三匹の子豚のカツ丼定食 その1
ぼくがシャンボールにいったのは夏休みに入る少し前だった。
白猫のような建物、おかしな店員たち、そして、忘れもしないあの料理。ああ……思いだしただけでお腹が減ってくる。
ねえ、きみ? きみは、もうお昼ごはんは食べたかな? もし、食べていないのなら、ぼくは、今日、きみが食べるランチを当てることができるよ。
どうして、そんなことができるかって? だって、ぼくがシャンボールにいった話を聞けば、きみは絶対にカツ丼を食べたくなるからさ。
* * * *
七月一七日。その日は、七月で一番熱い日だった。気温は三十七℃。S町から水分という水分が全部、蒸発するかと思ったよ。
さて……本題に入る前に、少しぼくの自己紹介をしておくよ。ぼくの名前は辻黒亜門。西小学校に通う六年生だ。趣味は童話を書くこととプラモデルをつくること。好きなスポーツは――おっと、いまはそんなことはどうでもいいな。好きな番組も音楽もいまはあとまわしだ。
いま、ぼくがきみに知ってもらいたいのは、ぼくの体型のことだ。正直な話、名前と体型だけ覚えてくれれば、あとのことは忘れてくれてもかまわないよ。
ぼくは太ってるんだ。とても太ってるんだ。友達の中には、ぼくのことを〝ブーもん〟って呼ぶやつもいる。でも、ぼくは太っていることを、まったく恥じちゃいない。
ぼくが世界で一番好きなことは〝ものを食べる〟ことだ。これはぼくにとっての一番の幸せだ。だから、太ってるってことは、それだけ多くの幸せな体験をしてきたってことだ。ほかの人より幸せをたくさん経験してきたから太ってるんだ。幸せの詰まった腹を恥じる必要なんかない。むしろ、強みといってもいいぐらいだ。(就職面接のときは、こいつを長所にしようかな?)
お腹を揺らしながら教室に入ると、数人の生徒が頭を押さえながら話していた。
「おはよう」
かばんを机の上に置くと、ぼくは野々村大悟に話しかけた。あいつの大きな鼻の穴が、いつもより、ふたまわりほど小さく見えた。きっと、ショックな出来事があったんだろうな。
「おお……おはよう」
「どうしたんだよ。元気ないじゃん?」
「まあな……。おまえは見なかったのか?」
「何を?」
「夢だよ」
「夢?」
夢なら見たよ。ハンバーガーのベッドで眠る夢さ。肉汁たっぷりのミートパティとドロドロに溶けたチーズの布団が最高に気持ちよかったんだ。あのまま、夢の世界で眠っていたら、危うく遅刻するところだったよ。
「ブーもんは猫の夢を見なかったのか?」
男子のひとりがたずねた。猫の夢? いったい、なんの話だろう?
「猫の夢って、なんだよ?」
「猫に追われる夢さ。シャンボールに肝試しにいこうとすると、町じゅうの猫がおれたちを追いかけまわすんだ」
「その夢を、おれたち全員が見たのさ。同じ夢をだぜ? こんなことってあると思うか?」
「もしかして、シャンボールの呪いかな……」
男子のひとりが頭をかきながら、大きなため息をついた。
シャンボールの噂ならぼくも知っている。シャンボールは学問でつくった料理を食べさせてくれるレストランだ。
シャンボールは父さんや母さんが子どものころからあるレストランだ。だけど、シャンボールは、ずっと馬淵丘の上に建っていたわけじゃないんだ。二十年前に一度、姿を消しているんだ。雪の降る日に突然、建物自体が消えてしまったんだ。そして、つい二年前に、また同じ場所に戻ってきたんだ。これも雪の降る日にね。
不思議なレストラン、シャンボール。でも、不思議なのはそれだけじゃない。シャンボールはレストランなのに、いつも「closed」の看板がかかっていて店に入ることができないんだ。ぼくも一度、教科書を持って訪れたことがあるけど、やっぱり店は閉まっていたよ。
「なあ、肝試しは中止にしようぜ」
野々村が集まった男子にいった。反対する人はひとりもいない。みんな、首を縦にふった。
夢を見たのは男子だけじゃなかった。肝試しに参加する予定だった女子もまた、猫に追われる悪夢を見たみたいだ。結局、肝試しは参加する人がいなくなって中止になったよ。
「猫に追われる夢か……。弓香ちゃんは見た?」
一時間目は自習だった。ぼくは先生のいない教室で隣の席の本郷弓香ちゃんにたずねた。
「そんなの見るわけないでしょう」
弓香ちゃんは算数ドリルに目を向けたまま、ぼくの質問にこたえた。彼女、言葉づかいは荒いし、少々ヒステリックなところもあるけど、根はやさしい子なんだ。ぼくが給食のハンバーグを床に落としてしまったときなんか、隣の席って理由だけで自分のハンバーグを半分もわけてくれたんだ。弓香ちゃんのことを悪くいうやつもいるけど、ぼくは弓香ちゃんの味方だよ。
「シャンボールか。一度でいいから、料理を食べてみたいな」
「そんなこというヒマがあったら、ドリルを一ページでも進めなさい」
弓香ちゃんが手を伸ばして、ぼくの算数ドリルをペンで叩いた。
「ラクして頭がよくなろうとする人がシャンボールにいけるわけないでしょう」
「別に頭がよくなろうなんて思ってないよ。料理は食べて楽しむものだよ。付加価値はいらないんだ。料理さえ食べることができれば、ぼくはそれで満足だよ」
「ふぅん……」
「それに、ぼくは算数や社会が食べたいんじゃない。童話が食べたいんだ。『大きなかぶ』の根菜スープとか『桃太郎』の桃の果汁入りキビ団子とか――」
「『白雪姫』の毒入りアップルパイとか?」
「アップルパイは好きだけど、毒入りはイヤだな。ああ……お腹が減ったな」
「まだ一時間目よ?」
弓香ちゃんは、信じられないといった顔で時計とぼくの顔を交互にながめた。
「ああ……算数ドリルがハンバーガーならなぁ」
「算数はバーガーじゃなくてサンドウィッチよ」
「それ、どういう意味?」
「別に意味なんてないわよ。ほら、わからない問題があるなら、教えてあげるからドリルを進めなさい」
弓香ちゃんは自分のドリルを閉じると、イスを移動させて、ぼくの真向かいに座った。これじゃあ、かばんの中のチョコレートを盗み食いすることはできない。仕方ないや、=(イコール)を野菜スティックだと思って、休み時間まで辛抱しよう。
* * * *
放課後――。帰り道の途中で、給食袋を教室に忘れたことを思いだして、ぼくは慌てて、学校に戻った。
教室では弓香ちゃんが黒板を雑巾で拭いていた。ほかに生徒はいない。弓香ちゃんはひとりで黒板拭きをしていた。
「弓香ちゃん、まだいたの?」
「仕方ないでしょう。だれも黒板をきれいにしようとしないんだから」
弓香ちゃんはイスにあがって、黒板を隅から隅まできれいに拭いている。
「ぼくも手伝うよ」
ほんとうは早く帰って、戸棚のポテトチップスを食べたかった。けど、愚痴ひとつこぼさず黒板拭きをする弓香ちゃんを見ていると、ポテトチップスなんかよりもずっと大切なものが心と体を動かした。
「……ありがとう」
黒板に顔を向けたまま、弓香ちゃんが背中で礼をいった。
黒板を拭きおえると、ぼくは弓香ちゃんと一緒に学校を出た。家も同じ方角だし、その日は弓香ちゃんと一緒に帰ることにした。
「ああ……お腹が空いたな」
「辻黒くん、それ以外の言葉を知らないの?」
「知ってるけど、お腹が空いたときは、これしかいえないんだよ」
ため息をついて顔をあげると、視界のふちにシャンボールの建物が映った。
「シャンボールか……」
――あそこでごはんを食べたいなぁ。そう思った直後に、お腹がグゥゥと悲鳴をあげた。(もしかしたら、ぼくの脳と胃は直結しているのかもしれない。)
「……辻黒くん」
弓香ちゃんは足を止めると、空腹の苦しさに歪むぼくの顔を見つめた。
「シャンボールにいきたい?」
「いきたいけど、招待状を持たずにいったって、あそこには入れないよ」
「知ってるわよ」
それっきり、弓香ちゃんは黙ってしまった。彼女がふたたび口を開いたのは陸橋をわたっているときだった。この陸橋をわたると、ふたりは別々の道に分かれて、家に帰らなくちゃいけない。
「今日、寝る前に白猫の絵を描いて、それを窓にはって」
「あれ? 描くのは黒猫の絵じゃないの?」
「ちがうわよ。描くのは黒猫じゃなくて白猫。それも、とびきり姿勢のいい白猫を描きなさい。わかった?」
「そっか。描くのは白猫なのか。どおりで五回も描いたのに、招待状が届かなかったわけだ」
ぼくは腕を組んで、ひとりでうんうんとうなずいた。そんなぼくを見て、弓香ちゃんは呆れたように肩を落とした。
* * * *
次の日――。
「……ほんとうに届いたよ」
窓に信じられないものがはりつけられていた。それは白い封筒だった。
急いで封筒を破ると、中に入っている招待状に目を通した。招待状には、おかしな文章が書かれていて、左下に猫のスタンプが押されていた。
ぼくは招待状をかばんに入れると、食材――持っていく絵本を選びはじめた。子ども部屋には何十冊という童話の絵本がある。母さんがぼくのために昔、買ってくれたやつだ。
ぼくは本だなの絵本をかたっぱしから床にばらまいて、どれを持っていくか検討することにした。
『青い鳥』のチキンステーキ……おいしそうだけど、食べると幸せがどこかへいってしまいそうだな。
『注文の多いレストラン』の山猫ディナーセット……自分が食べられそうでイヤだな。
ぼくは朝食をとるのも忘れて(今日は土曜日だから学校はない)絵本のページをめくり続けた。
『シンデレラ』のページをめくっているときだった。触ってもないのに、一冊の絵本が本だなから落ちた。それは『三匹の子豚』だった。小さいころ、一番、母さんに読んでもらった絵本だ。
『シンデレラ』をたなに戻すと、ほこりを被った『三匹の子豚』のページをめくった。子豚もオオカミも色あせた世界の中で泣き、そして笑っている。背景、文章、子豚の表情――すべてを鮮明に覚えているのは、やっぱり、一番好きな絵本だったからだろうな。
「……これにしよう」
触れてもないのに本だなから落ちた絵本。一番好きだった絵本。幼稚園の劇で、ぼくが主役(三男の子豚)を務めた物語。運命が、この本をシャンボールに持っていくよう命じているような気がして、ぼくは『三匹の子豚』をかばんに入れた。
時計に目を向けた。時刻は八時三十分。シャンボールにいく前にやらなくちゃいけないことが山ほどあるぞ。
おいしい料理を食べるには、お腹を減らさなくちゃいけない。これは食材と料理に対する礼儀だ。そして、ぼくの流儀だ。
シャンボールともなると、いつもの空腹じゃ失礼だな。よし! こうなったら、極限までおなかを減らそう。極限の空腹状態で三匹の子豚にかじりつくことが、シャンボールに対する最高の敬意の払い方だ。
ぼくは急いで絵本を本だなに戻すと、スポーツウェアに着替えた。そして、重い体で一時間のランニングに出かけた。
(つづく)