恋は不思議
残暑厳しい秋のはじめの休日に、私は元会社の先輩の川茂美沙さんとカフェで会っていた。
まああれだ。この間の飲み会のお礼を渡そうと思って先輩を呼び出したのは私である。
優吾はなんと、今日は仕事の都合で会社に行っているので居なかったりする。
「気にしなくていいのに~」
なんて、先輩は嬉しそうににっこりとアイスコーヒーを飲んでいた。
「いや、さすがにお礼しないとかないですよ。本当にありがとうございました」
私がそう頭を下げて見せれば、先輩はけらけらと笑いながら「真面目なんだから」と面白そうな顔をしていた。ちなみに、お礼は有名老舗店の羊かんなどが入った詰め合わせの菓子折りだ。買うといいお値段の奴です、はい。
「それにしても、春の旦那ってすっごい美人だよねっ! イケメンっていうより美人が似合う男って初めて見たわ。今日一緒に来てる人もカッコいいし、もう一人はかわいいし、あんな執事さんに毎日世話してもらってるとか、うらやましいっ」
先輩の視線が私たちとは少し離れた席にいる二人をちらりと見た。例によって私のボディーガードとして、今日は要さんと聖君が付いてきているのだ。
「あははは。慣れない環境で毎日戸惑ってばかっりですけどねっ」
「あー、だろうね。でも優吾君って人当たりもいいし、いい子だったから私は安心だよ。春のことも大切に思ってくれてるみたいだからね」
「ありがたいことに」
「よかったね。でもこの間は本当にごめんね。まさか雪里が来るとは思わなかったわ」
「ああ、まあ。私もびっくりしましたけど。別にもう関係ないですから」
「でもあいつさ、春と別れてから、あんまいい噂聞かないんだよねぇ。だからこの間も春に何かちょっかい出したらぶんなぐってやろうかと思ってたわ」
「さすが先輩。だろうと思って私は安心してましたよ」
実際に先輩が手を出すという意味ではないが、きっと美沙先輩なら桃里に迫られる私を見つければ、かばってくれたのは間違いないだろう。この人はそういう人なのだ。
「へへっ。仕事を辞めたって春は私の大事な後輩の一人だからね。困ったときはいつでも頼りなよ。できることだけ手伝ってあげるから! できないことは無理だけどね!」
先輩はそう言うといたずらっ子のような笑みを見せる。こういう茶目っ気があるのも先輩のかわいさだと私は思う。
「もちろん頼らせてもらいますよ。先輩ほど頼れる人なんて知りませんからね」
「任せといて! あ、ところで雪里といえば、あの飲み会の後、なんと浮気してたことが発覚してさ。しかも二股だってよっ。おまけに私の同僚経由できた情報によると、あの飲み会の日もあわよくば春にちょっかい出して三股しようとしてたらしいって、もう、マジなんなのあいつ! 春の旦那に比べたら月とスッポンじゃん! 顔つくって出直して来いっていうのよね!」
「洗ってじゃないんですね」
「洗っても変わらないじゃん!」
先輩に座布団一枚。確かに言葉の意味そのままならそうよね。
「でもさぁ。雪里のやつ、今のままだと絶対奥さんに愛想尽かされて捨てられるな」
「だとしても、自業自得でしょうね」
「春のそういう所、好きだわぁ。私。あ、そう言えばこの前、部長がね――」
先輩は一通り桃里のことを話すと次の話題に話を切り替える。
実害がなければ、先輩からすれば桃里の話題なんて暇つぶしの一つでしかない。それが私には何とも気分のいいものだった。
のんびりと先輩の話を聞いた後、軽く買い物でも行こうと誘う先輩に連れられ、私たちはカフェを出た。
冷やかし半分のウインドショッピングで、先輩とどの服がかわいいだとか、今年の流行はこの色だとか、そんな話をしながら歩いていれば。
「あれ? 春乃ちゃん?」
と、どこか聞き覚えのある男の声が私を呼んだ。
まさかこんな街中で男に呼び止められることがあろうとは思わず、私は驚いて声の方へと顔を向ける。
「あ、皐月さんだ」
そうポツリとその名前をつぶやけば、呼ばれた本人。皐月世良はかなりなつっこい笑顔で私と先輩の方へと近づいてくる。てか、あなたのお隣にいらっしゃる美人な女性は放置しててよろしいの?
「なになに? 美人二人でショッピング?」
なんて、ジゴロが甘いマスクで私と先輩に色っぽい眼差しを飛ばしてくる。本当にやめてくれませんかね。間違っても先輩をその毒牙にかけようものなら、黙ってないぞ。優吾が。私はチクる気満々だ。
「わ~おっ。春の友達? すっごいエロいイケメン!」
なんて、先輩は全く言葉にオブラートをかぶせる気もないらしく、思ったままを吐き出しながら、キラキラした目で皐月さんを見上げていた。
そんな先輩の顔や言葉に、優吾にチクるまでもないと私は思い直していた。だって、先輩がジゴロの甘い罠にホイホイかかるほど初心なはずがなかったよ。
「私というより優吾のです」
「あ、じゃあ年下かぁ。残念」
先輩は残念と言いつつも、その顔には年上が持つ独特の余裕があふれていて、思わず私が先輩のカッコよさに惚れるかと思った。あぶねぇ。
「あれ? おねぇさまは年下はお嫌い?」
と、コロッと女をだましそうなほどの優し気な笑みで先輩を見下ろす皐月さんに、先輩はおかしそうに笑いながら右手をおばちゃんみたいにパタパタ揺らして見せる。
「ホストっぽい男にはさらに興味ないかなぁ」
「先輩、さすが鋭い」
「春乃ちゃんもひでぇ。俺、一応建築関係のお仕事してるまじめなガテン系よ?」
「今のは面白い。春、彼に座布団一枚っ」
「いやいや、マジだってっ」
この調子なら先輩が皐月さんに毒牙にかかることはないだろう。なんてちょっとほっとするものの、そんなことより、さっきから皐月さんの連れの美人さんがお怒りのようなのですが、放置してていいのかいマジで。
「てか、皐月さん。向こうの美人さんが呼んでるよ?」
そう彼の意識を向こうに向けさせようとする私だが。
「ん? ああいいよ。飽きたら帰るでしょ」
と笑顔で言いやがった彼に、心底呆れるばかりである。
だから刺されるんだよ。記念すべき十四回目が近々来るんじゃないのかとハラハラである。目の前で流血沙汰だけは勘弁願いたい。
「それで、お姉さんの名前は?」
「美沙さんって呼んでもいいよ~。ちゃんとか付けたらぶっ飛ばすから」
そういうと、先輩はいつものように明るく笑う。
そう言えば、先輩は年下に『ちゃん』付けされるのが嫌いだったなぁ。
「俺は――」
「皐月くんでしょ。春がさっき呼んでるからね」
「俺も世良って呼んでくれると嬉しいかも」
「そうなの? じゃあ皐月くんって呼んであげるね!」
「さすが春ちゃんの先輩。普通の反応はしてくれないわけね」
ヤバイ。先輩がかっこよすぎる!
「というか、本当に帰っちゃいそうだよ彼女」
私の言葉そのままに、彼女はすでにこちらに背を向けて歩き出していた。でも、皐月さんはそんな彼女を振り返ることもなく。
「まあいいんじゃない? 別に俺、彼女と遊んでたわけじゃないし」
と、全く興味なさそうだった。
「遊んでたんじゃないんだ」
私はてっきりデート中かと思ってた。
「そっ。たまたまそこで会って、遊びに連れて行けってねだられてたから、春ちゃんたちに会えてラッキーだったってわけ」
「ちっ。助けた形になってしまったのか、無念だ」
女性の敵に塩を送ってしまうとは。
「春ちゃんもたいがい俺に冷たい。さすがに春ちゃんには何もしてないのに」
「そういう問題じゃないよね? てか、先輩に何かしてみろ。優吾に泣きついてやるから覚悟しろよ」
私に何かするってことはあり得ないと思うが、何しろ護衛が二人もにらみを利かせてるし。なので、先輩に手を出そうなんて不届きな考えは早々に捨ててもらおう。
「おいたはしません。約束します」
そう言うと、皐月さんは右手を胸に置いて左手を胸の横にあげて見せる。まあ一応、信用はしてあげよう。
「まあ、じゃあ、私たちはこれで」
一先ず皐月さんの問題は解決したらしいし、私と先輩ももう特に話すこともないから、このまま皐月さんと別れてショッピングの続きでも行こうと思って軽く手を上げる私に、皐月さんがいきなり私と先輩の間に立って私たちの方に腕を回してきた。
「そんな寂しいこと言わないで、もうちょっと俺と遊んであげてよ」
なんてにっこりと笑う。こいつ、私たちについてくる気なのかよ。
どうします? という意味も込めて先輩に視線を向けると、先輩は仕方なさそうに笑っていた。懐かれると邪険にできないのが、先輩の優しいところでもある。
特に何か買うというわけではないし、何か特別ほしいものがあるわけでもないが、ついて来たいというなら別に私たちが皐月さんを拒む理由もなく、結局、私たちは三人でまた街を歩き始めた。
ただ、やはりというか、流行にも女性関係にも詳しい皐月さんは、連れていると服やアクセサリー選びにもわりと意見をくれて、しかもどこの売り子だよと言いたくなるくらいには勧め方もうまく、危うく私も先輩も必要じゃないものを買いそうになった。いや、本当に頼むよ。
そして、黒いスーツをカッコよくカジュアルに着こなすエロいイケメンを連れているとそりゃ目立つのも当たり前で、女性の視線がまあ刺さるわ。
優吾と居ても注目されるが、皐月さんと居てもそうなるのも当然だし、これがボディーガードの誰と居てもそうなるから、最近では気にしないようにしているのだ。私は。
しばらく歩き回った後、駅前の広場で小休憩をはさんでいると、ふと皐月さんが姿を消したと思えば、飲み物を買って戻ってきて、私と先輩に渡してくれる。
何も言わずにこういう気づかいができるあたり、悔しいがやはりさすがだと思う。
「わおっ! ありがとう! それにしても買っちゃったよねぇ。このストール買う気はなかったんだけどなぁ」
先輩は皐月さんから受け取ったアイスコーヒーのストローを食みつつ、いましがた買ったばかりの袋をちらりと見て苦笑いを浮かべる。
「私もこの靴を買う気はなかったんですけどねぇ。本当に、皐月さんてどこの企業の回し者よ」
シンプルなのにデザインがかわいい白のパンプスは、確かに目を引かれて気になっていたんだけどもね。
「二人とも気に入ってたっしょ? 出会ったその時が買い時だって。二人ともセンスがいいから絶対にそれに合うよ、マジで。今度それ身に着けてデートする?」
「ああ、そういうのは間に合ってますんで」
「右に同じ~」
「春ちゃんも美沙さんも俺の扱いに慣れてきていらっしゃる。でも俺って楽しませることにかけては絶対の自信があるんですけどねぇ?」
なんて、にやりと含みのある笑みを見せる皐月さんに、私が呆れた視線を向けると先輩はおかしそうにコロコロと笑って。
「だろうね。だって、今日はわりと楽しかったし」
そう言った。
まあ、それは私も認めますよ。うん。優吾と出かけるのとは大分違う感じだった。だからと言って、私は皐月さんと二人きりでデートをしたいとは思わないがな。
「でしょ? お試しもありじゃない?」
そう機嫌よさそうに先輩に笑みを見せる皐月さんを、先輩はやはりおかしそうに笑って見つめ返し。
「まあ、遊ぶのはいいけどねぇ。でも、やめとくわ」
そう言って、またコーヒーを一口飲み。
「私、真剣に恋もできない臆病な子供に興味はないの」
と、今日の中で一番の笑顔を皐月さんに向けた。
皐月さんはそのまま口を閉じると、きょとんとした目で先輩を見つめ返していて、私はと言えば、本日何度目かの先輩のカッコよさに惚れそうになっていた。
「やだ、先輩。カッコいい」
先輩が男なら間違いなく私から告ってるレベルです。
「だろ? 惚れてもいいのよっ」
なんて、先輩は無邪気に笑った。
翌日、振替休日で休みになった優吾と朝ごはんを食べていると、不意に優吾が何かを思い出したように顔を上げ。
「そう言えば昨日、世良に会ったって?」
要さんか聖君にでも聞いたのか、優吾にそう聞かれて私は頷いた。
「先輩に会ってる時に偶然にね」
「実は昨日仕事の帰りに世良から電話があってね。本人から聞いたんだけど」
「そうなの?」
「先輩って、飲み会の時にあったあの人だよね。川茂美沙さん。飲み会のお礼を渡しに行くって言ってたもんね」
「そうだよ」
さすが優吾。一回しか名前を教えていなくてもすぐに覚えてくれる。
「で、昨日なんかあった?」
「は?」
優吾の言葉に思わず私は首をかしげて見せる。何かってなんだよ? 普通にショッピングして帰っただけだぞ? 特別なことは何もなかった。なかったはずだと訝る私に、優吾も同じような複雑そうな顔で首をかしげながら。
「なんか、世良がおかしなこと言うんだよね」
といった。おかしなこと?
「なに?」
「真剣な恋ってどうやるんだって、いきなり聞いてくるものだからさ。何言ってんだこいつって思ってね」
「んん?」
それって昨日、先輩が帰る少し前に言った言葉だ。なので、大まかにそのことを優吾に教えれば、優吾は何となく納得したような顔をするものの。
「ああ、だからか。え? でも、それって……いやね、おかしいとは思ったんだけど、一応、聞かれたから。真剣に恋をしたいなら、誠実に接しないとダメだってアドバイスはしたんだよ。でも、いや、まさかねぇ?」
と乾いた笑みを浮かべる。私も優吾の言わんとすることに気が付いて、優吾と同じようにまさかと笑った。
「美沙先輩に? いやいや、ないって」
「だよねぇ? あの女好きが恋とかねぇ?」
ないよ、ね?
なんて、私と優吾はしばらく朝食が冷めることも気にせずに悩んでしまった。
恋って、本当に落ちるものだよなぁ……なんて。




