のんびりゲームをする暇もない。
春もそろそろ終わりそうな曇り空。今にも泣き出しそうな重たい雲を眺めながら、個人ルームにこもって早半日。土曜日のけだるい午後が始まったばかりだ。
もこもこの肌触りがお気に入りの座椅子に体を預け、私はヘッドホンから流れる声に集中していた。
耳に心地よいテノール。その吐息までもが色気を帯び、私の耳を刺激する。
そして、こういうのだ。
『お前を愛してる。お前は俺だけのものだ――』
(きゃー!! 私はアッシュのモノよー!!)
と、心の中で悶え中。
いや、すまん。ちょっとテンションがおかしなことになっているが、気にしないでもらいたい。
先々週に買った乙女ゲームをただいま攻略中なのだ。
要さんは本家に行っていない――パーティーのことでいろいろ打ち合わせがあるらしい――し、優吾もお仕事中。
まさに、今は私の自由時間である。
午前中いっぱいを使い、なんとか二人を攻略して、やっと三人目のエンディングを迎えた私は、まさに感無量なのだ。
大きなテレビ画面には、有名絵師様による美麗なスチルがでかでかと映し出され、これまた有名声優様の甘い声に、自分の体がクラゲになったような気分を味わっていた。これぞ骨抜き! なんてな。
(あー幸せだわぁ。買ってよかったわ。これ)
にやにやとだらしない顔をしているだろう自分。だが、それを指摘するものなど――。
「締まりない顔」
居やがったっ!?
私の耳の後ろから人の息がかかり、音の途切れたヘッドフォンの隙間から、明らかに機械を通したのとは違う声が聞こえて、私は体が飛び跳ねた。
びっくりしたなんてものじゃないっ。
心臓が口から飛び出して、踊り出すんじゃないかと思ったほどだっ。
乱暴にヘッドフォンを外して急いで振り返れば、そこには、私の視線に合わせるように腰を落とした優吾が、ニコニコというよりニヤニヤに近い顔で笑みを浮かべ、私の顔を見つめているところだった。
「こ、な、おまっ」
その無駄に綺麗な顔が腹立たしいが、あまりにも驚きすぎてとっさに声が出なかったのだから、なんて間抜けな話だっていうね。
はぁ、本当に驚いた。
「一応、声もかけたしノックもしたんだよ? でも返事がないからさ、寝てるだけならいいけど、倒れてたら困るでしょ?」
そう言って首を横に倒す優吾に、私は早速、文句を吐き出すタイミングをつぶされてしまった。
「あーもう。そうですね。お帰り」
タイミングを逃してしまったからには、もう私に言えることはそれだけなのだ。
「ただいま。ゲームしてるところ悪いけど、いったん休憩してもらっていい? 話があるんだ」
「んー? 話?」
「うん。僕も着替えてからリビング行くから、春乃もリビングに来て」
「りょーかい」
優吾は私の返事に笑顔で返し、部屋を出て行った。
私もそれを見送った後、スタッフロールが終わっている画面に目を向け、セーブをしてからゲームの電源を落としてテレビを消した。
個人ルームから出てさっさとリビングへ向かい、私はそのままキッチンへ行くと、二人分のお茶を用意して、リビングのソファーへと持って行く。
私がソファーに腰を下ろしてお茶に手を伸ばしたところで、優吾もリビングに現れた。
一応、優吾にもお茶をすすめて、私は早速お茶を飲み始める。暖かい緑茶はなんだかほっとするから不思議だ。
「話って?」
優吾が私の右側にある一人掛けのソファーに腰を下ろしたのを見届けて、私からそう話を切り出せば、優吾は一口お茶を飲んでから、「そうそう」と湯呑をテーブルの上に置く。
「来週に、会場の下見に行くことになったから」
「わかった」
即座に頷いた私に、優吾はうっすら笑みを顔に浮かべたまま、言葉はそれで終わってしまった。そして、私と優吾は何を言うでもなく見つめ合う。
てか、話はそれだけなんだろうか? だったら、私はまた部屋に戻ってゲームを再開したいのだが、と思っていれば。
「――質問とかないの?」
そう聞かれ、私は首をかしげてしまう。
質問も何も、目的がはっきりしているのに、何を質問することがるんだろうか?
「いや別に。会場って、婚約パーティーのでしょ? それの下見なら、とくに聞きたいこともないけど」
おかしなことを聞く奴だ。
私は両肩をすくめて見せて、お茶をまたすする。
「いや、色々あるでしょ? 何をしに行くとか」
目を丸くした優吾がそう私に詰め寄ってくるが、とくに聞きたいことはねぇって言ってるだろうが。
「会場の下見なんて当日の打合せみたいなものでしょ。あいさつの順番だとか、どうやって会場に入るとか、そう言う細かな打ち合わじゃないの? 大体、招待客はすでに決まってるし、会場もそこで出される料理も全て本家が決めてるんじゃないわけ? 今さら私が何を口挟むことがあるっての? せいぜい私がやることと言えば、人の顔と名前覚えるくらいでしょうが。それについても要さんがそばについてくれるって言うから問題ないはずだし、それで質問って、逆に何を聞いたらいいのか教えてくれる?」
私は一気にそう言うと、お茶をずずっとすする。
本当に今さらな話ではないだろうか。
実のところ、婚約パーティーが開かれると聞いて以降、私と優吾以外がめちゃくちゃ忙しない。詳しい日にちを聞いてないから、多分パーティーがもうすぐなんだろうなぁ、程度の認識しか私にはない。
詳しい日にちを聞かなくても、数日前には教えてくれるだろうと思うし。
だがここに来て会場の下見と言うからには、もう最終確認しかないだろう。前日の確認は多分、狛百合の側近四家のどっかが念入りにやるだろうし。
そもそも何も教えられてない私が、パーティーのことで口出しができるところなんて一つもない。むしろ、全部準備されて何一つ意見を聞かれなかった私に、下見の必要すらあるのか疑問に思うところだ。
前日に会場の地図でも見せてもらって、必要な部分だけ教えてもらえればそれで済みそうな話である。
「なんか、自分の選んだ将来の奥さんが、僕が思っているよりずっと頼りがいのある人だってことは十分に分かったよ。でもさ、少しくらい不満や緊張を僕に漏らしてくれてもいいんだよ?」
優吾はそう言うと、少しだけ面白くなさそうな顔を見せて、口先をとがらせる。子供か。
「優吾が頼られたいらしいことは分かった。でもね。頼ってほしいなら私が頼れるような男になってから言うんだな」
と鼻で笑ってやれば、優吾はさらに口先をとがらせ頬を膨らませると、完全に拗ねた顔で私をじとりと睨み上げてくる。
その顔の迫力のなさと言ったら、もうおかしくて爆笑ものだ。
「春乃は男心ってものを分かってないなぁ」
「ああ、だから結婚できないんだよね。って、うるせぇよ」
「何にも言ってないじゃん。それに、僕の奥さんになる予定でしょ?」
「そうだった。あくまでお飾りのな」
私がそう言ってニヤリと笑ってやれば、優吾は拗ねた顔のままいじけて見せる。面白いやつだなこいつ。
「そこはあえて言わなくてもいいじゃないか」
「本当のことでしょーが」
どうオブラートに包もうと、形だけというのは変わりようもない事実なんだから、別に拗ねることでもいじけることでもないだろうに。契約結婚を自分から持ちかけてるんだってことを忘れてんじゃないかこいつ。なんてちょっと呆れてしまう。
「そうだけど……あ、確認しておかないといけないこともあったんだ」
いじけた装いもどっかにすっ飛ばして、優吾は普通に私へ顔を向けると。
「春乃って、ダンスとかできる?」
「わけないよねぇ?」
「だよね」
そう言って優吾は苦笑いを見せるが、そりゃそうだよねと一人で納得して何度も頷き、お茶をすすりつつまた口を開く。
「今回は立食形式だからテーブルマナーは気にしないでいいんだけど、社交ダンスがあってさ、出来れば外したかったんだけど、母さんがねぇ」
ため息を吐きつつ、優吾はお茶を飲みほした。
「社交ダンスとか、パートナーの足を踏む未来しか見えない」
「うん。その被害を受けるのは僕だけだろうけどね」
失念していた、と優吾はソファーに腰を深く沈めて前髪をかき上げて見せる。そんな彼を横目に、私もため息をこぼしてみた。
外国のパーティーでもあるまいに社交ダンスて、これだから旧家は……と思わず愚痴りたくもなる。
「アラサー女が即興で覚えられると思うなよ。影武者でも用意するんだな」
言っておくが、私はダンスの話なんて一切聞いてない。お飾りなら、本気で優吾の後ろにくっついて金魚の糞でもしてればいいだろうが、さすがにダンスと言われてしまうと無理だ。どう頑張っても一朝一夕で出来ることじゃない。
要さんに教わるにしても、優吾や雅臣さん、あるいは奏さんに教えてもらうにしても、形になるのは数ヵ月後がやっとか。こうなると影武者でも用意したほうが絶対に早い。
「パーティーのどの段階で影武者を出す気でいるの? 顔見せの場なのに、影武者が使えるわけないないでしょ」
なんて呆れた顔を見せる優吾だが。
「いや、軽く影武者が出せる前提ってことに驚きを隠せないよ、私は」
むしろ私にはそっちのほうが驚きだよ。なんだよ影武者って、どっかの殿様か。
「そう? 僕との婚約が決まった時点で候補が五人は居るけどね」
「マジかっ! え、ってことは、端から影武者使えば問題なくない?」
私マジ天才! と思って優吾に笑って見せれば、優吾は呆れた顔で首を横に振った。
「だから、顔見せの場だって言ってるでしょうが。大体、母さんが絶対に許してくれないよ、それは」
「あー、うん。奏さんにダメって言われるなら諦める」
いい考えだと思ったんだけどなぁ。奏さんには決して逆らってはいけないと、私の勘がそう言っている。
どっちにしろ、やらなきゃいけないのは仕方ないけど、本当に狛百合家って私の常識から遥か上に外れるよなぁ。
「あまり時間はないけど、練習するしかないよ。リードは僕に任せてくれればいいから、せめて足を踏まないようにだけでも練習しよう」
「わかった……でも、優吾が仕事の時は?」
「ああ見えて要はダンスが苦手だから、美影に頼んでおくよ」
要さんってなんでも器用にこなすイメージがあったけど、あの人でも苦手なものってあるのか。なんて別のことに意識が向きそうになるが、私の知らない名前が出てきたぞ今。
「うん。狛百合家の関係者ってことはわかるんだけど、美影さんってどちら様?」
「ああ、そっか。要以外とはまだ会ってないんだっけ、美影は朱雀院の現当主」
出たよ、狛百合側近四家の一つ。いつか出るだろうなとは思っていたけど、意外に早いご登場だったな。でも美影って名前からして女っぽい?
「ふーん。でもこっちの都合で急に呼び出しても平気なの? ほぼ私のせいな気もするんだけど」
「聞き忘れた上に伝え忘れた僕にも責任があるから、それに朱雀院はもともと当主の妻に仕えるのが仕事だから、気にしないで平気」
「ん? ってことは、美影さんってのは奏さんにくっついてるってことか」
「ああ、違うよ。母さんのそばに仕えてるのは朱雀院の前当主。初めてホテルで母さんとあった時に見たでしょ?」
優吾にそう言われて、そう言えば奏さんの後ろに付き従う紳士を見たな、と言うことを思い出した。あの人、執事さんじゃなくて、朱雀院の前当主さんだったのか。
「春乃と婚約した時点で美影が春乃付きになるはずなんだけど、美影ってとにかく女性のどんな小さな我がままも聞いちゃうからさ、教育係には向いてないんだ」
優吾はどことなく面白くなさそうな顔でそう言った。
「だから教育係として要さんにお鉢が回って来ちゃった感じか」
名前の感じからして女性かと思ったんだけど……。
「ねぇ、優吾。美影さんって、男?」
「そうだよ。と言うか、側近四家の当主は代々男って決まってるんだ」
「そうなの?」
「昔からね。別に絶対男じゃなきゃ駄目ってことじゃなくて、なぜか昔から女子の出生率が異常に低いのが理由の一つでもあるんだけど、側近四家の主な仕事の一つにボディーガードが含まれてるから、どうしても男が当主に選ばれるんだよ。同じだけ訓練を積んでも、女性と男性では力の差ってのが出ちゃうでしょ?」
確かに、男性と女性ではそもそも肉体構造が違う。女性が駄目というより、より優秀な人間をってことになると、必要な能力を持つ者が選ばれるわけで、自ずと男ばかりになったというだけの話なんだろう。
女性が男並みの筋力をつけようとすると、そりゃもう大変なことにはなるだろう。見た目的にも。
「とりあえず、美影に連絡入れておくから、ダンスの練習も明日から頑張ろうね」
笑顔で優吾にそう言われて、私も仕方なく頷いて見せるしかなかった。




