想いは違っていても
夕暮れの色に染まりだした渡り廊下を抜け、母屋の中に入ると、ざわざわとした空気が玄関の方向から届いてきた。
「……ってね。じゃあよろしく」
えっ? まさかもう。
聞こえてきたのはどこか陽気な少年のような明るい声で、僕は慌てて廊下を駆け、玄関への距離を詰めた。
「あの、幸司さんっ?」
広い玄関の扉は放たれ、人影はすでに玉砂利の敷かれた表の敷石のあたりに出ている。靴を履くのももどかしくその場に駆け寄ると、四人ほどの集団の中で、手前の二人が驚いたようにこちらを向いた。
「和巳さん。どうなさいました」
「拓巳様の具合に何か?」
浅葱色の着物姿と黒に近いグレーのスーツは、確認するまでもなく富子夫人と執事の早川さんだ。
「たっ、父は大丈夫です。あの、今、幸司さんの声が」
言いながら、すでに前へと歩を進めている大小二人の姿に目を向けると、笑顔で祐さんを見上げていた幸司さんがこちらを見てハッと目を見張り、「じゃあねっ!」と一声叫んで脱兎のごとく駆け出した!
えっ、なんでだ!
「お待ちなさい、幸司!」
「幸司様!」
口々に名を呼ばれるも、正面の敷石を逸れ、裏口方面に向かう足は止まらない。
「幸司さんっ! 待ってください!」
慌ててダッシュしたのだが、中庭の脇を駆けるイタチのような素早い走りに追いつける気がしない。しかも彼が目指すのはおそらく裏の駐車場だ。
「 待って!」
早くも裏庭の小道に続く椿の垣根に差しかかられ、これじゃ車で出られちゃうと焦って叫んだとき。
「親父、待てっ!」
いきなり椿の影から大きな黒い姿が躍りだし、まるで大鷲が獲物を捕獲するがごとくに幸司さんを捕らえた。
「祐さん!」
どうやら咄嗟に幸司さんの逃走ルートを読み取り、中庭をショートカットしたらしい。
さすが祐さん。たとえスーツ姿でも、猛禽の王に例えられる身ごなしは健在だ。
ホッとして足を緩めかけたそのとき、いつもなら勝負がつくはずの場面が一変した。
「祐司くん! 離すんだっ!」
かけ声とともに捕らえられたはずのイタチが跳ね上がり、なんと大鷲の首めがけて鋭い足蹴りを繰り出したのだ!
「祐さん!」
あわや首の付け根にヒットするかに思われたが、そこは祐さんの反射神経が物を言い、すんでのところで腕が防いだ。しかし幸司さんもそれは読んでいたようで、間髪を入れずに体を捻り、逆回し蹴りを放つ。
「……!」
やむなく祐さんが体を引いて避けると、幸司さんは即座に身を翻した。しかし長い腕が伸びてすぐに襟をつかまれ、再び飛び蹴りが炸裂する。
「やめろ親父! 話を聞いてやれ!」
息つく間もない攻防の中、祐さんが声をかけるのだが、幸司さんの動きは止まらない。間合いを詰める彼のそばを手と足が旋回するたびに、椿の枝や葉が四方に飛び散る。
な、なんて切れ味なんだ!
高速で繰り出される技の数々は、まるで少林寺の達人の組手を見るようだったが、素人目にも幸司さんの尋常ならざる速さが際立ち、徐々に祐さんが追い込まれていく。
凄い! 強面のヤクザを一撃で倒す祐さんが防戦一方だ!
しかし感嘆してばかりもいられない。
このままでは逃げられるとの思いが脳裏によぎり、僕は攻撃で脇が開いた瞬間を狙い、思い切って胴に飛びついた。
「幸司さん! 止まって!」
すると祐さんの攻撃を弾き返したその腕が、肘を曲げて僕の顔に襲いかかった。
うわっ!
思わず目を瞑ってしまったが、予想した衝撃は来なかった。
取りついた体も動きを止めている。
ソロソロと顔を上げると、目を丸くした幸司さんの腕を、祐さんの大きな手がつかんでいた。
「親父! 和巳が怪我をするぞ!」
「あ? ああ。あの、困ったな」
幸司さんの目が一瞬泳ぎ、次いで途方に暮れたように目尻を下げた。
「ごめんよ和巳くん。でも僕は君と一緒にいちゃいけないんだ」
さ、離すんだとしがみついた腕をグイと剥がされ、僕は幸司さんの脳ミソに届くよう必死に叫んだ。
「大丈夫です! 拓巳くんは起きました。許可取ってます!」
『拓巳くん』と『許可』を強調して言うと、幸司さんはハッと動きを止めた。僕はすかさず言い足した。
「誤解は解けてます。謝りたいと言っていました。どうか待ってください!」
「謝りたい? ……って、拓巳くんが?」
「はい」
動きが完全に止まり、祐さんが構えを解いて腕を離す。僕はようやく手を戻し、姿勢を正して二人に向き合った。
「先ほどは父が取り乱し、ご迷惑をおかけしました」
深々と頭を下げると、祐さんが僕の肩を軽く叩いて持ち上げた。
「あの様子じゃ、誤解を解くのも時間がかかると踏んでいたんだが、大丈夫だったのか」
僕は祐さんを見上げて説明した。
「ここ二日ばかり、僕の様子がおかしくて気になっていたので、勘ぐってしまったみたいです。すみませんでした」
「様子? おまえのか。どこか具合が悪かったのか」
スッと顎に手が添えられて上向かされる。
ここに長く滞在していることを気にしていたのだろう。やや曇った表情で見つめられ、僕は即、手のひらを振って否定した。
「違うんです。体調とかじゃありません」
「じゃあなんだ」
「そ、それはその、……」
まさか明かすわけにもいかず、どうにか言い訳してみる。
「ええと、俊くんが帰ってしょんぼりしていたら、焼きもちを焼かれたというか」
確かめるように顎の手を肩まで滑らせた祐さんが首を傾げた。
「それは今さらだろう」
探るような眼差しに、つい先ほどまでの会話を思い出して顔が熱くなる。
「そのっ、会うのが久しぶりだったのでがっかり感が増していたみたいで、拓巳くんの呼びかけにいつもより多く生返事しちゃってたらしいんです! ですからっ、幸司さんには本当に申し訳ありませんでしたっ」
最後は祐さんの手を振り切る勢いで幸司さんに頭を下げ、姿勢を戻しながら付け足した。
「どうか本人の謝罪を受ける時間をいただけませんか」
ほんの数分でいいですからと伝えると、彼は僕を見上げて口を開いた。ところが。
「……本当に君は――」
ふいに声が掠れ、次いで大きな瞳から涙がこぼれ落ちた!
こ、今度はなんだっ!
「幸司さんっ?」
驚いて少し下にある顔を覗くと、彼は子どものような仕草で目を擦りながら言った。
「今、確信した。僕は拓巳くんには会えない」
「えっ?」
「いくら拓巳くんが許してくれても、僕が全然だめだ。彼は鋭いから、どんなに心の中にしまっても読み取られてしまうよ」
昔のようにと付け足されてさらに戸惑う。
昔? 読み取られるって何を。
「親父」
祐さんが脇に寄り添うも、幸司さんの涙は止まらない。
本当に、祐さんや陽子さんとは真逆タイプの人なんだな……。
真嶋さんの話の中で、祐さんや陽子さんがこの人の奔放さを容認するのが不思議な気がしたのだが、この人懐こそうな人だけが家族の中で浮いているのを実感してしまうと、少しだけわかった気がする。
口元を覆い、必死に感情を抑えようとする姿がなんだか哀れに映り、僕は腰を屈めて聞いてみた。
「父は、幸司さんが長く横浜に戻ってこないことをとても気にしていて、自分のせいだと申し訳なく思っていたようです。今回は幸司さんに来ていただけるよう、わざわざ陽子さんに連絡したみたいですよ」
「拓巳がおふくろに?」
「はい」
初耳らしい祐さんに頷くと、幸司さんが「僕もそう聞いたよ」とつぶやいた。その言葉にふと気づく。
だったらあのとき、僕をここまで送ろうとした判断の中には、ただ成り行きの親切心というだけではなくて、みんなに会う決心を固めて鎌倉まで出向いたということにならないか。
そうか。だから彼は拓巳くんや祐さんのことを色々質問して、僕と別れたあとも帰らずに、様子を探っていたんだ。
それは彼にとっては十年ぶりに自分に許した行動だったわけで、そこで拓巳くんの窮地に遭遇し、幸先よく相手を退けて救った。しかしいざ和解の一歩を踏み出そうとしたその矢先に、あの有り様となったのだ。
「………」
事情が非常にまずい方向に流れていることに気づき、にわか焦りが沸き上がる。
これはなんとしても対面の方向に導かないと、拓巳くんが浮上できないよ!
「何か言いにくいことがあるなら僕に教えてください。どんなことでも聞きますから」
思わず肩をつかんでしまったが、僕の必死感が伝わったか、幸司さんは咎めることなく涙に湿った顔を上げた。
「でも、聞かないほうがいいよ」
「いえっ」
僕は食い下がった。
「真嶋さんから昔何があってあなたがこの地を離れたか知りました。ご自宅に何度も伺っているのに、どうして幸司さんとは今まで一度も顔を合わせなかったのかも。反省するにしても、十年前に一度しか会ってないなんて少なすぎる。これからはもっと自由に行き来していただきたいんです」
彼はじっと僕を見、次いで祐さんを見た。
「ねえ祐司くん。僕はあれだけのことをやらかしたのに、芳弘くんだってわかってるんだろうに、こんな風に話ができるようにしてくれたよ。本当に芳弘くんて思いやり深い人だよね」
「………」
真嶋さんへの称賛を口にしているのに、なぜか祐さんが眉根を寄せる。どこか不思議な反応に違和感を覚えていると、幸司さんは泣き笑いの顔を僕に向けた。
「あのね。多分、芳弘くんは僕の評価をかなり高めにして君たちに伝えてたんだと思う。だからそんな勘違いをしてしまうんだよ」
「勘違い?」
幸司さんは涙の残りをグイと袖口でぬぐった。
「本当に思ってることなんて言っちゃったら、二度と君は会ってくれなくなるよ。それはさすがに切ないな」
だからここでね、と肩をつかんでいた手を外され、僕は必死に訴えた。
「でも、でもこのままお別れなんて納得できません。昔僕を可愛がってくれたと聞かされれば尚更です。もう僕は幼児じゃない。父とはよくコミュニケーションを取ってますし、言葉の配慮だってできます。なにより僕たちのために祐さんや陽子さんがこれ以上、あなたと自由に会えないのは嫌なんです」
「……――」
幸司さんはそれを聞くと、再び目を潤ませて肩から外した僕の手を両手に握った。
「親父」
「祐司くん。止めないで」
一瞬、動こうとした祐さんを牽制し、幸司さんは僕に顔を寄せて絞り出すように言った。
「どうして、どうして君は祐司くんの子じゃないんだろう……!」
えっ……?
さすがに言葉に詰まると、幸司さんはグッと詰め寄った。
「こんなに祐司くんと仲良しなのに。祐司くんのほうがぜったい父親に相応しいのに。どうして若砂くんは祐司くんじゃ駄目だったんだろう」
ええっ? ちょっと!
「親父。よせ」
祐さんが幸司さんの腕を押さえて割り込む。しかし彼は逆に祐さんにも訴えた。
「どうしてあのとき、君は諦めて譲っちゃったの? 音楽を手放したくなかったから? だからって好きな人を譲れるなんて僕にはわからないよ」
「違う。それは何度も説明した。だいたい和巳に言うことじゃない」
「でも和巳は知りたいんだよ」
幸司さんは苦笑して言った
「僕がどんなにひどいことを拓巳くんに思っていたかを。そのために君たちが同居を諦めて僕をこの地から遠ざける決断をしたんだってことを。この事情を知らないと、この子は一生、気に病むよ」
「………」
幸司さんをつかむ祐さんの手が止まる。
幸司さんは度肝を抜かれた僕に向き直った。
「あのね。僕は好きなものにしか興味がない。陽ちゃんや祐司くんが大好きで、芳弘くんもお気に入り。拓巳くんには興味がわかなかったけど、若砂くんはひと目で惚れ込んだよ。人懐こくて芯が強くて、おまけに賢くて。『祐司くんのお相手は彼女しかいない』って」
それはまた、ずいぶんな入れ込みようである。
「初めて自宅で彼女と対面したとき、よろしくね若砂ちゃん、て挨拶したら『そこは〈くん〉にしてください』って直されたけど、てっきりあだ名かと思った。だっていくらスーツ着てたって、祐司くんと話す彼女は女の人にしか見えなかったし。それなのに彼女は認めなくて」
えっ! でも昔の画像や写真では、そうは見えなかった気がするのだが。
「あの。父は前に、若砂さんは少年にしか見えなかったと」
「だったらなんで若砂くんと結婚できるんだ。僕には理解できない」
スパッと返された言葉は俊くんとのことを指しているようにも聞こえ、僕はちょっとムキになって答えてしまった。
「それは男女の括りを越えて、人としての魅力をお互いが見いだしたからでは」
「の、わりにはすぐに君を授かっちゃってるし。どこが女性と違うんだよって言いたくなるよね」
「………」
ソコを指摘されてしまうと返しようがない。
口をつぐんだ僕に、幸司さんはちょっと意地悪な笑みを浮かべた。
「だから君をうちで預かったとき、闘病する若砂くんには悪いけど、このままの日がずーっと続けばいいな、なんて思っちゃった」
な、なんてことをペラッと言うんだ。
一瞬、目を剥いたのだが、彼は意に介さなかった。
「若砂くんが旅立って、拓巳くんがおかしくなったときも。ああこれは神様が、赤ちゃんはうちで育てなさいって言ってるんだと思ったよ。だってどうみてもあのときの拓巳くんには父親の要素がなかったし」
「そ、そんなことはないのでは」
「あるよ。だってうちの陽ちゃんや祐司くんがいなかったら、君は多分、あのしつこいお祖父さんに連れていかれて、いずれは虐待されていたと思うもの」
「………」
しつこいお祖父さんとはもちろん高橋要のことで、それは十分あり得たかもしれない。
「実際に、一番大変な二歳まで君を守って育てたのは、陽ちゃんと祐司くんだからね」
もはや返す言葉をなくしていると、彼はふいに顎を引き、少し眉尻を下げた。
「……ってなことをハラの底に抱えて、時々陽ちゃんにぶちまけては諭されながら、僕は幼い君と遊んでいたわけ。だからあの事件は起こったんだよ」
どこか寂しげな笑みが人懐こそうな顔に広がる。
「僕にとって拓巳くんは、一人息子の生き甲斐である音楽に必要不可欠な、けれどもいつのまにか息子の想い人を攫った人だった。とても大切で、同時に邪魔な存在。拓巳くんは僕の矛盾した内面を野性のカンで感じ取っていたんだ。でも祐司くんの親だからって我慢していたんだよ」
淡々と話す姿は先ほどとは様相を変え、どこか罪を懺悔する信者めいて見えた。
「だから幼い君が拓巳くんを拒否ったのを見たときはまずいと思ったよ。『このまま僕と仲良く成長したら、いつか拓巳くんに刺されちゃうかも』ってね」
幸司さんは首を傾けて僕の顔を覗き込んだ。
「ここを離れたのも、説教されて反省したからだけじゃない。怒った祐司くんに井ノ上財閥に入るなんていう禁じ手を打たれたからだ。君がうちに来てくれても、肝心の祐司くんを鎌倉に取られちゃったら意味ないからね」
彼は姿勢を直しながらチラッと祐さんに目線を投げると、爪先で地面を軽く蹴った。
「だからって自分の考えを改める気にはなれないし。つまりこれは僕と祐司くんの意地の張り合いなの。どう? ロクでもないでしょ? だから僕がここに戻らないことについて、君はまったく気にしなくていいんだよ」
薄く笑った彼は僕と祐さんから一歩離れた。
「君と会わなくなって十六年。ここまでくれば他人も同じ。だったらもういいかと思って拓巳くんにも会う決心をしたのにね。運命って恐ろしいよ。まさか病院で出会ったばかりの、妙に気の合った子があの和巳だったなんて。拓巳くんは一瞬で見抜いたんだ。僕と君が意気投合したことに」
確かに、僕はこの人に初対面で好感を持った。
「おまけに祐司くんがそんな風に世話を焼いているのを見ちゃったら、沈めたはずの感情が吹き出しちゃって……」
そうして彼はもう一度目を潤ませ、袖口で目を擦りながら笑った。
「祐司くんは幸せそうだし、せっかくうまくいってるのに壊したくない。だから会わないで帰る」
「………」
「元気でね」
彼は軽く手を上げると、言葉とは裏腹に、名残惜しむような眼差しを僕に投げてから踵を返し、裏庭に続く小道へと踏み出した。
僕はその後ろ姿を、かける言葉も見つからないまま見送った。
頭の中にリフレインするのは、まるであふれ出たかのようなあの言葉。
(どうして諦めて譲っちゃったの? 音楽を手放したくなかったから? だからって好きな人を譲れるなんて僕にはわからないよ!)
あの言葉がもたらした妙な納得感。
やっぱり祐さんは身を引いたんだ。
拓巳くんが不安定だったから。それをお母さんが補ったから。
祐さんには、拓巳くんもまた失えない存在だったから。
どうしよう。拓巳くんになんて説明すればいいんだ。
呆然と突っ立っていると、やや右寄りの頭上でため息がした。
「まったく……親父のあの態度が、若砂から拒否された最大の原因だったんだがな」
「えっ……」
おそるおそる見上げると、祐さんが苦笑を浮かべて僕の頭に手のひらを置いた。
「余計なことを聞かせてしまったな。あれは親父の勝手な思い込みだから気にしないでくれ」
「……いえ。あの、それって……」
原因の内容を聞きたくてモジモジしていると、祐さんは察したように口の端で笑った。
「親父はよくも悪くもストレートでな。初対面のとき、あの調子で若砂を女扱いしたんだ」
彼は僕の頭から手を肩に滑らせると、どこか懐かしむような目線を裏庭の木立に投げた。
「俺もまあ、若砂に警告されたにもかかわらず、そのあたりがなかなかピンとこなかったくらいだから、親父は尚更だったんだろうな。かわいいだのお嫁さんにぴったりだの捲し立てるんで、しまいには話の途中で慇懃に挨拶されて席を立たれた。だが親父には通用しなくてな」
「不快に思ったのが伝わらなかったということですか?」
状況を思い浮かべながら聞いてみると、祐さんは「そうだ」と頷いた。
「俺も。あとで雅俊から『なんで若砂をあんなに怒らせた』と詰め寄られるまで気がつかなかった」
俊くんは祐さんに、『若砂は怒れば怒るほど態度や言葉遣いが丁寧になるんだ。おれや拓巳といるときとよく比べてみろ』と指摘したという。
「それで注意して見るようにしたらようやくわかってな。が、俺も切り替えが下手なほうだったから、認識を正すまでにずいぶん時間がかかった。雅俊や拓巳が取り持ってくれなかったら絶交されていたところだ」
「ぜ、絶交ですか」
思いのほか厳しい態度に驚くと、祐さんは「当然だな」と答えた。
「あの頃、母親とのせめぎ合いで葛藤していた若砂にとって、性別の認識は自分の存在意義がかかる重要な問題だった。服装が常に男物だったのは、周囲への強い意思表示だ。それを初っぱなから女扱いして、人に言われるまで気づかなかった上に、父親が可愛いいだの嫁だの捲し立てたんだからな」
自分の選択を全否定されたように感じただろうなと祐さんは付け足した。
僕はそろそろと質問してみた。
「じゃ、あの、祐さんが拓巳くんのために身を引いた、なんてことは……ない?」
彼はいささか呆れたような眼差しになった。
「言っただろう。絶好寸前だったと。身を引くもへったくれもあるか」
「あ、はい」
彼は憮然とした様子で続けた。
「拓巳が俺を受け入れているという一点だけで、若砂は俺との友誼を切らずにいてくれたんだ。むしろ親父は拓巳に感謝するべきなんだが……」
そしてなにやら虚しいものを見るような遠い目をした。
「なにしろ時々しか帰ってこない人だったからな。俺もおふくろも何度も説明するのが面倒で、若砂を家に寄せるのはなるべく親父のいない日にしていた。おまえの事件はそのツケで、だから全面的に俺たち家族が悪い。おまえや拓巳は親父のことに関してなにひとつ背負うことはないんだ」
そうして祐さんは僕の背に手のひらを滑らせると、もと来たほうへと促した。
「拓巳は未だに引っかかっているようだが、俺に言わせればあいつこそが最大の被害者だ。おまえからもそこのところをうまく説明してくれたらありがたいな」
そう言って笑う祐さんには屈託がなく、僕は彼が、拓巳くんと僕の間で何かやり取りがあったことを感じとりながらも、こうして説明することで収めようとしていることに気がついた。
祐さんにとって、これはとっくに終わっていることなんだ。だったら僕が祐さんのためにできることは、拓巳くんを早く浮上させること。
「祐さんには、僕たちが色々気を回して頑張るより、普通にしていたほうがいいんですね?」
「そうだな。もちろん、おまえたちがここに来てくれて喜んだ人は多い。あの二人なんぞはその筆頭だろうな」
前方を指し示されて黄昏の中庭のほうに目を向けると、椿の影からこちらを気遣わしげに窺うスーツと着物の姿が見えた。
「すっかりこのまま離れに落ち着かせる心づもりでいたようだから、さっき理事会の決定を報告がてら断っておいた」
「えっ、ここに滞在することをですか? でも澪奈さんが抜けてしまったんじゃ、財閥のほうはまだ当分、時間がかかるのでは」
幸司さんのバタバタでつい失念してしまいそうだが、辞任の発表はつい昼前のことだったのだ。
祐さんは並んで歩きだしながら相槌を打った。
「そうだな。だが澪奈の決断は午後の理事会で承認された。俺のやるべき仕事はもうそんなにないと思う」
「本当ですか」
「ああ。残務処理はベテランの事務方に割り当てることができるし、方針が決まってしまえば俺の手が必要なことは少ない。拓巳自身は、富子さんにもう少しと頼まれれば受けるかもしれんが、これ以上は体が限界だろう。それにだ」
祐さんはやや顔をこちらに寄せ、声を落とした。
「早川はおまえの能力が欲しくなったようだ。このままだと本気でGプロに圧力をかけるぞ」
「えっ。そ、それは困ります」
ここの事務方を手伝うときの経緯があるので冗談に聞こえない。
二度はまずいですと訴えると、祐さんは口元でニヤリと笑った。
「だからな。連中には、拓巳はまだショックで具合が悪いことにしておくんだ。せっかくだから芳兄さんにひと働きしてもらおう」
「真嶋さんに?」
「連中も拓巳も兄さんの言葉に弱い。うまく帰らせてほしいと頼めば、どちらにも上手に取りなしてくれるはずだ」
俺と親父のときのようにな、と付け足した祐さんの態度には全幅の信頼が現れていて、僕はふいに幸司さんが病院で真嶋さんについて『とっても感謝してる』と言ったことを思い出した。
そうか。事件のあと、祐さんと幸司さんも感情面で色々あったんだ。それを真嶋さんが取り持って、だから今日、いきなり再会しても普通に仲良くいられたんだ。
きっと真嶋さんは、なかなか会おうとしない二人を心配して――。
「どうした」
「あ、いえ」
ちょっと足が遅くなり、祐さんが肩越しに振り返る。僕はすぐに速度を上げた。
「ぜひお願いしたいです。あちらのお二人にも拓巳くんにも角が立たないように」
祐さんが目で笑い、僕たちは夕日の中に立つ、いまや本家を支える支柱の二人に合流した。




