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中編


「起きました?」

「え、えっと……」

 畳の上に座布団を枕にした状態で寝かされていた美嘉は戸惑ったように顔を赤くした。

「風邪だね、全身びしょ濡れだったから。楽屋の暖房が使えてよかったよ」

 苦笑いしながら男が言うと、美嘉は跳ね起きて正座し、頭を下げた。

「ご迷惑をおかけして、すみませんでした」

「いや、いいよ。……それより、なにかあったんですか?」

 そう言って、男は少し後悔をした。美嘉にとって自分は、「初めまして」なのだから。いきなり話せというのは無理があるだろう。

 男は質問を変えた。

「きみは、このロビーでよくトロンボーンを吹いていたんですよ。……憶えているかい?」

 美嘉はわずかに目を見開いて、納得したような顔で頷いた。

「いいえ……。でもわたしは、以前にここへ来ていたんですね。懐かしいな、と思ったんです」

 寂しそうに微笑みながら、美嘉は毛布にくるまったまま話し始めた。

「ここ、学校の帰り道にあるんですよ。それで、今日たまたま初めて立ち寄ったんですけど……、わたしは前にもここに来ていたんですね」

 そこまで言って、黙った。男は口を挟まず、続く言葉を待った。

 しばらくして、美嘉は俯きながら言った。

「今日、水をかけられました」

 その言葉を聞いても、男は何も言わなかった。ただ、そっと手を伸ばして美嘉の背に手を置いた。

「そういう、遊びなんです。彼女たちにとって、そういう遊び。わたしは彼女たちの玩具で……」

 美嘉は自分の手を庇うように握った。握ってさすりながら、言葉を紡ぐ。震えながら、一点を見つめて。

「いじめられ始めたのは、中学生になってからでした。最初は無視だけだった。でも、だんだんひどくなって……」

 美嘉は泣かなかった。ぎゅっと唇を結び、まなじりを吊り上げ、遠くに目線をやった。

「無視のほうが良かった……誰にも気づいてもらえなくても、普通に過ごせるならよかった。でも……」

 言うのがつらいのだろう。目を閉じ、再び黙り込んだ。

 男は何も言わず、じっと美嘉を見つめていた。

「……ひどくなるにつれて、わたしは忘れようとしました。苦しいこと悲しいことを忘れようって……。そうしたら、楽になるからって。でも、わたし……」

 涙がつぅ……と彼女の頬をつたった。

「わたし、何も分からなくなっちゃったんです。記憶が一日しか続かなくなって……昨日のわたしの身に何が起きたのか、何も、思い出せないんです」

 一度堰を切ってしまった涙はとどまることを知らず、とめどなく溢れていく。真っ黒いシミを、いくつもいくつも、毛布に落としていった。

「高校に入学してしばらくした日から今まで、わたしの記憶は、一日しか続かないんです。誰と出会って、どんな話をして、何を食べたかも、何も思い出せない……。だから……高校にも行けなくて、でも、行って、みたくて……」

 震えながら美嘉は口を押えた。嗚咽を漏らしながら、泣いている。

「どんな、場所なのかなぁ、って。高校って、どんなことを勉強できるのかなぁ、って……夢だったんです。だから、今日だけ、って、思って、行ったら、中学ときからの同級生に学校に来るな、帰れって、水をかけられちゃ、って……そのまま、服、乾かなくて……」

 でも、美嘉はぱっと顔をあげた。それから口角を不自然に上げて、

「でも、明日になれば、みんな、忘れちゃうから。だから、へいき」

 頬を震わしながら笑って、そう言った。

 それきり二人とも黙り込んだ。

 暖房が効いて熱くなったのか、美嘉の頬が赤くなってきたころ、男はぽつりと聞いた。

「……美嘉さんは、音楽は、好き?」

 その問いに、美嘉は袖で涙をぬぐってから大きく頷く。

「はい、だいすきです」

 瞳に、光が戻ってきた。……彼女は根っからの、音楽好きなのだ。

「楽器を吹いているとね、気持ちがすうっと、安らぐんです。悲しい気持ちも全部、音になって流れていくみたい」

 そう言って、美嘉は笑った。さっきの笑みとは違う、本当に嬉しそうな笑い方だった。

 男は美嘉の顔を覗き込み、言った。

「美嘉さん、明日の夜、ここで演奏会をするんだ。一夜だけの、演奏会を。……きみに、来てほしい」

 その言葉に、美嘉は悲しそうに笑いながら、首を傾げた。

「来れるかなぁ。でも、聴きたいなぁ。ここの劇場、小さいけど、たくさん夢が詰まっている気がするんです。だからここで、わたしも吹いてみたかったのかもなぁ……」

 愛おしそうに目を細めながら、美嘉は脇に置いてあるトロンボーンのケースを、やさしく撫でる。それから、真っ赤な目でこちらを見て言った。

「きっと、来ます。お兄さん、お話を聞いてくれて、ありがとう」




「リハーサルに女の子を呼びたい?」

「そうなんです、お願いできませんか?」

 翌朝、突然の申し出に、若者たちの楽団は顔を見合わせた。

「どうしても、みなさんの演奏を聴いてほしくて。お願いします」

 男は、彼らの演奏会のリハーサルに美嘉を招待しようと考えたのだ。

見せてやりたかった。この演奏会を、輝く舞台を。

 彼女の愛する音楽の姿を見せてやりたかった。

 それで少しでも笑ってくれたら……、そう思う。

 頭を下げる男に、若者たちの楽団は、頷いてくれた。

「もちろんです。……最高の夜にしましょう」

 男は深く深く、頭を下げた。



「美嘉!」

 午後九時半。

 呼び鈴と共に、美嘉は現れた。真っ白いセーラー服にいつも通りトロンボーンを背負って。

 男は今日のためにこしらえたタキシードを着て美嘉のもとへ駆けていった。

 柄にもなく、顔を赤くしていた。

「あの……」

「ようこそ、いらっしゃいました!」

 美嘉の言葉を聞く前に、男はうやうやしくお辞儀をしてから、小さな手を優しくとる。

「今夜はね、ここで演奏会があるんだ。招待されないと入れない、演奏会がね」

「え、……そうなんですか?」

 少し眉を顰め、美嘉が首をかしげる。

「そう。招待客はただ一人、きみだよ。きみのためのステージだ」

 美嘉は目をきらめかせて、男を見つめた。……なかなか、いい反応だ。

「わたしの……ための……」

「ええ、そのとおり! さあ、参りましょう」

 男は美嘉の手を引いてホールへと向かった。ちらっと振り返って顔をうかがうと、嬉しそうに顔を赤らめている。

握ったその手がほんのりとあたたかくて、男は泣き出しそうになるのを必死にこらえていた。



 緞帳が上がる。

 暗転から明転への切り替え。

 夢のように浮かび上がる舞台。

 調光室で自分が動かした照明が、そんな舞台を作り上げているのが信じられなかった。

 憧れ続けた舞台が、そこにある。――彼がかつて夢見たドイツにあるスメタナホールに比べればはるかに小さいが、男の耳にはどのホールよりも美しい響きが聞こえていた。

 若者たちの奏でる力強い音色は、彼の心を揺さぶった。

 客席に座っている美嘉は、しきりに身を乗り出したり、目元をこするしぐさをしていた。

 クラシックがメインの第一部が終わり、第二部に差し掛かる。

 話し合いで最も考えを練った歌モノの、My Favorite Thingsだ。

 客席のドアから現れた歌い手の二人に、美嘉が振り返って拍手を送っているのが見える。二人が別々に歩きながらやがて中央の花道で出会い、手を取り合って歌いながら壇上へあがっていった。

 涙がにじんで目の前がぼやけていく。

 男は夢中で彼らを照らし続けた。

 二部のフィナーレで、スポットライトの光が会場を包み、そこにいる人すべてを照らしていく。

今までのことが、男の頭に浮かんでは消えていった。叶わなかった夢も、それに苦しんだ時間も、男の生きてきた時間すべてがこの舞台で輝きを放っていた。

まばゆい光の中で、男はもう、涙を抑えることができなかった。

 曲が終わり、音が花火のようにぱっと光り、きらめきながら散っていく。その残響が消えぬうちに、男は調光室を飛び出した。

 リハーサルだから、緞帳は降りない。舞台の上の若者たちの喜々とした顔が、美嘉の涙にぬれたあけっぴろげの笑顔が、男の目に映った。

 男は叫んだ。

いいや、男だけでない。みんな、その場にいる誰もが声をあげ、肩を組み、抱き合いながら涙を流していた。

共に舞台を作りあげた感動の波が、一気に押し寄せてきたのだ。

「す、すごかった……!」

 美嘉はそう言って、涙をぬぐう。その言葉が若者たちの心をさらに熱くした。

「最高の夜になったな!」

 たった、三十分間のリハーサル。それでも本番前夜の会場は沸き立ち、誰もが目を輝かせていた。

「よし、仕込みは完璧だ! 明日も気合入れていきましょう!」

 楽団長は声を張り上げてそう言った。それから、

「美嘉ちゃん! 今夜はどうもありがとう!」

 そう言って、楽団長は美嘉を舞台上へと上げた。美嘉ははにかみながら、

「今夜のこと、わたしは一生忘れません。わたしの、何物にも代えがたい宝物になりました。音楽への熱が、伝わりました。……招いてくれて、ありがとう」

 そう言って、しばらく顔を覆って動かなかった。


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