祐さんの鬱屈
「すまなかったな。芳兄さんからのメールに気づけなくて、ずいぶん時間が経ってしまっていた」
ハンドルを握る祐さんに謝られ、僕は助手席で首を横に振った。
健吾はしっかり伝言役を果たしてくれたらしい。しかし……。
「僕はいいんです。迎えにきていただけたお陰で五時には十分間に合いますし。むしろ祐さんのほうが、その……」
大事な会議かなにかを抜け出してきたのではないのか。
横目に映る姿への違和感が拭えずに言葉を詰まらせると、祐さんは自分の腕の辺りに目線を走らせてから苦笑した。
「変か」
「あ、いえっ。よく似合ってます」
「無理するな。俺もこの格好は皮一枚被った気分だ。……昔からずっとな」
最後に付け足された言葉はどこか苦味を帯びていて、僕はハンドルを切る横顔に釘付けになった。
今日は、色々びっくりな日だなぁ……。
珍しくも怒気含みの一声を放ったあと、応接室の中央まで踏み込んできた祐さんは、女性たちにはそれ以上、声をかけることなく僕を見た。
「和巳。送っていく。荷物はないか」
「あの、制服が……」
慌てて腰を浮かそうとすると、止めるように玲さんが手を上げた。
「まあ祐くん。そんなに慌てなくてもよいではないの。まだ四時前よ」
年長者の余裕か。玲さんは祐さんから放たれる硬質なオーラをものともせず僕に笑顔を向けた。
「せっかく来てもらって、まだお菓子だってろくに手をつけてないのに。ねぇ」
「いえ、もう」
十分ですと続けようとすると、富子夫人が祐さんに顔を向けた。
「祐司。何を苛立っているのです。落ち着きなさい。和巳さんが驚いていますよ」
冷静に諭す富子夫人に、玉枝さんが恐れと感嘆の入り混じった目線を向ける。
さ、さすがは祖母。祐さんの怒りをまるで子供の癇癪のような扱いだ。
内心で慄いていると、祐さんのまっすぐに描かれた眉の根元がグッと寄った。
「驚かせたのは富子さんでしょう。澪奈が心配なのは理解しますが、総司さんも俺も手は打っています。和巳まで引きずり込むようなまねはやめてください」
「仕方がないでしょう。武文さんや史昭には、あなたが財閥を継ぐかもしれないと思わせるのが一番、効果的なのですよ」
富子夫人が顎を引き、玲さんがそうよと続けた。
「ここに和巳くんを呼べば、いっそう信憑性が増すでしょう? 現に効果あったと思うわ」
僕はようやく話が見えてきた。
「あの、それじゃ、さっきの話はお芝居なんですね?」
つまりはだ。
澪奈と婚約した史昭氏が後継者気取りになり、彼女を軽く扱うようになった。しかし澪奈は自らの力でそれを改善できず、心配した面々が、祐さんの存在をアピールすることで後継者の座から外すと見せかけ、危機感を持たせようとした。そのアピールのための演出が『祐司さんの養子』であり、僕を改めて紹介することで、澪奈にそれを信じ込ませたのだ。
「さすがねぇ。お察しのとおりよ」
玲さんは破顔して頷いた。
「後継者候補になるにはね、結婚するか扶養家族を持つかして、独立したと認められる条件があるの。澪奈は真面目で思いやり深い優秀な子なのだけど、押しの強い相手のペースに流されちゃうところがあって」
玲さんが頬に手を添えてため息をつくと、沙羅も「そうなの」と肩を竦めた。
「学生のときも、調子のいい子が面倒な役目を押しつけてきても、断れずに引き受けちゃったりしてたわ」
「じゃあ、史昭さんとの婚約は」
強引に話を進められてのことだろうかと問いかけると、それには玉枝夫人が答えた。
「史昭さんは、以前は澪奈を大切にしてくれて仲がよかったのだけれど、どうも婚約した一年前頃から高圧的な様子が見られてきて……」
沙羅が横から口を挟む。
「お父様のあとを継ぐのは基本、お姉さまなのに、ご主人気取りでお姉さま担当の仕事にまで口を突っ込むようになってきたの」
「澪奈はなかなかの手腕を持っていてね。自分の管理にある会社の運営はとても上手にこなしているのよ」
玲さんが忌々しそうな顔になる。
「それを引っ掻き回しているのは史昭で、しかも本人はちっとも自覚がないのよね」
次々と明かされる現状につい聞き入っていると、祐さんの低い声が和って入った。
「よしてください。和巳にそこまで聞かせる必要はないでしょう」
「ありますよ」
富子夫人が答えた。
「何事も徹底することは大事ですからね。協力していただく以上、和巳さんにも知る権利はあります」
「そのわりには、本人にも俺にも事前説明がないままの実行でした」
「おや。わたくしだっておまえから説明されてはいませんでしたけど、ちゃんと合わせましたよ?」
えっ? と目を見張ると、富子夫人は僕を見てうっすらと笑った。
「たいした美女ぶりでしたこと。あのようななりでの再会はさすがに驚きましたけど、お父様にはお元気そうで何よりです。相変わらず飛び抜けた美貌でいらっしゃるようですね」
今度は普通の姿で来るようお伝えなさいと言われて背筋に緊張が走る。
沙羅が目を丸くして叫んだ。
「えっ! あれ、お母様じゃなくてお父様だったの⁉」
「まあ……!」
玉枝夫人が口元を片手で覆う。冷や汗を滲ませながら玲さんを横目に見ると、彼女はペロッと舌を出した。
「あらやだ。バレてたの?」
「バレてたのじゃありませんよ。あなたはまったく」
富子夫人は玲さんに渋い顔を向けた。
「拓巳さんにはお祖父様が生前の折りに二度ほど会ってますからね。それによく考えたら、和巳さんのご生母様はずっと昔に亡くなっているはずですし」
とことんバレてるじゃないか……。
壁際に追い詰められたネズミの心境で固まっていると、富子夫人は再び祐さんを見上げた。
「きっとあなたたちの活動に絡むことで、何か思惑があったのだろうと察したから、わたくしは黙って合わせましたよ。だからこっちに合わせなさいという話ではないですが、咎められる筋合いでもないですね」
「………」
ピシャリと言い切られた祐さんが難しい顔で押し黙る。
そのまま睨み合う二人の姿がいたたまれず、僕はつい口を挟んだ。
「あの、申し訳ありませんでした。お芝居なら、僕は別に構いませんので……」
すると二人が同時にこちらを向いた。
「よせ、和巳」
「まあ。和巳さんは話がおわかりだこと」
咎める口調の祐さんを、富子夫人が制するように軽く手を上げ、僕に微笑みかけた。
「ねえ、和巳さん。事情はお聞きのとおりです。ようは澪奈がきちんと史昭と渡り合って、自分の手腕を発揮できるようになればよいのですよ。今、しっかりとした土台をこしらえれば、祐司もこの先安心して好きな活動に時間を使えるというものです。どうかしばらくこのお芝居に付き合ってはくれませんか?」
祐さんのためになると言われれば、否やのあろうはずもない。
「は、はいっ。僕でお役に立つなら」
「和巳!」
祐さんの声が鋭くなる。しかし被せるように富子夫人が言った。
「まあ、嬉しいこと。ではしばらくの間、わたくしはあなたのひいお祖母さんね」
キリリとした目尻が緩み、内心でホッとしたところに、玲さんが「じゃ、わたしは大叔母よ」と加わり、「だったら私は?」「あなたから見ると甥孫ということになるのかしら」などと残りの二人も盛り上がりかけたところで、ソファーの後ろに回り込んだ祐さんが、僕の腕を取って立たせた。
「富子さん。和巳は未成年ですから一存では決められない。その話は保留に願います」
行くぞと急かされ、慌てて頭を下げてからその場を抜け出すと、富子夫人が釘を刺すように言った。
「では帰ったらただちに拓巳さんに話を通しなさい。明日の夜までに返事のないときは、承諾したものと受け取って早川に伝えますからね」
「………っ」
祐さんは一瞬、舌打ちしそうな顔をし、けれども何も言わずにその場をあとにしたのだった――。
「あの、祐さん」
車内の沈黙が気詰まりで、僕は返事を待たずに言葉を継いだ。
「勝手に応じてしまってすみませんでした」
祐さんはチラッと僕に目線を投げ、フロントガラスに戻した。
「いい。面と向かって拓巳の変装を暴かれれば、罪悪感を覚えたおまえが協力すると言い出すのも無理はない」
俺が婆さんに一本取られたってことだな、と自嘲ぎみにつぶやかれ、言葉に詰まる。
本当は、養子の件の真相を聞けたらと思ったんだけど……。
先ほどから漂う鬱屈した様子が、そこへ突っ込むことをためらわせる。
逡巡しながら気配を窺っていると、ふいに祐さんが言った。
「さっきの件だがな」
「えっ! …あ、はいっ」
顔を向けると、祐さんはいつもの静かな表情に戻っていた。
「芝居とはいえ、親戚連中の好奇心に晒されることもあるかもしれん。本当におまえはいいのか?」
僕は慎重に答えた。
「祐さんが財閥の理事の仕事に就いていること、僕は知りませんでした。だからこの先の祐さんが、そちらの仕事の負担が増えなくて済むのなら喜んで協力します。ただ……」
表情を窺い、変化のないことを確認する。
「もし祐さんが不愉快だったり、拓巳くんが反対するなら断ります」
彼はハンドルを操作し、カーブを切ってから口を開いた。
「おまえが協力してくれる気持ちを不愉快になんぞ思わん。ただ、あまりに……いや」
ふいに口元が笑う。
「まあいい。拓巳は嫌がるだろう。ただでさえ財閥の親戚連中の品のなさに立腹していたからな」
だからこの話は終わりだと祐さんはどこか言いきかせるような口調で話を切り上げた。
ところがである。
Gプロビルに到着して拓巳くんや俊くんと合流し、仕事を終えたあと、休憩室で改めてお茶会の内容を伝え、僕が承諾した経緯を説明すると、最初、流すように聞いていた拓巳くんは、次第にテーブルに手をついて前のめりになり、やがて目を見開いてこうこぼした。
「……富子さんに、バレてただって?」
そしてしばらくテーブルを睨むようにして沈黙し、やがて痛恨の面持ちで顔を上げると、隣に座る祐さんに向かってこう言った。
「しょうがねぇ……リクエストに応えるわ」
足を組んで座っていた祐さんは虚を突かれた顔になった。
「本気か?」
「ああ」
俊くんが疑いの眼差しを向けた。
「ああっておまえ……意味わかってんのか?」
拓巳くんは頷いた。
「俺と和巳が祐司の養子になったフリして、祐司に井ノ上財閥を継がせるように装って、あのエロ親父の干渉や息子の態度を改めさせて、総司さんの娘をもり立てたいんだろ?」
一部、主観的な表現が混じってはいるが、素晴らしい状況把握である。
祐さんが足を戻して少し身を乗り出した。
「どうした。いつものおまえなら、そんな面倒は即、却下だろうに」
拓巳くんは祐さんをチラッと見上げると、「恩があるからな」とこぼすように言った。
「なんだと?」
聞き咎めた祐さんが顔を近づけ、俯いた拓巳くんが何事かを祐さんに小声でつぶやく。すると彼は少し顎を引き、次いで「ちょっと来い」と拓巳くんを立たせた。
「祐司?」
驚いた俊くんが、そのまま休憩室を出ようとする後ろ姿を呼び止めると、拓巳くんがこちらを振り向いて待てというように手を軽く上げた。
「自販機まで行ってくる。すぐ戻るから」
言葉を挟む暇もなく二人はドアの向こうに姿を消し、僕は呆気に取られてはす向かいの俊くんを見た。
「ねぇ……。富子さんと拓巳くんって、実は交流が深いの?」
僕、全然気づかなかったんだけどと続けると、俊くんは思い返すように顎に手を当ててうーんと唸った。
「いや……? 井ノ上家に毎年挨拶に行くっていっても、いつもお忍びで短時間だからな。大奥さんとは過去に二回くらいしか会ってないと思うんだが……」
「それにしては、さっきの態度は解せないよね。あれじゃ、富子さんとの約束のためなら我慢も厭わないってことになるんだけど」
あの拓巳くんがだよ、普通ならありえないよと強調すると、俊くんも眉根を寄せた。
「そうだよな……いや、待てよ。あれだと前に大奥さんとの間に『今回は見逃すけど二度は許しません』ってことがあって、二度目をやらかしたのがバレちまったから仕方ないってな風にも読み取れないか?」
「あっ、そうか。変装がそれに当てはまるってことだね? それならありえるかも」
親身なようでいて、実は結構ヒドい評価を拓巳くんに下しながら、真剣に話し合っていると、再びドアが開いて二人が帰ってきた。
「待たせたな。じゃ、和巳。帰ろう」
先に入ってきた拓巳くんに親指でクイッとドアを示され、僕はつい後ろの祐さんを窺ってしまった。
若干、俯き加減ではあるが、特に変わった感じはしない。
「あの、話はまとまったの?」
拓巳くんに訊ねると、彼はテーブルの手前で立ち止まって答えた。
「ああ。さっき言ったとおりだ。鎌倉の本家が落ち着くまで協力する。しばらく頼むな」
おまえもそのつもりでいてくれと言われた俊くんは、祐さんと拓巳くんを見比べた。
「大丈夫なのか? 相手は井ノ上の周囲に散らばる親戚なんだぞ。あの武文とかいうおっさんが、養子縁組の書類を調べて擬態だってバレたらどうするんだ」
そうか。総司さんの叔父さんなら戸籍を閲覧できるかも。
椅子から立ち上がりながら考えると、拓巳くんは開き直ったように言った。
「そんときはそんときだ。事情があって、今までは書類を後回しにしていたとでも言っといて、すぐに申請しちまえばいい。あらかじめ用意しとけば一日で済むさ」
和巳も承知してくれよと軽く告げられて返事に詰まると、俊くんが遮るように割って入った。
「申請っておまえ、そんなことしたら本名が変わるんだぞ。わかってんのか!」
「そんくらい承知してるわ」
拓巳くんの眉根が寄った。
「おまえだって小倉家の養子だろうが。俺が似たようなことしちゃ不満かよ」
「不満とかの話じゃないだろう」
俊くんがムッとすると、拓巳くんはチラッと僕を見た。
「和巳の名字が変わることが気に食わないならお門違いだぞ。本来なら、和巳はとっくに井ノ上になってたはずだ。それを祐司の判断で保留にしておいただけだ。だから祐司の自由を確保するために役立つなら、そのカードは使うべきなんだ」
養子縁組の書類はまだ取ってあるんだよな? と振り向かれた祐さんは、ためらうように顎を引いた。
「ああ」
普段、鋭い光を放つ目が、僅かに揺らいだように見える。しかし拓巳くんは気づかない様子でこちらに顔を戻した。
「雅俊だって、祐司のギターがなくなっちまったら困るだろ? 俺は今の名字に未練なんぞないから問題ないって」
そして僕が歩み寄るのを認めると、くるりと体を返し、「じゃ、お先」と祐さんに声をかけてからドアの外に出ていった。
その後ろを追いかけながら、なおも難しい表情を続ける祐さんを目にし、彼が拓巳くんの意見に心からは納得していないのだと、けれどもその意志を退けることにもまたできないのだと確信した。
一体どんな事情があったら、祐さんのような泰然とした人が、あんな表情をすることになるんだろう。
その日の夜、どうにも気になった僕は、寝仕度を済ませた頃合いを見計らい、リビングのソファーにゴロ寝する拓巳くんに思い切って聞いてみた。
「ねえ拓巳くん。祐さんと何を話したの?」
うとうとしていたらしい拓巳くんは、ソファーの縁から覗く僕を横目で見てからまた目を閉じた。
「……なんだって……?」
半分寝ぼけてもいるようだ。
「だから、仕事あとの休憩室で、二人で自販機に行ったときだよ」
縁を回り込んで顔を近づけると、彼は薄目を開け、そして半眼になった。
「別に、たいしたことじゃない」
「だって祐さんは複雑そうな顔してたよ? 本当にいざとなったら名字変えちゃうの?」
訴える声に不安が混ざったか、拓巳くんは目を開いて僕を見ると困惑顔になり、片方の肘をついて上体をゆっくりと起こした。
「もしかして、おまえは変えたくないとか」
座面に座り直しながら上目使いで言われ、僕は呆気に取られた。
「そりゃ……普通は自分の名字をホイホイ変えたいとは思わないでしょ」
「そうか? 俺は正直、高橋なんて名字、いつドブに捨てても構わないがな」
どこか暗い声音に驚いて顔を見ると、やや下を向いた長い睫毛の奥の瞳が暗く陰っていた。
あ、そうか……!
父親であるホストクラブオーナー、高橋要に虐待を受けて育った拓巳くんにとって、彼と同じ姓であることは、高い犠牲を払って抜け出した支配を呼び起こすものなのだ。
僕が察したと感じたのか、拓巳くんはボソボソと言葉を継いだ。
「俺は、昔からあいつと同じ名字でいるのが嫌だったから……でも考えてみりゃ、おまえにとってはずっと使ってきた馴染みあるものだもんな。勝手に話進めちまって悪かったよ」
しょんぼりと背を丸められてこちらの胸が痛む。
「いいんだよ。僕こそ気がつかなくてごめん」
隣に座って顔を覗き込むと、彼はその体勢のまま背もたれに体を預けた。
「もしおまえがどうしても変えるのが嫌なら無理強いはしない。祐司も、まずはおまえの意思が優先だって言ってたことだしな」
気になっていた祐さんの意見を口にされ、僕はさりげなく核心に触れる質問を投げてみた。
「ありがとう。よく考えてみるよ。そのためにも聞きたいんだ。この話、当の祐さんはあまり気が乗らない様子に見えるんだけど、本当に大丈夫なの?」
「祐司か? そりゃ祐司は……」
拓巳くんは言いかけてからすぐに口を閉じると、言葉を選ぶようにして続けた。
「気が乗らないんじゃない。ためらってるんだ。祐司は昔、俺からおまえを取り上げそうになったとかで気にしたことがあるからな」
「拓巳くんから取る? あの祐さんが?」
あり得ないでしょうと続けると、拓巳くんは意外にも複雑そうな顔をした。
「……そうだな。あり得ないな。そんなこと忘れてたくらいに。……だから今度こそ報いたいんだけどな……」
報いる?
気になる言葉に思わず身を乗り出すと、彼はハッと目を見開いて誤魔化すように前髪をかき上げた。
「まあいい。幸い、俺のスケジュールはしばらくローペースだ。今なら井ノ上本家に呼ばれても対応できる。祐司も財閥の仕事に俺たちが関わる可能性はまずないって言ってたから、やることなんて、鎌倉の屋敷に出入りして親戚どもに顔を売る程度さ」
だから安心しろと言われて僕はつい質問を重ねた。
「みんなは、祐さんが財閥の理事になってるって知ってたの?」
「そりゃまあ……」
拓巳くんは一瞬、「あたりまえだろ」という顔をしたが、ちょっと考えてからバツが悪そうに頭を掻いた。
「そうか。おまえは知らなかったんだよな。でも全員が知ってるわけじゃないぞ。芳弘は当然、雅俊もはじめから知ってたはずだが、俺がそれをちゃんと知ったのはもっとあとだ。そもそも祐司が理事とやらになったのは俺たちがメジャーデビューする前だったし、最初はギタリストの名前に理事の肩書きがくっついただけの話で、その後も祐司の生活に目立つ変化があったわけじゃなかったからな」
Gプロだって社長とマネージャー以外、殆どの連中は知らないんじゃないかなと言われて理由を察する。
『皮一枚被った気分だ。……昔からずっとな』
おそらくは祐さん自身が違和感を覚え、人の目に触れないよう努力していたに違いない。
そういえば、祐さんはメンバーと別行動の日がよくあったよな。
予定表には『単独』とあり、てっきりギタリストとして依頼された仕事だとばかり思っていたが、きっとそこには理事の業務も入っていたのだ。
彼の心の一端を垣間見たように感じていると、同じように感じたことがあるのか、拓巳くんがポツリとこぼした。
「祐司はさ……一見、自分本意でしか動かなさそうだし、自分でもそのとおりだって言ってるんだけど、やってることだけ見ると、いつだって人に手を貸してばっかなんだよな。俺なんてもう数え切れねーよ。その祐司がさ……」
そこで彼は言葉を切り、軽く頭を振ってからこう続けた。
「だから一度くらい頑張らないとな。そんなわけで今回のこと、なるべくなら演技で済ませたいと思っちゃいるが、万が一必要なら俺は名字を変える。それは承知しておいてくれ」
「拓巳くん……」
彼はソファーから立ち上がると、それ以上の質問を避けるように『んじゃ寝るわ』と片手を上げ、長い髪を片手で払いながらリビングから出ていった。
その背中を見送りながら僕は内心で呻いた。
これはある。絶対ある。
祐さんと拓巳くんの間には昔、僕を巡って何かあったんだ。拓巳くんが忘れてて、でも思い出したら、それを忘れさせてくれていた祐さんに『報いたい』と思うような何かが。