宜しくな
脳裏に浮かぶものに謎があった。何かが砕け散る音を立てる、そして晴れた視界を前に信也の中で最初に感じたものは、言いようの無い疑問に声を上げる。
「…ん?」
ちょっと瞼を閉じていた間、そんな感覚だけしか感じていない。が、瞬きをした途端にさっきまでとは幾らかに視界に映り込む景色が違う。
ああ、そうか。何歩か動いたのかと頭で理解すれば納得できるのだが、しかし一歩も歩いた覚えが無いのだ。
そして気になったのが、砕けるような、弾けたような何か。
何となく、薄っすらとだが何かを殴った、そんな気がしている。その感覚が、微かに握った拳から伝わってくる。
気が付いたら一瞬で場所を移動して、ついさっきまで無かった何かを殴った手ごたえが残されていて。
その不確かならがも感覚という伝達の信憑性に、ゾクリと背筋を凍らす。
もしかして自分の意思とは関係なく、無意識に動いていたのか?
今、ついさっき行ったであろう出来事が全く思い出せない。自分は何をしたという気味の悪い不快感に囚われている。
途切れた意識、ぼやける景色、状況の把握が出来ない。
「…や! …・…し…!」
すると、何やら声が聞こえる。振り向いてみればマナが此方に駆け寄り、何かをひっきりなしに喋っている。
しかし未だに何をいっているのかよく聞こえない。首を傾げてマナを見つめ返す。すると遂にはすぐ隣にまで近寄って来たのだが、それでもぼんやりとして内容が入ってこない。
必死に語り掛けてくる様子から、きっと心配してくれているのだろうというのは何となく理解できている。
怪我はないか、身体の具合はどうだ、と、大よそはそんな内容だろうか。
マナの後を追うように、小さな足取りでナノも近くによってくると、そっと優しく手の平を掴み、上目使いで此方を見つめてくる。
マナと違って何も喋ってはいないようだが、多分、これは心配してくれているのだろうか。思わずクスリと笑ってしまう。
そもそも二人は何をそんなに不安そうな顔で俺を凝視するのか、鼓膜に違和感は残っているが、治り始めてきているのか徐々に声が聞き取れるようになってきている。
そりゃそうだ、例え鼓膜が破れても一時的。吸血鬼の恩恵を受けている身だ、治りはそれこそ若干劣るかもしれないが、しかし驚異的な治癒能力には変わりない。ちょっとやそっとの怪我くらいじゃ死ぬなんてことは無いのだから。
それこそ化け物…吸血鬼にでも出くわさない限り………
「――ッ!! そ…うだ…まだ終わって…ッ!?」
一瞬にして全身に緊張が走り、ノアに向かって咄嗟に身構える。
(何を呆けんだ俺は!? まだノアを仕留め切っていない…まだ勝負は終わってないんだぞ…ッ!?)
ほんの少し目を離していただけだが、完全に意識の外へと外してしまっていた。
その隙に何か手を打っているのかもしれない、緊張によって額に噴き出す汗を腕で拭き取り、すぐ近くに居たノアの姿を凝視する。
動くまでもなく、座り込んで俯いたまま動く気配が無い。
…何が狙いなのか。どう仕掛けてくる。もしや既に手を打った後だというのか。
「…マナ!ナノ!下がってろ!!」
そういって二人を安全な場所へと避難を促すが、マナは怪訝な顔で此方を見つめ返したまま下がろうとしない。
「…何してる!?危ないから早く下がれ!!」
と、再び叫ぶ。するとナノが信也の服の袖をクイクイと何度か軽く引っ張った。
何だと其方に顔を向けると、ナノは僅かに潤んだ瞳で此方を見つめた後、人差し指を信也の前にいるノアへと向けた。
未だにノアは身動き一つとらない。意図が分からずその様子を信也はしばし呆然と見つめる。
「……信也、聞こえてる?」
と、ある程度に時間が経過したことでか、ようやく鼓膜の損傷が修復されたのか会話が聞き取れるようにまで治っていた。
「…あ、ああ、聞こえて…る」
コクリと相槌を打ち、マナの方へと顔を向ける。
するとマナは大袈裟なくらいに安心した様子でホッと胸を撫でおろす。
「…良かった、さっきから何の反応も無いから…心配したんだよ」
「あ、ああ…悪い…い、いや、それよりも…これは一体どうなって…」
「…覚えて…ないの?」
「…え?覚えて…? 何の事だ?」
そういって首を傾げると、マナは何とも複雑な表情を浮かべる。
「…苦しみだしたと思ったら、急に様子がおかしくなって…でも良かった…元の信也に戻ってくれて」
「…そうか…怖い思いをさせて悪かった…」
マナに直接告げられても、つい今さっき起きた出来事を全く思い出せずにいる。
確かにあの時、急に息苦しくなったのは覚えていた…。しかし、その後の出来事がプッツリと途切れている。
「…ナノ、怪我はないか?」
その言葉に、ナノはコクリと頷く。
「お兄ちゃんが守ってくれたから…」
まだぎこちなくも振り絞った笑顔で笑う。
「…マナも…殴られた箇所が痛んだりしないか?」
「…ん、大丈夫、もうとっくに治ったよ」
「…そうか、良かった」
そうしたやりとりを一通り終えると、信也は一向に動き出す気配の無いノアの正面に佇んだ。
「………」
意気消沈しているかのように、ノアは座り込んだままでいる。というよりも、そもそももう戦意を喪失しているのか。今の今まで隙なんて幾らでもあったはず、まだ戦う意思が残っていたのなら、その好機をミスミス逃すはずもない。
「…信也は覚えていないかもしれないけれど、激闘の末に彼女は…空っぽと言っていい程に魔力を使い果たしているわ」
「…そうか」
「つまり、今の彼女はもう私たちを倒す術が無く、この分厚い氷壁の壁を破壊して逃げることが不可能に近いと悟っているみたいね」
どうもマナもナノも落ち着きを取り戻していると思ったら、つまりはそういうこと。
既に勝敗は決している…と。
……沈黙して座り込むノアの前で、信也も同じく座り込んだ姿勢になると一言告げる。
「…お前の負けだよ、吸血鬼」
それについて、何も異論を発しては来なかった。
逃げない、抗うつもりもない。潔く、覚悟を決めている証拠だろう。
拳を握る。何となくだが、今ならあの光を出せる…そんな気がする。
今ならやれる…今なら確実に倒す事が出来る…。
――だが…本当に止めを刺す…べきなのか…。
突如として、素朴な疑問が脳内で浮上した。
話を聞く限り、ナノの掛け替えのない友人であったには変わりない。
そんな存在だったノアを、俺は仕留める…のか…? もう戦う意思が無いのなら、これ以上は無意味なのではないか?
…いや、今は害にならないとしても、その後は? 今ここで逃がして、もう二度と襲って来ないなんて確証があるか?
…深く考えるのは良そう。
今回の出来事、結果が現状を物語っている。ナノの友人である彼女は、敵なんだ。
今後の事を考えても、今ここで逃がす理由にはならない。
拳を強く握りしめる。
すると、傍に立っていたナノが微かに身体を震わせた。
その怯えている様子の原因が何なのか、ハッキリと分かってしまっている為、ズキリと胸の奥で痛みが走る。
恐らくはナノは頭の中では理解していたのだろう。そして、その選択を選んだ自分自身に対して嫌悪感を覚える。
「あ…ぅ、あ…」
堪らず、ナノが近寄って握った拳へと手を添えてくる。今でも身体が震えているのが手のひらから伝ってくる。
「…ナノ」
――躊躇うのは止めたんだ。
弱弱しく握りしめたナノの手を振りほどく。その時、ナノは口元を小刻みに震わせていた。今にも溢れ出しそうな程に瞳に涙を溜めて、でも堪えるように顔を歪めて。
その顔が、どうしても信也の覚悟を鈍らせる。
張り裂けそうなくらいに胸が痛くなって、意識とは無関係に、握った拳がこれまでとは比べ物にならない程の閃光を解き放ち始める。
「ぐ、うぅあああ!!」
どうにかしたいのに、どうにもならなくて。
救ってやりたくても、救う事が出来なくて。
「ああああああああ!!!」
そのもどかしさに、信也は涙ながらに声を上げる。様々な思い、駆られる衝動に身を任せ、握った拳をノアに向けて振り下ろす。
その直後だった。
「…なあ、信也っつったか…」
「……ッ!?」
ノアは途端に顔を上げて信也を見つめると、
「あいつを…ナノを…宜しくな…」
拳が当たる直前、そういってノアは満面の笑顔を浮かべて笑った。