奴隷一
「う……ん?」
気が付くと、僕は雑草の中に寝そべっていた。
青臭さが鼻を衝き、葉に溜まった水滴が頬を濡らす。
不快感に顔をしかめて体を起こすと、すぐ後ろが鬱蒼とした森であり、目の前には洞窟があるということがわかった。
いや、なにがわかっただ?
「……僕は、死んだんじゃ……」
思わずつぶやいて、全身をまさぐった。
痛いところもなければ、『体が冷たいっ?』なんてこともない。あれだけ派手に吐血したというのに、制服は新品そのものだった。
生きている。
あれは夢だったのか?
いやいや、夢と言うならこれが夢だろう。あれのほうがよっぽどリアリティがある。
いつか殺されるとか思ってたし、痛かったし。
とりあえず頬をつねってみた。
「……痛い」
夢かどうか確かめるための正式な儀式。これによれば、夢ではないということになる。
でも、だとしたらここはどこなんだ?
――がさがさっ。
「……っ!?」
背後、森からの不審な音に振り返る。
そこにいたのは巨大な二足歩行の豚だった。
しかし肌の色は気色の悪い緑色で、象徴的な豚鼻が無ければそうとは判断できなかっただろう。
手に木でできた棍棒を持ち、ふがふがと荒い鼻息を立てている姿は、どこか見覚えのあるものだ。
「……まさか、オーク?」
「ぶぉおおおっ!!」
僕の疑問に答えるかのように、オークは雄叫びを上げてこちらへ迫ってきた。
やばい、逃げないと!
頭の中で思う前に、体は動いていた。
直後、爆撃音のような音を立てて棍棒が地面にたたきつけられた。
数瞬前まで僕がいた場所だった。
「うそ、だろ……?」
たった一振りで小さなクレーターができていた。
とんでもない破壊力だ。
いじめっ子のパンチとは、それこそ次元が違う。一撃で死んでしまうだろう。
オークがこちらをにらんできた。
やばい。これは本格的にやばい。
わかってはいるが、体が動かない。
「ぶぉっぶぉ……」
近づいてくる。
だめだ、逃げ切れない。
振り上げられる棍棒を見て、僕は来る衝撃に備え、せめてもと両腕で頭を抱えた。
その時、
「オークだっ!!」
「この豚がぁっ!!」
「やっちまえっ!!」
大勢の男の声が響いた。
金属音と、何かを殴打する音が飛び交い、オークの声と男たちの威勢のいい声がぶつかり合う。
戦っているのか?
顔を上げると、斧を持った男の一撃がオークの胴体を切り裂くのが目に入ってきた。
鮮血が飛び散り、オークが崩れ落ちていく。
「ぶぉおおおっ……」
最後に弱弱しく断末魔を上げ、オークは死んだようだった。
それに続くようにして、男たちの歓声が沸き起こる。
「さっすがお頭!!」
「たかがオークごときで騒いでんじゃねえ!」
そう言う髭面の巨漢は、まんざらでもなさそうに笑っている。
普通ならここで『命を救ってくださりありがとうございました』と言うんだろう。
だが、僕はそんな愚行犯さない。
こいつらは危険だと、長年いじめられることで培われた危機察知センサーが告げている。
こいつらはあいつらと同じ、いや、もっと危険だ。
三十六計逃げるに如かず。
僕は逃げ出したが、すぐに回り込まれてしまった。
「おいおい、お礼も無しにどこへ行く気だ?」
下っ端らしき痩せた男が、にやにやしながら見下ろしてくる。
僕にやれることは頭を下げることだけだった。
「た、助けてくださり、ありがとうございました」
「お頭、こいつどうします?」
聞いちゃいない。
「ふん、ずいぶんな優男じゃねえか。こりゃ高値で売れるぜ」
「売る!? ちょっ……」
信じられない言葉に思わず反論しようとした瞬間、後頭部に衝撃が走り、僕は意識を失った。
気が付くと、僕は薄暗い牢獄にいた。
何の薬か知らないが、覚醒してはそれを飲まされて気絶させられていたから、ここに至るまでのことはほとんど覚えていない。
けれどとにかく、あばた面の太った中年に買い取られてここにいるということ、そしてそいつが、信じがたいことに奴隷商だったということは覚えている。
で、服をこの茶色いただの布に変えられて、ここにぶち込まれた。
いや、何を冷静に……奴隷商だって!?
「うそ……ちょっと待ってよ!!」
叫んで、勢いよく跳ね起きた。
「うるせえぞ新入り!!」
「イタッ!!」
背後からすごく低い怒鳴り声が浴びせられ、僕の頭には拳が振り落とされた。
振り返るとそこには数人の男がいた。
みんなにやにやと、すごく意地の悪い笑みを浮かべている。
――いじめられる。
好感度なセンサーが、即座に告げてくる。
こいつらはいじめる側、捕食者だ。
餓えた獣のように、自分より弱く、鬱憤を晴らすのにちょうどいい存在を求めている。
男の中でひときわ大きく、ガタイのいいやつが顔を近づけてきて、笑った。
こいつが猿山のボスだな、なんて現実逃避をしてしまうほど、怖い笑みだ。
「通過儀礼だ」
「ぐぅっ!!」
腹にめり込んだのは、城島のものとは比べ物にならない、強力な拳だった。
体が一瞬宙に浮き、僕はたまらず腹を抱えて、ごつごつした地面の上を転げまわる。
「一発で落ちてんじゃねえぞっ!!」
「ぐっ!!」
「おら立てよっ!!」
「ぎゃっ!!」
一発一発が、まるで同じ人間とは思えない力で、瞬く間に意識が薄れていくのを感じる。
また、死んじゃう。
強く頭に浮かんだのはそんな言葉だった。
その時、唐突に攻撃が止んだ。
後ろ髪をひかれ、顔を引き上げられる。
「うぅ……ぅ……」
「ここでは階級制が絶対だ、文句があるなら言ってみろ」
猿山のボスがガンをつけながら脅迫してくる。
その目は『言ったらお前死ぬよ?』と言外に伝えてきていた。
なら聞くんじゃねえよ。
なんて思ったが、そんなこと言えるはずもない。
僕はただ、弱弱しく、小刻みに首を縦に振るしかなかった。
「いいだろう」
「ぐっ!?」
ボスは僕の髪の毛を離すと、一番ぼろい服を着た、いかにも序列が低そうな青年の方を向いた。
「おいっ!! その服脱いでこいつに渡せ!!」
「へ、へいっ!!」
ボスの言葉に過剰なほど反応して、弾かれたようにあせあせと服を脱ぎ始める。
「てめえもだよっ!!」
「ぐぅっ!?」
それを見ていたら、なぜか軽く蹴飛ばされた。
どうやら僕も脱がないといけないらしい。
くそっ、こいつらみたいな下等なやつの考え、僕にわかるはずないだろ。
なんて毒づきながら、服を脱ぐ。
それをボスが取り上げた。
「ふん、ちょっと小せぇがいいだろう」
「……あ、ありがとう、ございま……」
「さっさと着ろっ!!」
「ぐっ!!」
いちいち攻撃しなくちゃ話を進められないのかよ。
僕は急いで、汗と垢でツンとした刺激臭を放つボロ衣を頭の上から被った。
虫食いだらけのボロ衣を被ると、僕は引きずられ、壁を隔てて反対側にある水場に連れてこられた。さっきのダメージのせいで、ろくに歩けもしなかったのだ。
井戸、だろうか。
たぶんここで水浴びするのだろう。
すぐ近くにはトイレもあり、とんでもない異臭を放っている。
「座れ」
「はぃ」
おとなしく指示に従う。
もちろん正座だ。この状況であぐらとかかけるやつはこの世に存在しない。
ボスは、改めて僕の方へ顔を寄せてきた。
口臭が目に沁みるほど臭い。
「そこがお前の居場所だ。一ミリでも動いたらどうなるか、わかってるな?」
「は……ぃ……」
声が出ないほど怖い。
それでもかろうじて返事をすると、ボスは僕から離れ、柄杓を使って水をかけてきた。
「冷たっ!!」
そして何も言わず、去って行った。
いったいどれくらいの時間が経っただろう。
獄内は不思議な橙色の明かりで包まれているので、昼夜の区別すらつかない。
あれから定期的に入れ替わり男がやってきて、水をかけて暴力振るっては出ていった。
今まで最低序列だったであろう青年は、とくに暴力がひどかった。まるでこれまでの鬱憤を晴らすがごとくだ。
でも、そんなことは問題じゃなかった。
寒い。
そう、寒いのだ。最初は意味の分からなかった水かけが、ここへきて猛威を振るいつつある。
これは江戸時代によくあったって聞く、獄内でのいじめだ。なんかの漫画で読んだことがある。
けどこれは、いじめのレベルを超えている。寝れば死ぬだろうということが、なんとなくわかった。
「くそ……」
ぽつりとこぼす。
ここは、異世界だ。
そんな妄言めいた非現実的なことを、何をトチ狂ったのか、僕は確信している。
オーク、盗賊、そして奴隷……そういうのが存在する世界に来てしまったんだ。
原因は分からないし、根拠もない。
でもとにかく、ここは異世界で、僕は小説の主人公のように召喚されてしまった。
それなのに、
「なんで……」
それなのになんで、僕はまたいじめられているのだろうか。
一度死んだというのに、これじゃあの世界にいたころと何にも変わらないじゃないか。
普通ならここから大冒険があってしかるべき状況なのに、そんな気配は微塵もない。
「……っ」
あぁ、これはまずい。
こみ上げてきたものによって、鼻の奥がツンと刺激され、不自然に目じりが熱を帯びた。
これはよくない。
表面上は屈していても、心までは屈しない。あんな屑どもに泣かされたら、それは負けを認めるのと同じだ。
ずっとそう思ってきたのに、そして死ぬ思いをしても守り通したのに、今度ばかりはどうにもダメらしい。
自分を肯定できる最後の砦。
崩れれば、あの青年のようにどこまでも堕ちていくだけだとわかっていた。
でも……もう……。
――カタ。
かすかな足音に、僕は我に返った。
また水かけか。せめて暴力がなければいいな。
気力を振り絞り、わざと軽く考えることでなんとか決壊を防ぎ、顔を上げた。
浮かび上がるようにしてそこにいたのは、幽霊だった。
「……え?」
ゆらゆらとはかなげに揺れ、こちらへゆっくりと近づいてくる。
手入れのされていないバサバサの髪の毛は、しかしきれいな銀の光沢を失っていない。
顔を伏せていているため、妖怪のように垂れ下がっている。
手足は透けるように青白く、美しさを通り越して不気味だ。そして病的に細い。
背は低くないが、それが異常な細さを際立たせている。
幻影と見間違うほどに希薄だ。
存在感や生気がほとんど感じられない。
「……こほっ」
咳?
一瞬頭が真っ白になって、たぶん数秒間、下手したらそれ以上に凝視した挙句、我に返る。
今この子、咳をした。
それによく見れば足があるし、かすかにだけど生気も感じられる。
幽霊じゃなくて、幽霊のような少女だ。
こんな子いたのか。自分のことに精いっぱいで、気づかなかった。
近づいてくる。
そして目の前まできて――
「え?」
何が起きたのだろう?
本当に不意を突かれると何も考えられないんだ。なんて感心して、次の瞬間状況を理解する。
僕は少女に抱かれている。
ほとんど質量を感じない。
空洞なんじゃないかと錯覚するほどに軽く、そして頼りない体だった。
薄いボロ布越しだからか、密着しているからか、その体つきやラインがしっかりと伝わってきた。
しかし、性的なものは一切感じられない。
温かさも、かすかだ。
この子の体は、ほとんど骨と皮だけだった。
「……こほっ。ごめ、んなさい……」
「え?」
蚊の鳴くような声だった。
かすれていてしかも細く、耳元で言われないと聞き取れなかっただろう。
「……わたし……臭いし、醜いし、硬いから……こほっ。これが、精一杯……なんです」
言われて気づいた。
確かに臭い。
トイレの臭いとは別の、ツンとした刺激臭だ。この子は病気なんだろうな。
「……こほっ……すみ、ません……でも、温まるまで、我慢して、ください……こほっ……」
「いやっ、我慢とか……」
不意に、目頭が熱くなった。
「……っ?」
奥底のこわばりが、ゆるやかに溶けていくのを感じる。熱い何かが込み上げてくるのを抑えられない。
なんだ、これ?
意味がわからない。
理性的な疑問はしかし、感情の波には逆らえなかった。
気が付くと、涙が頬を伝っていた。