それぞれの決意
それは常識など不用な小さな戦場。まさに常識を逸した戦いが開戦されたというのに、しかし動かない。喋ることもなく、物音も何も無い。先ほどとはまるで正反対な急な静けさが、より一層に緊張を高めていく。
語ることなく黙ったまま互いに見つめ合い、動きを止めて睨み合うノアとナノ。
この状況は何故起きたのだろうか。既に自分は対象から後回し、今は外された存在となり、今まさに新たな火蓋が落とされようとしている。
明らかに敵意を剥き出しにしている様子で、何時嵐が起こってもおかしくはない。となるとどちらが先に仕掛けるというのか、静寂は尚も続き、ノアとナノはお互いに身動き無き像のように佇む。
甲斐性というか、どうもあまりジッとしていられる性格でもなく。見つめ合う時間が数分も過ぎた後、その長い静寂に耐え切れず、信也は傍に居るマナになるべく小声で尋ねた。
「やけに急静まり返っているが…」
「…きっと、どちらが先に動くか探りあっているのよ。迂闊に動けば、その行動一つで致命傷にだってなりうるから…」
そのマナの言葉に、全くその通りだなと、予想通りの返答に納得した面持で首を縦に振る。
実際、こんな事をマナに尋ねなくとも分かり切っている。何せ近くに居るだけで息が詰まる、表現するならまさにその言葉が当てはまる。あれくらいの殺気を放っているのだ、こうして近くで立って見ているだけでも場違い過ぎる気がして、気まずい…いや、この場から今すぐ離れたくなる恐怖がある。
直接当てられているわけでもないのに、まるで胸を圧迫されるような威圧、迫力、そして威力。どれも出会ってきた吸血鬼の中で比べ物にならないくらい、桁違いに凄まじいものだった。
きっと、恐らくだが。このノアという吸血鬼を見た限り、出会ってきた爪を硬化、伸縮を可能にする能力を持つチャラついた吸血鬼、それと速度に特化していたと思われる黒衣装を纏った吸血鬼。この二人が束になって襲い掛かっても、万が一にも勝ち目はないくらいの差があるだろう。
それこそ逆に言えば、その二人の吸血鬼相手に苦戦を強いられていた今の自分がまともに挑めば、呆気なく敗北なんてものは目に見えて分かってしまう。初対面の時にあった印象とは途方も無く変わってしまい、今では想像している以上に挑んだ相手は恐ろしく、そして強い吸血鬼だった。
信也の身体能力は、一般人から見たらとても運動神経のいい超人。人間からすればとても凄いと思われる、きっと異常だとか恐怖心なんてものは芽生えない。あくまでも人間としての常識的範囲内の凄い能力が備わっている。
ハッキリいってしまえば、その程度。常識範囲内に収まる程度の身体能力で、常識を逸した存在である吸血鬼に勝てると思うか? そんなもの、誰だって不可能だって答えるに決まっている。
気が付いたら腕をもがれていた。それくらいの意識に留まることのない速度で腕をもぎとるなんて、人間には不可能。それを可能にした時点で、身体能力という面だけでもノアという吸血鬼に対し、完全に信也の動きは遅く、身体は脆く、肝心の威力に関しても劣っている。
初めから劣っているのに、それを理解していて手加減していた。自分よりも劣っていると察していたからこそ、ノアはじゃれる程度に力を抜いていた。もしもノアが初めから本気を出していたら、それこそ既に無き存在になっていたかもしれない。
今思えばぞっとする。
何も考えずに突進していた。それは諦めよりも執念が優っていたから。しかしだ、もしも今のノアの姿を初めから目にしていたらどうだ。何も考えずに挑むなんて自殺願望のある奴がする行為。加えてどれ程の威力があるかは知らないが、あの時の炎がこの身に振り下ろされていたのであればどうなっていたのか。
ノアからすれば手加減で仕留められる相手に、次で確実に仕留めるという意志を持って襲い掛かったというもの。対して信也も反撃しようと前に出た。
ノアには矛が存在している。対して信也の手には矛は握られていない。とはいっても、吸血鬼を仕留める隠し切り札、強力にして一撃のある矛はある。のだがその手に握ってはいるものの、、肝心の矛先はボロボロで折れ曲がり、アチコチの刃が欠けてしまっている。
戦う意思はある、しかし戦闘に置いて普段は役に立たず、時々強力な剣と化するも、何時使えるかも分からず手のひらにただ携えている、いわば諸刃の刃。
戦闘において、まさに致命的。
刃物を持った相手に、真正面から素手で殴りかかるようなものになる。
ただ、素手だけと見せかけて一応は強力な武器を持っている。例えば銃。それを持っているから刃物を持った相手よりは有利に立てる。ただ、弾は入っていない。肝心の弾丸は何処かに落ちているか、しまっているか、探さないといけない。
当然、探している暇を与える程、相手はただ突っ立っているカカシじゃない。真後ろなどの隙を突いて襲い掛かるならまだしも、目の前にいるのだから、目ざわりな害虫を駆除しようと手に持った刃物で刺しにくる。
勝利条件は単純明白。ただ障害物に刺せばいい、致命傷ならどこでも、心臓に向かって一刺しすれば全てが決まる。万が一に一命を取り止めても、その後の展開はもうどうにもならない致命傷。
「つってもそんな生易しいレベルじゃない…か」
そもそも土俵にすら立てていない。大自然の定義を完全に無視した世界を目の当たりにして、ハンデがあって勝てないとかそんな程度で表せる話じゃない。
微かにでも、もしかしたら生きていられるかも、なんていう考えこそがきっと甘いのだ。
それはまだ人間世界において植え付けられた、当たり前、希望、大丈夫だろう。それぞれの感覚が無意識に可能性があることを信じてしまっている。そう信じていたいから。
それが人である本能であり、理性でもある。人間は理解の範疇を超えれば思考は停止し、人である為の肝心な理性を放棄する。そうする事で生きようと無意識に自己防衛が働く為に。不思議なことに、全てを投げ捨てても、生物は生きる希望だけは諦めない。
首筋に刃物を突き立て、前も後ろも逃げ場がない状況で、耳元に今から刺すよと囁かれたとしても。ああ、死ぬんだと諦めて、恐怖して、絶望して、でもきっと何処かに可能性が存在していると期待して。
相手に明確な殺意があり、本人に抵抗する術が残されておらず、助けも望めない状況になっていたとしたら。生き残る可能性は限りなくゼロに等しいというのに。そう簡単には、捨て身になれない。
信也自身が、心の何処かで勝手に期待していたように。
「……そうだよな…ちょっとやそっとのマグレがあれば勝てるなんて…そんな簡単な話なら苦労しないわな…」
呟きながらも、ついこの間に言われた言葉を思い出し、脳裏には一言だけいって呆れ顔のマナが映る。
『それが上手くいけば苦労しないわよ』
あの時、マナは事が上手く運べば苦労はしないと言っていたが、そんなもの当然だ。人間だって吸血鬼だって変わらずに思ってしまうくらい、当たり前過ぎる話だ。
信也は深い溜息を漏らし、隣に寄り添うようにして立っているマナを見つめる。すると視線に気が付いたのか、マナは此方に顔を向け、その顔を信也の瞳に映し込む。
この状況だからなのか、不安気に、それでいて此方を見て少し安堵したように頬を緩ませるマナ。そんな顔を見て、一体どんな表情でマナを見つめているのだろうか。複雑な心境が胸に微かな痛みを生じさせる。
子供っぽく、それでいて無理して大人ぶって、醜い光景をまだ知らないような、このあどけない無垢な表情を俺は何時まで守り続けられるのだろうか。
望むなら、ずっとだ。マナが寄り添い続けてくれる限り、ずっとだ。
何も言わず、信也は左手をマナの頭の上に置くと、優しく撫でる。
でも、何れは何処かで別れの日が来てしまう。早かれ遅かれ、必ず来てしまうだろうが、後悔はしない。後悔だけはしたくない。安心して最後の日まで笑顔を見続けられるのであれば、構いはしない。
「……信也」
今はまだ、不安気に曇るマナの表情を晴らせる程の力が無い。でも、何時かきっと、晴らせると信じていたい、信じ切っていたい。この感情は、人であり本物だって。
と、肌に感じ取っていた気配が微かに変化する。張り詰めた空気が振動し、急激に殺気が膨張。この意味を真っ先に理解したのか、怯えたようにマナは肩を震わせる。
現状では見た目同様に無言のまま、前兆らしきものは視野では一向に変化は見当たらない。しかし彼女らの意識の違いを、ハッキリと肌で感じとった。
これから、始まるのだろう。
…………。
何か言おうと口を開き、ゆっくりと閉じていく。
この状況で何をいえばいいのか、掛ける言葉が見当たらない。
敵か味方も分からないような吸血鬼相手に、どんな言葉を掛けろというのか。応援する感じで頑張れとでもいってあげるべきか、これから殺戮という泥沼な光景がありえる世界の中で。気休めにしかならないどころか、余計なお世話だと気分を害する。だから、何も言えない。
今はただ、傍観者として見守るだけの、ただのカカシでしかないのだから。何も求めず、何も望まずに。
「……ックク、そっちから来ねーんならアタシからいくぜ? じれったいのは嫌いなんでな!」
その言葉を最後に、ノアは俊美な動きで炎を呼び寄せる。この時を持って戦いが始まりを告げた。
最初は肩慣らし程度のつもりなのか、その動作に強い殺気は篭っていない。殺しはしなくとも、痛みを感じさせる、いたぶる威力に抑えているのか。ノアが右手を上に持ち上げる。すると周囲の空間に球体型の炎が忽然と浮遊し、突然ナノに向かって発射された。
それこそまるで別次元の世界、魔法を操って炎を生み出したかのようだ。驚いたといえば、正直に驚いている…が、しかし思うよりも驚愕せず、何といえばいいか。発射された炎の速度は、見た感じでは些か少し遅く感じる。ノアの行動を全て見終えてから動き出しても避けれるんじゃないか、それくらいにゆっくりだ。
それでも、決して侮るなかれ。ちゃらついた吸血鬼が放っていた威力と同様、遅ければその分当たったときの代償が高いなんてあるあるな話。まるで太陽そのものを模ったように燃え盛る火の玉に一つでも触れたものなら、普通の生物は一瞬にして全身火だるまになること違いない。
「…遅いの」
対抗するようにナノは右手を上げる。すると幾つもの氷を宙に形成させ、飛んできた位置に照準を合わせるよう適格に配置された。見事な事に一つ一つ寸分の間違いなく、炎は氷柱に向かって飛んでいく。
「あめぇんだよ!!」
だが、やはり仕掛けは存在していたようだった。ノアは不気味な笑みを浮かべると、突き出していた右手を横に振り下ろしたことで、氷に当たるはずだった炎はまるで意志を持った生き物のように避けていく。
途中介入。故意的な操作が可能だというのか。
「…知っているの」
対してナノは数本の指を微かに動かす。すると氷柱は一斉に方向を転換、反れた炎に向けて勢いよく発射される。ノア同様、ナノも故意的な操作が可能なのか。
二つの勢力がぶつかり合ったことで、熱した鉄板の上に水を入れたような音が鳴り響く。大量の蒸気が周囲に噴出し、かと思えば立ち込めた霧は瞬間的に凍り冷気へと変貌を遂げた。
そこで一度、ナノの動きが静止する。呼吸を整え、次の手を打って出ようとしている。…が、それをノアは許しはしない。微笑を浮かべたかと思えば、突然の全力疾走によるナノに向けての突進。驚異的な跳躍力で一瞬にして間を詰めると、ナノの目の前で急停止。
「…ッ!」
反射的にか、ナノは咄嗟に両手を前に組み掛けるが、しかし今の行動に修正を掛けるよう、ナノとノアの間に冷気が立ち込める。氷壁を形成させようとしているのか手の平を前に突き出した。
しかし、信也の目から見てもその行動は遅すぎている。なんとか形にはなる行動は行えているものの、結果を生み出すまでには至らない。
「おせぇーよ!!」
そういって、ノアはナノが突き出した腕を高く蹴り上げて中断、勢いで身体を浮かすナノを見据え、より強めの追撃を行う為か、身体を勢いよく半回転。防御がままならず、無防備となったナノのきゃしゃな身体に脚が振り下ろされる。瞬きする時間も許されない、まさに神速の打撃。
――ゴキュリィ……。
咄嗟に目を、耳を塞ぎたくなるような、何とも生々しく、痛々しい鈍い音が響く。見ればけたたましく燃え上がる脚が、ナノの横腹に直撃している。
いつの間にか炎までも付与している。それを見抜いていたのか、それとも偶然か、僅かにも防御の姿勢をとっていたようで、ノアが蹴り上げた脚部分に薄い氷壁が張ってある。
「っぁぐ…!」
だが完全に防ぎきれていなかった。蹴られた衝撃でナノの身体が横へ吹き飛ぶ。壁に強く叩きつけられたことで小さな悲鳴を漏らし、力なくズリズリと壁にもたれ掛ってしまう。
「おら!もういっちょ―――」
そういって高揚した様子のノアであったが、弾んでいた言葉が途端に遮られる。次なる攻撃を加えようと身構えた右脚が、背後から襲い掛かった氷の刃によって切断されたからだ。
まさか蹴られたあの一瞬の最中で、反撃の一手を加えていたというのか。
入れそこなった右脚による影響か、ノアはふらついた様子を見せると、そのまま斜めに身体が傾いたことでバランスを崩す。その好機を逃すまいと、ナノは右の手のひらを後ろの壁に押し付けた。すると天井に大量の冷気が押し寄せていく。
耳障りな、小さな無数の音を何度も鳴らし、何かが天井から一斉に生え出てくる。どれも先が尖っていて、鋭利な針のようなもの。
……棘…か?
いや、氷柱だ。天井からは無数の氷柱が生えだしている。
一つ一つの氷柱は、差ほど大きさは無い。それぞれに形や大きさが異なっているようだが、それでも野球などに使われるボール程の大きさはあるのではないか。
しかし吸血鬼にあんな小さな攻撃がまともに通用するのかと、一瞬不安が過ったのだが、それは思い過ごしらしい。何故なら凶器はざっと見ただけでも既に数十個に上る。それでも尚増え続ける氷柱は、十分な脅威に成りえる。
「堕ちろ…ッ!」
倒れ込んでいる今のノアは完全に無防備。殺気交じりの、ドスの聞いた声。その一言を発端に、氷柱は一斉に落下。数多な刃となってノアの元に降り注ぐ。
……これで…決まるか…!
手に汗を浮かべ、固唾を飲んで見入る。
「……ックハハ!誰が当たるかよ!」
だが、その状況化でもノアの笑みが消えることは無かった。今までの行動全てが無意味だと告げているような余裕の笑み。いや、余裕なのだろう。だからこそ笑っていられる。
切断された脚が蒸気を発して霧散。瞬きする間には失われた右脚が何事も無かったように生え変わっている。そのまま即座に体制を立て直し、ナノが攻撃を開始するより先にその場を切り抜こうと動き出していた。
「――あ?」
だが、次の瞬間。ノアの笑みが初めてそこで消え、数秒して焦燥の色を浮かべる。
正確には動く、のではなくて、動こうとした。
身動きが取れないことに不信感を抱いたノアは足元に視線を送る。すると周辺の床が、ノアを中心に足を覆うようにして凍結していた。
加えて垂れ下がったナノの左手が床に突いている。わざと目に見える形で天井に氷柱を形成し、上に視線を向けることで手元への注意を反らしたのか。
どう見ても、もう避けることは不可能に近いはず。
もはや明らかに逃げ出すタイミングを失っている。一斉に落下した氷柱が、逃げ場の無いノアへと襲い掛かった。衝撃によって砕けた氷の破片が至る箇所に散らばり、無数の破壊音が鳴り響く。
幾度なく落下し続ける氷柱による影響で、冷気が周辺に充満。ノアの姿が立ち込めた白い霧によって次第に見えなくなってゆく。
見えなくなる最後まで逃げ場は無かった。悲鳴は無い。もとより一言も発しなくなっている。
まさか……。
「……倒した…のか?」
思わず口から零れ落ちてしまった一言。そう無意識に言ってしまう程、マナによる攻撃、その氷柱はノアの姿が見えなくなるまで直撃していたのをこの目で確認していた。
それだけで十分なダメージを負わせられたのではないかと感じてしまうが、どうなのだろうか。
自身の感想からすれば、この時点で勝負はついたと認識している。ただ、それでも音は鳴り響く。
まだ、攻撃の手を休めないのか…?
しかし、決着に異議を唱えるよう、ナノは何時までも攻撃の手を休めはしないところを見ると、まだ終わりではないというのか。
「…し、信也……」
不意に、マナに服の袖を掴まれる。くいくいと袖を強めに引っ張られ、急かすように何度も呼ばれた。
それに何だと、この状況でどうしたんだと、不思議に思いながらマナへと顔を向ける。
そのときに抱いたのは、安堵ではなく疑念、喜ぶことのできない違和感だった。
おかしい……。何で、何でそんなにも不安そうな顔をする?
「マナ? どうした…?」
不安そうに、それでいてマナの顔色が青い。真っ青に染まっている。
体調が悪いとか、身体が冷えたという様子ではなく。背筋に上りだした、強烈な違和感。それは…恐怖だ。誰もが身の危険を感じれば、本能が警告を発する。思考は理解せずとも、生の執着が命を守ろうと訴える。
でもそれはおかしい。この恐怖はノアに抱いたものであって、恐怖の対象となる相手はもういないはず。だというのに、感じ取る違和感に答えるように、ナノは未だ攻撃の手を休めることなく、ノアに向けて氷柱を落とし続けている。
違和感、それはノアに向けたナノの攻撃。信也の目には、闇雲に攻撃しているだけで、どうしてか覇気が感じられない。相手を仕留めるという明確な殺意が、闇雲な攻撃だけなんて。何でこんなにも単調なんだろうと思うのは、この思考は変なのか?
再び、袖を引っ張られる。
今度のマナは無言だった。口を閉ざし、ただ何かを訴えるような眼差しが信也の瞳に突き刺さる。何かを言おうとしている。伝えようとしている。けれども、言えず、ただ分かって欲しいという表情だけを浮かべている。
マナは…何を伝えようとしているんだ…。
分からない。知ってほしいのなら、聞いてほしいのであれば、何で口を閉ざしたまま答えてくれないのか。
視界に割り込む閃光が、辺りを照らしだす。
突如として発せられた淡いオレンジ色の明かりは、爆発的な蒸気とともに積もった氷をなぎ倒し、唸りを上げた炎へと真っ赤に染まる。
続けて空間に無数の亀裂が生じる。ピキ、パキリと嫌な音が鼓膜の奥へ何度も反響し、それは現実に引き戻す氷壁の最後の音色。
問いかけは遮られ、意識は彼方へ。思考が迷走し、行き場を失った視線は辺りを泳ぎ、偶然にもナノという少女を捉えたことで向けられる。
――――て。
見間違いだと、思った。
偶然だから、視界に映り込んだナノの口元が動いたことに、勘違いしたのかと。
な…んで…ッ!
鼓動は高まり、感情が乱れる。
胸に、痛みが生じる。
――――逃げて。
声は、信也の耳に届くことはなかった。
分かったのは、微かに口元が動いただけ。だけど、見間違いなんかじゃない。ナノは、しっかり視線に合わせて言っていた。悲痛な、諦めた感情を露わにしながら。
その顔を、前にも一度見たことがあった。もうそんな思いはさせないと、したくないと誓った、あの日のように。
胸の痛みが、強まる。苦しくて、情けなくて、悔しくて。
「……マナ」
あの時と、同じだ。
ある時少女に出会い、その少女は身勝手極まりなくて、少女は静かに涙を流した。
「……うん」
小さく、頷く。
もう一度だけマナは、「……うん」っといって頷き、迷いない笑顔を浮かべる。
「いいよ」
マナは否定しなかった。それどころか嬉しそうに笑った。
何がそんなに嬉しいのかと驚いていると、続けてマナは言う。
「僕のワガママに付き合ってあげるのが、主の役目だからね」
その言葉に、信也は一瞬目を丸くした後、小さく噴き出した。
こんな状況化に置かれても、この性格。今回の頼み事は、どうやらマナにとってはただのワガママに付き合う程度の認識でいるらしい。全く、随分と信頼されてしまっているものだ。
「…っはは、それはそれは…良き主を持てて、ありがたき幸せでございます~」
十分だ。その気持ちさえ分かれば、心置きなく……。
目の前の敵を見据える。信也はもう一つの目標を心に決めていた。
「今度こそ、何が何でも奴の顔面に一発…ぶちかましてやる!」