契約の話
壮年のスーツのホテルマンは、このホテルの支配人さんだった。泣きたい。
支配人さんに案内されるまま、エレベーターに乗り最上階へ。案内される場所が最上階ってだけで、もう本当に泣きたい。
目的地にたどり着けば、長く広い廊下を歩かされ、ひときわ開けた場所に出たと思えば、全面ガラス張りの広いホールに押し込められた。
白い壁に青味がかった薄いグリーンの絨毯、クリスタルのシャンデリアが天井からぶら下がり、ガラス張りの窓からは遮るものがない青空が見えた。流石は最上階だ。眼下に広がるビル街がまるで模型のように見える。
あらためて室内に視線を戻せば、あるのは白く立派な巨大テーブルと、高そうな同色の椅子が二十客ほど、なんだここ。どっかの会議室かよ、なんて内心突っ込みつつ。
「優吾さん」
私でも優吾君でもない女性の声に、私の視線は自然とそちらへ向いていた。
この広い室内に居て違和感は全くなく、でも存在感だけはバッチリある中年の女性が一人、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
年の頃は四十代から五十代の間だろうか。細身で色は白く、黒髪を頭の上で綺麗にまとめていて、クリーム色の趣味の良いスーツ姿に、思わず見るからにセレブチックだなぁ、と言う感想が頭に浮かぶ。
切れ長の瞳はどこか冷たさを滲ませてはいても、真面目で威厳ある何かを感じさせる。
化粧はとてもナチュラルで、装飾品もゴテゴテ飾り付けていないのに華やかで、本当の大人の女性が持つ美しさを体現しているというか、簡単に言えば、私はこんな美人は初めて見た。
「母さん、遅くなってしまってすみません」
優吾君はそう言いながら、私を引っ張りつつ『母』と呼んだ人に近づいていく。
てか、あの美人さんが母親かっ!? マジでっ!? あーでも、よく見ればどことなく似てるかも。こう全体的な顔のつくりとか、雰囲気とか。
そんなことを考えていれば、女性が私と優吾君の前で足を止めて。
「ほんの十分程度ですよ」
そう言って柔らかく微笑んで見せる顔は、間違いなく優しげな母親のそれだった。
(美人はどんな顔しても美人だわぁ)
なんて、見惚れてる場合でもないぞ私。
「でも驚いたわ。まさか本当に連れて来るなんて、私、あなたの嘘だと思ったのよ?」
優吾君のお母さんはそう言うと、私に視線を向けてくすくすと笑う。
何のことを話してるんだろうか? と、優吾君をちらりと横目で伺えば、彼も胡散臭い顔で微笑みを浮かべていて、なんだかこの二人が親子だと、妙に納得してしまえた。
「酷いですよ母さん。僕が嘘をつくはずないじゃありませんか」
「ふふふっ。ええ、そうでしょうね」
そう言って互いに笑いあう親子だが、第三者の私には薄ら寒いものが背中を這いずるんですけどね。気のせいかしらね?
(なんにしても、似た者親子ってか……なんか、とんでもないことに巻き込まれたような気もするんだよなぁ)
そう思って、二人に気づかれないように私が溜め息を吐き出したところで、先ほどの支配人がナイスなタイミングでお茶を持ってきてくれたおかげで、ひとまず私たちは席に着きお茶を飲みながら話をすることに……。
「――自己紹介がまだでしたね。私は狛百合 奏と言います。優吾の母です」
そう言うと、優吾君の母、奏さんは私に笑顔で軽く頭を下げて見せる。その動作はいちいち優雅に見えるから不思議だ。
「はじめまして。私は宮島春乃です。待ち合わせに遅れてしまって本当に申し訳ありません」
ひとまず、私は自分のコミュニケーション能力をフル稼働させて、この場を乗り切るために気合を入れる。
そもそも知り合って三時間くらいの間柄、優吾君のことについて私が語れることなど一つもない。それをどう誤魔化すかが、私の腕の見せ所でもある。
てか、なんで私がこんな苦労しなきゃいけないのか謎だけども。
私が謝罪と同じように頭を軽く下げて見せれば、奏さんは小さく笑って見せた。
「かまいませんよ。恋人の母親と初めて会うとなれば、緊張の一つもするものです。支度に手間取ってしまったのでしょう? 私にも覚えがありますわ」
「そ、そう言っていただけて恐縮です」
なんとなくだけど、私、絶対に奏さんには勝てない気がする。色んな意味で。顔は笑みを浮かべたままなのに、その所作や瞳にもまったく一切の隙がない。まるで私が観察されている気分になるんだけど、なんだこの状況……。
もう帰りたい。と言う思いも込めて優吾君を見つめれば、優吾君は笑顔で私に『駄目です』と無言で圧力をかけてきた。あの眼は絶対にそう言ってる。
「でも当家に嫁いでくださるのが春乃さんのようなかたでよかったわ。優吾さんはほら、ご存じでしょう? 少々変わったところがありますから」
そう言って笑みを深める奏さんの言葉に、私は一瞬何のことだ? と疑問に思ったが。
「それは、前の恋人のお話でしょうか?」
私がそう聞き返せば、奏さんは満足そうに頷いて見せる。
「きちんと話しているのですね。ええそうです。優吾さんの恋愛観は、少々一般的な観点からはずれているでしょう? 『人を愛するのに性別は関係ない』だなんて、許容範囲が広いにもほどがあります。そう思いません?」
ああ、まあ。なるほど、そう言う意味で『今』の恋人は男な訳か……。
奏さんからすれば、男を恋人として連れて来られるよりは、女であるだけ私のほうがマシなんだろうな。
でも私と優吾君は本当の恋人じゃないから、彼がどこの誰と付き合おうが結婚しようが私には全く関係ない話なんですけどねっ!
なーんて、そのまま言えたらどんなに楽なことかっ。言えないんだけど。
でもそうだなぁ。これがマジで自分の恋人だったら――なんか微妙、って言いたい。言えないけどっ。
「確かに、公に広めるのは少々問題かもしれませんが、優吾さんの考え方を否定する気はありません。人を愛すると言う意味では、たぶん優吾さんの考え方も間違いではないと思いますから」
私は苦笑い気味に無難な答えを奏さんへ伝えた。
無難とは言っても、きれいごとではあるし、偽善でもある。人を愛するのに性別は関係あるし、年齢やお金だってからんでくる。そして、きれいごとじゃ人は生きていけない。
でも誰かの考え方を否定できるほど、私は頭の固い人間ではないつもりだ。
優吾君が実はホモの自分を否定されないがためについた嘘であっても、私は別に彼を責めたりはしないだろう。これが本当に自分の恋人であったとしても、私を選んでくれたのなら、彼が今まで誰と付き合ってきたかなんてのは、たいした問題じゃない、とそう思う。
微妙な気分になるのは仕方ないけどなっ!
私の答えに、奏さんは少しだけ目を細めて見せた後、すぐに笑顔を返してくれた。
「昔から人を見る目だけは確かだったけど、今回は本当にいい人を見つけられたようですね」
奏さんはそう言うと、カップの紅茶を一口飲み込んでから、言葉の続きを口にする。
「いいでしょう。春乃さんとの正式な婚約を認めましょう。年齢的にも問題はありませんし、手続きは今日中に済ませ、明日には正式な書類を各家に送っておきます」
「は?」
奏さんの言葉に、私のほうが頭にハテナが浮かんでしまう。
「ありがとうございます」
今の状況に置いてけぼり状態の私をよそに、優吾君が奏さんに笑顔で答えていて、私はますます困惑状態。
「え?」
あの、私を置き去りにしないでもらえます? いったい何なの? マジでちょっと待って、何の話? 正式な婚約? 書類? 何の話をしてるんだこの親子?
「あの、優吾さん?」
状況が呑み込めずに優吾君を見つめれば、彼はにやりと人の悪そうな笑みを顔に浮かべ。
「よかったですね春乃さん。これで僕たちは、正式な婚約者になりましたよ」
「はぁ?」
なに言ってんだこの美形? これも『フリ』なのかっ? そうなんだよなっ!?
「春乃さんに逃げられないためにも、すぐに籍を入れたほうがいいのですが、しばらくの猶予はあげましょう。優吾さん、何とかして見せなさい」
そうピシッという奏さんに。
「必ず」
優吾も背筋を伸ばしてしっかり頷く。
てか、とんでもない親子の会話を聞いている気がする私だが、本気で付いて行けてない。状況がマジで呑み込めないんだけど。
「あの、誰か説明……」
優吾君と奏さんの顔を交互に見る私に、二人は同じようなさわやかな笑顔で返してきて。
「詳しいことは優吾さんに聞いてください。私はあなたが我が狛百合家に嫁いできてくださることを心より歓迎しますよ」
奏さんがそう言ってその場に立ち上がると、奏さんのそばに執事っぽい男性――いつの間に!?――が現れ、奏さんの荷物――てか、ハンドバッグだけど――を持つと。彼女の後ろに付き従う。
奏さんはそのまま出入り口のほうへと歩いて行ってしまうが、まさか、このまま帰る気じゃ……。
「奏さんっ?」
私は慌てて席から立ち上がり奏さんを呼び止めるも、奏さんはいったん足を止めてこちらを振り返り。
「次にお会いするときは、ぜひ『お母様』と呼んでいただけると嬉しいわ」
そう一言。満足そうな笑顔で吐き捨てると、今度こそ執事とともに部屋を出て行ってしまった。
残された私はと言うと、なんだかよくわからないけど、呆然として、なんか気が抜けて、椅子にストンと落っこちるように座りなおした。
(あれ? これって、ただの『フリ』よね? 今日だけ婚約者の『フリ』をすれば、それで終わりな話だったわよね?)
だって初めから、優吾君はそう言ってたじゃないか。
今日だけ。協力すればそれでチャラ。そう言ったわよね?
「今、あんたのお母さん、『次』って言った?」
「言いましたね」
「婚約者の『フリ』だけすればいいって、言ったわよね?」
「確かに言いました」
「じゃあ、なんで『正式』とか『書類』とか、訳の分からない言葉があんたの母親から飛び出したのか――」
私は自分の言葉にふつふつと何かが湧き上がり、その場に勢いよく立ち上がると、無意識に美形男の胸倉をひっつかみ、両目をかっぴらいて睨み下ろしていた。
「説明してもらおうじゃねぇか」
騙されたとは言うまい。私だって優吾君の口車に乗って、人を騙す手伝いをしたのだ。自分のことを棚に上げて、誰かを責めるのはお門違いだろう。
でも、協力を頼んでおいて何一つ説明をしないってのは、ルール違反じゃないのか? と言いたいのだ、私はっ!
「一応、僕はウソをついてないよ?」
「あぁ?」
柄の悪くなった私の反応にも動じることなく、優吾君は胸倉をつかんでいる私の手にそっと触れて。
「きちんと説明をしますから、落ち着いてお話しませんか? 春乃さん」
「説明を聞いてキレた場合。あんたの横っ面を殴り飛ばしてもいいなら聞く」
じっとりと睨んで優吾君にそう告げる私に。
「その時は好きなだけ僕を殴り飛ばしていただいて構いません」
そう言って、完璧な笑顔のまま頷いて見せた。
仕方ない。ここは私もひとまず落ち着こう。
私は優吾君の胸倉から手をはなすと、鼻息を飛ばしつつ椅子に腰を下ろした。
「それで?」
そう私が言葉を促せば、彼は軽く自分の胸元を直しながら、私に顔を向けた。
「まず、グチグチ説明するよりも先に、僕の本当の目的を伝えます。説明はその後に」
優吾君は言葉通りの潔さで、真っ直ぐな瞳を私に向けて一拍置くと言葉を続ける。
「僕の目的は『契約結婚』です」
「契約結婚?」
彼の言葉をオウム返しすれば、彼はまた頷いてため息を一つ。
「車の中でお話した通り、僕には恋人がいます。春乃さんに説明した話は全部本当のことです」
「ああ、ホモはガチなのね。それで?」
「僕は恋人と一緒に居たい。でも、僕の立場上、僕の我がままで結婚しない、と言う選択は出来ない」
「つまり、旧家の跡取りってのも本当のことってわけね」
「はい……実際、このまま結婚もせず、子供も作らないとなれば、一族総出で僕の恋人を排除しにかかるでしょう」
優吾君はそう言うと、悔しそうな、それでいて悲しそうな顔を見せた。
「排除ってのは穏やかじゃないね」
「そうですね。でも、本家の跡取りと言うだけで、責任重大なんです。血を絶やすことは許されない。僕自身、僕の代で一族を危機にさらすことは本意じゃない」
「なるほど。それで『契約』なんて、自分勝手で我がままな方法を思いついたと。そういうわけ?」
「――はい」
やっぱり殴りたい。
「そもそも契約と言うからには、双方の合意が必要なんじゃないの? それを自分は恋人と別れたくないからって勝手に他人を巻き込むのはルール違反。違う?」
「その通りだと思います。でも、僕にも時間がなかった」
「それが言い訳になるとでも?」
私がそう言って冷めた目を向ければ、優吾君は自嘲気味に笑って首を横に振った。
そりゃそうだろう。だって、彼の言ってることは、彼の都合でだけ成り立っている事情だ。私には一切関係のない話だし、彼や彼の恋人、彼の一族がどうなろうと、私は一向に被害もなく、痛みもない。
本当なら、ここで私が彼の事情を聞いてやる義理さえないのだ。
「あのさぁ。なんで赤の他人を巻き込もうとしたの? 旧家の跡取りなら、結婚相手には困らないでしょうに。それこそ、契約結婚をスムーズに進められそうな人くらい居そうじゃない」
ため息交じりにそう言えば、優吾君は諦めたようにゆっくりと首を横に振って見せる。
「僕の家は、まあ、なんというか、それなりに名の知れた一族なので、寄ってくる女性というのも、それなりと言いますか」
「あー。うん。なんか想像はできる」
私は大きなため息を吐き出しつつ、机に頬杖をついて見せた。
私が見た限りでも優吾君の家はかなりの金持だと思う。高級車に私のドレスや装飾品を五分とかからず買い揃えるところとか、高級ホテルの最上階を用意したり、ホテルの支配人が名前を覚えていたり、執事がいたり。
私のような一般的な感覚からはかなり遠い存在っぽいのはうかがえるし、彼は濁しているけど、どうやら『狛百合家』と言うのは、旧家と言うだけじゃなく、それなりに権力を持っている家なのかもしれない。
そうなってくると、そんな彼に近づいてくるような女性は、その名前か、お金か、あるいはその両方が目当てな人が多いんだろう。
一見、そう言う人のほうが契約を交わすには向いてそうに思うかもしれないが、彼が渋っている時点で多分無理なんだろうな。
その理由も説明してもらうまでもない。
「どっかのお嬢様相手だと、結局は今の恋人と別れる羽目になるってことでしょ?」
これは彼の見た目も大きな原因の一つだと思う。
「その通りです。良くも悪くも良家の子女と言うのはプライドも高いですからね。僕の提示する契約内容を快く了承するとは思えません。それどころか、僕と恋人の邪魔をしてくるようなご令嬢ばかりでしょうから」
「はっ。それはご愁傷様」
これだけ造形が完璧な男と結婚すれば、当然、女としてこの男に愛されたいと思うのだろうし、それがプライドの高い女性であれば尚のこと、男に負けることなど屈辱でしかありえないってわけだ。
「だからこそ、僕には春乃さんのような方が必要なんですっ」
優吾君は少々力強く語尾を吐くと、突然、私の右手を握りしめ、私を引っ張るように自分のほうへ向けさせる。
「恋人もなく、結婚もしていないし、結婚に夢も希望も持っていない。見た目のいい男を目の前にしても簡単に恋をしない。考え方は柔軟でしっかりしていて、何よりも優しい」
「それはアンタから見た私の評価なわけ? やっぱりディスってるでしょ。むしろ自分にとって都合のいい人間だって言われて笑顔で協力してやるほど、私はバカでもお人好しでもないんですけどねぇ?」
喧嘩売られてるのだけは分かる。この野郎、ちょっと顔がいいからって、人に舐めた口ききやがって、とだんだん腹の立ってくる私に。
「確かに、春乃さんは僕にとって都合のいい人です。でも逆に考えてください。あなたにとっても、僕は都合のいい人間になれる」
力強くそう言いきられて、私は両目を見開いた。
「なにそれ」
私にとっても都合がいいって、どういう意味よ?
「あなたは欲深い人じゃない。だからこそ、僕にとって都合がいい。でも逆に言えば、あなたの我がままや散財程度では、家が傾くようなことはないってことです」
「ああ、つまり金持ちってところをアピールな訳ね」
「それもあなたにとって有益な情報のはずです。僕の求めるものは多くない。聞くだけ聞いてくれませんか?」
「なに?」
私がしぶしぶ了承の態度を見せれば、優吾君はパッと明るい顔を見せた。その笑顔が腹立たしいが。
「僕と結婚したら離婚はできません。体裁もあるんですが、それ以上に本家の人間は模範でなくてはならないと言う家訓があるからです」
「んな面倒くせぇ家訓なんぞ犬に食わせちまえっ!」
「そして、必ず僕との間に子供は一人以上生んでもらわなくてはならない。本家の跡取りとしての義務ですから」
「それはまあ、納得できる」
そもそもそれが原因で、こんな契約結婚の話が出てるくらいだしな。
「それに、人前では夫婦ごっこはしてもらわなくてはいけません」
「仲良し夫婦を演じるわけね。アホくさ」
「後は、僕と恋人のことには一切かかわらないこと。これが僕の求める条件です」
「へぇ。それで? 見返りは?」
「あなたは何をしてもかまいません。好きなだけ趣味に没頭してかまいませんし、欲しいものを好きなだけ買ってかまいません。愛人もいいでしょう。離婚しませんのでそのへんだけ割り切っていただければ」
なんか無茶苦茶なこと言われてるんだけど……これが契約内容かよ。驚くを通り越して私は心底呆れてしまう。
「僕のために食事を作る必要はありませんし、一般的な専業主婦がやるような仕事は一切しなくてかまいません。全部使用人がやってくれます。あなたを抱くこともない。子供を作る時も病院で処置をします」
「なるほど」
「そのかわり、僕はあなたを全力で守ります。家族として、大切にし、愛します」
ここに来て、家族として愛するだと……。
「僕は、あなたなら愛せる」
そう言いきった優吾君の瞳は、どこまでも真っ直ぐに私の瞳を貫いていた。
前回が短すぎで今回は長すぎです。
うまく切りのいいところが見つからなかったので、申し訳ない。
次回からは週一投稿となります。