前編
暗闇だった舞台が、ふわっと夢のように明るくなる。演奏の始まり、舞台が白く輝く瞬間に魅せられて、もう、十数年もたつ。
男は無人のホールから出ると、薄暗いロビーへと出ていった。
閉館三十分前。午後九時半。
エアコンのゴーーという音だけが響いている。それがロビーの静けさを際立たせた。
プロの演奏家になる。それが彼の、十代のころからの夢だった。しかし、十六歳から海外に留学をしたものの、それを叶えることができず、戻ってきてしまった。……家族とは、もうずっと連絡を取っていなかった。反対されながら家を出たため、両親は彼が再び家に帰ることを許さなかったのだ。
帰国後は、せめて舞台にかかわりたいと、私営の小さな劇場のホールスタッフ、いわゆる「裏方」として働いている。
初めこそ、夢破れた自分でも、こうして舞台の裏にいれることが嬉しかった。しかし、日がたつにつれ、それはゆっくりと彼の自尊心を傷つけていった。
その劇場には演奏家の卵やら、役者の卵やら、これから才能開花するであろう若者が、たくさん訪れるのだ。
そんな若者たちを見ていると、消えたはずの夢の影が目の前をちらつく。音楽への憧れが、思い続ければ夢は叶うと信じていた頃の熱い思いが、鋭い痛みを伴って、胸に迫ることもある。
ただそんな思いがくすぶる一方、自分は憧れ続けた舞台の影で奴隷のように働くしかないという現実が、彼を苦しめた。
夢の亡霊と砂をかむような現実の間で、彼はどうすることもできずに、ぼんやりと毎日を過ごしていたのだ。
もう限界だと思う。
また別の仕事を始めようと思っていた。もうじき三十になる。いつまでも失った夢の続きを探してはいられない。
男は受付の椅子に座り、うとうとし始めた。……もう、客も来ないし、あのやる気のない支配人も帰っている。あとは三十分過ぎるのを待って、戸締りをするだけだ。
ひゅうひゅうと風の音が聞こえる。外の闇の中で木の枝がしなるのがぼんやり見える。風の音がだんだんと間遠になっていくのを、男は微睡みの中で感じていた。
ちりん、ちりん……
夢うつつに、呼び鈴の音を聞いた。
うっすらと目を開けると、薄暗いロビーの入り口に、セーラー服の娘が立っていた。
その姿は、一片の白い布切れのように頼りない。吹き飛ばされてしまいそうな、そんな頼りなさ。
はっと目を覚まして娘のもとへ行くと、今にも消えそうな掠れた声で、彼女は言った。
「あの、楽器を吹かせていただけませんか」
泣き出しそうな声だった。頬には年頃の娘らしい赤みがなく、仄白い。ただ幼いつぶらな瞳には、強い光があった。
「もう、閉館ですけど」
「少しでいいんです」
男は眉をひそめた。娘は中高生くらいに見える。こんな夜遅くに、親御さんは心配しないのだろうか。
「でも、もう夜遅いのでお帰りなって、明日のほうがよろしいかと思いますが……」
「お願いです、楽器さえ吹ければいいですから……ホールを貸してくれとは言いません、どこか、吹ける場所はないでしょうか」
背には細長いケースを背負っている。あれは、トロンボーンだ。ずっと吹いてきたから、わかる。
あまりに必死な娘の顔を見て、男は渋々頷いた。支配人もいない。少しロビーを貸してやるくらい、いいだろう。
「わかりました。どうぞロビーを使ってください。私はここにおりますから」
「ありがとうございます」
娘は満面の笑みで礼を言った。
男はわずかに頬を緩め、頷いた。
娘は毎日訪れた。
閉館三十分前。午後九時半。
毎日その時間になると、入口に表れて呼び鈴を鳴らすのだ。
毎回、同じ言葉で、同じ表情で、楽器を吹かせてほしいと頼みに来る。何度も来ているのに、初めてここに来たみたいに、申し訳なさそうに目を潤ませながら。
「なまえ、何ていうんですか?」
あるとき男はそう聞いた。彼女がここに来るようになって、一週間くらいたった頃だ。
「美嘉、っていいます」
男は目を瞬かせた。すうっと指の先が冷たくなるのを感じた。
「……美嘉さんは、トロンボーンが好きなんですか? その曲、Amazing Graceでしょう? 素敵な曲ですよね」
などから絞り出したその言葉に、美嘉はぱっと顔を輝かせた。
「……はい! わたしの兄はトロンボーン奏者で、この曲よく吹いてて! わたしの大好きな曲なんです。……いつか、兄が吹いている姿を、わたしが照らしてあげたいんです」
男は首を傾げた。
「照らすって、きみは、裏方の仕事をしたいってことですか? 奏者じゃなくて?」
「そうなんです! でも、ほら、演奏者の気持ちがわからなきゃ裏方は務まらないでしょう? だから、今は演奏者として頑張って、将来は兄のために裏方をするんです。そう、小学生の頃に決めたんです」
美嘉はそう言ってから、ちょっと照れ臭そうに笑いながら、
「お兄さんは、裏方の仕事をしていらっしゃるんですよね。……素敵です」
そう言った。
男はじっと美嘉を見つめた。
彼女は、「裏方があっての舞台だ」などと、綺麗事を言っているわけじゃない。美嘉は純粋に、トロンボーンも裏方の仕事も好きで、何より兄が大好きなのだ。心がじんわりとあたたかくなるのを、男は感じていた。
「ありがとう。きみも、がんばらなきゃだね」
やさしい声が出た。今までの、どんな励ましの言葉を発した声よりもやさしい声が、男の口からこぼれ出た。
美嘉は嬉しそうに笑って、頷いた。
次の日も、美嘉はいつも通り現れた。
「こんばんは、美嘉さん」
男がそう声をかけると、美嘉は不思議そうに首を傾げた。短い艶のある髪が、さらさらと流れる。
「どこかでお会いしたことがありましたか?」
「…………」
男は言葉を失った。
昨日のことを、憶えていないのだろうか。
美嘉はあのまっすぐな、裏方の仕事を素敵だと言った時の瞳で、こちらを見ている。嘘を言っているわけではない。
「ああ……まあ……」
思わず言葉を濁してしまった。冷たい手がすうっと腹の底をさするようなさみしさが這い上がる。
「あの、楽器を吹かせていただけませんか」
男は頷いた。頷きながらも、体中にしびれたような鈍い痛みが広がるのを感じていた。
その日を境に、美嘉はぱたりと来なくなった。
毎晩毎晩、男はロビーの受付に座り、彼女が呼び鈴を鳴らすのを待った。二日三日来ないだけなら学校でやることでもあるのだろうと思ったが、一週間、二週間と過ぎていくと、不安になった。
ロビーから外に出て探した日もあるくらいに、彼は美嘉が訪れるのを待ち詫びていたのだ。
ちりん、ちりん……
呼び鈴が鳴る。
午後八時。今日はこの時間から若い演奏者の団体と演奏会の打ち合わせが入っていた。
この呼び鈴は美嘉ではない。そう思っても少しの期待を持たずにはいられなかった。
「おはようございます」
入口に立っていたのは、楽団長と副楽団長である男二人と女一人だった。
「あの、先日ホールの予約をした者で、打ち合わせに伺ったのですが」
美嘉ではない。その事実に男は一瞬落胆したが、すぐに気を取り直してうなずいた。
「お待ちしておりました。どうぞお入りください」
この劇場の支配人である男は、ほとんど顔を出さなかった。だから実質、ここの劇場を仕切っているのは男であった。
事務の仕事をする中年の男女もいたが、ホールの仕事に来ることはもちろんない。
ホールスタッフは自分一人だから、音響やら照明やら演出やらを、彼はひとりでやらねばならなかった。たいていの団体はホールスタッフに敬意を示してくれるが、見下すような言葉を言ってくることも少なくない。
彼がこの仕事を変えようと思った理由は、そんな部分にもあった。
「では、一部は板付きで、二部下手入場でよろしいですか?」
白い壁に囲まれた会議室で、開演時の体形確認を行う。蛍光灯を取り換えたばかりで、室内はまぶしさに目を細めるほど明るかった。
すると一人の少し気の弱そうな女が手をあげた。
「一部はそれでいいと思うのですが、二部はジャズとかミュージカルの曲とか、クラシックではないものを扱うから、下手入場だとつまらないかな、と思うんです」
男は頷いた。すると今度は眼鏡をかけた楽団長が頷きながら、
「確かにそうだな。じゃあ、客席の両側から二人を出させるのはどうだろう、最初の曲目は……」
「Sound of Musicの、My Favorite Thingsです」
女がそう答える。
「じゃあ歌い手を歩かせながら壇上まで上がらせるのはどうかな?」
副楽団長がそう言って、楽団長を見つめる。
「それはいい考えだな。中央の花道で二人が出会うようにすれば、盛り上がりそうだし」
楽団長の言葉に他の二人も大きく頷いた。
「うん。スタッフさん、変更よろしいでしょうか」
「……もちろんです」
頷きながら、男は忘れかけていた思いが心の中でふつふつと沸き上がるのを感じていた。
演奏会をするにあたって、いかに魅せるかが一番大切なのだ。
ただ多くの団体が、「企画書」と呼ばれる書類を適当に書いて来たり、このような会議のときにしっかりと打ち合わせをしなかったりする。だから本番でどうしても時間がおしたり、演出に不備が出たりするのだ。その責任を、すべてこちらに押し付けられることも少なくない。
でも、この団体は違う。
演奏者たちが知恵を絞り、最高のパフォーマンスにしようとする強い思いがあった。
久しくこんな団体に出会っていなかったからか、男の心には熱い血が通い始めていた。
そう、舞台とはこうであるべきなのだ。
出演者も裏方も、一体になって一つのステージを作り上げるために自分にしかできないことを、する。
代わりなんて誰もいないのだ。
男は目を閉じた。瞼が熱かった。耳を澄ますと、三人の話し合いはどんどん熱が入り、心なしか早口になっていく。
「すみません、スタッフさん、これはできますか?」
そう言われ案を聞かせてもらうと、客席側から舞台を照らしてドラムにスポットライトを当ててから、全体を明るくしたい、というものだった。
「シーリングライト、使えたかな……」
思わずそう言いかけた。普段なら、無理だと断っただろう。でも、彼らの願いはどんなものでも叶えたい。今の男の心は、そんな思いで満ちていた。
「わかりました。やってみましょう。機材はあるので修理でどうにかなると思います」
力強くうなずく男に、三人の顔がぱっと輝く。
この日の会議室の電気は、閉館時間を過ぎてもなかなか消えなかった。
夜風が吹き付けて、火照った体を冷ましていく。心地よい疲れがじんわりと体を包んで、男は大きく伸びをしていた。
あの若者たちとの練習は、彼の心を掻き立てるものだった。練習をすればするほど演出のアイディアが浮かび、どんどん注文が飛んでくる。以前なら面倒だと切り捨てていた問題にも、彼は前向きだった。
彼らと共に男は舞台を跳ね回り、何度も照明や音響を確認し、一つの舞台を作っていった。
美嘉は、もうここ一か月ずっと来ていない。それでも男は待ち続けた。
今日は、若者たちの団体が帰ったあとの三十分間、劇場の外の階段に腰かけて、缶コーヒーをすすりながら時間を過ごした。
いまでは、うとうと微睡むなど考えられない。もう、この仕事をやめたいとは思わなくなっていた。
ほうっと息を吐き、空を見上げる。まだ暑い日が続いているが、今夜はわずかに秋の気配のする、星のよく見える夜だった。
ちりん、ちりん……
男は、はっとして入口を見つめた。暗闇の中目を凝らすと、そこにぼんやりと白く光るような人影が見える。
まさかと思って急いで入口まで駆けていくと、まぎれもない、美嘉だった。
「美嘉……」
思わず名前を呼ぶと、美嘉は首をかしげる。
「どこかで、お会いしましたか……?」
男は頷きながら、美嘉の傍へ、その表情がわかるほど近くに行った。
思わず、息をのんだ。
さらさらとした黒髪はぺたりと顔に張り付き、白いセーラー服はずぶ濡れで、体に張り付いている。紅色の唇は青紫に変色していた。
雨など、今日は降っていない。
「……どうした……」
「楽器を、吹かせて、いただけませんか」
「どうしたんだ、何があったんだ……」
美嘉は顔をあげた。唇を震わせ、こちらを見つめてくる。その綺麗な瞳が赤く腫れた瞼におしつぶされているのを見たとき、男は冷たい肩を掴んでいた。
「温かいところに来なさい。そのままじゃ風邪をひいてしまう」
すると美嘉は、ぐったりとこちらにしなだれかかってきた。声をかけても返事はない。男は唇を噛みしめながら、彼女の体を楽屋へと運んだ。