君の名前
気が付けば、俺は暗闇の中を一人立っていた。
「…ここは?」
確か、ついさっきまでマナと話していたはずなのだ。なのに何故自分はこんな場所で一人、ぼうっとして突っ立っているのだろう。
周りを見渡す。時刻は深夜を回っているようだった。
辺り一面が暗く、視界はとても良好では無い。例えるなら、それはまるで街灯が無い静かな公園に居るようだ。
そしてそんな中を、俺と同じようにただ突っ伏している人物の姿があった。
「…そうか…これは夢なのか」
理解すると、俺は目を細め、そこに居る人物に目を向けた。
自分とは少し離れた少し先に、大よそ二週間前の俺だろうか。イヤホンを耳に取り付け、音楽プレーヤーから流される音楽に聞き入っている、もう一人の自分がそこにいた。
見覚えのある光景。これは二週間前にあった記憶だ。
少し先から少女がもう一人の俺に近づいていく。すると少女はもう一人の俺の横を通り過ぎ、信号を無視して少し歩くと、車道の真ん中で立ち止まると、不意に顔を上に上げた。
「…マナには、一体何が見えていたんだろうか……」
ここは星が見やすい場所でもある、両サイドの建物の間が離れていて、空を見上げる際、視界に邪魔するものが見えないからだ。
マナの行動に釣られたように顔を上げる。しかし俺の目に映った光景は二週間前と同じ、幾数千にも広がる無数の星々だった。
「見上げても星くらいしか見えないけどな…」
それはそうだろう。一度や二度見た程度で、何か解るのなら苦労はしない。マナと同じ光景を見たいのなら、それこそ望遠鏡を使いでもしなければ見えない。
……まあ、今となっちゃ解らないがな。
それに、望遠鏡を使ったところで、果たしてマナと同じ物が見れたかどうか。
思わず苦笑して肩を下ろす。
----ォォォォォオオン。
と、重い低音が遠くから響いてくる。音のする方へ顔を向けると、あの時と同じで、車が唸りを上げながら猛スピードで少女に迫ってきていた。
咄嗟に前の俺が身を乗り出すと、少女が轢かれる直前に突き飛ばし、前の俺は身替わりとなって轢かれる。
鈍い音が鳴り響く。倒れ伏せた俺は死んだようにピクリとも動かず、次第に服が赤く滲みだし、地面には血が滴っていく。
…やっぱり俺は……あの時、車に轢かれていたんだな。
幸いあの時は即死ではなかったものの、致命傷を受けていた。
倒れ伏せている前の俺に目を向ければ、留めなく血液を溢れさせている。応急処置もせずに放って置けば、ものの数分もあれば致死量を越え、死に到ってもおかしくはない。
じゃあ…なんで次に目覚めた時、俺の身体には怪我一つ存在しなかったんだ?
生きている理由は、どう考えてもマナによる仕業に間違いはない。ただ、その時、どうやって俺を助けてくれたのか、マナは一向に口を開こうとはしなかった。
……何か特別な理由でもあったのだろうか。
後に突き飛ばされたマナはムクリと身体を起こし、何事も無かったように立ち上がると、車に轢かれて倒れ伏せている俺を見つめ、表情を変えないまま静かに口を開いた。
『…馬鹿な男だ、そんなことせずとも、あの程度で私が傷を負うことは無かったというのに』
マナが発した言葉に、俺は驚きを隠せなかった。
声は恐ろしい程に無機質なものだった。まるで機械から発せられる声と変わりようが無い。ただ動いて喋るだけの人形のようだ。
これは…?…どういうことだ?
混濁した意識の中、聞きそびれていたのか。マナがこんなことを言っていたなんて俺は知らなかった。
「いや、おかしい……今のは極小さな、ただの呟き声……だったよな?むしろハッキリと聞き取れているのが異常だ」
そもそも、今の俺が視覚している内容は、前の俺には全く無かった情報まで含まれている。
…となれば……これは俺の記憶じゃない…。…まさか、これはマナの記憶?
『…一体何故…この男は私を助けようなどと、自ら死地に足を向けるような行為を行ったのだろうか。死ぬという危険性を考慮していなかったのか?』
不思議そうに眉を顰め、倒れている前の俺を見つめながらぶつぶつと呟くマナの姿は、俺と一緒に暮らしていたマナとは何か違っていた。
まるで一緒に暮らしていたマナとはまるで、いや、全くの別人だった。
俺の前に現れ、初めに見せたあの威圧のある言葉と似ているが、今目の前にいるマナはまるで感情が篭っていない。感情が欠如してしまっているかのようだ。
『…まあいい、助けてくれたということは事実、その勇敢な行動に敬意を表して何か願いを叶えてやるか…』
そこまで言うと、まるで何かと切り替えるようにマナは一度瞼を閉じる。
『貴方、このまま死ぬのはつまらないでしょ、助けてくれたお礼に何でも願いを一つ叶えて上げる』
再び瞼を開いた時には、二週間を共にしていたマナと同じ、生気を宿した瞳へと変わっていた。無機質だった声音が一転、感情が突然篭ったかのような声音に豹変していた。
若干上から目線で言うそのふてぶてしい口調は、俺と一緒に居たときのマナそのものだ。
…どういうことだ?マナには二つの人格があるのか?それとも一緒に暮らしていたあのマナは、感情があるかのように演じていただけなのか?
マナの浮かべた笑顔を思い出す。意識の無い夢の中だというのに、何故かチクリと胸に痛みを覚えた。
…そんな訳…あるはずないって……わかってるだろ…っ!!
あの時の俺が、願いに対して迷いなく答えたその願いに、マナは驚きを隠せない表情を浮かべていた。
吸血鬼と呼ばれるマナにも、人間と同じようにちゃんとした感情はあるのだ。
『…どうして?こういう時人間は、普通だったら助けを求めてくるんじゃないの?…死にたくないとは思わないの…?』
『…なん…だ、何でも願いを…叶えてくれるんじゃなかった…のか?』
……はて、俺はこんなことを言っていただろうか?
身に覚えの無いキザなセリフに、思わず難聴を疑う。ただ、ここは夢の中ということもあり、身体に異常が起こるはずもなく……これは実際に言った事実の言葉だと、恥ずかしさで歯痒い気持ちが全身を襲う。
恐らくは死ぬからと思い、格好良くその気障なセリフを言ってみたのだが、結局生きていた為、恥ずかしさのあまりに無意識で記憶から抹消していたのだろう。
無駄に決め顔で微笑を浮かべ、俺のその気障なセリフを聞いたマナは、呆れた顔という、至極当然の反応を見せて倒れている俺に目を向ける。
『……ふうん…そんな願いでいいんだ?』
確認を取るようにして聞いてきているが、そのときの俺は苦笑をしたまま何も答えず、ただ返事を返すよう、小さく頷いていた。
~~~♪~~~~~~~~~~♪
~~~~~。~~~~、~~~♪
まだ一度や二度聞いた程度だったというのに、あの時と同じように唄うマナの歌を、ハッキリと思い出せた。
しばらくマナの誘惑されるような唄が続く。やがて歌は終盤を迎え、ついに終わると、最後にマナは俺に向け、契約を交わしたと語る。
本来はそこで意識を失って、この後の事を俺は知らない。夢が続いているということは、俺ではないマナの記憶が見せている。
「……あの後、一体マナは俺に何を…ぃぃ?!」
人間には致命的だったはずの傷を塞ぐ。そんな常識を超えた場面をこの目で確かめたい気持ちはあった。
「え?いや、ちょ!?」
ただ、傷を完治させる為に行ったであろうその光景に、俺は別の驚愕に困惑し、声を荒げた。
それは、吸血鬼が人間に行う、吸血行動。
意識を失い、死に掛けでぐったりとしている俺を抱きかかえると、マナは小さな口から犬歯を除かせ、開いた口で首と肩の辺りへと噛み付いた。
しばらくの間、マナは俺に噛み付いた状態のまま止まり、耳を清ませば、吸い上げるような音が僅かだが聞こえる。
「血を…吸っている…のか?」
そんな疑問に返事が返るはずもなく、変わりに思わず自分の目を疑うような変化が、死に掛けの俺の身体には起こっていた。
「…俺は…夢の中で、さらに夢でも見ているんじゃないだろうな?」
最初に変化が起こったのは、周りに溢れ出していた血だった。突然地面に流れた血がボゴボコと沸騰し、煙を発した。
それはものの数秒で蒸発してしまい、さっきまで地面を濡らしていた血の跡が、今では跡形もなく消えていた。
多量の出血で、肌を真っ白に染めていたが、一瞬にして血行が優れ、顔色が良くなっていく。
車に轢かれてしまい、折れてひん曲がっていた足が生き物のようにひとりでに動き出し、ぐにゃりと捻り曲がると元の形へと戻っていた。
『…!……ッ?!』
ただ、変化が起こるのは何も自分自身だけではなかったようだった。
マナが突然驚いた表情を浮かべ、苦しそうに顔を歪めてもがき始めた。じたばたと手を動かし、抱きついていた手を痙攣させながら服を強く握っている。
(…今度はなんだ?マナは何をしているんだ?)
抱きかかえていた俺の両肩をしっかりと掴むと、無理やり引き剥がすように両腕で押し出し、マナは口を大きく開けて後ろに仰け反った。
押し出した反動で後ろに倒れこんだマナは、ぜぇぜぇと荒い息を立て、頬からは一筋の汗を流していた。
『し、信じられない…!この人……私の生命力だけを渡すはずが……まさか私の持っている力までを奪ってしまうなんて……!!』
マナは驚愕した面持ちで、押し倒した俺を見つめている。
「…………えーっと?」
どう理解すればいいのか。とりあえずマナのいっていた言葉を纏めると、どうやら俺はマナに何かしてしまったらしい。
噛み付かれたとき、首にできた小さな歯型は瞬時にふさがり、肝心の俺はというと、冷たい地面の上で寝そべり、寝息を立てて気持ち良さそうに寝ている。
そんな俺を、マナは恐る恐る近づくと、アホ面で寝ている俺を見つめてクスリと小さく笑った。
『……無欲な人なのかなと思っていたけど……なんだ、本当は随分と強引な人だったのね』
いやまて、何をしたのか知らないが誤解だ、俺は別にしたくてやったわけでもない、無意識にやっただけであってだな。これは不慮の事故だ。
当然、いくら今の俺が弁解の言葉を述べようとも、この光景は夢なので、それが伝わることはない。
くそ……。何でこの事をマナは言わなかったんだ?まさかこの事があったから!?……だ、だが……力を持っていかれたといっていたよな?大事な事なんじゃないのか?
『…余計なこと…しちゃったな…』
そんな俺の考えを裏付けるように、マナはさっきまで見せていた笑みを崩し、悲しそうに顔を歪めていた。
マナはすまなそうな顔に小さく呟いたそんな姿に、俺はもはや驚愕せずにはいられなかった。
力を無理やり奪われたというのに、俺の命を助けてくれた恩人だというのに、それがまるで悪いことかのような顔に、居た堪れない気持ちになった。
『…生き返らせるだけのはずが……本当に眷属にしちゃうなんて……』
どうやら、マナは俺を生き返らせて終わりにさせるはずだったということだった。それなのに、手違いによって俺は本当にマナの眷属になってしまった。
それはつまり、今の俺は人間と吸血鬼のハーフになってしまっている、ということなのだろうか。
『…ごめんね…もし貴方が吸血鬼になったことが知れ渡れば、人間としてはもう生きられない。いつか貴方は……命を狙われることになるかも知れない…』
そういって、マナは寝ている俺を担ぐと、背負ったまま暗闇の中を歩き出した。
『…でも安心して。もし私が死ねば、きっと眷属という呪いは無くなってしまう。そう遠くない未来、貴方は吸血鬼じゃなく、普段の人間に戻ると思うから……』
その言葉の意味が、俺には全く理解できなかった。
何でマナは謝らなくてはならないんだろうか。何故出合ったばかりの赤の他人に……俺なんかにそこまでしてくれるんだろうか。
---謝るのは……俺の方だ。
痛むはずの無い胸がズキリと痛む。
「…えよ」
マナは言った。
『……残念だけど、ここでお別れかな…。迷惑ばかりかけてごめん……でも、短い間だったけど、君と居られて楽しかった。ありがとね』
---お礼を言うのは……この俺だ。
両親が死んで、財産目当てで近寄ってくる大人たちが怖くて、俺は一人家に篭ってばかりで友達も作らずにいた。
「…分からねえよ」
学校にも通わず、人目を気にしていた俺はなるべく外出を避けていた、そんな生活。
何年もそうやって生きていく中で、俺は生きていく希望を失っていた。
俺を必要とする人なんて一人もいない。俺が死んでも困る人なんて誰もいない。じゃあ俺は何の為に生きているんだ…と。
日々を重ねる事に、俺は感情を忘れたように、心を閉ざしていた。
そんな俺に、マナは『楽しい』と思える時間を与えてくれた。
---感謝するのは……俺の方なんだ……!
「わかんねーよ!何でお前は俺みたいな奴の為にそこまでするんだよ!」
込み上げた感情をぶつけるように、声を荒げる。だがいくら声を上げたところで、過ぎてしまった夢である限り、その言葉が目の前にいる少女の耳に届かないことくらい分かっている。
だけど叫ばずにはいられなかった。
「なんで俺なんかの為に……!」
『…初めて…私の唄を聞かせて欲しい……っなんて言ってくれたのが…嬉しかったから…かな』
「…え?」
声が届くはずが無い。それなのにマナはまるで俺の言葉に反応したように立ち止まり、少女は此方を振り向くと、しっかりと俺の目を捉えて喋りだした。
『…それに……君はいい人です。見ず知らずだったはずの私を、命がけで助けようとした』
「ち、違う……違うんだ!俺はただ、死にたかっただけで…!」
『……今の君は死なれたら困る人がいる。今の君には、必要とされている人がいます。この記憶は本来と少し違うけど、今のマナならきっと、そういうと思うんだ』
少女は小さく微笑みを浮かべると、人差し指を俺に向けて突き出す。
『君がマナを必要としたように、マナもまた、君を必要としている。……今のマナを守るには、君の力が必要なんだ。…だから、マナのことを頼んでいいかな。少年』
その言葉を最後に、ぐにゃりと視界が歪む。
「き…君は…一体………」
薄れていく感覚に抗えず、意識は著しく遠のいていく。意識が途絶える寸前、最後に見た少女は笑顔で手を振る姿を残し、意識を保てなくなった俺は何かを知ることも無くそこで意識を失った。
…・…・…・…・
次に目を覚ますと、視界に映ったのはマナに眠らされた公園だった。
嘘のように静まり返った中、マナは今どうしているのか。何故こんなにも静かなのか。脳裏に鋭い電流が流れ、何があったか思い出した俺は咄嗟に起き上がる。
「ぐ……く…はっ…かは…」
そこには男に首を絞められ、力なくダラリと腕を下げるマナの姿があった。苦悶の表情を浮かべるマナは、どういうことか抵抗を見せる様子が無い。
「マナ!?」
「……っ!?」
マナは俺の声に反応し、驚いたように目を見開いた。
「…な…なんで…!まだ…催眠は解けな…い…はず……!」
予想以上に早く起き上がった俺にマナは驚きの色を見せる。自分でもそう長い時間意識を失っていなかったことに驚いているものの、この際理由は何であれ、今はどうでもいいことだった。
「……きちゃ…だ…め…!はや…く…逃げ…て…!」
マナは咄嗟に両手を動かすと、首を掴んでいる男の腕を引き剥がそうとする。だがうまく力が入らないのか、必死の形相でもがいているものの引き剥がせていない。
(……力が入らないのか!?)
マナには丁度胸辺り、そこには大きな杭のような物で胸を貫かれていた。
(…吸血鬼ってのは不死身って言われてるが…杭で心臓を貫くと死ぬ…っていうのがあったが……)
間一髪で致命傷でも避けたのか、まだ生きている様子に安堵する。
(だけど……一刻も早く……早く何とかしないと、マナが危ない…!)
ギリッと奥歯を噛み締め、黒い装束の男を睨む。
だが、どうすればいいんだ!!
「…ほぅ?お前は確か…この女と一緒に居た……そこで隠れていて何をしていたのだ?」
男はいぶしげに警戒した目で俺を見つめる。何か企んでいるのかと思われているのか。
……好都合だ。
「……お前、たかが人間に何が出来るって、舐めているだろ?…だが、あまり人間を舐めない方がいい。お前を倒すための武器を、到る茂みの中に揃えて置いた」
ハッタリだろうか何だろうが、今は奴の注意を俺に引き付けられればいい。
(煽って警戒心を高めさせれば……マナに向けた意識に隙が生じるはずだ…。そこを狙う…!)
ジリリと足を少しずらす。すると男は警戒したように目を鋭くさせた。その浴びせられる殺気に、息が詰まりそうになり、手には汗が滲み出る。だがハッタリではないという誤魔化しを信じ込ませようと、あくまでも余裕の笑みを浮かべ、怯んでいる様子を表には出さない。
もう一度、今度はすり足で動いてジャリリと音を立てる。
「……そっちから来るつもりが無いのなら、此方から攻めさせてもらう」
すると、いつまで立っても動きを見せない俺に痺れを切らしたのか、男はマナから手を放し、後ろへと放り投げた。
「っぐ…!…か、かはッ!ゲホ…ゴホ!!」
大きく咳き込み、倒れこんだまま悶え苦しむマナの姿が目に映る。胸を貫かれ呼吸困難に陥っている状態ではあったものの、吸血鬼の生半端じゃない生命力のお陰か、その様子を見た限りまだ生きている。
…よし!あとはマナが逃げれるよう…ハッタリで時間を稼---
「---っが!?」
しかし思考はそれ以上巡らすことは無かった。男の姿が消えた、と認識した瞬間、腹に強い衝撃が襲い掛かり、反動で身体が宙に浮いていた。
「っが!…ご、ふ……!?」
喋る事もままならず、殴られた事によって肺にある空気だけが吐き出される。
『男に蹴られていた』そう認識するのは、宙に浮いた身体が後ろにある木に身体を打ちつかれてからだった。
「…っかは!…っかはぁ!?」
ドタリと倒れこみ、地面に横たわる。すぐに起き上がろうとするが、手が、足がガクガクと振るえ、肺の空気を吐き出されたことで酸素が不足し、叩きつけられたときの衝撃で脳が揺れたのか、視界がぐらついて意識が朦朧としている。
「…で、何処に武器があるというのだ?」
気がつけば、黒服の男は一瞬にして目の前まで間を詰めていた。今度は溝に強烈な蹴りを食らう。それに二度も肺にある全ての酸素を持っていかれ、息が吸えなくなり呼吸困難に陥った。
「…っか…こは…!!」
「なんだ、何処にもないではないか。ハッタリか」
男に髪を掴まれて身体を持ち上げられる。強い痛みが走るが、息ができないせいか悲鳴の声さえも上げられない。
「大人しく隠れていれば死なずに済んだものの…」
「…げほ……お…まえ…が………死…ね!」
せめてもの反撃に、男に向けて中指を突き立てる。
「っが!」
髪の毛を掴んでいた腕を放されると同時に、もう一度溝を蹴られ、痛みと苦しさのあまりに意識が飛び掛けた。
苦…しい…い…てぇ!…こんな化物に…どうやって勝てばいいんだよ…!
死ぬつもりで挑んだはずが、襲い掛る本当の死の恐怖に、固めていた決意が揺らぐ。
「っご!…っぐ…がぎ…!!」
……なんだよこれ……無理だ……
「……っげぐ!……ぉ、ぇおええええ!」
抗うことが出来ず、止むことの無い襲い掛る死。
恐怖、絶望、痛み、悲しみ。
様々な感情と恐怖が一片に混ざり合い、胃にあった物全てを吐き出してしまう。
「ッゲホ…ゲ…っぅ…」
一度に襲い掛る死の恐怖と、いつ終わるか分からないこの死の恐怖…。どちらも死ぬ意味では同じなのに……ここまで違うものなのか。
「…っふん、所詮は人間か。…だが、普通なら今頃死んでいてもおかしくはない……貴様のその生命力だけは褒めてやる」
止めを刺すつもりなのか、男は手を真っ直ぐに伸ばすと、俺の胸を貫こうと振りかぶる。
それに、抵抗も見せずに静かに瞳を閉じる。
……これで、良かったんだ。
死ぬ間際、ふっとそんな事を思った。
ある程度の時間は稼げた。それに一度は死んでいた命、死にたいと思っていたのだから、他人を助けようと戦って死ねるのなら本望だった。
マナは自分を置いて、もう逃げただろうか?物陰に隠れるなどして、やり過ごす考えを練っているだろうか。
それならいい。俺が死ぬことでマナを助けられたのなら、それでいい。いくら吸血鬼でも、本当の死は怖いだろう。誰だってそうだ。死にたがりの俺なんかとは違って、普通は自分の命が一番大事に決まって…………。
『…でも安心して、私が死ねば…』
ドクンと、強く脈を打つ。
……本当に、これで良かったのか?
脳裏に過ぎる、夢の中で聞いた言葉。あれはマナの意思なのか、全くの別のものが語った偽者なのか。それは分からない。ただ、マナならきっとそういっていると、あれは紛れも無いマナ自身の答えだと思えた。
---今更になって、何を考えているんだ俺は。
もうすぐそこまで迫っている死に際なのだ。今となっては、もうどちらにしても遅い。もうこの瞬間にでも、俺は胸を貫かれて死んでしまうのだから。
でも、それでも…最後くらい、マナにお礼を言って置くべきだったか。
そう思ったものの、今となっては何もかもがもう遅い。悪あがきなら十分やった。なら漫画やゲームに出てくる本物の主人公とは違う俺は、敗者は敗者らしく潔く消えるべきだろう。
覚悟を決め、俺はやってくる死の瞬間を待つ。
………………………?
何で…生きている?
だが、一向に死がやってくることは無かった。もう既に何秒経過しているのだろう。本来ならとっくに首を掻ききられて死んでいてもおかしくはないはず。
それなのに、何故俺はまだ生きているのだろうか。
不思議に思い、薄っすらと瞼を開く。
「………マ…ナ…?」
そこには、自分を守る為に盾となり、変わりに胸を貫かれたマナの姿があった。
「……っごふ…」
「…マ、マナ!!」
口から大量の血を吐き出し、ドサリと音を立てて倒れこむ。マナの胸からは大量に血が溢れて出ていた。
「な、何で…傷が塞がってないんだよ…!!どうして!」
杭に続き男によって貫かれたマナの胸には、虚位の穴が空いた胸から生々しい血が溢れ出す。それ故一向に胸に空いた傷が塞がりを見せず、こうもしている間にも血が流れ、マナの顔色が悪くなっていく。
「何で…何で俺なんか…!」
助けようとしていたのに、助けられているのでは意味が無いじゃないか…!
っぐっと嗚咽を抑え、マナの顔をジッと訴えるように見つめる。するとマナは首を動かすと、俺を見つめ、弱弱しい笑みを作った。
「主人が……僕を守るのは…当然の義務だから…よ」
腕を怪我しても、肺を潰しても、胸を杭で貫かれても、首を絞められても、それでも泣かなかったマナは、今は瞳から大粒の涙をポロポロと流していた。
その姿を見て、これまでに無い程に、胸に強い痛みが襲う。
「……よもやこんな下らない結末で死を迎えるとは…堕ちたものだな」
吐き捨てるように男は言うと、横たわるマナを目の前で蹴飛ばす。
「……まだ息はあるのか、なら今楽にしてやる。安心しろ、貴様が大切にしている人間も、すぐに一緒に送ってやる」
マナが命がけで守ってくれていたというのに、何で俺は、どうすることも出来ないんだ?
吸血鬼は不死身だ。胸に穴が開こうが切られようが頭が吹き飛ぼうが、致命傷を受けなければ蘇る。
そう、自らを吸血鬼と名乗り、自分の為に身を挺して死の淵までボロボロになった少女を見る。
今まで俺は一体、何をしていたんだ?
「…さらばだ、死---」
「---おい」
気がつけば、俺は黒服の男の肩を掴んでいた。
「…ぐ…ぬ…!?」
「お前……何してんだよ?」
ギリギリと指先が男の肩に食い込む。
一体何処にそんな力があるのかと、掴みかかる姿を見た男驚いたように目を見開き、軋めく肩の痛みにうめき声を上げた。
「………っ鬱陶しい!」
男は一瞬焦燥の色を浮かべると、掴んでいた左手を振り払い、追撃をするように鋭く研ぎ澄まされた指先が刃となって俺に襲い掛かった。
湿った音が鳴り、ボタリと音を立てて左腕が地面に落ちる。
しかし感覚が麻痺しているのか、左腕を切断されたにも関わらず、俺は苦悶の表情を浮かべるどころか歓喜の笑みを浮かべていた。
「ク…ハハ……アハハハハハハハハハハハ!!」
「…貴様……本当に人間か?」
狂気ともいえる姿の俺を見た男は一歩後ずさり、表情には奇妙なものを見たと、興味本位と警戒心を強める。
ただ、そんな男を見た俺は、その後に切断された左腕を見つめ余計可笑しくなって笑い声を上げた。
---この程度のことで、俺は恐怖していたのか。
一度死んでいるのに、二度目には死ぬ事が怖くなっていた。それは、この世に未練が無かったのに、今では死ぬ事に未練を感じてしまっているということだ。
---どうやら俺は、本当に呪われてしまっているようだ。
「……何が可笑しい?」
「くく……。さぁてな。……どうやら俺は、鎮魂歌を唄ってもらっても成仏する事の出来ない、生きる亡霊になっちまったようなんだ」
もう既に、自分の肉体は人間の物とは別物になっていた。
「……やっと…これで俺も戦える…っ!」
俺は残った右手に力を強く握り締めると、最後の気力を振り絞るように黒服の男に目掛けて駆け出す。しかしボロボロになっている身体は思うように動きはしなかった。
よたよたと歩くようなその動きに、男は避けようともせず、ただじっと見つめ、つまらなさそうに吐き捨てる。
「…何を言い出すかと思えば…下らん。恐怖のあまりに錯乱したか。…これ以上邪魔されても鬱陶しい……さっさと死ね」
目の前に近づくと、右手を力無く振りかぶる。しかし拳が当たるよりも先に、男の腕が俺の心臓を貫いた。
「ッゴフ……」
大きく咳き込むと、口から鮮血を撒き散らす。
「死んだか…」
ガクガクと身体を小刻みに痙攣させ、ピタリと動きを止めた。男はそれを見ると、貫いる腕を引き抜こうと手を後ろに引く。……が、その手の動きが途中でピタリと止まった。
見れば、引き抜こうとした男の腕を、制するように掴んでいる手があった。
「…おい」
その手を離さないよう、しっかりと握り締める。
俺は決めていた。
死んででも、一発かましてやると。
全力で男を殴り倒す。その考えに反応したように、切り落とされた左腕が一瞬にして蒸発すると、瞬時に新しく生え変わった。
「歯ぁ食いしばれやぁ!!!」
怒声を上げ、右腕にありったけの力を込める。
「_ぁぁぁぁぁぁあああああ!!!」
「っ!?」
---刹那。腕が突然眩い閃光を放ち出した。そのまま黒服の男に目掛けて穿つ。すると男は血相を変え、即座に掴まれている自分の右手を切り飛ばすと、避けるように後ろへ飛び退いた。
「っが!……っぐぅぅうう!……き…貴様!!」
しかし完全に避けられず、男の左肩に拳があたる。するとあたった部分が跡形も無く消滅し、男は苦悶の表情を浮かべると、消えた肩を押さえて膝を突いた。
もしこれがただの物理攻撃で消し飛んだだけなのなら、相手は吸血鬼という不死身の肉体を持っている限りはすぐに腕が生えて再生してしまう。
「っぐ…ぅ…!」
だが、男が負った傷はいつまで経っても塞がりはしなかった。
「…再生しない…だと?バカな!どういうことだ!!?」
男はマナを見た後、俺を見て信じられないとばかりに叫び声を上げた。
驚くのも無理はないのかもしれない。人間であったはずの俺に、不死身である吸血鬼の肉体の一部を消して見せたのだから。
「それに貴様……何故死なない…っ!?」
心臓を貫かれ、胸元には大穴が開いているにも関わらず、俺は生きていた。
「……死んださ、吸血鬼としてではなく、人間として、一回な」
自分の胸に目を向ける。すると大穴の空いた傷口が、見る見る塞がっていく。そして数秒後には、傷口が完全に塞がり、もとあった傷を物語るよう、胸部分が大きく裂けた服から肌色の皮膚を覗かせた。
……全く、とんでも生物だな。本当に。
吸血鬼は不死身だといっても、完全な不死ではない。不死身とはあくまでも人間だったら死んでいるだけであり、吸血鬼には人間で言う死が通用しないという意味でしかない。
しいていえば、吸血鬼だって無敵ではないのだ。
例えば数千度にもなる業火に焼かれ、跡形も無く塵にさせられてしまえば再生だって出来ないだろう。それが太陽の光に浴びてしまうと、その部分から干からびて塵になってしまうといったように、全身が干からびてしまえば跡形も無く霧散して死んでしまう。
それは吸血鬼の弱点と言われる十字架やにんにく、杭で心臓を刺すといったことも同じ事だ。
そして、不死でも無敵でもない吸血鬼にも、それ以外の、全く異なった異例な力が存在するとすれば……。
俺は閃光を放つ右手を見つめた後、拳を握り、男に向けて言った。
「……お前の負けだよ。吸血鬼」
先ほどとは違い、全力で男に目掛けて駆け出す。身体の構造が変わってきているのか、不思議と身体が軽い。しかも走る速度が格段に飛躍している。
「……ほざけ。一度は油断したものの、その程度の速度で、しかも真正面から挑むつもりのようだが…二度も捉えられると思っているのか?」
確かに、それはごもっともなことだ。今さっきのは、ただ不意を突いただけに過ぎない。それが二度も通じるなら、そもそも苦戦を強いられたりはしないだろう。
「そんなもん……やってみなきゃわからねえだろうが!!」
「……っふん。まあいい…今度はその首を掻ききってや……ぬぅ!?」
そういって、男は身構えると突然声を上げて足元に目を向ける。
ただ、男は忘れていた。
「私が抑えているから…!今の内に…!」
マナの存在を。その戦力、能力に。
「ッ貴様!!どけ!邪魔だ…ッ!!」
ただ足を抑え付けられているだけだというのに、男は焦燥しきった表情を浮かべ、しがみ付くマナを必死に引き剥がそうともがいていた。
どうしてあれだけの速度がありながら、しがみ付くだけの相手にここまで焦りを見せているのか。
「ぅぉおおおおおおおおおおお!」
「く、ま、待て!くるな!…来るなぁああ!!」
速度が速い。身のこなしが速い。動きが速い。…足が速い。
足に特化しているから、足が速い。じゃあ、その他は?足の速さだけに特化している分、他はどうなっている?
「っくく…っはっはっはー!!!」
……簡単な事だ。ならその足に枷を付ければいい。
答えに辿り着いた瞬間、俺は思わず口元に笑みを浮かべ、雄叫びを笑い声に変化させ、駆け足で男に近づく。
「くそがぁぁああ!!」
マナを退かそうとしているが、もうその男の反応は遅かった。
詰め寄った俺は男の顔面目掛けて拳を振るう。するとその拳が男に触れた瞬間、ビシリと亀裂が走り、色を無くした身体が一気に砕け散った。
呆気ないと言えば、その終止符は非常に呆気ないものだ。
その男の身体は塵となって霧散し、次第に空気中に溶けるように散っていく。
その姿を黙って見つめていた俺は、ぜぇはぁと切らした息を整えようと一度落ち着くように大きく深呼吸し、再び見つめると、膝が急に力を失いその場に倒れこんだ。
「…勝った…んだよな…」
実感が湧かないものの、危険は去ったことで緊張が解け、ピークになっていた疲労が遅れて体に押し寄せた。
浅い息を何度も漏らす。俺はしばらく倒れこんだまま起き上がれず、ただただ黙って暮れていく空を見つめる。
しばらくすると、マナの小さな声が響き出した。
「…ご…め…ごめん…ね……ごめん…!」
啜り泣きのような声が漏れ出し、それを聞いてなんとかお互いに生きていたことに安堵すると、マナの方へと顔を向ける。マナは大粒の涙をひらすら流しながら俺を見つめていた。
「…なんでお前が謝るんだよ…」
「だって…だって!」
そういって手で涙を拭くマナの姿に、俺は苦笑を漏らす。
「……あのなぁ…謝るのは俺の方なんだっての…」
最初に感じた、胸に刺すような痛みを覚えている。
『化物』 そのときのマナを見て俺はそう思った。こいつを信用していいのかと、疑った。
「……それにな。逆に俺はお前に感謝しているんだよ」
身体が落ち着きを取り戻すと、立ち上がってマナの方へ近づき、ぐしぐしと髪を掻き撫でながら俺は照れくさそうにボソリと呟く。
「……あ、ありがとう…な」
ポリポリと頬を掻き、マナから顔を反らす。
今思えば胸に痛みが走ったのは、疑っているという罪悪感ででたのだろうか。
「それに…俺はお前に助けてもらってばかりだ」
事故の時に命を救ってもらって、男の襲撃の時も攻撃から身を挺して守ってくれた、家をこれ以上荒らされないよう、俺の身も案じて一緒に逃げて…おまけに自らを投げ打ってまで俺を助けてくれようとした。
「…もう分かってるかもしれないけど、君は私のせいで」
「吸血鬼なんだろ、そんなのどうでもいいんだよ、むしろ感謝しているくらいだ」
「え?」
言うかどうか、そこで一度言葉が詰まる。
だが、そこで思い出してしまった。良く考えれば今まででも散々なくらいキザなセリフを吐いていたかもしれないと。
「……お前は俺に、新しく生きる場所を与えてくれた、生きる理由を与えてくれた、それだけで十分満足してるくらいだ、吸血鬼?不死身の存在?っは!逆にいいじゃねーか!」
恥ずかしさで耳まで真っ赤に染まる。途中から吹っ切れたように話した。
「…で、でも…私といると君まで危険な目に…」
「お前、自分でいってたじゃねーか。『私がいないとお前は生きられない』とかなんとかって。…だから俺はお前が駄目だといっても付いていく、じゃないと俺は死んじまうからな」
そこまでいうと、マナは口をポカーンと開けて呆れた顔をした。固まった状態で俺をしばらく見る、するとマナは急に噴出して笑った。
「何がおかしいんだよ…顔になんかついているのか?」
「い、いや…本当に君みたいなバカな人とは初めてあったから…ちょっとね」
「…バカだからな俺は」
一応馬鹿だと自覚している分、普段誰に何を言われようとも特段むっとはしない。だというのに、マナに言われると腹が立つ立たないどころか、むしろ不思議と落ち着けた。
「…本当に…いいんだね」
一度瞼を閉じる。再び瞼を開くと、マナは確認を取るよう一言問い尋ねた。
ッス……と、俺の前に小さな手が差し出される。
返事は口で言うイエスかノーではなく、差し伸べられたその手を掴むか否か。
「ああ」
それに俺は迷うことなくその手をしっかりと掴む。
するとマナは一歩後ろに下がり、手を胸に置く。
「私の名前はマナ、吸血鬼と呼ばれ、人の血を糧とするもの、吸血鬼の中では女王と私は呼ばれているわ」
改めの自己紹介といったところだろうか、今度は俺の出番かと思ったが、マナは俺を見つめると突然「クスッ」と小さく笑った。
「な、何だよ?」
「っふふ…いや…そういえば、あの時君は途中で寝ちゃって聞きそびれていたんだっけって思ったら…ちょっと可笑しくなっちゃって」
そういえば、そんなこともあったな。
「……ねえ、君の名前はなんていうの?」
「…俺の名前は……」
自分の名前を他人に教えるのは、何時だろうか。
「……鉄信也」
何が逢っても折れない鉄の意志と、一度信じたのなら何があろうと信じて貫き通せと、そう小さい頃父親に言われていた。
「…鉄信也…いい名前ね」
「っふ、そうだろ」
唯一自慢できるといったら、父親が名づけてくれたこの名前くらいだ。
「……鉄信也」
「…あぁ」
「これは契約、これは契り、これは呪い。今宵を境に、貴方は私の眷属だ!」
「あぁ!」
この俺、鉄信也はこの日を境に、マナの眷属になった。