黒い館
『カブトムシを、捕りに行こう』
『夏と言えば、やっぱり虫だよ、虫』
『上手く行けば、稼げるかもしれないよ』
そんな馬鹿馬鹿しい意見など無視して、クーラーの効いた、涼しい部屋で、ごろごろだらだらと過ごしておけばよかった。
と、後悔している女が一人。
虫捕りに夢中になって、こんな夜中まで、山奥に居るなんて、あまりにも迂闊だったか、いや、そもそも、こんな山奥まで来たりせずに、近所の公園で、捕れば良かったのか。
と、反省している男が一人。
二人の男女は、山奥を道に迷いながら、彷徨うように歩いていた。
「あんたなんかに、ついて来なけりゃ良かった……」
女が、呟くように不満を漏らす。
「ゴメン、僕が、夢中になってたから……」
それに対して、男は非を認め、背中越しに謝るしかなかった。 自分の、安易な発想に、振り回された女の気持ちを考えると、それで済むとは思わないが、そうする他に無い。
「………………」
「………………」
沈黙が続く。
「まぁ、でもきっと何とかなるよ! 懐中電灯もあるし、電池もまだまだ持ちそうだ、その内に道に出れるはずだよ! 」
男が沈黙を破る。
暗い空に、見渡す木々、落ち込んだ気持ちを少しでも和らげられないかと思い。
「本当ゴメンね、こんなことに巻き込んじゃって、でもいざって時は僕が何とかするし! 大丈夫! 」
黙っていると空気押しつぶされそうで、懸命に励ます。
女は黙ってただ男の後ろをついて歩く。
その後も男は懐中電灯を頼りにしながら、女を励ましながら、ただ歩き続けた。
しかし、似たような景色の繰り返しで、もしやすると、このまま歩き続ける事になるのではないか。
そしていずれは………………。
口から出る言葉とは真逆の、悪い考えばかりが頭の中に浮かび上がる。
きっと大丈夫、きっと大丈夫、きっと大丈夫。
頭の中を、上書きするように、願うように繰り返す。
そうして歩いていると、そんな願いが届いたのか、前にぼんやりと、建物のような物が見えた。
二人は、少しの希望を見出し、駆け足でそれに近づいて行った。
これで、最悪の事態は免れる、二人ともそう思った。
二人の足音が少し早くなり、懐中電灯の光の先が、建物を照らした。
二人の、目の前ににあらわれた物は、暗い、辺りの中で一際に存在感を放つ豪奢な真新しい洋館だった。
中から、光は無かった為、中に誰も居ないのでは無いか、そうならば鍵が掛かっており、結局降り出しなのではないか、と思ったが、すがるように扉を手で押すと、鍵は開いている。
「おじゃましまーす……」
申し訳程度の挨拶をしながら、二人は光の無い玄関に足を踏み入れた。
そこは.不気味なほどに暗く、先程までの安心が、打って変わって不安になるほどだった。
懐中電灯で、天井を照らしてみると、電球はある。
しかし、壁際にあるスイッチを、何度か叩いても光は灯らなかった。
「……人、居ないのかな? 」
そう、扉には鍵がかかっておらず、電気もつかない、廊下の奥からは全く人の気配を感じない。
人が生活している空間とは、到底おもわない。
「取り敢えず、上がらせてもらおう、もしかしたら奥に誰か居るかもしれない」
男は、玄関で立ち往生していても仕方ない、と思い、前へ進む決心をした。
真新しい床板は、音一つ立てずに二人の足を受け止めていた。
暗い、暗い、廊下を歩いていると、道が二つに別れていた。
前を歩く男が、左に曲がったので、それに続いて、女も、左に曲がった。
はずだったが、女の目の前に、先程まで自分が見ていた男の背中が無い。
あれ、おかしいな。
そう思い振り返った。
しかし、暗い廊下の中には、人の気配はまるでない。
まるで、煙が霧散したように、男の姿はなく、気配も全く感じられない。
女は、ひどく不気味な気分になった。
こんな、山奥の館の中でひとりきり、暗闇の中で、視界が狭まるような感覚に襲われる。
なんで、なんで、どうして?
ついさっきまで、この角を曲がるまで、その背中は見えていた。
それが、角を曲がると、音も無く居なくなっていた。
得体の知れない物の口の中にでもいるような感覚。
女は、今すぐにでも、来た道を戻り、館を出たい気分になった。
しかし、もしかしたら、男が自分を驚かそうとしているのかもしれない。
もしかしたら、誰かに、襲われたのかもしれない。
それに、今出ても夜遅くの山奥の知れぬ場所、一人でどうにかなるとは思えないし。
そう考えると、女は男を探す事にした。
冷静に考えれば、人が一人消えるような、得体の知れない場所よりも、まだ山の方が、安心かも知れない。
しかし、女の頭は、唐突に起こった現象に、酷く混乱していた。
兎も角、前に歩いていると、右手に一枚の扉が見えた。
来る中には、他にも扉が幾つかあったが、その扉だけが、妙に気になった。
誰かが居る気がする。
直感でそう思った。
女のカン、と言うやつだろう。
女はその扉に手をかけた。
もしかしたら、消えた男が中にいるのかもしれないし、この館の住人がいるのかもしれない。
どちらでもかまわない、生きた人間に会えるのならば。
そう思い、扉を、開けると。
扉の奥には生きた人間は居なかった。
そう。
部屋の中には誰も居なかった。
何冊か、本が平積みされている机、その上の、明かりの灯っていないランタン、椅子には座布団が敷かれていたが、ずいぶんと使い込まれている様子だった。
誰か居た気がしたのだが、気のせいだったらしい。
自分のカンはあまりあてにならないな。
そう思って扉を閉め、再び女は歩き出した。
女は、その時から、『何か』が変わった事には気付かなかった。
沈んだ気持ちで、暗く、長い、廊下を歩きながら、少し不気味な気持ちになった。
さっきの事もあるが、歩くたびに、床板が、ぎしぎしと、音をたてるものだから、まるでホラー映画の主人公のような気分になった。
しばらくまっすぐな廊下を歩き続けていると、突き当たりに窓があった。
少し外の空気を吸いたくなったので、その窓を開け放つと、冷たい空気が廊下を走り抜けた。
窓から少し身を乗り出して、下を見ると、7メートル程下に、木の葉が溜まっている。
そこだけではなく、館の周囲を囲うように溜まっているようだ。
……ここから飛び降りた、なんてことはないだろう。
などと思っていると、後ろから足音が聞こえて来た。
正確には、床板の音。
ぎっ
ぎっ
ぎっ
と、床板があげる悲鳴が、誰かが、此方に近づいていることをしらせた。
沈黙の中に、床板の音だけが響くのが、恐ろしくなり、
「だ、誰? 」
弱々しく、音のする方向に尋ねても応えはない。
ぎっ
ぎっ
ぎっ
ぎっ
床板があげる悲鳴は少しづつ大きくなってくる。
見えない存在が、確かに近づいて来る、暗い館の中で逃げ道はない、女はとうとう腰を抜かしてしまった。
ぎっ
ぎっ
ぎっ
ぎっ
ぎっ
そして、それは目の前に現れると。
「見つけた」
と、言い放った。
それに対して、女は、軽く息を吸い、
「驚かさないでよ! 」
そう、目の前にあらわれたのは、探していた男だった。
「もう! 急に居なくなったから探してたんだから! 」
「ごめんごめん、驚かそうと思ってさ」
女はすっかり安心して、つい笑顔になっていた。
「はやくこんなとこでようぜ、俺、なんか気分悪くなってきちゃった」
男のその発言に女は賛成した。
ぎしぎしと音をたてる廊下を戻り、玄関の扉を開け、何事もなく二人は老朽化した館を後にした。
「ねぇ」
女が声をかける。
「なに? 」
男は続きを促した。
「あんた、一人称『俺』じゃなかったよね? 」
「…………」
そいつは笑顔で女の方を振り向いた。