祐さんの覚悟
「結局、僕が現場に行けたのは、色々な段取りがついた昼過ぎだったんだけど」
真嶋さんはひとつ息を吐き出すと、ベッドに伏せる拓巳くんのほうに目をやった。
「ここから先は、僕の記憶にも残ってるよ」
僕はようやくわかったナゾの反応の理由に思わず俯いた。
「……だから僕がさっき抵抗したら、あんな傷ついた顔をしたんですね……」
真嶋さんは頷いた。
「僕が着いたとき、拓巳は奥の部屋に一人でいた。怒りの気配は消えていたけど、すっかり塞ぎ込んでいて、話を聞いても『俺は父親と思われてないんだ。俺が育てるなんて無理なんだ』としか言わなくて」
「そんな……」
記憶にないとはいえ、自分の言動が拓巳くんにショックを与えたのだと思うといたたまれない。
思わず肩を縮めると、真嶋さんは「君がそんな顔しなくていいんだよ」と僕に目線を戻した。
「あのときの僕でさえ、君のせいだなんて思わなかった。でもさすがに幸司さんのしたことは許せなかったから、陽子さんには君たちをすぐに引き取ると伝えたよ」
「それで養子の件が中断したんですね……」
そして拓巳くんの中からその記憶が一刻も早く消えるよう、誰も口にしなくなって立ち消えたのだ。
あれ。でも拓巳くんは、養子縁組の書類は誘拐騒ぎのあとに書いたって言ってなかったっけ。
額にシワを寄せて考えていると、真嶋さんも「いや、そこはそうじゃないんだ」と否定した。
「むしろ『せめてものお詫びに養子の件はしっかりやるから』と陽子さんに言われたくらいだからね」
「お詫びに? 養子にすることがですか?」
お詫びというなら、養子こそ取り止めではないのか。
首を捻る僕に真嶋さんは続けた。
「なにしろ高橋オーナーに連れ去られてから一ヶ月も経ってなかったから。書類だけならいいかと僕も割り切った」
「あ、そうか」
井ノ上の籍にはそれだけの力がある。拓巳くんの安心にも役立つわけだ。
「その代わりきっちり抗議して、当分の間、幸司さんが近づけないようにしておこうと。でも実際には僕が言うまでもなかった。祐司がとっくに……」
「祐さんが?」
真嶋さんはちょっと宙に目線を投げると、どこか沈んだ表情で再び過去を語りだした。
拓巳を寝かしつけたあと、僕は二階の和室に移動して、三人と正座で向き合った。
すでに彼らは何らかのやり取りをしたようで、僕の正面で縮こまる幸司さんに、隣の陽子さんが質問する形で事情が説明された。
全容が明かされたあと、腸が煮えくり返った僕は幸司さんを追及した。
「ひとつお聞きします。あなたにとって和巳はなんだったのでしょうか」
彼は怯えた小動物のような目で答えた。
「大切な家族……です」
「そうですか。僕にはあなたの今回の行動が、自分の寂しさを埋めてくれる愛玩動物への所業にしか見えないのですが。ペットとどこが違うのか説明していただけませんか」
「そ、そんな。和巳をペットだなんて思ったことはないよ!」
「しかし親のそばで睡眠中の二歳児を、自分の欲求を満たすためだけに起こしたんですよね?」
「欲って……っ、僕はただ、和巳と……」
「幼児の健康には安定した眠りが必要で、けれど多くの親がそれを習慣づけるのに苦労しているなんてことは、もちろんあなたはご存じですよね?」
「………」
「ご存じない? いやまさか。あなたの奥様はエキスパートですよ。彼女が教えないはずがない。そしてあなたの頭脳がそれを忘れるはずはありません。自ら興味なしと判断して記憶から削除しない限りはね」
目を逸らさずに断言すると、彼は青ざめた顔でうなだれた。
「つまり、あなたは子育てに興味がなく、和巳の健康にも興味はなかった。ただ可愛がりたかっただけだ。これがペット扱いでなくて何だというんです」
「それは……っ、……」
「ましてや僕はあなたにも直にお願いしたはずです。今、拓巳の心は崖っぷちに立っていて、和巳の父親でいられるかどうかの瀬戸際なのだと。二人を本気で家族に迎えたいと言ってくださるなら、どうか今は細心の注意で見守ってほしいと。こうなると、あのときいただいた頼もしい返事は出任せだったということですね」
「そ、そんなことないよっ。僕だって真剣に二人のことを」
「幼児の睡眠時間すら気に留めなかったあなたが真剣? 笑わせないでください。いくら僕でも血管ブチ切れますよ」
「ご、ごめ……」
するとそこで彼の左隣に正座していた祐司が突然、畳に手をついて土下座した。
「すまん、芳兄さん。すべての責任は俺にある。もしもこの先、拓巳が自信を取り戻せなかったら、俺は一生をかけて償う」
その姿は潔くはあったけど、そのときの僕の心には最初、響かなかった。
「やめなさい祐司。君がそうやって幸司さんを庇うのは、今の僕には正直、不愉快だ」
祐司は僕のそばまで膝を進めて再び頭を下げた。
「兄さんの怒りはもっともだし、偉そうなことを言うつもりはない。だが責任の所在はちゃんとしておきたい。今回のことはすべて俺のせいなんだ」
「君が何をしたっていうんだ」
「和巳と暮らし始めた拓巳を、ここに連れてきてしまった」
「それは拓巳が苦労していたのを助けるためだろう? しかも僕の手が回らないのを見越したからだ」
紛れもない事実のはずなのだが、祐司は上体を少し戻して首を横に振った。
「違う。俺は、親父が和巳をただ愛玩するだろうと知りながら連れてきた」
「え……っ」
「親父はきっと、おふくろが言うような幼児のためのルールなんて無視してただ可愛がるだろうと。わかっていて連れてきたんだから俺の責任だ」
「……どういうこと?」
さすがにそれは聞き捨てならず、姿勢を正して祐司に向き合うと、彼も正座を直して僕に目を合わせた。
「親父はもともとそういう人間だ。俺にもおふくろにもそれはわかっていた。だから拓巳と和巳のことだけを考えるなら、連れてきてはいけなかったんだ」
「でも君は僕に、二人でマンションに放っておける状態じゃないと」
「そうだ。拓巳には休息が必要で、それには安心できる環境が必要だった。でも家に連れてくるんじゃなくて、おふくろと協力して拓巳の自宅に通うべきだったんだ」
そこで祐司は目線を脇で縮こまる父親に移し、しばし留めてからこちらに戻した。
「だが俺は、おふくろと二人がかりで気をつければ問題ないと自分に言いわけして連れてきた。心のどこかで危うさを感じながら、自分の願望を優先したんだ」
「……それは君の願望じゃないでしょう」
あまりに己の非に片寄っている気がして口を挟むと、祐司はゆっくりと首を横に振りながら自嘲するように笑った。
「自分は誤魔化せない。俺は和巳をこの家に戻したかった。戻して家族に加えたかった。親父が和巳に夢中になる姿を見て、安心していたかったんだ。親父の中にはまだこの家が、俺たち家族がちゃんと住んでいるんだと」
「祐司……」
思いもよらない理由に目を見張ると、幸司さんが祐司の肩に縋った。
「なんで? 僕はいつだって君たちのことを」
「でも親父はずっと探していただろう? 自分を埋めてくれる存在を。昔失った親友の開けた穴が、俺たちでは埋まらなかったから」
「それは……」
幸司さんが言葉に詰まり、祐司はどこか慰めるような表情を浮かべた。
「悪いな。俺が埋めてやれればよかったんだが、俺もある意味わがままだから、自分を曲げてまで親父の希望するものにはなれなかった」
だからこれはお互い様なんだと祐司は言った。
「俺たちが家族内で葛藤しているのはいい。だがその解決に和巳の力を頼んで、しかも一度送り出しておきながら、理由をつけて未練がましく連れ戻した。それは明らかに俺の罪だ。だから俺が償う」
「でも、でも祐司くん。やっぱり」
「もう、話はついただろう?」
「………」
幸司さんが唇を噛み、陽子さんがやや俯く。僕は嫌な予感がして口を挟んだ。
「話がついたって、どんな……?」
親二人は黙り込み、祐司がこちらを向いた。
「けじめとして、親父はしばらく横浜から離れる。拓巳が許可するその日まで、和巳には絶対に近寄らない」
幸司さんが泣きそうな顔でうなだれる。しかしそれは、この先も拓巳とともに活動する祐司にはぜひとも必要な条件だったので、僕は少々気の毒には思ったが妥当だと判断して頷いた。
「仕事以外ではけしてこの地には足を踏み入れないし、入るときは兄さんに申告する」
「わかった」
「あと、今度の詫びにもならないが」
祐司は少し肩から力を抜いた。
「和巳の安全を確実にする。なにしろ手を出してくる相手が実の祖父だからな。放っておいたらまた同じことが起こるだろう。だから二度と合法的には奪えないよう、手を打つことにした」
それは僕も頭を悩ませていた問題で、しかしこれといった対策が思い浮かばないままになっていた。
「手を打つって、どうやって?」
「簡単だ。俺が井ノ上財閥に名を連ねればいい。俺の養子候補というだけで財閥安全部の保護下に入るぞ」
「なっ……」
今度こそ絶句すると、祐司は淡々と説明しだした。
「幸い、名目上とはいえ俺はすでに理事だ。役員名簿には載っているから、祖父さんにこの先の役員会は俺が出席すると伝えるだけで済む。他に何かが変わるわけじゃない」
「ばかな。それで済むわけがないじゃないか!」
当時、祐司は寛文会長たっての願いで財閥の理事になってはいたが、それは名義貸しのような形で、代理人が役目を肩代わりしており、実質的には何の縛りもないという約束だった。しかし祐司はそれを自らが正式に引き受ける形に変えてしまったのだ。
「寛文会長や総司さんがこのチャンスを捉えないはずがないだろう! 祐司の継いだ席は元々幸司さんのもので、彼が放棄した条件がそのまま残っていたはずだ。違いますか陽子さん!」
噛みつく勢いで問いただすと、半ば予想していたのか彼女はあっさり答えた。
「『本家に万が一のあった場合は養子に入って跡を継ぐ』ってやつね。そのとおりよ」
「それを……っ、あなたは承知したんですか! 祐司がそこまで責任を追う必要なんて」
「それが一番効果的だから。和巳の安全にも、幸司さんの戒めにも」
言いながら彼女は隣に目線を投げた。そこには涙目になった幸司さんがいた。
「ねえ。本当に祐司くんじゃなきゃいけないの? 僕が引き受けるんじゃだめなの? あの爺さん、前から祐司くんを狙ってるんだよ。絶対返してくれないよ? 僕、ちゃんと頭下げて復帰願いするから」
「言ったでしょう? 二度は失敗できないと」
陽子さんは幼子を諭すような顔で言った。
「あなたはどこまでも自由人。たとえ義父さんの許可が出て一族に戻ったとしても、籠の中が我慢できずにいつかまた翔んでいくわ。でも私たちはそんなあなたが好きなの。だから祐司がやるのよ」
「……でも、でもそれじゃ、祐司くんが……」
「俺のことなら大丈夫だ」
祐司は口元に笑みを浮かべた。
「俺にはもう自分の生きる場所がある。雅俊と拓巳がくれた場所が。守りたい存在もいる。二人と、若砂が命がけで残した和巳。あいつらを守るのが俺の望みで、そのために必要なことなら苦にはならない」
だから、と祐司は僕に向き直った。
「兄さんも心配しないでくれ。本家の養子になろうが、祖父さんの幹部にされようが、今のレベルで音楽ができるなら俺は構わないし、できなくならないようにうまく立ち回るくらいのことはしてみせるさ」
その言葉から、彼があらゆる可能性を考えた上で、その手段を選択したのだと知れた。
「養子のことも。拓巳が嫌なら無理にする必要はない。そんなことをしなくても守れるように、俺はあの財閥で必要な地歩は固めるつもりだから」
すでに決めてしまった祐司の覚悟は固く、僕にはその判断を覆すことはできなかった。
こうして幸司さんは再び出向の生活に戻り、横浜に戻ることなく転勤を繰り返した。その間、祐司が彼のもとを訪ねることはなく、代わりに陽子さんが月に数回ほど通うようになった。
祐司は人知れず理事の業務を引き受け、会長の要望に淡々と応えながら、自らの生きる場所と、そこに住む者たちを守った。
それは表に出ない形でずっと続けられることになる――。
「祐司が事実上の理事になったあと、何回か高橋オーナーの手が君や拓巳の書類に伸びたことがあった。けれど水面下で安全部の手が入って、すべては未然に防がれた。だから養子の件は緊急性がなくなって、いつしか誰も話さなくなったんだ。そしてあの男は正攻法を諦め、危険を承知しながらも非合法の手段を使わざるを得なくなったんだよ」
目を伏せた真嶋さんが語り終え、僕は大きく息を吐いた。
「僕たちは、ずっと祐さんに守ってもらっていたんですね……」
しかも、そんな風に慕っていた父さんと会えなくなってしまったのが悲しい。
あ、でもここに来たってことは。
「病院に来たくらいですから、今はもう祐さんと幸司さんは会えてるんですよね。どのくらいで解禁になったんですか?」
そうだ、これは過去の話なんだと思い直したのだが、真嶋さんの答えは少し違った。
「十年前。寛文会長のお葬式のときに」
「あっ。僕も出席した葬儀ですよね。ということは事件から約六年後ですか。……あれ? 確か真嶋さんも十年前」
「そう、同じ日。葬儀に参列して、拓巳も一緒に会って。でも君には会わせなかった」
「………」
確かに、お葬式に出たことは覚えているのに、あの人に会った記憶はない。
「祐司もそのときに一度顔を会わせただけで。まあ接待に追われていたせいでもあったけど」
「一度だけって、まさか祐さんもそれ以来会ってないんですか? 真嶋さんだけでなく?」
「そうなんだよ。そのとき拓巳は、この先は陽子さんや祐司と横浜で会うのは構わないと伝えたんだけど、僕も口添えしたし三人もありがとうと答えたんだけど、相変わらず陽子さんだけが行って、祐司とのやり取りは取り決めでもしてるみたいにメールや電話だけで」
「そうなんですか……」
今もまだ、自分たちを戒めている気がして胸が痛む。
「だから今回、どうしてここまで来ることになったのかわからないんだ」
「あ、それは」
僕は幸司さんから聞いた話を伝えた。
「奥様、これはつまり陽子さんだったわけですが、今の状況を色々教えてくれて、会ってこいと言われたと」
「陽子さんが?」
首を傾げられてもうひとつ加える。
「それとあと、さっきも応接室で言ってらっしゃったんですが、幸司さん自身も変な噂を聞いちゃったので、確かめに来たとも」
「噂? ああ!」
真嶋さんはハッと目を見張ると、納得顔で僕を見た。
「わかったよ。祐司と拓巳のくだらない噂。井ノ上の親族に出回ってたでしょう。あの人はその手の噂で祐司が一族内で貶められるのがだいっ嫌いでね。多分、陽子さんから色々聞いたっていうのは、幸司さんが電話か何かで質問してのことなんだ」
「……っ」
くだらない噂と言われてつい動揺する。
そうだ。アレってもしかしたら噂じゃないかもじゃん。
いやでも幸司さんは全否定してたよなとグルグルしていると、僕がおかしいことに気づいたか、真嶋さんが首を傾げた。
「なに?」
「えっ? いえっ」
つい無防備に顔を上げてしまったために目がもろに合い、眉をひそめた彼に身を乗り出される。
「何か含みのある顔だね。言ってごらん?」
「いやっ、あの、それは……」
「その表情だと拓巳に関わることだね? これ以上、事態をややこしくしたくないんだけど、僕には言えない?」
薄茶の瞳がキラリと光る。ここぞと狙いを定めたときの顔だ。
うわ。
真嶋さんも拓巳くんのことになるとある意味、理性を手放す人である。
そ、そうだ。真嶋さんは僕よりよほど祐さんを知ってる人じゃないか。俊くんと二人でモンモンとしているより、むしろここは打ち明けて、心構えや立ち位置のアドバイスをもらうことこそが正しい息子のあり方……。
「和巳?」
再度促され、僕は意を決して真嶋さんに顔を近づけた。
「あのっ。実は僕、この前の夜に」
そうしてあの夜に見た光景を、可能な限り冷静かつ簡潔に話した。
「――そして二人は寄り添ったまま行ってしまい、僕と俊くんはしばらく腰が抜けて動けなくなりました」
話を聞いた真嶋さんは、ポカッと口を開けて僕を凝視した。
「……祐司が、拓巳を、ずっと想ってた……?」
そしてテーブルに片方の肘をつき、緩いウェーブの髪に指を差し入れてガシガシと掻いた。
さすがに予想外だったか。
「……いや。いやいや? 確かに祐司は拓巳を長い間守ってきたよ。でもそれは、今話した理由があるからで」
「でも、拓巳くんが『祐司がずっと結婚しないのは、俺がいるからだろう?』って聞いたら、祐さんは『それは自分が勝手に決めただけだから、おまえが気に病むことじゃない』って返したんです。これって拓巳くんが好きだから、でも応えてくれないのはわかってて勝手に守ってるだけだから気にするなって意味ですよね?」
「う、うーん……」
真嶋さんが複雑そうな顔になる。僕はこの際と思って腹の底に溜めていたものをぶちまけた。
「それで拓巳くんが、気がつかずに傷つけて後悔したって言ったら、祐さんはそれは俺のせいだ、そんな余計なことは思い出さなくていいなんて言って微笑んだんです。あの祐さんがですよ?」
「う、う~ん?」
「そしたら拓巳くんが『今度は俺が祐司を守る、これまでの気持ちに報いるために』って宣言したんですっ。それ聞いた俊くんは頭抱えちゃうし。僕たちこの先、あの二人とどう向き合っていったらいいんでしょうか……!」
詰め寄るようにテーブルに身を乗り出して訴えたとき。
「……ざけたこと、言ってんじゃねぇ……」
ふいに真嶋さんの後ろから掠れ声がした!