お茶会にて
学校から移動すること約三十分。
モノレールと並走し、こんもりとした山が近づいたところで道を逸れ、井ノ上家の私道である細い道を通り抜けると、踏切渋滞に遭遇することなく鎌倉井ノ上家に到着することができる。
ついひと月ほど前に訪れた豪邸の玄関に降り立ち、早川さんに導かれて幅二メートルはありそうな板張りの廊下を進むと、以前、通された応接室に続く曲がり角のところで玲さんが待っていた。
「いらっしゃい和巳くん。早川、ご苦労様でした。ここからはよろしいわ」
白地に金を配したツーピースを身につけた玲さんは、僕を引き取るようにして腕を取ると、頭を下げる早川さんには構わずに廊下を曲がり、応接室とは別の扉を開けて僕を通した。
見ると、六畳ほどのフローリングの部屋は右側の壁一面がクローゼットになっていて、向かいの壁には大きな姿見が嵌め込まれている。そして正面の壁の鴨居には、紺色のスーツをかけたハンガーが吊るされていた。
どうやらあれに着替えるらしい。
「ごめんなさいね、学校になんて直接迎えをやって。でも拓巳くんが五時までには絶対返せって言うものだから、時間が惜しくて」
さ、あれに着替えてねと踵を返され、僕は慌てて玲さんを止めた。
「あの、僕まだ祐さんから話を聞けていないんです。富子夫人はどこまで事情をご存じでなんでしょうか」
玲さんはパッと振り返ると遮るように微笑んだ。
「心配はいらないわ。ティナが偽名で、普段はあんな姿ではいないってことは伝えておいたから。他にはウソなんてついてないもの」
堂々と言われて面食らう。
「僕のことを大学生と紹介していらっしゃいましたが」
「あらぁ、違うわよ。私は『経済学を専攻する学生』って言ったの。今、大学に通ってるなんて一言も言ってないわ」
「………」
なるほど。確かに僕は大学で『経済学を専攻する』予定の『学生』だ。しかし。
「僕に母親はいませんが……?」
「そこも。私はちゃんと『親』って言ったわよ? それにあなただって嘘は言ってないはず。だって昔、あの人のあの姿はあなたにとって『母』だったんじゃないの? 私は本人からそう聞いたけど」
確かに幼い頃、あの人の女性姿は僕にとって『母親』だった。それがたとえドキドキハラハラを伴うものであったとしても。
「だから問題ないわ。さ、急いでね。廊下で待ってるから」
にっこりと微笑まれ、僕はそれ以上の質問を封じられる形で着替えることになった。
上着とネクタイ、スラックスを穿き替えると、一見、いつもの仕事用スーツに似た姿に変わる。違うのは格段に良い着心地で、まるで誂えたようにぴったりだ。
これ、昨日の今日で用意したってことだよね……?
粟立つ思いにとらわれつつ扉を開けると、壁際でスマホに目を通していたらしい玲さんがすぐに顔を上げた。
「まあ、よく似合うわ。よかった」
さ、お母様がお待ちかねよと応接室に連れられ、室内に足を踏み入れると、そこには富子夫人の他に三人の女性がいた。
うぇっ。女の人ばっかり。
「ようこそいらっしゃいました。さあこちらへ」
柔らかそうな山吹色の絨毯に膝をつき、ティーカップを片手で取り上げながら、にこやかに片側の三人掛けソファーを示してくれたのは玉枝夫人だ。
ガラスのローテーブルの向こう側、三人掛けソファーの真ん中に富子夫人が、その両脇には澪奈と沙羅が品よく腰かけている。今日は澪奈が深緑の地にレースをあしらったワンピース、沙羅はモノトーンのパンツスーツ、富子夫人と玉枝さんはそれぞれ青鈍色と薄紫の和服姿だった。
ほら。お茶会っていっても、軽いノリの座談会とはかけ離れてるぞ。
粗相のないよう気を引き締めて会釈し、勧められた位置に座る。すかさず玲さんが僕の隣に座り、玉枝夫人が一人掛けの席についたところで、僕をぐるりと女性たちが取り囲む形になった。
なんだか吊し上げのような……?
嫌な想像がよぎり、僕は腹に力を入れて妄想を吹き飛ばした。
自分を信じるんだ。僕の危機対処能力はベテランマネージャー並みだって、Gプロの後藤社長も保証してくれたじゃないか!
「さあ、お上がりなさいな。私もいただくわ」
玲さんが場をほぐすように言うと、「じゃ、いただきます」と沙羅がカップを手に取った。
それを合図のようにしてみんなの手が動きだし、僕も手を伸ばしてアールグレイの芳香を放つ紅茶を味わった。
さすが一流の家が出す紅茶。もともとこの茶葉は好きなのだが、味といい香りといい格が違う。
うちじゃ、ナニ淹れたって拓巳くんの『渋いのはヤダ』の一言で終わるから、紅茶なんてティーパックしか置いてないもんなぁ……。
意外に貧しい我が家のお茶事情にちょっぴり物悲しさを覚えていると、正面から富子夫人の声が飛んできた。
「どうしました。お口に合いませんでしたか?」
「いえっ、逆です。とても美味しいです」
気遣わしげな眼差しを向けられ、慌てて答えつつ微笑み返すと、夫人も目元を緩めて頷いた。
「よかったこと。これから家族に迎える大事な息子だというのに、最初から情報を間違うようではうちの者たちの能力を疑わねばなりませんからね」
――えっ?
今、サラッと二つほど問題発言がなかったか。
カップを持ったまま固まっていると、沙羅が富子夫人を向いた。
「あら、お祖母様。うちのスタッフ、ガードは得意だけど、プライベート情報の収集能力はあまりアテにならないわよ」
反対隣の澪奈も頷く。
「お父様からのフレゼント、色の好みが時々沙羅と間違ったりしてましたわ……」
「まあ」
玉枝夫人が声を上げる。
「知らなかったわ。内祝のお返しものなど大丈夫でしたのかしら……」
真剣に顔を曇らせたところを、玲さんが「まあそれは好みぴったりでなくても」と取りなす。僕はだんだん頭が痛くなってきた。
マテ。問題はソコじゃないと思うぞ……。
「あの。それはこの家で働くスタッフさんが、僕がこれから家族になるってことで、わざわざ好みまで調べたということでしょうか。僕はまだ祐司さんからなんの説明も受けていないのですが」
このスーツもスタッフとやらの成果なのかと想像しつつカップをテーブルに置き、それはちょっとやりすぎではないですかと訊ねると、富子夫人は不思議そうな顔をした。
「祐司がずっと前にあなたを養子に迎えるつもりでいたことは、お父様も承知してらっしゃったのではないのですか?」
「それは確かに、父は祐司さんに一任したと話していましたが」
「ではそれ以上の説明などいらないではありませんか」
問題ないといった顔で返され、僕は食い下がった。
「ですが書類の上でも僕はまだ高橋で、井ノ上家の一員ではありません。そもそもこの話が出たのは昔のことだそうですし、今の祐司さんに、僕を養子にする意思があるとは思えないのですが」
「心配しなくとも大丈夫ですよ」
故意か天然か。富子夫人は僕の言い分を微妙に無視してほほほと笑い、手に取ったカップをソーサーに戻した。
「亡きお祖父様は、祐司が独り身でいるのをずっと気にかけていましてね。あの子に縁談を持ち込んでは断られていました。亡くなる一年ほど前でしたか、業を煮やしたお祖父様が誰でもよいから家族を作れと諭しましたら、祐司は『守るべき家族はもう手に入れているから心配はいらない』と言ったのですよ」
「えっ!」
そんな人がいたのか。
思わず身を乗り出すと、夫人は口元に笑みを浮かべた。
「いつになったらその家族とやらを連れてきてくれるのかと思っていましたが、こういうことだったのですねぇ」
感慨深そうな眼差しを向けられ、僕は心底驚いた。
「まさか僕のことですか⁉」
違うでしょ、と目線を左右に移すと、澪奈も沙羅も『え、違うの?』といった顔を向けてくる。
「一昨日のパーティーでの祐司兄さまのご様子を見れば、あなた方が特別な存在なんだってことはわかるわよ」
ダメ押しのように沙羅が言い、僕は姿勢を戻して「いえ」と否定した。
おいおい祐さん。誰か意中の人がいるなら、ちゃんと伝えておいてくれないと勘違いされちゃうじゃん。
「それは多分、種類が違います。祐司さんは本当にギターを愛するアーティストで、父と、そして僕の、えーと婚約者が彼にとってかけがえのない音楽仲間なんです。僕はいわば付属品ですから」
なにしろ祐さんが演奏者として最も輝く〈T-ショック〉のステージは、拓巳くんがいないと始まらないのだ。つまり俊くん同様、祐さんにとっても僕は欠くべからざる仕事仲間の一人なのである。
しかし今度は澪奈が控え目ながらも首を傾げて告げてきた。
「私はお兄様のなさっている音楽活動には詳しくないのですけど、私的なお顔なら知っていますわ。あれはお仲間に向ける類いの表情ではなかったように思いますけど」
沙羅も頷く。
「祐司兄さまって、ああいったパーティーでは滅多に感情を表に出さないのよ。それが一昨日は楽しそうにあなたの面倒をみてるし、美味しそうに飲んでるし、なにより玲叔母様に養子の件を切り出されたときのあの顔ったら」
「あれは私も驚きました」
玉枝夫人も続けた。
「私は他のお客様と横から拝見しておりましたのですけれど、あんな風に動揺した祐司さんは初めてです」
それは確かに。僕でさえ初めてだ。
沙羅が続けた。
「あれを見て私、確信したわ。あの話は本当のことで、けど本来なら自分から切り出すつもりだったんだって」
叔母様に先越されちゃって心外に思ったのよと付け足された玲さんは、不敵な笑みを浮かべて顎を逸らした。
「私やお母様がずっと待っているのを知っていたくせに、勿体ぶって引き伸ばしていた罰よ」
富子夫人が頷く。
「祐司は昔から表には出さない子でしたからねぇ。総司に任せておいてもちっとも話が進みませんし。ですがそろそろ安心させてもらわないと」
夫人のため息を聞きながら、僕はなんとなく彼女らの意図が読めてきた。
この人たちは最初から決めていたのだ。
前から気にしていた養子の話をパーティーで公にし、祐さんが否定しなかったなら、実際に成立していようが保留であろうが関係なく、この先は僕を井ノ上の一員として扱うと。
これはおそらく富子夫人から祐さんへの、『あなたがいつまでもぐずぐずしているのなら、わたくしはサッサと動かせていただきますよ』とのメッセージに違いない。
どうしよう。
他の三人さんも同意件なのだろうかと窺うと、富子夫人が背筋を伸ばして一同を見渡した。
「そういうわけだから、皆も承知しておくのですよ。和巳さんは祐司のあとを継ぐ存在です。これをもって祐司は条件を満たしましたから、近々理事会でも総司の後継者候補の一人として認められるでしょう。わたくしも全面的に支持するつもりです」
えっ、どういうこと?
ギョッとして質問しようとすると、沙羅が機先を制した。
「それはお祖母様。この先、史昭さんがお姉さまと結婚なさっても、祐司兄さまより上にはならないってこと?」
「それはもちろん、そうでしょうね」
それには玲さんが答えた。
「祐くんが今、動かせる株は幸司兄さんの分でグループ全体の二割。これに本人の取り分が加わるのだから、史昭さんでは追いつかないわねぇ」
「心配はいりませんよ」
富子夫人が言った。
「あの息子が本気で後継者を目指すなら、祐司のように父親のポストを受け継いで財閥の理事になり、地道に存在を示せばよいのです。能力があれば自ずと周囲が認めるようになるものです」
ちょっとまて。ナンの理事だって?
「あの、祐司さんが財閥の理事って……?」
おそるおそる口を挟むと、玲さんがこちらを向いた。
「あら、知らなかったかしら。祐くんは父親が丸ナゲした株と理事のポストを受け継いで、二十歳のときから役目を果たしてきたの。だから他の理事たちの支持が厚いのよ」
「二十歳から理事を……っ!」
じゃあ祐さん自身、とっくに財閥の役員だったってことじゃんか!
となるとさっきの富子夫人の言葉は、結婚、もしくは跡取りを得た時点で後継者の条件が整うということか。
自分の推測に衝撃を受けていると、玲さんが優雅に微笑んだ。
「まあ祐くんは、お祖父様にやってくれって泣きつかれただけなんだけど。でも、どんなに自分の予定が忙しくても、引き受けた分の役目はきっちりこなしてくれたわ。だから自然とみんなが期待してしまうのよ」
言いながら彼女は姿勢を正面に戻し、澪奈のほうに顔を向けた。
「逆に言えば、財閥を受け継ぐには努力が必要よ。会長令嬢と結婚しただけでは後継者にはなれないということね」
やはり彼女のお相手は歓迎されてないらしい。この様子から察するに澪奈は史昭氏の味方で、母親と妹は中立といったところか。
それを裏付けるように、沙羅が気がかりそうな眼差しで澪奈を窺い、玉枝夫人も気遣わしげな顔をしている。僕は内心で唸った。
祐さんが総司さんの跡継ぎにと望まれている理由は、直系唯一の男性だからとか、迫力があって頼もしく見えるからとかじゃなくて、ちゃんとした実績に裏付けられてのことだったんだ。
思いもよらない事実に足元が揺らぐ思いでいると、やや顔色をなくした澪奈が顔を上げた。
「でも、祐司兄さまは前に『自分は会長職に就くつもりはない、できれば音楽に専念したい』っておっしゃっていましたわ。確かその道ではかなりの腕前だと耳にしましたし」
そうでしたわよねと顔を向けられ、地獄に仏の心境で口を開きかけると、富子夫人が遮るように軽く手を上げた。
「和巳さんのお父様たちとなさっているという音楽活動のことですね。それは問題ありませんよ。会長職を継ぐからといって、好きなものをやめろなどという時代でもないでしょう。趣味は趣味で続ければよろしい」
僕は顎が外れそうになった。
趣味⁉
四十万人からなるファンクラブ会員を持つ、国内屈指のロックバンドが趣味とは!
いくらなんでもその認識は改めてもらわねばと顔を引き締めると、沙羅が驚いた顔でサッと横を向いた。
「そんな言い方なさったら失礼よ、お祖母様」
僕は(あ、よかった)と肩から力を抜いた。
訂正は、できれば親族間でしていただきたい。
「祐司兄さまの活動はご趣味の域を越えているわ。ちゃんとコンサートではお金を取っているはずよ」
うん?
そうよねと顔を向けられ、ちょっとニュアンス違わないかなと首を傾げながらも一応、頷いてみる。沙羅は「ね?」と富子夫人に顔を戻した。
「たとえ本業の合間になさっている活動でも、お金が動くならそれは当事者にとって遊びじゃないわ。趣味の一言で済ませたら、兄さまや和巳君のお父様方が気を悪くなさるわよ」
沙羅がこちらに気遣う目線を投げながら言い諭し、富子夫人が「そうだわね。軽率でした」と頭を少し下げる。僕は今度こそ呆気に取られて口を開けた。
アレが本業じゃないのなら、いったいナニが彼らの本業なんだ……!
「祐さんの本業……」
驚きのあまり宙に向かって口走ると、視界の隅で玲さんの紅い唇が動いた。
「それはやはり、財閥の理事としてのお仕事ではないかしら」
だって所得が段違いだと思うし、と小声で付け足されて愕然とする。
〈T-ショック〉のギャラやCDの売上より役員報酬のほうが上!
「でも、僕の父や婚約者には」
あれはリッパな本業なんですが……と続けようとすると、沙羅が「あ、そうそう」と身を乗り出した。
「聞いたわ、和巳さん。あなたのお父様、フォーマルブランド〈クレスト〉の専属モデルなんですってね。あのお母様とはきっと仕事で知り合ったのね?」
えっ! そっちは知ってるの?
さらに驚かされていると、澪奈もああそうだわと僕を見た。
「婚約者の方、デザイン画家の小倉蒼雅先生でしょう? 友人と何度か作品を見たことがあるの。とても個性的なモチーフの絵を描かれる方ね」
「………」
ふいに俊くんの教えが脳裏を巡り、僕は開けていた口を閉じた。
『上流階級の人間は、祐司の音楽活動には詳しくないから大丈夫』
なるほどこういうことだったか。
つまり上流にとって、そもそもロック音楽は仕事の対象に入らないのだ。当然、その地位にも人気にも関心がない。
でも富子夫人ならいざ知らず、まさかお嬢さん方まで〈T-ショック〉の価値をご存じないとは。この国にはまだまだ僕の常識の及ばない世界があったんだなぁ……。
己の認識不足を噛みしめていると、ふいに澪奈が立ち上がった。
「名残惜しいですけど私、そろそろ出かけなければなりませんの。お祖母様。お先に失礼します」
「そう。気をつけておいでなさい」
彼女は富子夫人に上品な所作で会釈し、席を離れた。
澪奈の姿が扉の向こうに消え、どことなく座の空気が緩む。玉枝夫人がため息をついた。
「なんだか可哀想な気がしますわ……」
憂いを帯びた横顔に、そりゃまぁお母さんとしては、娘の結婚相手が姑に気に入られてないのは気がかりだよなと同情していると、沙羅がクイッと母親に顔を向けた。
「お姉さまのためよ、お母様。早いところあの男の尻尾をつかまないと」
先ほどまでの気遣いをかなぐり捨てたような強い口調である。
あれ。沙羅さんは中立じゃないの?
驚いて沙羅に注目すると、玲さんが言った。
「そうね。澪奈の前では未だに猫を被っているようだけど、私たちの目は誤魔化せないわ。父親の意図も透けて見えているし。仏心は禁物よ」
「まだ、史昭がまったくの見込みなしと決まったわけではありませんよ」
富子夫人が玲さんを見た。
「これをきっかけに澪奈の存在価値を見直して、父親の干渉を撥ね付けるかもしれません」
「まさか」
玲さんが冷たく笑った。
「あの甘えん坊にそんな根性があるものですか。折角の機会ですもの。この際、祐くんとの差を思い知ればいいのよ」
ずいぶんな攻撃口調に、事情はつかめないながらも、祐さんに跡を継がせる気なのは間違いなさそうだと青ざめていると、澪奈が出ていった扉が勢いよく開かれ、大柄な人影が姿を現した。
「俺のいない間に和巳を巻き込むのはやめてもらえませんか」
「………!」
地を這うような低音に遠雷のような迫力が滲んでいる。
一言で室内の一同の声を奪ったのは、滅多に感情を顕さないはずの、けれども今は明らかに怒りを含んだ表情をした、黒に近いダークグレーのスーツを着た祐さんだった。