守るべきもの
妹を守るのが兄の役目。そういったときのナノの表情はとても戸惑った様子だった。
きっと、何を言っているのだろうと頭の中では困惑しているんじゃないだろうか。もしそうだとしたら、それは自業自得だ。
最初に俺をお兄ちゃんだなんて呼んできたのは、ナノ、お前が先なんだからな。散々困らされたんだ、その仕返しってやつだ。
「……ナノを守るのが…お兄ちゃんの役目…?」
戸惑いながらにも、ナノは聞き返すように信也を見て口を開く。
「ああ、そうだ」
「…でも…ナノは本当の妹じゃないの…」
「そうだな、でもナノが俺をお兄ちゃんって呼んでる以上、ナノは俺の妹だ」
「で、でもナノは…」
「なんだ? 俺がお兄ちゃんじゃ不満か?」
するとナノは即座に首を横に振るう。
「ッ!! う、ううん! 不満じゃない…不満じゃないよ! ……でも…ナノは化物だし…」
その言葉に、信也はナノの頭に置いていた手を左右に動かし、髪をクシャクシャにして乱す。
「馬鹿いってんじゃねーよ、お前の一体何処が化け物なんだ? 俺から見たらただの図々しい子供と一緒だぞ」
「ナノは…人間じゃない…!」
「そうだな、だけどそれは今の俺も同じだ。そんな同じ立場に立つ俺から言わせてもらうと、ナノは化物なんかじゃない、甘えるのが下手くそな、心優しい俺の妹だよ」
「ッ! …で、でも…ッ! ナノと一緒に居ると迷惑掛かるの…ッ!!」
「妹の面倒ごとも見てやるのが、お兄ちゃんの義務だ」
「だ、だけど…ッ!」
食い下がるナノに、信也はそれ以上言わせまいと人差し指を突き出すと、ナノのおでこを軽く弾く。
「あぅ」
と、とても化物らしからぬ弱弱しい声を漏らし、ナノはデコピンされたおでこを涙目になりながら摩る。
「ナノ、お前が何て言おうが俺がいいっていってるんだ。だから俺が聞きたいのは」
そういって、信也はナノに向けて手のひらを差し伸べる。これはマナの譲り受けた。
答えは差し伸べられた手を掴むか、掴まないか。質問に対して肯定か、否か。
言葉で駄目なら、単純な一つの行動でハッキリさせればいい。それを選ぶのも彼女自身。
信也の差し伸べられた手のひらに、ナノは恐る恐る手を近づける。そしてお互いの指先が触れる寸前でナノの腕の動きが止まった。
「…本当に…本当にいいの?」
「…ああ」
「ナノは、弱虫で、意気地なしで、普通の存在じゃなくて、思っている程優しくなんてなくて…沢山、大勢殺してきた…」
俯きながら、不満を、不安をぶつけるように吐き散らす。これまでの行いは決して報われない、消えない罪が架せられている。許されるのではなく、だから許されないと。
「あ…が…ッつぅ…ッ! くそがぁあッ! よくもやりやがったなてめぇええ!!!」
今頃になって起き上がりだしたノアだが、相当打ちどころが悪かったようだ。未だにふら付いた足取りで立ち上がったノアは、痛むのか殴られた頬を抑え激昂して怒声を上げた。
大した根性と体力を持っている、本来であれば脳震盪を起こしていてもおかしくないが、それでも尚俊敏に動けるのは吸血鬼という驚異的な治癒能力による為か。
「だから…きっと、いっぱい迷惑を掛けてしまうと思うの…」
躊躇いながら、怖がりながら、ナノは小刻みに身体を震わせる。
「ッカ、ック、クハハッ!! 殺す…ぶっ殺してやるッ! 手加減なんてしねぇ…抵抗できないように両手両足をもぎ取って、原型が分からなくなるまで嬲殺してやらぁああッ!!」
その言葉を最後にノアは動き出す。標的を確実に信也へ絞り込み、強烈な殺意だけを叩き付けるように浴びせる。
相手はすぐにでも襲い掛かってくる。だというのに、信也は怯む様子はおろか近づいてくるノアには目もくれず、目の前に居るナノを真っすぐに見据えてただ黙っていた。
対してさっきまで俯いていたナノは意を決したように顔を上げると、同じくナノも信也の顔を見つめる。その瞳は、今にも溢れ出してしまいそうな程に涙いっぱいに潤んでいる。
震える手が信也の手の平に触れ、震える口をたどたどしくも動かし、こわばり気味の笑顔で言った。
「それ…でも…ナノはお兄ちゃんと呼んで…いいの…?」
遂には瞳から留めなく涙が溢れだし、頬を伝って静かに滴が落ちる。その涙は、凍らなかった。
「ああ、当然だ」
「ッ!! お兄…ちゃ…ん…ッ!」
そういって、信也の胸元でナノは大粒の涙を流して泣きじゃくる。きっと辛くて、怖くて、悲しくて、誰かにすがる事すら出来なくて、とても苦しい思いをしていたのだろう。
きっと……この間までの俺と同じだった、いや…それ以上に辛かったに違いない。
「アタシを前に余所見とは、随分と余裕だなぁあ? あぁ!?」
何も言わずに一度優しく抱きしめて頭を撫でると、信也は抱き着いてきたナノを一旦引き離し、濡れた頬を指先で拭う。
「悪い…もう少しの間だけ、その涙はとっといてくれるか?」
「………うん」
「安心して、待っててくれ。今から…」
一発ぶん殴ると誓っていたが、それだけではとても物足りない。向かってくる標的に眼光を向ける。
ナノの笑顔が、込み上げる怒りが、貫く胸の痛みが治まらないから。
力の限り拳を握り、肺にある空気を全て吐き出す。
弱いからなんだ、相手が強いからなんだ。そんなもの戦いの場においては関係の無い話だ。
感情に忠実になれ、怖ければ怖がればいい、恐れれば好きなだけ恐れればいい。ただし、悲しいのなら、嬉しいのなら、怒りが込み上げているのなら。
例え、絶望的な状況化に陥っていたとしても、そこに決して譲れない思いがあるのなら。
その感情に忠実になれ。今は怖がっても、恐れても、逃げ出す時ではない。足が震えるどころか、それ以上に怒りが闘志を振るいださせてくる。
弱くていい、みっともなくてもいい!!
全身の血液を沸騰させろ。意識を高め、限りなく極限まで集中しろ!!
「っ死ねやぁああ!!」」
「っが…っぐ…ぅ…っかはッ!!」
殺意の塊が、反応できなかった身体へと突き刺さる。
横腹に激痛が走り、あっという間に口の中に鉄の味が充満する。空気を吐き出し、唾に混じった鮮血を吐き出す。
「ぁ、ぉ、お兄ちゃん!!」
「信也ぁあ!!」
ナノに続きマナの悲鳴のような甲高い声が響く。驚いたのか、心配しているのか。
そりゃそうか、だって大怪我だもの。凄く痛い、発狂したくなるような激痛だ。さっきから骨の軋んだ音がするし、もしかしたら今ので何本か折れているかも。本来ならこれだけで速攻病院送り、死ななくとも重体だ。
「クハハハハハ!! このまま焼き殺してやるよぉ!!」
だけど…ッ! だから何だ? こんなもの、痛いだけだ。
ドクンと、心臓が鼓動を立てる。
こんな痛みに恐れてどうする!? 死ぬのが怖い? 守るべきものを守れないで、それでいいってか!?
いつかは忘れるような、消えるような一時的な苦痛でしかない。
それなら、大したことは無い。大切なものを失うよりはずっと、遥かにマシだから…ッ!!
「あ…が…あ、ああッ!」
「…ぉ、お…ッ!?」
突き出されたノアの腕を掴み、力任せに引きはがす。
「あああああ!!」
逃がさぬよう、掴んだ腕を力いっぱい握りしめる。
「っぐぁ!?…い、が…! な…は、離せッ!」
咆哮し怒りを上げろ。武器を掲げて力を示せ。弱いなら弱いなりの、悪あがきを見せてやれ…ッ!!
――全力で、拳を握れ。
この身の吸血鬼が、俺の意思に呼応する。
それは、刹那の空白。
景色が止まり、動きが止まり、ただ一人動きは世界に反して加速した。
「ぁあああああああああああああ!!!」
弾丸の如く加速させた拳を振り下ろす。再び目には映し出されない速度で顔面を殴られたノアは困惑した面持で、しかし衝撃で大きく顔を歪ませると後ろへと殴り飛ばされていく。
「今からお兄ちゃんがこいつを…ぶちのめしてやっからなぁッ!!!」
そういって、信也は怒声を上げた。