ナノという少女①
物心ついたときから目にしてきた世界は、後にも先にも残酷なまでの非情な光景だった。
ただただ出会ったお互いが殺しあう。生きる為に戦うのではなくて、相手を殺すというその行為に対しての快楽だけを求めて。
欲望だけが全て、感情の赴くままな狂乱の激流に流れ流され続ける日々。
勝者は相手の生き血を啜り、獲物を刈ったその瞬間の高揚した姿が、当時の自分には恐ろしく奇怪な光景だった。
誰であろうと、相手が何であろうと一切の躊躇はいらない。目と目が合えば、一言を交えることなく殺戮を始める。
その対象に選ばれた時、自分は怖くなって一目散に逃げだした。
容赦なく無抵抗に殴られ、弄ぶように切り付けられ、泣いて、喚いて、それでもボロボロになった身体を引きずりながらも必死に生きながらえた。
戦うという行為が、恐ろしくて仕方がなかったから。
でも、それは時間の問題でしかなかった。
何処にいっても、何処に隠れていても状況は変わらなかったから。
逃げ場がなければ、元より身よりも無い。誰一人として味方のいない孤独の身。
『っはぁ…!っはぁ…!』
逃げ続けるだけでは限界があった。
生きたければ、生きるのであれば、抵抗しなくてはいけない。力をつけなくては生きられない。
『…あぁ…!あぁぁ…ッ!』
気がつけば、私は唯一の逃げ道さえも失っていた。
終わりのない恐怖から逃げようと壁に手を付け、必死に崖をよじ登ろうとする。でも、手が震えて上手に登ることもできない。
『やだ…!もう…嫌…ッ!』
込み上げた感情を吐き出す。誰に対してでもなく、この世界に対して。こんな世界に生まれ落ちてしまった自分を呪って。
そうやってもがいている内に、背後から聞こえる足音に悪寒を走らせる。振り向かなくてもわかる、甲高い狂った声がいつまでも脳裏に反響してしまう。
『イヒヒヒヒィ!!もう逃げれねぇヨォ!?諦めナァ!』
背後には絶壁、前には大男。狂った瞳が私を捉え、歪んた口元が牙を向く。
大男は楽しそうにゲラゲラと笑っていた。私の気持ちをあざ笑うように、いや、寧ろだからこそ面白がっているのだと理解できた。
『やぁああ…来ない…で…ッ!!』
そんな私の反応が、より相手を刺激する。頭でわかっていても、どうしようもなく涙が溢れてしまう。
必死に崖をよじ登っても、あっけなく足を掴まれ引きずり降ろされる。
『ぁ…ああ…ッ!』
それでも、何とか逃れようともがくものの、これ以上は逃げられないようにと、掴まれた足はいともたやすくへし折られた。
『ッあああああああああああああああああ!?』
痛くて、悲しくて、悔しくて、どうしようもなくて。
私に与えられた役目は、痛みに苦しみ、悲鳴を上げて、涙をひたすら流すだけ。
『ぅう…あぐぅう…!』
痛みに堪えて、地面に這いつくばった身体を起こし、折れた右足を引きずって歩く。
数歩進んだところで、今度は左腕を掴まれる。
『…ぁ、ぅ』
恐怖で、言葉が出なかった。掴まれた腕がどうなるか、予想が出来たから。
あぁ…。またか…。
もはやもがくことなく諦める。
予想を裏切ることなく、嫌な音を立てて左腕はあらぬ方向へと曲げられていった。ゆっくりと、確実に。
しかし、今度は一瞬ではなかった。じっくりと私の反応を楽しむように、腕に込めた力を少しづつ強くしていく。
『…ぁ~ッ!ッいぁあ!いた…い!痛い!痛い痛い痛い!!』
ゆっくりと少しづつ進行していく痛みに、耐えかねず逃れようとその身を捩る。
そんな私の姿に大男は満足気に笑うと、必死の抵抗も虚しく、あっけなく腕は折れ曲げられた。
『ッは…ぐぅう…!っひっく…ひぐ…!』
痛みのあまりその場に倒れ込み、立ち上がれず、逃げることすらできず泣き崩れる。
『イッヒャッヒャ!アヒャヒャヒャ!!ウェヒヒ!』
大男は高笑いし、笑顔で私を蹴り飛ばす。
蹴り上げられた身体は力なく周辺をゴロゴロと転がり、そこで大男は私を楽に殺す気が無いことに気が付く。
最初から最後まで、その死ぬ瞬間でさえ地獄を見続けなくてはならないのか。
…一体、私が何をしたというの。
ただ生きただけで、満足な死すらも与えられず。じゃあ私は何で生まれてきたの。
再び蹴り上げられ、身体が宙を舞う。幾つかの軋む音が鳴り、激痛が身体を蝕む。
『あぐ…っかは!げほ!』
『クヒヒ、クフフヒヒ!!』
何度も何度も、何度も何度も何度も。感じるのは痛みと、笑う大男の声ばかり。この地獄は何時になったら終わりを迎えられるのだろう。
痛みで朦朧とした中、髪を掴まれ顔を起こされる。大男の歪み切った顔が瞼に映り込み、よだれ塗れの口を開くと、ゆっくりと喉元へと近づいてくる。
…あ、これで…やっと終わる…。
安堵し、瞼をゆっくりと閉じ、少しして大男の犬歯が喉元に触れる。
皮膚は裂け、肉は抉られ、滴り落ちる血液は大男に湿った音とともに啜られる。
『…ッ!!』
著しく視界が暗くなっていく。
その瞬間、初めて私は本当の死に直面し、同時に皮肉にも生きたいという気持ちが膨れ上がった。
初めて感じる明確な殺意に、私は生きる為に感情の赴くままその身を委ねた。
その世界で生きていく為には、相手を殺す他に方法は無かったから。
『ッゲフ…グフ…グ…ゥ?』
周辺の気温が著しく低下する。しかし、不思議なことに少しも寒いと感じない。
これが、私の力、本来生き残る為に使う、吸血鬼が持つ能力。
『ガ…グ…ガァアアア!?』
大男は驚いた様子で目を見開くと、私の元から飛び退く。見れば、大男の腕は真っ白に凍り付き、噛みついてきていた口元も凍り付いていた。
動いた衝撃でなのか、真っ白になった腕に亀裂が走るとそのまま砕け落ちる。
凍っていなかった断面からは、大量の血液が滴り落ちた。
『アガァアアア!?ッグ…ウガァアアア!!』
少し前まで私をいたぶっていた大男が、今では痛みに苦悶し地面に平伏している。
その光景を見て、その時の私はこれまでにない程、自分自身が感じる高揚、その高ぶる気持ちをハッキリと感じ取った。
先ほどまでやられた苦痛を、大男にも味合わせてやりたい。
無意識に作り上げた氷の刃を、私は躊躇することなく握りしめると、何度も何度も大男を切り付ける。
『ッガ、ゴ、ゥガァ!!』
切り付ける度に苦悶の表情を浮かべ、逃げ出そうと悲鳴を上げるが、しかし逃がすことなく、両足を裂いてその場に倒れ込ませる。
そして倒れ込んだ大男に馬乗りになると、手に持った刃を何度も振り下ろした。
湿った音が鳴り響き、滴り落ちる滴が目の前を真っ赤に染めていく。
『あ…は…あはは…あははははははははははははははは!!!』
それがたまらなく嬉しくて、楽しいと感じてしまった。
『あはははははははははははは!あっははははははははは!!』
楽しくて仕方がない。面白くて振り下ろすこの手が止められない。
気が付けば、大男はピクリとすら動かなくなっていた。
『ふ、あは、あは…は…』
しかし、突き抜けた高揚はそれでも収まることを知らず、今度は抜け殻となった大男の首筋に狙いを定めて噛みつく。
喉を伝わる血液が、乾いた喉を潤す。充実感に溢れ、一層に身体は火照り高揚は増す。
『っはぁ~~!ぁ、あはぁあ~~!』
押し寄せる快感、堪らない快楽に身ぶるいを起こす。
全身が力無く脱力し、満足気に一息つく。
虚ろな瞳は宙を泳ぎ、途中、その瞳が未だに溶けずに存在している氷を捉えた。
『……っあは、あ…は?……ぁ、あああ、ああああああ!?』
そこに映った私の姿は、今まで見てきた者たちとまるで変わらない、狂人と他ならなかった。
恐怖していた存在と、何も変わっていない。あれ程までに恐れていたのに、あれ程までに嫌っていたのに。
結局は、私も同類だった。
その光景に、現実を直視出来ず、視界だけが暗くなっていく。
『あは…あはは…もう…もう嫌だよ…こんなの…嫌だ……誰か…助けて…よ…』
その日、私は初めて吸血鬼を殺し、力を得た代償に、殆どの視力を失った。