養子問題、浮上?
「おい、優花から聞いたぞ。どうなってんだ」
久しぶりの授業が終わった途端、親友の宮内健吾から問い質され、僕は机についた肘に顎を乗せて後ろを親指で差し示した。
「下校仕度を先にしたまえよ」
「別に急ぐ旅じゃない」
彼は前の席の椅子にドカッと後ろ座りし、こちらに顔を近づけた。
「俺たちの間でウソや誤魔化しはナシだぜ。おまえいつから祐司さんの養子になってたんだよ」
僕はちょっとトホホな気分になりつつ、机の上を片付けはじめた。
健吾の聞きたいことはわかっている。年明け早々に起こった騒動について、二日前に真嶋さんに報告した内容を、娘である優花は漏れ聞いただろうし、当然、彼氏である健吾の耳に入れただろうからだ。
「僕だって驚いたよ。けどまだそれはっきりしてないんだ。だから情報は健吾止まりでよろしく」
「そんなことは言われるまでもない」
健吾はムッと頬を膨らませた。
「担任の向井あたりに知れたら、進路指導室に連行されて根掘り葉掘り聞かれそうだし」
僕たちの担任、向井譲はギタリストユージの熱心なファンだ。まだ公にはされてない先日の騒動を知ったら、さぞかし気を揉むことだろう。
ため息を吐きながら筆入れをしまうと、健吾が顔を突きだした。
「で? はっきりしてないってなんだ。話は違ったってことか」
「いや、それがさ……」
僕は玲さんの誕生パーティーの顛末を思い出した。
あの爆弾発言のあと、難しい顔になった祐さんをよそに、玲さんは総司さんから引き継ぐようにして僕を他の招待客に紹介しだした。
「ええそう。長い間、家族ぐるみで付き合ってきましたのよ」
そういった言葉とともに、富子夫人の上機嫌な様子も場に影響したようで、次々にかけられる挨拶の言葉と、タイミング良く出される玲さんの合いの手で、僕は質問に答えるのが精一杯になった。しかも僕は『経済学を専攻する学生』などと紹介され、また俊くんも逐一『その婚約者』と紹介されるので身動きままならず、笑顔を張り付けて応対することに忙殺された。
そうして徐々に人々の目線が熱くなっていく中で、富子夫人が座を退く際に『では和巳さん。近々お茶などご一緒しましょう』と声をかけたことにより、僕たちに対する周囲の態度は完全に改まった。
「申し訳ないが今日はこの辺で」
きりがない有り様になった客とのやり取りは、祐さんのいささか強引な中断の声で終わりを告げたのだが、タクシーを呼んだから送るとの言葉に、廊下で事情を聞こうと考えていた僕たちの目論みは、井ノ上家の執事だという壮年男性の「では大奥様に変わり、お見送りさせていただきます」との言葉で遮られ、結局、そのままの状態でホテルをあとにするしかなかった。
「どうしよう。このままじゃ僕たち、祐さんの養子とその伴侶にされちゃうよ。井ノ上家のお家騒動に思いっきり巻き込まれてる気がしない?」
しかも良くわからないながら、ターゲットはあの武文、史昭親子のような気がする。つまり、玲さんの本当の目的は彼らへの牽制――財閥の後継者は祐司さんだから余計な口出しは無用――だったのではないかと。
タクシーの後部座席で 俊くんに訴えると、彼は難しい顔になってうーんと唸った。
「おかしいな。祐司の身柄を井ノ上財閥の外に置くために協力していた筈なんだが……駄目だな。おまえの婚約者だと紹介されて舞い上がっているうちに、玲さんにいいように事を運ばれた気がする」
美しい和装姿でそんなことを言われ、つい「それは僕も同じです」などと赤面してしまったが、今は二人でバカップルを演じている場合ではない。
「前会長の弟さんが息子さんをわざわざ澪奈さんの婚約者だと紹介したのは、総司さんの後釜に息子の史昭さんを据えようと目論んでるからで、玲さんはそれに反対の立場なんじゃないの?」
玲さんの発言のあと、武文氏は僕たちをまるで敵視するような視線を投げ、ことあるごとに澪奈さんに話しかけていた。彼女は品よく受け答えていたが、あまり心楽しい様子ではなく、それを横目に見る総司さんの感情も、歓迎しているのか不快に思っているのかがよくわからなかった。とはいえ僕たちに見せてくれたおおらかな様子とは違う、どこか屈託した印象を受けた。
いずれにしても、玲さんにあんな紹介をされた以上、この先には何かのリアクションがあるだろうと予想される。それがどういったものであるのか非常に不安だ。
「こうなると、祐さんに色々聞かないといけないと思うんだけど……」
本来ならこんなときには「大丈夫だ」と余裕を見せるのが祐さんなのだが、あのときの表情を察するに、彼もまた意表を突かれたのは間違いない。
俊くんはしばらく考え込んだのち、こう結論づけた。
「あの様子だと祐司は多分、帰ってこない。今夜はこの件についての話をしてくるはずだ。仕方ない。あまり気が進まないがもう片方の当事者を当たろう」
かくして一足先に帰宅して変装を解き、ひと風呂浴びて口直しのワインなどを楽しんでいた拓巳くんは、いきなりリビングに乱入してきた和装美女にグラスを横取りされることになった。
「んなもん飲んでいい気分に浸ってる場合じゃない! 説明しろ。祐司と養子縁組するなんて話、いつ出てたんだ」
「あ? 祐司と? ナニ言ってんだおまえ」
ソファーにだらりと体を預けたままの彼は「酔ってんのか? 寝言は寝てから言え」などと最初は取り合わず、なんだ、違うじゃんと僕は安堵した。ところがである。
「このっ! まともに話を聞きけ!」
俊くんに繰り返し問いただされると、「あっ……」とひと声上げて目の醒めた顔になり、態度を一変させたのだ。
「んーと、その話は保留。……のはずだ」
バツ悪く横を向く姿に、僕と俊くんは絶句した。
まさか、ホントーに本当のことなのか!
「ねぇ、本当なのっ? なんかエラいことになるかもしれないからちゃんと答えて!」
僕からパーティーでの顛末を聞かされた彼は、しばらく考えたのちにこう言った。
「……むかーしそんな話があった。ただし最初にそれを言い出したのは祐司じゃない。陽子さんだ」
「陽子さんが!」
話がさらに信憑性を帯び、俊くんが詰め寄った。
「それで⁉ おまえは承諾したのか!」
彼は頷き、だけど、と続けた。
「和巳を育てはじめたとき、俺はとにかく和巳と離れたくなくて、けど最初からうまくいくはずなくて……よく様子を見に来た祐司に家へ連れてかれた。しばらくして陽子さんが『二人でうちに入っちゃいなさい。祐司も安心できるし、みんなで育てればいいわ』って」
「ああ、そうか……」
俊くんが思い出したようにつぶやいた。
「おれはあの頃、バンドの再開のことに夢中で、そっちには気が回らなかった……」
ちょっと俯く俊くんに拓巳くんが苦笑した。
「それはしょうがないさ。おまえはリーダーで、あんときゃ俺が休んだせいでバンドの基盤が緩んじまってたから。芳弘も優花の世話や店の切り回しに忙殺されてたし」
「芳さんも一徹だったからな……」
離婚直後、真嶋さんへの暴力に荷担したとして罪に問われた元妻が、連絡もよこさずに産み、のちに放り出した優花を、親族の反対を押し切って迎えた真嶋さんは、人の手を借りることには慎重だったという。
「祐司や陽子さんはもどかしかったんだと思う。和巳は生まれてから一歳半まで二人が育ててたんだから。けど最初は住まいを移すだけの話で、だからお試しとして平日に泊まってた」
「なんだ。じゃ、入籍ってわけじゃないんだな?」
俊くんがひと息つくと、拓巳くんが少し首を傾げた。
「いやだからそれは最初の話。その半年後に変わったというか、ほら。アレだ」
「なんだ!」
俊くんが焦れったそうに肩をつかむ。拓巳くんは痛そうに顔をしかめながら続けた。
「あのクソ親父の襲撃。和巳を要に拉致られたときさ」
「アレか!」
それは僕が二歳の半ばを過ぎた頃のこと。絶縁状態にあった祖父、高橋要が、まだ未成年だった拓巳くんの親権手続きの隙を突いて勝手に書類を整え、保護者を名乗ってベビーシッターの手から僕を連れ去った事件だ。そのせいで拓巳くんは情緒不安定になり、僕の安全に対して過敏で過保護になったという。
拓巳くんはちょっと眉尻を下げた。
「あのときは結局、俺の状態を危ぶんだ芳弘が俺たちを引き取ったんだが、そのときも陽子さんと揉めたらしい。で、籍だけでも井ノ上に入ったほうが安全だって言われて、すごく心配かけてんのわかってたから、陽子さんが持ってきた紙に名前書いて渡したんだ」
「書いたのか!」
「ああ。けどそのあとで祐司と話をして……多分、書類は出さないって判断になったんだと思う」
「思うって。なんでソコ曖昧なんだよ」
「だって、しばらくして祐司が『書類は必要になるまで俺が預かるから、名前は今までどおりでいいぞ』って言ったんだ。だからどっかの重要書類だけが井ノ上になるんだなって思ってて、その後話がなかったから忘れてた」
忘れてたと言われて再び絶句する。
「だってそれ、正式な書類は井ノ上になってるってことじゃないのっ?」
拓巳くんはヘイゼルの瞳で訝しげに僕を見た。
「けど前におまえのパスポートを作ったとき、戸籍は高橋のままだったろ?」
「パスポート? 修学旅行か!」
俊くんが僕を見る。
「あ。そういえばそうだった」
旭ヶ丘は二年の秋に修学旅行としてオーストラリアへ行く。密室の長旅がお好きでない拓巳くんの影響で、僕にパスポートを取る機会はなかったが、とうとう必要になったのだ。
「じゃあ、話はなくなったと解釈していいんだな?」
俊くんが再び息をつき、僕は半ば祈るように返事を待ったのだが、拓巳くんは少し俯いてからこう言った。
「俺からは……なんともいえない。忘れてただけで、養子縁組みの書類を書いて預けたのは事実だ。だからそのことは祐司のいいようにしてくれればと思ってる」
でもそれじゃと口にしかけたのだが、拓巳くんの目にはいつにない哀愁のようなものが漂っていて、僕と俊くんは顔を見合わせてそれ以上の質問は控えたのだった。
「えーっ! って、……じゃ、それはまだ有効ってことだよな?」
声を上げかけた健吾がハッと口を手で塞ぎ、小声で訊ねてきた。
「かもしれない」
僕は答えてから席を立ち、脇の鞄を取り上げて下校準備に取りかかった。
健吾も席から離れ、自分の支度を済ませる。まだ残っている級友たちに挨拶を交わし、二人で校門に差し掛かる頃には、生徒の姿はまばらになっていた。
「健吾、優花は?」
「バイト。亜美ちゃん今日、代々木で仕事だって」
今やGAプロダクションの有望株となったアイドル、柳沢亜美の付き人を三月まで任された優花は、手際よく元後輩の世話をこなしているようだ。
「おまえ、まったくノータッチなのな」
「優花の助言でね」
あの子が和巳への恋心を断ち切るまでは、中途半端に関わったらだめ――亜美の心理に気づいた優花からの忠告だ。
「今、こっちに専念できるのはありがたいよ。なにしろ週刊誌記者に知れたら最後、ナニを書かれるかわかったもんじゃないからね」
当事者の僕ですらまだ祐さんとは何も話せていないのだ。先に出されるのは勘弁してほしい。
「そうさなー。今日みたいな短縮授業の昼下がりにさ。こんなように門を出た途端が一番危ないよな」
健吾が校門の門柱を軽く叩く。僕はつい道路脇に目線を飛ばしてしまった。
「ごめん、冗談。本家主催の私的なパーティーはガードがめっちゃ堅いんだろ?」
「う、うん」
あれからまだ二日。沖田さんにはすぐに連絡し、方々の伝手を頼んでアンテナを立ててもらっているが、今のところ出席者の誰それからの情報などといって報道される気配はないという。
そんな風にして、歩道脇に潜む記者らしき人物しか意識していなかったので、少し先でハザードを出しながら路肩に停まった黒塗りのベンツには、僕は注意を払わなかった。だから後部座席から出てきた男性が「和巳様。お迎えに上がりました」と頭を下げるのを横目に見ながら、うっかり通りすぎようとしてしまった。
「おい! あれ、おまえに言ってないか?」
「えっ、あ、はい?」
コートの襟首を引っ張られて足を止めた僕は、道向かいで姿勢を戻す痩身の男性に目を見張った。
「あっ! あなたは総司さんのところの」
黒に近いグレーのスーツを着こなし、背筋をピシリと伸ばした姿勢でこちらへと道路を渡ってくるのは、二日前のパーティーの帰り際、僕と俊くんを見送ると言って正面玄関までついてきた、鎌倉井ノ上家の執事だという男性だった。
彼は洗練された所作で僕の正面に立つと、いかにも切れ者といった涼しげな顔に笑みを浮かべ、再び丁寧に会釈した。
「ご記憶いただきまして光栄です。井ノ上家執事の早川と申します」
容貌は四十代半ばほどに見えるが、名にしおう一族の本家を切り回しているためなのか、早川と名乗った男性には年齢以上の落ち着きがあった。
僕は気を引き締めて答えた。
「一昨日はお世話になりました。僕に何かご用でしょうか」
今、お迎えがどうのと言っていた気がするのだが。
彼は「はい」と頷くと、導くように手のひらを車に向けた。
「恐れ入りますが、大奥様がお約束なさったお茶会にご出席いただきたく、お迎えに上がりました」
は? お茶会?
「今日、これからですか?」
驚いて訊ねると、早川氏は少し目を見開いて返してきた。
「はい。夕べのうちに玲様がご連絡なさったと承っております」
「連絡を? いえ、僕は受けておりませんが」
おかしいぞと首を傾げると、彼も困った様子で答えた。
「和巳さんにご出席いただきたい旨、お父様に承諾をいただいたとおっしゃっておいででしたが……」
「父にですか」
ちょっぴりイヤな予感にかられ、僕は「申し訳ありませんが確認させてください」と断ってその場を少し離れ、コートのポケットからスマートフォンを取り出した。
時刻は午後二時。今日は三年生だけ時短授業なので下校が早い。が、バイトは夕方からでいいとのことで、五時頃にGプロで合流することになっている。拓巳くんは今も仕事中のはずだが、モデルの打ち合わせなので僕からの連絡なら絶対応じるだろう。
案の定、彼はコール三回で電話に出た。
「あ、拓巳くん。ちょっといい?」
かいつまんで状況を説明すると、彼は少し間を空けてから返してきた。
『あ、わりぃ。そういやそうだった。玲さんからのメール、おまえに見せるの忘れてたわ』
「それ、転送してくれる?」
『ちょっと待ってろ』
一旦電話が切られ、まもなくメールが転送されてくる。見ると。
〈昨日はありがとね(*^o^*)。さっそくなんだけど、明日の午後、和巳くんをお茶に誘ってもいいかしら。もちろん拓巳くんも来てくれるなら大歓迎よ♪ お祖母ちゃんがね。もうちょっとゆっくりお話したかったみたい。祐くんには私から連絡しておくからよろしくね☆〉
今、このタイミングで執事さんまでよこすわりにはナンとも軽いノリのメールである。
僕はとある予感に襲われつつ再度電話をかけた。
「読んだよ拓巳くん。これってじゃあ、承諾したってことかな?」
努めて明るい調子で訊ねると、彼は無邪気に答えた。
『まぁ、茶ぐらいならいいんじゃねぇ? ちょうど時間が空いてたし。あ、ちゃんと俺はエンリョするって言っといたぞ。富子さんと女装で顔会わせちまったばっかだから、そのほうがいいだろ?』
誉めてくれと言わんばかりの口振りである。
『玲さんはグルメで色々な店知ってるから、どっかのホテルのビュッフェでも堪能させてくれるんじゃねーかな? 遅くても五時までには返してくれって伝えてあるから』
じゃ、玲さんによろしくな、と電話を切られ、僕は確信した。
これ。玲さん、わざと軽いノリにしたぞ、絶対。
物言わぬスマホを睨んだまま突っ立っていると、健吾がつつっとそばに寄ってきてささやいた。
「おい。ナンだって? こいつ本物? それとも騙り?」
僕の表情から別の想像をしたらしい。慌てて「いや、本物」と一言入れてから僕は早川氏に向き直った。
「申し訳ありません。確かに連絡はいただいていました。ええと、でも制服のままでいいんで」
しょうかといいかけたところでハッと口を閉じる。
僕、このまえ大学生って紹介されてたんじゃん。
この切れそうな執事はいったいどこまで知っていて、どんな立場で振る舞っているのか。
「あの、どなたから聞いてここへ……」
いや、当主は総司さんなんだから、きっと彼から明かされてるんだと思いながらも一応、反応を窺うと、早川さんは口元に笑みを浮かべてこう答えた。
「お着替えはご用意致しておりますのでご安心ください」
「………」
なかなか食えない人だ。
でも確か、メールには祐さんにも声をかけるってあったよね……?
僕は腹をくくり、健吾に顔を向けた。
「ごめん健吾。どうやら拓巳くんが話し忘れていたようなんだ。僕はこの人と…えーっと、どこへ行くんでしょうか」
少なくとも拓巳くんが想像した『グルメが好きそうなホテルのビュッフェ』ではあるまい。
わざとらしく首を巡らせて訊ねると、彼は表情を変えるでもなく頭を下げた。
「鎌倉にご案内させていただきます」
やっぱり。
ここはひとつ保険をかけておくべきだろう。
「だ、そうなんだ。悪いけど今日はここで。優花の家に一緒に行けなくて残念だけど、よろしく伝えといてね」
健吾は一瞬、訝しげな顔をしたが、僕の目を見てハッと目を見開くと、こう返事を返してきた。
「了解。ちゃんと伝えとくわ」
僕は頷いてから早川さんに並んで歩き出した。