心底、帰りたいと思いました。
空にはきらめく星と月、黒い海から聞こえるさざ波の音と、白い月の光を反射して水面が光の粒を生み出しては消えていく。
潮風が海のにおいを運び、さらりと足を撫でる白い砂浜は淡い光の中で微かに発光しているようにさえ見えた。
暑い地方独特の木々やにおいに幻想的な雰囲気が重なり、まるで異国的情緒を思わせる。
「――けど、真夏なだけあって外に出ると暑くてロマンも何も感じやしねぇ」
いや、日はとっくに落ちてるっていうのに、暑さが尋常じゃない。真夏の沖縄舐めてたわ。
海風が吹いてるおかげでやや涼しさを感じるものの、夏特有の熱気は夜になってもさほど昼と変わらない。まあ痛い日差しがないだけずっとマシではあるのだけど。
優吾と砂浜をしばらく歩き、良い感じのベンチを見つけたのでそこに腰を下ろした私の第一声はやはり色気からは程遠い言葉だった。
だって、本当に暑いんだから仕方ない。お酒も入っているからなおのこと暑く感じるのかもしれないが。
「残念なのは春乃の感性じゃないの?」
「喧嘩売ってんの?」
と笑顔で隣の優吾を見上げれば、優吾はすねたような顔で私にじっとりと恨みがましい目を向けてきた。んだよ。仕方ないいじゃんか。暑いんだもんっ。
「そりゃ売りたくもなるよ。場所的なお膳立ては十分でしょ? 海と夜空だよ? 綺麗じゃない? なんで風景や雰囲気をぶち壊す言葉をチョイスするかなぁ?」
んなこと言われても。
「暑いもんは暑いんだもん。私暑いの苦手だし、そりゃこの南国っぽい雰囲気は素敵だと思うし、こうエキゾチックな感じもあるけどさぁ――」
相手がお前じゃなぁ。とは思っても言わないけど。こういう時こそ西園君と二人でイチャコラしてればよいと思うの、私。
「ここには親族もいるんだからね? きちんとしてくれないと困るんだけど?」
そういってさらに目を細めると、優吾はぐっと私に顔を近づけて不満をそのまま顔に浮かべて私を要らむが、喧嘩を売られている私としては、今にも頭突きをくらわされるのではないかと気が気じゃない。
少なくとも、本気で優吾と肉体言語で語り合う気は私にはないんだけど、まあそっちが望むなら、こちらも相応に――。
「ねぇ……婚約してるっていうことは、現在進行形で僕たちは恋人同士でもあるんだけど? わかってる?」
優吾は囁くようにそう言うと、私の頭の後ろに手をまわして、私の後ろ髪をいじり始めた。
「汗かいてるからあんまりいじらない方がいいと思うけど」
「はぁ~。あのさぁ、もう少しの脳みそを切り替えてくれないかなぁ? それともわざと?」
優吾はがっくりと頭を下げて大きくため息を吐き出した――かと思えば突然、優吾は下げた頭を持ち上げて、私の後頭部あたりにあった手に力を入れ、私の頭を自分の方へと引き寄せた。
あまりにも急で、びっくりした私はとっさに両腕を突き出して優吾の胸を押さえていた。それがつっかえ棒の役目を果たし、私と優吾の顔が衝突するのは何とか避けられたようだ。
あっぶねぇ。そこまで警戒しているつもりはなかったけど、咄嗟に腕が動いてくれて助かった。
「頭突きは痛いと思うのね」
「その発想からして違うからね? たくっ、面倒くさい女だなぁ」
そんな優吾のセリフにイラっとして顔を上げた私だけど、私が文句を言う前に空いていた優吾の手が、彼の胸を押さえていた私の手首をつかみ、強く引かれたと思えば私の後頭部あたりにあったもう片方の手も、私を包むように背中から肩へと回されて、片腕だけじゃ優吾の力には勝てなくて――。
文句と罵声を吐き出そうと中途半端に開いた私の口に、噛みつくように優吾が上から私の口をふさいだ。
優吾の一連の動きに右往左往していたこっちが間抜けにも半開き状態だった唇の間を、優吾の舌がするりと簡単に私の口内に侵入する。今さら口を閉じようにも深くまで彼に侵入を許してしまったあとではもう遅い。
逃げようともがくもがっちりと抑え込まれて動けない始末。
かろうじて彼の胸にこのされたもう片方の手で彼の胸を叩いてみるが、体がほぼ密着している状態では彼に強打を与えることなどできはしない。
息つく暇もないほどに深く唇をふさがれて、我が物顔で私の中で暴れる彼に噛みついてやりたくなる。苦しいんだってばっ。
でも、決して乱暴ではなくて、ぬるりとした感触が動き回るたびに、まるでこちらの『いいところ』を探るように這いまわり、こっちが『やばい』と思う所を探し当ててくる。ねっとりと絡み合い、ぴちゃりと跳ねる水音を私の耳が拾うたび、羞恥で頭がおかしくなりそうだった。
キスをするのが初めてでもないし、優吾とキスをしたのもこれが初めてというわけではないけど……なんだこれ? キスってこんな激しく求められるものだっけ?
こんな、息苦しいものだっけ?
今まで付き合った人たちとだって、キスも、それ以上も求め合ったし、別にそれが良くなかったわけじゃない。きちんと相手も私を思ってくれていたはずで、だから互いを求めあったし、それなりの快楽だって得ていたはずだ。
でも、優吾のキスは、そういう今までのとは違う何かがあった。キスなんて、あいさつ程度って言ってたくせに、お酒や外気の温度とはまるで違う『熱』で、のぼせてしまいそうだ。
キスだけなのに。キスって、こんなに、気持ちのいいものだっ――け?
いやいや待て私。何を悠長に今の状況を堪能してるんだ?
キスの良し悪しやらなんやらは今どうでもいいじゃないかっ。何を素直に受け入れようとしてんだよ。
(半分ぐらい無抵抗だったのはこのさい置いておく)
確かに酔うほどお酒は飲んでないかもしれないが、判断能力が低下するほどには酒が入っているのは間違いない。私だけじゃなくて優吾も。
そうじゃなきゃ、今この状況はおかしすぎる。
そもそもなんで、こんな……てか、いつまで人に食いついてる気だこの野郎っ。
確かに契約では恋人であり夫婦であることは間違いないが、こんなことを許した覚えもなければ、こんなことをする契約も交わした覚えはないっ。
でも私がいくらもがこうと、しっかりホールドされた状態では抵抗は無意味でしかなく、いい加減に苦しいので話せという意味も込めてもう一度、優吾の胸を叩けば、彼はしぶしぶという感じでやっと私からゆっくりと離れていく。
離れたことで見える互いの顔、お酒のせいなのか、それとも今の行為のせいなのか、優吾の熱を帯びる瞳が私を写し揺れていた。
そして、そんな彼の瞳に映る私に――私はイラっとした。
互いにじっと見つめあう私と優吾だが、たぶん、互いの心の距離はマリアナ海溝よりも深く遠い場所に存在して近づくことも不可能になっていることだろう。
だがそんな私たちの心の距離に気が付いていない優吾は、私の頬にやさしく触れると、私の名前を優し気に囁き、また私に顔を近づけてくる――って、マジでふざけんなっ。
一回目は私も悪い。避けなかったことも、拒否しなかったことも、私自身が悪いと反省しよう。
でも二回目は許さんっ!
私は優吾の手を払いのけると、そのまま自分の手のひらで思い切り優吾の顔面を抑えつけた。優吾から「いたっ」という声と、バチンという小気味よい音もしたが、全然気にしない。
「調子に乗るなよ、おい」
私はできる限りの低音ボイスを自分から絞り出しながら、抑え込んだ優吾の顔面をさらに後ろへと押し続ける。
「ちょ、痛いっ。春乃っ」
「一回目は酒の影響ってことで見逃してやるが、これ以降は本気で暴力に訴えるぞ」
「すでに暴力的な解決を試みようとしてるよっ!?」
「馬鹿言うな。まだ何もしてない」
したのはむしろお前だろ。
「いやいやいや倒れるっ! それ以上押されると倒れるからっ」
「そのまま倒れてベンチから落ちてしまえばいい。ついでに頭から砂浜に突っ込めば私の気が晴れるわ」
「勘弁してよっ」
「チッ!」
仕方ない。と、私はひとまず優吾の顔から手をどかし、ベンチにきちんと座りなおした。
ふーっと、ほっとしたような顔の優吾にまたイラっと来たが、ここはいったん落ち着こうぜ私。
あまり飲んでいなかったのもあったが、今のひと悶着のせいなのかアルコールが少し抜けてきたように思う。そういえば――。
「さっき、お前人のことめんどくせぇ女だとか抜かしたな?」
そういって優吾をにらめば、彼は両目を丸くして「はぁ~」と、またため息一つ。
「だってそうだろ? どう考えてもそういう雰囲気を作ったつもりなんだけど? わざと知らないふりでもしてるみたいでさ。ノリ悪いっていうか」
「ああ、やっぱりぶっ飛ばされたいんですか。そうですか」
こぶしを握り締めて笑顔で立ち上がろうとする私に、優吾は慌てて私の両腕をつかむと無理やり座らせた。
「女の子が暴力はだめでしょ? 言い方が悪かったよ。少しくらい意識してほしかったんだ」
「意味が分かりません」
「わかるでしょ? ボケた間抜けじゃないんだから」
そりゃそうだ。ここまで用意されたら意図が分からないはずはない。でも、私が言いたいのはそういうことじゃないんだよ。
「あんたの行動の理由がわからないって言ってんだよ。私たちの関係って何?」
契約上の関係を、お前は自らぶち壊そうとしてるんだってこと、きちんと理解してる?
「春乃の言いたいことはわかってるよ。わかってるけど、自分の気持ちは誤魔化せないだろ?」
優吾はそういうと、私の手を強く握りしめる。
優吾の言葉に、私はあまりにもびっくりしすぎてすぐに言葉を返せなかった。
それはあまりにも急な『告白』で。
私は優吾の手を振り払うと、ベンチから立ち上がって来た道を戻ろうと足を進めるが、すぐに優吾が追いかけてきて、私の肩をつかんで私を自分の方へと振り向かせた。
「まって、話を――」
「黙ってっ。今のは聞かなかったことにする」
「春乃っ。僕は――」
「黙れ。お前のせいでいったい何人の人間が振り回されてるか、自覚がないわけじゃないだろうが」
言っていいここと悪いことがある。そもそも、その心変わりが一番まずいことだって自覚がなさすぎる。
「聞いてっ。別に圭介への気持ちがなくなったわけじゃないんだ。ただ、春乃に惹かれている自分に、僕自身、戸惑ってもいる……」
「二股ってんだぞ。そういうの」
「そんなつもりはないし、きちんと決着はつける。でも、事務的な今の僕たちの関係が、僕は嫌なんだ」
「そういうわがままが通ると思ってんの? 少なくとも、私はお前なんて好きにならない」
中途半端っていうのは一番性質が悪い。
どっちも好き? どっちとも関係を壊したくない? ふざけるのもいい加減にしろっ。
自分だけのモノにならない男に興味はない。
私は優吾を無視してさらに来た道を戻ろうとしたが、優吾もすぐに私の手首をつかんできて私を引き留める。
「春乃だって、自分に嘘、ついてるでしょ?」
「は?」
何言ってんだこいつ。
私はいつでも自分の欲望に忠実だコノヤロー。
「君だって僕に惹かれてるでしょ?」
「は?」
誰が誰に? 冗談でしょ? こいつ馬鹿じゃないの?
「そもそも私は年下に興味ないし、他人の恋人に手を出す趣味もないっ! お前とは契約上の関係であってそれ以上の関係にはならないし、望んでもいないっ!」
大体、今の状況で優吾がどんな言葉を吐き出したところで信用はまるでない。
他人を巻き込んでまで一緒にいたいと願う相手がいて、その人物とうまくいかないからって、ちょっと優しくされたからって、そんな簡単に変わるような気持ちなら、初めから無くていいだろ。そんなもん。
「嘘が下手だね。だって、感じたでしょ? 僕を」
優吾はそういうと、自分の唇に人差し指を添え、艶っぽい怪しい笑みを顔に浮かべた。
その瞬間、私は先ほどの優吾とのキスを思い出し、全身から火が出そうなほど熱くなった。
羞恥からなのか、怒りからなのか、もうわけがわからず頭の中がぐちゃぐちゃになる。
ただ一つ言えるのは……。
「うるせぇっ!! 馬鹿っ!!」
激しく求められれば、誰だって勘違いしそうになってしまうものだということだ。
愛されているかもしれないだなんて錯覚、現実を突きつけられた瞬間に、傷つくだけじゃないか。
どうせ、私は一人だ。
今までも、そして――これからも……。
だが優吾、貴様はゆるさんっ!!
私はぐっとこぶしを握り締めると、迷わず渾身の力を振り絞り優吾の腹に納得の一発をお見舞いしてやった。さすがに優吾も予想していなかったようで、私の渾身の一撃がきれいに決まる。
「不意打ちは、卑怯っ」
言ってろ。
優吾は自分のお腹を押さえつつその場にうずくまるが、それとほぼ間を置かずして。
「きゃーっ! 優吾お兄様っ!?」
と言う、少女の悲鳴が砂浜にこだました。
悲鳴の聞こえた方に私が振り返れば、目を丸くしてこちらを見ていた少女、櫻子ちゃんと、青い顔でこちらに駆け寄ってくるもう一人の少女、園子ちゃんの姿が……あら。今の見られちゃったか。
こちらに駆け寄ってきた園子ちゃんは、うずくまる優吾のそばに腰を落とし、青い顔でしきりに優吾の心配をしていたと思えば、私をぎろりとにらみ上げ。
「なんて野蛮なっ。女性がこぶしを握るなんてっ! だから、あなたのような人を駒百合に入れるのは反対だといったのですっ! 身の程を知りなさいっ!」
と言われてしまった。
ああ、もう。帰りたい。
誤字脱字が目立ちますが、直してるはずなのに。
本人が気が付いていないことも多いです。
余裕があれば直したいとは思っています。
本人が気が付いたら……。
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