横浜井ノ上家の失敗
「……どうやら落ち着いたかな」
カーテン越しの柔らかい光に照らされた寝室の奥。
セミダブルベッドの縁に腰かけ、枕元を覗いていた真嶋さんの声に、僕は心底胸を撫で下ろした。
「ありがとうございました……」
いささか力の抜けた声が出たせいか、背後に張りついていた僕を振り仰いだ真嶋さんは、「そこに座ろうか」と立ち上がると、僕を部屋の隅の小さなテーブルセットの椅子に座らせた。そして自分も片側の椅子を引き出すと、少し斜めにずらして腰かけた。それは、奥に下がった僕の位置からでも、拓巳くんの姿が見えるようにとの配慮だと知れた。
「麦茶に薬も混ぜたから、当分は寝られると思うよ」
「はい……」
一時よりは眉間のシワが減ったが、その細面にはまだ苦痛の跡が残っているようで、彼の受けた衝撃の深さが思いやられた。
「真嶋さんが、横浜のお店にいてくださって助かりました」
今回は、いつものようには回復が進まず、僕の手はあまり役に立たなかったのだ。
祐さんと拓巳くんを離れの寝室に運び込んだのが今から約二時間前。
最初は早めの対処ができることで心に余裕があったのだが、ベッドに横たえ、強張る背中や手足をマッサージしても一向に震えは治まらず、むしろ僕の手が触れると緊張が増すような気がして不安になった。
「おまえは足に集中しろ」
祐さんに言われてなんとか手を動かし続けたものの、それから真嶋さんが来るまでの四十分間、症状が変わらず、対処力に自信をつけてきていた身としては、慢心を戒められた気分だ。
到着した真嶋さんが顔を見せたときの、助けを呼ぶような拓巳くんの声が今も耳に残っている。
「僕は、何をしてしまったんでしょうか……」
肩を落としてつぶやくと、真嶋さんの穏やかな声が耳に届いた。
「違うよ。間が悪かっただけだ。幸司さんがここまで来るなんて滅多にないし、ましてや君と拓巳と三人で揃うなんてまずあり得ないと思ってたから」
油断しちゃったなぁとつぶやかれ、僕はおそるおそる聞いた。
「あの、やっぱりあの人は、祐さんのお父さん、なんですよね?」
「ビックリした? 僕もこの部屋に来る前に挨拶したけど驚いたよ。十年前と全然変わってなくて」
「十年前」
「強いて言えば、前髪の白髪の幅が増えたくらいかなぁ」
あの銀メッシュは白髪だったのか!
てっきりファッションでやっているのだとばかり思っていた。
「祐さんのお父さんなら、真嶋さんには叔父さん、ですよね……?」
真嶋さんも十分若いが、あの人は次元が違う気がする。
「そうだよ。幸司さんは地方に転勤ばかりしているから、僕が上京してからは会う機会がだいぶ減ったけど、昔は僕の実家にちょくちょく一人で来てたんだ」
「一人で?」
「そう。甲信越方面への出向が多かったから。人懐こいから楽しくて、よく遊んでもらったよ」
最初は若い叔父さん、そのうちには気のいいお兄さん、しまいには友達みたいにと言われて思わず唸る。
今も友達にしか見えないが、間違いなく叔父なのだ。となるとますます謎が深まる。
「幸司さんっていったら、昔拓巳くんが誘拐されたときに、真嶋さんが今も懇意にする刑事さんを紹介してくれたり、情報を集めてくれた人ですよね? その、拓巳くん自身にとっても恩人といえる人との間が、どうして顔を見ただけでおかしくなるような関係になってるんでしょうか」
無断で僕と幸司さんが会っていたと勘違いしたのが今回の原因、というのも謎な理由だが、彼の様子が変わったのは幸司さんを見た直後からだ。
なるべく声を抑えつつ質問すると、真嶋さんは少し目線を下げ、考えるようにしてからつぶやいた。
「そうだね。和巳だって、なんで二人があんな間柄になっちゃったか知りたいよね」
そして拓巳くんのほうに目をやり、様子を窺ってからこちらに少し椅子を寄せた。
「前に君に聞かれた昔の状況だけどね。どうして養子の件が曖昧なままだったのか思い出せたよ」
それはPVの撮影現場のときのことだ。
「本当ですか?」
「うん。でもその前に色々話さないといけない。君は幸司さんの経歴って知ってる?」
唐突に聞かれ、僕は首を横に振った。
「いえ、そんなには。確か郵便局にお勤めだったと」
「うん。今は民営化して会社になったけど、彼が入ったときは大臣を置く省庁で、中央の職員は国家公務員だった。幸司さんはそのキャリアでね」
「キャリア!」
キャリアといったら国家公務員試験を突破したエリートである。真嶋さんは頷いた。
「彼のいた学校は、この辺りで一番のレベルと格式を誇る上流階級御用達の私立大学。だからご友人にも各省庁のキャリア組や弁護士が多いんだ」
「あ、刑事さん」
「そう」
真嶋さんはちょっと目元を緩めた。
「元々僕が紹介してもらった人は刑事さんの上司なんだけど、確か今は警視監じゃなかったかな」
「警視監!」
それはもうすぐ全警察官の頂点に立つかもしれない、ほんの一握りの超エリートである。
「そのご友人が、幸司さんのことを『ちょっと変わってるけど、彼ほど優秀で、彼ほど強い男は見たことがない』と言ったんだ」
「あ、あの柔道のような投げ技……」
つい言葉を挟むと、真嶋さんは「君も見た?」と笑った。
「周りの誰もが財閥の幹部候補として本部の事務局に入るか、警察官僚になるだろうって予想していたんだけど、大学時代に友人が絡んだトラブルがあって、そのことで井ノ上財閥を毛嫌いするようになったらしいね」
「もしかして、武文さんと」
「うん、そう。僕も詳しくは知らないけど、友人が目の敵にされて、濡れ衣を着せられたあげく大学を追われる羽目になったとか。とにかく幸司さんは嘱望されていた方面のものをすべて蹴って郵政省を選び、自ら出向を願い出て、地方ばっかり転々とするんだよ」
「じゃあ、勝手に家を買っちゃったっていうのは……」
あれは祐さんの家の話なのか!
僕のセリフに真嶋さんはなぜかバツの悪そうな顔をした。
「そうなんだよ。気に入ったからって、僕の実家のそばにある別荘地の物件買っちゃって。それも山小屋とかじゃなくて立派な一軒家。あのときは、寛文会長や富子さんになんだか申し訳ない気がしたって、僕の祖父母がぼやいてたよ」
「あー、なるほど……」
つまり財閥の御曹司であるはずの娘婿が、自分たちの家の近くに住居を構えてしまったわけだ。
「しかも陽子さんや祐司が一緒に住むわけじゃなかったから、それも祖父母には気がかりで。でも幸司さんは『あ、お義父さん、お義母さん。僕たちラブラブだから気にしないで~』って」
「ラブラ……」
ナンとなく人となりがわかってきた気がする。
「それで陽子さんは『幸司さんに自由をあげるのが私の生き甲斐なのよ』だって。もう好きにしてくださいって感じだったね」
「そ、そうですか」
「まぁ、あの二人は、陽子さんが幸司さんの武道に惚れ込んじゃったのがきっかけだったらしいから」
「そんなに強かったんですか」
「凄かったみたい。陽子さんは手合わせで手加減されたのは初めてだったとかなんとか」
大学では無敵だったという陽子さんが手加減されるとは、相当な実力だったに違いない。
「けど、二人はよくてもやっぱり問題は出たんだよ。それが祐司」
「問題? 祐さんがですか?」
「後々には今回も引きずった拓巳の事件につながるんだけど……」
そうして彼は思い出すようにしばらく目を瞑ると、ちょっと物悲しげな顔で語りだした。
「幸司さんという人は、よくも悪くも自由人でね」
友人に降りかかったトラブルのせいですっかり上流社会に嫌気がさした幸司さんは、陽子さんと結婚したあとも生活パターンを変えようとはしなかった。寛文会長からの要望で横浜に家を構えはしても、逃れるように地方への出向を繰り返し、地元の人々と親交を深めて情にあふれた生活を満喫した。
ところがまもなく生まれた祐司は、言葉少なで甘えない気質をしていた。
「自分の子どものはずなのにまったく似てない。保育士さんも心配するくらいの、まあ、幼児にはまれな落ち着きっプリが、幸司さんにはちょっと物足りなかったんだね」
体つきもやたらとデカい寡黙な息子は、憧れの庶民的家族を想像し、いそいそと出向先から一時帰宅しては育児参加する幸司さんを嘆かせることになる。
「僕、絶対この子にお父さんだって思われてないよ!」
あやしても話しかけても無言で見つめるだけの祐司に彼は苦悩した。が、ここでも陽子さんが実力を発揮した。
「大丈夫。あなたは私の自慢の夫。ちゃーんと父親認定させてみせるから」
ただし時間はちょうだいねと彼女は言い、なんと彼と息子との接触時間を減らしたのだ。
「えっ、減らしちゃったんですか?」
「そう。普通なら接点を増やすところなんだろうけど、さすが人を見抜くのがうまいというか。『この子の場合、無理にベタベタするのは逆効果よ。漁師の家族だって父ちゃんと会うのは三ヶ月にいっぺん。それでも父親に憧れて跡を継ぐ子が多いのは、母親がしっかり教育するからなのよ』とか言っちゃって」
その命題を掲げて鍛え上げた結果、幸司さんはその年齢不詳な外見にもかかわらず、若きハードボイルドから『親父』と慕われる存在になった。
「まあ、未だに『本気で親父と闘って素手で勝てるとは思えない』なんて祐司に言わせるくらいだから、話の持っていき方で十分、勝算はあったんだろうね」
「祐さんより強いんですか!」
「ビックリでしょ。でもそうなんだよ」
『最強の母より強い父』として尊敬され、父子関係が徐々に構築されていくのを喜んだ幸司さんだったが、『パパァ~』と甘えてもらえない寂しさは残った。
しかし子どもというものは、大人の目論みどおりに授かるものではなく、好みの性格に育つわけでもない。
明らかに陽子さんのみに類似した祐司を、それでも懸命に可愛がり、祐司からの大変控えめな親愛表現で寂しさを埋めて時を過ごした幸司さんだったが、二十年余ののちに大事件が起こった。
「それが君ね」
「僕ですか!」
「そう」
ある夏の晩。一ヶ月ぶりに横浜の家に足を踏み入れた幸司さんは、そこで奇跡のような光景を目にすることになる。
「なっ、そ、それっ、どーしたのー⁉」
かわいいー! と叫んでダイニングの手前からリビングのソファーまで駆け抜けた幸司さんの目の前には、祐司の膝にお座りする生後四ヶ月の和巳がいた。
「なになに? 祐司くんの赤ちゃん? うわぁ」
時はメジャーデビュー二年目。そう簡単に子どもを作っちゃまずい立場の息子にかける言葉ではないのだが、慣れている祐司は冷静に父親の言を正した。
「違う。拓巳の息子だ。うちで預かってる」
「拓巳くん? ああ、あの綺麗な子ね。高校の友達だったっけ」
「芳兄さんの里子で俺のバンドのボーカル。いい加減、覚えてくれ……」
さすがは陽子さんの選んだ夫、拓巳の美貌を見てもまったく動じなかったのは見事だったのだが、自分が興味ないことには鷹揚、かつ記憶から削除する困った性格の持ち主でもある。祐司はひとまず釘を刺した。
「親父。和巳はしばらくこの家で暮らすが、あくまでも拓巳と若砂の子だからよろしく頼む」
「うんうん。和巳くん? よろしくねぇ」
聞いているのかいないのか。生返事で答えながら勝手に頭をなでたり握手したりする男に対し、天から授かった性格によって人見知りすることなく笑顔を振りまいた赤ん坊の和巳は、あっという間に彼のハートを射止めた。結果、どんなに早くても二週間間隔だった彼の帰宅が週末ごとになった。
「親父。子守りはありがたいが仕事は大丈夫なのか」
「だーいじょうぶ、大丈夫! 僕が本気出せば、本庁への報告書なんてアッという間だよーん」
それだと妻子のためには本気を出さなかったということになるのだが、すでに家族として二十年余、彼を理解し、その自由な魂を愛しながらも、庶民的愛情表現へのニーズには応えられなかったと自覚する二人は違う見解になった。
「楽しそうだな」
「そうね。和巳は若砂に似て人懐こいから、幸司さんとの相性はバッチリね」
こうして和巳は世帯主の保護を得、横浜井ノ上家のアイドルになった。
「そのときは拓巳が病身の若砂に付ききりで、僕も店のほうがバタバタしてて、君の養育までは手が回らなかったから、幸司さんが君を歓迎してくれたのはありがたかったんだ」
やがて若砂が逝き、拓巳が正気を手放したため、和巳のことはますます井ノ上家任せになった。陽子さんや祐司はそれでも理性を保っていたが、幸司さんはとっくに壊れていた。
「ねえねえ。拓巳くんは病気でしょ? この家に和巳くんごと引き取っちゃおうよ。そしたらみんな家族だよ」
『みんな』とやらが誰を指すのかは明白だったが、陽子さんも祐司も考察する価値ありと考えた。
「そうねぇ。拓巳は入院することになるかもしれないから、今のうちに和巳をちゃんと保護できるようにしたほうがいいかも」
その頃、陽子さんは僕のことも気がかりだったので、二方面作戦は取りたくなかったのだ。
「二方面?」
「僕は離婚して、店が影響を受けたのを建て直している最中だった。でも優花を引き取る決断をしたから陽子さんは心配だったんだ。僕も実家とは距離を取っていたからね」
息子同様の僕の決断に陽子さんは反対し、祐司も心配して僕を説得した。
「和巳は育てやすいほうだとは思うが、それでも親父が帰ってきた日は俺もおふくろもホッとするんだ。赤ん坊と二人暮らしじゃ、大変さは想像を絶するぞ」
その言葉はのちに僕の身にも染みるのだが、そのときは反対される苛立ちが勝り、僕は徐々に彼らと話をするのを避けるようになった。
「だから君のことは陽子さんたちに丸投げ状態で。幸司さんはすっかり君のグランパになったつもりでいたと思う」
ところが話が詰め切らないうちに拓巳が正気を取り戻し、状況が変わることになる。
「拓巳のお陰で、僕は陽子さんたちと喧嘩までいかずに優花を引き取ることができたんだけど、そのために君と暮らしはじめた拓巳のサポートは満足にできなくなってしまった。だからこの先の話も全部は知らなくて、あとから聞き出した部分が多いんだ」
心の傷を乗り越え、若砂との約束を果たすために、拓巳は和巳と暮らしはじめるのだが、すでに二年近くに渡って井ノ上家で生活してきた和巳には少々酷な仕打ちだった。
当然、もとの場所を恋しがって泣き、みんなに会えば喜ぶ。それを見た拓巳が落ち込むので、むやみに手が出せない。
陽子さんはまだ昼間に預かったり夜も通ったりできたのでよかったが、幸司さんはもとより祐司も多少、情緒不安定に陥ったという。
「祐さんまで?」
「まあ、それまでずっと一緒に暮らしてきた幼子が泣いていれば、さしもの祐司も感情を抑えるのは難しかったんだと思う」
珍しくも自分から拓巳のマンションを訪ね、ぐずる和巳と途方にくれた拓巳を見つけては家に連れて帰る。そんな日々を重ねるうちに、彼の心にひとつの決意が宿った。
「拓巳には助けが必要だ。親父の言じゃないが、二人がちゃんと暮せるようになるためにもここに来たほうがいい」
「でしょでしょ? 拓巳くんはまだ若いんだもん。みんなで助けてあげようよ」
圧倒的に接点が減った幸司さんが息巻き、陽子さんも、拓巳の気持ちを鑑みながらも頷かざるを得なかった。
「そうね……拓巳の中には、大切なものは奪われてしまうという恐れが刻まれている。それさえクリアできれば、ここに来てくれるのが理想的だわね」
それは僕が口を酸っぱくして陽子さんに伝えたことで、彼女や祐司も薄々見抜いていたことだ。しかしいまいち理解していなかった幸司さんは力強く受け合った。
「大丈夫! 一緒に暮らせば、誰も奪ったりしないってわかってくれるよ!」
かくして陽子さんや祐司に説得された拓巳は、まずは井ノ上家で過ごす時間を増やしていくことになった。
もしあのまま何事もなければ、二人とも今頃は井ノ上になっていたかもしれない。しかし。
「残念ながら現実にはそうはならなかったんだ」
「親権奪取事件が起こったからですね?」
「そのとおり」
順調に平日の時間を増やしていく二人と、それを見守る井ノ上家の面々だったが、あとちょっとで拓巳の警戒心も解消されようかというところで、彼の父親、ホストクラブオーナー高橋要による和巳連れ去り事件が起こった。
「陽子さんの手が空かない日だったから、以前から時々利用している保育所にお願いしたらしいんだけど」
まるで狙ったような高橋オーナーの早業に、一番激怒したのは幸司さんだったという。
「僕が井ノ上本家から離れてることを調べたな……ナメやがって!」
それは確かに事実だったようで、井ノ上財閥の力を使えば一時間でカタがついただろうが、どんなに息巻いても一般人としての幸司さんには限界があった。
「親権の書類を書き換えないと取り返せないから、慌てて綾瀬に連絡して」
それでも各省庁に在籍するキャリア組の友人の協力を得、異例の早さで書類を作って高橋家の門を突破し、和巳を無事取り返すのだが、かかった五日間がその後の運命を決することになった。
即ち、ようやく安定しはじめた拓巳の精神状態が一気に悪化し、もはや片時も和巳から目を離すことができなくなったのだ。
他人が和巳に近づくのを極端に嫌がり、限られた人間にしか触れさせない。まさしく野生の本能で、彼はその昔、暴行を受けて正気を手放したときと同じ人選をしたのだった。
「僕と雅俊、陽子さんと祐司。でも残念ながら、拓巳との接触がそれほどなかった幸司さんは駄目だった」
ありきたりのご主人だったなら、所詮は時々しか会えない他人の息子、そのことを残念に思っても、嘆きはしなかっただろう。しかし彼にとって和巳はただの幼児にあらず。長年の家族団欒の夢そのもの、あの寡黙な祐司をして微笑ませるほどの天使なのだ。自分だけが抱っこさせてもらえないなど到底、耐えられない。
思い詰めた幸司さんはやがて自由人としての発想に行き着く。
「だったら拓巳くんが見てないところで遊べばいいんじゃん。彼だって眠りはするんだし」
こう思考した井ノ上家の主を非難するべきか否か。
彼は己のポリシーに添って行動し、それが今回のフラッシュバックの原因となったあの事件を招くことになる。
「確かに、今にして思えば幸司さんの気持ちもわからないではないけれど。でも当時としては許し難いミスを犯したんだ」
「ど、どんなミスを……?」
「君が賢い脳ミソを持った生き物であることを、失念していたということだよ」
拓巳の状態を危惧した僕は、早々に日中のスケジュールを組み替えて彼と行動をともにした。けれども夜については陽子さんや祐司の意見もあり、井ノ上家で落ち着くのを待つことにした。
拓巳は最初こそ子育て中の雌豹のような警戒ぶりでいたが、四、五日経つ頃には興奮状態も弱まりだし、緊張が緩んでうとうとするようになったという。それを見て取った陽子さんは、精神を安定に導くべく食後の麦茶に少量の睡眠導入剤を混ぜ、彼をしっかり眠らせた。
それらの状況を把握した幸司さんは、まず本庁での仕事を一部引き受け、トラブル処理と偽って横浜に帰宅する日を増やした。そしてみんながそれぞれ個室に引き取ったあとも残業を装ってリビングに居残り、間を置いて廊下の先にある和室に忍び入ったのち、眠りの深い拓巳の隣から和巳を連れ出し、小一時間ほど遊ぶようになったのだ。
最初にそれを発見したのは水を飲みに一階へ降りた祐司だったというが、彼は父親にこう説明された。
「声が聞こえたから部屋を覗いたら、起きちゃってたんだよ。ちょっと遊んであげれば寝るかなと思って」
実際には彼がつついて起こしていたのだが、祐司はそれを信じた。
「そうか。忙しいのに悪いな。ありがとう」
「どういたしまして」
幸司さんにとって、それは日中にも昼寝ができる幼児の生活を踏まえての、ちょっとした触れ合いの時間のつもりだった。しかし幼児は人間であり、人間には優れた脳ミソがある。そして楽しいことは覚えるのだ。結果、数週間ののちに事件は起きた。
その日、幸司さんは帰宅が遅かった。が、それまでも、彼が起こさない限り和巳は寝たままでいた。しかし時々ながら起こされて遊ぶという習慣は、和巳の睡眠に変化を与えていた。ゆえに夜に目が覚めた和巳は彼を探して暗いリビングを歩き回り、ローテーブルにぶつかってひっくり返った。
「わぁーん!」
「和巳? 和巳! どこだっ!」
その泣き声で起きた拓巳は、しかし薬のせいで頭や体が思うように働かなかった。けれども部屋の外で泣いているのはわかるので、あちこちの壁や柱に頭をぶつけながらもどうにかリビングに到達した。そして電気をつけて和巳を抱き上げた結果、額から血を流した顔に大泣きされるのだ。
「ぎゃーっ! うわーんっ!」
「何事だ!」
「どうしたの⁉」
二階からかけ降りてきた祐司と陽子さんは、リビングの真ん中で、暴れる和巳を抱く血まみれの拓巳に絶句した。
そこに運悪く帰ってきたのが幸司さんだ。
「あれ。あれあれ、和巳が泣いてる。どうしちゃっ……うわっ!」
やはり驚いた彼は駆け寄るのだが、そこで事態が悪化することになる。
「コータン! コータン! うわーんっ!」
いくら血のついた顔に驚いたとはいえ、日々生活をともにし、全霊を傾けて育てているのは拓巳なのだ。それが身を捩って幸司さんに両腕を伸ばしたのだから大変である。
「……!」
衝撃のあまり拓巳の手が止まり、つい両腕をつかんでしまった幸司さんは、そのままスルリと抜けた体を慌てて抱きとめ、条件反射のようにあやしにかかった。
「ほーら怖くないよぅ。もう大丈夫だよぅ。いいコだから泣き止もうねぇ」
片言を喋る年頃の幼児というのは残酷なほど正直である。
夜の遊び友達にあやされた和巳はすぐに泣き止み、急速に元気を取り戻した。そして室内には気まずい空気が漂った。
「……親父。久しく接点がないはずのわりには、ずいぶん懐かれてるな」
「……そうね。週末も忙しく書類に追われてるみたいなのに、いつのまに『コータン』なんて呼んでもらえるようになったわけ?」
「えっ? やだな。前からじゃ、ないかな?」
歯切れの悪い夫に何を感じたか、陽子さんは事態を重くみて収拾に乗り出した。
「幸司さん。あなたには、和巳と遊べないのは一時のことだから我慢してねと頭を下げたわね。覚えてる?」
「も、もちろんさ」
「どうしてかも説明したわね?」
「た、拓巳くんを不安にさせないためだよね」
「そうよ。今、やり方を間違ったら取り返しがつかないから、みんなで家族になるためにこらえようって話したわね。自分が何をしたかわかってるなら、速やかに退散してちょうだい」
さ、こっちにいらっしゃいと陽子さんが手を差しのべるも、和巳は頷かない。
「や。コータンと、あそぶぅ」
「和巳?」
「やっ」
この場合、少々時間がかかっても、粘り強くやり取りを続けていくほうが近道であることを、陽子さんは経験上、知っていた。しかし拓巳はまだ知らなかった。よってたちまち我慢の限界を越え、立ち膝のまま固まっていた体勢からガバッと立ち上がった。
「和巳! 来るんだ!」
「やぁっ!」
当然、和巳は驚き怯える。結果、ますます幸司さんにしがみつくことになり、カッとなった拓巳は爆発した。
「返せ! 和巳を返せよ!」
いきなりつかみかかってきた拓巳を、驚いた幸司さんは片手技で防いだ。
「ダメだよ! 和巳が怯えちゃう!」
正論である。しかし彼が言ったのでは逆効果だ。
「だって! 和巳はっ、かっ、……っ、ああっ!」
「拓巳!」
経験によって危険を察知した祐司は拓巳を押さえながら叫んだ。
「おふくろ! 泣かれてもいい! とにかく和巳を親父から取り上げろ」
「わかったわ!」
「それと芳兄さんを」
「申し訳ないけどそれしかないわね」
「今夜は俺が番をするから、明日の朝一に連絡してくれ」
こうして和巳は幸司さんと切り離され、その日は拓巳とも別々にされて夜を明かした。その翌朝に僕は電話で起こされ、事の顛末を知ることになったのだった……。