さんを退けたのだ。
「そう。選択の自由を確保するために、拓巳は結婚を宣言して若砂を家から連れだした。成瀬さんは、いずれ書類を出すときに、若砂は女性として拓巳の戸籍に記載されるってことで妥協するんだよ。二人ともなかなか譲らなくてね。だから姓を戸部にすることは論外だったんだ」
拓巳くんにとっては、どちらの親の干渉も退けたかったわけで、だったら真嶋さんのお陰で書類上の親でしかなくなった高橋のほうがましだというわけだ。
なるほどと頷いていると、真嶋さんが続けた。
「その後、若砂が逝ってしまって。でも君が遺されて。拓巳が半年間の不調から立ち直ってから一緒に暮らしはじめて……?」
真嶋さんの口調がだんだん遅くなる。
「……そうか。僕は陽子さんと意見が食い違っていて、ちょっと距離を置いていたから、そのあたりの記憶が曖昧なんだ」
拓巳くんの話に出てきた、『反対を押し切って優花を引き取ったために、人の――つまり陽子さんの手を借りるのは慎重だった』というやつだ。
「そのうちに僕が高橋要に拐われて、そのあと真嶋さんが拓巳くんと僕を引き取ったんでしたよね?」
「そう。拓巳の様子が尋常じゃなくなって、でも拓巳は僕の手しか受け付けないから……」
そこで真嶋さんは押し黙り、しばらくそのまま宙を凝視していたが、やがて自分の額に手を当てて唸った。
「……なんだろう。なにかすごく大事な要素を忘れているような」
そのまま考えに沈む彼に、僕は別の気がかりを問いかけてみた。
「真嶋さんは、僕たちの養子の件、どう思いますか?」
彼は顎から手を外して僕の顔を見、スッと切り替えたように姿勢を直した。
「それこそ僕が聞きたい。君は?」
薄茶色の瞳が気遣わしげな色を浮かべている。
「僕は……まだ考えがまとまりません。名字が変わることに、まったく抵抗がないとは言えませんが、拓巳くんの気持ちに添いたいとの思いはあります。ただ、祐さんがなぜためらうのかがわからないと安心して判断ができません。でも……どうも直接聞くのは憚られる雰囲気で」
「そうなんだよねぇ……」
多少、探りを入れてみたのだろう。真嶋さんもため息をついて前方の祐さんを眺め、カメラマンの『カァートッ』の掛け声で顔を戻した。
「僕も君と同じかな。少なくとも『拓巳と祐司の間にあった何か』っていうのがわからないうちは考えが進まないよね。もう一度あの頃のことをよく思い出してみるよ」
「お願いします」
頭を下げたちょうどそのとき、セットの中から拓巳くんの声が飛んできた。
「おい和巳! ちょっと来てくれよ!」
見るとシャツにひっかかってでもいるのか、襟足に手をやって髪の毛を引っ張っている。
真嶋さんに「行ってあげて」と促され、僕は頭を下げてその場から駆け出した。
しかし事態は予想を越え、僕たちにのんびり探っている時間は与えられないことになる。
撮影が終わり、メンバーが着替えを済ませて控え室を出ると、ビルの廊下をこちらに向かって足早に歩いてくる男性の姿が目に留まった。
あれ。あのダークスーツは早川さんじゃないか。
彼はドアから出てきたばかりの僕たちに気がつくと、ハッと顔を上げ、一気に足を早めてちょうど先頭にいた祐さんの前に立った。
「祐司様。お仕事中、申し訳ありません」
一礼する早川さんに、祐さんは軽く眉をひそめた。
「早川。こっちの仕事中は、電話以外では連絡をしないと」
「緊急時につきご容赦ください」
彼はサッと手のひらで止めてから祐さんに耳打ちした。すると。
「なに⁉」
祐さんが小さくも鋭い声を漏らし、考え込むように手を顎に当てて俯いた。
「すぐにおいでを。できればご協力をお願いしたいそうです」
『ご協力を』のところでこちらに視線を投げられ、祐さんの目に迷いが浮かぶ。
それを察知したのだろう。僕の後ろにいた真嶋さんがスッと二人に近づいた。
「ご無沙汰しています早川さん。何かありましたか?」
「真嶋さん。おいででしたか」
早川さんは真嶋さんの顔を見てホッとした表情になった。
切れ者の早川さんにとっても、真嶋さんは頼りになる存在らしい。
彼は周囲を見回してから小声で告げた。
「会長がお倒れになりました」
――なんだって?
真嶋さんは「えっ」と小さな声を上げ、すぐに目つきを鋭くした。
「容態は」
「脳梗塞だそうです。今、横浜総合病院で手術中です」
横浜総合病院といえば、俊くんのかかりつけだ。
「万が一に備え、近親者で対応するよう大奥様から指示を受けています。祐司様には一刻も早く会長が中断した業務の代行を、あと……」
そこで早川さんは僕の隣に立つ拓巳くんをチラッと見た。
「病院内でのトラブルを未然に防ぐため、できましたら拓巳様の協力をお願いしたいとのことです」
「拓巳を?」
恐縮の面持ちで告げた早川さんに真嶋さんが驚く。すると拓巳くんが動いて真嶋さんの隣に立った。
「富子さんは俺に何をさせたいんだ」
早川さんは眩しげに目を細めながら、果敢にもサングラスなしの拓巳くんに向き合った。
「病院にお越しいただき、そばにいてくださればよいとのことでした」
「和巳も一緒でいいのか」
「もちろんでございます」
「芳弘や雅俊は?」
そこまでが限界だったか、瞬きを繰り返した早川さんは目を伏せて続けた。
「真嶋さんは自由にお入りくださって構いません。小倉様はあらかじめご連絡いただいてからのほうがよろしいかと存じます」
拓巳くんは頷いてから祐さんに顔を向けた。
「祐司。早く行ったほうがいい。俺は和巳と病院へ行く」
祐さんは一瞬、何か言いかけたが、すぐに顔を引き締めて早川さんに向き直った。
「場所は?」
「本社です。ここの地下駐車場に秘書が車で待機しております。詳細は彼にお訊ねを。後部座席に着替えをご用意いたしましたので、申し訳ありませんが車内でお着替えください」
「わかった」
祐さんが頷き、真嶋さんに目を向けてから足早に立ち去る。それを見送ってから早川さんはこちらに体を返した。
「病院へは私がご案内します。真嶋さんはどうされますか?」
彼は少し思案してから拓巳くんを見、そして早川さんに答えた。
「行く前にあちこち連絡しないといけませんから、別行動にします」
その言葉に気づかされて僕も手を上げた。
「すみません。僕もマネージャーに報告させてください」
ビジネスバッグを持ち変え、沖田さんに連絡するべくポケットのスマホを探る。しかし俊くんが僕の腕をつかんで止めた。
「いい。俺が説明しておく。あとのことは任せて早く行け」
「俊くんは……」
「このあとの打ち合わせが済んだら連絡を入れる。おれが行けるかどうかはそっちの状況次第だろうな」
今日は水曜日、仕事として俊くんのそばにいられる日だったが仕方ない。
「ありがとう。じゃあ」
ほんのり残念に思いながら、僕は室内用サングラスをかけた拓巳くんとともに、「ではこちらへ」と踵を返した早川さんについて歩き出した。
勝手知ったる病院の、けれどもあまり足を踏み入れたことのない、緑のカーペットが敷かれた南棟の廊下へと案内されると、曲がり角の待合のようなスペースに、数人の男女が椅子に腰かけている姿が目に飛び込んできた。
「早川、ご苦労様でした」
真っ先に気がついて立ち上がったのは、一昨日会ったばかりの玲さんだ。
今日は控えめなベージュのツーピースを着た彼女は、向かい合った椅子の間から抜け出すと、僕たちの前に足早に歩み寄った。
「拓巳くん、待ってたわ。和巳くんもありがとうね」
歓迎も露に手を取られた拓巳くんは、ちょっと引きぎみに会釈した。その目が薄い色のサングラス越しにこちらへと泳いでいる。僕はさりげなく横から割って入った。
「お疲れ様です、玲さん。総司さんはどんな様子ですか」
玲さんは「ああ、それがね」と手を放して僕に向き直ると、右側の壁を指し示した。
「難しい部位のようでまだ終わらないの」
目を向けた先には、金属製の大きなドアの上に『手術中』の赤い文字が浮かんだ電光掲示板がある。
「そうですか……」
「でもどっちにしろ、兄さんの運命はお医者様の手に任せるしかないわ。あなた方を呼んだのは母のためなの。ぜひそばにいてやってほしいのよ」
「富子さんはどちらに?」
待合を覗くと、澪奈と沙羅、玉枝夫人や史昭氏の姿は見えるが、富子夫人の姿は見当たらない。
「案内するわ」
玲さんは体を返すと、早川氏を伴って待合を通りすぎ、その先の細い通路をいくつか折れて突き当たりのドアに手をかけた。
「お母様。入るわよ」
通されたドアの向こうには、予想外に整った、まるで応接間のような家具を備えた空間があった。
あ。これが噂のVIPルームか。
政府の要人や、SPを伴うような大物が待機するために作られた控え室だ。
部屋の中央に置かれた天鵞絨張りらしきソファーセットに目を向けると、二人の年輩男性に向き合う小さな縹色の着物姿が目に映った。――富子夫人だ。
「こんなに早く来てくれたわよ、お母様。あら」
先に立った玲さんが左側のソファーに腰かける男性二人を見て驚く。手前の焦げ茶色のスーツの男性は、先日のパーティーで会った武文氏だった。
うぇ、いきなりこの人とご対面か。
拓巳くんも驚いたのか、ピクッと体が揺れる。僕は咄嗟に彼の出で立ちを横目で確認した。
髪は黒のストレート、黒いロングジャケットに白シャツ、下はキャメルのデニム。
うん、地味だ。あのゴージャスビューティーと同一人物とは見抜けまい。
「まあ叔父様方。早くにお着きですのね。ご苦労様です」
どこか慇懃な口調で玲さんが挨拶した。叔父様方と言うからにはもう一人の、こちらは小柄な痩身のご老人も親族だろう。顔つきがどことなく武文氏と共通している気がする。
玲さんの後ろから会釈すると、こちらを見た武文氏が眉をひそめた。
「君はこの前の、祐司君が養子にしたとかいう息子じゃないか」
そして僕の隣に目線を移し、いささか胡乱げな表情になった。
「君は誰だね」
色が薄いとはいえ、サングラスをしたまま突っ立っているのでは無理もない。
横柄な態度が気に障ったか、拓巳くんは応えない。しかしこれには武文氏に留まらず、奥隣に座るご老人も口をへの字に曲げた。
「返事もなしとは無礼な。玲。なぜそんな者を連れてきた。史昭君や玉枝さんでさえ外にいるのに、分不相応ではないかね」
どうやら彼らにとって、この部屋は年長者専用らしい。するとガラスのローデーブルを挟んで向かい合う富子夫人が凛とした声を発した。
「和巳さんのお父様です。わたくしのために来てくれたのですよ」
武文氏が胡散臭げな顔になり、ご老人も眉をひそめる。
「父親ですと? まさか。このだらしなく髪を伸ばした若造が?」
まあ、頭のてっぺんが寂しいご老人方には、天使の輪っかが光る長髪の男なんてニクいだけだろうね……。
神妙な顔で控えつつ、かなり無礼な感想を抱いていると、目の前の玲さんが手を軽く上げた。
「あら正夫叔父様。見かけで判断したら痛い目を見ますわよ。こちらの拓巳さんは、あの陽子さんが手取り足取り指導した、若くとも立派な父親なんですからね」
「陽子さんだと? 幸司君のところのか」
正夫と呼びかけられた老人がやや怯み、武文氏がギョっと顎を引く。
祐さんのお母さんの名は叔父さんたちにまで恐れられているのかと感服していると、向かいの富子夫人がクスリと笑った。
「この人も祐司の大事な家族ですからね。忙しいあの子に代わり、わたくしを気遣って来てくれたのですよ」
彼女は僕たちに顔を向けると「さ、こちらにおいでなさい」と隣の座面を手で示した。
「拓巳さんは奥のほうにね。和巳さんは手前にお座りなさいな」
自身は武文氏の隣に向かった玲さんに促され、僕たちは富子夫人の左右に納まった。
富子夫人が拓巳くんを見上げた。
「急でしたのに、よく来てくれましたね」
「……ご無沙汰しています」
彼がポソッと挨拶を返すと、夫人は末の息子を見るような目をして口元を綻ばせた。
「そうですね。言葉を交わすのは久しぶりです。元気でおやりでしたか?」
「それなりに」
短くはあるが、ちゃんと答えるところがご老人方への態度とはエラい違いである。
当人たちもそう感じたか、正夫氏が苛立たしげな顔で口を挟んだ。
「君、いつまでその色眼鏡をしているつもりだね。部屋の中では外さんか。失礼だろう」
これもご老人からしてみたら無理からぬ指摘だろう。
でもこれ、一応、周りのみなさんのためなんだけどなぁ。
どうするのかと横目で窺うと、富子夫人が薄い笑みを浮かべて言った。
「わたくしは構いませんよ。わけを知っていますからね」
武文氏が苦い顔になる。
「富子さん。あなたらしくもない。若者を甘やかすのはよくありませんぞ」
拓巳くんが富子さんに顔を傾けた。
「外したほうがいいのか?」
それには武文氏の隣から玲さんが答えた。
「遠慮なく。お母様のためですから」
富子さんのため?
よくわからずに首を傾げていると、玲さんに目を向けた拓巳くんがおもむろにサングラスを外した。
「ぅおっ……っ」
「やっ……?」
途端、隣の武文氏の口から呻き声が漏れ、正夫氏が体をビクッと揺らす。
拓巳くんが彼らに目線を移すと、至近距離で対することになった二人は目を見開いて動かなくなった。
まさか。このまま心臓止まっちゃったりしないよね?
口を半開きにしたまま硬直した姿に本気で不安を覚えていると、顔を赤らめた玲さんが深いため息をついた。
「本当に、いつ味わっても至福のひとときね……」
そしてこれ以上は不躾だわねと目を伏せてから、戸口に控える早川さんを手招きした。
「家の者を呼んで、叔父様方をお送りしてちょうだい。ご希望なら病室をお借りしてあげて」
「かしこまりました」
やや引きつった表情の早川さんが会釈して出ていく。やがて彼は部下らしきダークスーツの男性二人を伴って戻ると、それぞれ一人ずつ付き添わせて部屋の外へと連れ去った。
やれやれと内心でため息をついて肩から力を抜くと、すぐにまたドアが外から開かれた。
「玲さん! いったい何があったんです? 父はどうしてしまったんですか!」
血相を変えて部屋に入ってきたのは史昭氏だ。後ろには不安げな表情の澪奈もついてきている。
「史昭様、お静かに願います」
止めに入った早川さんを振り切ってこちらに駆け込んできた史昭氏は、富子夫人の隣に座る僕を見ると、不愉快そうな顔で玲さんに言った。
「彼と歓談するために父たちを追い出したわけですか。仮にも血縁に対してずいぶんな態度じゃありませんか」
「あら失礼ね。追い出してなんていないわよ」
玲さんは優雅な所作でソファーの背もたれに体を預けた。
「あのままにしておいたら体調を崩しちゃうと思ったから、気を利かせてあげたのに」
人聞きの悪い言い方しないでちょうだいと続けられ、史昭氏は顔を紅潮させて反論した。
「ご自分に都合のよい解釈を通そうとしても、僕は騙されませんよ。つい先日だってわざわざ身内のお茶会に呼んだそうじゃありませんか。あなたは昔から祐司さんを可愛がっている。この機会に彼の養子と親睦を深めさせるつもりなのはわかってます」
「静かになさい。騒々しい」
富子夫人が眉をひそめた。
「わたくしはうるさいのは嫌いです。ましてやここは病院ですよ」
「ですが富子伯母様。澪奈の婚約者の僕でさえ、滅多にお会いする機会をいただけないのに」
「そんなに気になるなら、あなたもここにおればよいでしょう」
富子夫人は空席になった玲さんの隣を手で指し示した。
「わたくしは別にあなたを遠ざけてなどいませんよ。静かにしていてくれるのなら構いません」
「えっ。そ、そうですか?」
それだと今までは騒がしいから会わなかったと言っているようなものなのだが、史昭氏は気づかぬ様子で顔を緩め、すぐに咳払いなどして引き締めた。
「いえ。この部屋には本来、年長者しか入れないはずです。礼儀として、一族の序列は守るべきでしょう」
言いながら、こちらを見る目が「おまえは礼儀知らずだ」と訴えている。
すかさず玲さんが口を挟んだ。
「あらぁ、違うわよ。ここはセキュリティやマスコミの対策上、外の待合スペースだと病院関係者に迷惑がかかる恐れのある人が使う部屋よ。まぁうちの場合、年配者が優先して使うのが慣例みたいになっちゃってるけど。でも、もともとは病院関係者と患者さんに配慮してのことよ」
さ、こちらにどうぞと促され、史昭氏が澪奈とともに玲さんの後ろに回り込む。二人がご老人方の座っていた場所に着こうとすると、タイミングを見計らったように玲さんが付け足した。
「だからお母様のお隣に、和巳さんのお父様が座るのは必然的な処置なの」
「必然? 父親って、まさかその若い男がですか? 冗談はよしてください。僕よりずっと年下じゃありませんか」
腰を下ろしかけた史昭氏は、玲さんの手が示す方向、即ち拓巳くんに顔を向け――。
「……っ、……!」
息を飲んで目を剥いたあと、ソファーにドンと尻餅をついた。
その隣を見ると、先に見てしまったらしい澪奈が背もたれに手をついたまま棒立ちになっている。心の準備も免疫もなく、この至近距離では無理もない。拓巳くんを窺うと、もはや隠す気もない無表情――つまり仏頂面だ。
玲さんがため息混じりに言った。
「ね? 外の待合スペースじゃ困るでしょ? わかったなら悪いことは言わないからお戻りなさいね」
そして振り返ると早川さんを呼んだ。
「何度もごめんなさいね。この人たちは若いから、待合でしばらく過ごせば元に戻ると思うわ」
早川さんは恐れの入り交じった視線を拓巳くんに投げてから、神妙な面持ちで頭を下げると、史昭氏を抱えるようにして立ち上がらせ、澪奈の肩を軽く叩いて二人を外へと連れていった。
……どうも女装したときの顔より、素顔のほうが見た人の反応が激しいんだよなぁ……。
なんでだろ、と首を傾げていると、玲さんがまるで心を読んだような発言をした。
「私の懇意のデザイナーも言っていたけれど、素顔のほうが格段の迫力ね。先日のティナと比べると一目瞭然だわ」
さ、サングラスをかけてちょうだい、と言いつつ拓巳くんを眺める彼女に僕は興味を引かれて質問した。
「僕も不思議なんです。どこがそんなに違うんでしょうか」
「それはそうよ」
玲さんは人差し指を立てた。
「女性のお顔はメイクで作り込むことになるんだもの。人は、作られた美に称賛は贈っても、衝撃は受けないものよ」
天然の美には叶わないのよと彼女は指先を目尻に当てた。
「拓巳くんの場合は瞳の色。その緑がかった薄茶の目が最大の要因ね。逆に言えば、カラーコンタクトで色を濃くしてしまえば、そこまでの反応はないはずよ」
思わず富子夫人の頭越しに拓巳くんを見ると、彼も興味を引かれた様子で玲さんに顔を向けた。
僕は疑問をぶつけてみた。
「確かに珍しい色かもしれませんが、それだと美形さんがカラーコンタクトを使えば同じようになるはずですよね? でも現実は違う気がするのですが」
「それはすでに『作られた美』だもの」
「あ、なるほど」
「もちろん顔の造りも際立っているわよ」
彼女は目尻の人差し指を浮かせて左右に振った。
「ほら、拓巳くんは黒髪にシャープな顔立ちでしょう? それなのに瞳は明るいヘイゼルで。おまけに長くて濃い睫毛だなんて、こんな対照的なコントラストはなかなかないわよ。睫毛の影の奥で瞳が光を弾いているように見えるから、見ているとなんだか魂が吸い込まれそうになるもの……」
あらやだいけないわと玲さんは横を向き、必死に瞬きを繰り返して胸に手を当てた。 それを見た拓巳くんがサングラスをかける。
「私のデザイナーが拓巳くんのポスターを持っていてね。それを見ながら解説してくれたの。実物のスゴさを知っていたから、なるほどなぁって思ったわ」
だからほら、ちょっと目の色がわからなくなっただけで効果が半減するでしょ? と拓巳くんを示されてふと思い至る。
「あの、玲さん。まさか富子さんのために父の力が必要っていうのは……」
「ああ、どうか許してね」
玲さんが両手を合わせた。
「私が拓巳くんの力をお借りするよう、提案したの。なにしろお母様は一族の最長老だから、まとわりつく輩が多くって」
やっぱり。
つまりはだ。財閥の後継者問題に揺れる井ノ上家にあって、騒がしいのが嫌いな富子夫人は久しく公の場に姿を出さずにいたのだが、総司さんの危機を前にして引きこもってなどいられない。けれども病院に行けば必ずや先行き不安な外戚たちが彼女の元にやってくる。そこで音に聞く彼の妙技を借りようというわけだ。
ちょっと。拓巳くんの顔は魔よけじゃないんだけど。故意にそれを当てにするってどうなの。ただでさえ本人はその反応、嫌ってるのに。
一瞬、イラっとしたものが僕から立ちのぼったか、富子さんと拓巳くんが同時にこちらを向いた。
「和巳さん。わたくしからも謝ります」
「いいんだ。和巳、俺は構わないから」
富子さんの言葉に被ったセリフに僕は思わず目を剥いて拓巳くんを見た。
構わないだって?
彼は同じく自分を振り仰いだ富子さんに顔を向け、薄墨色のグラスの奥に透ける切れ長の目を細めた。
「あんた疲れてるだろ。俺が役に立つなら遠慮はいらない」
ちゃんとそのつもりで来てるからいいんだと足を組む姿に僕は内心で唸った。
これは、尋常なことじゃないぞ……!
足を組み、ソファーに体を預けたということは、協力内容を知ってなお、腰を据えて付き合う気があるということだ。
やっぱりこの二人、相当な経緯があるんじゃないのかと疑っていると、玲さんが喜色を浮かべて立ち上がった。
「ありがとう、拓巳くん。嬉しいわ。これでお母様のことは安心ね。じゃあ私、外の様子を覗いてくるわ。ここへのお客様には必ず早川を同行させるから、和巳くんはさっきの例を参考に対処してあげてね」
あとでお茶を運ばせるわねと言いながら、軽い足取りでドアに向かう玲さんを、僕はなんとも心許ない気分に襲われながら見送った。