ごめんな
それは、まるで時が止まったかのように呼吸が止まり、動きが止まり、そして視界の景色が静止する。
悲痛に歪む信也の先に、彼女は未練も何もないような空虚な笑顔を浮かべていた。ハッキリと感じ取れる、ゆっくりと流れゆく意識の時間。ほんの一瞬でありながら、ほんの一瞬のひと時の間に様々な感情が溢れ出す。
――痛い。
心臓が強く鼓動を鳴らす。胸を締め付けるような圧迫感が痛みとなって自身を苦しめた。意味のない自問自答を繰り返す、これは罪悪感によって生じたものか。
何故、彼女は笑顔を浮かべるのだろう。諦めとか、恨みとか、そんなものが無いようで、でも少しだけ後悔しているような……悲しい笑顔。
本当に、これが正しい選択だったのだろうか。何かを訴えかけるように激しい胸の痛みが信也の拳を鈍らせる。
「あぁあああああ!!」
込み上げる感情を吐き出す。声を荒げて感情を露わにして問いかける。
何でそんな悲しい顔で、笑ってんだよ!!!
どうしようもないまま拳が触れるその直前で、ふっとナノの顔を思い浮かべた。初めてできた仲間を、大切に、信頼して、裏切られ、それでも諦めきれなくて最後までもがいていた…乾いた笑みから漏れだした数滴の涙。
――ズキン。
鈍い音が辺りに響く。手ごたえもあった、紛れもなく拳はノアに当たった。きつく握った拳から光が徐々に失われていく。
これで、終わった。何もかもこれで。
荒い呼吸を何度か繰り返して天井を数秒程見上げると、信也は力尽きてその場に座り込んだ。
「信也!」
「お兄ちゃん!」
そういって、マナとナノの二人が心配した様子で駆け足で近づいてくる。
「…大丈夫…?」
「ああ…大分疲れたが…何とかな…」
そういって、自分の安否を伝えた後に視線をナノへと向ける。ナノはそんな言葉にほっと胸を撫でおろすも、すぐさま動かないまま座り込んだノアをじっと無言で見つめていた。
訊かずとも分かっている、悔しいのだろう。唇を噛みしめ、潤んだ瞳からは涙を堪えているのが分かる。
「……ノア…ッ!」
どうしても耐え切れず、そういってナノは床に膝を付くと寄り添うようにしてノアの手を強く握りしめた。
「ノア…ノアッ!!」
あれだけ裏切られて利用されながらも、遂には大粒の涙を流しながら彼女の名前を呼ぶ。そんな姿を見ているのが居た堪れなくなって、口惜しさに歯噛みせずにはいられなかった。
何もしてやる事ができない、何て言葉を掛けてやればいいのか思い浮かばない。自分のした事に、これは良かった事だという確信が持てない。ただ臆病に顔を背ける事しか。
すると、そんな様子のナノの頭にッポンと手のひらが優しく乗っかる。
「……え…?」
驚きにナノは瞳を丸くした。その手は信也でもなく、マナのものではなく、目の前で力なく座り込むノアのものだった。くしゃくしゃと髪を掻き乱し、そして優しく微笑んでいる。
辛く当たっていた彼女ではなく、初めて会った頃のあの時のような見覚えのある笑顔で。
「クハハ…全く…かの氷終の女帝様がこんなんじゃ…聞いて呆れちまうよ…」
「ノ、ノア…」
「…散々酷い事をしてきたっていうのに…ほんと…おめーは昔から変わらない甘ちゃんだな…」
そういうノアの瞳からは、一滴の涙が静かに零れ落ちていった。
「……お…前…生き…て…?」
その二人の光景を目の当たりにしていた信也は、微笑ましい光景とは裏腹に、緊張に身をこわばらせ固唾を飲む。
今までの吸血鬼同様に、一度でも当てれば吸血鬼は灰となって砕けて死んでしまうと、そういった仮説を立てていた。しかし現にノアは灰になって砕けるどころか、何事もなく生きている。
これが格の違いというものだとでもいうのだろうか。甘く見ていたと再び拳を握りしめるが、しかし彼女は穏やかな表情のまま動く気配が無い。
泣きじゃくるナノを慰めながら視線を外すと、信也に顔を向けたノアは眉を顰めて口をヘの字に曲げた。
「……生きてたこっちが驚きてーよ…何で…助けた…?」
「…助け…え?」
その言葉に、何をいっているのか理解が出来ずに首を傾げる。
助けるつもりなんて端からなかった。むしろその真逆、俺は彼女をこの手で仕留めようとしていたはずだった。
「あれだけ殺意を浴びせておいて、最後の最後でその殺意が消えやがった…もしもあのまま何事もなく拳を振り下ろしていたら、確実にアタシは死んでいたはずだった…なのにこうしてアタシは生きている」
彼女の言う事が本当だとすれば、本当ならあのまま死んでいたという事となる。だが、その寸前で殺意が消えた事で難を逃れたと。
だから彼女はこう解釈したのだろう。殺せたのに殺さなかった、だから助けたのだと。
しかしその言い分はおかしい。確かに俺は彼女を拳を当てた、そして後も光はまだ残されたままだった。つまりは完全に失われていた訳ではない、確かにあの光は彼女に当たっていた。
「そしてだ…アタシを今まで縛っていた呪縛が綺麗さっぱり解けやがった…もしかして…初めから気が付いていたのか?」
「…呪縛…? ノア…何をいっているの…?」
すると、ナノの言葉に反応して再びナノに視線を落としたその瞬間、ノアは唐突に大粒の涙をボロボロと流し始めた。
「っふ…ぐ…!! ぐ…ぅう!!」
「な、な…ど、どうしたの…ノア…ノア!?」
戸惑う様子のナノにお構いなしに、ノアは無言でナノを抱きしめる。
「本当に…ごめん…ごめんなナノ…今まで…辛い思いをさせて…本当に…ッ!!」
「ちょ、ちょっとノア…そんな身体で動いたら…駄目なの…駄目…なの…に…」
力強く抱きしめられた事に戸惑いを覚えながらも、未だに残る生々しい傷跡を気にして、ナノはノアの身体を心配して慌てふためく。
「……ノア…」
ただ、ボロボロの身体で自分を強く抱きしめて泣いているノアの姿に、ナノはそれ以上に何かを話す事なく、そのまま黙って優しく抱きしめ返した。
「…信也…」
心配そうにマナは顔を覗かせる。この状況を見て、マナも俺と同じで思うところがあるといった顔だ。
「…ああ、分かってる…これ以上は何もしないさ」
例えマナに言われずとも、もう手出しする必要は無いと感じていた。明らかに彼女からも戦うという意思は感じ取れていない。
むしろその逆。あれだけ好戦的だったというのに、まるで戦闘狂から聖人へとスイッチ一つで中身が入れ替わったように別人の雰囲気だ。
そして何よりも引っかかるのが、先ほどいっていた呪縛という言葉。この様子を見たところ洗脳か、それとも薬か何かで狂暴化、にわかには信じがたいが呪いによって幻覚を見ていた、そういった類が予想される。
「…なあ、ノア…」
「……何だ」
「さっき言っていた呪縛というのはどういうことだ…説明してくれないか」
すると、ノアは瞳を真ん丸にして驚くと、途端にップと噴き出す。
「ック、クハハ…まさかの知らねーで、たまたま解いたとかそういう事か?」
「ああ、悪いが…」
「クハ、何謝ってんだ、アンタは悪くねーさ、迷惑を掛けたのはアタシだし、マグレだとしても助けられたのに変わりはねーしな」
「なら聞かせてくれ、呪縛とは一体どういう意味だ」
静まり返った部屋の中、赤ん坊のように泣きじゃくっていた泣き声はいつの間にかピタリと止み、ナノは真剣な眼差しでノアの顔を見据えていた。
二人がどういった関係だったのか詳しいまでは知らずとも、大切だった存在という事には間違いない。この場で一番に知りたいと思っているのは一番に近く、長く連れ添っていた誰でもないナノ自身だ。
「ノア…聞かせて…ノアがおかしくなった原因は…その呪縛のせい…なの?」
潤んだ瞳が真っすぐにノアの瞳を捉える。眼差しが、視線が、嘘偽りのない本心を教えて欲しいと訴えかけるように。
ノアは何度かの瞬きを繰り返す。そして瞳を見つめ返す。しかし、何時まで経っても理由を答える事無く、遂には視線を外して一言だけ呟いた。
「……ごめん」
視線を反らしたまま、居た堪れない気持ちを隠すように。その弱気なノアらしくもない言動にナノは動揺が隠しきれずに裏返った声を何度も上げた。
全てはノアの意思ではなかったという、僅かに生じた微かな希望と、その理想が打ち砕かれてしまうようなノアの言動が、嘘だと信じられずに戸惑い事実を否定しようとする。
「な…なんで…謝る…の? …呪縛のせいだっていうの…なら…ノアは悪くない…ノアのせい…じゃない」
「……ごめん」
「…なのに、なんで…なんで謝るの……ノアらしく…ない…」
そういってナノは涙を流すもノアは顔を背けたまま口を紡ぐ。言いたくない事を隠すように、ナノの言葉に耳を傾きかけながらも、その答えを知っていながらも。
「ごめん…本当に…ごめんな」
彼女もまた、唇を噛みしめ涙を流した。