美影とレッスン
気が付けばすでに二ヵ月が経っている。優吾と知り合ってから五ヶ月だ。本当に時間が経つのは早いものだなぁ、なんてしみじみ。
優吾は現在お仕事中である。私はと言うと、昨日の話でも出た通り、ダンスレッスンのために要さんと本家に来ていた。
今は雅臣さんもお仕事で本家にはいないし、奏さんは友人とお出かけ中とのこと。
現在の本家で、今一番の権力があるのって私だ。なんてこったい。
「――離れにホールがございますので、ダンスレッスンはそこで行っていただくことになります。優吾様のご帰宅予定時間が本日の六時過ぎと伺っておりますので、合わせた練習はそれ以降に予定しておりますが、問題はございませんでしょうか?」
そう言って、私の少し前を先導する要さんに、私は問題なしです、と返してアホほど広い庭を歩く。
本邸の中庭からまばらに敷かれた石畳の道をたどり、林――個人の家の敷地内に林だとか森があること自体がおかしい――の間を通り抜けるてしばらく進むと、小さな池――と言っても、不忍池より明らかに広いけど――が見えてくる。
池を横断するように架けられた朱色の橋を渡りながら、脇目に池を眺めればたくさんの魚が泳いでいた。黒っぽいのも居るが、赤や白、金色のものまで見えるから、たぶん鯉だろうと思う。
きっとお高い魚だろうな、こいつら。
さらに池から要さんの後に続いて十分も歩けば、目的地であるドーム状の建物が見えてくる。
遠目から見て、屋根部分のドームはガラス張りだった。
建物の壁は白に、青いタイルが使われた少し古さを感じさせるつくりをしている。あれって、もしかすると明治だとか大正だとかに作られたものだろうか? デザイン的にもそう言われるとしっくりくる感じは受ける。
だけどしっかり管理はされているんだろう。アンティークという言葉が似合うデザインに、汚れのない白さは今日の天気に照らされてまぶしいほど光って見えた。
建物を囲むように見える照葉樹林がバランスよく配置され、まるで一枚の絵画でも見ているような完成されたデザインは、まさに圧巻である。
「綺麗な場所ですね」
一言、感想を述べるならそれだった。
建物の前に来ていったん足を止めた要さんの後ろからそう私がもらせば、要さんは私に振り返り、柔らかく両目を細め私を見下ろしていた。相変わらず無表情ではあるけど。
「ありがとうございます。庭師や大工が喜びます」
そう言って要さんは軽く頭を下げて見せた後、建物の扉の前に立ちドアノブに手をかける。木で作られた扉は両開きで、椿の花が彫られていて、扉には金色の縁取りがされていた。
要さんが扉を開けて私を中に通し、自分も中に入ると扉を静かに閉じる。
室内は外から見るよりも広く感じた。ガラス張りの天井まで吹き抜けで、とくに部屋らしい場所も扉も見えないが、外から見た時にはわからなかったが、私が来た方向とは逆側に廊下が見えるから、あっちにはまた別の部屋があるのかもしれない。
それにしても、こうして全体を見た限りでは、部屋と言うよりダンスホールとか天体観測所とか、そんな名称が似合いそうではある。とにかくだだっ広い。
壁には一定間隔で取り付けられたランプ型の照明、少し高い位置に丸みのある窓がバランスよく並ぶ。本当に中も外もセンスのいい建物だと感心する。
見上げれば想像した通り、天井を仰げばガラス張りの向こうに青い空が見え、電気はついていないはずなのに、上空から差す光が室内を昼間のように照らしている。夜にはきっと、美しい星空を眺めることができるだろう。
「お待ちしておりました、春乃様」
建物を思う存分眺めていた私の耳に、要さんとは違う男性の声が聞こえて、私は天井から視線を声の聞こえたほうへと向ける。
先ほど見た廊下があったほうから歩いて来る男性――男性? に、思わず私は目が点になった。いや、だって……。
「春乃様、これが朱雀院当主、美影でございます」
そう要さんにも紹介されたので、この人が美影で間違いないだろう、が、この人、本当に男か?
背は高い。要さんの頭半分ほど低いが、それでも私より十分高い。肩幅やら体格も要さんよりやや細身程度だから、そこまで細くはないはずなんだけど……。
線が細いって言えばいいのか、とにかく朱雀院美影という人物は、儚さと言うか、可憐さと言うか、女性っぽい印象を受けた。
全体的のラインがとにかく細い印象を受けたのだ。
いや、まあ、ぶっちゃけ美形だ。きっと残りの錦玄武家、虎白楼家の当主もアホほどイケメンなんだろう。うん。
ものすごく肌が白く、自前なのか髪も目も赤みの強い茶色をしていて、おまけに髪が長い。胸の上くらいだろうか。毛先にちょっと癖があるみたいで、くるっと丸みがある。
顔の造りもどちらかと言うと女っぽい。まつ毛長いし、たれ目気味な瞳が余計に女っぽい上に、唇はぷるっぷるだ。絶対グロス塗ってるだろ、あれは。
要さんと同じような黒スーツなのに、ここまで印象が違うものなのかなんて、ちょっと唖然とする私に。
「だから、もう少し男らしを意識しろと言ったんだ」
と要さんが大きなため息を吐き出した。
「え? 普段どおりがいいに決まってるじゃない。下手に作って誤解されるのは嫌だわ」
そう言って笑う美影さんに、思わず。
「オネェなの?」
と聞いてしまった私は悪くないと思う。
そんな私に、要さんはやはり盛大なため息を吐き出し、当の美影さんは可愛らしいくころころと笑う。
「昔からこういう感じでしたから、よくきかれますし間違われることもありますが、私は女性が好きですよ。恋をするのも女性だけです。むしろ男に言い寄られると虫唾が走りますので、性癖はノーマルですわ」
「そう、ですか」
さり気に女性が好きとか言いやがったが、ノーマルではあるらしい。
「普段から美影はこうですが、決して気を許してはいけません。春乃様が望めば何でもしますので……ええ、本当に何でも」
そう言って視線を横に流す要さんに、いったい何をどうする気なんだと問いたくなる。なんでもって、何をどこまでだよっ。そのへん詳しく教えてよっ。マジでっ!
「主の望みを叶えるのが従者の務めですもの、添い寝から暗殺まで何でもですわ」
そう言って可愛らしく笑う美影さんの顔には、無邪気さしかなかった。怖っ!?
衝撃の出会いは、一度忘れる方向で。
ひとまず、私はお昼の準備をするという要さんを見送ってから、美影さんとダンスレッスンを始めた。
彼の教え方は本当に優しいので、ちょっとくすぐったさを覚えるほどだ。
まあ、厳しいのは苦手なので助かるっちゃ助かるけど……これで上達できるんだろうか?
「――まずは基本からですね。優吾様もダンスは大変得意でいらっしゃいますから、春乃様は合わせた足運びさへ覚えてしまえばよろしいかと思います。本格的に覚えるのはパーティー以降でも問題はないでしょう」
そう体を動かしながら美影さんに説明されるが、そんな説明聞こえちゃいねぇっ。
美影さんの動きについて行くので精一杯で、私は全く優雅な足運びなんざ出来ない。滑るように動く美影さんの足に、私がたたらを踏んで追いかけて、転ばないように必死にしがみ付くのでいっぱいいっぱいなのだ。
おかげで美影さんの足を踏みそうになり、回避しようとこけそうになること十数回、そのたびに美影さんが私を抱きしめ、腕を引き、腰を支え、一先ず横転だけは免れているが。
「ダンスって難しい……」
私は器用なほうでもないから、余計にそう思うのかもしれない。
「ですが、転ぶ回数は減ってきましたよ」
「それって、上達してるとは違う気もするんですけど」
「必死にしがみついて来てくださる春乃様が愛らしくて仕方ありません」
「私、遊ばれてるっ!?」
二時間みっちり練習したあと、美影さんに十分の休憩をもらい、美影さんが用意してくれたアイスティーをチビチビ飲みながら、休憩室で一休み。
建物の横に見えた廊下の先に、ガラス張りの休憩室と、テラスもあった。
「それにしても、なんか本当にセンスの欠片もなくてすみません」
アイスティーをストローですすりながら、上達の兆しが見えない自分にちょっと落ち込む私に、終始笑顔の美影さんは楽しそうに笑う。
「それっぽく見えればよいのです。今時、社交ダンスをたしなむご家庭は少ないのですから。それに私は役得ですもの。春乃様にはずっと上達していただかなくともいいほどですわ」
「いや、それはそれで優吾がかわいそうな気が」
「優吾様なら、なんだかんだ言ってもそれっぽく見せてしまえますよ。私は春乃様が面倒でやりたくないというのであれば、無理に覚える必要はないと思っております」
そう笑顔でやらなくていいといわれると、それもまたそれで複雑だ。
「それこそ甘えだね。自分の義務を果たさないのは出来ないよりも怠惰だよ」
私は初めから出来ないとか言いたくないのだ。これはプライドの問題でもある。
出来ることは頑張りたいのだ、と私がストローを食めば、美影さんはくすくすと笑い、私の向かいに腰を下ろすとテーブルに頬杖をついて私を見つめた。
「努力しようとする女性はやっぱり素敵ですね。どうせ浮気をするのでしたら、私にしておきませんか?」
なんて突然、美影さんに笑顔で言われ、私は飲んでいたアイスティーを吹き出しそうになった。今ゴフッって咳き込んだよ。
「いや、どうなんだろう。それ」
微妙に返事に困ることを言いおってからに。
「契約内容は四家当主がみんな知っていますし、恋人のいる優吾様に操を立てるおつもりはないのでしょう? いずれ寂しさを埋める相手をお探しになるくらいでしたら、手近で済ませれば色々と安全ですよ」
そう言いつつ、自分の髪を指に絡ませながら美影さんは両目を細めて怪しく微笑んで見せた。
その色気ときたら、女性っぽいと思った彼が見せるにはあまりにも男性的で、あからさまに危険な香りを漂わせている。こんな顔で誘われたら、普通にコロッと落ちてしまいそうだな。
そう思ったら、ああなるほど、美影さんってのは確かに女好きなわけだ、と納得した。
でも色々と安全と言う美影さんの言葉はわかる。
側近としてそばに居る相手だから、少なくとも美影さんが本気になってしまう可能性は低く、駆け落ちよろしく逃げだす心配はないし、一緒に出掛けても周りからおかしく思われない、ボディーガードとしても誰よりもそばに居れるからより安全であるのは間違いともいえる。
確かにいろいろ都合はいいんだろうな……そうは思うが。
「さすがに身内に手を出せるほど図太くなれそうもないな、私」
私は美影さんにそう苦笑いを返した。
今のところ男に興味がないのも事実だけど、それ以上に将来の旦那様の近しい関係者と、肉体関係を持つ間柄になるのはなんか嫌だ。
それにもっと大事なことって、あるんじゃないかと思う。
「私は貴女の忠実な道具にすぎません。道具を使うのに呵責を感じる人はいないでしょう」
美影さんは甘く誘うような声色で言うが、そう簡単に割り切れるなら、きっと人はもっと感情を切り離して物事を決められるんだろうな。そう思うと、ちょっとだけおかしく思う。
「美影さんみたいなステキな人に誘われるってのは悪い気しないけど、そこに感情がないなら道具よりも使い勝手が悪いかもしれないね」
そう私が笑って答えれば、美影さんは目を丸くして見せた。
「感情って切り離せないから厄介でさ、寂しさを埋めるためだけに体を慰めてもむなしいだけでしょ? 私は感情の伴わない関係に傷つくことはあっても癒されない。そんな関係は絶対に嫌だよ」
愛のないエッチが嫌だとか、青臭いことを言うつもりはない。肉体的快楽に溺れる人がいるのも事実だし。
ただ、そこに相手を思う感情、それが愛でなくとも、相手を思いやり労わりたいと思う感情がなければ、やはり嫌だと思うのだ。
「気持ちよくなるなら、心ごとじゃないと無意味じゃない?」
私はそう思うのだ。契約結婚しようとしてるやつが何言ってんだかと思われるかもしれないが。
「そうですね」
美影さんはそう言うと、優しげに両目を細め。
「そんな貴女を、私は敬愛します」
そう言って無邪気に笑った。
順調、順調? まあ、とにかくダンスレッスンを始めてほぼ一日。こりゃ明日は筋肉痛になって酷いだろうなぁ。なんて、一人明日に怯えつつ、気が付けば優吾が現れたことによって、既に六時を過ぎているのだと気が付いた。
ああ、一日があっという間に終わっていく。
「少しは上達した?」
なんて優吾に聞かれても。
「知るか」
としか私は答えようがない。
「足を踏むことはないとは思われますが、やはりすぐというわけにはいきません」
そう言って、美影さんが私のすぐ後ろに控えて優吾に少しだけ頭を下げて見せた。
「一日、二日でどうにかなるなら今頃になって慌ててないもんね。本番に間に合えばそれでいいから、引き続き頼むね、美影」
「はい」
美影さんの返事に頷いて、優吾が私に手を差し出す。
なんだこの手、お手でもしてほしいのか? とじっと優吾の手を見つめる私に、優吾はさらに手を伸ばして私の右手を掴み、私を引っ張ってホールの中央へと向かう。
「音楽がないけど、一回通してみようか」
そう言うと優吾は私の正面に立って腰に手を置き、私の左手を持つように添える。
「今日一日練習してたから足が痛いんですけど」
「本番のことも考えると、僕とも練習してくれないと困るんだけどね」
そう苦笑いされてしまったので仕方ない。私は美影さんに教わった通り、優吾の腕に手を添えて、背筋を伸ばす。
だが足運びは期待しないでいただきたい。すでに教えてもらった半分も頭には残っていないのだ。
「ゆっくりでいいから」
優吾がそう言って合図をするので、私もひとまず一緒に動いてみる。右足を出して、左足を引いて、優吾に合わせて体を引いて――って、足がついて来ないっ。
「うわっ!」
「あっ」
という間に、私が足をもつれさせて優吾を巻き込み転倒。
でも私には思った以上の衝撃はない。
倒れた私の下から優吾の「いてて」という声が聞こえ、慌てて上半身を起こせば案の定、私は優吾を下敷きに倒れてしまって、思い切り優吾が背中か頭かを打ったようだった。だから疲れてるって言ったのに。
「ごめん。足がついて来なかった」
私の腰に両腕を回して、優吾は「はぁ」と息を吐き出してから私を見上げる。
「こっちこそごめんね。僕が無理に誘ったから――」
優吾はそう言うと、言葉を途中で飲み込んでしまったのか、口をすっと閉じて私を見ていた。なんだ? 頭とか背中以外にも、どこか強打したんだろうか?
「大丈夫? どっか強く打った?」
ちょっと心配になってきた。成人した大人が思い切り上に乗ったんだし、打ち所が悪くて骨折なんてことになったら、なんてことまで頭をよぎる、が――。
優吾の腕が私の腰をがっちりホールドしていて、一向に離れる気配がないことに私は少々訝しい気持になる。
「あのさ。いいかげんに腰、離してくんない。起き上がれないんだけど」
「ああ、うん」
そう返事はくれるのだが、優吾は一向に私の腰に回した両腕を離そうとしない。
「おい」
いいかげんにしろと眉間にしわが寄る私に、優吾は「うん」と返事をするくせに離そうとはせず、しまいには背中にも腕を回したと思えば、ぎゅっと強く抱きしめてきた。
なんだってんだよっ。
「優吾?」
「うん。分かってるんだけど……なんか、いい匂いだし」
「シャンプー、コンディショナー、ボディーソープはお前と同じだろうがっ」
「うん。あったかいし、柔らかいし……」
「女だし、生きてるからねっ」
なんなんだこいつ。
少々困惑する私なんざ気にも留めず、優吾はお構いなしに私の後頭部に手を回すと、私の頭を抱える様に抑え込んで私の首元に顔を埋める。
「ちょ、何してんだテメェっ」
優吾の使っている香水の香りが私の鼻腔をくすぐる。
常々思っていたが、優吾の香水は本当にいい香りだなぁと思う、が、ちっがーう! 今はそれのことじゃなくて、なんで私は抱きしめられてるんだってことが問題なのだ。
首元にかかる優吾の息もくすぐったい。いいかげんに離れろっ。
「春乃って、抱きしめると気持ちいいね」
「浮気ダメ絶対っ! 西園君にチクるぞっ!」
「うーん。それは困る。けど、もう少しだけ……あ」
優吾は何かに気が付いたかのように声を漏らすと、慌てて私を抱きしめたまま上半身を起こしてその場に座る。
おかげで私は優吾の膝の上に座っている状態だ。
「なんなのよっ」
「うん。やばい……春乃って、胸大きいよね。今気が付いた」
「もう本当に離してくれるっ! てか、私に触らないでくれるっ!」
「下半身に来た……」
「要さーんっ!! 助けてぇっ!!」
本当によくよく思い出せば、優吾って別にゲイでもホモでもない。むしろ両方オッケーのバイなのだ。
半泣き状態の私に、要さんと美影さんが慌てて救出に来てくれて、優吾もなぜか渋々私を解放し、何とか事なきを得た……と、思われるんだが……。
なんだっていきなり改めて再認識されないといけないんだか、本当に優吾って性質の悪いことこの上なしだっ!! お前は西園君と一生イチャイチャしてればいいんだよっ!




