後編
スポットライト、完結です
「お兄さん、ありがとうございました」
誰もいないホール、まだ熱のこもった会場で、美嘉と男は舞台に腰かけていた。
「忘れません、きっと、きっと……」
そこまで言って、耐え切れず泣き出した。片腕で自分の体をきつく抱き、喉にもう片方の手を当てて、何かに耐えるように泣いた。
「美嘉」
男は彼女の頭を撫でながら言った。
「美嘉。そのトロンボーンを、貸してくれないか? 吹きたいんだ。マウスピースは自分のを持ってるから」
「え……はい」
美嘉は驚きながらも、トロンボーンをケースから取り出し、組み立ててから男に渡した。
「吹けるんですか?」
「プロを、目指していたからね」
男は、まるで愛しい者に触れるような手つきでトロンボーンを持ち上げ、そっと唇に押し当てた。
ひんやりとした感触が唇にあたる。金属のにおい。どちらも、慣れ親しんだものだった。
息を吸う。大きく吸ってから、男はゆっくりと楽器に吹きこんだ。
誰もいないホールに、トロンボーンの音色だけが響き渡る。
艶のある滑らかな音だ。
「Amazing Graceだ……」
美嘉の言葉にうなずいて、男は吹き続けた。
まだ彼が十代で、日本でトロンボーンを練習していた頃。いつもこの曲を吹いていた。まだ幼かった妹にせがまれて、吹いていたのだ。
思いが音に変わっていった。力強いのに切ない旋律が、心の一番弱く、やわらかい部分に流れ込み、やさしく撫でていく。
美嘉の目が見開かれる。光がその目に吸い込まれ、涙となって溢れ出る。
さっきよりも、もっと苦しそうな泣き方だった。
曲が終わり、音の余韻が消えていくと、美嘉は掠れた声で、
「おにい、ちゃん……ですか?」
そう言って、足を震わせながら一歩一歩、こちらに近づいてきた。
「わたし、この音、憶えているもん。ずっと、憶えていたもん……!」
美嘉の中で、兄はもう顔も思い出せないような遠い存在だったが、兄の音色だけは、色褪せずに残っていたのだ。
男は頷いた。
「つらいとき、傍にいてやれなくて、すまなかった」
男の目にも、涙が浮かんでいた。
この夜が終われば、もう美嘉は何も思い出せなくなる。
今夜のことは、彼女の頭の中から消えてしまう。
男は、兄は、妹の小さな体をぎゅっと抱きしめた。すると美嘉は泣きながら笑って、
「わたしは、信じてたよ。お父さんもお母さんも、いろいろ言っていたけど、わたしは、お兄ちゃんのこと、信じてた。だって、お兄ちゃんのトロンボーン、大好きだもん」
そう言った。兄はぼろぼろと涙を流しながら、しばらく何も言えなかった。
くだらないプライドなど捨てて早く家に戻っていれば、美嘉の記憶が続かなくなることも、なかったかもしれない。そう思うと自分の幼さに吐き気がした。
「……ごめん、美嘉」
でも、結局それしか言えなかった。美嘉は目を細めて、大きな兄の背をさすりながら言った。
「だいじょうぶ。わたし、明日もきっとここに来るから、きっと……でも、ねぇ、お兄ちゃん。ひとつ、聞かせて。……夢は、叶いましたか?」
その言葉を聞いて、男の中に、ふと昔の記憶がよみがえった。
――おれは夢をかなえに行くんだ。いつかおまえにも、あの輝く舞台を見せてやるよ……。
家を出るとき、彼は確かに、妹にそう言った。
男は頷いて、その言葉に顔をあげた美嘉の頬を優しく手で挟んで、続けた。
「夢の形は変わったけど、叶ったよ。ありがとうな、美嘉」
美嘉は満足そうにうなずいたが、再び大粒の涙を流しはじめた。
体を震わせ、何かを言いかけてはやめて、言いかけてはやめてを繰り返し、
「わすれ、ないから! 今夜のこと、一生、忘れないから……響介お兄ちゃん」
男は頷いて、もう一度美嘉をきつく抱きしめた。
「やりましたね!」
「本当に、ありがとう、何とお礼を言っていいか……」
翌日。
若者たちの楽団の演奏会は、満員の大成功を収めた。
男――響介も、楽団員たちと泣きながら互いに礼を言いあった。
賭けてみよう、この仕事に。
響介は思った。
今まで歩いてきた道で、何が間違いで何が正しいなんて、わかりっこないのだ。
ずっと後になって、これでよかったと思える日が来れば、それでいい。
秋の気配のする、透き通るような青空を見上げて、ゆっくりと深呼吸をした。
その夜。
響介はやはりロビーにいた。
ちりん、ちりん……
呼び鈴が鳴る、午後九時半。
「こんばんは、いかがなさいました?」
入口に立っている娘が顔をあげる。
「あ、あの、楽器を吹かせていただけませんか」
「もちろん、美嘉さん。どうぞ」
響介に促され、中へ入ろうとした美嘉が足を止める。
「あの、わたし、昨日ここに来た気がするんです。なにか、演奏を聞いて、泣いた記憶があるんです。……とても、素敵な演奏でした」
……美嘉の記憶が、少しだけ残っていた。響介は、微笑んで頷いた。
「ええ、ここに来ましたよ、あなたは。さ、どうぞ吹いてください。まだ三十分ありますから」
トロンボーンから、少したどたどしいAmazing Graceが流れてくる。響介は小さく笑った。同時に、目頭が熱くなった。
「美嘉さん、トロンボーン、教えて差し上げましょう」
今度はおれが、おまえの夢を照らそう。
二人で一緒に、おまえの目指す舞台へ、一歩一歩あるいていこう。
輝く舞台で微笑む美嘉の姿が、ぱっと響介の目の前に浮かんだ。
「教えてくれるんですか? うれしい!」
「もちろん。おれもトロンボーンが大好きなんだ」
響介の夢は、まだまだ、終わりそうにない。
美嘉の目指す舞台を照らして行くのが、彼の夢になった。