鎌倉屋敷の対決
離れに入って廊下に荷物を置き、すぐに渡り廊下抜けて母屋へと入ると、廊下の先の第二応接室のあたりから怒声が聞こえてきた。
「……しても程がある! 君たち夫婦の差し金か。何の嫌がらせだ!」
「違いますわ。主人も私もその話には一切……」
「落ち着きなさい、武文さん」
どうやら武文氏の抗議を、富子、玉枝の両夫人で受けているらしい。
廊下の足を早めると、焦った様子の志摩子さんが曲がり角からこちらへと飛び出してきた。
「志摩子さん」
「あっ、和巳さん」
彼女は僕を認めると、思わずといった風に声を上げ、次いで己の無作法を恥じるように口元に手を当てながら、足早にこちらへと駆け寄ってきた。
「お早かったですね。大奥様方もつい先ほど戻られたばかりなんですよ。それで今、あ、ほら」
手を示されて右手に顔を向けると、広い玄関口の奥に覗く廊下から、こちらへと向かってくる早川さんのうしろに長髪の姿が見えた。
「和巳?」
こちらに気づいた拓巳くんがサングラスを外す。
「ただいま戻りました」
その場で頭を下げると、早川さんを追い越した拓巳くんが驚いた顔で歩み寄ってきた。
「どうしたんだ。俺たちだってついさっき着いたばっかりなのに」
「あ、それはね」
説明しようとし、やはり驚いた様子で距離を詰めてきた早川さんを見てハッと我に返る。
(僕のこと、みんなには内緒で頼むね)
先ほどの人物について、早川さんには詳しく報告して彼の人となりを訊ねたいくらいだが、他の人が行き交うこの場では憚られる。
「う、運転手さんが、えーっと偶然にもここの出身だったみたいで。裏のゲートなら近道を知ってるとかなんとかで、あんまり速いんで僕もビックリしたよ!」
最後は身を乗り出して伝えると、拓巳くんは勢いに呑まれたように顎を引いた。
「そ、そうか。ラッキーだったな。間に合ってよかった」
どうやら誤魔化せたらしい。少し首を捻った早川さんも、拓巳くんの「狸親父がわめいてて、俺だけじゃキレちまいそうだから助かったわ」の言葉に、ハッと顔を上げて頷いた。
「そうです。奥様方を守らなくては。早速ですが紫陽花の間に同行してください」
紫陽花の間とは、やや奥まった場所にある第二応接室のことである。
ちなみに大中小三つある応接室にのうち、玄関の右手にある、主に企業向けの格式高い第一は緋牡丹の間、左手のこじんまりした第三は睡蓮の間と呼ぶ。親族がよく使うのが第二の紫陽花なのだ。
拓巳くんがイヤそうにしながらもサングラスをかける。僕は立ち位置をずらして早川さんに訊ねた。
「あの、だいたいは父からの電話で聞いたのですが、今はどんな状況なんでしょうか」
彼は拓巳くんを抜いて僕に並び、先へと促しながら説明しだした。
「四、五十分ほど前に澪奈様がここにお戻りになり、若奥様に事情をご説明しているところに武文様と史昭様が到着なさったようです。澪奈様が史昭様と二人でお話ししたいと希望され、揉めていたところに私どもが着きました」
僕の後ろから拓巳くんの声が被った。
「狸親父が文句ばかり言って娘の話を全然聞かないんでな。部屋に踏み込んで息子を引きずり出したんだ」
早川さんがちょっと口元を緩めた。
「まあその。あのままでは埒が明かない状況でしたので、無理ヤリ…いえ、少々強くお願いし、睡蓮の間にお送りしてまいりました。隣の控え室に事務方のスタッフを配置する旨、澪奈様にお伝えしましたので、あちらは心配なかろうかと存じます」
事務方スタッフは早川さん直属の部下で、セキュリティの役割も兼ねている。もし史昭氏が澪奈に無理な要求をしても、この前の夜のようにはいかないわけだ。
「問題はやはりこちらの……」
言葉を濁した早川さんが目線を向けた先には、ピカピカの廊下に影を映す樫の木の重厚な扉があった。今も、武文氏がなにやらガミガミと言い続けている。早川さんが取っ手をつかんで押し開けると、その声がひと際高くなった。
「だいたい富子さん。あんたがあの若造に入れ込むから、史昭が焦って不安定になったんじゃないか。もし史昭が本当に違反を犯したとしても、それはあんたがそう仕向けたと言えるんじゃないのかね!」
彼はこちらに背を向け、自分とは反対側のソファーに座る富子夫人と、今日は洋服姿の玉枝夫人に訴えていた。
「史昭の罪を問うというなら、あの若造どもを追い払うくらいのことはしてもらわにゃ、納得いかん!」
こちらに気づいた玉枝夫人が困った顔で目線をちらつかせる。しかし隣の富子夫人は一瞬、僕たちに目線を投げたあと、口元に笑みを浮かべ、それを上品に着物の袂で隠した。
「おかしなことを。史昭が不正をしようとしたことと、祐司の家族になんの関係があるのです」
「大有りだ。どこの馬の骨ともわからない連中が本家に出入り自由で、なんで史昭は未だにいちいち伺いを立てなきゃならんのだ! それを見せつけられれば腹も立とうし、早く自分も認められたいと焦りもする。あの子が哀れじゃないかね!」
「だから駄目だというのですよ」
富子夫人が僕たちに手を差しのべた。
「あなたがそうやって口を挟み、手を加える限り、史昭は自立しない。そこにいる二人ほどにも成長しないのです」
武文氏がギョッと振り向き、夫人の細い指先がこちらにおいでなさいと手招く。
いや、そこでこっちに振るのはカンベン……。
との思いはハラの底に隠し、僕は早川さんに促されるまま、富子夫人の座るソファーに拓巳くんと連れ立って回り込んだ。
視界の端に、こちらを悪鬼のごとく凝視する武文氏の顔が映る。
「さ、さっきの乱入といい、おまえたちはいったい誰の許しがあってここに入ってきたのだ。すぐに出ていけ!」
憤りも露に武文氏が黒檀のローテーブルを叩き、玉枝夫人の華奢な肩がビクッと跳ねる。しかし胆の据わり方が違う富子夫人は頓着しなかった。
「ご苦労様でした、拓巳さん。和巳さんは早いお着きでしたね。大丈夫でしたか?」
優雅にこちらを見上げる顔には柔らかな笑みまで浮かんでいる。僕は冷や汗が出てきた。
無視ですか。それとも喧嘩吹っかけてるんですか。どっちにしても嬉しくないです。
案の定、拓巳くんが頷き、僕が「はい」と返事を返すと、武文氏は再度テーブルを叩いた。
「人の話を聞かんか!」
「話を聞くのはあなたのほうですよ」
僕にはす向かいの一人掛けを、拓巳くんには自分の隣を示してから、富子夫人は武文氏に向き直った。
「この人たちにここへの出入りの許可などいるはずないでしょう。この屋敷の離れに住む祐司の家族なのですから。あなたのほうがよほど勝手に本家へ入り込んでますよ」
わたくしは咎めたりしてこなかったですけどねと付け足され、彼はバツが悪そうな顔をした。
「ゆ、祐司は離れに住んでなどおらん! 時々泊まるだけではないか。私は当主の叔父。同じ敷地に住んでいる者として」
「あなたは遥か昔に独立なさった。本家の一員ではありません」
富子夫人の気配が変わった。
「今一度確認いたしましょう。ここは亡き寛文の家族の家。今は総司が治める家です。財閥の理事と本家の世帯構成は別物。あなたが口を挟む余地はありませんよ」
「し、しかし私は澪奈の義父になる身として」
「そのことについては先ほどあの娘が判断したとおり」
富子夫人の口調が少し尖った。
「もはや史昭は澪奈の婚約者ではないのですよ」
「さっきも言ったが、そんな一方的な言い分は認められん!」
顔を真っ赤にした武文氏は、腰を浮かせる勢いでわめいた。
「もし本当に澪奈がそれを言い張るのなら、息子への重大な契約不履行があったとして、莫大な慰謝料を覚悟してもらうぞ!」
確かに、婚約は結婚に準じる契約で、相手が浮気でもしない限り、一方的な解消にはリスクが生じるのだ。史昭氏は間違った方向に逸れてはいたが、彼なりに澪奈を大事にしているのはこちらにも伝わってきていた。会社の処分だけなら問題ないだろうが、婚約を解消というのはいきなり過ぎではないのだろうか。
不安にかられて富子夫人を見ると。
「慰謝料?」
彼女はフッと口元で笑い、次いで背筋をピンと張った。すると一瞬にして気配が厳しいものに変わった。
「おかしなことを聞くものです。今回のこと、慰謝料など要求して事を公にしたら、どちらが困るのかわかりませんか」
武文氏はちょっとたじろいだものの、思い当たらぬ様子で顎を反らした。
「多少、仕事の進め方に問題があったかもしれんが、息子は澪奈に対して後ろ暗いところなどない。むしろ男にしては通うクラブひとつ持たない甲斐性なしで歯痒いほどだ」
不満げにふんぞり返られ、玉枝夫人が清楚な顔に僅かな不快感を浮かべた。
やっぱりエロ親父だ。
富子夫人が眉をひそめた。
「男の甲斐性などもはや時代錯誤の死語ですよ。あなたがそんなだから、息子が足を引っ張られるのです。やはり外に旅立つのが史昭のためというもの」
最後はため息混じりに言われ、武文氏は目を吊り上げた。
「私のせいだと言うのか!」
「そうです」
彼女は怯む気配もなくスッパリと言った。
「あなたは本来、若い者たちを見守り、財閥の理事職を全うするのが役目なのですよ。それが息子を利用して私腹を肥やすなど言語道断でしょう」
なんだって?
驚いて目を向けると、武文氏はハッと口を閉じて顎を引いた。
「誤魔化せると思いましたか」
富子夫人が畳みかけた。
「井ノ上の人材は無能ではないのです。二人が婚約したあと、あなたはずいぶんお遊びが派手になった。あちこちで散財し、理事としては企業役員に対し『いずれは当主の親になる身だ』と賂を要求して懐を肥やしていたようですね。財閥安全部から報告と資料が届いておりますよ」
富子夫人が扉の脇に控える早川さんに目配せを送ると、彼は頷いてからスッと扉を開けて出ていった。
「ま、待て、早川。いったい何を……」
「お座りなさい、武文さん」
体を捻って腰を浮かしかけた武文氏を、夫人の静かな、それでいて鋭い声が引き留めた。
「自分の不正が暴かれるのを見るのは情けないですか? 確かに。わたくしも情けないですよ。よい歳をした叔父が起こした不祥事のせいで、その息子が余計な罪まで背負わせられずに済むようにと、 総司と祐司が親戚や関係者に頭を下げ、身内に裁定を任せてもらえるよう奔走するのを黙って見ているしかなかった自分がねぇ。結局、最後は玲の進言を無視できなくて、嫌がられるのを承知で手を出してしまいましたけれど」
残念な様子でつぶやかれ、僕はようやく理解した。
祐さんが総司さんと手を打っていたのは澪奈さんのことだけじゃなかったんだ。むしろ中心は、この叔父さんがやらかしていた数々の不祥事の穴埋めと、後始末だったんだ。
けれどこれ以上は害になると判断した玲さんが富子夫人に訴え、拓巳くんの言にあったように『膠着状況に一石を投じた』のだ。
罪を明かされた武文氏は、それが答えであるかのようにブルブルと震えだした。
「あなたの罪はまだ正式には理事会に報告されていない。けれども大方の役員たちは知っています。史昭の不正未遂はそれに輪をかけてしまった。ゆえに婚約を解消し、遠方にやるしかないのです」
きっと本当は他の理事たちにもわからないように武文氏を戒め、史昭氏には反省を促して事を収めたかったに違いない。
それを裏づけるように富子夫人は続けた。
「今頃は澪奈が史昭に全容を話していることでしょう。あの子がどこまで承知していたかは知りませんが、事が理事たちに把握されていることを知る以上、婚約者のままでこの先を過ごせるとは考えますまいね」
わかったならこれ以上、恥を上塗りせずにお帰りなさいと富子夫人が手を振ったとき。
「くお……このぅ、みんなおまえのせいだぁっ!」
いきなり武文氏が爆発し――、
「拓巳くん!」
火事場の馬鹿力のごとくローテーブルを乗り越えて拓巳くんにつかみかかった!
「きゃあ!」
玉枝夫人が叫び、首に手をかけられた拓巳くんがソファーの肘当てに頭を押しつけられる。サングラスが弾き飛ばされ、ひしゃげた形でカーペットの床に落ちた。
「やめてください!」
すぐさま背中に飛びつくも、厚みのある体は重くてすぐには引き離せない。
「おまえがっ、義姉さんや祐司を誑かしたんだろう!」
なに言ってるんだこの狸!
まさしく完全な八つ当たりである。
「離せっ!」
渾身の力を振り絞って腕をつかみ上げると、首にかかっていた手が片方、外れた。
「……っ!」
苦しげに目を瞑った拓巳くんがもう片方の指を引き離しにかかる。が、仰向けで体重をかけられているので思うように外せない。 僕は後ろから腕に取りついたまま叫んだ。
「やめろ! 手を離せ!」
しかし彼は意に介さない。
「何が養子だ! 男妾の分際で本家に立ち入るんじゃない。汚らわしい!」
なんだとこのエロ親父‼
「あんたこそ……っ」
思わず口から暴言が飛び出しそうになったとき。
「いい加減にしなよ!」
ふいに腕が軽くなり、次いで武文氏もろとも後ろのローテーブルに尻餅をついた。
ぐえっ!
厚みある老人の体重がもろにハラの上にのしかかる。すると「おっとぉ」とかけ声が響き、僕に重なっていた武文氏の体がフッと宙に浮いた。
「新人くんが潰れちゃーう。おじさんはこっち!」
「……っ!」
武文氏の体がドサッとテーブル脇に放られる。まるで柔道の師範が生徒を転がすような無造作な投げだ。
すごい! 僕には無理だ!
「まったく。端から聞いてりゃなんなのさ。進歩がない人だね。むしろ退化してるよ」
ブツブツ文句を言いながら、向けに倒れた僕に手を差しのべてきた人物に、僕は「あっ」と声を上げた。
狸親父の長男! 帰ったんじゃなかったんだ。
「大丈夫だった?」
彼は口を開けたままの僕を引っ張り上げると、チラとソファーに目をやり、首を押さえて背もたれに伏せている拓巳くんの足元に近寄った。
助けてもらったのはありがたいのだが、姿を見せてしまって大丈夫なのだろうか。
「あー、これはダメかも」
あーあ、と嘆息しながら腰を折り曲げて拾い上げたのは、つるの根本が捩れたサングラスだ。
僕は慌ててそばに行き、サングラスを受け取るべく両手を差し出した。
「あの、ありがとうございました。大丈夫です」
「でもこれじゃ使えないでしょ」
「部屋に戻れば予備がありますから。だったったよね、拓巳く……」
言いながら横を窺うと、こちらに顔を上げた拓巳くんの目が、信じられないものを見たように彼に向かって見開かれていた。
どうしたんだろ。
戸惑いながら双方の顔を交互に見ると、僕の手にサングラスを置いた彼はサッと身を引いた。
「や、やあ。元気? 偶然だね」
拓巳くんとも顔見知りだったのか。
「………」
目を見開いたままの拓巳くんは、しかし硬直したように答えない。
一抹の不安にかられて屈み込むと、横合いからムクリと上体を起こした武文氏が声を張り上げた。
「お、おまえっ、なんでここに! 出入り禁止だろう!」
けしからんとばかりに指を差され、振り返った彼は腕を組んで武文氏に言った。
「別にそのことには一片の悔いもないけど、あんたに言われるとホンッとにムカつくわ」
ち、父親に対してこの物言いとは。ウチの拓巳くんもだけど、この二人の間にも相当な確執があるな。
彼は銀メッシュを揺らしてヒョイッとローテーブルを跨ぐと、まだ床に膝をついたままの武文氏の前に立ちはだかった。
「あんたが今もここに出入りして、エラそうにふんぞり返っていられるのは、いったい誰のお陰なんだろうね」
「な、なんだと?」
「なんだと? じゃないでしょ」
小柄な体がスッとカーペットに片膝をつき、片手が武文氏のシャツの襟をネクタイごとグイと引っ張る。
「や、やめろ……」
途端、体が浮いた武文氏の目に焦りの色が走り、厚みある体が逃げを打った。しかしどんな技を使っているのか、揺れるのは腕だけで、片膝をついた姿は岩のように動かなかった。
これは、もしかなくても相当な有段者……。
その想像を裏づけるように、笑みを浮かべた顔の中で大きめの瞳が鋭い光を放った。
「お兄さん? いや甥か。いずれにしても、あんたの力に遠慮したからじゃない。みんなが一族の体裁とやらを慮ったから目こぼしされたに過ぎないんだ。いい加減、自分の立場を自覚しなよ。なんならもう一度思い知らせてやろうか」
「………」
先ほどの人懐こそうな様子からは想像もつかない物騒な気配が立ちのぼる。武文氏は顔に血をのぼらせながらも口を引き結んだ。
よっぽど痛い目に遭わされたことがあったのかな……。
それを見た彼はフンと鼻を鳴らし、投げるように襟から手を離して立ち上がった。そしてシンとなった室内に気づいて周りを見回すと、あの人懐こそうな気配に戻って頭を掻いた。
「しまった。ついカッとなってクセが出ちゃったよ」
だ~からここに来るのためらうんだよねーと苦笑いを浮かべる姿に、ソファーからゆっくりと立った富子夫人が声をかけた。
「まぁ、おまえは……本当に、いつも風のように突然だこと」
その口調は驚くでなく呆れが混じり、ソファーの隅に身を寄せたまま、青ざめた顔で胸を押さえている玉枝夫人とは対照的である。
彼女はついとソファーから離れると、そば近くまで歩を進めた。
「もう代替わりして十年です。あなたの出入りはとっくに総司が許可していますよ」
「うん。わかってるよ」
「承知していても鎌倉へは顔を出さない。そんなあなたがどうして今日はここに?」
不思議そうな顔で問われ、彼は困ったように拓巳くんと、そのそばに立つ僕を見た。
どんな縁での知り合いなのか、素顔の拓巳くんを見ても動じる気配がないのがただ者ではない。
「ちょっとその、祐司くんのことを色々聞かされて心配になって。なんか変な噂もあるみたいだし」
「妙な噂など、祐司にも総司にもしょっちゅうじゃありませんか。わたくしはいちいち気になどしていませんよ」
「そうなんだけど……」
へえ……。
二人のやり取りは、父親とのそれよりよほど親密で、気の合う甥と伯母だったことが察せられる。
「でも僕はその、ちょっと引っかかったもんだから。直接聞いてみたほうがいいかなと思って病院に行ったんだよ。そしたら彼に会って」
カジュアルなブラウンのジャケットの腕が僕を指し示す。
「直後にかかってきた電話の内容を聞いちゃって。急いだほうが良さそうだと思って送ってきたんだ」
「あなたが。どおりで早いはずです」
富子夫人が納得し、拓巳くんが抗議の眼差しで見上げてくる。僕は慌てて説明した。
「あ、あの、そうなんだ。すぐに言わなくてごめんね。運転手を申し出ていただいて」
いっそう機嫌が悪くなった気がして首を縮めると、ローテーブルの向こうの気配が再び不穏になった。
「それでちょっと裏口から失礼して様子を窺っていたら、早川が深刻な顔して出てきてさ。ドアに隙間ができて会話が聞こえたんで、扉に張りついて続きを聞いてたら、このムカつくおっさんが……っ」
怒りが沸騰したか、彼は再度武文氏を見下ろした。
「あんただろ! 親戚中にデタラメな噂ばらまいて、祐司くんの足を引っ張ろうとしたのは! 相変わらず姑息なやり方でヘドが出るね!」
指を差して避難された武文氏は、しかしサッと起き上がると距離を取って反論した。
「う、嘘は言っとらんぞ! 聞けばその男は容姿を売って生計を立てているというではないか。そんなもの、男娼とたいして変わらん商売だ。祐司が誑かされたのは誰がどう見ても事実だろうが!」
よ、容姿を売るってモデルのことか!
「あんたバカじゃないの?」
僕が憤るスキもなく、銀メッシュの髪をかき上げた彼は呆れたように言った。
「自分が美人に好かれないからって美男子まで妬むのはやめてくんない? この拓巳くんは既婚者で、ちゃんと息子さんもいるんだよ。奥さんもらってる人を男娼呼ばわりってチョー失礼。弁護士の守くん呼んで、名誉毀損で五百万払わせてやろうか」
彼ならそのくらい簡単にやるよと凄まれ、武文氏の顔が怒りと焦りでどす黒くなった。
どうやら守くんとやらは井ノ上の長老にも知られた凄腕の弁護士らしい。
「あんたのポケットマネーで払えるところが頭にくるけど、一族にこれ以上の恥晒すのは嫌でしょ。わかったなら彼に謝りなよ」
さぁ! と強い調子で言われ、茹でタコになった武文氏がわめいた。
「そ、そいつが本当にこの男の息子かどうかなんてわかったものじゃなかろう!」
「は? なに言ってんの」
「その魔性のような顔の男と、そこの優男風の若造が親子など、誰が見たって信じるものか!」
「優男風の、……なんだって?」
ふいに彼の目が見開かれ、僕たちのほうに向けられる。すると拓巳くんが立ち上がり、僕の腕を強くつかんで引き寄せた。
クリクリした大きな目が並び立つ僕たちを交互に見比べる。
「あれ? ウソ。ちょっと。彼って拓巳くんの息子?」
その様子に勢いづいたか、武文氏が嘲るように笑った。
「それみろ! おまえだって到底、信じられんだろう!」
「新人くんじゃなくて? じゃ、君は和巳ってこと? ホントに?」
悪意の言葉など耳に入らぬ様子で彼がつぶやく。しかし武文氏は構うことなく自分の主張を続けた。
「案外、この男が自宅に囲っていた者かもしれんぞ」
「ちょっとそれはあまりに意外……じゃない、じゃなくて」
拓巳くんの手に震えが走り、それを見た彼は顔を引きつらせて両手を振った。
「違うから。拓巳くん? 落ち着いて。ね?」
「か、勝手に会わないって……」
「会ってない。うん。会ってないよ! 車で送ったのだって偶然なんだよ!」
「こんな者どもを養子と認めるのは、祐司にとっても危険なことだと――」
「ちょっとあんた黙ってなよ!」
ブラウンの袖が一閃し、指先がこちらに身を乗り出していた武文氏の顔スレスレを通過する。ギョっとしてのけ反った武文氏はバランスを崩して尻餅をついた。
「うぉっ」
そのとき、すぐ後ろの扉が開いてファイルを抱えた早川さんが入ってきた。
「遅くなって申し訳……えっ、コウジ様?」
コウジ? ってこの人の名前か。
「あ、早川。久しぶり」
「あなた、ここで何を」
早川さんは驚いた顔で部屋に踏み込むと、目の前に転がる武文氏の姿を認めて眉をひそめた。
「これはまた。あなたの仕業ですか」
「や、それは」
またかといった風情で屈み込む早川さんに目線が流れたとき。
「帰る」
ふいに腕がグッと引っ張られ、肩が斜めに傾いだ。
「拓巳くん?」
驚いて振り返ると、泣きそうな顔の拓巳くんに肩をつかまれた。
「家に帰る。和巳、早く」
「ええっ! あの、ちょっと!」
グイグイと扉の方向に腕と肩を引っ張られ、足がもつれぎみになる。
「拓巳さん? どうしました」
富子夫人が驚いて引き留めるのが目端に映る。が、祐さんを説き伏せてまで彼女のもとに留まることを選んだ人が、振り向きもせずに僕を引っ張る。
「早く!」
「拓巳くん! 待ってよ!」
さすがに今、帰ったらまずいだろう!
その思いで足を踏ん張ると、肩から手が外れて腕をつかまれるだけになった。すかさず腕をグイと抜き、富子夫人の脇に並ぶ。
「帰るってどうして! ここにいるって決めたのは拓巳くんでしょ?」
すると突然、彼の顔に悲痛な表情が浮かび、片手で口元を覆って体を翻した!
ええーっ! どうしてなんだぁ!
「あ、ダメ! それきっと僕のせい!」
銀メッシュの頭が動き、拓巳くんのそばに駆け寄って素早く腕をつかむ。しかし拓巳くんは振り切ろうと激しく身を捩った。
「離せよっ!」
「ちょっと待って!」
焦った顔の彼が必死に取りつき、早川さんが座り込んだ武文氏を引きずって遠ざける。 するとまだ半開きだった扉からスルリと長身の姿が現れた。
「よせ。何を揉めている」
長い手が暴れる拓巳くんの肩と腕をつかむ。
「祐司様」
「祐さん!」
「祐司」
これ以上ないグッドタイミングだ。
みんながそれぞれ声を上げる中、一番よく響いたのはこの声だった。
「祐司くん! ごめん!」
拓巳くんを背中から抑えにかかっていた祐さんは、片方の腕にしがみついている声の主に気がつくと、鋭角的なラインの目を見張って動きを止めた。
「親父? なにしてるんだ」
――おやじっ?
一瞬、頭がスパークする。
おやじってまさかお父さんのこと⁉
すぐに二人を見比べるも、どこにも共通するものなど見当たらない。
かたや身長約百九十センチ。目線だけでヤクザを退ける寡黙なハードボイルド。
こなた百七十センチ弱。ほんのり武道を匂わせる愛嬌たっぷりの壮年タレント。
ムリムリ。そんなはずあるか。
そもそも祐さんのお父さんとなれば六十は越えているはずで、彼の身ごなしはどう見ても四十代以下、どんなに多く見積もっても五十代前半だ。
あだ名か何か、違う意味なんだと自分を納得させていると、肩をつかまれた拓巳くんが祐さんを振り仰いで訴えた。
「会ってた。幸司さんは和巳と会ってたんだ。俺の知らないところで!」
僕は「あっ」と気がついた。
幸司さん!
井ノ上幸司さんっていったら祐さんのお父さんの名前じゃん!
「違う! 誤解だよ!」
「約束したのに!」
その幸司さんは小柄な体を必死に伸ばして反論し、拓巳くんが聞きたくないとばかりに首を振って祐さんに縋りつく。
「か、和巳は嫌がって、俺のところに、来ないんだ……っ」
口々に訴えられた祐さんは、しかし拓巳くんの顔を見た途端、僕に目を向けてきた。
「まずい。痙攣だ。離れに運ぶぞ」
「痙攣⁉」
痙攣とは拓巳くんの場合、フラッシュバックに付随するものである。
祐さんは力尽きたようにズルズルと膝をつく拓巳くんを支えると、矢継ぎ早に指示を出した。
「親父、話はあとだ。悪いが早川の部下を使って武文叔父を自宅に戻してくれ。早川は芳兄さんに大至急、来てもらうよう連絡を入れろ。富子さん。報告はのちほど。失礼します」
そうして彼は苦しげに背を丸めた拓巳くんを抱き上げると、立ち上がって扉を開けた早川さんに頷きかけ、渡り廊下に向けて歩き出した。
僕は度重なる衝撃に口を開けたまま、見えないロープで引っ張られるようにして、フラフラとそのあとを追ったのだった。




